毎月21日更新 エッセイ

対話の世界へ(2)――対話の条件

直言先生:前回、私たちがこれまで重ねてきた「対話」が、どういう意味をもつのかについて、議論しました。お二人とも、熱心に参加してくださったことに、感謝しています。そこから今回、何をテーマにするかを話し合うことから始めたいと思います。まず中道さんから、いかがでしょうか。

中道さん:「二人対話」と「三人対話」とを区別するお考えを知って、フーン、そういう考え方があるのか、と感心しました。「三人対話」というものが、二人のあいだに第三者が入ることで成り立つ、というご説明は理解できたつもりですが、それと「二人対話」との違いが何なのかについては、まだよく呑み込めません。

直:私の用いた「二人対話」と「三人対話」の区別をハッキリさせたい、というご要望ですね、なるほど。猛志君は、いかがですか。

猛志君:僕の方は、あのときも言ったように、対話は二人で行われるという考えで、その意見はいまも変わりません。ですが、先生が〈二〉と〈三〉の違いにこだわっておられるには、それなりの事情があるのでしょうから、その点をもっと伺いたいと思います。

直:お二人とも、一回の対話では片づけることができないような疑問が残っている、ということはよく判りました。それでは、前回の続きを議論することにしましょう。それでよろしいでしょうか。

中:異存ありません。ただ、私のように物わかりの悪い者のために、「〈二〉と〈三〉のあいだ」と題された前回の対話の要点を、最初に講義していただけると、ありがたく存じます。

直:承知しました。ご要望に沿って、前回の対話で議論した内容のおさらいから始めます。

 

講義1:〈二〉と〈三〉のあいだ(要約)

「対話」(dialogue)とは、その語源であるギリシア語「ディアロゴス」(dialogos、二つのロゴス)が意味するとおり、二者による言葉のやりとりである。このことを前提としながら、対話の内実に「二人対話」と「三人対話」を区別する考えを提示して、その妥当性をめぐる議論を展開した。

「対話」は、相対する二者が相手と言葉を交換する行為を表す。その点で、三人以上の大人数の集まりであっても、「二人対話」が基本であることに変わりはない。われわれ三人の対話についても、直接のやりとりは二人のあいだで行われるから、「二人対話」が妥当する。しかし、甲と乙の二者に、第三者丙が介入する、という形式をクローズアップした場合に、それが「三人対話」である、という言い方が成立すると考えられる――「二人対話」か「三人対話」か、をめぐって猛志君は前者、中道さんは後者寄りの見方に立った。

「三人対話」という考えの要点は、甲と乙との対話に第三者丙が介入する場合のほか、その場に立ち会わない「隠れた第三者」によって、対話の〈場〉が成立する、ということにある。対話の〈場〉とは、〈私汝〉を媒介する「彼の世界」(西田幾多郎)である。西田は、1920年代後半に導入された外来語「環境」(environment)の意味を、「彼の世界」とする考えをうちだした。しかし、「環境」がどうして「彼の世界」なのか。

さしあたり特定の誰かが突出することなく、大勢の中に埋没しているのが、「彼の世界」。いわば、全員が匿名的な〈彼〉である。その中で、〈私〉と〈汝〉とが、一対一で向かい合うことによって、「二人対話」が始まる。その他大勢は、さしあたり〈私〉と〈汝〉を取り巻く第三者〈彼〉に過ぎない。しかし、第三者である〈彼〉は、〈私汝〉の対話に介入することによって、対話の当事者に転じることができる。〈彼〉は、いつでも〈私〉や〈汝〉の位置に取って代わることができる存在として、環境を構成する。そういう〈私彼〉の関係を考えるなら、当事者同士の「二人対話」の実際は、「三人対話」であるという言い方が、可能になると考えられる。そのような「三人対話」において、必ずしも特定の人物が、〈彼〉として浮上するわけではない。誰もが参加できる対話の〈場〉が開かれていること、それが「三人対話」の実態である。そのとき、非人称的な「環境」が、〈私〉と〈汝〉を媒介する〈彼〉に相当すると把えるなら、それは対話の共通基盤としての言語ではないか、と考えられる。とするなら、「隠れた第三者」の本当の意味は、共通の言語である。そうと言っても、過言ではないだろう。

最後に、コミュニケーションと対話との関係に言及した。「コミュニケーション」とは、コミュニティ(共同体)における言語行為、共通言語の使用が合意されている社会での対話・会話である。今日の世界を見回したとき、コミュニケーション不在の現実が、強く印象づけられる。国際紛争の当事者同士が、対話の場に臨んでも、対話に不可欠な共通言語を持ち合わせないことに、その原因があるのではないか、と感じられる。敵対する勢力は、いずれもそれぞれのコミュニティ内部で通用する言語を所持するが、その外に出て、他者と対話するための共通言語を有しない。つまり、仲間内の「三人対話」は成立しても、他者との「二人対話」は容易に実現しない。それゆえ、〈二〉と〈三〉のあいだをいかに開くか、が対話の根本問題である。

