毎月21日更新 エッセイ

風土学の最前線(4)――「環境哲学」再考

いまなぜ「環境」か?

直言先生:2025年第一回の対話、お二方、今年もよろしくお願いします。

中道さん・猛志君:こちらこそよろしくお願いします。

直:今年最初のテーマは、環境哲学。お二人とのセッションを始めた『〈出会い〉の風土学――対話へのいざない』(幻冬舎、2018年)以来、久しぶりに「環境」を取り上げることになりますが、付き合っていただけますか。

中:もちろんです、喜んで。しかしまた、どうして6年以上も前のテーマを、いまふたたび取り上げられるのでしょうか。

直:直接のきっかけは、東京の東洋大学から、環境哲学に関する講演を依頼されたことです――「新着情報」参照。そこでいろいろ準備しているうちに、以前とは少し違った考え方ができるということに気がついた。そういう気づきを紹介してみたい、というのがこのテーマを取り上げた理由です.

猛:以前の対話で、風土学のめざす地点が、一般的な環境思想・環境倫理学とはだいぶ違うということが判りました。〈出会い〉や〈対話〉が、環境のテーマに関して重要であるというのは、対話に参加してはじめて知ったことです。「気づき」とおっしゃるのは、そういう風土学の立場に、変化が生まれたということなのでしょうか。

直:そうではありません。風土学の基本的立場には、何の変更もありません。いま気づいたことというのは、思想的な立場の問題というより、理論的な整備に関するテクニカルな問題です。それをクリアーすることで、風土学の全体像がクッキリしたものになります。

猛:と言われるのは、どういう

直:『〈出会い〉の風土学』の「 風土学入門」は、「環境」「生態系」「風土」という三つの環境概念を分けることから、風土学の説明に入りました。「風土」は、たがいに異なる「環境」と「生態系」のどちらも認める考えである、という点が大きなポイントです。覚えておられますか、中道さん?

中:ええ、その点は、たしか「第1回「風土」とは何か」で先生が強調されたと思います。斬新な考え方だと思ったので、印象に残っています。

直:そういう基本的な論点はまったく変わりませんが、テクストでは取り上げなかったポイントとして、環境のスケールという問題があります。それをどう考えるかが、以前から自分にとっての懸案だったのですが、このたび講演の準備をする中で、解決できそうだという手ごたえが生まれた。そのあたりの気づきをお話ししたいということです。

猛:いま言われたのは、環境の「空間的スケール」という問題ですか。それなら、教養科目「環境の倫理」の講義で、いつも口にされていたように記憶しています。でも、そのスケールの問題は、『〈出会い〉の風土学』の中ではふれられていません。

直:自信がなかったからです。「風土」というのは、前近代の農村地域というようなイメージで、中間的なスケールの空間として見られています。しかし、ベルクの風土学で言う「風土」には、領域的な意味はありません。『風土としての地球』(三宅京子訳、筑摩書房、1994年)という本が書かれているように、都市や農村といった地理的区分に関係なく、地球まで含めた人間環境のすべてが風土である、という考えが、ベルクによってうちだされたのです。

中:私が「里山のような人為的環境」のイメージを口にしたことに対して、それを否定されたことを覚えています。

直:「風土」のイメージから、里山が連想されることに無理はない。イメージ的には、メゾスケールの空間が風土である。そんな風土のイメージと、ベルクの定義とにギャップがあることを知りながら、当時の自分の頭ではそれを埋めることができなかったのです。今回、そのギャップが埋められるとすれば、私にとって大きな前進です。とはいっても、こういう話題にはじめて接する人もいるでしょうから、まず「環境とは何か」「風土とは何か」についての基本をレクチュアしましょう。

講義:「環境」とは何か

ふつうに用いられる「環境」という言葉を、意味内容に沿って、三とおりに区別します。まず、二つに分けます。

Ⓐ「環境」(environment)――もとの意味は、「取り囲んでいるあり方」。中心=〈主体〉と周囲=〈客体〉とを分ける主客二元論の概念。中心を占める人間と周囲の自然とを対立的にとらえる考えで、科学技術の土台となる概念。

