毎月21日更新 エッセイ

近代を生きる(3)――近代と私

近代を生きる(3――近代と私

 前回は、一冊の本との出会いに刺激を受けて、いわば感想文のような形で、資本主義の近代をめぐる思いを語りました。他人の書いた本をダシにして、自己を語るというのは、「批評」「評論」の常套手段。それに乗じて、自身の近代観を少しばかり示すことができました。その後、『人新世の「資本論」』に続いて、取り上げてみたいと思う本が現れました。これも人から薦められた、竹内好『日本とアジア』(ちくま学芸文庫、1993年)がそれで、その充実した評論をエッセイに利用する、というアイディアが浮かびました。しかし、チョット待てよ、という内心の囁きが聞こえてきます。というのも、1966年刊(初版は、『竹内好評論集』第三巻、筑摩書房)の著者竹内好(191077)は、その当時――60年安保」の余燼がくすぶっていた頃――として、現代世界の問題を幅広く論じているからです。そこには、同時代の人間と社会を、自分自身の生き方に重ね合わせて考え抜こうとする態度が、顕著に表れています。自分とは違う人々との〈出会い〉をめぐる証言も、数多く盛り込まれています。この点が、まだ若い『人新世の「資本論」』の著者とは、大きく違うところです。

 で、私が考えついたのは、自分自身がその中を生きてきた時代、つまり現代を、「同時代史」として語る試みに手を着けてみよう、ということです。そういう次第で、「近代を生きる」シリーズの3回目は、「近代と私」がテーマ。これは、いったん表題に掲げたものの、思わず腰が引けてしまうほど、難しく手ごわいテーマです。

近代と現代

 なぜ、このテーマが難しいのか。それを言う前に、ここまでほぼ同じ意味に用いている、「近代」「現代」「同時代」の区別について説明します。シリーズ第一回「近代の意味」で説明したとおり、「近代」(modern)は「古代」(ancient)と対になる言い方で、「古い」時代に対する「新しい」時代を意味します。「近代」がいつから始まるのかは、何を「新しさ」のしるしと見るかによって、変わってきます。16世紀、17世紀、18世紀、とさまざまに「近代」的な出来事が起こりますが、その出来事――例えば、ルネッサンス――を画期として始まるとされる「近代」は、主観的な区分という性格がつきまとうものの、歴史上の客観的な時代を表しています。

 それに対して、私たちが生きているのは「現代」である、という事実は、誰がどう言おうと動きません。なぜなら、私たちの誰もが当事者として生きている、その時代を「現代」と呼ぶ慣わしが、定着しているからです。ちなみに、手持ちの電子辞書(デジタル大辞泉)で「現代」を引いてみると、上の意味のほかに、「日本史では第二次世界大戦後の時代、世界史では第一次大戦後の時代」という説明が出ています。へぇー、そうか。ちょっと意外でした。この説明では、「近代」と「現代」を、異なる時代であるかのように、客観的に区別しているからです。いま申し上げた私の理解とは、一致しません。英語では、どちらも「モダン」と言い表されるとおり、「近代」と「現代」は重なります。とはいうものの、現代は「ポストモダン」(近代以後)だ、という言い方が流通しているように、「近代」と「現代」を区別する考え方も有力です――2021年という「現代」は、もはや「近代」ではないとして。辞書では、「歴史上の区分」として両者を区別する考えを示していますが、私は、ここでは「近代」を客観的な時代区分として認め、「現代」を人々が主体的にかかわって生きている当の時代、というふうに区別したいと考えます。後者の意味に用いるなら、江戸時代の人々にとっては、自分が生きているただ今の世が「現代」です。もっとも、そういう意味の「現代」の代わりに、「同時代」(コンテンポラリー)という言い方も、よく用いられます。はじめに「同時代史」と称したのは、「第二次大戦後の時代」といった時代を客観的に取り上げるよりも、おのれが生きてきた時代を、〈自分自身の歴史〉としてとらえ返したい、ということです。その狙いは、自分と時代や社会とのかかわりを反省すること、それをつうじて「近代を生きる」ことの意味を、内から明らかにすることです。とはいうものの、はたしてうまく行くでしょうか。これまで、一度もチャレンジしたことのないテーマです。失敗しても、大目に見てくださるでしょうか、お願いします。