 

「二人」か「三人」か

直:前回のまとめというのは初めてですが、単純におさらいするだけでは済まないような修正が必要になりました。

中:理解しにくい点は、まだいろいろありますが、三人で議論したことの内容が、だいたい思い出されました。修正されたというのは、どんなところでしょうか。

直:対話とコミュニケーションとの相違点が、「二人対話」と「三人対話」の違いであること、それをもとに、〈二〉と〈三〉のあいだを開く、という課題を具体化したことです。前回は、ここまではっきりした言い方はできませんでした。

猛:僕にとっても、自分が言ったことと先生のおっしゃったことの違いがハッキリして、参考になりました。

直:君と私との言い分の違い、君から言うと、どういうことになりますか。

猛:あのときのやりとりでは、対話というものは二人で行われるものだ、という点を僕が強調したのに対して、先生は、対話そのものが「三人対話」であるということを言われた。そこだけを見ると、意見の違いが際立っていたように思います。

直:そうでしたね。で、いまの感じからするとどうですか。

猛:さっきの要約では、先生は対話の基本が「二人対話」である、とおっしゃった。そのうえで、「三人対話」がそのヴァリエーションである、と言われたように見えたのですが、そういう理解で当たっているでしょうか。

直:さぁて、微妙なところですが、君にはそう見えましたか。中道さんはいかがですか。

中:私は前回、先生のおっしゃる「三人対話」こそが、本当の対話であると思いました。先ほどの講義でも、そういうお考えは変わっていない、という印象はそのままです。ですけれども、前にはハッキリした形でおっしゃらなかった点が、今回の「まとめ」で示されたようで、それが気になりました。

直:それはどういう点ですか。

中:最後に言われた、「〈二〉と〈三〉のあいだを開く」ということです。これは、どういうことでしょうか。

直:〈あいだを開く〉というのは、二つの違ったもののどちらも否定すると同時に、どちらも肯定する、ということです。お二人との対話でも、自分の書いたものの中でも、この点を繰り返し説明してきたつもりです。

中:「二人対話」も「三人対話」も、どちらも認めるということなら、これまでのお話からいちおう理解できます。でも、そのどちらでもない、という前提の意味が、よく分かりません。それは、どういうことでしょうか。

直:簡単に言うなら、ポイントは二つ。一つは、「二人対話」は、「三人対話」に移行しなければならない、ということ。もう一つは、「三人対話」は「二人対話」に立ち戻る必要がある、ということです。

中:聞いていて、ますます訳が分からなくなりました。お手上げです。

直:そうですか、そうかもしれませんね。じゃ、猛志君、君の方はどうですか。

猛:僕にもよく分かりませんが、ここでくわしいご説明を伺いたい気がします。

直:ありがとう。うまく説明できるかどうか、自信はありませんが、モノローグ的にしゃべるよりも、この二つの点について、君と一問一答の対話をしてみたいと思います。付き合ってくれますか。

猛:ええ、喜んで。

 

「国際化」をめぐって

直:まず第一点から、取り上げましょう。君の考えでは、対話はすべて「二人対話」である、と。その考えは、変わりませんか。

猛:「三人対話」についてのお考えは、僕なりに理解したつもりですが、対話は二人で行われる、という考えに変更はありません。

直:OK、私の方も、君と同じ前提に立つところから始めましょう。君の考える対話は、二人で行われる。二人いる状況の中で、いつも対話が成立すると言えますか。

猛:そのときの状況によります。対話が成り立つ場合もあれば、成り立たない場合もあります。

直:結構です。対話が成り立たないのは、どういう場合ですか。

猛:前回にも、そういう質問がありました。初対面の相手に対してどうするか、という質問でした。

直:思い出してもらったのは、好都合です。で、君の答えは?

