毎月21日更新 エッセイ

風土学の最前線(2)――〈道〉の発見

前回の対話から

直言先生:前回、風土学のテーマとして〈中〉が再浮上してきた経緯を語りました。〈中〉の意味は、「二つのものの中間」とされていますが、それだけではなく、〈中〉自体に「正しいあり方」という意味があることを主張したつもりです。おさらいの意味でお訊ねしますが、こちらの言いたいことは、お二人に十分伝わったでしょうか。

中道さん:「正しさ」という意味の〈中〉の説明に、私の名前が例に挙げられました。意外でしたが、言われてみればそうかも、という感じです。いままで考えたことがない「中道」について、じっくり考えてみたいと思いました。

直:そうですか、それは何より。こういう私にしてからが、以前は「中道」を名乗る政党のいい加減さをバカにしていました。左右両極の勢力から等距離の立ち位置、なんてものは、ゴマカシにすぎない、というふうにね。猛志君、君はどうですか。

猛志君:僕は、『〈あいだ〉を開く』(2014年)で紹介された「中の論理」が、ずっと気になっていました。二重否定と二重肯定とを「即」でつなぐ公式が、〈中〉を表すとされた、あの考えです。それに対して、先生が「もう一つの中」を持ち出されたことで、僕の頭は少し混乱しています。

直:そう聞いては捨てておけない。君が「混乱している」というのは、どういう点ですか。

猛:中の「論理」ということが、引っかかっています。〈中〉というのは、肯定でも否定でもない、それゆえ肯定でも否定でもある、ということだという説明。言われていることの意味は分かりますが、チョット……

直:どうだというのですか。その説明に、腑に落ちないところが何かありますか。

猛:いえ、説明は分かります。問題は、そういうものが中の「論理」だとされていることです。肯定でもなく否定でもない、あるいは肯定でもあり否定でもある、そういう〈中〉のあり方について、「論理」という呼び方がされることに対して、僕はずっと違和感を抱いてきました。

直:矛盾律や排中律が、君の信じる論理であって、「中の論理」がそれに該当しないという点は、以前からわれわれのあいだで一致しない点でした。しかし、君が「混乱している」のは、そのことに対してではないのでしょう。それは、どういうことですか。

猛:先生は、こちらがまだスッキリ呑み込めない「中の論理」以外に、「もう一つの中」ということを言われました。それは、〈中〉に論理では表現されない別の意味があるという主張のようで、もしそういうことなら、わざわざ「中の論理」を言う必要がなかった、ということになるのじゃありませんか?

中:いま猛志君が言われたのは、〈中〉がもし論理ではないのなら、最初から「中の論理」を言う必要がなかったのではないか、ということですね、なるほど。私の感じるモヤモヤした部分を、猛志君に代弁していただいた気がします。

直:お二人そろって、非常にキビシイところを突かれました。それにお答えすることは、なぜ何のために、私が〈中〉を問題にするか、という最大のポイントに関係します。キチンとお答えしなければなりません。そこで中道さん、あなたはご自分の名前がどういう意味かと訊ねられた場合、どう答えますか。

中:このたび先生に教えていただいた点を含めて、どの立場にも偏らない正しい行き方を意味する、と答えます。

直:そうなるでしょう。問題は、それで相手が納得しない場合です。「どの立場にも偏らない」とは、どういうことですかと訊かれたとき、何と説明しますか。

中:右でも左でもない、中立の立場だと答えます。

直:ヒネクレた相手なら、「中立」と「偏らない」とは同じ意味であって、それでは説明にならない。そう返してくるかもしれません。それに対して、どう応じますか。

中:降参します。それ以上の説明はできませんから。

直:「中立」とか「中正」とかは、それ自体が「正しい」という意味であって、それ以上の説明はできない。いまのあなたのお答えは、当然の事実を語っているのであって、何もオカシイことはありません。