Ⓑ「生態系」(ecosystem)――19世紀に成立した「生態学」(ecology)の概念。生物同士が競争的・協調的な関係を結ぶことによって構成される「系」(システム)を表し、人間は「系」の〈中心〉ではなく、他の生物種と同じく「系」の一員。「環境」とは異なり、一元論(全体論)の概念。

二つの概念は、それぞれ二元論と一元論という、論理的に両立しない立場に属します。しかし現実には、どちらの考え方も間違いではなく、場合により見方によって、両方とも成り立つと考えられます。近代になって、最初に二元論的なⒶが生まれ(17世紀の哲学者デカルトによる)、遅れて後に、一元論的なⒷが現れました(19世紀の生物学者ヘッケルによる)。学問はともかく、人間の生活にはもともと両方の考えが働いていたはずです。大昔の人々は、周囲の自然から生きるための糧を得ようとして、「二元論」的にふるまっていました。と同時に、取りすぎてはいけないということを弁えて、生態系を壊さない「エコ」な暮らしを心がけていたはずです。つまり、そういう意識がなくても、「環境」も「生態系」も現実に生きられていたわけです。

そういう近代以前のあり方に立ち戻る必要があるとして、ⒶⒷ両方を受け容れる立場から考えられるのが、三番目の概念「風土」です。

Ⓒ「風土」(milieu)――通常の論理では両立しない、上の二つの立場を行き来――「通態化」――する風土学の概念。ⒶⒷのどちらかが正しく、他方は間違っている、とするロゴスの二値論理を超える、レンマ的な概念です。これによって、人間中心主義(二元論)か、自然(生態系)中心主義か、という不毛な二者択一から離れて、どちらの考えも活かすことができる。環境概念を三種に分け、対立する「環境」と「生態系」のどちらも活かそうとするのが、風土学の立場です。これで、「風土」概念の有効性がお分かりになるでしょう。

もう一つ、風土学にとって必要な手続きがあります。すなわち、環境を漠然とした空間の広がりととらえるのではなく、空間的スケールを区分するということです。こちらについても、理念的に小(ミクロ)中(メゾ)大(マクロ)という三つのスケールを区別することができます。最小の環境は、「個」の身体空間。つづいて、個人が周囲の人々や自然と交わることで形成される中規模の「地域」的な空間。さらに、それを含む最大規模の空間「地球」。このように、環境を個・地域・地球という三つのスケールに区分する、同心円の図式を考えたわけです。私の風土学では、空間のスケールを三つに分け、中間的なメゾスケールを環境の中心に置きます。その理由は、三つの層の中間に位置する「地域」的な空間において、「風土」の本質である〈関係性〉が、ハッキリ表れてくるということにあります。「風土」を「環境」や「生態系」から区別する理由は、この〈関係性〉にあります。

「風土」は、〈地域〉の別名であるかのように、よく誤解されますが、そうではありません。オギュスタン・ベルクの定義する「風土」は、「社会の空間と自然に対する関係」(『風土の日本』篠田勝英訳、ちくま学芸文庫、210頁)であって、そこには空間的な領域の意味はありません。「風土」の意味は〈関係性〉であって、〈領域〉ではありません。風土を地域の社会空間と考える通念は、正しくないのです。

そうは言っても、〈風土=地域〉という連想が働くこともたしかです。風土が中間的なスケールの空間であるとする領域的理解は不適切だとしても、「環境」や「生態系」の概念にはない〈関係性〉を、どう説明したらよいのか。この点が引っかかっていたために、『〈出会い〉の風土学』に空間的スケールの区別を入れ込むことができなかったわけです。

今回、いろいろ考え直したことから、以上のような懸案にそれなりの答えが出たような気がします。そのあたりを、お二人との対話で確認しましょう。

「風土」の定義をめぐって

猛:いまのお話で、『〈出会い〉の風土学』に空間的スケールの区別が取り上げられなかった事情が呑み込めました。ベルク先生の定義では、「風土」は〈関係性〉を意味するのに、空間的なスケールを持ち出すことによって、〈領域〉が連想されることになってしまう、そういう問題ですね。

