「講義」への疑問
直言先生:これまで2回、「対話とは何か」という難しいテーマをめぐって、お二人にガマン強く付き合っていただきました。今回は趣向を変えて、私がいま実践している対話について紹介したいと思います。いかがでしょうか。
中道さん:ご提案に異存ありません。先生がいまなさっている「対話の会」が、どういう狙いの催しなのか、前から気になっていました。
猛志君:僕も同じです。関大を退職されてから2年余り、主宰されている哲学塾のメインは、「講義」だったと伺っています。それが3年目になって、「対話」中心に方針を変えられたのは、どうしてそうなったのか、気になります。
直:お二人とも、「対話の会」が気にかかっていたということですね。分かりました。どういう考えで従来の方針を変えたのか、話を聞いてもらいましょう。猛志君が気になるというのは、どういう点でしょうか。
猛:「講義」を止めて「対話」に切り替えたのは、どうしてかという点です。最近の先生は、哲学が対話でなければいけない、ということをよく言われています。
直:ええ、そのとおり。それが、どうして気になるのでしょうか。
猛:僕は学生ですから、大学で受ける授業の中心は講義です。講義で教えられる知識をもとにしながら、自分でどこまで考えられるかに挑みたいと思っています。それが、講義を止めて対話中心になるというのは、講義に大した意味がない、というお考えのように受けとれます。
直:そうですか、そんなふうに受けとめられましたか。中道さん、あなたも猛志君と同じように感じられましたか。
中:私が思い当たったのは、講義に意味がないということではなく、対話を中心にすることで、私のような哲学の素人、一般の社会人にも近づきやすくする、という配慮をされたのかしら、ということです。
直:なるほど。お二人のおっしゃることは、ごもっとも。たしかに、「対話」の根本にかかわっています。荒っぽくまとめるなら、「講義無用論」と「対話の近づきやすさ」とでも言えるでしょうか。この二つについて、議論することから始めましょう。まずは猛志君、君の考える「講義」の意味とは、どういうものでしょう。さっき言ったことの繰り返しでよいから、説明してください。
猛:自分で考えるために必要な知識、情報を得るということです。
直:まったく、そのとおりだと思います。長年教職にあった私が、学生に向ってやろうとしたのは、「自分で考える」ための材料を提供するということでした。
猛:それなら、無意味どころじゃありません。そういう講義なしに、学問は成り立たないことは明らかじゃありませんか。
直:お説のとおり、講義なしに学問は成り立たない。ですから、私はそれに対して「講義無用論」を説くつもりは、まったくありません。
猛:それじゃ、哲学塾の方針を講義から対話に切り替えられたのは、どうしてでしょう。従来どおりの講義をされたらよいのに、と思いますが。
直:ごもっとも。対話中心に切り替えた理由は、講義が不要だということではなく、君の言ったように、「自分で考える」という目的を、より前面に押し出すことにあります。
猛:ということは、講義主体だと自分の頭で考えなくなる、そういうことでしょうか。
直:私の経験から言うと、そういうことになります。残念ながら、それが現実です。
中:チョット横から言わせていただいても、よろしいでしょうか。私が大学で受けた講義のイメージを申し上げたいのです。
直:どうぞ、ご意見を自由におっしゃってください。
中:専門の講義は、プロの先生方が学生向けに用意したプログラムですが、全然学生の目線に立っていない、と思われることがよくありました。悪口を言うと、自己満足の世界ではないでしょうか。
直:これは手キビシイ。現役の学生として猛志君、何か反論はありませんか。
猛:たしかにそういうケースもあります。学問が自分の世界だけで完結しているような、一方通行の講義。でも、それだけで終わることを許さないシステムが、大学のカリキュラムには用意されています。「演習」(ゼミ)というものです。
直:重要なポイントに来ましたね。君にとって、「講義」と「演習」との違いは、どういうところでしょうか。
猛:自分の考えを発表する機会が、演習にはあるということです。
直:そういう機会は、講義にはないのですか。
猛:ないとまでは言えません。講義の後で、質問する時間がありますから。でも、その時間に自分の意見を主張するのは、難しいと感じます。
中:私は、マーケティングなどビジネスに関係するゼミに所属したのですが、そこで猛志君のおっしゃるような、自由な意見発表ができたという記憶はありません。教授の出された指示に従って、調べた内容をみんなの前で発表する、ただそれだけ。対話に許されるような自由を実感した覚えはありません。
