毎月21日更新 エッセイ

「出会い」の人間学(5)――出会わない出会い

「出会い」の人間学(5)――出会わない出会い

 

 シリーズ5回目。これでひと区切りにするつもりで、書くことを思案するうち、「出会わない出会い」というテーマが浮かんできました。いったい何のことか、首をかしげるようなケッタイなタイトルでしょう。今回書いてみようと思うのは、20年来住み続ける「わが町大正」のこと。特定の誰彼と出会う、という仕方ではなく、そこに長年住みつくうちに、肌身にしっくりなじんでしまった、町との付き合い。それを、もし〈出会い〉のうちに含めて語ることができるとするなら、それは特定の人との出会いとは違った、「出会わない出会い」と呼ぶことがふさわしいのではないか、と考えたのです。

 ふつう、〈出会い〉が用いられるのは、「太郎と花子の出会い」というように、個人と個人に起こる一対一の出来事です。しかし、そういう対人的な場面以外に、国家と国家、民族と民族、というような全体同士にも、〈出会い〉を適用することのできる場合がある、というコムズカシイ理屈を、先月のエッセイで並べました。それを反省するうちに、「人間が自分の風土(環境)に住む」という基本的な行為も、〈出会い〉の一種として考えられないだろうか、という着想に辿りつきました。もちろんその場合は、人格的な出会いとは違い、ドラマチックな驚きや衝撃は起こりません。ですが、そこには〈出会い〉にともなう「偶然」という要素が伴っています。通常の〈出会い〉につきものの、劇的性格はないとしても、「偶然の出来事」という意味で、「風土との出会い」を問題にすることができるのではないか。こういうコジツケをもとに、「出会わない出会い」という妙なテーマを考え出しました。という次第で、本シリーズ最後に捻り出した話に、しばらくお付き合いいただければ幸いです。

 

「住む」ことの偶然

 2000年に建てられたばかりの、大阪市大正区の公団住宅に移り住むようになって、20年余りが経過しました。大人になってから、同じ場所に、これほど長く住み続けたことはありません。いつのまにか、もうそんなに……というのが、正直な実感です。この地に引っ越してきた理由というのは、特にありません。それまで、市内南部の東住吉区に数年住んだのは、前任校(大阪府立大)から比較的近かったため。そこを出ようと考えたのは、居住環境がもう一つであることに加えて、転任先の関大まで相当時間がかかること。たまたま目にした新規公団住宅の入居者募集に惹かれて、応募したところ、籤に当たった。以上の成り行きは、まったくの偶然です。とは申せ、20年以上も住み続けているのは、何か特に気に入ったところが、この場所にあるからだろうか。そんな自問が湧いてくるのは、同じ場所に住み続けるからには、何か特別の理由があるはずだ、という気がするからです。

 実のところ、特別の理由は見当たりません。強いて考えるなら、ここを出ていきたいとか、引っ越さなければ、というような事情が生じなかったから、という消極的な理由しか思いつきません。一つの土地に住み続ける理由、いったん住みついた土地から離れる理由、この二つの理由を比較すると、後者が具体化しやすいのに比べて、前者の理由は見つかりにくい。ここであえて、「人がある場所に住む選択をしたとき、そこから離れさせる強い斥力が働かないかぎり、同じ場所に住み続けるものだ」といった〈仮説〉を立てて、考えてみるのも一興かもしれません。しかし、この仮説が正当化されるためには、いくつかの疑問に答える必要があると思われます。その第一は、何の「斥力」も働かないような場所が、この世に存在するか、という疑問です。まず、これから考えることにしましょう。

 

違和感の所在

 「引力」と「斥力」――物理学の用語を借りて表現するなら、「斥力」の代表は、その場所に身を置いた場合に感じられる「違和感」だと考えられます。別の言い方をするなら、場違いな感じ、いたたまれない空気、そういう言い方をすれば、たぶんお解りいただけるかと思います。市内でも地域的な特色の色濃い大正区に落ち着いてから、最初にやってきたのは、何かしら場違いな感じ、というものでした。

