毎月21日更新 エッセイ

近代を生きる(1)――最初の問い

 

近代を生きる(1)――最初の問い

 今月から、新しいシリーズに入ります。テーマの「近代を生きる」とは、どういうこと?――。何で、そんなテーマを選んだの?――。みなさんから、いろんな(?)が寄せられそうです。最初の回ですから、どうしてこのテーマを取り上げることにしたのか、その理由から入らないわけにはいきません。それが、なかなか難しい。というのも、このテーマが私にとって重く切実であることは確かなのですが、それをどんなふうに扱えばよいのか、どういう問題として考えればよいのか、といった肝心なポイントが、なかなかハッキリしないという事情があるからです。

 「近代」をどう考えるかという問題は、私にとって長年の宿題です。先月の「新着情報」で、『瞬間と刹那』という新著を手がけていると申し上げました。「瞬間」は、哲学を専攻した学生時代から、40年以上こだわり続けてきたテーマ。「近代」の方は、それほど長くはないけれども、大方30年近く付き合ってきた、自分にとっておなじみの問題。「瞬間」が、私のような変人におあつらえ向きのテーマであるのに対して、「近代」は、哲学や歴史の専門家は当然として、今日物事を深く考えようとする人なら、誰でも考えなければならない、最重要のテーマではないかと思われます。この二つとも、私の「終活」――キライな言葉ですが――のあいだに答えなければならない「宿題」です。そうお断りしたうえで、後の方の「近代」について、まずはモヤモヤとした問題の所在を、できるだけ見きわめる作業に取りかかります。

ひとつの自問から

 このテーマに挑戦しようと思ったきっかけは、昨年も暮れに近い頃、「木岡哲学対話の会」の忘年会――陰の声:「このご時勢に、そんなことやってええんかい!」「ゴメン」――の席で、二人の知人と交わした会話にあります。向かい合わせの席にいた一人が、かつて私の講義で聞いたことのある、「近代」と「近代化」の区別を話題に出したのです。それは、こういう区別です。日本は、幕末から明治にかけて、西洋近代を手本とする「近代化」に着手した。しかし、「近代」という時代は日本に存在しない、あるのはもっぱら「近代化」だけである、というのが、だいぶ以前からの私の主張でした。それを耳にしたとたん、お隣のもう一人――最近親しく付き合うようになった人物で、私の講義などはご存じでない方――が、「エーッ」という怪訝な顔をしました。無理もない。高校などの歴史の教科書では、西洋だけでなく、日本にも〈古代中世近代〉という三つの時代区分が、当然のこととして挙げられ、それを教えられる生徒は、日本にも「近代」があるということを、疑う機会はないからです。

 「近代」と「近代化」は、全然違うものだと私は考えます。世界史に詳しい人なら、西洋、というよりヨーロッパ世界で、ルネッサンスや宗教改革を皮切りに、新しい社会への動きが起こり、「科学革命」(17世紀)あるいはそれに続く「産業革命」(18世紀)とともに、それまでとはハッキリ区別される「近代」が成立した、というような知識をもたれているかと思います――「近代」をいつからと考えるかについては、諸説があり、ここではそれを問題にしません。ともかく、そういう歴史的な展開が生じたのは、全世界の一部を占める西欧のみであって、そこで開かれた新しい時代が「近代」である、ということは言うまでもありません。それに匹敵するような歴史の展開は、ヨーロッパ以外、世界のどの地域にも存在しなかった。しかし、西欧が科学技術の発達を軸とする近代に突入するのに遅れて、それ以外の地域にも、ヨーロッパに倣って新しい文明を取り入れようとする動きが広がって行きました。これが「近代化」である、と申し上げれば、歴史上の「近代」は西欧に固有であって、西欧以外の地域に起こったのは、「近代化」である。そういう区別ができるということに、ひとまず納得していただけるでしょう。