直:たぶんそうでしょうね。大学の授業は、講義でも演習でも、「対話」の要素はほとんどない。猛志君のように意欲的な学生が、教師に食ってかかるリスクを冒さなければ、ほとんど対話の域には達しません。別に講義を排除するつもりはないけれども、自由に考え表現する場を確保するには、「対話」を看板にする必要がある。これが、30年以上の教師生活から引き出した、私の結論です。
対話の近づきやすさ
直:講義の意味について、まだまだ議論したい点はありますが、それは後回しとして、もう一つのポイントである「対話の近づきやすさ」に、話を移しましょう。中道さん、何かお考えがあれば、おっしゃってください。
中:いつも難しいなと感じながら、もう1年以上、この対話に参加させていただいているのは、さっきも申し上げたとおり、対話の場合だと、一方通行の講義とは違って、どんなテーマについても〈開かれた〉議論に参加できる、そういう魅力があるからです。
猛:同感です。先生は、さっき僕が「教師に食ってかかる」と言われました。自分の方では、そんな意識はないつもりですが、そういうことが許される雰囲気が、対話の場合にはあると感じています。
直:お二人に趣旨を理解していただいているおかげで、この「三人対話」が成立していることが、よく分かりました。こちらから言うのも何ですが、何を言っても許される自由がある、それが対話という場の特色だと言えるでしょう。講義にはない対話の特長は、発言の自由である。いちおうこの点を、対話の「近づきやすさ」として挙げておきます。講義と対話、どちらにも重要な意味があるということです。となると、問題はこの二つの関係、ということになります。
猛:昨年の講義――春期「哲学とは何か」、秋期「風土学とは何か」――を、公開された動画で観ました、というか聴講しました。トータル2時間の前半、講義部分だけが収録されていたのですが、後半は何をされたのですか。どうしてそちらは、公開されなかったのですか。
直:質問は、「講義の後で何をしたのか」と「それを公開しなかった理由は何か」の二つ。はじめの質問の答えは「対話」です。講義についての質疑応答から始めて、参加者が自由に発言できる、そんな〈対話の場〉にするつもりでした。しかし、思惑どおりにはいきませんでした。講義から対話へ、という流れをつくりたいと考えたが、無理であると判った。これが、方針変更の伏線になっています。もう一つの質問、後半部分のやりとりを外した理由は、質疑ないし対話の様子をきちんと撮影するのが、技術的に困難であるという点。講義なら、カメラを一点に固定して講師だけ映せば事足りるが、全員参加の場面は、それでは済みません。講義を撮影してくれた方が、対話部分の収録は無理だと言われた。そちらの都合に合わせた、ということです。
中:私など、この後どんな議論が展開するのかな、と毎回心残りでしたが、動画制作の技術的な問題が理由だ、というご事情がよく分かりました。ついでに、一点お訊ねしたいのですが、いまのお話では、講義と対話とが半々の内容だったとのこと。その方針に無理があったと言われるのは、どういうことでしょうか。
直:講義は、最初から用意されたプログラムに沿って行われます。たとえば、昨年春期の「哲学とは何か」というシリーズの場合、全8回の第1回は、「「考える」とは?」がテーマ。哲学が、何よりも第一に、「自分で考える」ことだというメッセージを発しました。それを承けて、第2回以降の予定が決まるわけですから、その内容を変えることはできません。そういうふうに、プログラム全体を決定したうえで行われるのが講義ですから、途中で変えたりする自由はありません。融通が利かないわけです。
猛:でも、動画を見るかぎり、先生は講義の途中で参加者に質問して答えさせたり、そこから話題を転じたりして、対話風の進め方をされていたように見えます。
直:そうですか、よく注意して観ていますね。おっしゃるとおり、できるだけ講義を対話に近づけたい、という思いがありました。
猛:そうだとすると、講義と対話をミックスする狙いが、うまく行ったんじゃありませんか。
直:ええ、たしかにある程度まではね。でも、そのやり方では限界があるということに、やがて気がつきました。
中:「限界」とおっしゃるのは?いま伺ったかぎりでは、何か問題があるようには思われませんが。
直:いや、あるのです、問題が。それは、「自分のテーマを考える」という哲学の基本が、二の次になってしまうということです。
中:いまおっしゃったこと、もう少し具体的に説明していただきたいのですが。
直:承知しました。私の言いたいことは、先々月以来、「新着情報」に「何が哲学なのか」として掲載している内容のとおりです。お読みになっていませんか。
中:読みました。読んで、とても解りやすい内容だと思いました。
直:そうですか。僭越ながら、自分としても読んで理解されやすい文が書けた、という自信があります。その中で、私が「哲学」をどう定義したか、記憶されていますか。
