毎月21日更新 エッセイ

風土学の最前線(3)――目的なき目的

課題の確認

直言先生:前回の対話では、技術と目的との関係を取り上げて、議論しました。今日はその続きをやりたいのですが、どんな内容だったか、お二人は覚えておられますか。

中道さん:私の印象に残っているのは、ハイテク、特に最近の生成AIなどの技術には目的がない、それに対して、〈道〉という技術には目的が内在している、と主張されたところです。それを聴きながら、自分のやっていた柔道の目的は何だったのだろう、ということを考えていました。

直:そうでしたか、なるほど。猛志君はいかがですか。

猛志君:中道さんと同じような印象ですが、僕の場合は、先生が問題にされた「目的」というのが何なのか、疑問が残りました。例に挙げられた武道の場合、「人格の錬磨」が内在的な目的だとされたのですが、その意味がもう一つハッキリしません。

直:対話の最後に君の提出した疑問、それを考えることを次回の課題に回しましたね。ならばちょうどいい、君に前回の対話を要約してもらえませんか。

猛:エーッ、またですか。おさらい役が僕に回ってくるのは。

直:技術と目的の関係というテーマに、君が関心をもってくれたからこそのお願いです。問題点の確認は、議論をさらに展開するうえで欠かせません。学問上達のカギは、一にも二にも復習することにあります。

猛:分かりました、やってみます。もし間違った理解があれば、直してください。

直:もちろんです。三人で何を議論したかを思い出して、話してください。

猛:前回の「〈道〉の発見」の最初に、「中の論理」をめぐるやりとりが行われました。〈中〉についての「論理」が成り立つのか、という僕の疑問に対して、先生は、〈中〉を「論理」ではなく「ロゴス」という形で把えたい、という話をされました。

直:そう、そのとおり。〈中〉というのは「論理」では考えられない、というのが君の立場。それに乗っかるような仕方で、論理ではない〈ことば〉、「ロゴス」と見るところから、問題を考え直したい、というのが私の言い分でした。よく思い出してくれましたね。

猛:そこからどういうわけか、〈中〉ではなく〈道〉を考えよう、という流れになったと思います。そうでしたよね、中道さん?

中:私の名前「中道」の「中」と「道」とは同じ意味であるから、このさい〈道〉について考えたい、という考えを述べられたと記憶します。

直:おっしゃるとおり、〈中〉のロゴスを棚上げにして、〈道〉の問題を考えようというのが、前回の対話でした。で、そこからの展開は、どうでしたか。

中:「中道」を最初に説いたのが、お釈迦様であるということを教えていただきました。「中道」の起こりが仏教であるというのは、私には驚きでした。そこから、〈道のロゴス〉に関係する武道の話になりました。

猛:武道のような〈道〉が、技術の一種であるという考えは、僕にとっては新鮮な発見で、なるほどそうか、と思い当たるところがありました。

直:〈道=技術〉という私の考えに対して、猛志君は理解を示し、中道さんは疑問を呈された。たしか、そうでしたね、中道さん?

中:そうでした。人間性の向上を求めて励む〈道〉が、「技術」と言われたのでは、〈道〉の価値が否定されることになるのではないか、という疑問が生じました。

猛:先生は、医術を例に挙げて、患者の治療という本来の目的以外に、医者自身の人格を向上させる、というもう一つの目的を挙げられ、二つの目的が一体になっている技術として、〈医道〉を定義されました。

直:そのとおり。医者の人格向上という目的が加わることで、医術は医道になるということを申し上げました。

中:「医は仁術」という言い方が、昔からあります。その反対に、「算術」になっている最近の医療は、道に外れている。そんなことも話題になりました。

直:患者の健康を実現するということが、医術の本来の目的。それに加えて、医療に携わる医者自身の人格向上ということが、もう一つの目的であること。つまり、「二重の目的」があるということが、技術本来のあり方であると主張しました。そういう本来的な技術の典型が、武道のような〈道〉であるということです。

猛:「二重の目的」と言われたことは理解しましたが、「人格の錬磨」と言われたような武道の「内在的な目的」の意味が、僕にはよく分からない。で、次回その続きを考えようと先生が言われたところで、前回の対話は終わりました。

直:ありがとう。今日はその続きを議論しましょう。猛志君、〈道〉に目的が内在するという私の考えが分からない、とおっしゃるのはどういうことですか。

目的と目標

猛:「目的」というからには、何かハッキリした目標というものがあるはずです。たとえば医者の場合なら、患者の病気を治すこと、というように。そういう意味で、技術に目的があるということなら、よく分かります。けれど、武道の目的は人格を高めること、というように言われても、目標が何だかハッキリしません。「内在的な目的」というのは、具体的にどういうものだか、見当がつかないのです。

直:道の修業には目標がないというのは、言われたとおり。しかしながら、これが目標だと言えるようなポイントを挙げることができないところに、〈道〉という技術の本質がある。そのことを明らかにしましょう。あなたは柔道の段位をもっていますか、中道さん?

