〈出会い〉の人間学(3)――「日本」と「西洋」
「〈出会い〉の人間学」シリーズの三回目。第一回は、〈別れ〉と〈出会い〉が一つのセットである、という事実に向き合って考えました。第二回は、「出会う」ことが、一対一の対人関係であるという常識に反して、実際は三者関係である、という意表を突く話をしました。どちらについても、これまでのところ、「腑に落ちない」という声を聞きませんので、ひとまずご理解くださっているものと、勝手に受けとらせていただきます。〈出会い〉の問題を、〈あいだ〉や〈縁〉など、私の風土学のタームに関連づけてお話ししました。これらは、言うならば、「〈出会い〉の人間学」の基礎的考察篇。ここから先は、それをもとにした「応用的」考察を試みたいと考えます。ここで「応用」というのは、〈出会い〉の意味や本質を念頭に置きながら、現実の世界に繰り広げられている人間同士の関係性を具体的に取り上げ、そのありようについて検討するということです。
シリーズの開始に当たって、最初に「出会いなき世界」というテーマを考えたと申し上げました。その言葉つきからして、現代社会に本当の意味で〈出会い〉と呼べる出来事がない、もしくは稀少である、という思いを私が抱いていることは、お判りいただけるかと思います。ことは、個人対個人というパーソナルなレベルにとどまりません。国と国、民族と民族、といった集団同士の関係について、無理解や相互不信にもとづく衝突が、ひんぱんに繰り返されている現状は、「出会いなき世界」そのものではないか、というのが日頃私の受けている印象です。と申し上げると、「〈出会い〉の人間学」と題したこのシリーズで、「国家」や「民族」に関係する「社会問題」が論じられるのか、と不審に思われるかもしれません。
国家や民族のような社会集団も、人間の集まりであって、物体や機械の類ではありません。「人間」を単独の個人としてだけでなく、複数の人々が開く〈あいだ〉として考えるなら、個人よりも上位の社会集団同士に〈出会い〉が成立する、と考えても特に不思議はないはずです。そういう高次の主体として、今回取り上げてみたいのは、「日本」と「西洋」です。でも、「日本と西洋との出会い」という言い方は、そうすんなりと頭に入ってくるテーマではないように、私にも思われます。そういう自分自身を納得させるためにも、「日本と西洋との出会い」が、いったいどういうことを意味するのか、なぜそれを問題にしたいのか、を考えることから、手を着けることにします。
「出会う」主体とは?
「日本が西洋に出会う」といった言葉は、例えば歴史の記述などで見かけることのある言い回しで、そう異例な表現ではありません。「アメリカがロシアに要求を突きつける」といった式に、国家を主語にする擬人法は、当たり前の言い方です。実際には、指導者や政府の意向であっても、それを国民を含めた国家全体の意志とイコールに見なすという慣例が、一般に通用しています。そうした場合、「アメリカ」の実体が何かということは、当然議論のテーマになるでしょう。ですが、そういう問題は別にして、通常の国際報道では、政権担当者の意向が、そのまま「国家」の意志であるとする慣行に社会が従っていて、そのことに別段不都合がないとされているわけです。
いま挙げた例を参考に、国と国との〈出会い〉とは何か、ということを考えてみましょう。テーマに掲げた「日本と西洋との出会い」は、かならずしも国家間の関係という意味ではありません。日本の首相何某が某国を訪れ、その代表者何某と交渉して国交を結ぶ、といったような事柄ではないということは、すぐお判りいただけるでしょう。「日本が西洋に出会う」という言い方が成り立つとすれば、それは、国と国がそれぞれの代表をつうじて国交を結ぶというのとは、まったく違うあり方を表すと考えられます。それは、「日本」や「西洋」が、それぞれの国や地域の特色、抽象的な本質を表す、ということです。「日本」や「西洋」は、そのとき一種の抽象名詞として使用されています。そういう抽象的な本質を、かりに「アイデンティティ」と呼ぶなら、「日本と西洋の出会い」と呼ぶことができるのは、日本と西洋それぞれのアイデンティティが、ぶつかり合って生み出す結果である、と考えることができます。
