毎月21日更新 エッセイ

対話の世界へ(5)――対話はなぜ、何のために

自然の終焉

直言先生:もう八月も末、毎年この時季、決まって言うことですが、今年の夏も異常気象でした。お二人にとって、この夏はいかがでしたか。

中道さん:いや、おっしゃるとおり、異常そのものでした。梅雨が異例の早さで明けたかと思えば、逆に七月から八月にかけての前線停滞。長雨に加えて、ときに40度近い猛暑の毎日、いったいどうなっているのかと思いました。

猛志君:東北地方や梅雨がないはずの北海道での豪雨や水害は、何かが狂っているとしか思えません。これって、地球温暖化の表れでしょうか、先生。

直:気候の専門家でない私に、断定的なことは言えませんが、直感的にそうだと思います。30年余り前、話題になったビル・マッキベン『自然の終焉』(河出書房新社、1990年)という本に、巨大ハリケーンや局地的な豪雨のように、予測できない異常気象の出現が、地球温暖化の証拠だと書かれていたことを思い出します。

中:ということは、「温暖化」と言っても、地球全体の平均気温が上昇する、といった単純な話ではないのですね。

直;ええ、局地的な異常気象の頻発こそが、「地球温暖化」の事実そのものだということです。昔から人々が、安定した環境のように考えていた〈自然〉というものが、もはや存在しなくなった。そのことが、『自然の終焉』という本のタイトルに込められています。

猛:そういうお話を聞くと、何だか居ても立っても居られない気がしてきます。このまま学生として、哲学の勉強を続けていってもいいのだろうか、と。

直:仰せのとおり、私も同感です。いわゆる地球環境問題に対して、自分に何ができるか。環境問題は専門の科学者に任せて、自分は哲学の研究に専念する、という生き方を認めることができなくなった。それが、大学で教えるようになった1980年代末から今日まで、「風土学」の道を歩むことになったきっかけです。

中:和辻哲郎やオギュスタン・ベルクの風土学を知ったことから、先生ご自身の風土学を考えられるようになった経緯が、『〈出会い〉の風土学』(幻冬舎)などのご本に書かれています。しかし、その前に地球環境問題との〈出会い〉があった、ということですね。

直:そう、地球環境問題に対して自分に何ができるか。もしその問題意識がなかったなら、風土学への道は最初から開かれなかった。そんな気がします。

猛:学生として先生の講義を聞き、著書を読んだりして、環境問題への関心が底にあることを感じてきました。ただエッセイでは、温暖化をどうするか、といった具体的な問題にはふれずに、いろんなテーマを取り上げておられるし、このシリーズのテーマも、「対話」になっています。先生の関心が、最近は環境問題から遠ざかっているのかな。そんな感じがしていますが、いかがでしょうか。

直:何か月か前に、私の学問は、もはや「地理哲学」――「風土学」の別名です――ではなくなっているのではないか。そんな疑問を投げかけてきた人がいました。

猛:僕の感じる疑問も、そういうところです。で、それに対して、どう答えたのですか。

直:そんなことはない、私の学問は徹頭徹尾、地理哲学・風土学である、たとえ地理学的な事実、風土や環境の問題を取り挙げなくても、根本のスタンスが地理哲学であることは、まったく変わらない、と答えました。

猛:へぇー、そうでしたか。そのお考えについて、くわしい説明を聞かせていただけませんか。

直:結構です。いつでもご要望に応じる用意があります。ただ、現時点ではそれをテーマにすることができない事情があります。

中:今月は、「対話の世界へ」の5回目。今回の対話をつうじて、何かしらの結論、まとめを引き出す、という流れになっているから、ということですね。

直:そういうことです。本シリーズのテーマである「対話」をめぐって、何がどこまで言えるのか。これを本日の課題にしたいと思います。

 

何のための対話か

直:さて、さっそくですが、私からお二人に質問します。これまで、われわれ三人のあいだで重ねてきた対話。その対話は、いったい何のためにしてきたのでしょう。

中:いや、これは思いがけないご質問。どう答えたらよいのか……、すぐには答えが浮かんできません。

猛:先生らしい、ストレートな問い方だなあと思います。僕は、前回の「講義」と「対話」の違いをめぐる議論から、こう答えることができます。何のために対話をするのか。それは、対話をつうじて「自分で考える」、つまり哲学をするためだということです。