中:いちおう初段をもっています。

直:それは、あなたの実力が公式に認められたことの証です。段位を認定するために、試験が課されましたよね?

中:はい、道場で試合形式の勝負をやって実力が試され、つづいて「形」(かた)の試験が行われました。

直:柔道に入門した者は、昇給・昇段の試験にパスして段級を得ることが、当面の目標になります。〈道〉には向上のためのステップが用意されていて、それを通過していくことが、修業の目標になるわけです。

猛:そのことは知っています。僕が少しだけかじった剣道でも、段位を上げるのは、実力だけではなく年期が必要だ、というような話を聞かされたことがあります。

直:剣道では、たしか八段が最高位で、九段や十段はいないと聞いています。ただ、囲碁や将棋の世界には「十段戦」があって、タイトル保持者は十段と認定される。しかし、それは名誉の称号であって、公式には九段が最高位です。で、最高の段位に到達するということは、その道にとっての「目標」になりますか、猛志君?

猛:〈道〉はともかく、競技者の目標であることは確かだと思います。

直:結構。同じことを中道さんにも質問します。高段者になることが、柔道家の目標だと言えるでしょうか。

中:私の場合、初段になることは、入門したころ一つの目標でした。しかし、それが柔道をすることの目的だったわけではありません。めざすのは、道を極めること。段位を得ることは、何というか、修業にとって一つの目安のようなものだと思います。

直:非常に大事なことを言われました。段位をとることそれ自体は、道にとっての目的ではなく、「目安」にすぎないと。「目安」というのは、〈道〉にとっての通過点、里程標を意味します。そこを通過しなければならない、という意味での暫定目標であって、最終目標ではない。前者を「目標」とすれば、「目的」は後者。目標と目的とを区別して考えなければならない、ということになります。

中:ということは、〈道〉というものには、具体的な目標はあるけれども、それは目的ではないということでしょうか。フーム。

猛:僕が引っかかるのは、そこのところです。何らかの道に入門した人が目標とするのは、実力を証明するような段位をとって、世間に認められること。しかし、そのことが目的ではないような仕方で、到達不可能な境地が想定されているのなら、何をやっても、これでよしとはならない。生きている間には、最終目標に届かないわけですから

直:生きている間に目標点に到達しないというのが、君の言うとおりだとするなら、それこそが〈道〉の本質であると言える――〈道〉には終わりがないのですから。そのことを君のように否定的にとらえる必要があるのかどうか、少し議論しましょう。登山の経験がある人なら、頂上をめざす過程で、何合目という中間点が設けられていることは、ご存じですね。

猛:ええ、富士山には五合目や七合目があって、休憩小屋が登山者で賑わっています。

直:そういう施設が置かれているのは、どういう理由からでしょうか。

猛:理由はハッキリしています。登山口から山頂まで、一気に登ることは不可能です。途中で休憩する必要があります。

直:一服する場所が必要なのは、そのとおり。他に考えられる理由は?

中:目標である頂上に至るまでの段階を示すということです。各合目は、そこを通過することで、山頂に近づくための足がかりとなります。

直:最後に頂上に立つことで、目標達成となるわけです。そういう理解で、正しいと言えるでしょうか。

中:山頂に立つことで、一つの目標はクリアーされる。けれど、それは登山家にとっての最終目標ではなく、まだ先があると。先生は、私にそういう答えを期待されているように思われますが……

直:肚の中を見透かされましたね、そのとおり。一流の登山家は、一つの目標を達成することは、次の目標を立てるためのステップに過ぎない、ということを自覚しています。困難な目標を立てて挑み、それを征服することによって、さらに難しい目標が目の前に現れる。そういうあり方が、登山家はじめ冒険家の生き方であることは、誰でも知っています。この例は、〈道〉を極めようとする修業の本質とまったく同じです。〈道〉には、到達地点に至る通過点を示す里程標が置かれている。しかし、道が本来どこまで続き、どこで終わるという、明確な目標点はない。それが、〈道〉というものなのです。

無目的でよいのか?

