毎月21日更新 エッセイ

対話の世界へ(4)――事例検討

対話の世界へ(4)――事例検討

直言先生:このシリーズも4回目。前回は、私が主宰する「対話の会」で、どのような対話が行われているかを紹介しました。その柱は、臨床心理の分野でPCAGIP(ピカジップ)と呼ばれる事例検討法ですが、お二人はこのやり方をどう思われたでしょうか。

中道さん:「自分のテーマ」が事例だということですから、事例提供者は何を話してもよい自由があるように思われます。でも、本当に何をしゃべってもいいのだろうか。哲学的なテーマを取り上げないと、いけないのじゃないだろうか。そのあたりが、チョット気になりました。

直:テーマはまったく自由です、それが「自分のテーマ」であるかぎり。私自身も含めて8人が事例を提供しましたが、全員がそれぞれ違ったテーマについて発表しました。哲学っぽいテーマもその中にありましたが、個人的な悩みごとの打ち明け話に近い事例もありました。猛志君は、どういう印象をもたれましたか。

猛志君:PCAGIPがユニークなのは、事例提供者に対して批判的な発言をしない、というルールがある点です。僕が経験してきた哲学のゼミ発表では、発表した内容が、先生や学生たちから批判されるのがふつうです。それと比べて、「対話の会」では他人の発言を批判したり、否定したりしない。そのやり方は、とてもおもしろいと感じました。

直:そうですか。いま「おもしろい」と言われたのは、そういうやり方を肯定的に受けとめたということでしょうか。それとも……

猛:ウーン、微妙なニュアンスがあります。批判されないというのは、何を言っても許されるということだから、発言者の自由が保障される。それは、とても大切なことだと思います。でも、批判を受けなければ、自分の考えに囚われてしまって、間違いに気づかないこがあるのではないでしょうか。

中:なるほど。私などは、猛志君の言われた最初の点にだけ注意が行って、後の点には気がつきませんでした。哲学を専門にする、猛志君らしいご意見だと思います。

直:まさにおっしゃるとおり。聴く側が話される内容を批判しないことには、話し手の自由を尊重するというプラスの面と、問題点を指摘しないことによるマイナスの面、両方が考えられます。この点以外に、対話の方針に関して、何か気になることはありませんか。

猛:前回もおっしゃったように、対話をつうじて結論が出なくてもよい、各人それぞれの「気づき」があればそれでよい、とされたことが引っかかっています。それで、哲学と言えるのだろうか、と。

直:君も含めて哲学の関係者は、その点を問題にするだろうと申しました。前回から続く問題として、この点を考えてみなければなりませんね。どうしましょうか。

中:前回の最後に先生は、つづいて「対話の理念と実際」を取り上げたい、とおっしゃったように記憶します。ですから、実際の事例検討を例に挙げて、どのような対話が行われたかを紹介していただく、というやり方がよろしいかと存じます。

直:了解。春期に提供された事例の中から、一つを取り上げ、その事例をめぐって対話がどう進展したかをご紹介しましょう。

 

提供事例――三つの〈あいだ〉

直:なにぶん、プライヴァシーにかかわりますので、事例については、ごく簡略なプロフィールにとどめます。よく分からない点について、お二人から突っ込んでいただければ、できる範囲で説明を補足します。

  事例は、提供者の出身地で進行中の不動産開発をめぐる相談事。県庁所在地である某都市が、街づくりの一環として、「駅前再開発事業」に着手した。この事業に呼応する形で、さる不動産会社が、市郊外(提供者の地元)の山間の私有地で開発行為を行った。ただしこの経緯は、地元住民に伝わっていなかった(事故が起こった後で判明した)。ところが、夏季の豪雨により、開発地の土砂が周辺の水田・用水路に大量に流入する事態が生じた。この事態に驚いた住民が、同社の開発事業をストップさせようと立ち上がり、不動産会社および自治体部局に働きかけたものの、事態の収拾には至らず、膠着状態が続いている。どうすればよいのか。以上の説明で、概要がお分かりいただけたでしょうか。

中:全国各地で、よくある事例の一つのように見うけられます。一つ判らないのは、事例提供者の立場。その方の出身地で起こった問題ということですが、その方は、この問題とどういう関係があるのでしょうか。