 ですから、日本にあるのは「近代化」であって「近代」ではない、という言い方については、その折いぶかしげであった知人も、たぶん以上の説明によって、了解してもらえるだろうと思います。問題は、こちらの側にあります。「近代」と「近代化」の区別については、ずっと以前から拙著の中で説明しており、その区別にいまさら疑問があるという訳ではありません。とりわけ日本の「近代化」は、風土学の根幹にかかわる問題。かつて日文研で、2004年度の共同研究として、「日本の近代化過程における身体と技術の思想」をテーマに取り組みました。その成果は、『技術と身体――日本「近代化」の思想』(ミネルヴァ書房、2009年)という編著として、世に出ています。「近代」および「近代化」に関しては、それに続く著書『風土の論理』(ミネルヴァ書房、2011年)や、さらに『邂逅の論理』(春秋社、2017年)の中でも取り上げて、いろいろ論じています。

忘年会以後に湧いてきたのは、もし日本に「近代」がないとしたら、「近代化」以後の日本、現在の日本は、いったいいかなる時代なのか、という疑問です。「今の日本は、はたして近代なのか」――これまで私は、この疑問について、正面からまともに考えたことがありません。「ポストモダン」(近代以後)という言葉が、20世紀の後半から盛んに飛び交うようになり、西洋の流行なら何にでも飛びつく日本の思想界でも、これに追随する議論が繰り拡げられました。結構ですが、先決問題を忘れてはいけない。西洋世界の中で、「ポストモダン」が論じられるのは、まちがいなく「近代」を経験しているからです。西洋と異なる日本が、「近代にある」という前提が成立しなければ、「近代以後」を問題にすることはできません。そこで今回、「現在の日本は近代にあるのか」という問題に向き合って、何とか答えを出したいと思います。

仮想問答

 日本が幕末以後、「近代化」に乗り出したという事実を否定する人は、まずいないと思われます。「近代化」を否定するのは、「文明開化」「脱亜入欧」「富国強兵」といった四字熟語で言い表される歴史的事実が、存在しなかったと言い張ることであって、そんなことは不可能です。だから、「近代化」は確実にあった。この事実の確認から、話を進めます。「近代化」は、近代でない状態(前近代)を近代にすること、近代を実現しようとする企てを意味します。そこで問題になるのは、「近代化」をつうじて、日本に近代が実現したのかどうか、ということです。うかつ千万ながら、私はこれまでこの疑問とまともに向き合って、答えを引き出したことがありません。そこで、自分に問いかけましょう――「日本に近代は実現したのか」あるいは、「現在の日本は近代なのか」と。

 いかがでしょう。みなさんは、どうお答えになりますか。「木岡哲学対話の会」の参加者、「木岡哲学塾」の面々に、答えを聞かせてもらいたい気がします。これは予想ですから、外れるかもしれませんが、いろんな答えが返ってきそうに思われます。以下、仮想問答の例。

 回答者甲:「日本は近代ではありません」――私:「どうしてですか」――甲:「だって、今の日本には、近代以前の風習がいっぱい残っているじゃありませんか」――私:「どんな風習ですか」――甲:「だんじり祭りのように、山車を押し立てて練り歩き、それをブッ壊したり、死者を出したりするのは、前近代の野蛮な風習です」――私:「祭りで死者が出るのは、岸和田だけのことではなく、世界中至る所であります。かりに「野蛮」な風習であるとしても、それはあらゆる時代の祭りにつきまとう性格であって、近代社会にはそれがない、というものではありません」。

 回答者乙:「日本は近代社会です」――私:「どうして、そう言えるのですか」――乙:「テクノロジーの分野で、日本は先進諸国にヒケをとりません。自動車の生産高で、トヨタは世界一。これで近代ではないという方が、どうかしています」――私:「ハイテク化が進んでいる社会で、社会格差が開いているのは、どうしてでしょう。いじめによる自殺やうつ病者の数は、昔よりも格段に増えています。それが近代の証なのでしょうか」――乙:「そうです。自殺者が増えるということも、近代社会の特徴。デュルケーム『自殺論』が示すように、社会学の分析では、近代社会の特質によって自殺者が増大する、といった事実も指摘されています。前近代に比べて、人間がより不幸になるというのが、近代社会の特徴です」――私:「……」。