さて、「アイデンティティ」という英語を借用したのはよいが、その中味が問題です。アイデンティティ(自己同一性、自分らしさ)とは、何でしょうか。また、それが個人ならまだしも、国や地域の全体にあてはめられるのは、どうしてでしょうか。人と人が出会って別れる。〈出会い〉と〈別れ〉は、一幕のドラマ。実際その経過を劇にしたものは、数え切れないほどあります。ところが、個人同士だけでなく、国や民族についても〈邂逅〉(思いがけない出会い)が成り立つ、というのが私の考えです。そう考えられる自分なりの理由を挙げてみます。〈邂逅〉の基本は、〈人と人との出会い〉、つまり人格的な関係です。しかし、それを集団的・社会的な事件として把えることができるし、そう把えることがふさわしい、と思われるケースがあります。具体的な事例を歴史に求めるなら、日本が鎖国を続けてきた江戸時代の終わり、幕末に起こった欧米諸国との一連の交渉を挙げることができるでしょう。
「日本」と「西洋」
誰もが知る歴史的事件――安政の黒船来航(実態は「来襲」ですが、いちおう大人しい表現にしておきます)。ペリー提督の率いるアメリカの軍艦(黒船)4隻が浦賀沖に停泊して、日本に開国と通商を迫った出来事です。当時の狂歌「太平の眠りをさます蒸気船(上喜撰)、たった四杯で夜も眠れず」(太田蜀山人)は、「蒸気船」黒船に、上等のお茶「上喜撰」の意味をかけて、西洋文明の想像を絶する威力に驚天動地であった、当時の世相を皮肉っています。それは、「日本」にとって、「西洋」との衝撃の〈出会い〉であった、と言っても差し支えないのではないでしょうか。このとき、列強の一角を占める大国アメリカに遭遇した日本に、何が起きたのでしょうか。浦賀は、江戸から目と鼻の先。そこに最新鋭の大砲を備えた軍艦が4隻も出現したということは、日本のドテッ腹に凶器を突きつけられたのも同然。開国に反対する攘夷派との確執を制した大老井伊直弼が、開国の断を下したこと自体に、何の不思議もありません。黒船が代表する西洋近代の文明力、すなわち軍事力は、日本のそれを子どもとすれば、大人の水準。とても叶わないという〈自己認識〉――相手と比べて、おのれがいかに小さく幼いかの実感――を生み出しました。このとき、「西洋」という他者と、まともに対峙した「日本」は、出会った相手と自己を比べることによって、自分自身の現実を否応なく認識したわけです。黒船に遭遇する以前に、そういう自己認識があったわけではありません。他者との出会いによって、はじめて自己の身のほどが判るし、自分とは異なる相手の実力も理解できる。これが、「出会う」ことの結果である「アイデンティティの確認」ということです。それは、私の風土学が主張するとおり、〈自己認識〉と〈他者認識〉の同時成立を意味します。
それ以後、ご存じのとおり、日本は破格の実力をもつ欧米列強との開国を余儀なくされ、次々に不平等な通商条約を結んでいきました。その経緯において、未発達の自己を認識すると同時に、そうした自己をどう変えてゆくか、という課題とそれに答える過程が生み出されます。「脱亜入欧」「富国強兵」その他のスローガンは、江戸幕府に代わった明治政府が、その課題を「日本」全体に行き渡らせるために、考案した掛け声です。そうした歴史の過程を細かく見ていくことは、ここでは省略します。
上に挙げたのは、国家や民族という単位で〈出会い〉が成立する、ということを納得していただくための参考事例です。幕末に「日本」に生じた衝撃の事件「黒船来航」が、日本という国に、そのアイデンティティを確認させた。それは同時に、このままではいけない、という危機意識を生じさせ、日本の近代化へと大きく踏み出すきっかけを与えた。つまるところ、「アイデンティティの確認」は、そのまま「アイデンティティの危機」にほかならない、そういう次第になるわけです。