猛:ということは、それ自体で「正しい」ことを論理は説明できない、とおっしゃるのでしょうか。

直:そうです。本当に正しいことは、「正しいこと」それ自体を示すことでしか証明できない。「論理」の出る幕はないのです。

猛:エーッ、それじゃ「正義」とか「善」といった概念には意味がない、ということになるんじゃありませんか。

直:そんなことはありません。「正義」も「善」も、そういう言葉で言い表される事実にキチンと対応しています。概念が用いられる場面において、論理は必要です。

猛:すると、先生がおっしゃるのは、〈中〉には論理で表現できない意味があるのだ、と。そういうことでしょうか。

直:そうです。〈中〉には、それを言い表すのに適当な形式があるはずなのに、形式論理の世界ではそれが見つからない。その点に注目した山内得立は、ふつうの意味での論理にはそぐわない形式を立てて、その形式に、「中の論理」という名称を与えた。それは、たいへん大きな功績です。さっきも指摘されたとおり、私自身がそういう考えを認めてきました。けれども最近になって、「論理」では表現されない〈意味〉が〈中〉にある、ということにようやく気がついた。そういう〈中〉の意味を「中のロゴス」と呼んで、これから研究したいというのが、前回の対話の趣旨でした。

猛:そうでしたか。僕が混乱するより前に、先生の方にも混乱があったわけですね、失礼な言い方をすると。

〈道〉のロゴスへ

直:恥ずかしながら、まったくそのとおり。ところで、今回ここで取り上げたいのは、「中道」という形で〈中〉と組み合わされる〈道〉の方です。「中道」という場合、〈道〉から切り離して、〈中〉だけを問題にするのではなく、〈中〉と〈道〉とを不可分な一体としてとらえるべきではないか、と私は考えています。

中:それは耳寄りなお話です。〈中〉と〈道〉とを一体で考えようということですね。そう考えられる理由は、何でしょうか。

直:最近知ったことですが、仏教で問題にされる「中道」の起こりは、ブッダが悟りを開いた事実にあるとされています。ブッダは、さまざまな修行を経た末に、それまで体験してきた苦行にも快楽にも、どちらにも救いはないということを知った。そこで、快楽主義からも苦行主義からも離れた行き方が、「中道」として開かれてきた。中道こそ正しいあり方だ、という発見が生まれたということです。

中:ほう、「中道」という言葉が、そこで用いられているのですか。

直:ブッダの事績を記した書に、文字どおり「中を踏み歩む」という意味の表現がとられています。その後の仏教の展開において、しばしば現れてくる「中道」の思想は、ブッダの悟りに由来するということが、最近になって判りました。

中:「中道」に近い「中庸」は、儒教の思想ですから、私は「中道」の考えも中国から起こったものかと思っていました。お釈迦様のインドが中道のルーツだということを、はじめて伺いました。

直:儒教でも老荘思想でも、〈中〉と〈道〉とは、ほぼ一つのものとして語られています。この二つを切り離して論じることは、難しいし、意味がないように思われる。そこで今回は、〈道〉の方に焦点を合わせてはどうか、と考えたわけです。

猛:〈中〉と〈道〉とが切り離せないということも、どういうことなのかよく分かりませんが、興味があります。そもそも、〈道〉というものがどういうものなのかを、ここで教えていただけないでしょうか。

直:承知しました。〈道〉について考えてきたことを、簡単にお話します。

講義:〈道の文化〉概観

道〉とは何でしょうか?と問えば、誰でも「目の前にあって、人々が毎日歩いている道路」と答えるでしょう。そうです、何の変哲もない「真直ぐに延びた道路」を指すというのが、日本であれ中国であれ、この語が表す意味の基本であることに違いはありません。しかし、そこから派生するさまざまな用法から、〈道〉には簡単に片づけることのできない深遠な意味が込められている、という印象を受ける。このこともまた、事実です。〈道〉に関して注目されるのは、それが日常的で具体的な「道路」から、仏教・儒教の〈道〉の思想のように高遠な理念に至る意味の広がりをもつ、特別な言葉であるということです。具体的かつ抽象的な意味をあわせもつ、こんな言葉は、ほかに見当たりません。