直:対話するのは、哲学のため。いかにも君らしい、キッパリとした答え方ですね。この答えについて、中道さん、異論はありませんか。

中:さすが猛志君、私のような鈍い年寄りとは全然違う答え方です。そのとおりだと思います。

直:そうですか。では、こちらからイジワル質問を一つ。「自分のテーマを自分で考える」これが哲学の基本だとすると、そのことにどうして他人との対話が必要なのでしょうか。

中:私たちのしている対話もそうですが、私の場合、「自分で考える」つもりでいて、自分の頭では考えつかないポイントを、対話の相手から気づかされることが、よくあります。他人の発言に助けられることによって、さまざまな気づきが生じる。これが、ご質問に対して、いま私の考えついた答えです。

直:対話によって、自分の中で気づきが生じる、ということですね。わかりました。この点について、猛志君も同じご意見ですか。

猛:ほとんど同意見と言ってもいいのですが、僕の場合、中道さんとはチョット違うポイントを挙げたいと思います。それは、対話の相手が自分とは違う、というか、自分にない考えをもっていることに気づかされる、という点です。

直:ほう、なるほど。それは、どういう場合でしょうか。何か具体的な例を挙げていただけませんか。

猛:前々回の対話の中で、僕が対話は二人でするものだ、という自分の考えを主張したのに対して、先生は、二人で行う対話の実体は「三人対話」である、とおっしゃった。それまでまったく考えたことのない発想に、驚きました。

直:それはどうも。で、君はそのとき、こちらの考えが君のそれまでの考えとは違うことに驚いた。それは、「気づき」の例ということになりますか。

猛:なると思います。自分と違う考え方があるのだなあ、と気づいたわけですから。

中:伺っていて、そうかという気もしますが、猛志君と私とでは、気づき方と言うか、気づきの内容が違うようです。私の場合は、自分が思っていても言葉にできなかったことを、他人の発言から気づかされました。ところが、猛志君は、ご自分がまったく考えていなかった点を、先生から気づかされたわけですから……

直:いま非常に大きなポイントを挙げられました。対話によって、自分と他人が同じであることに気づく場合と、自他が異なるということに気づく場合。「気づき」には、この二種類がある、という点です。

中:そんなふうに整理されると、問題がハッキリします。哲学対話にとって、どちらの気づきが重要でしょうか。

直:どちらも重要、と私は考えていますが、この点については、猛志君のお考えを聞きましょう。君にとって、私が説いた「異論」には意味がありましたか。

猛:ありました、大いに。自分がそれまで知らなかったこと、考えなかったことに気づかされること。それって、哲学そのものなんじゃないかなあ。難しいテクストを読むことの醍醐味は、そういうものだと思います。

直:何の不審もないただいまのご意見に対して、突っ込むのはチト気が引けるけれども、あえてお訊ねします。その場合、君にとって意味があるのは、自分と相手の考え方が違うということなのか。それとも、相手と自分とが一見違っているようでいて、実はそうでもない、似たところがある、というような〈発見〉なのか。どちらですか。

猛:ウーン、どちらかなあ。いますぐ言えるのは、自分と相手が全然違うというだけなら、対話することにそれほど意味がない。けど、対話を続けたいと思うのは、違いだけではない何かを求めているからじゃないか。そんな気がします。

直:言葉になりにくい微妙な事柄を、適切に表現されたと思います。他人と対話をすることの理由は、自分と相手とが、まったく同じでもなければ、全然違っているわけでもない。つまり、「似ている」と同時に「似ていない」、という複雑な関係にあるからだ、ということです。

中:オヤオヤ、「似ている」と「似ていない」とが両立するなんて――。それは、矛盾じゃありませんか。

直:哲学者が「論理」と称する思考では、「似ている」(肯定)と「似ていない」(否定)とは、たがいに矛盾する。しかし、私があなたと「似ている」という言い方をするのは、同時に「似ていない」面があることを認めるからです。逆に、「似ていない」という言葉を発するのは、それ以外に「似ている」面があることを認めるからこそです。