直:そうです、おっしゃるとおり。言い訳になりますが、ベルク先生の「風土」概念を私の理論にうまくなじませることができなかった、そういうことになります。

中:すみません。いつもどおり素人の突っ込みで申し訳ないのですが、「社会の空間と自然に対する関係」って、何のことでしょうか。その定義自体、サッパリ意味が解りません。

直:そうですか、……まあそうでしょうね。ベルク著には、アカデミックで難解な言い回しがいっぱい出てきますから。解りにくいポイントは、どこですか。

中:「社会」「空間」「自然」というのが、どれも抽象的すぎて、ボンヤリとしかイメージがつかめません。私のこんな言い方も、ボンヤリしていますが。

直:もっともな感想です。挙げられた三つのタームのうち、「空間」「自然」は、「風土」と並んで、『風土の日本』の用語集(208213頁)に取り上げられています。「風土」を定義するための用語が、それ自体として定義が必要な術語として扱われているのです。

中:そういう事情があるのですか。勝手なお願いですが、ふつうの者に理解できるように言い換えていただけないでしょうか。

直:了解。「社会」はいいとして、「空間」は地理学ならではの用語。本の中では、「事物の間の関係によって限定されるもの」とされていて、〈関係性〉を表します。

猛:ちょっと待ってください、「空間」が関係性だなんて。空間というのは、何もない空虚な広がりのことじゃないんですか。

直:そう、ただしそれは、哲学者の考える空間です。

猛:地理学者の言う「空間」は、それとは違うのですか。分からないなあ。

直:君がそう思うのも、もっともです。この私自身、昔、地理学者と共同研究を組んだときに、それぞれの空間理解が、まったく異なるために、話が通じなくて困惑したことがあります。こちらは、空虚な広がりを考えているのに、向こうは事物の関係性をイメージしているわけですから。

中:いや、驚きました。哲学と地理学では、基本的な用語の意味が変わるなんて。他にも、そんな例があるのですか。

直:いろいろあるはずです。いま問題に挙げられている「自然」にしても、ベルクさんは、ふつうに連想される山や海などの自然物ではなく、そういう意味づけが行われる以前の、絶対的な「主体」を考えています。チョット難しいかな。

中:ベルク風土学が難解だということは、いちおう承知しているつもりです。で、「風土」の定義をかみくだいていただくと、どういうことになりますか。

直:「社会の空間と自然に対する関係」を私流に言い換えるなら、たとえば、大阪というような地域の人々が、地域内の人や自然とどのようにかかわっているか、という関係のあり方になります。

猛:その説明だと、地域の社会が人や自然に関係する仕方ということですから、「風土」は「地域」にイコールだということになるのではありませんか。

直:非常に重要なポイントです。私が「地域」を例に挙げたのは、ローカルな社会において、他者や自然に対する関係が、ハッキリと具体化されるからです。それは、われわれが家族の一員として社会に生まれてきたときに、すでに人や事物・自然との関係の網の中に組み込まれ、その関係性を離れて生きることはできない、という事実を意味します。「風土」の意味の核心は、人間存在を規定する〈関係性〉にあるわけです。

中:おっしゃったことの具体例が何かあれば、教えていただけないでしょうか。

直:私が留学した2002年か、その翌年だったかな、ベルク先生が京大から招かれて、風土学についての講演をされた。その講演の中に、コメ作りを例に挙げて、風土性を説明されているところがあります。明治時代になって、屯田兵による北海道開拓が進められた歴史的経緯に関する話です。

中:ほう、コメ作りの歴史ですか。北海道の開拓では、最初からコメ作りが進められたのでしょうか。

直:イネはもともと熱帯の植物ですから、亜寒帯の北海道では生育しません。気候風土の観点からすれば、稲作は推奨されない。現に、明治政府が助言を求めたお雇い外国人は、北欧型の酪農や寒冷地向きの農業を行うよう、開拓農民たちに指導しました。でも、農民たちは、その指導に従うことなく、あくまでもコメ作りを手がけようとした。その試みは、寒冷地に育つ品種が見つかるまで、失敗続きでした。どうしてだと思いますか。