猛:僕に言わせてください。①自分のテーマを、②自分で考え、③自分の言葉で表現する、それが哲学だということでした。
直:それをきちんと覚えているということは、私の書いていることに納得した、ということでしょうか。
猛:ええ、これだと思いました。ですから、さっきも「講義」の意味を、「自分で考えるための材料を得ることだ」とお答えしたのです。
哲学と対話
直:それはありがとう。半世紀以上も哲学に携わってきた私が、ようやく引き出すことのできた結論を、君が認めてくれたのは、とてもうれしいことです。せっかくの機会ですから、それと対話との関係を、ここでもう一度確認することにしましょう。中道さん、「哲学」の三つの条件のうち、どれが最も大切だと思いますか。
中:どれも大切ですが、「自分のテーマを自分で考える」というようにまとめれば、①と②の両方が肝心、ということになります。
直:結構。①と②は、切り離すことができない仕方で一つになっていますから、お答えになったことはもっともです。ですが、しいて二つを分けるとすれば、①自分のテーマ、②自分で考える、のどちらがより重要になりますか。
中:きちんと答えることはできませんが、文中で先生が、②の難しさを強調されていたことは、印象に残っています。たしかにそうだな、と感じました。
直:「自分で考える」ことが大変だから、誰かエライ哲学者の説を拝借して、答えたつもりになる。私としては、そういう世間の対応を批判したつもりです。
中:そのところを読者に伝えるつもりで、文章を書かれたような印象がありました。
直:そのついでに、対話の意義をクローズアップしたはずですが、そのあたりは伝わっているのかな。
猛:自分一人で考え抜くような態度は、専門研究者に許されるものだが、世の中の人々にはそれができない。その代りに、他人と問題を共有する方法として、対話を挙げられたのが、印象的でした。
直:そのとおりですが、君は対話についての私の考えをどう思いますか。
猛:一定の線引きをされている、というふうに納得しました。専門の研究は一人でやる、一般の人たちは対話を心がける。こういう線引きをすることによって、どちらの人々も哲学に参加する途がある、そう受けとりました。
直:こちらの意を汲んだ、的確な解釈だと思います。一点だけ突っ込ませてもらうなら、君のような学生、さらに専門研究者にとって、対話は哲学の方法になりますか。それとも、対話は不要ですか。
猛:必要ではないかと思いますが、どうしてかという理由は、うまく説明できません。
直:そうだと思います、大きな問題ですから。対話が哲学の方法になるということは、プラトンのように対話形式の哲学を実現した例があることからしても、否定できない事実です。しかしそれを、「哲学とは対話である」という命題に直ちに結びつけられるかどうか。私自身も、そういう主張が立てられるかどうか、まだ迷っています。
中:先生や猛志君は哲学がご専門、私は一介のサラリーマンです。そういう私でも、対話をつうじて哲学に参加できるということは、たいへん貴重でありがたいと感じています。このさい質問したいことがあるのですが、よろしいでしょうか。
直:どうぞ、何なりと。
中:哲学の条件として挙げられた、②「自分で考える」ために、対話が有効だと書かれていることの意味です。自分一人で考え抜くことは難しい、とされたうえで、「哲学がふつうの人に開かれるためには、「対話」という〈共同討議〉こそが、ふさわしい」と書かれています。素人考えですが、俗にいう「三人寄れば文殊の知恵」ということかしら、と考えたのですが、そういう理解で合っているでしょうか。
直:合っていると思います。ただ、うるさいことを言わせてもらうなら、「文殊の知恵」をどうとるかが問題です。単純に「正解」を見つけるというだけなら、何も三人寄ってたかって議論する必要はない。正解が見つからない、あるいは正解がないかもしれない。そういうテーマについて、意見を出し合うプロセスが、「三人寄れば」に意味されているように感じます。
中:ということは、たとえ正解が見つからないような場合でも、一つのテーマについて意見を出し合うことに意味がある、それが対話だということでしょうか。
直:私はそういう考えに立っていますが、猛志君はどうですか。何か異論がありそうに見えますが。
猛:「異論」と言われると、チョット退いてしまいますが、はじめから「正解がない」というのではなく、「正解がある」という前提で討議を重ねる。そういうのが、哲学的な対話だと思います。