 いかがでしょう。「近代」に対しては、それが表す肯定的な面と否定的な面をどう見るかによって、評価がガラッと変わってきます。甲と乙を比べてみると、甲は、前近代に特徴的な「野蛮」な風習が、日本に残っているという理由を挙げて、日本が近代社会ではない、と主張しています。それに対して、「私」の方は、野蛮な風習なら、近代社会にだってありますよ、という言い方で、マゼッカエしています。甲は、前近代の野蛮さを克服するのが近代だ、という認識に立って、そういう意味での近代を肯定的にとらえようとしています――それを裏返すと、遅れた日本社会はまだまだ近代ではない、という見方になるわけです。

一方の乙は、相当なインテリ。で、その相手をする「私」は、苦労させられます。こちらは、近代の特徴を「産業化」に認める立場で、機械的な技術の進歩やハイテク化が、先進国の中でも有数の日本社会を、迷うことなく「近代」にあると見ています。その意見に対して、「私」は、進歩した社会なら当然解消されてしかるべき格差が、広がっている。それによって自殺者が増えている、という現状を挙げ、そういう社会を「近代」とみなしてよいのか、とツッコミを入れます。ところが、敵もさるもの。産業化を主軸とする近代社会で、精神病者や自殺者が増えることは、統計的事実である。むしろ、そうした負の側面が生じることこそ、日本が近代にあるということの証拠なのだ、と強力に反撃するのです。

 さあ、大変なことになりました。おそらく、同じ問いに対する答えは、十人十色だろうと思います。「私なら……」「俺なら……」というご意見がおありの方は、どうかコメントをお寄せください。

「近代」とは何か?

 「日本は近代社会ですか」という問いに、どう答えるかは、「近代」をどうとらえるかによって変わってきます。この問いに「イエス」と答えるか、「ノー」と答えるかは、その人の「近代」観にかかってくる。このことは、間違いありません。こういう場合に、手軽なやり方としては、辞書(事典)の類を引いてみることがあります。「近代」は、英語ではmodern age, modernityと表現されます。ⅿodernとは、「新しい」ということ。これが意味の基本です。

 近代(=新)modernとは〈伝統的なもの(=前近代)〉との対比によって際立たされた、同時代の孕む〈新しさ〉の総称で、もともと旧(=古代)ancientと対になる言葉であった(『岩波 哲学・思想事典』岩波書店、1998年、368頁。筆者は、社会学者厚東洋輔)。

「近代」(modern)は、それ以前の旧い時代(ancient)に対比され、「新しい」何かが生まれたことで、そう呼ばれることになった時代です。世の中を変える科学技術によって、人々は時代の「新しさ」を実感する。よくなった、便利になった、といった言葉が飛び交うことは、そういう新しさをみんなが受け容れ、喜んでいることの表現です。どんな社会であっても、長い時間をかけて変化するし、その中で「改善」や「進歩」が生じるものです。しかし、そういう変化が急激で、それ以前とは劇的に異なる変化であった場合に、「新しい」時代がつよく意識されます。日本の場合、明治の「文明開化」は、昨日までとは一変する光景を現出しました。洋館、洋装、街灯、鉄道……それらは、衝撃的な「新しさ」であった。「新しさ」を「近代」の指標とするかぎり、日本の「近代化」は、「近代」そのものの到来を告げている、ということに疑いの余地はありません。