少し前のところで、「日本」や「西洋」が、それぞれのもつ抽象的な本質を意味する「抽象名詞」であると書きました。とはいえ、抽象的な本質同士が「出会う」訳ではありません。〈出会い〉は、人と人のあいだに生じる出来事、人格同士の問題です。この点をもとに考えを進めてみます。黒船の来襲に遭って、「日本」が衝撃を受けた。この事実は、国家を擬人化する言い方ですが、「日本」の中身は個々の日本人であることに間違いありません。そういう意味で、「日本」は、日本人の総体を意味する集合名詞でもあります。抽象名詞にして集合名詞である「日本」。それを(多くの)「日本人」ではなく、国名の「日本」として言い表すことには、それなりのきちんとした理由があるのでなければなりません。
実際には大多数の日本人が、西洋文明に接して衝撃を受けた。そのことを「日本と西洋との出会い」という言葉で言い表すことできるのは、どうしてでしょうか。それが、日本人一人一人に起こる出来事であるとともに、各人の背後にある抽象的な「日本」が、これまた個々の西洋人とは異なる抽象的な「西洋」と出会って、衝撃を受けた、と言い換えることのできる事態が生じたからです。ことは「日本人」と「日本」、そのいずれかではなく、そのいずれにもかかわります。というのも、「日本」と「日本人」は、たがいに切り離すことができない仕方で、一つになっている面があるからです。この関係は、一筋縄ではいかない難しい問題です。今回は、このあたりに焦点を合わせて考えてみたいと思います。
〈個〉と〈全体〉
前のシリーズ「〈あいだ〉を考える」の中で、見出しに挙げたような「個と全体のあいだ」を問題にしたことがあります。それは、どういうことか。人は、何の某という名をもつ個人であると同時に、その属する社会(国家)という〈全体〉に属している。個と全体、そのいずれかではなく、両方にまたがる存在である。そういう理屈を説いた和辻哲郎『倫理学』を引き合いに出して、〈あいだに立つ〉とはどういうことかを説明しましたが、覚えていらっしゃるでしょうか。そのとき「難しい」と感じられた方には、今回の話で一つの具体例をお示しすることができます。それは、例えばこの私が、「木岡伸夫」という固有名をもつ「日本人」である、という事実が意味することとして、ご説明できる事柄です。
筆者は人類の一員、文字どおり、どこの誰とでも自由に付き合うことのできる「個人」です。しかし、それだけではなく、「日本人」であるということ、これもまた消すことのできない事実です。ふだんあまり意識することのない「日本人」を自覚する機会は、たとえば外国に赴いて、現地の人々と接触するときに生じます。そのとき私は、目の前にいる相手には日本語が通用しないこと、相手がしゃべる言葉に合わせて、日常使用することのない外国語で応じなければならない状況に、身を置く。自国語ではない外国語によってしか、コミュニケートできない〈他者〉、その存在と対面することによって、私は自分が「日本人」であり、相手が外国人であることを、身をもって知る。〈自己認識〉と〈他者認識〉がセットになるというのは、まさしくそういうことです。その事態を具体的に言いかえれば、私という存在が、「日本人」のレッテルがついた「木岡伸夫」になると同時に、出会った相手もまた、例えば誰それという名の「フランス人」になる、ということです。この関係はフィフティフィフティ、お互いにであって、一方的な関係ではありません。
18年前の2002年、パリでオギュスタン・ベルク氏に師事したさい、ベルク先生は著名な地理学者として、私の目の前に現われました――文字どおり、一個人として。それと同時に、氏の存在は、フランス人またフランス文化の代表者、という性格を帯びていました。私は彼を、一人の〈個〉であると同時に、フランス〈全体〉を代表する人物、という二重の意味を帯びた存在として受けとめました。相手の視点からすると、私の存在も、「木岡伸夫」という個人であるとともに、日本を代表する人間、そう考えられてもおかしくないでしょう――「代表」といっても、エライ人の意味ではありませんよ、誤解なきように。