中:分かりません、どうしてでしょうか。

直:農民たちが、死ぬまでに一度、米の飯を腹いっぱい食いたい、という思いをもって、開拓事業に参加したからです。彼らがなぜ、何のために、稲作不毛の北海道でのコメ作りを希望したかは、自然科学の因果論では説明できません。農民たちの生きる社会が、「死ぬまでに一度……」という欲求を掻き立てるような風土であったということが、かれらのとった「非科学的」な行動を説明します。

中:「社会の空間と自然に対する関係」の意味が、どうやらそれで分かりました。人間のとる行動は、歴史によって決まってくるということでしょうか。

直:そのとおり。封建社会の江戸時代、農民は収穫の大半を権力者によって召し上げられ、米の飯は自分の口に入らなかった。そういう農民の歴史をふまえることで、近代に成立した北海道の農業が、コメ作り中心になっていった事情が呑み込めるわけです。コメ作りに注がれた努力のおかげで、北海道のコメの生産量は、現在、全国1位になっています。

猛:地域レベルでの関係性が、風土学で重視される理由が、僕にもよく分かりました。しかし、風土はメゾスケールの空間そのものではなく、ローカルな人と自然の関係性を意味するというのが、ベルク先生の考え方だとすると、風土は「地球」や「個人」とどうかかわるのか、という問題が浮上してきます。

メゾスケールからの出発

直:今日の対話の核心部に当たるポイントを君が指摘してくれたのは、こちらにとって好都合。それは、ローカルな空間に成立する関係性を、グローバルな地球環境へとどのように押し広げるか、という問題です。

猛:もう一つ、ローカルな関係性を個人の自覚にどう結びつけるか、という問題もあります。

直:そうですね。風土学の立場から言うと、ミクロ・メゾ・マクロの関係、つまり〈個人-地域-地球〉という三層構造を、メゾである中間項(地域)に力点を置いてつくり上げる方法は何か、という問題になります。

猛:三層構造を考えることには、意味があると思うのですが、もう一つよく分からない点があります。

直:それは何ですか。説明してください。

猛:空間構造の中心に〈個〉が位置しますよね。どうして〈個〉から出発せずに、中間項から関係性を考える必要があるのですか。

直:今日の君は、キビシイところを突いてきますね、いいでしょう。中間的なスケールを重視する理由は、〈人と人のあいだ〉あるいは〈人と自然のあいだ〉が、そこに具体的に成立するからです。個人から出発する西洋の倫理学では、〈あいだ〉が問題にされない。このことは、和辻哲郎が、昔、『人間の学としての倫理学』で批判したポイントです。

中:〈あいだ〉を開くことが、風土学のモットーであるということは、承知しています。猛志君が問いたかったのは、〈あいだ〉を開くことと個の自覚とは、どういう仕方で両立するのか、という問題ではないでしょうか。

猛:まあそうです。〈個〉であることと〈あいだ〉を開くこととは、矛盾するのかしないのか。そういう問題に置き換えてもらってもかまいません。

直:〈あいだ〉を開くことと個の自覚とは、どうつながるのか。そういう問題を突き詰めて考えたことは、正直に言って、これまでなかったと言わなければなりません。今回、東京での講演を準備しながら、〈メゾからミクロへ〉どう移行するかという問題を、はじめて考えました。参考にしたのは、儒教の考え方です。

中:儒教ですか、それはまたどうして……

直:私と年齢の近い中道さんなら、たぶんご存じでしょう。四書の一つ『大学』に、「修身斉家治国平天下」という思想が言い表されていることを。

中:「修身」というのは、戦前の「道徳」教科書の名前です。当時、天皇中心の国家に奉仕させるために、国民道徳を教え込む狙いがあったと承知しています。

直:おっしゃるとおりですが、私が参考にしたいのは、儒教のイデオロギーではなく、個人から国家までを結ぶ構造連関の図式が示されているという点です。

中:「身を修め、家をととのえ、国を治め、天下を平らぐ」というのは、家族中心の道徳を徹底することで、平和な世界が実現する、という思想を表現したものかと思っていました。そういう考え方ではないのですか。

