〈出会い〉の人間学(4)——〈あいだ〉に立つ
先月のテーマは、「日本と西洋との出会い」。「日本と西洋とが出会う」という出来事には、日本人甲と西洋人乙という個人同士の〈出会い〉、「日本」および「西洋」という抽象的な全体間の〈出会い〉、という二つの意味が含まれることを説明しました。〈邂逅〉(出会い)には、個の水準と全体の水準が考えられ、二つの水準は区別されるけれども、たがいに切り離すことができない、というかなり難しい話になりました。
少し、おさらいしたいと思います――というのも、異文化に「出会う」ということが、何を意味するかということが、今回のテーマだからです。前回取り上げたことどもは、このテーマを考えるための準備、という意味をもっています。という次第で、前回取り上げた例を振り返ってみます。事例は、幕末の黒船来航。濛々と黒煙を吐く4隻の黒船を初めて見た日本人(浦賀の住民)は、腰を抜かすほど驚いたことでしょう。「太平の眠りを覚ます蒸気船(上喜撰)、たった四杯で夜も眠れず」(太田南畝)と詠まれたそのままが、当時の日本人の心象風景でした。これが当時の日本人個々に生じた、「西洋」との〈出会い〉です。この場合には、日本人誰それが、ペリー提督などの米国人に出会った、という個の水準の出来事ではなく、「日本が西洋に出会った」という言い方が、似つかわしい。つまりそれは、個ではなく、全体の水準で起こった出来事だということです。しかしそれは、同時に、日本人一人一人に生じた「西洋」――正確に言えば、「西洋近代文明」の全体――との〈出会い〉であった。このことも確かです。この例が示すように、〈出会い〉は、個人に起こる出来事であると同時に、国家・民族・文明といった単位で考えられる全体に起こる出来事である、と考えないわけにはいきません。今回、そういう意味の個人的=全体的な〈出会い〉を体験した人物の具体例を挙げて、そうした二重の意味での〈出会い〉を考えたいと思います。
和辻哲郎の体験――さまざまの風土
私の書くものの中で、再三取り上げてきた『風土』(1935年)の著者、和辻哲郎(1889-1960)の体験を、最初に取り上げます。刊行から80数年、版を重ねて読み継がれてきた『風土』――私の手許にある岩波文庫版(2006年)は、1979年の初版から数えて47刷。2020年の現在では、優に50刷を超えているでしょう。いったいどれだけの数の読者が、これを手にしてきたことでしょうか。その人気の一因が、第二章で風土を大きく三つの類型――モンスーン・沙漠・牧場――に分け、それぞれの特色を活き活きと描き分ける著者の才筆にあることは、疑えません。じっさい、もし読んで面白くなければ、哲学書がこんなに長きにわたって読み継がれる理由は見当たりません。若き日に夏目漱石の門に出入りして、小説や戯曲を手がけた文学的才能が、『風土』の誰にも真似のできないような描写に働いているのは、間違いのないことです。
そういった尻から、混ぜっ返すようで恐縮ですが、『風土』はそれほど解りやすい本ではありません。第二章、第三章の地理学的で直観的な叙述と、他の三つの章の哲学的理論的な論述とが、同じテクストに混在しており、一冊の書物としては似つかわしくない不統一感を現出しています。本気で読解に努めようとするなら、これら二種の内容を統一する根本理念を見つけ出さなくてはなりません。それは、地理学的・比較文明論的内容に惹かれる読者と、現象学・解釈学などの哲学理論に関心を抱く読者のいずれにとっても、難しい課題です。私の見るところ、これら二つのうち、より前者に惹かれる人々が、これまで『風土』人気を支えてきた読者の中心であるように思われます。いかがでしょうか。