直:提供者は、公務員として郷里から遠く離れた地で仕事をしている身。基本のスタンスとしては、同郷の地元住民の視線に立って、この問題の解決を図るにはどうすればよいか、という関心に立っています。ただ、この種の争いでよく見られる、住民=善、事業者=悪、というような単純な二項対立の図式で考えるのではなく、住民、事業者、それぞれの立場を認めながら、どうすれば双方の折り合いがつくか、という問題を考えているように見うけられます。

猛:説明を聞いて、僕は一年前に熱海で起こった土石流の事故を思い出しました。業者が運び込んだ盛り土を適切に管理しなかったために、集中豪雨で土砂が流出して、多数の人命が奪われた。住民は、業者の責任を追及するために、裁判を起こしたと聞いています。

直:そうです。おっしゃるとおり、二つの案件には似たところがあります。土地の開発をめぐって、事業者と住民との間に対立が生じているということです。

中:失礼。いま言われたとおりかと思いますが、こちらのケースでは、「駅前再開発事業」がそもそもの発端だとか。地域振興策から事が起こったというところが、熱海の場合とはだいぶ違うような気がします――もちろん熱海の事故でも、行政の監督責任は問われるでしょうけれど。

直:非常に大きなポイントが指摘されたと思います。猛志君は、開発業者と土砂の流出によって被害を受けた地域住民、この二者の関係を問題にされたのに対して、中道さんは、問題が自治体の企画した再開発事業に起因する点に注目して、そこに自治体の責任がかかわってくる、という点を指摘された。そういうことですね?

中:「責任」とまで言えるかどうか、よく判りませんが、行政がこの問題に関係していることは確かだと思います。かりに、〈住民と事業者の対立〉という枠組で問題を考えても、そういうトラブルを調停するのは、行政の役割ではないでしょうか。

直:私も同感です。住民と事業者のあいだに生じたトラブルの〈原因〉と〈結果〉。このケースにおいて、行政はそのどちらにも関係しています。そういう意味で、自治体がこの問題に介入しないわけにはいかない。そう考えますが、猛志君のご意見は?

猛:言われてみれば、なるほどそうかという気がします。対話のシリーズで、前からずっと問題にされてきた、対立する当事者間の「仲介」「調停」という第三者の役割が、市当局に期待される。そういうことですね。

直:そのとおり。前々から強調してきたように、〈あいだを開く〉仲介者が求められる状況、としてこのケースを把えることが適当ではないか、と思われるのです。

中:さっき申し上げたことに背くようで、気が引けるのですが、私の経験からすると、行政はそういう仲介的な役割を引き受けることに、消極的なのではないでしょうか。報告された事例では、どうなのでしょうか。

直:住民の中には、行政に相談して開発規制をしてもらおうという動きがあったそうです。しかし行政側は、法的規制にかかわるような事業規模ではないという理由で、取り合おうとしない。法律がカベになって、行政が調停に乗り出す道がふさがれている。そんな状況であると聞きました。

中:たぶん、そうだろうなと思います。というのも、開発事業は、基本的に私有地の活用ですから、それ自体に違法性は全然ありません。ところが、思いがけない自然災害によって、その土地から土砂が流出し、周辺の農地に被害を生じた。これは、田んぼを所有する住民側にとっては、私権の侵害に相当する。ということは、事業者と住民のあいだに生じたトラブルに、自治体は関与していない。だから、市当局としては責任を感じる理由がない。というわけで、当事者同士で話し合って、何とか解決してくれ、というのが行政の思惑ではないでしょうか。

直:筋の通った分析です。中道さんは、長年の会社勤めの中で、こうした局面を何度も経験されてきたのでしょうね。

中:ええ、おっしゃるとおり。自分の会社だけではなく、駐在先の外国でも、これと似たような事例を、幾度となく見てきました。

直:なるほど、そういうことですか。それじゃ、そういう経験をつうじて、今回の事例につうじる教訓といったものは、何かないでしょうか。

中:「教訓」とおっしゃると、畏れ多くて何も申せませんが。こういうトラブルについては、たいていの場合、当事者同士が裁判で争うことによって決着がつきます。私は経験していないのですが、アメリカに駐在した同僚の話では、ちょっとしたもめごとでも、全部裁判沙汰になってしまうので、かなわない。そういうボヤキをよく聞かされました。

直:法廷で決着をつけるという訴訟社会なら、そういう成り行きになる。しかし、ご紹介した事例に関して、提供者の方は、そういう展開を望んではいない。「描かれないものたちへの思い」と題されたレジュメには、「考えたいテーマ」がこう記されています。