直:儒教の考えでは、ミクロの個人からマクロの天下までを、連続的一体的にとらえる見方が支配しているように思われます。基本的に家族主義でありながら、全体主義でもあるという印象が強い。

猛:「修身」以下の表現を見るかぎり、個人の自立というものが保証されていないような気がします。『大学』で説かれているのは、全体主義ではないのですか。

直:強く言えば、そうなるかもしれません。そういう危険性もあるとしたうえで、私としては、中間的なメゾレベルから出発して、ミクロの個のレベル、マクロの地球レベルにつうじる実践のモデルを提起したいと考えたわけです。私の言いたいことが、お二人につうじるでしょうか。

猛:先生がおっしゃりたいのは、個が自立しながら、しかも連帯して世界をつくりかえる、というようなことでしょうか。

直:ええ、まあ……。口幅ったいながら、そんなところです。

中:そのとおりなら、メゾ→ミクロ、メゾ→マクロ、という両方向への働きが考えられることになります。『大学』をもとに、そういう動きを考えられたのでしょうか。

直:一つの思考モデルとして、話を聞いてください。『大学』の章句を分析するなら、「修身」は個人道徳、次の「斉家」は家族倫理、つづく「治国」は、昔の中国にたくさんあった地方国家を治めること、最後の「平天下」は、中国全土を平定するという意味です。

中:すると、「天下」は「地球全体」ではないということになりますね。マクロの上限は、国家なのでしょうか。

直:地球全体という観念は、古代にはありません。「東夷西戎南蛮北狄」(とういせいじゅうなんばんほくてき)という言い方のとおり、中国本土が天下つまり世界であって、その外部(東西南北)はすべて野蛮人の領域とみなされていました。

猛:「天下」がそういう意味だとしたら、メゾとマクロの違いがハッキリしなくなりませんか。そういう考えを、「地球環境問題」に適用できるのでしょうか。

直:儒教は、中国という一つの「世界」の倫理として成立しました。現在のわれわれの目から見ると、それをそのまま地球規模の世界に当てはめることはできません。

中:そういうことなら、先ほど申し上げた〈メゾ→マクロ〉という拡大の方向は、どういうことになるのでしょうか。

直:いったん棚上げにしてください。当面、ミクロ(個人)とメゾ(地域)の二つのレベルが、どう関係するか、に問題を限定して考えましょう。

中:了解しました。ミクロとメゾの関係について、お話しください。

「三人対話」の世界へ

直:最近になって考えついたのは、ミクロとメゾのレベルが、〈対話〉によって結びつくということです。

中:対話の意義について、何か新たな気づきがあったのでしょうか。

直:ええ、まあ……。以前お二人と行った対話の中で、「三人対話」という表現をしたことを覚えていますか(「対話の世界へ(1)――〈二〉と〈三〉のあいだ」2022.5.21)。

中:はい、風変わりな表現だったので、記憶しています。対話は、ふつう「二人」で交わされるけれども、実質としては「三人」で行われる、というような趣旨のお話でした。

直:そういう私の主張をどう受けとめましたか。納得しましたか。

中:そうか、そういう考え方もできるのか、と少し驚きました。ただ、二人でする対話と三人の対話との違いについて、お話が難しかったので、スッキリとは分かりませんでした。

直:振り返って、生煮えの材料をそのまま出したような、不十分な議論をしたかと反省しています。猛志君の印象は、どうでしたか。

猛:対話というと、〈私〉と〈汝〉の関係が思い浮かぶのですが、それにもう一人、〈彼〉が加わることで「三人対話」が成り立つ、と言われたところが印象的でした。

直:ブーバー『私と汝』のように二者で閉じられる関係を、三者に広げたところが、新しいと言えば新しい。と言っても、これは私の独創ではなく、後期の西田哲学が明らかにした事実です。