 体験した例を、一つ挙げます。引っ越してからまもなく、公団住宅からほど近い通りにある、「沖縄料理」をノボリに掲げた居酒屋。何気なく戸を開けた途端、中にいる客――全員男性――の視線が、こちらに突き刺さってくるのを感じました。それは、あたかも「異物」を見るかのような眼差しでした。一瞬で、ここは自分たち――連れがいました――の来るべき場所ではない、ということが判りました。とりわけ大正時代以後、この地区には、主として港湾労働に携わる肉体労働者が、沖縄から大勢移住してきて、「沖縄タウン」を形成した経緯は、よく知られています。そういう「ウチナンチュー」(沖縄の人)が、行きつけの店に集い、郷土料理で一杯やってくつろいでいるところに、見たことのない「ヤマトンチュー」(内地の日本人)が闖入してきたと言えば、その情景がご想像いただけるでしょう。といっても、むろん、店から追い出されたわけではありません。店主からそれなりに迎えられ、席について何か注文はしたものの、長居は無用とばかり、早々に出て行った記憶が残っています。

 何も、「沖縄タウン」に限った話ではない。この種のエピソードなら、たぶんどなたにも経験がおありでしょう。どんな土地であれ、先住者がいろいろな事情から形成する〈閉じた〉コミュニティが存在します。それを生み出すのは、国や郷里、あるいは信仰、職種などが同じであることから発生する、連帯の意識。それなくしては孤立が避けられない以上、仲間と集まることのできる場所が、都市にはどうしてもなければなりません。大阪のように、出身地も境遇も多種多様な大都会では、「沖縄タウン」「コリアン・タウン」のような同郷者のコミュニティが、言ってみればゴチャゴチャのカオスの中から、島のように浮き上がってくるのは、必然的な成り行きです。

 

傍観者の位置から

 さて、そんな町に住みついて20年。何が、そんなに長い定住生活を可能にしたのでしょうか。強く言えば、多少の「斥力」が働かないわけではない、ということは上のエピソードが物語るとおりです。それでも、町からハジキ出されるような思いをしたことはありません。私の状況は、コリアン・タウンである生野区に住む日本人と似ています。共通点は、在日コリアンと日本人、沖縄出身者と内地人、というように区別することが可能な、二種の人々の一方の側に属しつつも、他方の側と一体化しなくてもよい、〈距離〉がとれる暮らし方をしていることです。融合もしないが反発もせず、一定の〈距離〉をもって付き合う、という立ち位置が、それなりに身についてきます。となると、そういうライフスタイルを変えたいような気にならなくなる。これが、「特別の理由がない」のに、同じ土地に住み続けられるのはどうしてか、という最初の問いへの具体的な答えになるかもしれません。

 いま「ライフスタイル」と言いました。自己分析するなら、私の場合はこういうことになります。居を構えて、まず留意することは、周囲にどんな人々がどのような暮らしをしているのかを知ること。具体的には、その土地のコミュニティを理解するということです。都会であれ田舎であれ、それを知らなければ、やっていけません。自分は一匹狼だから、周りのことは気にかけない――そんな人はいないと思いますが、もしそんなことを考える人がいたとすれば、逆に「一匹狼」であるためには、何よりも周囲と折り合いをつけなければならない、と言いたいのです。そういう私自身は、やむをえない場合の集団帰属――出身校の同窓会というような――を除けば、いかなるコミュニティにも「属したい」と思ったことのない変人です。だからといって、「一匹狼」を自認したこともありません――よほど他人から疎外感を味わった場合は、別ですが。というのも、周囲のコミュニティやそれに属する人たちと、それなりの〈距離〉を保つ付き合い方ができるなら、しいて「孤立」を主張する必要もないからです。