  行政が街の「あるべき姿」を描き出すことで、そこには描かれないものが存在する。地域住民の願いや業者の思い等。そこに私はモヤモヤする。地域の当事者として、行政で働く者として…

 こういう提供者の「思い」を、お二人はどう受けとめられますか。

猛:その方は、住民だけでなく、行政にも事業者にも目を向けて、それぞれがどうあるべきかを考えているように見えます。これって、先生がよく言われる〈あいだ〉に立つ姿勢そのものではないでしょうか。

中:猛志君と同じ感想です。事例提供された方は、住民・事業者・行政のどれかではなく、どれにもまたがるような仕方で、三つの〈あいだ〉を開こうと考えている。そんな風に感じられます。

直:お二人とも、ドンピシャの答え方をされたので、私から付け加えることは何もありません。まさしく、利害を異にする三者の〈あいだ〉をいかにして開くか、がこの事例のテーマであると考えられます。このテーマをどう考えていけばよいのか。私に妙案があるわけではないけれども、大学の授業で取り挙げた京都の景観問題。ここで京都市が果たした主導的役割を、参考例として挙げてみたいと思います。

 

講義――京都の景観問題

「環境の倫理」という一般教養科目(関大では「全学共通科目」)の授業で、京都の景観問題を取り上げた。2004年の『景観法』制定以後、日本社会の中で、環境保全と開発の両立という課題に取り組まなければならない状況が生じてきた。その課題に直面した京都市では、「京都市景観条例」(2007年)を制定して、行政主導の「新景観政策」に乗り出した。条例に盛り込まれた景観政策の柱は、「高さ規制」と「看板(屋外広告物)規制」。これらの具体的な規制が、現時点で市中に存在する建築物に適用されるほか、新規の開発事業についても、古都らしい街並みが保全されるように、強力な行政指導が行われた。経過措置をふまえて、2012年から最大110人体制で展開されたローラー作戦により、違反広告の付け替え(費用は業者負担)などの指導が徹底された結果、政策のスタートから10年で、それまで無秩序だった京都の都市景観は、市の狙いどおりにほぼ一新された。

一連の経過の中で、景観問題の重要性が認識される一方、その取り組みが孕む難しさもまた浮き彫りにされていった。前者については、条例が市議会の全会一致で決まったことからも明らかなように、関係者すべての認識が一致する。歴史的な古都の景観を守りたい、という思いは、京都の人だけでなく、おそらく日本全体に共通する。しかし、景観条例の施行、運用に当たっては、当事者間の利害関係をめぐるトラブルが多発した。たとえば、京都市内にマンションを建設しようとする開発業者にとって、高さ制限(20mまで)は、収益性のうえで大きなカベとなる。市中に住みたい人々にとっても、供給量が少なく高額のマンションには手が出ないため、市外への移住を余儀なくされる。その結果、人口減少に拍車がかかる、といった事態が浮上してきた。このような情勢を踏まえて、京都市は景観政策の見直しを進めている。市内の細かく分けられた地区の中で、一部の地区に関して、高さ制限を緩和するなど、一律の規制ではなく、保全と開発とのバランスを図る方向が模索されている。

保全と開発は、一方が他方を犠牲にするというトレード・オフの関係ではなく、両立させなければならないテーマである。京都市が率先して取り組んだ景観政策は、それにお墨付きを与えた『景観法』の理念に沿うものと考えられる。「良好な景観は、美しく風格のある国土の形成と潤いのある豊かな生活環境の創造に不可欠なものであることにかんがみ、国民共通の資産として、現在及び将来の国民がその恵沢を享受できるよう、その整備及び保全が図られなければならない」(第一章第二条「基本理念」)。この理念を具体化する上で、国・地方公共団体・事業者・住民それぞれが「責務」を負わなければならない。条文第三条第六条には、国のほか行政・事業者・住民のそれぞれが、主体として応分の役割を果たすべきことが明記されている。三者は、いずれかのみではなく、いずれもが当事者となって、たがいの〈あいだ〉をどう開くか、という課題に取り組んでいかなければならない。

 