とはいえ、個人が国家――日本やフランス――を「代表する」とは、またなんと大仰なもの言いではないか、という声が返ってくるかもしれません。これは、私の〈出会いの風土学〉からすると、〈人と人の出会い〉は、個人間の関係にとどまることなく、個人の背後にある〈全体と全体の出会い〉という意味をもつ、ということを申し上げているのです。それは、個人同士を通路として、国と国、文化と文化の〈出会い〉が起こる、ということにほかなりません。〈個〉のレベルにおける出会いと、〈全体〉のレベルにおける出会いとは、たがいに切り離すことのできない二重構造である。そういうことを申し上げるのは、じっさい今回のエッセイがはじめて。このことは、きわめて重要でありながら、これまでハッキリ主題化して論じたことがありません。解っていただけるかどうか、不安が残ります。
異文化理解
上に申し上げたようなことは、よく言われる「異文化理解」が、人と人とのパーソナルな接触から始まる、というふうに言い換えることによって、もっと理解されやすくなるでしょう。具体的に言うなら、私がアメリカ人スミスと友人関係を結ぶことで、こちらはスミス個人を知るとともに、彼が「代表」するアメリカ人やアメリカ文化について知る。同様に先方も、私とのつき合いをつうじて、日本人・日本文化について何ほどかを知る。こうした二重のあり方を、先ほどは〈個〉の出会いが〈全体〉の出会いでもあるような二重構造、と表現したわけです。これで、いちおう誤解を防ぐことができるでしょうか。
外国の文化や国民性を知るのは、そこに属する個人、人格的他者との出会いをつうじてである。これが、基本的な主張だとお考えください。「異文化理解」のカギは、それを代表する個別の外国人とのつき合いにある。この点については、たぶん多くの方が同意されるものと考えます。〈個〉の理解が、国や文化といった〈全体〉を理解する条件である。このことを、〈他者理解〉だけではなく、〈自己理解〉に結びつけて考えてみます。外国人誰それと出会う私は、その〈出会い〉によって、相手を理解すると同時に、その相手と出会った自分自身を理解する。この後の点は、どうして成り立つのでしょうか。これは、対面する両者が、たがいに相手を映す〈鏡〉になるという比喩によって、説明できる事柄です。そのとき、自分の鏡に相手の姿が映し出される。相手の鏡にもまた、自分の姿が映っており、私は両方の鏡を見比べることによって、相手の姿を見ると同時に、相手の鏡に映った自分の姿を見る。相手にも、私の許に起こったのと同じ事態が生じる。私が相手を知り、かつ自分を知るのと、まさに一対の仕方で、相手もまた私を知り、かつ相手自身を知る、という事態が起こるのです。ひとことで言えば、〈出会い〉とは、「合わせ鏡」に自他を映し出す行為である。このようにして〈自己理解〉と〈他者理解〉のセットが成立する、ということです。お判りいただけるでしょうか。
ここで、「日本と西洋との出会い」というトピックに戻ります。黒船来航を機に現実のものとなった、他者「西洋」との付き合い。ここで生じたに違いない〈自己理解〉と〈他者理解〉は、日本と西洋それぞれのもとで、大きな落差を伴ったであろうことが推察されます。日本にとっての西洋は、その時点では、逆立ちして追いつかない大人、強者であり、逆に西洋にとっての日本は、文明の入口に立ったばかりの小人、子どもと映ったかもしれません。欧米列強からすれば、幼児にも等しい日本。そのように相手の鏡に映る自己像を認知した日本――江戸幕府さらに明治政府――は、近隣アジア諸国のように欧米の植民地となる運命を回避すべく、必死の策として「文明開化」に乗り出した。先ほどの繰り返しですが、それが「日本」と「西洋」に生じた〈出会い〉の、日本側にとっての意味です。集合名詞「日本」の中身は、個々の日本人。近代化の初期に立ち会った個々の日本人は、自身が西洋の文物、人間と接する中から、個々の存在を超えた「西洋」そのものといかに向き直るかの模索を、余儀なくされました。当時の代表的知識人――例えば、幕末生まれの夏目漱石や森鴎外はもちろん、それよりも年下の西田幾多郎、和辻哲郎など――は、例外なく「西洋」とどう向き合って生きるかを、自己の課題として引き受けた人たちです。