中:フーン、「似ている」というのは、「似ていない」ところがあるから。「似ていない」というのは、「似ている」部分を認めるからこそ、と。言われてみれば、なるほどそのとおりです。

直:一見真逆の「似る」と「似ない」、どちらを口にするかは、当人の関心が相手との共通点にあるか、それとも相違点にあるか、という相対的な視点の違いです。ちなみに、私はこのリクツを考えつくのに、三年かかりました。

猛:いまのお話から、僕も一つ考えつきました。対話による気づきとして、中道さんが挙げられたポイントは、「似ている」の方、それに対して僕が挙げたのは、「似ていない」の方、この違いだと考えてもよいでしょうか。

直:そのご指摘を待っていました。まったくそのとおりです。他者と対話することは、自他の「似る」「似ない」の両方に関係します。どちらか一方だけではありません。君が、自他の意見の違い(似ない点)に注意するのは、それだけではなく、相手と共通する部分(似る点)に心を向けているからです。そうではありませんか。

猛:たしかに、言われてみれば、そのとおりです。相手と自分に共通点がないかを探りたいからこそ、対話を続ける。それが実際だということに、ようやく思い当たりました。

 

対話の目的は、対話自体

直:ただいまのやりとりから、対話は自他の「似る」点(類似性)、「似ない」点(差異性)を確かめる手続きである、という基本原則が浮かび上がってきました。ここから、現実に行われている対話の意義について、ごいっしょに考えてみたいのですが、いかがですか。

中:賛成です。いま確認できたことをもとに、世の中で行われている現実の対話がどういうものなのか、どうあるべきなのか、ということを考えたいと思います。

直:現在行われている対話の中で、あなたにとって関心のある対話はどれでしょうか。

中:いろいろありますが、その中でも、始まってから半年が経過したロシアのウクライナへの軍事侵攻。いっとき、停戦に向けて対話の動きが見られたものの進展せず、戦況は膠着状態に陥っています。これは、なぜ対話が進展しないのか、という疑問です。

直:その疑問は、私にもあります。この場合、「対話がない」ということと、「休戦に至らない」ということとは、同じ事実の裏表であると考えられます。

猛:ということは、もし双方の対話が行われていれば、休戦が成立した、ということでしょうか。

直:そう、うまく行くかどうか。しかし、その可能性がある、ということだけは言えます。もちろん、停戦交渉がうまく行かず、会談(対話)が決裂することは、十分ありうる――というより、その公算が高い。しかし、ともかく対話が継続するかぎり、いまウクライナの各所で進行している軍事作戦にハドメがかかる。そういう意味において、対話が重要だと申し上げたいのです。

猛:でも、これまで報じられてきたロシア、ウクライナの指導者の発言を見るかぎり、双方の主張に一致点は見出せません。それなのに、対話することに意味があるのですか。

直:その疑問は、ごもっとも。対話の本質にかかわる問題なので、このさいハッキリ申し上げます。対話の目的は、それによって双方がたがいの立場を理解し合って、合意に達すること、ではありません。対話の目的は「対話すること」、ただそれだけです。

中:まったく意外なお言葉です。私は、対話の目的は、他人と議論を交わす中から、一致点を見つけ出すことだと考えてきました。私だけではないと思います。対話の目的は、何らかの合意形成にあるのだ、と。それが世間の常識ではないでしょうか。

直:たしかに、それが対話についての「常識」でしょうね。ですが、先ほど三人で確かめたのは、対話における「似る」と「似ない」の結びつき。この原則からすると、たがいに徹底して「似ない」にこだわる、そういう対話があってもよい、とは考えられませんか。

猛:さっき僕から言ったことに関係すると思うので、質問です。たがいに「似ない」ことを確認するために、対話する。そんな対話が成り立つとして、そこから何が生まれてくるのでしょうか。たがいに相手に対する非難や攻撃の応酬、それだけしか生まれてこないのではありませんか。