対話的アプローチ

直:以上、京都の景観問題を手短に紹介しました。いろいろ解りにくい点もあったかと思いますが、いかがでしょうか。

中:いっとき京都に住んだこともある私にとって、割合なじみのある話題でしたので、うなずきながら説明を聞かせていただきました。景観政策をリードしたのが地方自治体であるという点は、日本の社会では珍しいのではないでしょうか。というのは、住民運動のように市民が中心になる活動が起ったとしても、お役所は傍観者に回るというのが、ふつうによく見られるケースだからです。

猛:京都へ遊びに出かけると、コンビニなんかが渋い色の外観になっていて、オヤッと思うことがあります。それがどうしてなのか、いまの説明を聞いて事情が判りました。チョット判らないのは、企業にとって看板を外したり、建物の高さを下げたりするのは、「営業妨害」だという反発がなかったのか、ということです。反対の声はなかったのでしょうか。

直:もちろんあったと思います。私は、授業の資料として、進行中のこの問題を取材した『クローズアップ現代』(NHK2012年)のビデオを教材に使いました。その中では、市の規制によって、当初計画した住宅が建てられなくなった開発業者の不満や、それに対応しなければならなくなった市職員の困惑などが、いろいろ出てきます。

猛:それなのに景観行政が破綻しなかったのは、どうしてでしょう。アメリカなんかだと、訴訟が起っても不思議はないと思うのですが。

直:そうですね。いったん全体の方針が確定すると、それまでいろいろ軋轢があったとしても、攻撃の矛先を納めるというのが、日本社会にふつうに見られる「和」の精神だ、とでも言っておきましょうか。事業者や住民への対応に、市当局が手を抜かなかったという点も、大きいと思います。ご紹介したような「高さ規制」の一部緩和も、そういう意味で評価できると考えます。

中:ひとつ質問させてください。住民・事業者・行政という三者の〈あいだ〉を開くべし、という先生のお考えは、自分なりに理解したつもりです。そういうお考えを、講義の中でどのようにアピールされたのでしょうか。

直:講義自体は、初めの3040分でおしまい。その中でビデオを見せてから、その後の討論・対話をつうじて、学生諸君に考えてもらうようにしました。教室では、テーブルごとに数名のグループを分け、「住民派」「事業者派」「行政派」のどれかを選ばせ、それぞれの立場を代弁してもらう、という形式のグループ討論を試みました。

中:へー、それはユニークなやり方ですね。で、討論は盛り上がりましたか。

直:それなりに、と言いたいところだが、それほどでもない、というのが実状でした。理由としては、学生諸君がそういうロール・プレイに慣れていないことと、他方、ファシリテーターとして、それをやるよう仕向けるだけの力量が私になかったこと、この二つが大きいと考えられます。

猛:そんな討論があるなら、僕も参加したかったなあ。実際の討論では、どんな意見が出されたのでしょうか。

直:期待(?)に反して、自分の利益のみを主張するような意見は、ほとんどありませんでした。経済学部・商学部の学生にしても、「事業者派」として、資本主義の論理に沿って私権に対する制限を拒否する、というような場面がなかったことに、いささか拍子抜けする思いでした。

中:それは、行政の方針にみんなが賛同したということでしょうか。

直:一定の支持があった、という印象です。多かったのは、「すみわけ論」。それには、二つのタイプがあって、一つは、同じ京都市の中でも、保全する場所、開発する場所を分けることがふさわしい、という考え――ご紹介したように、現実の行政はその方向を辿っています。もう一つは、特別な街である京都については、景観保全を徹底する、その方針に不満がある者は、京都から出て行って他の町に住めばよい、という考えです。

中:ほう、なるほど。私の見聞したかぎりでは、日本の社会は、そういう「すみわけ論」にコミットする傾向がつよいと感じられます。自分が当事者ならどうするか、という発想が基本ですね。

直:同感です。それも重要ですが、それだけでは、利害や立場の異なる者同士が合意に達するための、対話の手続きが不要になる。「公共性」の視点が、欠落することにもなりかねません。さて、ここから話を「対話の会」の提供事例に戻したいと思います。京都の景観問題を引き合いに出したのは、住民・事業者・行政の連携なしには、事がうまく運ばない。その点を確認しておきたい、という考えからでした。思惑の異なる三者の〈あいだ〉を開くには、どうすればよいか。お二人の考えを聞かせていただきましょう。

 