そうした人々個々の努力のあとを辿ってみることには、大きな意義があります。しかし、いまは〈出会い〉の結果を、個別にではなく、全体としてどう把えるかに、ポイントを絞って考えることにします。「異文化理解」のカギは、何よりもまず、自分の鏡に映った他者像をきちんと眺め、正確に理解することから始まります。それに続いて、というより同時に、と言った方が正確ですが、相手の鏡に映し出された自己像を、相手の姿と比較しながら、自分をどう変えようとするかを模索します。この後の方の課題が、日本近代化を突き動かす原動力であったことは、間違いありません。西洋にあって日本にないものの数々、兵器や産業機械、衣食住の品、といった具体的な物品以前に、それを生産するための国家体制、政治・経済・社会の諸制度を早急に整備しなければなりません。これらを整備することと並行して、その土台となる「合理主義的思考」を導入する必要があります。なかでも「哲学」は、そうした「合理主義的思考」のツールとして、明治初期に欧米から直輸入された学問です。ハードウェアとしての文明の利便、ソフトウェアとしての学問思想、これら両輪が相まって、「脱亜入欧」をスローガンとする「文明開化」が、急速に進められていった経過は、歴史の常識として、どなたもご承知のことと思います。それに違いありませんが、こうした経緯が、「西洋」との出会いによる〈自己理解〉の結果である反面、具合の悪い他の面をもたらしたという事実に、われわれは目を向けなければなりません。他者の鏡による〈自己認識〉は、一面では、新しい自己をつくりだすための自己改造の努力をもたらす。しかしその努力は、反面において、〈出会い〉によって発見されたはずの自己を、丸ごと忘却ないし無視する、という所作を生み出さずにはおかなかった、ということです。
「自己忘却」の過程
いま述べた最後の点について、私は明治以後の日本近代化が、そのまま「自己忘却」の歴史であった、と断定したい気がします。それは、どういうことでしょうか。自他が、たがいに相手を映し出す鏡になり、それぞれが自分と相手についての正確な認識を得る、というのが対等な〈出会い〉の条件です。しかし、歴史を見渡して、二つの主体――この場合は、国と国、民族と民族――が、相手と自己の存在を五分五分、対等である、として認め合うような「理想的」な出会いは、いまだかつて成立した例がありません。異なる二者が相対するとき、そこにはかならず、優越者と劣等者、強者と弱者の対立が生まれます。力のある者が無い者を見下ろし、逆に力の弱い者は強い者を見上げ、これにこびへつらう。会社でも学校でも、上下・優劣の差のない人間関係には、そうめったにお目にかかれない。前々回のエッセイで、対等な〈出会い〉を体験したことがないという学生の話を取り上げましたが、そういう告白は珍しい部類に属するとしても、現実の人間関係の場面で多少の上下関係を意識するのは、つね日頃、誰でも経験していることです。この事実を、いま問題にしている「日本」と「西洋」の関係にあてはめると、どうなるでしょうか。近代化の発展を続ける西洋と、いまだ前近代にとどまる日本。そこにあるのは、先ほどの喩えでいうなら、大人と子どもの関係です。大人は子どもを相手に、善意によるしつけや教育を施し、子どもは大人を見習って、懸命についていこうとする。しかし、ここでそんな喩えがやや不適切に響くとすれば、それは、19世紀当時の帝国主義下の世界が、植民地開発の覇権を競う列強と、その支配下に置かれる非西欧の国々・地域との間に、〈主人-奴隷〉の関係を拡げていた歴史的事実によってです。
もうお判りでしょう、幕末の日本に迫られた選択肢は、西洋との間に〈主人-奴隷〉の関係を結ぶか、〈教師-生徒〉の関係を結ぶか、そのいずれかしかなかった、という事情が。当然のこととして、政治的責任主体であった徳川幕府は、後者、つまり開国の道を選びます。いかに不平等な内容であれ、通商条約を結んだからには、相手国とは表面上、対等独立の関係が成立します。いちおう独立国の体裁を保ったまま、それに見合うべき実力を具えた「近代国家」に変身するためには、お隣の中国(当時は、清)の轍を踏まないよう、ひたすら「脱亜入欧」を推し進める以外にありません。欧米にやがて追いつき、追い越すためには、さしあたって「教師」たる大人のふるまいを、忠実に模倣する「生徒」であることが求められる。それが、先ほど申し上げた「自己忘却」のやむをえない前提条件になるのです。