直:正解が「ない」、もしくは「見つからない」という前提を立てると、討議が無意味になりかねないということですね。その問題はともかく、対話をつうじて参加者それぞれが、何らかの「気づき」を得る、このことを「文殊の知恵」として挙げたいと思います。私が「気づき」を目標とする対話を考えついたのは、臨床心理の分野で実践されるPCA(パーソン・センタード・アプローチ)にもとづく事例検討法PCAGIP(Pの後にIを補って、「ピカジップ」と読む)の存在を、かつての同僚から教えられたことによってです。その内容を、ごく簡単にまとめます。
講義:PCAGIPによる対話
「PCAGIP」(Person Centered Approach Group Incident Process)とは、「パーソン・センタード・アプローチ」(PCA)を用いた、対人援助職のための事例検討法である。「対人援助職」として、カウンセラー、医師・看護師などの医療スタッフ、教師などが想定されている。PCAGIPは、他人との接触から生じるトラブルや悩みを仲間に打ち明け、質疑応答の対話をつうじて、現状を変えてゆくための手がかり――「気づき」――を本人がつかむ、というグループ・アプローチ。アメリカの心理学者ロジャーズ(1902-1987)のカウンセリング理論であるPCAを応用した、チーム・カンファレンスの技法である(くわしい内容については、村山正治・中田行重『新しい事例検討法 PCAGIP入門――パーソン・センタード・アプローチの視点から』創元社、2012年、を参照)。この技法を導入することによって、教師が生徒を相手にする講義とは違った形で、〈対話の場〉を開くことができる、という認識に立って、「対話の会」(木岡哲学塾Ⅰ)が始められた。
対話の場は、①事例提供者、②(①以外の)参加者、③ファシリテーター、によって構成される(人数は、計10名程度)。事例提供者の語る事例について、参加者が一人ずつ順に質問し、それに事例提供者が答える仕方で、一問一答式のやりとりを重ねる。ファシリテーターは、やりとりが円滑に進むよう、論点の整理など進行上必要な介入を行う。質疑応答が一、二巡して、議論が一定の深まりに達した時点で、事例提供者本人、他の参加者にどんな気づきがあったかを確認するのも、ファシリテーターの役割。セッションを、そこまでの「第1ラウンド」で終えるか、次の「第2ラウンド」に引き継ぐかは、そのときの状況次第(一つのセッションは、2時間以内が目安とされる)。
この技法を「対話の会」に導入した理由は、それが主宰者の考える哲学のイメージに合致することにある。哲学とは、「①自分のテーマを、②自分で考え、③自分の言葉で表現する」営み。事例提供されるのは、①「自分のテーマ」、つまり自分が何らかの形で当事者としてかかわる問題である。対人援助職ならずとも、人は誰しも他人との関係において、当事者となる。対人的な悩みをもたない者はいない。そういう悩みを、③「自分の言葉で表現する」のが、事例提供の原則。その問題を②「自分で考える」ことによって解決しきれるなら、他者との対話は不必要かもしれない。自己内解決が困難であるからこそ、当の問題を他の人々と共有して考える〈対話の場〉が必要になってくる。
一人では出口の見つからない問題を、他人と共有する。しかし、それでは「自分で考える」ことにならないのではないか、そういう批判も考えられる。それに対して、こう答えよう。〈対話の場〉を構成するのは、〈私〉と〈私〉を取り巻く多数の〈彼〉。〈彼〉の一人が〈私〉に質問し、それに対して〈私〉が答える。そこに、〈私-汝〉の対話が成立する。二人は、同じ問題を共有するという点で、もはや他人同士ではない。かといって一心同体でもない。その関係こそ、レンマ的な不一不異の〈あいだ〉にほかならない。自分の関心を他人も共有し、自分が考えると同時に相手も考える。この営みを参加者全員が理解し、実践することによって、〈対話の場〉が開かれる。これこそが、主宰者の考える哲学にふさわしいあり方ではないか。PCAGIPは、このことに気づかせてくれた。
哲学対話とPCAGIP
直:PCAGIPを「対話の会」に取り入れた理由を、簡単に説明しました。このぐらいで、大筋を理解していただけたでしょうか。
中:「哲学対話」の取り組みが、全国に広がっていると聞いています。PCAGIPも哲学対話の一種、そう考えてもよいでしょうか。
直:ええ、そう受けとっていただいて結構です。私がだいぶ以前に知ったのは、知人である梶谷真司先生(東大教授)の活動によって有名になった「哲学対話」です(同著『考えるとはどういうことか 0歳から100歳までの哲学入門』幻冬舎、2019年、を参照)。それを活かそうと試みるうちに、趣旨のよく似たPCAGIPと出会った。それで、両方の良さを活かしたいと考えて、手順が明確なPCAGIPをやってみようと思い立った次第です。