昨年発表した「〈道のロゴス〉試論」の中で、私は〈道〉という言葉の特異な性格に着目して、〈道〉の「基礎経験」を明らかにすることから入りました。それは、だれもが日ごろ体験する道のあり方から、高度に抽象的な理念としての〈道〉が生まれてくる事情を考えるという、一種の〈思考実験〉を試みることでした。目の前の道は、人によって区切られることがなければ、どこから始まってどこで尽きるかが見通せない、無限の延長体である――島国日本では考えにくいが、中国大陸には古来、そういう道が数多くあったと想像されます。そういう道を歩む旅人は、行けども尽きることのない行く手の先に、たとえば西方浄土のような理想郷を思い浮かべることで、歩み続ける勇気を奮い起こす。そんな体験があったとしても、不思議ではないと思われます。このイメージから、〈道〉には独特な意味がある、ということに気がつきます。それは、人の生きる世界には究極的な何かがひそんでいる、そうして、そこに向かって近づこうとすることはできても、目標地点に到達することはありえない、あたかも沙漠の蜃気楼のように。そういうものが、道の経験ではないかと思われます。

映像でシルクロードを見た程度の私には、これまで〈はてしない道〉を実感する機会はありませんでしたが、そういう世界に生きる人々が、〈道〉に特別の意味を込めようとする思いは、理解できるような気がします。それは、すべてがそこから始まり、またそこへと行き着く究極の地平を表し、これ以上ないほど身近な存在でありながら、そのすべてを見きわめることのできない何か、を意味します。ということは、〈道〉には〈見えるもの〉と〈見えないもの〉という、たがいに相反する二重の性格がつきまとうということです。〈道〉には、可視と不可視、存在と非存在との両契機が関係する――そんな小難しい言い方をしなくても、真直ぐ前方に伸びた道の先は、見ようとしても見えないのが常です。絵画の透視図法では、その地点を「消尽点」と言います。無限につづく先までは見えないけれども、〈無〉ではなく何かがあると予感される、そういう限界が意識されるわけです。

そのような〈道〉の独特な性格が、日本社会を特徴づける〈道の文化〉を生み出したと考えられます。日本では、諸芸一般に「~道」の名が付され、それに志す人々は、入門の後、一定の段階を踏んで向上する修業の過程を歩むことになります。それと対照的に、中国やインドなどの大陸世界では、技術的実践を意味する〈道〉ではなく、形而上的な思想としての〈道〉が追求されました。中国思想の中心を占める儒教・道教のほか、外来の仏教も、〈道〉の理念を高く掲げていることは、すでに申し上げたとおりです――ちなみに、仏教が中国に伝えられたときは、「道教」の名で呼ばれています。ここで、〈道の文化〉と〈道の思想〉を対比させた場合、重心がどちらに傾くかは、地域差があります。中国のことはよく分からないが、すくなくとも日本では、〈道〉についての具体的な実践から離れて、理論的・抽象的な思索を展開したという事実は認められません。

魚住孝至『道を究める――日本人の心の歴史』(放送大学教育振興会、2016年)という書物では、仏教の影響のもとで、112世紀に「さまざまに鍛錬すべき内容を持った専門領域」という意味の〈道〉が、日本に成立したという記述が見られます。ただ、そこからどうして日本独特の〈道の文化〉が展開したのか、という点についての立ち入った説明はありません。この本は、中世に生まれた「歌の道」から、戦国時代の剣術に由来する江戸時代の剣道、柔術諸流派を総合することによって成立した嘉納治五郎の柔道など、他に類のない日本独自の奥深い〈道の文化〉を俯瞰した、ユニークな著作として有益です。私がそこから学んだのは、日本人は外来の思想文物に接したさい、原理的な問題を徹底的に追究するよりも、それを受け容れたうえで、その技術的応用に向かう傾向が強いということです。〈道〉に関する抽象的な思索にふけるよりも、それを現実に活かそうとする姿勢をとった、と言ってもよいでしょう。いずれにせよ、そこから〈道〉の追究が、人生の目標になるような〈道の文化〉が展開していきます。こと〈道〉に関して、中国やインドにはないような、実際的で応用的な展開が生じるところに、日本社会の独自性を見ることが、可能かもしれません。