どういうことかと言えば、江戸時代までの日本は、主に中国を手本とする国家体制を敷き、鎖国しても別段困ることのないだけの国力を具えた、「大人」の国家でした。そういう「大人」が、西洋に対する「子ども」の地位に立って、近代化の教育を施されるということは、本来、屈辱以外の何ものでもないはずです。でも、それを避けて生き残る道はなかった。やがて近代国家に成長することによって、西洋を見返すか、それともより屈辱的な奴隷の地位――植民地のそれ――に甘んじるか、二者択一しかないとすれば、いずれを選ぶべきかは明らかでしょう。理性的に考えるなら、後者を選ぶ人はいない筈です。ですから、当時の責任主体である明治政府は、前者の道に国民を誘導し、大半の日本国民はその方針に従う。それは、「大人」であった自身の過去を忘却して、「子ども」に還ること、というより還ったふりをすること――子どもになりきることなど、できる話ではありませんから――です。
仮装された「自己忘却」が、永遠に続くということも考えにくい。明治維新から一世紀半を経過した現在まで、忘れてきた自己を回復しよう、過去の自分を取り戻そう、という動きが再々繰り返され、西洋化・近代化一辺倒の動きに、水を差してきました。そういう全体の流れを、どう評価すべきでしょうか。無責任な言い方ですが、私にも実はよくわかりません。というのは、西洋に倣って近代的な大人になろうとする努力が、もしもうまく稔った場合、近代化以前の日本を清算した形で、新しい日本が誕生する可能性があるからです。これは明治以降、欧化主義の系譜として、今日まで続く動きになっています。その動きが求めるのは、自己を「忘却する」ことよりも、新しい自己を「つくる」こと。とはいえ、その努力が成功したといえるような結果は、まだ生み出されていません。おそらく今後も、同じことだろうと私は考えます。なぜなら、ことあるごとに過去の自己が蘇ってきて、「近代化」の自己改造路線を邪魔するからです。忘却してきた自己が、自己改造のプロジェクトを妨げるのなら、いっそ過去の自分に「先祖返り」してはどうか。そういう声も、まれに聞かれないではありません。しかし、それはまったくナンセンスです。肉体改造にある程度成功した人が、以前の貧弱な肉体に戻ろうとしても、できないのと同じく、すでに大きく変容した自己を、以前のあり方に戻す手続きなど、考えられません。ここには、どうにもならないディレンマがあることを、私たちは認めなければなりません。
「出会いの主体は誰か」から「日本近代化の運命」へと、問題の焦点がズレ(発展し?)てきました。とはいえ、前後者とも、私の風土学の中心テーマです。かなり難しい話になりました。今回は、ここまでで打ち切りとし、引き続きいろいろ考えてみたいと思います。
最近、本シリーズのテーマ〈出会い〉に関係する思い出話を、公にしました。エッセイの「付録」として、ついでにお読みいただければ幸いです。
[付録]「人生を決めた出会い」(東大寺学園同窓会紙『鴟尾』第30号「会員の便り」に掲載、2020年10月15日発行)
出身校東大寺学園(中高一貫制)の同窓会紙『鴟尾』(「しび」とは、東大寺大仏殿の屋根の頂を飾る一対の金色の瓦、校章にもなっている学園のシンボル)に寄稿した拙文を転載します。高校卒業後、半世紀を経て、私を哲学の道に導いた恩師の思い出を、短文に綴りました。私の生き方を決定した〈出会い〉について、はじめて語った一文です(紙面では縦組みの本文を、横組みに直しています)。
人生を決めた〈出会い〉
木岡 伸夫
哲学との〈出会い〉