猛:〈道〉には最終的な目標地点がない、と言われたことの意味は解りました。けれども、僕には釈然としない点が残ります。

直:釈然としない、それはどういう点ですか。

猛:それでは、〈道〉を歩むことの目的がないのじゃないか、という点です。「道を極める」ということが言われるためには、〈道〉を極めた先に何があるかということが、言えなくてはならない。僕はそう思います。

直:なるほど。いま言われたことは、技術の本質にかかわる疑問なので、技術と目的の関係をおさらいしましょう。技術は、二つの目的を内在させている。そのうちの一つは、人でも物でも、技術が適用される対象のためになるということ。もう一つは、技術を行使する主体の「徳」を高めること。君の疑問は、この二つのうち、後の方に関係するわけですね。

猛:そうです。技術が誰かのため、何かのために役立つということについては、僕も含めて誰にも異論はないと思います。しかし、〈道〉と呼ばれる技術に関しては、これまでのお話からすると、これはという最終目標がない。それでは、〈道〉には目的がない、と言っているようなものではありませんか。

直:これは手キビシイ。いまの疑問に対して、中道さん、どう答えられますか?

中:何かの修業に励んでいる者にとって、先ほど出された登山家の例のように、その時々の目標というものはあります。私の場合、柔道で初段をとることが、そういう目標でした。けれど、それが最終目標でないことは、よく承知していました。「より上」をめざすうえでのステップ。そういう意味の暫定的な目標はあるけれども、〈道〉そのものに最終目標がないという点については、猛志君の批判を認めざるをえないという気がします。

直:オヤオヤ、そうですか。お二人ともそろって、〈道〉には最終目標がないという考えをされているとは。こちらとしてどう言えばよいのか、迷うところです。

中:これという具体的な目標が挙げられない、まさにそのところに〈道〉の本領があると思うのですが、自分の力ではそれを言い表す言葉が見つかりません。先生からそれをお伺いしたいと思います。

直:分かりました。できるだけご期待に沿うよう努めましょう。ふだんの発想を逆転することになるけれども、よろしいか。

中:発想の逆転、それはどういうことでしょうか。

直:「道には目的がない」というのが、通常の発想。それを逆転させると、「無が〈道〉の目的である」となります。

中:「無が〈道〉の目的」ですか。よけい分からなくなりました。

直:「無」は、日本・中国・インドなど、東洋思想の核心に位置づけられます。「無」の思想が西洋にないわけではないけれども、仏教などの「無」がもつ重さは、それとは比較になりません。〈道〉の目的は、無の境地をめざすことにある、と言ってよいでしょう。

猛:〈無〉が目的であるというのは、非常に抽象的でよく分かりません。「目的」というからには、ハッキリした具体的な目標でなければならないと思いますが。

直:「目的」とか「手段」というのは、ものごとを合理主義的に説明する場面で使われる概念。〈道〉についても、その意味を合理的に説明する立場に立つからこそ、「目的」「目標」といった言葉が必要になるわけです。「無」が〈道〉の目的であるということは、目的など考えるな、ということ。言い換えるなら、合理主義そのものを超える地点に立つということです。お分かりになりますか。

猛:分かったような、分からないような…… 何か具体例を挙げていただけますか。

直:では、日本的な〈道〉に入門して、その神髄にふれた外国人の事例を紹介します。

講義:〈道〉における〈出会い〉

戦前の日本に来て、弓術を修業したドイツ人哲学者オイゲン・ヘリゲルは、帰国後に二冊の書物を著して、スポーツ競技とはまったく異なる弓道の意義を世界に紹介しました。いずれも入手しやすい文庫本なので、よく読まれています(『日本の弓術』柴田治三郎訳、岩波文庫。『弓と禅』魚住孝至訳、角川ソフィア文庫)。そこに含まれたメッセージを一言で言い表すなら、弓は無の境地――いわゆる「無心」――になり切って引かなければならない、ということです。

 何も考えることなく無心になること。西洋の人間、それも哲学者にとって、これほど難しい課題はありません。滞日中のほぼ五年にわたって、へリゲルに弓術の指導を行った阿波研造は、自身が傾倒していた禅の教えに沿って、この課題を説き続けます。マイスター・エックハルトのような神秘主義者を研究していたヘリゲルにとっても、的に当てようというはからいを捨て、的も自分もない自然と一体の境地、つまり無心になることは、どんなに努めてもできることではなかった、と告白されています。自己という主体が、標的である客体に向かって、力の入れ加減を工夫して矢を放つ、というのがふつうの射手の考え。射的を「目的合理的行為」(マックス・ウェーバー)のように考えて、的に当てるためのいろんな工夫をヘリゲルが試みたことは、西洋人としては当然の態度だと言わなければなりません。そのように合理的・意志的なヘリゲルの取り組みを、師である阿波研造は、ことごとく斥けたのです。