読者の印象はともかく、著者には著者なりに、性格の異なる内容を一冊の本に盛り込まなければならなかった事情がある、それをご説明します。そこには、本書を二分する学問的要素、哲学と地理学の両方を活かさなければならない、というもっともな理由があります。その理由は、「序言」に示されています。「自分が風土性の問題を考えはじめたのは、一九二七年の初夏、ベルリンにおいてハイデッガーの『有と時間』を読んだときである」(『風土――人間学的考察』岩波文庫、1979年、3頁)。1927年は、和辻が文部省から3年間の休暇を与えられ、ヨーロッパに留学したその年。目的地ベルリンに到着してすぐ、出版されたばかりの『存在と時間』に接して、強い印象を受けたそのことが、『風土』の着想を生んだ、というように語られています。ですが、それだけが『風土』の執筆理由ではありません。ハイデッガーのくだんの書物――20世紀最大の書、と評する人もいます――は、人間存在の「時間性」を深く追究しています。和辻は、その点を評価する反面、他方、「空間性」が重視されていないという点に、不満を表明しています。人間存在の「空間性」は、別の言葉でいうなら、「風土性」。「空間性」「風土性」は、これと対比される「時間性」「歴史性」と対になる概念です。和辻は、これらの概念対のうち、後者にしか焦点が当てられないことに対する不満から、自分は人間存在のもう一つの柱である「風土性」(空間性)に光を当てるべく、『風土』の執筆を志した、という事情を明らかにしています。
『風土』執筆の理由は、もう一つあります。それは、引用文の少し後に出てくる「時間性の綿密な分析に首を突っ込んだ自分がちょうどさまざまの風土の印象に心を充たされていた」とあることから明らかです。そうです。和辻がハイデッガーの本に接したのは、日本から40日間の航海を経て、ヨーロッパ――フランスのマルセーユ港に着き、そこから陸路を経てベルリンに到着——―に足を踏み入れて、まもない時期のことでした。当然ながら、40日間の旅中に見て回った世界各地――日本(神戸港)を出発してから、中国(上海)、シンガポールなどの東南アジアをめぐり、インド洋を経て紅海へ、さらにスエズ運河を通って地中海に入り、最終碇泊地マルセーユに至るまで――の生々しい印象が、その全身を支配していたはずです。それがどれほど強烈であったかは、『風土』第二章「三つの類型」の叙述、とりわけ日本のような「モンスーン」とは、月とスッポンの「沙漠」をめぐる叙述を読めば、お判りになることです。余談ですが、和辻は航海中の寄港地から、旅先の印象を何枚ものハガキを書きつなぐ形で、家族宛てに送っています。それらの中で、アラビアのアデンから愛児に送ったものは、草木一本生えていない岩だらけの土地が、いかに日本の自然と異なるかを、イラストで説明しています。『風土』を読まれる方々には、今日のようなグローバル化に程遠かった時代、日本とは全く異質な他国の風土に接した和辻の驚きが、いかばかり大きかったか、に思いを致していただきたい。その驚きがなければ、たぶんこの本が書かれることはなかっただろう、と申し上げます
以上のとおり、ハイデッガー哲学に対する疑問と「さまざまの風土の印象」、この二つが『風土』を生み出した直接の動機です。そういう別々の事情が合わさることで、生まれた作品の全体が、しっくり融け合わない不統一感を漂わせることは、やむをえません
風土を生きる
二つの動機は、どちらも重要さにかけて引けをとりません。ですが、「風土学」つまり「地理哲学」を看板に掲げる私としては、同業者があまり重視しない第二章「三つの類型」の重要性を、特に強調したいと考えます。これは、空前の文章だと思います。何が、そんなにスゴイのか?「モンスーン」「沙漠」「牧場」という風土の三類型を、単純に外から比較するのではなく、そのそれぞれがどういう世界であるのかが、それを生きる「主体」の立場で描き出している、ということです。言うならば、和辻自身がそれぞれの世界を内から生きることによって、その違いを描き分けているということです。
異なる世界を「内から生きる」だって!? 和辻は日本人、つまり「モンスーン的人間」の一員。それが、「沙漠」や「牧場」を「内から生きる」なんてこと、できるわけがないじゃないか――そう反論されるでしょう。ごもっとも。たしかに和辻哲郎は、モンスーン域の一部である極東の島国に生まれ育った日本人。西アジアの「沙漠」や、ヨーロッパの「牧場」はもちろん、同じモンスーン域の中国やインドにすら、いちども入り込んだことがありません。和辻が、そういう自分の知らなかった風土を描くことができたのは、40日をかけた航海の途中、寄港した各地で目にした特徴ある風物を、自身に引きつけ、いろいろ考えることによってです。それは、旅行者の視線をもって土地に接する、ということにほかなりません。一見すると、定住者のようにその土地を内から深く理解するのとは、正反対のあり方だと思われるかもしれません。逆です。旅行者なるがゆえに、住人にはけっしてない仕方で、その土地の本質が理解できる。和辻は、自身が「沙漠」に身を置く旅行者となることによって、はじめて「沙漠」の本質が理解できるのだ、ということを次のように語っています。