 「他人と距離を置く付き合い」、そんな言い方をすると、それではあまりに寂しいではないか、仲間が傍にいてくれて、たがいに世話を焼いたり焼かれたり、というのが人づきあいの基本ではないか。そう諭してくれる人がいても、当然でしょう。ごもっとも、何の異論もありません。こちらの言いたいことを説明するために、反対のケースを想定してみます。他人と「距離を置かない付き合い」の代表は、家族関係。とりわけ肉身同士のつながりは、距離のなさに特徴があります。「以心伝心」と言えるコミュニケーションがあって、はじめて心が休まる。それも確かですが、その反面、一人になりたいときに干渉される煩わしさも、たいていの人がご存じのはずです。人とつながりたいときと、人から離れたいとき、両方あるのに、自分の意志では選べないことがままある、というのが家族関係の難しさではないでしょうか。そういうメンドウを避けるいちばん簡単な策が、家族をつくらないこと。というわけで、私は家族をつくらない……オヤオヤ、こんなことを言うつもりはなかったのに、何としたことか。

それはともかく、人間関係の煩わしさから極力遠ざかる工夫は、「他人から適度な距離を保つ」ということにつきます。最近うるさく言われる「ソーシャル・ディスタンス」は、人的接触による感染を避けるため。このスローガンを嫌悪する私自身を省みて、テメエがその実行者じゃないのか、と笑いたくなります。「沖縄タウン」大正が、自分にとって居心地がよかったのは、特に意識しなくても、人との適当な〈距離〉を保つことのできる環境だったからだ、という気がします。

 とはいえ、「わが町大正」を語るうえで、住民の相当数を占める沖縄出身の人たちを無視することはできません。〈出会い〉をテーマに掲げる私ですが、その人たちと出会ったと言えるような体験があるかと言えば、――先ほどの居酒屋の例は、別として――特にありません。それは、こちらが沖縄出身者に対する「傍観者」の位置にとどまっているからです。とはいえ、第三者としての傍観者であることによって、ハッキリ見えてくるこの町の真実があります。それが、今回のエッセイのヤマになりそうです。

 

故郷喪失とノスタルジー

 つい最近観た『新日本風土記』(NHK・BSプレミアム)「大阪ベイブルース」の回(再放送番組)――タイトルは、昔流行った上田正樹「悲しい色やね」のフレーズ。そこに、日頃よく見る周辺地区、「北恩加島」(きたおかじま)の風景が出てきました。沖縄出身で、65年前に移住したという79歳の女性は、琉球舞踊を教えながら、この地になじんで暮らしています。「ここ(北恩加島)は、沖縄よりも沖縄らしい所よ」と一言。「沖縄よりも沖縄らしい」という言葉は、理想の故郷をこの地に見出していることの証です。一つの例は、仲間の全員が、毎月いくばくかのお金を出し合って集めた金額を、その中で一番困窮している人に、優先的に割り当てる、という資金運用システム――いわゆる「頼母子(たのもし)講」ですが、番組では「摸合い」(もあい)と呼ばれていました。資金配分のローテーションをつうじて、だれにもいつか必ず番が回ってくるというのは、他人を助けることで自分も得をするという、コミュニティの存在を表しています。まさに「共助自助」そのものです。

 実際の沖縄がどんな所か、旅したことのない私にはよくわかりませんが、旅行経験者の話では、付き合いのない他人をもアットホームにもてなしてくれる、暖かい土地柄であるとのこと。たぶんそうでしょう。そういう社会であればこそ、住民同士が助け合う「摸合い」の仕組みが機能するわけです。遠く離れた大阪に移り住んだ人たちが、故郷のやり方をこの地でも取り入れること自体に、何の不思議もありません。とはいえ、大正は沖縄ではなく、大阪の一地区。そこに成立するコミュニティは、言ってみれば「異郷の中の故郷」というべきものです。「沖縄タウン」も「コリアン・タウン」も、本来の故郷とはかけ離れた異郷に成立するコミュニティという点で、同じ性格をもっています。