 そうは言ったものの、明治「維新」が、そのまま「近代」日本の幕開けである、と言い切ってよいかどうかに、疑問が残ります。この時期を特徴づける四字熟語「脱亜入欧」が物語るとおり、たとえ表面的に欧化したとしても、日本の根本は何も変わらない、あるいは変わるべきではない、として「新しさ」を否定しようとする動きが、社会の底にあるからです。じっさい「和魂洋才」のように、「和」を「洋」から区別し、古来の日本精神に則って西洋の文物を取り入れていこう、といったスローガンを見ると、「近代」の新しさに対抗する旧いものが、依然として存在を主張していることが明らかです。伝統精神を重視する向きからは、近代に価値はないという「近代否定論」が、よく聞かれます。明治以後も、日本は近代ではない、いや古代のままである――それをよしとするかどうかは、意見が分かれるところですが――という極論さえ、ありえない話ではありません。

 「近代」が、たとえば「西暦1500年から2000年の間」というような、客観的な時間を意味する言葉だったなら、こんなややこしい問題を考える必要はありません。主観的にどうとでもとれる「新しさ」以外に、「近代」を測る客観的な物差しがないところに、問題の難しさがあります。その「新しさ」に関しても、モード・ファッションのように、見てとりやすい外的な新しさもあれば、「近代精神」のように、表面からは窺いにくい内面的な新しさもあります。しかも、内面と外面は深く結びついている、ということになれば、二つを切り離して別々に扱う議論はナンセンス。では、どう考えたらよいでしょうか。

 あゝ、シンド……

「新しい」ということ

 作戦変更。最初に立てた「日本は近代社会か」という問いや、「歴史上、いつからが近代なのか」という問いを、いったん棚上げにします。これらの問いについては、あゝも言えればこうも言える。「百家争鳴」が収まりそうにない、と考えられるからです。そこで、「近代」を規定する唯一の指標「新しさ」について、それが何を意味するかを考えることにします。恐縮ながら、ここでいったんテーマを歴史から哲学の方に移す、とお考えください。

 「日の下に新しきものなし」昔からそんな言い方があります――出典は、『旧約聖書』だとか。この世に本当に「新しい」ものなんてない、という意味だとしたら、その主旨はどこにあるのでしょうか。聖書の教えなら、地上の存在はすべて被造物である。神意によって創られたものに、「新しさ」などあるわけはないとするのが、ふつうの解釈かもしれません。このエッセイでは、少しヒネった考え方をしてみます。技術的な領域で見れば、昨日まで存在しなかったモノを、今日はじめて目にする、というような機会は、いくらでもある。1960年代、私が子どもだった頃、テレビ、電気釜、冷蔵庫、……次々に登場してくる「新製品」は、驚きと喜びをもって迎えられました。そんな目で見てわかる「新しさ」を否定するとしたら、バカげたことで、話になりません。でも、上の格言は、そんなうわべの「新しさ」について言われることではないように思われます。聖書の教えを自己流に解釈するなら、人とモノの関係において、新しいモノに飛びつく人間の「欲」は、古来、少しも変わらずに続いています。21世紀になって、ターゲットがAI搭載の商品に替わったとしても、欲望の根本は何も変わらない。そういう面からみれば、人とモノとのかかわりに、何ら「新しさ」がない、ということもできるわけです。チト勝手な解釈かな?

 別に、古来の格言に従いたいという思いが、こちらにあるというわけではありません。それどころか、上に書いたことを、すぐにひっくり返したいという逆の思いが、今の私にはあります。ことは「欲望」にかかわります。昨日観たテレビ番組(2.7夜放映の「NHKスペシャル・水食料のクライシス」)では、コロナ禍とも連動する危機として、人類の滅亡につながる「食料危機」が取り上げられていました。日本で飽食の果てに廃棄される残飯が、世界の飢餓人口8億人中、2億人分の空腹を充たせるだけの量に達しているのに、それは人間の口には回らず、豚のエサ用に加工されている、というエゲツナイ報告です――ご覧になった方の感想を伺いたいものです。「欲望の論理」が「近代」を生み出した、というのが私の持論。飽食の現状は、こと欲望に関して、半世紀前にはなかったようなステージに到達している、と感じられます。欲望は現在、過去の社会になかった「新しい」水準にある。こういう例を挙げることで、上の格言に異を唱えたい気がするのです。