旅行者はその生活のある短い時期を沙漠的に生きる。彼は決して沙漠的人間になるのではない。沙漠における彼の歴史は沙漠的ならざる人間の歴史である。が、まさにそのゆえに彼は沙漠の何であるかを、すなわち沙漠の本質を理解するのである。(『風土』55頁)
いかがでしょうか。ウッソー!と言いたくなるような逆説が、ここに示されています。要は、沙漠に生きたことのない人間が、旅行者として「短い時期を沙漠的に生きる」ことによって、元からそこに住みついていた「沙漠的人間」にはできないような仕方で、沙漠の本質を理解する、ということです。それには、確かな理由があります。「沙漠的ならざる人間」が、自己の世界とはまったく異なる沙漠の風土に身を置くことで、他人と自分、「沙漠的人間」と「非沙漠的人間」(和辻の表現によれば、「青山的人間」)との違いが際立ってくる。その劇的な対比によって、〈他者〉である「沙漠的人間」および「沙漠」の本質が、鮮やかに浮かび上がってくる、というわけです。短期間にいろんな土地をめぐる旅行者に比べて、長年同じ土地に住み続ける人には、このようなドラマを体験する機会がありません。「さまざまの風土の印象」は、自己の生まれ育った環境とは大きく異なる世界各地の風土に接して、和辻が学んだ〈他者〉のあり方を意味します。それをもとに執筆された作品が、『風土』なのです。
「〈出会い〉の人間学」のシリーズでは、〈出会い〉によって〈自己理解〉と〈他者理解〉のセットが成立する、と申し上げてきました。『風土』は、まさしくその典型例を提供します。外国、つまり異質な風土に接するということは、そこに生きる個々の外国人と出会うことであり、同時にそのような〈個〉との出会いをつうじて、民族や文化の〈全体〉と出会うことです――どうか前回のテーマを、ここで思い出してください。
ベルクと日本
和辻が西欧に留学したのは、90年以上前の昭和初頭。それと対照的なケースが、風土学のもう一人の立役者オギュスタン・ベルク(1942―)の日本留学です。時期は、和辻の西欧留学から40年余りを経た1969年。次に、ベルクの場合を取り上げて、二人の留学体験がもつ意味を比べてみることにしましょう。ベルク氏の研究歴において、日本への留学は格別の意義をもっています。それは、「メゾロジー」(風土学)という彼独自の学問がつくり上げられるきっかけを与えた、という事実にあります。私の訳した彼の知的自叙伝『風土学はなぜ 何のために』(関西大学出版部、2019年)を引いて、そのあたりの事情を振り返ることにします。
ベルクの日本留学は、文字どおりの偶然でした。「偶然」とは、たまたまそうなっただけで、別の成り行きもありえた、ということです。若き日に地理学と中国語を勉強していた氏は、最初、中国への留学を希望していましたが、60年代後半に起こった「文化大革命」の嵐を避けて、目的地を変更、行先を日本に変更しました。理由は、「習った漢字がすくなくとも何かの役に立つだろう」(同書3頁)ということです。こうして1969年8月、東京に着いたベルク氏は、二週間後、地理学者小堀 巌(東大教授)の研究室を訪れたさい、日本研究の参考書として、英訳の『風土』を手渡されます。しかしその本は、キーワード「風土」を、「気候」に相当する“climate”と訳すなど、誤訳だらけの不備なもので、著者和辻の意図を到底理解させることができなかった、とベルクは述解しています(「第一章 最初の無理解」)。このように、和辻風土学や日本との出会いがすぐに稔りをもたらす、ということはなかったのです。彼が『風土』の真価に目覚めたのは、十年後、フランスに帰国して、翻訳ではなく日本語で原著を読むことによってであった、と言います。