 東北帝大に勤めた期間中の相当の日々を、弓術の修業に充てたヘリゲルに、どうやら無心に弓を引くコツが身についたころ、しかし的を「狙う」という意識をどうしても消すことができないということを、師に率直に告白します。すると阿波は、夜九時ごろの弓道場に彼を招き入れ、的近くに一本の線香を灯した以外は、ほとんど真っ暗な闇の中で、二本の矢を放ちます。すると、先の一本は的の中心を射当て、次の一本は先の矢の筈(最後尾)を貫き裂いているのが確認された、と。それを見たヘリゲルは、「それ以来、私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた」(『日本の弓術』48頁)。

 その場でヘリゲルが目にしたのは、合理主義的思考ではありえない事実。いわば、宇宙と人間とが一体になるという出来事。そこに彼は、禅の目的が「無」であるということの証を見てとった、というように叙述されています。つまるところ、弓道は禅への入門である――これが、『弓と禅』のモチーフです。そういうヘリゲルの見立てには理由があり、禅で言われる「無」が、日本における〈道〉の根本に潜むことは疑えません。仏教的な「無」の最も顕著な表現が禅にあることは、確かだと考えられます。けれども私は、〈道〉と禅とが一義的に結びつくというようには考えません。なぜかと言えば、「無」は禅だけではなく、仏教・儒教・道教など東洋思想全体の特質であるとともに、そうした思想の表層ばかりでなく、民衆の日常的な体験の底に広がっている事実である、と考えられるからです。

 不世出の弓道家である阿波研造、その弟子となったオイゲン・ヘリゲル。二人は、いずれも弓道が禅の精神に一致することを自覚して、その道に打ち込みました。それは、〈道〉の目的が「無」であるということの、一つの範例として際立っています。〈道〉が、日本・東洋だけでなく、西洋に対しても開かれていることを物語る証言として、ヘリゲルの著書は重要な価値をもっています。とはいえ、日本における〈道〉の意義が、禅のみによって説明されるわけではありません。禅のように超俗的な宗教にかかわることのない人々も、それぞれの仕方で「無」にかかわって生きています。「無」は高級な哲学のお題目ではなく、ふつうの人々の暮らしになくてはならない、ある種の心構えとして活かされているのです。

〈道〉の目的は「無」である。この結論に関して、「無」は未来に達成されるべき目標といった意味での目的ではなく、われわれが常に、それといわば背中合わせに生きているという事実を、特に断っておかなければなりません。

生きられる「無」

直:〈道〉には目的がない、という猛志君の批判に対して、いや目的はある、それは「無」の境地だ、という答えを示しました。これに対して、お二人はどう受けとめられたかを聞かせてください。

猛:ウーン、そういう考え方があるのか……というのが、正直なところです。それ以上、どう言えばよいのか、まだ考えがまとまりません。

直:ならば、猛志君にはしばらく考えていただきましょう。中道さんはいかがですか。

中:『弓と禅』について、少し聞きかじったことのある私にとっては、割合スッと耳に入ってくるお話でした。

直:そうですか、あまり引っかかる点などはなかったと。そう受けとってもかまいませんか。

中:お訊ねしたい点が、いくつかあります。でも、哲学的なヴォキャブラリーのない私の口から、うまく言えるかどうか……

直:「哲学的」にしゃべってもらう必要はありません。どんな言い方でも結構ですから、言葉にしてくださるよう、お願いします。

中:では、思い切って。「無心」とか「無我」といった言葉は、宗教でもスポーツでも、修業的な要素のある場面でよく使われます。私が学んだ柔道の道場でも、よく使われた記憶があります。座禅の目的が「無」の境地であると言われることも、よく解ります。ところが、講義の最後のところで、先生は「無」が「ふつうの人々の心構え」として活かされている、というようにおっしゃいました。「無」が、日本人にとって特別の経験ではないかのような言い方をされたことに、驚いています。

直:座禅のような特別の修業でない、ふつうの人の暮らしに「無」が生きている、ということがどうして言えるのか、ですね。了解しました。

猛:僕もその点を質問したいと思います。講義によれば、ヘリゲルにとって、弓術は禅そのものの体験であったと。彼が研究したエックハルトは、神秘主義者として「無」を論じています。日本人である西田幾多郎の哲学も、「無の論理」だと言われています。「無」というのは、宗教や哲学の世界で取り上げられるテーマであっても、ふつうの人がそれを生きているなどという話は、聞いたことがありません。どうしてそう考えられるのか、理由を教えてください。