直:そう、それが現実世界における対話の実状です。でもそれが、非難の応酬であるとしても、だからこそ対話として意味があるのだということに、私は最近気がつきました。

中:おっしゃっていることの意味が、まだピンときません。何か適当な例があれば、挙げていただけないでしょうか。

直:適切な例があります。バイデン政権が発足したばかりの2020年、アメリカ側から国務長官と国防長官、中国側から外相と政治局のトップ、この四者が一つのテーブルについて、たがいの意見を主張し合い、激しい相互批判を繰り広げた。これなど、現在の世界で考えられる有意味な対話の代表である、と私は考えます。

中:その場では、アメリカ側が、中国の体制を民主主義ではないと強く批判した。それに対して、中国側は、中国には中国式の民主主義がある。それを否定されるいわれはない、と反撃した。たしかそんなやりとりがあって、不毛な対話であった、と報じられたように記憶しています。

直:不毛どころではない。たがいに、相手が自分とは全然「似ていない」という事実に気づいた――とすれば、ですが――ことの意味は、とてつもなく大きいものがある。対話以前には、その事実と正面から向き合うことがなかったわけですから。

中:しかし、私も含めて、その当時も現在も、米中間の対話は不毛である、と一般向けに報じられています。それは、どうしてでしょうか。

直:完全にアメリカナイズされた、日本のメディアの姿勢が、そういう見方を国民に押しつけているのです。中国は全体主義の専制国家、アメリカは自由な民主主義国家である、という単純な切り分けによって。その見方が一面的で偏っていることを、誰も疑わない社会なのです。

猛:今年の三月、先生から薦められて、マイケル・サンデル『白熱教室』(NHKBS1)を観ました。ビックリしたのは、出演したアメリカの学生(ハーバード大学)、中国の学生(復旦大学)――それぞれ6人ずつが参加――の「民主主義」に対する理解が、180度正反対だったことです。アメリカの学生は、言論の自由や複数政党制が保障されているアメリカ社会こそ、民主主義だと考えているのに対して、中国人学生は、そのアメリカが極端な格差社会であるのとは違って、中国は人民全体の幸福を実現しようとしている点において、こちらの方こそが民主主義国家である、と反論しました。たがいに、自分たちのあり方こそ民主主義であり、相手のあり方を民主主義ではない、とする正反対の考えを述べていました。

直:その場には、日本人の学生(東京大学)も出ていたはずですが、彼らはどうでしたか。

猛:たしか、6人のうち4人がアメリカ、2人が中国の考えを支持していました。

直:日本人学生の意識が、どちらか一辺倒ではなくて、中間――正確には、ややアメリカ寄り――の位置にあるというのは、おもしろい事実ですね。

 

民主主義と対話

中:先生、「おもしろい」などとおっしゃいますが、それどころじゃありません。アメリカと中国とでは、「民主主義」の考え方が正反対、180度違っているじゃありませんか。そういう極端な違いがあるのに、日本の学生は両者の「中間」だとおっしゃる。その意味が解りません。

直:これは、中道さんらしくもない。「中間」というのは、左右どちらにも偏らない位置のこと。アメリカ型の民主主義にも、中国型の民主主義にも、それぞれ惹かれるところがある。だから、どちらか一方に決めつけることができない。そういう立ち位置に、何かオカシイところがありますか。

中:〈中〉とか〈あいだ〉に、そういう意味があることは、承知しています。けれど、日本人はともかく、まったく正反対の考えに立つアメリカと中国の代表が対話をすることで、〈あいだ〉を開くことができるでしょうか。それと、先ほど言われた対話のための対話、そういう考え方に意味があるのかどうか、私は納得できません。

直:「対話自体のための対話」、それを言い出したのは、私ではありません。20世紀アメリカを代表するネオ・プラグマティズムの哲学者、リチャード・ローティ(19312007)です。ずいぶん前、この人の書いた『連帯と自由の哲学』(冨田恭彦訳、岩波書店、1999年)に、そういう考え方が示されていて、そのときはキツネにつままれたような気分でしたが、いまごろになって、そのとおりだ、それこそが民主主義の哲学だ、と思うようになりました。