本エッセイの少し前のところで、「さまざまの風土の印象」を描き分ける『風土』第二章が、「空前の文章」であると申し上げました。何を大げさな!そう思われたかもしれません。いっぽう、ベルク氏がこの書から学びとった最大の眼目は、「風土性」の着想です。風土学の中心理念であるこの語を、簡単に説明することは難しく、誤解を生む恐れがあります。ですから、「風土性とは何か」を積極的に規定することは、当面控えるとして、それが何でないかを、ここでハッキリ言うことにします。すなわち、自然と文化(人間の営み)を、二つの異なるものとして区別する考え、いわゆる「二元論」に反対する考え、ということです。17世紀の哲学者デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という有名な一文で知られるように、考える主体と考えられる客体とを明確に区別しました。その立場からすると、主体である人間と客体である自然のあいだには、最初から一線が画され、それを越えて二つが交わるとか、一つになるといった事態は、考えられないことになります。
しかし、自然と文化とは、別々に存在するものではない。例えば和辻は、寒さについて、私たちは「寒さのうちへ出ている」(『風土』12頁)という言い方をします。これは、寒気と人間が区別される以前に、最初から一つに結びついているという事実を意味します。厚着をする、暖房する、といった工夫=文化は、こうした根本的な結びつきから生まれます。ある風土に生い育つということは、人間(主体)から自然(客体)が区別される前に、自己が自然と一体の事実がある、ということです――むろん、それを認めたからといって、二元論が成り立たないという訳ではありません。人間生活は、最初から自然に規定される仕方で、自然と人間とが一体になった地点から始まり、そこから主客を区別することで、自然を支配し利用する、というのがことの実情です。ところが、近代の二元論は、最初から自然と人間が無関係であるとして、風土のあり方を問題にしません。
来日以後のベルクは、二元論の本家フランス――デカルトの国――から距離をとることによって、二元論とは異質な考え方、生き方がある、という事実に直面します。それは、彼がフランス本国やヨーロッパにいつづけるかぎり、けっしてまともに向き合うことのない現実でした。日本に来て、さまざまな「カルチュア・ショック」に圧倒された経験は、『空間の日本文化』(ちくま学芸文庫、1994年)などに、くわしく書かれています。
〈脱中心化〉すること
日本から西欧に留学した和辻と、フランスから日本に留学したベルク。二人の場合を比較してみましょう。二人に共通するのは、生まれ育った土地を離れて、異国に留学するという体験。ただし、日本から西欧に赴いたのが和辻、逆に西欧フランスから日本にやってきたのがベルク、というように、移動の方向は正反対。ここから、両者にとって留学のもつ意義が、大きく異なってきます。生まれ育った土地、母国というものは、誰にとっても〈中心〉そのもの。それに対して、見知らぬ土地、異郷は、これまた誰にとっても〈周辺〉であることに違いありません。そういう意味で、和辻もベルクも、〈中心〉から出て〈周辺〉に赴く、という共通の体験をしています。ところが、この二人にとって、外国留学がもつ意義は、天と地の開きがありました。このことを説明するには、〈中心〉という言葉にもう一つ別の意味があることを、お断りする必要があります――それは、上に挙げたような「風土的」中心とは異なる、「文化的」中心というものです。ここから、文化的な意味の場合、《中心》《周辺》という表記をします。
まず和辻の場合。幕末・明治期から始まった日本人の西洋留学は、近代文明の発達した地域に赴き、その精華を学びとることによって、日本の近代化に寄与する、ということが大義名分でした。近代日本のエリートたちには、西洋文化の吸収摂取が期待され、その貢献に期待する国家から、手厚い支援が与えられました。和辻の国費留学の期間は、三年間。ところが、何と和辻は、その半分の一年半で帰国して、国家の期待を裏切りました(私は昔、「留学期間が余っているなら、その分を俺に回してくれよ」と、戯れ言をよく言ったものです)。しかも、知人に明かした早期帰国のホンネが、「ノスタルジー」だったとは!イヤハヤ、よく言うよ。それはさておき、和辻の公式の言い訳は、自分が留学で吸収したものを、少しでも早く日本に伝えたい、ということでした(それが、『風土』の刊行につながったわけです)。こと文化に関して、和辻は、遅れた《周辺》日本から《中心》西欧に向かった。生まれ育った風土的〈中心〉を離れて〈周辺〉に赴く、というのとは別種の、文化的《周辺》から《中心》に向かうという行動です。