猛:僕の周囲にも、「哲学対話」に参加した友人がいます。同じような取り組みに「哲学カフェ」があるということも、知っています。対話中心の集まりとしては、どれもよく似ているように見えます。先生がおやりになっている「対話の会」は、他の催しとどこが違うのですか。
直:重要な質問です。「哲学対話」――「哲学カフェ」も含めて――とPCAGIP は、参加者全員が同じ目線に立ってテーマを共有し、対等の立場で議論する。その基本線は、まったく同じです。つまり、対話することそのものが哲学だ、という考えです。〈対話の場〉を開くための約束として、他人の発言に対して否定的な態度をとらない、結論が出なくてもかまわない、といったルールがあることも、両方に共通しています。違いがあるのは、PCAGIPの場合には、事例提供者と参加者、ファシリテーターの役回りがハッキリしていること、一問一答式のやりとりという手順が、前もって形式化されていること。哲学対話の場合だと、どういうテーマを取り上げるかは、その場に参加した人の挙げるテーマの中から、多数決などによって決められます。
中:取り上げるテーマが事前に決まっていない、ということですか。その方が自由でよい、という考え方もできると思うのですが。
猛:僕は、どちらかと言えば反対です。テーマが前もって決まっていた方が、参加する人に心構えができて、議論が深まるように思います。
直:どちらの考え方も可能です。PCAGIPについては、事例提供者をあらかじめ決めておくのが原則ですが、そういう準備をしなければ、哲学対話と同じやり方になるでしょう。「対話の会」では、スケジュールとして各回の予定を立てておく必要があるので、事前に参加者に打診して、事例提供者のラインナップを決めています。
中:2時間という枠の中で、どんなふうに対話が進められるのか。具体的な中身を教えていただけないでしょうか。
直:事例提供者は、事例の内容を簡単なメモにまとめて、参加者に配ります。メモは数行程度でよいのですが、話す内容によっては、A4・1枚分程度の「レジュメ」になります。話す時間は、20~30分。これも個人差があって、5分で終わる人もいれば、30分でもしゃべり切れない、という人もいる。その場合でも30分で打ち切って、一問一答の質疑に移ります。参加者全員が一巡した時点で、ファシリテーターがポイントを確認し、整理する。PCAGIPでは、参加者はノートなどとらず、話の内容に集中します。その代りに、質疑応答の要点を、記録係が板書する決まりになっています。「対話の会」では、人数の都合もあるので、ファシリテーター――たいていの場合、主催者である私――が記録係を兼ねています。事例提供が30分、残る90分が事例検討の時間。だいたい2巡くらいして、一段落したところで、ラウンドが終了。その時点で、ファシリテーターがまとめを行い、事例提供者、参加者それぞれの「気づき」を明らかにして終わる、というのが通常の流れになっています。以上について、何か疑問はありませんか。
猛:最後に、ファシリテーターがまとめをするということですが、それは何らかの「結論を引き出す」ということでしょうか。
直:そうではありません。いろいろ意見が出てまとまらない、全員一致の結論が出るわけではない、というのが通常の対話です。それでよい、各人各様の「気づき」があれば、それが「結論」に相当する、というのがPCAGIPの考え方です。
猛:結論は必要ない、ということですか。それが哲学的な対話と言えるのでしょうか。
直:哲学という学問は、唯一の正解を求めて徹底的に討議する、というふつうの考えからすれば、事例検討法は哲学ではない。そう考えるのが、君も含めて、哲学に携わる人たち大半の考えでしょう。ちなみに、「哲学対話」の提唱者がめざすのも、PCAGIPと同じく、結論を出そうとしない対話の実践です。
中:いまのお話を伺って、PCAGIPが対人援助職のための「事例検討法」である、と最初に言われた点を思い出しました。まだ具体的な事例が紹介されていないので、憶測として申し上げますが、提供される事例というのは、哲学的な問題というより、対人関係の悩みのような「打ち明け話」ではないでしょうか。そうだとすると、これが結論だ、というようなものを出す必要があるのかどうか……
猛:僕は、悩みの相談のような私的な問題でも、こうすべきだ、という結論が必要だと思います。正しい答えが出なければ、どうしたらよいかの方針が立たない。そういう問題に、きちんとした答えを出すことが、哲学に求められているはずです。
直:対話とは何か、何のために対話するのか、といった本質的な問題がお二人から提出されました。中道さんが言われたように、実際の対話がどうなっているのかに言及しなければ、中身のある議論になりません。そのあたり、「対話の理念と実際」といったテーマで、引き続き考えていくことにしましょう。今回は、これで終わりにします。
この記事へのコメントはありません。