 ここから、かなりメンドクサイ理屈をこねることを、お許しください。以上の話から、「新しさ」に関して、二つ言えることがあります。一つは、ふつうに私たちが「新しい」と受けとめる事柄の多くが、実は昔から続いてきた物事であって、実体としては、何も新しいことではない。これが、「日の下に新しきものなし」のふつうの理解だと思います。何かが「新しい」と感じるのは、実はそれが過去からずっと続いていることを、現在の人々が忘れているということです。言い換えると、「忘れていた」ことに気づいた途端、最初「新しい」と見えたものが、実はそうではなかったことになる、というわけです。「温故知新」(ふるきをたずねてあたらしきをしる)という中国の格言(『論語』)は、「古いと見えるものの中に、新しさが見出される」という教えで、逆の視点から、ほとんど同じことを説いていると思われます。

 もう一つは、テレビ番組の例のように、文字どおり「未曾有」(いまだかつてなかった)の危機が到来した、と言えるような事態について、言わなければならない「新しさ」です。日本にハイテク社会が到来した。これは、いちおう誰でも認める客観的事実であって、予想や推測というものではありません。しかし、5Gや6Gといった途方もない情報処理能力の実現、人間の思考を不要にする可能性のあるAIの登場などを見れば、どんな予想も裏切られるような事態が、急速に進行しています。予測も出来ず、当然ながら阻止することもできないような「新しさ」を前に、茫然と立ちつくす以外にない、というのが世界の現状です。

 第二の「新しさ」に対して、私のような古い人間とはまったく異なる姿勢をとるのは、科学技術の現場に立つ人たちです。一昨年9月、デンソーのセッションCreation GIG Ⅱでご一緒した、「人工生命」(AL)研究の第一人者、池上高志先生(東大教授)も、そのお一人です(対論の内容に関心のある方は、HPの動画にFacebookから入って、ご覧ください)。その折の議論の内容は、どうでもよい。ポイントは、先生が私に向って「技術的な可能性に対して開かれていない」というふうにおっしゃった、そのメッセージが含む意味です。何が起こるか分からない未来の「新しさ」に開かれている科学者と、そうではない私。ここに、「新しさ」をめぐる、ハッキリした姿勢の違いがある。そのことを理解していただきたいと考え、あえて引き合いに出させていただきました。

暫定的な出発点

 「近代を生きる」という本シリーズを始めるにあたり、「近代とは何か」が最初に問題になること、つづいて近代の本質が「新しさ」であることから、「新しさ」の意味を考えてきました。ここまで、その答えが出たというわけではないものの、「新しさ」に二つの意味があることを確かめました。その一つは、古くからあったものの再発見、とでも言えるような「新しさ」、厳密な意味では「新しい」ものなどない、という場合の「新しさ」です。もう一つは、現在のテクノロジーのように、この先どうなるか分からない、未知の世界に突き進む場合の「新しさ」です。これからシリーズを展開するに当たって、二つの異なる意味の「新しさ」が「近代」にある、という〈仮説〉を出発点にしたいと考えます。

 この仮説に立つ場合、最初に掲げた問い――「現在の日本は、近代社会なのか」――に対して、これも暫定的ながら、「イエス」と答える道が敷かれると考えられます。とはいえ、この場合の「近代」は、西洋近代のような、世界の歴史上唯一の時代と同じものではありません。それは、西洋近代に倣おうとする「近代化」によって、日本に実現した独自の「近代」です(それを西洋近代から区別する意味で、「近代」とカッコつきで表すことにします)。二つの意味の「新しさ」に関して言えば、最初の方はともかくとして、後の方の「新しさ」については、明治以後の「近代化」が、まさしくそれを追い求める運動であった、という事実から明らかです。これもすでに申しあげたように、「近代化」と「近代」をどう評価するかは、人によって異なる問題です。日本社会が「近代」にある、だからよしとするのか、だからダメだとするのかは、論じる人の考え次第で、どちらに転ぶことも可能です。いわゆる「近代主義者」は、近代を肯定的にとらえ、近代以前の悪しき思想や慣習を一掃することによって、「未完のプロジェクト」(ハーバーマス)を仕上げよう、と主張します。逆に、「反近代主義者」は、「新しさ」を拒絶して、昔から変わらない価値を守ろうと訴えます。両者のあいだで、容易に決着のつかない言い争いが、今日まで延々と続いてきました。私に言わせれば、双方とも、近代が表す「新しさ」に、上の二つの意味があることに注意を払わないまま、不毛な論争に終始してきたように感じられます。どちらも、自分のこだわる近代の「新しさ」が、どちらの意味の「新しさ」なのかを自覚していない、ということです。