ここで、世界中にあるチャイナ・タウンやゲットー(ユダヤ人居住区)にもつうじる、こうしたコミュニティが、どういう意味をもっているのかを考えてみます。これらはすべて、元からの故郷に替わって誕生した、「第二の故郷」を意味しています。そこには、本来の故郷にあった文化や制度――先ほどの「摸合い」が一例――が持ち込まれ、故郷にそっくりの小宇宙が実現します。しかし、それは本来の故郷のコピーではなく、そこには「第二の故郷」にしかない、いくつかの特色があるように思われます。最大の特色は、ノスタルジー(懐かしさ)が、土地を色濃く覆っているということです。「第二の故郷」を生み出す力は、このノスタルジーそのものと考えられます。そして、さらに言うなら、ノスタルジーが生み出される源は、本来ある故郷を奪われること、〈故郷喪失〉にあります。事の成り行きを、逆に考えてみます。人々にとって、もし故郷が失われるような事情が生じなかったら、そこを出て行く必要はなく、とどまり続けるでしょう。見知らぬ土地にやって来て、そこに居を定め、「第二の故郷」をつくる必要はありません。近代化の過程において、貧困生活を余儀なくされた沖縄の人たちが、港湾労働の仕事を求めて、沖縄を出ていかなければならない事情があったからこそ、大正に沖縄タウンが形成されたのです(番組は、そうした歴史的背景にも、多少ふれていたかと記憶します)。

「ノスタルジー」が意味するのは、〈距離〉と〈喪失〉です。かつて「ふるさとは遠きにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの」(室生犀星『抒情小曲集』)と詠まれたように、根生いの土地に住みつづけるかぎり、「ふるさと」が意識されることはありません。何らかの事情で、生まれた土地から離れ、異郷に身を置きながら、そこを懐かしむことによって、「ふるさと」が成立します。その「ふるさと」を懐かしむ感情が、「ノスタルジー」と呼ばれるものです。そうしたノスタルジーが、最も強くなるのは、そこに帰りたいと思う「ふるさと」に、もはや帰れなくなったとき、あるいはその土地自体が地上から消え去ってしまったような場合です。それを私は、〈喪失〉という語で言い表します。最初の著書『風景の論理』(世界思想社、2007年)の中で、私は「原風景」が成立する条件として、〈距離〉と〈喪失〉を挙げました。「あまのはら ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」――百人一首で親しまれている阿倍仲麻呂の歌です。遣唐使の一員として留学した唐で、時の玄宗皇帝に認められて官吏に登用され、もはや帰国が叶わなくなった後の、望郷の念を詠んでいます。仲麻呂の場合のように、たとえ故郷が現存する場所であっても、もはやそこに戻ることができない状況にある場合、それは〈距離〉だけではなく〈喪失〉そのものである、ということがお解りいただけるでしょう。

「わが町大正」の話に戻ります。「わが町」という位置づけから入ったのは、沖縄タウンの当事者である多くの沖縄出身者と、私のような部外者が、けっして一体ではないにもかかわらず、それなりに混じり合って暮らしていける空気が、しっくり肌になじんでいるからです。それをもう少し突っ込んで言うとすれば、沖縄出身の「当事者」に対して、私の立ち位置は「傍観者」そのもの。以前のエッセイで書いたことを引き合いに出すなら、「傍観者」は、町で起こるいろんな〈出会い〉を、第三者として俯瞰する位置に立っています。その位置は、当事者同士の繰り広げる出来事を、冷ややかに見下ろす立場とは違います。そうではなく、周りの人たちが遠い故郷への懐かしさ、ノスタルジーを抱くことに、ある程度まで、他人事でない共感をよせることのできる〈距離〉というものです――他人から、ただ物理的に遠ざかるというだけの「ソーシャル・ディスタンス」とは、訳が違います。そういう〈距離〉によって、住みつく場所との〈出会いなき出会い〉が生まれる。そういうあり方こそが、「人間の生きる都市」本来のあり方である、と私は考えます。

 

「我が家にいる」とは?