ベルクの場合は、その反対です――フランスという《中心》から、極東の島国日本という《周辺》へ向かったのですから。《周辺》日本から、《中心》西欧をめざした和辻に対して、《中心》から《周辺》に向ったベルク。この点に関して言えば、二人の留学は、向きが正反対です。ですが、母国から出て異国に身を置く、というその点にかぎれば、二人の行動は共通します。生まれた土地、母国という〈中心〉から離れる行動を〈脱中心化〉と呼ぶことができるなら、留学によって〈脱中心化〉したという点は、二人に共通しています。ここに注目していただきたいのです。
風土学の最も重要な理念――〈脱中心化〉。その意義を一言でいうなら、自分がこれまで当然として受け容れてきたものの見方が、いったん否定され、相対化されるということです。「否定」と言ったのは、自分とは違う考え方、生き方をする〈他者〉の存在によって、自分が無条件に正しいとは言えなくなる、ということです。和辻の場合を思い出してください。「沙漠」を訪れた彼は、そこに自分たち「モンスーン」の人間とは、まったく異なる「沙漠的人間」が生きていること、〈他者〉が存在することに気づきます。自分とは異なる〈他者〉の発見、〈他者〉とは異なる自分の発見、この二つが同時であると言いましたね。自分が絶対でない、という〈自己相対化〉のきっかけは、〈他者〉との出会いによる〈脱中心化〉にあります。
いっぽうベルクは、西洋文化を根本から支配する二元論の国フランスから、日本という異国にやって来て、非二元論にめざめます。日本・日本人との〈出会い〉が、彼に二元論の絶対性を疑わせ、その否定にまで導いたのです。「要するに、風土性は二元論に異を唱える。じっさい私にとって、この非二元論が徐々に明らかになってきたのは、はっきり言えば、北海道での研究、次いで日本全般についての研究をつうじてのことであり……」(『風土学はなぜ 何のために』42頁)と告白しているとおりです。これが、オギュスタン・ベルクにとっての〈脱中心化〉です。
これまでの話を、どう受けとめられたでしょうか。外国への留学、海外旅行が、他者との〈出会い〉や〈自己相対化〉を生むとすれば、自分の存在、アイデンティティが不確かになってしまう。それは、ヤバイことではないか。そういう反応があっても、不思議ではないでしょう。そのとおり。いったん〈脱中心化〉を経験した者には、一種の危機――アイデンティティ・クライシス――が起こります。それは、下手をすると、人格崩壊につながりかねません。では、どうすればよいのか。ここで必要になってくるのが、〈再中心化〉の手続き。これも風土学の柱ですが、今回は理屈っぽい話はここまでにして、最後に、ある人物の生き方をご紹介することにします。
〈あいだ〉を生きる
ご紹介する人物の名は、ピエール赤松。日本人の父とフランス人の母をもつ二世です。2002年のパリ留学の折、お世話になったこの人物のことを、いつか書きたいと思い続けて、今日になりました。以下は、文字どおりのネタ下ろしです。
もう18年も前のこと。日記もどきの当時のノートから、おぼろげな記憶をつないでみます。聖ヨハネの名を冠した氏のサークル(Cercle St.Jean-Baptiste,日本語の名称は忘れました)に、初めて参加したのは、パリ到着からひと月余り経過し、アパートに落ち着いて間もない5月初旬のこと。異郷の新しい生活になじめず、苦労しているさまを見かねて、この会を紹介してくれたのは、パリ留学後に九鬼周造の研究で学位を取得した日本人女性、前々回のエッセイで取り上げた「西田研究会」のメンバーです。赤松氏の主宰するこのサークルは、在留邦人と現地のフランス人有志が、日帰りの遠足、もしくは1泊の旅行をともにするという趣旨で運営され、日仏交流を目的とするボランティアの活動でした。