そういう日本人の生き方、日本文化の特性をわきまえたうえで、日本から世界に向けて発信できるメッセージはないだろうか。そう自問したとき、ずっと以前から私がこだわってきたテーマに、日本的な〈道〉が関係するということに思い当たりました。そのテーマとは、〈かたちの論理〉。〈かたち〉と〈かた〉の相互作用として、文化全般を説明する、という取り組みです。

前回の対話のテーマである〈中のロゴス〉、今回取り上げた〈道の文化〉のいずれも、〈かたちの論理〉に結びつくという見当が、最近になってついてきました。そういう見当が正しいかどうかを見きわめることが、私の当面の課題ですが、まだ十分に説明できる段階ではありません。今回の講義は、ここまでとさせていただきます。

中:〈道の文化〉を概観する講義でしたが、4月の対話「武術と武道のあいだ」で話された内容といろんな点で重なるように聞こえました。そのときも先生は、〈かたちの論理〉を問題にされていたと記憶します。前回と今回、内容に違いがあるとすれば、どういう点でしょうか。

直:おっしゃるとおり、半年前の対話で、武術と武道との関係についてお話ししました。その折、〈かたちの論理〉に言及したことも、ご指摘のとおり。ということは、同じ話をしているように聞こえるのかなあ……

猛:「武道」が、具体的な「道」の例として取り上げられたことは、よく頭に残っています。そのとき、僕は剣道、中道さんは柔道をやった経験がある、という話をした覚えがあります。でも全体の流れは、今回の対話とは違うように思います。

直:ご指摘ありがとう。同じ話ではないと言ってもらえたのは、心強いことです。ことのついでながら、前回の対話のポイントを君に振り返ってもらえるとありがたい。

猛:こちらの印象に残っているのは、剣術が剣道になったきっかけは、戦国の世の中から平和な江戸時代になったことだ、と言われたところです。

直:たしかにそういう話をしました。その話のどこに惹かれたのか、もう少し説明してもらえませんか。

猛:技術が発達するのは、その必要があるからだと思います。剣術の目的は、戦いの場で勝負に勝つこと、つまり人を殺すことです。殺し合いの技術は、戦国の世が終われば無用になる。それなのに、「剣道」という形で剣術が生き残った。そういう剣道の生みの親は、エーッと……

直:柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)、幕府に召し抱えられた柳生新陰流の宗家です。

中:私も思い出しました。先ほどの講義でも説明されましたが、剣道と並んで柔道の世界でも、それまでの柔術を総合した新しい「柔道」が、嘉納治五郎によってうちたてられた、という説明を伺いました。

直:そう、国際武道大学に出張したおかげで、武道に関するいろんな気づきをいただいたことから、4月の対話でそういうお話をしたわけです。〈道の文化〉の最高の具体例が、武道にあるということが判って、そちらの方面に深入りすることになりました。ですが、私がそのとき武道にこだわった理由は、武道がその典型であるような〈道の文化〉の奥深さにあります。今回、同じトピックを蒸し返すことになったのも、〈道の思想〉にない特徴が日本的な〈道〉にはある、そのことを確認したいという思いからでした。

技術としての〈道〉

直:武道に代表される〈道〉のあり方を、技術の一種としてとらえてはどうか、という点にこのたび思い至りました。「欲望と技術」のシリーズでうまく言い表せなかったことについて、「技術」という観点から〈道〉を考えることで、新たな視界が開けるかもしれない。そうなれば、このテーマも二番煎じではなくなるでしょう。

中:〈道〉が技術の一種であるとおっしゃったのは、私には考えつかなかったポイントです。チョット驚きました。

直:そこを突っ込ませてください。あなたは昔、柔道に心を寄せられた時期があったとか、そうでしたね?