 ここまで、自分としてわかり切ったつもりでいることを書いてきました。ところが最近、それがそんなに「わかり切った」話ではないのだ、ということに気づかされました。きっかけは、「我が家にいるとはどういうことか?」という副題の付いた『ノスタルジー』(バルバラ・カッサン著、馬場智一訳、花伝社、2020年)という本が、昨年末に送られてきたことです。著者はユダヤ系の人。本のオビには、「現代フランスを代表する女性哲学者の代表作」とありますが、ご縁のある訳者から本を贈られるまで、その存在を私は知りませんでした。ユダヤ人は、古代以来、自分の国家をもつことなく、世界中に散らばって生きてきた民族。そのユダヤ人が、20世紀のイスラエル建国以来、それまでの定住地から追い出されたアラブ人との間で、「パレスチナ紛争」を繰り広げてきたことは、ご承知のとおりです。

 ですが、この本は、そういうユダヤ人の視点から書かれた、「シオニズム」の弁明ではなく、上の問い――「我が家にいるとはどういうことか?」――を、ユダヤ人である自分自身の境遇に重ねて、追究しようとしている哲学書です。この本で取り上げている三人――オデュッセウス、アエネアス、アーレント――の最後は、著者と同じユダヤ人の女性哲学者、ハンナ・アーレント。「アーレント 祖国としての言語」の章には、「故郷」のあり方をもっぱら「原風景」からしか考えてこなかった私にとって、盲点であった「言語」の問題が展開されています。「故郷」や「ノスタルジー」と「言語」とは、どういう意味で結びつくのでしょうか。

 著者カッサンは、パリに生まれ育ち、パリで教育を受け、パリで教えています。しかし、パリが「我が家」ではないと言います。

 

我が家に帰る、とでも言えるかもしれない。でもそれは我が家ではない。たぶん私には〈我が家[chez-moi]〉がないからだ。あるいは、より正確に言えば、私が最も我が家に、我が家のような場所にいるという気持ちになるのは、私が我が家にいない時だからだ。では人はいったいどんな時に我が家にいると言えるのだろうか(同書「コルシカ的歓待について」7頁)。

 

 本の冒頭に、こんな問いが堤出されます。パリに住まいがありながら、それは「我が家」ではない。パリ以外に「我が家」と呼べる場所があるとすれば、それはコルシカ(フランス領、ナポレオンが流されたことで有名な島)だ、と。というのも、夫がこの土地で亡くなったとき、そこに墓地をもたない著者に、二人の住民が電話をかけてきて、自分たちの墓で受け入れる、と言ってくれたから――「これもまた、コルシカの歓待なのです」と。このエピソードは、少なくとも二つの大切なことを教えてくれます。「故郷」は、けっして生まれ育った土地をそのまま意味しない、ということが一点。もう一点は、たとえ見知らぬ土地であっても、そこに他者との〈あいだ〉が開かれたなら――わが風土学の言い方ですが――、そこが「我が家」と呼べる場所になりうる、ということ。

 ところが、この本に登場するアーレントは、このように土地に対する愛着に根ざした「故郷」の見方を、あまり重視しません。では、土地じゃなくて、いったい何が?「言語」だというのが、その答えです。何人であれ、どこに生まれ、どこで暮らしていようと、人は自分の拠り所となる一つの言語――母語――をもっています。私も含めて、エッセイをご覧のほとんどの方が、たぶん「日本語」を母語とされているでしょう。もちろん、英語や中国語、フランス語といった外国語につうじている方、それを駆使して世界中でコミュニケーションの出来る方も、少なくはないはず。けれども、著者カッサンが問題とする「我が家」や「ノスタルジー」といったものに結びつく言語は、ただ一つ、母語のみ。なぜなら、母語こそが、その人がその人であるという、アイデンティティの核となるからです。人間がただ一つの言語によって自己の存在を確保する、という厳粛な事実に比べれば、何ヵ国語が使えるかというような事柄は、取りに足りない些細な問題です。