猛:「こんにちは」とか「ハロー」とか、相手に通じそうな言葉で挨拶する、と言いました。

直:そうでしたね。で、その場合の問題として、もしそういう共通の言語が見つからなければどうするか、という点を訊きました。

猛:それも覚えています。共通の言語があるのが当たり前、それがない世界は考えられない、と答えたと思います。

直:まさにそのとおりでした。いまから、その続きを試みたいと思います。君は、日本人ではないことが確かだと思われる相手と対面した場合、どんな挨拶をしますか。

猛:英語で、「ハロー」「グッモーニング」といった言葉を発すると思います。

直:そうでしょう。で、それを受けて、向こうからいろいろ話しかけられてきたら、どうしますか。

猛:ちゃんとした英会話はできませんが、道を訊かれたときなど、単語をつないで何とか答えるぐらいのことなら、そういう体験はあります。

直:英語という共通言語があるから、会話が成り立つ、ということですね。そのとき君は、日本語で答えようとしませんでしたか。

猛:しませんでした。

直:どうしてですか。外国人旅行者が日本に来た場合、日本語を使うのが当然、という考え方もできるとは思いませんか。

猛:そんなふうに考えたことはありません。外国人に対して、日本人が英語で対応するのは、当然のことだと思ってきました。

直:少し話題が変わりますが、「国際化」という問題に関係する点なので、この点に関して、海外駐在歴がおありの中道さんから、ご意見を伺いたいと思います。

中:「国際化」について、エラそうなことは言えませんが、自分の体験からこれだけは言いたい、ということを一つ申し上げます。それは、その国に入っていく外国人は、自分のそれまでの常識を白紙に戻して、一からその国のことを知ろうとしなければならない、ということです。前回の対話で、先生もおっしゃいましたが、「日本の常識は外国の非常識」ということ。これを何度も思い知らされました。

直:言語については、どうですか。

中:もちろん、外国で日本語は通用しません。私が最初に派遣されたスペインでは、商談に必要な最小限の会話能力が身に着くよう、三か月間、スペイン語の特訓をしました。

直:それで、現地の人たちと対話することができましたか。

中:いいえ、全然。ビジネスのスペイン語はどうにか話せても、それを越えて「対話」と呼べるような人間的な意思疎通は、できませんでした。それは、前回、猛志君が教えてくれたように、「自由」というものがなかったからです。

直:単なる会話と対話を隔てるカベは、自由の有無。ここに話が戻ってきました。さて、猛志君、自由な対話が生まれるための条件を、君は何だと考えますか。

猛:僕がさっきから考えていたのは、「共通言語」の存在です。

直:それは、さきほど道案内の例で挙げられた英語と同じですか。

猛:違います。カタコトの英語を使おうとする自分は、自由ではなかった。そう思います。

直:ということなら、もちろん日本語でも同じことですね。

猛:ええ、もちろん。

直:それなら、「二人対話」のための共通言語は、何になりますか。もしそれが、英語でも日本語でもない、とすれば。

猛:ウーン、それが見当たりません。ないのかもしれない。

直:共通言語がないとすれば、エライことです。この点について、中道さん、何かご意見は?

中:共通言語がないのは、仕方がないとしても、「通訳」の存在はどうでしょう。使用言語が異なる国家元首間の対話では、かならず通訳がつきます。

直:なるほど、おっしゃるとおり。両方の言語につうじた通訳が、〈あいだ〉に立つことによって、対話が成り立つということですね。ということは、もし通訳がいなかったら、対話は成立しますか、猛志君。

猛:いや、成立しません。通訳の不在は共通言語の不在、そういうことに、いま思い当たりました。

直:「二人対話」から「三人対話」への移行、という第一点が、これで明らかになりました。ここから次に、「三人対話」から「二人対話」に立ち返る、という第二点を考えましょう。

 

「二人対話」は可能か

直:「二人対話」が成立するための条件は、使用言語の異なる二人の主体が向かい合ったとき、通訳が〈あいだ〉に立つことです。対面する二人以外に通訳が居なくては、対話は成立しないのです。

猛:いまおっしゃったようなことは、考えたことがありません。「二人対話」で僕の頭にあったのは、友達や恋人同士が二人だけで話をする場面です。

直:そうでしょう。その場には、じっさい二人しかいないのですから。しかし、通訳がその場にいなくても、二人は日本語という「共通言語」の世界に生きています。その場合、日本語という共通の言語が、通訳の代りになっているわけです。

中:お二人のやりとりに口をはさんで恐縮ですが、いまの世の中、通訳不在の場合など、まずありません。ふつうは通訳が介在することによって、対話が成り立っている、そちらの方に焦点を合わせてはいかがか、と申し上げたいのですが。

直:なるほど、異なる言語はたがいに翻訳可能なのだから、翻訳の手続きを人間なり機械なりが代行することによって、立派に対話が成り立つ、と。そういう考え方もできますね。

中:はい、対話を可能にするのは、通訳の存在だと思います。

直:私はあなたとは違って、通訳にそれほどの重要性を認めません。というと、いかにも通訳を軽視した言い方に聞こえるでしょうが、理由は、その存在が、〈あいだ〉に立つものとは考えられないからです。