 それじゃ、お前はどうなんだ、と訊かれるでしょうか?誤解されない答え方をするのは、かなり難しい。さしあたって、近代と反近代の〈あいだ〉に立つ、とお答えしておきましょう。そのココロは、近代か反近代か、の二者択一には加担しないということ。対立する二つの、どちらか一方ではない、というのが〈あいだを開く〉行き方です。近代主義でも反近代主義でもないことによって、近代主義でも反近代主義でもある、というのが、この問題に関する私の〈中間〉的立ち位置である、とこのさい申し上げておきます。ヌエみたいな奴やなあ!――そう、そのとおり。〈あいだ〉にこだわることが、白か黒かのどちらかに片づけたい「論理」至上主義者――その大半は、「哲学者」という看板をぶら下げた連中――と異なる、私独自のスタンスであることを、これまで三つのシリーズに付き合ってくださった方なら、理解してくださることと信じます。そういう中間のスタンスをとりながら、私たちの生き方を考えることが、今年のテーマになります。よろしくお願いします。

コメント

    • 奥倉 努
    • 2021年 3月 18日
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    そんなことは百も承知だ!と言われるでしょうが、、西欧近代というのは、神(いわゆるGOD)の存在感が薄くなっていく過程で生じたものだと考えます。
    傍証を挙げてみます。西洋絵画で神やキリストが描かれている間は近代ではなく、市井の人々が描かれるようになるのは、近代だと言える気がしています。
    近代というものは、キリスト教の影響が強い場所でしかなし得なかった事象ではないでしょうか。
    アバウトな問題提起で申し訳ありません。

    • 木岡伸夫
    • 2021年 3月 19日
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     近代とキリスト教との関係如何、という本質的なご質問に感謝します。古代から中世への展開は、キリスト教が教会を拠点に勢力を拡げ、西欧世界を支配していく過程でした。中世に続く近代の成立にとって、二つの運動が決定的な契機になります。①非西欧つまりキリスト教圏の外部への進出、②西欧内部での信仰の変化、すなわち「世俗化」、この二つです。いずれも、キリスト教に関係しています。
    前者①について――世界史上に有名な大航海時代、地理的発見の時代以後、ヨーロッパ諸国による新大陸・新世界――もちろん西欧から見てであって、当地の人間にとってはそうでない――への進出、侵略および植民地化が続きました。植民地化がキリスト教の布教と一体で行われ、非西欧を西欧の支配下に置くことによって、近代が成立した事実は疑えません。後者②は、①を推進した動力と連動して、ヨーロッパ世界を覆っていった内部的変化です。ルネサンス以後、人間主体の文化(とりわけ科学)が発展することで、キリスト信仰に集中する宗教的な生き方が、第二義的なものとなり、やがて信仰の内実が腐食していく。この方向に非宗教化・世俗化が進行していく過程を、近代の特色として挙げることができます。「神の存在感が薄くなっていく」とおっしゃるとおりの事態になるわけです。①と②は別々ではなく、一体化して西欧に近代を生み出しました。
    とてもこれだけの説明では尽くせませんが、とりあえず、キリスト教の運命と近代の成立を切り離して扱うことはできない、という事実だけお答えしておきます。

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