 ハンナ・アーレントは、哲学史上に名を遺した数少ない女性哲学者。アメリカに亡命したユダヤ人である彼女の母語は、ドイツ語ですが、この人にとってのドイツ語は、彼女がその愛人であった大哲学者ハイデガーにとってのそれとは、月とスッポンほどに違います。後者にとって、ドイツ語は他の言語とは比べ物にならない、世界に冠たる哲学の言語そのものでした。「ギリシア語とおなじような、深く創造的な哲学的な特質をもっているのは、ただもう我々のドイツ語だけである」(102-3頁)という言い方で、民族と言語を混同しているハイデガーの「存在論的ナショナリズム」――余計な一言を付け加えると、ハイデガーとナチスの本質的関係に、知らぬふりをする日本人「哲学者」たちのナイーヴさには、ただ驚くほかありません。もちろん言語と民族の関係は、複雑で難しい問題です。ただ、ハッキリ言えるのは、アーレントのように故郷を喪失して生きなければならなかった人には、偶然生まれ育った国で身についた母語、ドイツ語だけが、「我が家」、「故郷」の意味をもったということです。

 

ふたたび「わが町大正」へ

 幼くして身についた言語が、その人のアイデンティティである、というきわめて重大な事実を、一冊の書物を引き合いに出してご説明しました。これまで私が追究してきた風土学の立場では、自分の生きる風土が、その人の人格にとって決定的に重要である、という主張を繰り返してきました。風土とは何か。「社会の空間と自然に対する関係」(オギュスタン・ベルク)です。そのとおりだとしても、人が自分の住まう土地や他人、自然とどんな関係を結ぶかは、言語によって根本的に規定されています。今回、このことを深く反省することができました。私にとっては、多難であった2020年の最後に得られた、大きな収穫です。そこで最後に、身近な言葉の問題に多少立ち入るかたちで、本年最後のエッセイを締めくくることにします。

 今回紹介したBS『新日本風土記』では、沖縄出身者から、自分たちの間で通じる言葉「ウチナーグチ」が、周囲の大阪の人たちから「外国語」のように見られる、という声がありました。そうなる理由は、二つ考えられます。一つは、沖縄の人々が、自分たちの「母語」である「ウチナーグチ」にこだわり、それを用いる人々のコミュニティ、すなわち〈我が家〉を守ろうとすること。二つ目は、そういう人たちを、大阪に定住する「ヤマトンチュー」が、「異物」視するということです。ちなみに、「異物として見る」というのは、言葉を変えれば、〈他者〉として承認する、ということです。もちろん、それは無条件の肯定を意味するわけではありません。大阪、広く日本全体で、沖縄に対する〈差別〉が存在する現実に、当然目を向ける必要があります。その上で、ここから〈他者との共生〉に向けた積極的なモデルを考えていくことも、不可能ではないと申し上げたい。肯定的に言うなら、それは「たがいの〈差異〉を認め合う社会」ということです。大阪が「エスニック・シティ」だとよく言われるのは、後者の考え方が、この地域に滲透している現実を示します。読者は、この点についてどう考えられるでしょうか。ご意見を伺ってみたい気がします。

 大正区に居住する私は、この地に生きるヤマトンチューの一員ですから、ウチナンチューとの距離を感じることが、しばしばあります。しかし、それだけではなく、むしろそれ以上に、〈他者〉を特に意識することなく、住人同士としてふつうに交わり、付き合っていると思っています。という次第で、最後に、差異と同一性の〈あいだを生きる〉という、お得意のフレーズを引いて、今回の話を締めくくらせていただきます。

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