猛:僕が受けた授業の中で、ローティの哲学は、民主主義の哲学として紹介されたことがあります。対話を続けること、それ自体が対話の意義だ、という考えのようですが、どうしてそれが「民主主義」ということになるのですか。

直:前回も議論したように、「対話」はディアロゴス、「二つのロゴス」を意味します。AとBのロゴスがぶつかり合う「二人対話」は、AとBのどちらかが上位に立つ関係になれば、維持することができません。A>B、B>Aといった優劣の差が生じない、ロゴスとロゴスとの対等な関係、それがローティのイメージする民主主義なのではないか、と思います。この考え方は、君の考える「民主主義」とは一致しませんか。

猛:ウーン、解らなくはないけど、何となく釈然としません。というのは、真理の探究では、Aの説く真理にBもCも従うのが当然、という哲学のイメージがあるからです。対等の立場で、主張をぶつけ合うだけでは、真理に到達できないように思えます。

直:伝統的な真理観と民主主義的な対話との食い違い、そこに話がつながってきました。すぐには片づけることのできない、重大な問題です。「対話の意義とは何か」という本シリーズのテーマに関して、それなりのまとめをしなければなりません。これについて、中道さん、何かお知恵はありませんか。

中:お二人のやりとりを傍で聞いていて、オタオタしているばかりの私に、妙案があろうはずもありません。対話は、それを続けること自体に意義がある、という考え。いま伺って、それが民主主義なのだという理由は、何となく解ったような気がします。しかし、私個人としては、猛志君が反論したように、真理を求める中で双方が合意に達するという方が、対話のイメージにふさわしい気がします。そういう状態ですから、自分の立場をどちらかに決めることができません。お手上げです。

直:いまおっしゃったことは、よく解ります。なぜなら、私自身の中にも、中道さんと同じような葛藤や迷いがあるからです。では、こうしましょうか。いま現在、私自身が抱えている矛盾から、どういう方向に脱出しようとしているのか。その楽屋裏を正直にお見せする、という提案です。

中:賛成です。今回は、ここまで先生の講義を聴かずに、議論を続けてきました。その点からしても、最後に講義を伺って終わりにする、というのはいかがでしょうか。

猛:僕も賛成です。この機会に、ぜひ先生の「楽屋裏」を見せていただきたいと思います。

直:了解しました。「対話の世界へ」の最後に、いま私が考えている問題の状況をお話して、結ぶことにします。

 

講義:対話の条件とは何か

『〈あいだ〉を開く――レンマの地平(ミネルヴァ書房、2014年)の刊行以後、私は〈邂逅〉の成立について、一つの決定的条件がある、という考えを抱くに至った。『邂逅の論理――〈縁〉の結ぶ世界へ(春秋社、2017年)を中心に、いくつかのテクストの中で、その考えを表明してきた。それは、邂逅する(出会う)主体同士が、「無」への信憑(しんぴょう、「信じる態度」)を共有すること、である。この結論に対しては、まだどこからも反応――支持、不支持を含めて――が返ってきていない。おそらく、「無」という言葉の響きが、読者の接近を阻んできたのではないか、と推察される。ここでは、「無への信憑」といった難しい言い回しを避け、平易な表現によって対話の成立条件を明らかにすることを試みたい。

「〈縁〉の倫理」(『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ――都市の風土学12(萌書房、2019年)の中では、異なる神を戴く信仰共同体(宗派)同士の対立をめぐって、双方の〈あいだ〉を開くためには何が必要か、という問題を論じた。信者は、自分の信じる神こそが、正しい本当の神であるとして、その信仰を絶対化する。それに対して、異なる宗派の信者は、こちらの信じる神こそが本当の神であって、他宗派の信じる神はそうではない、として他の神を否定する。宗派Aの信者aは、自己の神Xを〈絶対〉と信じ、別の宗派Bの信者bは、その信じる神Yを絶対化して、それ以外の神を斥ける。信者abは、それぞれの信じる神XYを絶対化するとともに、それ以外の神信仰を否定する。このように、abの信仰は対立し、たがいに相容れない。ところが、両者における自己肯定、他者否定のあり方は、それ自体として瓜二つであり、そっくりである。