最初に参加した5月の会は、パリから比較的近いブルゴーニュ地方の中心都市ディジョンを目的地とする遠足。パリから東南のこの都市まで、TGV――日本式に言えば「新幹線」――の特急列車を利用、現地の教会や博物館をいくつか見学した後、自由時間に名産品(この地方の名産品では、ワインのほかマスタードが有名)のショッピングをして帰途につく、というものでした。中世につくられた教会の様式や構造、歴史について、赤松氏自身が、フランス語と日本語を交互に使って、専門的な解説をされたと記憶します。氏がバイリンガルであることは当然のこととして、技術的な解説の確かさは、フランス国立航空宇宙何とか研究所(正式名不詳)に勤めたという、エンジニアの経歴によることが、後日判りました。42年間の勤務を終えた後に、悠々自適の身で、日仏交流のサークルをフランス人とともに立ち上げながら、実質上は一人で、列車やバスの予約、宿の手配、といった実務をこなしている様子が明らかでした。
すでに八〇歳代後半であった由ながら、フランス人の血を引く氏は、鼻筋が通った長身の偉丈夫。姿勢のシャンとした氏には、「矍鑠」(かくしゃく)の二字がふさわしく、その風貌には、どこか日本の古武士を偲ばせるものがありました。それもそのはず、氏は室町時代から有名な大名赤松氏の末裔。以下は、帰国前にお茶に招かれた氏のご自宅で承った話の一部始終です。父上は、京都の仏光寺派の末寺に生まれたが、寺を継ぐことなく、東大卒業後に渡仏、フランス人女性と結婚して、ピエールと弟のポール(著名な歴史家)の二子をもうけた。戦前、日本に帰国してから、父上は教職につき、母上も日本女子大でフランス語を教えたとのこと。氏が暁星中学在学中に、父が死去。戦中から戦後にかけて、母の女手一つで育てられた。戦後、1948年にフランスに復員――フランス生まれの氏は、仏国籍――したさい、直接渡仏する手段がなかったため、ツテを頼りに上海まで軍用機に乗せてもらい、そこからマルセーユまで輸送船に便乗したとのこと――和辻の留学と同じ経路ながら、旅の厳しさは比較の段ではないでしょう。
母上のご苦労については、「わからない」と一言。ご自身の一方ならぬ苦労についても、それを口にされることはありませんでした。高槻にいた宣教師の神父と、たまたま復員が同時であったことから、始めたというサークル。毎月の旅行(遠足)の中で、温顔の氏が、一度だけ怖い顔をされたことがあります。映画『ジュラシック・パーク』で有名な、ジュラ地方への一泊旅行の夕食の折、日本のご婦人方が、仲間だけで固まって会話に興じている席上、「この会は日仏交流の会である。その趣旨を取り違えるな」と一喝されました。〈出会い〉の問題を考えるきっかけを私に与えた、池内健次(先月の「付録」参照)、九鬼周造と並んで、その折に見たピエール赤松氏の姿は、今も瞼に焼き付いています。
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明けましておめでとうございます。
コメントはご無沙汰してしまっておりましたが、学び深く読ませていただいておりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
年明けに渋沢栄一の自伝『雨夜譚』を読んだこともあり、前回から続く日本と西洋との〈出会い〉について非常に興味深く感じておりました。
長く続いた江戸時代の影響でお上の言うことをただ聞くしかできない当時の日本人と、それではダメだと自分の頭で考えられる商工業者を育てる必要性を感じる当時の知識人とのやり取りがあり、そうした直接・間接の無数の〈出会い〉を通じて今の日本があるのかもしれないと、そのスケールの大きさには圧倒されるばかりです。
さて、今回のエッセイで大きく気になった点が2つございました。
1つ目は「〈自己相対化〉のきっかけは、〈他者〉との出会いによる〈脱中心化〉にあります」という部分です。
『風土』を読んでいない中でご質問するのもお恥ずかしいのですが、和辻が旅行者として「砂漠」の本質を理解するというのであれば、彼自身は日本の風土の「本質」も旅行者としてしか理解できないことになるかと思います。
この場合の〈自己相対化〉が「旅行者になる」ことだとすると、和辻は日本人であることを一旦離れて、日本の風土を理解したということになるのでしょうか?