〈あいだ〉に立つのはだれか

猛:僕の考えでは、京都の景観問題で中心になったのは、行政。住民や事業者ではありません。自治体の都市計画、街づくりの担当者が、地域全体を見渡して指導的な役割を引き受けるように、働きかける必要があると思います。

直:その場合、「働きかける」のは誰ですか。

猛:住民か、事例提供した方のような外部の有志です。

直:なるほど。中道さんはどう考えられますか。

中:私は、先ほども申し上げたとおり、行政の積極的な介入には期待しません。京都の場合には、動き出したのが行政だとしても、そこに至るムーヴメントは京都全体のものです。もっと言うなら、「市民の意識」というものが、ベースだと思います。そういう意味で、住民サイドから、行政への強い働きかけがなければなりません。それと並行して、事業者とも直接話し合う機会をもつべきではないかと考えます。

直:お二人がおっしゃったこと、それぞれもっともだと思います。一見すると、お二人の主張は違っているように見えますが、共通する点がある。猛志君は、行政の部局が動くように、特定の誰かが働きかけるという役割を期待されている。中道さんの方は、住民サイドの自覚を強調された。この二つのことは、矛盾ではなく両立します。というのも、住民全員の意識が高まることによって、その中から対外的に動くリーダーが現れる。また、リーダーが現れることによって、それを支える住民の力がまとまってくる。そういう相乗効果が期待できるからです。

中:事例提供された方は、現在、問題の地域には住んでいない。しかし、そこで起こっていることについて、当事者のような関心をもっている、と伺いました。この方は、いま何かをされているのですか。

直:住民の中に入って、いろんな活動に付き合っている、という報告がありました。最近では、町内の青年会が催したイベントに参加して、その中で住民同士のコミュニケーションが深まっている様子を確かめた、ということです。「有事の際に最低限連携できる体制が整っていることを確認できたため、ひとまず今私が無理をして動く必要がないことを確認できた」とも書かれています。

猛:それじゃ、まだ市当局や不動産会社との交渉に入っている段階ではない、ということですね。三者での交渉・対話は、いつどういう形で進められることになるのでしょうか。

直:そういう具体的な日程は、まだ先の問題であって、それ以前のステップを踏んでいる最中ではないでしょうか。事例提供者が、自身に一番近いと感じている地域住民の中に入り込んで、人々の意識が一つにまとまって連帯していく機運を生み出そうとしている。現状は、そういう段階のように見うけられます。

猛:先ほどから、三者の〈あいだ〉を問題にされているのに、行政と住民以外の当事者、事業者の話が出てきません。「開発業者の思い」がどうなっているのか、そこが僕には気になります。

直:おっしゃるとおり、私もそれが問題だと思います。民間企業に勤めておられた中道さん、そのあたりについてどう考えられますか。

中:行政と住民の立場についてなら、意見を出しやすいのですが、事業者の内情については、なかなか言いにくい点があります。以前、私たちが最初に対話したとき、企業ではタテマエとしての「共存共栄」と、ホンネである「私利私欲」が分裂している、ということを申し上げました[註.『〈出会い〉の風土学 対話へのいざない』幻冬舎、2018年、51頁]

直:そうでしたね。私が、東日本大震災のときのボランティアの活躍について、〈縁〉を持ち出したのに対して、猛志君が、アダム・スミスの「共感」の理論を引いて説明しようとした。その流れの中で、あなたは企業の本質が利己主義だと言い切られた。いまも、そういうお考えに変わりはありませんか。

中:あのときの言い方は、単純すぎたと反省しています。私の会社でも、最近ではボランティアのような市民活動に参加する社員が増えてきたと聞きますし、会社自体も社会貢献的な面に本腰を入れるようになってきたような雰囲気があります。

直:国家的な大災害に直面することで、企業のあり方も変わらざるを得なくなったし、現に変わってきている、そういうことですね。だとすると、そういう社会的雰囲気の中で、今回の事例における事業者に対して、どうふるまうことが期待されるでしょうか。猛志君に訊いてみたい。

猛:会社全体ではなく、会社の中で話が通じそうな相手を探して、声をかける。住民と社員との〈一対一〉の対話から始める、というやり方はどうでしょうか。

中:そういうやり方も可能と思いますが、企業の論理からすると、多少無理がある。会社組織の中では、誰か一人が突出した行動をとることを喜ばない空気があるからです。一人の社員だけが目立つことによって、周りから浮いてしまい、バッシングを受ける。そういった例を、過去に何度か目にしています。