最初の東京五輪が開催された一九六四年、東大寺学園中学校第五期生として入学したその日、私を待っていたのは、生涯の師との〈出会い〉である。忘れもしない――「僕は今日から、君たちをジェントルマンとして接していきます」との一言。それが、クラス担任池内健次先生の口から発せられたとき、間違いなく何かが始まった。その言葉は、かつて先生が学んだ九州久留米の中学校で、担任の先生から新入生に向けて発せられたものと同じだとか。世代を超えて言葉の力が届く瞬間に、そのとき立ち会ったわけである。その後、教室で先生の指導を受けたのは、中二までの二年間。仔細あって学園を去られてから、今日までその幾十倍かの時間、私は師の影を踏み、一人の哲学者として後に続くことを念じて生きてきた。そう申し上げても、過言ではない。
小柄ながら眼光鋭く、発達した大脳を容れる頭の鉢の大きさ……とくれば、そう、「火星人みたいな人」というのが、初対面時の先生の印象だった。京大哲学科で、カントを研究されたという又聞きから、哲学者とはこういう人なのかと感じ入り、憧れを抱いた次第である。小学六年生で漱石の『吾輩は猫である』を読むなど、ませたガキであった私は、それまで自己流に綴っていた「読書ノート」を、母親に唆されて先生にお見せしたところ、「実に見事な読書ノートです。頑張ってぜひ続けてください」という丁寧なコメントが、添えられて戻ってきた。その言葉どおりに発奮すれば、早熟の天才とまでは行かずとも、秀才ぐらいにはなれたかもしれない。コツコツ勉強することが苦手で、努力に縁のない怠け者だった私が、先生の後を慕って同じ大学に、それも現役で合格できたのは、「奇蹟」に近かったと言わなければならない。
「ダメな奴」のために
学園退職後、天理図書館に勤務されるようになった池内先生のご自宅は、学園前。私の住む生駒から近く、休みの日によくお邪魔してお話を伺った。昼過ぎの二時頃から夕方、ときに厚かましく夕食までご馳走になったが、談論風発、話題が尽きることはなかった。数え切れないお話の中で、私の一生を決定づけた先生の一言がある。それを紹介したい――と言うとドラマのようで、面映ゆいが事実である。
こういうことだった。世の中には、ダメな奴、劣った者が存在する。そういう者のための哲学を、自分は考えたい、と。正確に再現できないが、およそそういう意味の発言をされた。そうか、そういう考え方があるのか、と劣等コンプレックスに悩む私に、他のどんな学問にもない哲学の崇高な目標が示された。一九六〇年代当時、先生が「ダメな奴」として想定されていたのは、たぶんベトナム戦争で、「優等生」アメリカと戦い続けるベトナム人の姿ではなかったかと思う。周知のとおり、ベトナム戦争は「劣等生」ベトナム側の勝利に終わった。だが、そこに潜む真実を語る「劣等生の哲学」は、今日まで存在したことがない。というのも、古代ギリシア以来の哲学は、西洋という覇者によって考案された「優等生の論理」に過ぎないからである。もちろんそんなことが、高校生だった自分の頭に浮かぶはずはない。ただ先生の提起された問題にどう答えるかが、自分の一生の課題になったことはたしかだ。私の「人生を決めた〈出会い〉」とは、そのときに先生からいただいたお言葉のことである。
〈出会いの哲学〉へ
本稿の目的は、草創期の東大寺学園において、池内健次先生との〈邂逅〉(思いがけない出会い)が、私にとって何を意味したかをお伝えすることにある。この〈邂逅〉が、その後の人生にどう活かされたかに若干ふれて、結ぶことにしたい。
私は、池内健次という人格を介して、哲学と出会った。それから半世紀を超えるこの学問との付き合いの中で、最後のテーマは〈出会い〉である。〈出会い〉とは、多分に語弊のある先刻来の言い方によるなら、「優等生」と「劣等生」が向き合うときにも、上下・優劣なしに、たがいを認め合うことである。そういう意味での対等同格の〈出会い〉は、歴史の中で成立したことがない。「他者といかに出会うか」――これは、二〇一二年に脳卒中で倒れたとき、私に残されていた最後のテーマである。その折、余命五年を意識した自分が、幸いにも『邂逅の論理』(春秋社、二〇一七年)を世に送り出すことができたいま、心残りは何もない。
先生は、本稿執筆時点(二月)で八九歳、『鴟尾』発行時には卒寿をお迎えのはず。後進の鏡として、健在であり続けてくださることを願ってやまない。(関西大学文学部名誉教授)
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