安保の時代

 私は1951(昭和26)年の生まれ、もうしばらくすると古希を迎えます。若い読者のためにお断りするなら、1951年は「サンフランシスコ講和条約」が締結調印され、第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗戦国として、戦勝国アメリカの占領下にあった日本が、ようやく独立国家としての地位を国際社会から認められた、記念すべき年に当たります。もう一点、この年は、以下で取り上げる「日米安全保障条約」(旧)締結の年でもあります。その私が、少年時代を過ごしたのは、1960年代。関大で担当した「環境の倫理」や「学びの扉」などの初年次向け科目では、その60年代を特別な意味をもつ「安保の時代」と呼んで、今と何がどう違うのかを、学生に説明していました。現在、20歳前後の若者が、時代や社会に対して抱くイメージは、どういうものでしょうか。半世紀前に青年であった私の場合とは、およそかけ離れているだろうと思われます。私が当事者だった60年代の空気を伝えることは、それ自体、簡単ではないけれども、現代の若者が自身の生きている時代について、それを試みるよりは、やりやすいかもしれません。というのも、かつての時代を語る公認のキーワードが存在するからです。

 「安保の時代」――60年安保」(上に挙げた旧「日米安全保障条約」の改定を図る日米政府と、それに反対する国民大衆との闘い)と「70年安保」(安保条約の自動延長、すなわち恒久化をめぐる闘争。このたびは、「過激派」と呼ばれる左翼急進派学生が、反対勢力の中心)に挟まれた10年間を、ピタリと言い表す表現です。「政治の季節」と言ってもよい。戦後の日本が、平和国家として再出発し、世界の平和的秩序に貢献する、というのが国民多くの期待でした。「60年安保」は、日本政府がその期待に背いて、日米軍事同盟に加担する安保改定の動きに反対する国民の抗議行動が、大きく盛り上がった一時期――「安保反対」の視点に共感する私は、担当する授業の中で、そう説明してきました。政治的な主張・立場はどうであれ、一国の進路に国民大衆が深い関心を寄せ、国家の意思決定過程に関与しようとして動いた、おそらく日本の歴史上、空前絶後の運動であった、と私は意義づけます。しかし、そういう意味での「政治の季節」は、10年後の「70年安保」では、運動の主体が60年当時の国民大衆から、急進的左翼の学生へと移ることによって、尖鋭化すると同時に、周囲から孤立して先細りとなりました。日米いずれかから特段の申し出がないかぎり、条約の見直しはしない、という形で、1970年に安保の自動延長が成立した時点で、「政治の季節」は終わりました。

 196070年の10年間を、以上のように要約した場合、日本という国、社会の動きとともに、人間として成長過程にあった私が、どのような少年時代、青年時代を送ったかを、振り返ってみなければなりません。私にとっての60年代、これは、「安保の時代」「政治の季節」のように、他人事として要約することのできない、複雑なテーマです。「複雑」というのは、世相と連動したに違いない「多感な」少年時代のありようを、〈内と外〉の関連という仕方で浮かび上がらせることが、容易ではないという事情によるものです。具体的に言うなら、小学校から大学にわたるその10年間、戦後生まれの子どもにとって、激動する日本社会の変化と自分の存在を結びつけて考えるような機会はなかった、ということです。言えることは、高度経済成長下の「受験戦争」に参加し、それなりに闘った、という程度の粗雑な要約。時代とおのれの生き方とを比較して、何がどうだった、というような〈総括〉を行うことは、当時としてはもちろん、はるかな時を経て回顧しようとする現在の私にとっても、容易ではありません。

 関大の講義では、もっぱら半世紀前の社会状況、それと21世紀の状況との隔たりについて語りました。これなら、自分をカッコに入れて適当にしゃべることは、難しくありません。ご参考までに、文学部の新入生向け科目「学びの扉」――命名したのは、私――で配った、「〈私〉のミニ昭和史」という資料を示します。