中:意外なお言葉です。どうしてでしょうか。

直:テレビなどで見ると、両国の首脳、たとえば米中トップの会談であれば、米国人、中国人の通訳が、同国人の首脳の横に立って、相手方の言い分を伝えます。この構図から見てとれる通訳の役割は、相手方の意思を正確に伝えること、ただそれだけです。

中:とおっしゃるのは?それが、〈あいだに立つ〉ということではないのですか。

直:違います。〈あいだに立つ〉というのは、そんな単純なことではありません。

猛:僕からお訊ねします。先生は、形式上はすべての対話が「二人対話」である、と認めておられます。けれども、二人以外の第三者が加わることによって、「二人対話」の実質は「三人対話」である、そうおっしゃったように思います。

直:そのとおりです、間違いありません。

猛:しかし、中道さんが挙げられた「通訳」を、先生は「第三者」として認められない、そう受けとりましたが、どうでしょうか。

直:正確な理解です。私は、通訳が〈あいだに立つ〉存在ではない、として第三者から除外しました。

猛:その点が、もう一つよく解りません。僕たち二人にも、その理由が解るように説明していただけないでしょうか。

直:私が想定している「第三者」は、直前のシリーズで「妥協」「中立」「仲介」といった役割を果たす中間者・調停者を意味します。相手の言葉を翻訳して伝えるだけの通訳に、そういう中間者的な働きが期待されていないことは、ハッキリしています。

中:ということは、通訳以外に仲介者が〈あいだ〉に立たないかぎり、先生のイメージされているような「二人対話」は、実現しないということですね。

直:そのとおり。もし仲介者がその役割を十分に果たしたなら、それはもはや「二人対話」ではなく、「三人対話」というものになる。それに至らないかぎり、「二人対話」は不可能である、というのが私の主張したい点です。

猛:僕の考えとは正反対に、先生は「二人対話」が不可能だとおっしゃるわけですね。それなのに、「二人対話」という言葉をどうして使用する必要があるのでしょうか。

直:今回の急所は、そこです。現実に成立している「対話」は、例外なく「三人対話」です。つまり、たがいに理解しあえる土俵としての共通言語のある世界での対話です。しかし、今日の世界で求められるのは、共通言語――広い意味にとれば、価値観・世界観といったものを含めて――をもたない者同士の対話です。そういう意味での「二人対話」が、実現しなければ、この世界に平和が到来することはありえません。「三人対話」から「二人対話」へ、これが、『風土の論理』(ミネルヴァ書房、2011年)以来、棚上げにしてきた課題であることに、最近になって思い至りました。

中:そのご本、以前は先生のライフワークのようにおっしゃっていた記憶があります。それと現在の〈対話〉の問題が、どうつながるのかを教えていただけないでしょうか。

直:承知しました。ごく手短に、要点を説明します。

 

講義2:「間風土的世界」と対話

風土学の前提する「風土」は、①物語空間、②社会空間、③普遍空間、の三種の空間から構成される。「物語空間」とは、「主体間の語り合いによって形成される〈場所のネットワーク〉。〈場〉の別名」(同書350頁)。われわれの属する身近でアットホームな集まり、家族や友人仲間、趣味のサークル、といったものが、これに該当する。〈親密なコミュニティ〉と、ほぼ同じ意味に解されてもよい(社会学の用語「ゲマインシャフト」に相当するが、ここではそれを用いない)。そういう「物語空間」が、多数集まることによって、「社会空間」が構成される。それは、「物語空間を統括する権力によって成立する〈場〉の複合体」(351頁)である。国家は、そうした意味での社会空間の最上層、最大の共同社会と考えられる。いまのところ、国家を超えるような社会空間は実現していない。

とはいえ、「普遍空間」という言葉からは、国家を超える「人類社会」といったものが、連想されるかもしれない。私の定義する「普遍空間」とは、「社会空間が、たがいに差異として並び立つ「差異の空間」。〈間風土的世界〉の別名」(同頁)である。もう少し解りやすく言い換えるなら、それは、「さまざまな国家が、たがいに異なるあり方を貫きながら、共存しあう世界」ということになる。その場合、社会空間(国家)としての風土と風土との〈あいだ〉が開かれている、という意味において、それを「間風土的世界」と呼ぶことがふさわしい。