猛:それじゃあ、住民と事業者との開かれた対話はできないということですか、先生。

直:そんなことはない、やり方の問題です。交渉の相手は、社内の特定の誰かではなく、会社そのものとする。そうすることによって、しかるべき適任者に役目が回ってくるように仕向ける――そういう人物に、あらかじめ目星をつけておく必要がありますが。必要なのは、〈住民事業者〉それぞれの代表による「二人対話」。その感触を測りながら、行政の担当者を含む「三人対話」に移行する、というやり方が適当だと考えられます。

猛:「三人対話」とおっしゃったのは、三者の代表だけが集まるということですか。住民のグループが参加する対話ではないのですか。

直:〈一対多〉の形で、「対話集会」と呼ばれる話し合いがよく開かれますが、私に言わせれば、それは説明会ではあっても、対話ではありません。「対話」と呼べるのは、立場の異なる二者あるいは三者が、たがいに向かい合って心を開く場合だけです。

中:いまのお話から、昔、大学でよくあった「団交」を思い出しました。学長を大勢の学生が取り囲み、つるし上げて「自己批判」に署名させる、というような……

直:それは対話ではなく、端的に言って暴力です。テロだと言ってもよい。そういうやり方だけは、避けなければなりません。

猛:ということは、今回の事例について先生は、住民・事業者・行政、それぞれが代表を立てる「三人対話」がふさわしい、とお考えになっているのでしょうか。

直:そのとおりです。それが、三者の〈あいだ〉を開くための必須条件だと考えています。

コメント

    •  匿名
    • 2022年 8月 22日
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    京都市の景観政策の事例は、土地を所有することができると同時に、土地の活用方法においては周囲の土地所有者に配慮する必要があるという点で、今回の開発の件と構造が似ているように感じました。
    さて、1点疑問に思ったことを述べさせていただきます。日本における、土地と人の関係性についてどのようなカタチが最も自然であるかどうかという点です。もちろん現在の法律によって、土地が個人もしくは公共に属すことができることになっているのはもちろん認識しておりますが、土地を開発等する際には周囲の土地所有者に事前に、挨拶したり開発内容を説明したりすることが期待されています。ただし、それは法律に明文化されていることではなく、不文律的に、一般的に期待されていることです。この自然な反応と、一方で土地を所有できるという法律には齟齬があるように思います。
    だから、土地というものは誰にも属していないと言えるのではないかと思いました。ただし、逆に人が土地に属しているというのは言えるかもしれません。

    • 中庸居士
    • 2022年 8月 23日
      Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699

     土地の所有権と利用について、現行法制度に問題があるとの認識、おっしゃるとおりかと思います。土地私有の原則に立ちながら、公共性という観点から、その利用に規制が設けられている事実(用途別地域の「色分け」など)はご存じでしょう。そうした現状において、住民サイドで建築協定のようなルールを作って、地域に不調和な開発行為を阻止する、という合意を具体化した例も多くあります。問題は、開発の許認可に携わる自治体が、京都市の景観条例のように、上位の法規を盾に開発行為を規制することができない場合。行政としては、せいぜい「指導」のような形で、住民と業者との仲介役にとどまるしかない――今回の事例が、ほぼそれに当たります――限界があることです。
     投稿者は、業者が「住民に挨拶し、開発内容を説明する」必要を説かれていますが、そういう「不文律」は、「住民説明会」のような形式で、ふつうに踏襲されています。必要なのは、その土地に寄せる住民の思い、開発業者の思惑、行政の理念(まちづくりのビジョン)を、たがいに付き合わせる〈対話の場〉を開くこと。そういう努力をつうじて、その土地にしかない〈解決〉の形が生まれるのではないでしょうか――楽観はできませんが。
    最後に書かれている土地私有への疑問は、ルソー『人間不平等起源論』に具体化されたラディカルな文明批判に一致します。上記の問題とは区別したうえで、原則論を追究されるのがよろしいかと存じます。

      • 匿名
      • 2022年 8月 23日
        Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699

      コメントいただきありがとうございます。大切なのは対話の場を開いて、その土地にしかない解決を生んでいくこと。はい。大切なお考えだと私も思います。さらに申しますと、そういった形で積み上げられていく色んな事例を抽出した先に、所有とは異なる、より自然な、土地に対する新たな原理や法律が生まれることと考えております。

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