 

タテ軸の西暦(年号)に、ヨコ軸の①「政治・社会」(国内状況)、②「世界の情勢」、③「〈私〉の周囲」を対応させる形で、いつどういう事件があったかを一覧表にしています。問題の60年代、①②に関しては、国内外の激動を映す記述はあるものの、③「私の周囲」については、1964(昭和39)年、「中学校入学、担任のI先生から「哲学」の存在を知る」の一文のみ(「I先生」については、1月のエッセイの付録「人生を決めた出会い」で書いています)。以後、1970(昭和45)年の「大学入学」まで、ブランクが続きます。この間、①②の事件(ゴチは、私が強調した出来事)が盛りだくさんであるのとは、比較になりません。

時代と〈私〉

 年表では、国内・世界の激動に対して、私生活の平穏無事が際立っています。中高6年間を経て大学に入ったこと、それ以外に特記すべき事件など、何もありません。このことは、社会情勢の激変に対応して私個人に何が生じたか、の言及を特に省略したというのではなく、表立って何も書きようがない、という事実によるものです。授業の方針は、半世紀を遡る時代のイメージを再現すること。それなら、個人的な経歴に立ち入る必要は、必ずしもありません。授業の中で、昭和60年代を「安保の時代」(政治の季節)として総括したのは、21世紀の現在が、その頃とは全然違った「地球環境危機の時代」であることを示すため。半世紀余を経て、私たちの生きる世界がこんなに変わったのだ、というコントラストをうちだすためでした(ちなみに、この年表には「〈私〉のミニ昭和・平成史」という続篇もあります)。

ある時代に生きた自分自身の精神状態を、客観的に再構成するということは、非常に難しい。学生相手に語ることを断念せざるをえなかった、自分自身の内面的なありようを、ここで思い切って表現してみましょう。それを説明しようとするなら、世界の動きと連動して、自分自身の心に生じた「変化」――むしろ、ある意味で一貫した心的態勢――を、引き合いに出す以外にありません。それを問題にすることの意義は、私自身が「変わった」(もしくは「変わらない」)事実を示すことで、同じ時代を生きてきた方――当然、年配者――が、自分の場合はどうだったかを、反省するきっかけとしてもらうことにあります。さらに言えば、そういう年配者の姿をヒントにして、若い人たちにこれからの生き方を構想してもらうということが、もう一つの狙いです。

 学生相手の講義では、60年代の「高度経済成長」下で生じた社会の歪みを、「公害問題」「受験戦争」に代表させました。前者については、日本がアメリカの「核の傘」に庇護され、その世界戦略に便乗して、朝鮮戦争やベトナム戦争中に、軍需物資の輸出で巨利を得る「死の商人」が暗躍したこと、国内では人々の生活を破壊する企業悪としての公害と引き換えに、社会が富裕化したこと。こうした明らかな矛盾を指摘しました。これと対になる「受験戦争」は、自身の栄達と安定に直結する一流企業への就職、その条件となる一流大学への進学が、若者の差し迫った目標であった事実を指します。他は差し置いても、こちらの問題は、60年代の私に何らかの主体的対応を迫らないわけにはいきません。

 当時の高校生、つまり受験戦争の当事者がとった態度には、「原則」といくつかのヴァリエーションがあります。「原則」は、ともかくいったん競争を潜り抜けて、大学生の身分となること(ドロップアウトした例は、見られますが少数です)。私の場合は、現在、東大合格者数を誇るような進学校――昔は、さほどでもありませんでした――に入り、成績優秀な同級生と競う中で、志望校である京大文学部に現役合格し、いちおう成功者に数えられる身となりました。とはいえ、受験生時代に封印した課題――世の中との向き合い方をどうするか――が、入学後に甦ってきて、身から離れません。この地点から、個々の生き方にヴァリエーションが生じてきます。