現在の世界を、もし「性格を異にする大小さまざまの国家が共存する世界」として把えることができるなら、それを「間風土的世界」と称することは、不可能ではない。しかし、国際情勢を冷静客観的に見た場合、その呼び方を当てはめることが憚られる。なぜなら、ウクライナを自国の一部であるかのように見て、併合しようとするロシアの動きが、それを物語るように、他者との差異を承認することなく、自己に同一化しようとする力が、全世界を覆っているからである。そのように、「均質化」の力が「差異化」を圧倒する現状を見るにつけ、「差異の空間」としての「普遍空間」は、いまだ〈現実〉ではなく、〈理念〉にとどまる、と言わなければならない。

現状を変えるきっかけは、対話にしかない。それは、利害関心を異にする――共通言語をもたない――二者の〈あいだ〉を開くことのできる対話である。それに反して、利害の一致する仲間同士、上の例で言えば、アメリカなどのNATO勢力、ロシアが代表する反NATO勢力のもとでは、それぞれ「三人対話」が成立している。その反対に、米ロ、米中、といった敵対的な関係において、「二人対話」が実現しているとは言いがたい現状がある。「二人対話」の地平は開かれるのか、それとも〈現実〉から隔たった〈理念〉にとどまるのか。間風土的世界の行方は、「二人対話」の成否にかかっている。

 

対話の条件

直:〈対話〉をテーマに掲げる、こちらの舞台裏をお見せしましたが、問題の所在は理解されたでしょうか。

中:いやー、内容が難しすぎて、私にはついていけません。理解できたか、と訊かれても、ほとんど解りません、と答えるしかありません。

猛:僕も中道さんと同じですが、一言だけいうと、〈対話〉についての逆説が語られているのかな、という印象を受けました。

直:「逆説」というのは、どういうことですか。

猛:ふつうに言われる「対話」ではなく、対話にならない対話、対話が不可能な状況での対話、を問題にされているような感じです。

直:「不可能な対話」を問題にしている、ということですね。それなら、おっしゃるとおりです。

猛:「不可能」とおっしゃるのは、「二人対話」のことですよね。でも先生は、前からあらゆる対話が「三人対話」である、とおっしゃっています。それなら、第三者が介在しない「二人対話」は、対話ではない、ということになりませんか。一方で、対話はすべて「三人対話」だと言いながら、他方で、「二人対話」の可能性を探ろうとされているように見えます。何が何だか、よく分かりません。

直:仰せはごもっとも。お二人からコメントをいただいたことで、頭の中が少し整理されました。猛志君の質問にお答えするとすれば、〈対話以前〉とも言うべき「二人対話」から、どうすれば「三人対話」に移行できるのか、ということが、私にとって問題の核心だということです。

猛:対話不在の状況から、対話に移行するための条件は何か。こういうふうに要約しても、差し支えないでしょうか。

直:いや、見事な要約です。私の方では、そんなふうに単純明快に言い切ることができませんでした。君の整理のおかげで、問題のポイントがハッキリしてきました。

猛:先ほどの講義でも、ロシアのウクライナ侵攻が例に出されました。先生は、こういう国際情勢を念頭において、対話の条件をうちだそうとされている。そう考えても、よいでしょうか。

直:こちらの関心の所在を代弁してくれましたね。そのとおりです。

中:ウクライナ情勢をめぐっては、一時、トルコなどが和平交渉の仲介役を買って出る動きがありました。いま、そういう目立った動きは見られません。どうしてでしょうか。

直:私にはよく分かりません。戦争が長期化して膠着状態になった今、当事者同士は、少しでも戦況を有利に導くことで手一杯、和平交渉に頭が回らない、ということでしょう。双方の〈あいだ〉に立とうとしたトルコにしても、フィンランド、スウェーデンのNATO加盟の動きに反対するなど、入り組んだ利害関係に手足を縛られています。

中:現実を見るかぎり、猛志君の言われた「対話の条件」が何なのか、私にはまったく分かりません。先生は、どうお考えでしょうか。

直:その点については、私も同じです。具体的にこれ、という条件は挙げられません。私に言えることは、何度も繰り返してきた言い回し、「隠れた第三者」が〈あいだに立つ〉ということ、ただそれだけです。

猛:「隠れた」というところが、僕には気になります。「隠れた」というのは、国家や個人のような、現実の仲介者ではない何か、ということを指しているのでしょうか。

直:そう受けとっていただいて、結構です。

猛:哲学を専攻する自分としては、哲学的な理念とか〈神〉を連想するのですが、そういう抽象的な何かが、対話の条件として考えられるのでしょうか。

直:そうであるとも、ないとも言えません。お二人に納得してもらえるような言葉で、それを説明しきれる用意が、いまの時点ではありません。今回の対話では、私の風土学にとって最大の問題の所在を示すことだけで、手一杯でした。説明不足の点を補いながら、次回以後の対話につなぎたいと考えます。

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