中:ミクロの〈個〉とメゾの〈地域〉とが、「三人対話」によって結びつくというのは、どういう理由からでしょうか。とても興味があります。

直:基本は、〈対話〉を含む人間同士の〈あいだ〉が、三人という単位で成立するということです。手はじめに、家族を考えてみましょう。親子、兄弟など、ふつうは一対一の二者関係と見られる絆が、実は三人体制であると言いたいのですが、中道さん、分かってもらえますか。

中:「子はかすがい」という格言があるように、夫婦と子どもの関係は三者関係です。

直:それは、夫婦が対立するとき、その間に生まれた子どもが仲介者になるという意味で、典型的な三人体制です。猛志君、他に考えられる例は?

猛:親父と言い争っているときに、母親があいだに入って、取りなしてくれたことがあります。先生の言われる「仲介者」の役割そのものだと思います。

直:そう、四人家族の場合には、異なる四とおりの三者関係が存在します。そうした関係性によって、〈汝〉や〈彼〉ではない〈私〉の立場が出来上がっていく。そういう関係性を離れて、〈私〉が最初から独立してあるわけではない。

猛:チョット疑問があります。四人家族の場合には、四とおりの三者関係が存在するということですが、わざわざそんな言い方をしなくても、「四者関係」があると言えばいいのではありませんか。

直:もちろん、そういう言い方もできます。四人家族なら、四者関係が成り立つと。ですが、私が言いたいのは、人数がいくら多くても、人と人の〈あいだ〉は、基本的に〈私-汝-彼〉の三者関係に還元される。言い換えれば、あらゆる社会関係の単位は、三人だということです。そういう観点に立つなら、家族から会社・学校その他の地域社会まで、スケールの異なる社会を、「三人体制」として説明できることになります。

中:家族を「三者関係」で説明されることは、いちおう納得できますが、他人同士が集まる地域社会に、その考えが適用されるというのは、どうしてでしょう。

直:実社会で「三人」が重要な意味をもつのは、何か事を始めようとするときに、「三人寄れば文殊の知恵」と言われるように、好結果を生むユニットが、同志的な三人の集まりだからです。

中:おっしゃるのは、世の中には同じ志をもった仲間が三人いる、という意味のことでしょうか。それとも……

直:ポイントは、最初から仲間が三人いるということではなく、自分から動いて同志を二人「見つける」、あるいは「つくる」という能動性にあります。

猛:分かりますが、同志を「見つける」ためには、どうすればよいのですか。僕は、同志なんてものを見つけたことはありません。哲学をやるのだから、一人ぼっちの孤独に耐えなければならない、と自分に言い聞かせてきました。

直:言われることは、とてもよく分かる。私自身もそうでした。家族というのは、自然的な情愛で結ばれた共同体ですが、その外に出てしまえば、自然的な絆なんてものはなく、ふつうに生きていくなら、孤独になることは避けられない――「渡る世間は鬼ばかり」とも言いますね。

猛:それじゃあ、どうやって三人体制をつくればよいのですか。教えてください。

直:水中に落ちている砂金を拾い上げるのとは、訳が違います。これぞと思うパートナーを見つけるには、こちらから自分と似た仲間を見つける努力をすると同時に、自分が周りの人たちから仲間だとして「見つけられる」ように、発信を繰り返さなければなりません。猛志君、君の方からそういう発信をしたことがありますか。

猛:これといってありません。論文とかで、おのれを表現しようという努力はしてきたつもりですけど。

中:いまのやりとりを伺って、先生は〈対話〉の意義を強調されているのかな、という気がしました。というのは、対話では自分が発信することと、相手からの発信を受け取ることとが、交互に行われるからです。いかがでしょうか。

直:こちらの言いたかったことを、ズバリ指摘されました。ということで、対話の基本が三人体制にあるという基本認識に至ったところで、今年最初の対話を結ぶことにします。

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