直:お二人の疑問は、同じところに集中していることが判りました。そういうことなら、お答えしないわけにはいきません。一つお断りしたいのは、「無」に関する思想が哲学・宗教のテーマになるのは、日常的な体験を超越した次元で理論を構成しているのではなく、ふつうに生きられている世界の意味を言葉で言い表すことによってです。「無の論理」が語られる手前に、「無」そのものの体験があるのです。この順序を取り違えないようにすることが、肝心です。

中:おっしゃるとおりかと思いますが、何か分かりやすい具体例を挙げていただけないでしょうか。

無と有の〈あいだ〉

直:最近観たニュース番組(『ニュースウォッチ91128日、NHK)の中で、元日に起きた能登半島地震の被災者が、現在どんな暮らしをしているか、が取り上げられていました。そこに登場したのは、輪島市で居酒屋を営んでいたという男性。店の入っていたビルが倒れ、一階にあった店は全壊。共に働いていた妻と娘を亡くし、現在は川崎市に引っ越して、「わじまんま」という元どおりの名前の居酒屋を営んでいるとのこと。放映の時点で、倒壊したビルを撤去して更地にする計画が具体化したものの、男性はそれに賛成する思いと、壊れたまま残してほしいという思いとが、相半ばして心が決まらない、ということを率直に語っていました。

中:伺って胸の痛むお話ですが、その男性の境遇に「無」が関係するということでしょうか。

直:そうです。ただし、その方が妻子や店などすべてを失くしたから、「無」であるなどということではありません。

中:なら、どういう意味で、「無」ということが言われるのでしょうか。

直:家族が生きていれば、何事もなくつづいたであろう日々の暮らし、それが突然の大地震とともに、何もかも奪い去られた。どうすれば、立ち直ることができるだろうか――こんな月並みな言い回しでは、とうてい当人の思いを表すことはできません。生き続けるためには、現実に生じたことどもを、いったんカッコに入れる以外にないはずです。

中:その方は、輪島ではない川崎に移って、同じ名前の居酒屋を開かれたとか。その決断は、どこから生まれたのでしょうか。

直:二つ意味があると思います。一つは、出来事そのものを考えずにいられる状況をつくるために、別の土地に移る必要があったこと。いわゆる「リセット」です。巨大な不幸に直面した人間は、打ちのめされないために、その出来事を忘れなければなりません。

中:でもその方は、同じ店名の居酒屋を新たに開かれたのでしょう。それでは、忘れることなどできないのではありませんか。

直:そう、それがもう一つの意味、決して忘れないということです。自分が家族と一緒に平和に暮らしていた日々を忘れないために、別の土地であえて同じ名前の居酒屋を開くことにしたのだと思います。

中:忘れることと忘れないこと。矛盾していますが、その両方の思いがあるというのは、分かるような気がします。店のあったビルの撤去に賛成する気持ちと反対する気持ちとが、半々であるということも、いまのご説明でうなずけます。

直:そうでしょう。その方は、被災者皆の思いを代弁していると考えられる。悲惨な出来事の記憶を消し去りたい思い、いや忘れてはならないという思い、二つの思いの葛藤です。まだ過去形では語れない東日本大震災についても、まったく同じことが言えると思います。

猛:それで思い出しました。『瞬間と刹那――二つのミュトロギー』(春秋社、2022年)の中に、「刹那滅」に関して、「常住」と「無常」とが表裏一体である、というような叙述があります。東日本大震災が、無常の例として挙げられていたので、印象に残っています。

直:いまの話題に即して言うなら、「無常」の自覚は「無」、「常住」の意識は「有」と言い換えることができます。そうすると、居酒屋のご主人は、まさしく無と有との〈あいだ〉に立っておられることになります。仏教の伝統に支配された日本人の精神は、災害時の対応などからして、無と有の〈あいだ〉にあるというのが、私の言いたいポイントです。

猛:無と有の〈あいだ〉ですか、それは日本に特有なあり方を意味するのでしょうか。

直:他の世界はともかく、少なくとも日本の社会に一般的な事実であると思います。地震や津波、台風など、数多の天災に襲われ続けてきた日本の風土に培われた心性が、そういうものであることは確かです。

猛:〈道〉には目的がないのでは、という僕の質問に対して、先生は〈道〉の目的が「無」であると言われました。しかし、いまの説明によると、「無」が目的になるのは、日本という風土だから、ということになるのではないでしょうか。技術のすべてに「無」が関係する、という話にはならないような気がします。

直:そのとおりです。〈道〉の普遍性が問題になるということを、君はズバリ指摘された。それをどう考えるかは、私の風土学のこれからの課題です。

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