 講義の中では、当時の学生の対応に、①体制順応派、②反体制派、③中間派、の三タイプがあることを指摘しました。①が現実主義者、②が全共闘などの活動家を指すことは、お解りでしょう。③については、説明が必要です。私の定義によれば、ABの「中間」(あいだ)は、ABいずれでもないことによって、ABいずれでもありうる、というどっちつかずのあり方。したがって「中間派」は、「体制順応派」「反体制派」のどちらでもないが、そのどちらにもなりうる、といったアイマイな立ち位置を表します。①と②のどちらからも距離を置くものの、何かきっかけがあれば、ゲバ棒を手に街頭に出るかもしれないし、逆に、コロッと「モーレツ社員」に寝返るかもしれない、といった可塑性を含みつつ、気は進まないながらも単位を揃えて、大学を卒業し就職する、といった学生像です。私自身もこの派に属しますが、ほかの中間派とやや違う点があったとすれば、哲学に対する「期待」、というよりむしろ「幻想」を抱く学生だった、という点でしょうか。

「空白」を埋める試み

 ここから、大学の授業などでは踏み込むことのなかった、当時の自分の内面にメスを入れます。「近代を生きる」というテーマを他人事に終わらせないためには、1970年前後の私の、言葉にならない「空白」の意味を問い詰める必要があると感じています。

 宿願であった京大文学部に現役合格し、恩師I先生と同じ哲学科に身を置くことになった私。傍目はもちろん、自分自身にとっても、何の不満もない順風満帆の人生を歩み出したように見える状況です。しかし、うまく行かない。前年(1969年)の東大入試中止――全国にテレビ中継された安田講堂攻防戦を、ご記憶の方もおいででしょう――に続く、「70年安保」の盛り上がり。入学後、何かあれば、すぐ学舎がバリケード封鎖される異常事態の中で、それなりに行われる授業に、私はついていけません。生来の怠惰、級友と比べて歴然たる学力の低さ――事実です――、それに肝心の哲学に集中することができない、という致命的な心弱さ。これらがコンプレックスの塊を生み出し、大学という世界に背を向けさせる結果となりました。けっして、学生であることを疎んじるというのではありません。何とも説明のつかない「無気力」――当時「三無」と呼ばれたうちの一つ、無関心・無責任と並ぶ――に陥り、無為のうちに時が流れ、留年を重ねた挙句、制度上許される在学期間の上限である7年が経過しました。

 いま、ひとかどの学者面をして、エッセイなどを発表することができているのは、遡って学生7年目の最後に、無理やり卒業論文を仕上げて、学窓を出ることができた僥倖のおかげです。その私が、研究者人生をまっとうしたといえるとすれば、それは「偶然」以外の何ものでもない、そう思えます。7年間の学生生活は、ただ一言、「空白」の期間。別の表現を試みるなら、長いトンネルを抜け出た後に、その内部の暗闇を思い返そうとしても、何も浮かんでこない状況、といったものです。いま、過去の生き方を俯瞰する位置に立って、当時を見下ろすなら、出口の見えないトンネル生活が、私の学生時代であったと同時に、単なる個人の事情だけではなく、「近代を生きる」こと、そのものを暗示するのではないか。埒もないことを書き綴るうちに、そういう思いがしてきました。

 早くから哲学に関心を抱き、この学問を中心にして生きようと考えたことは、それ自体、何も異常なことではありません。しかし、それが、たとえば医学を修めて病気の治療に尽くすとか、法律を徹底的に学んで弁護士になる、といった仕方での自己実現と異なるのは、当の学問が、ほかならぬ「哲学」である、という事情によります。哲学の場合、他の学問のように、何をどうすればよいかの枠組が与えられていて、そのプログラムに沿って修業すれば、目標が達成できる、というような〈型〉はありません。もちろん、大学で教えられる哲学には、きちんとしたカリキュラムが定められており、それをきちんと消化した者に、卒業資格、さらには修士や博士の学位が授与される。そういうシステムは、他の学問と何ら異なりません。しかし、そんなふうに必要とされる条件を充たした者が、イコール哲学者か、と言えばそうではない。「自分のテーマを自分で考え、自分の言葉で表現する」――以前のエッセイの中で、「哲学」の意味をそう言い表しました。与えられたカリキュラムをどんなに見事にこなしたところで、この簡単な定義をクリアーすることにはならない。低学力に加えて、このハードルが超えられそうにない、という悲観的な見通しが、勉学意欲を低下させ、結果的に7年間の学部生活を送らせることになった原因だ、いまそう思えます。