2つ目は、まさにそこが〈再中心化〉の話だと思うのですが、例えば和辻が「旅行者」として日本の風土を理解した場合、旅行者になる前の日本に生きていた
「モンスーン的人間(という言い方で合っておりますでしょうか?」である和辻が感じたり理解したりしていた「日本の風土」との一致や不一致は、どのように理解されるのでしょうか?
つまり〈出会い〉によって〈他者〉となった〈自己〉とどう〈出会う〉のか?といったことが疑問に思われ、自身の課題感としても、この辺りを次回のエッセイで読むことができれば、非常に有難いと思う次第です。
少し話は逸れますが私は現在30歳でして、まだまだ世に出て日も浅く、学生の方が近い年齢です。
おそらく一般の同年代よりは思想や哲学に親しんでいるとは思いますが、こうしたテーマや非二元論的な考え方を、明確に意識はしなくとも薄々感じているのが私たちの世代ではないか、と感じています。
浅学な身ではありますが、木岡さまやみなさまとの出会いを通じて精進していければと思っておりますので、今後とも何卒よろしくお願いいたします。
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2点、本質的なポイントを突かれたご質問に感謝します。和辻がヨーロッパに留学したのは、1927年。それよりだいぶ前に、『古寺巡礼』(1919年)、『日本古代文化』(1920年)といった日本文化史の著作を発表していて、すでに一流の文化史研究者でした。それらを読むと、独自の直観によって、「日本人」「日本文化」についての本質をつかんでいたことが解ります。ですが、それはまだ本当の〈他者〉と出会ったことのない時点での〈自己理解〉に過ぎません。日本の風土を「優しく愛らしい」と評したりするのは、キビシク言えば「ナルシシズム」である、と言えなくもないのです。日本の風土や古美術についての理解も、他の風土を体験することによって相対化されない自己理解ですから、自己中心性を脱していない。
旅以前、西洋など他の風土についての記述は、文献をつうじてのものですから、いわばヴァーチャルな〈他者理解〉。〈自己〉と〈他者〉がどう異なるかについてのリアルな実地体験が、それまでのヴァーチャル体験に裏づけを与え、かつ変更を生じたというのが、40日間の旅がもつ意義でした。
二つ目の質問には、エッセイであえてふれなかった「アナロジー」(類比)を引き合いに出して、お答えします。「モンスーン的人間」「沙漠的人間」等の区別は、「さまざまの風土の印象」を比較することから、成立したものです。旅以前に、「モンスーン的人間」の自覚が成立していたわけではない。複数の風土を比較する手続きによって、自他の異なりと共通性を同時に成立させるのが、アナロジーの思考法です。『風土』第二章が「空前の文章」であるゆえんを説明するには、このポイントにふれなければならなかったか、と反省しています。ちなみに、「世界一わかりやすい地理哲学」をオビに謳った拙著『〈出会い〉の風土学』(幻冬舎、2018年)の中で、最も苦労したのが、「第5回 方法としてのアナロジー」でした。