中:ええ、確かに。前も申し上げたとおり、私が柔道に惹かれたのは、「柔よく剛を制す」というモットーに謳われたような精神、柔の〈道〉に惹かれたからです。

直:そのとおり、柔道には単なる格闘技にはない精神性がある――柔の〈道〉と称されるような、独特の何かです。それを私が「技術」に見立てたことは、やや心外であると。そうではありませんか?

中:おっしゃるとおりです。柔道が「技術」と見られることで、その〈道〉としてのあり方が否定されることになるのではないか、という気がします。

直:その感じは、こちらにもよく伝わってきます。この点について、剣道を習ったことのある猛志君はいかがですか。

猛:僕の場合、剣道を精神的なものというより、敵を倒すための技法、「武術」として受け止めていました。そういう過去の経験から言うと、武道は技術であると先生が言われたことは、当たり前の話のように思います。

直:お二人の受けとめ方は違うようですが、世間に共通しているのは、「~道」と呼ばれる文化のジャンルにおいて、技術を超える何か――精神性と言ってよいもの――が目標とされる点です。それを言葉にして言い表すなら、「道は技術ではない」もしくは「道は技術を超える」ということになる。その言い方をひっくり返して、「道こそが技術である」と私は言いたいのです。お分かりになりますか。

中:分かりません。どういうことでしょうか。

直:私が言おうとするのは、ひとことで言えば、現今の技術には、〈道〉と呼ばれる文化に含まれる〈正しさ〉が存在しない。〈正しさ〉を求める〈道〉こそが、本来の技術であって、道から外れた技術――ハイテクがその典型です――は、もはや技術ではない、ということです。

中:技術には〈正しさ〉が必要であると。その意味は、まだよく理解できませんが、ここで一つお訊ねします。先生は、〈中〉には「二つのものの中間」とは別に、それ自体としての〈正しさ〉という意味がある、ということを説明されました。そうすると、〈中〉と〈道〉とがくっついた「中道」は、「正しい道」という意味になりますが、そういうお考えでしょうか。

直:そう、まさにおっしゃるとおりです。私が山内先生のおっしゃった「中の論理」に不満を感じるのは、そういう論理の立場では、「中道」「中庸」の意味する〈正しさ〉が表現できないと考えるからです。

猛:技術の〈正しさ〉というのは、何のことでしょうか。僕にはよく分かりません。もっとくわしい説明をお願いします。

直:了解。それでは、いつものやり方で、一対一の対話を進めましょう。私は、技術の〈正しさ〉は、技術の目的に関係すると考えます。君は、技術に目的があるということを認めますか。

猛:認めます。どんな技術であっても、目的をもたないことは考えられません。

直:結構。技術の世界から、分かりやすい例を一つ挙げることにしましょう。医療の技術、医術というものが存在することを、君は認めますか。

猛:もちろん認めます。

直:では、医術の目的は何でしょうか。

猛:患者を治療すること、患者の身体を健康にすることです。

直:模範的な答えで、誰にも異存はないと思われますが、いかがでしょうか、中道さん?

中:混ぜっ返すようで恐縮ですが、医術の「本来の目的」ということであれば、私にもその答えに異存はありません。

直:ということは?医術には「本来の目的」以外の目的がある、ということでしょうか。

中:「医は算術」という言葉を、ひところよく耳にしたものです。本来なら、「医は仁術」と言われるべきところが、現代の医者にとって、医術の目的が金儲けになってしまっている現状を皮肉っています。

直:ハハ、いまの中道さんのお答え、プラトン『国家』の第一巻で引き合いに出される例とまったく同じで、笑っちゃいます。

中:へー、古代のギリシアにも、「医は算術」という考えがあったのですか、知りませんでした。

直:そういう言い回しがあったかどうかは知りませんが、「患者の健康をつくりだす」という医術本来の目的以外に、報酬をもたらすための「報酬獲得術」が存在する。しかし、それは医術とはまったく別の技術なのだ、という点が強調されています。