このように異なる神を戴く信者abとが、たがいに向き合って対話することは可能だろうか。この問いに対して、不可能である、可能である、という二通りの答えが考えられる。それはどうしてか。まず、「不可能である」と考えられる理由は、それぞれの信じる神(XY)がまったく異なっており、両立させることができない、とab双方がともに言い張るであろうことである。じっさいaにとって、自己の信じるX以外の神Yを認めることは、Xが〈絶対〉であることの否定となる。bにとっても同じく、Y以外の神を認めることは、自己否定にほかならない。そういう意味で、たがいに両立しがたい信仰をもつ双方にとって、対話は妥協や自己否定につながる恐れのある行為である、として拒否されることが十分考えられる。

では、「可能である」という、もう一つの答えが成立するとするなら、その理由は何だろうか。そういう場合があるとすれば、それはabとが、自分とは異なる神を信じる相手の信仰のあり方を、自分自身に引きつけ、自分と「似ている」事実を認めた場合である。おのれの信じる神を、目の前にいる相手は信じない。この点に関するかぎり、abとはたがいに「似ていない」。しかし、ともに自分の信仰を〈絶対〉であると信じて、他者の信仰を否定する、そういう排他的な〈信〉のあり方において、自分と相手とはよく「似ている」。このことをabの双方が、事実としてたがいに認め合ったならば、それまでは閉ざされていた双方の〈あいだ〉が開かれる。そう考えたいが、どうだろうか。

二つの可能性のうち、が実現する場合には、対話のための一つの条件が課されることになる。それは、対話するaとbの両者が、それぞれの信じる神ⅩとYとをカッコに入れること、自己の神を〈絶対〉とする自己の〈信〉をいったん棚上げにする、ということである。それは、語弊を承知で言うなら、一種の「自己否定」と称すべきふるまいである――はじめに挙げた「無への信憑」は、このことを意味する。むろん、だからと言って、おのれの内なる信仰の灯が消えるわけではない。自身にとっての神は、おのが存在の底に生きている。ただ、そうした神の信仰を、対話する相手に向ってこれ見よがしにふりかざす、といった無神経な態度――現実に起こっている宗教紛争は、すべてこの種の自己中心性の発現である――を控えること、それだけである。もし、そういう謙譲の姿勢が双方に成立したなら、文字どおり「二つのロゴス」が、それぞれの本来性を失うことなく関係しあう、〈対話の場〉が開かれるだろう。ここでは宗教の例を挙げたが、思想・イデオロギーがせめぎ合う政治的問題に関しても、対話の条件は基本的に同じである、と私は考える。

コメント

    • YT
    • 2022年 10月 13日
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    お話、賛同いたします。
    大前提として、ロゴスが確立されていることを想定されておりますね。
    論理の世界では言葉が全てなので当然ですが、現実世界ではそもそもそのロゴスが十分に確立されていなかったり、表現がうまくなかったり、ということがあると思います。
    そこについて、思うところがございましたら、ご意見伺いたいと思います。

    • 中庸居士
    • 2022年 10月 17日
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    仰せのとおり、現実世界では「ロゴスが十分に確立されていない」ケースが多く見られます。「二つのロゴス」(ディアロゴス)が対等に並び立つことが、「対話」の条件ですから、論理性の乏しい言葉の応酬では、対話にはなりません。その場合は、論理的な正しさではなく、物理的な力の強い方が弱い方を制圧し、支配する流れとなります――過去の歴史が物語るとおり。これを裏返して言うなら、たとえ力の弱い者であっても、ロゴスとしての正義を主張することによって、強者に対抗することが可能である。たとえば、今後に衝突が予想される中国と台湾の関係で言えば、「一つの中国」という前者の論理に対抗できるだけのロゴスを、台湾側が構築できるか――それができれば、中台の対話が進展し、武力による一方的併合、という最悪の事態が避けられるかもしれません。

      • TY
      • 2022年 10月 19日
        Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699

      「ロゴスの構築」、それができれば他のロゴスと対等に渡り合うことができる。すごく腹落ちするところがあります。さらに申しますと、そのロゴスの構築のための対話も必要だと思っております。

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