「近代」という問題へ

 おのれの非を他に押しつけるつもりはないのですが、ことは「近代」のあり方に関係すると考えられます。「自分のテーマを……」という哲学の営みは、別に近代にかぎらず、昔から行われており、西洋以外のどこでも――むろん日本でも――成立していたはずです。とはいえ、そういう意味の「哲学」を制度化し、大学教育の一環に位置づけたのは、西洋。大学という制度の成立は、西洋中世に遡ります。哲学を含む7つの学科が、「人文科学」(humanity)として、大学教育の中心となりました。近代になって、人文科学に自然科学・社会科学を加えた三分野が、「教養教育」の伝統を形づくる中で、一見、実用的価値をもたないかのような哲学も、大学教育に必須の科目として、カリキュラム上の地位を保ってきたわけです。

 これまでの社会、時代の動きの中で、制度化された学問として、哲学はその役割を果たしてきた。このことに間違いありません。しかし、196070年にかけて、学生運動に代表される世界的な「プロテスト」(異議申し立て)のうねりの中で、すべての近代科学と同じく哲学も、というよりそれ以上に、その存在意義が問い直されました。「自分で考える」とは、どういうことか。何を、何のため、誰のために考えるのか。全共闘運動は、哲学志望者にそういう重い問いを突きつけました。その重みに耐えられない未熟な若者が、立ち往生する中で、気がついてみると7年が経過していた、という次第です。「7年間も在学した」と聞くと、たいていの人は、「何をしていたの?」と訊き返します。答えようがありません。「何もしなかった」か「昼寝をしていた」というのが、答えです。お笑い下さい、それが本当のことですから。

 いま思うに、私の学生時代は、「自分のテーマを自分で考え、自分の言葉で表現する」哲学の道に入るために不可欠な、異常に長い入門儀礼(イニシエーション)の期間であった、と言えます。7年目の最後、「いついつをもって、あなたは本学を除籍されます」という、戦時中の赤紙――正式の言い方では、「召集令状」――のような文書が、大学の事務から届いたとき、卒業する決心を固めました。それからが戦争でした。卒論提出期日のたしか三日前、それまでに書きためたゴミのようなメモをすべて破棄、「自分で考える」哲学を実践すべく、何もないところから書き始める、という挙に出ました。下書きをもとに、清書するだけの時間は、もはやありません。当時、現在のようなパソコンはありませんから、原稿用紙に書きつける一文字一文字が、そのまま最終稿となります。不眠不休で書き続け、提出当日の受付終了1時間前に筆を擱き、タクシーで大学に向い、ギリギリのところで何とか間に合わせました。

 そのときに取り組んだテーマは、「ベルクソンにおける知覚と行為」。ベルクソンのテクストは、いちおう引用するものの、それについて論じることが目的ではありません。ものを見る場合、自分の思いなどとは関係なく、すでに何かが起こってしまっている、という違和感、言ってみれば、知覚と行為のギャップ、といったものが内容でした。それは、40数年を経た現在の時点でなら、おのれの存在とは無関係に流れる「時間」、もしくは、そういう時間意識をもって「近代を生きる」ことの不条理さ、という問題として要約できるかもしれません。本エッセイの最後まで来て、このことにようやく思い当たりました。そうか、俺が苦しんだのは、「時間」の問題だったのだ……。いま私が取り組んでいるテーマ「瞬間と刹那」は、その折に稚い私が手がけ、中途で放り出したまま生きてきた宿題のやり直しです。だとするなら、それは「三つ子の魂百まで」が当てはまる、恰好の例かもしれません。

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