猛:僕も哲学の学生である以上、『国家』を少しだけ読みかじったことがあります。『国家』の副題は、「正義について」。いまのやりとりは、「正義」にどう関係するのでしょうか。

直:たいへん重要なポイントを衝いてくれました。技術は、それのめざす目的に役立てられることによって、正義である。それを裏返せば、本来の目的に沿わない技術の使用は、不正義であるということになります。

猛:テクストでは、正義とは「強者の利益」であると主張するトラシュマコスをやっつけるために、技術の目的が論じられたのではないかと……

直:そう、そのとおり。君の記憶力に敬服します。ソクラテスは対話の中で、強者である支配者が、自分の定めた法律に人々を従わせるやり方は、統治の技術つまり政治の目的を否定することになるという事の次第を、相手にしぶしぶ認めさせるわけです。ここから、技術をめぐる対話を続けましょう。猛志君、医術の目的は「患者を健康にすること」にある、と言いましたね。それ以外に目的はありませんか。

猛:それ以外の目的って、何かあるのですか。考えつきません。

直:当然の答えです。プラトンが挙げる技術の目的は、それが適用される対象の善(利益)を図ることであって、それ以外の目的は考えられていませんから。

技術に内在する目的

直:ところで君は、「医道」という言葉を聞きませんか。医療に励み、医学を極めるといった医者の生き方を指す表現です。

中:途中から割り込んで、申し訳ありません。さっき私から申し上げた「医は仁術」というあり方が、医道というものではないでしょうか。

直:まさしく仰せのとおり。医療という技術が、それの適用される対象のためになるばかりでなく、当の技術を行使する主体、つまり医者自身の徳を高めることにつながる。これが、医術を単なる技術ではなく、〈道〉にする秘密なのです。

猛:以前の対話で、〈目的〉を内包するのが技術であるのに、ハイテクにはそれがない、だからダメなんだ、という意見を伺いました。いま問題になっている「医道」の場合、何か目的があるのですか。

直:私の質問に君が答えた「患者のため」というのが、目的の一つ。ただし、それは技術にとって外在的な目的です。私は、それ以外に「内在的な目的」があるということを、申し上げている。プラトンは、技術の内在的目的については、語っていないように見うけられます――少なくとも、『国家』の中では。

猛:その内在的な目的というのが、技術を行使する主体の徳を高めることである、とおっしゃるわけですね。

直:そう、そのとおり。技術を磨くことが、外的な事物や他者のあり方をよくすることであると同時に、自分自身を向上させることでもある。そのように、内的・外的な目的を併せもった技術を、人びとは〈道〉と呼びならわしてきた。そうではありませんか。

中:いまのお話で、ボンヤリしていた視界が開かれて、技術の意味がハッキリしてきた感じがします。先ほどまで、私には、道が技術の一種であるというおっしゃり方に、抵抗がありました。というのは、〈道〉は人格の修養であるから、技術なんかではない、と思い込んでいたからです。

直:〈道〉は、ふつうに言われる意味の技術に欠落している内在的な目的を追求する行為を表します。そういう要素を最初から放棄して、外的な効率追求に明け暮れてきたのが、近代における技術文明。さらに、そういう外在的な目標までも放棄して、目的のない技術自体の戯れに転落したのが、最近のハイテク、なかでも生成AIというものです。

猛:ハイテクに対する先生の批判は、これまで何度も伺ってきました。ただし、〈道〉に内在する「目的」というのが何なのか、まだハッキリしません。「人格の修養」と言われても、そこに目標点があるのかないのか。目標のハッキリしない目的が、はたして目的と言えるのかどうか、疑問が残ります。

直:その疑問は、もっともです。今回、話し切れなかった点も含めて、次回に対話を引き継ぐことにしましょう。

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