[番外編] コロナウィルス雑感
感染拡大の現在
いま世の中は、「新型コロナウィルス感染拡大」の話題で持ちきりです。朝から晩まで、誰かと口を利く――その機会は、大幅に減っていますが――とか、テレビ・ニュースを観るとき、この話題が出ないことはありません。まさにコロナ一色、こんな現象がかつてあっただろうか。70年近い人生を振り返って、そう思います。同じ感想をもつ方も多いでしょう。
エッセイと言えば、気楽な読み物、随筆、というイメージを抱く方にとって、読みにくい、難しい――じっさいに、そういう声を寄せられた方もいます――とお感じになるだろう私の文章。論文に相当する内容を、高卒なら誰が読んでもわかる程度にかみ砕いて書く、というのが私の方針でした――「エッセイ」の本来の意味は、「試論」(試みの論文)、「随筆」ではありません(このことを前にも書きましたね)。国内で何十万部も売れている本は、私の見るところ、随筆(つまり気楽な読み物)ではあっても、私のイメージするエッセイではありません――「論文」に相当する実質がないという意味で。とはいえ、ベストセラーになる本には、世の人々が知りたいことについて、わかりやすく教えてくれる、というメリットがあります。その点からすると、昨今のウィルス感染騒動は、これから社会がどうなるのか、自分はどうすればよいのか、に直接かかわる重要問題であることに間違いありません。それが取り上げられることを、たぶん本エッセイの読者――さっぱり反応がないので、いるのかいないのか、こちらにはわかりません――が、期待されているものと勝手に推察します。
というわけで、今月は新シリーズに入るついでの「番外編」として、この話題から。私にとって、というより誰にとっても、大迷惑。何とかしてくれ、という思いをどこにぶつけたらよいものか、相手が見つかりません。世の中には、正体不明の敵ではなく、現実の国家や国際機関に見当外れの怒りをぶつける、愚劣な政治家もいますが。そういう連中に比べると、私の周辺に見かける人々は、みんな冷静に対処して、我慢の毎日を過ごしているように見うけられます。日本人の底力を見せつけられる思いです。
この問題に、哲学――私の場合は、風土学――はどうかかわるのでしょうか。ウィルス感染問題について、哲学者から言えることが、何かあるでしょうか。当然ながら、疫学上の問題に関しては、まったく何も。感染症対策や治療などの医学的な対応は、そちらの専門家の領分です。政治や経済の対応に関しても、ひとまず政治家や経済学者に任せる以外にありません。一つだけ、これは、というテーマがあります――心の問題。4月7日の政府発「緊急事態宣言」後の展開を取り上げた番組『NHKスペシャル 緊急事態宣言後10日経過』(4.18)では、その方面の専門家をゲストに招き――テレビ会議の形式ですが――、感染拡大が生み出す「差別」について紹介していました。医療従事者や運送業者など、感染対策に携わる人たちが、差別の標的になっているという報告です。私はそれを観ながら、4月1日の「木岡哲学塾」初回を思い出しました。というのも、その折に「差別」を問題にする人がいたからです。
「差別」の現実
初回の「オリエンテーション」では、哲学塾の運営方法について説明してから、参加者へのアンケートを実施。その後、具体的なテーマに即した「模擬討論」をすることにしました。各回全2時間の内訳は、前半が講義、後半が発表・討論。講義がなく発表者もいない初回は、とりあえず何でもよいから、テーマを決めて討論してみることにしたのです。そこで参加者に討論のテーマを募ったところ、即座に出てきたのが、「ウィルス感染によって生じた差別」という問題でした。この問題を提起したのは、武漢出身の中国人留学生K君。K君は、日本の哲学を学んで中国の現実に活かしたい、という志を抱いて関大に留学してきた2回生で、同年代の日本の若者とは、意識はもとより知識の量が段違い。その問題提起は、武漢から拡がった深刻な事態を前に、世間の対応を嘆くといった感情的なものではなく、全世界の状況を客観的に分析・整理して、問題の所在を冷静に指摘する、という哲学的なものでした。それを、キーワードのひとことで言い表すなら、「差別」の問題です。
湖北省武漢市で発生したとされる新型肺炎。中国国内でも、武漢市民に対する差別がある。ただし、周辺地域から湖北省に向けられる視線と、国内でも遠く離れた地域、例えば北京からの視線とは、明らかに異なった意味をもつ。前者が文字どおり、排他的な意味での「差別」であるのに対し、後者には「神聖化」が含まれる、と。どうしてそうなるのか、というのがK君の問いかけです(K君、間違っていたらゴメン!)。これは、私たちの生きる世界に根づく「差別」の本質にかかわる、重大な指摘であると感じました。ウィルス感染者は、社会の中の、いわば「受難者」です。その人たちから遠くにいて、災難に巻き込まれる恐れのない人は、受難者の存在を認めて「聖化」するにやぶさかではない。ところが、受難者のすぐ近くにいて、自分自身もいつ巻き込まれるか分からないという脅威を感じる人々は、受難者を排除しようとするか、あるいは自身が受難者から遠ざかろうとする。なるほどそうだな、と私は納得しました。その場に居合わせたみんな――といっても、全部でたった6名ですが――も深く感じるところがあって、そこから「差別とは何か」をめぐる真剣な討議が始まりました。これは他所事ではない、という参加者の自覚を物語っています。
差別の本質を論じるというのは、その日に予定した事柄ではありません。しかし、誰かが提出した疑問から対話を拡げることが、わが哲学塾の大きな狙いです。ですから、初回にこの方面で、1時間以上も真剣な議論ができたということは、幸いな滑り出しだったと申し上げられます。しかし、ここで差別をめぐる議論の中身を紹介するつもりはありません。はじめに挙げた、これからどうすればよいのか、というテーマに話を戻します。ことを、差別する側とされる側の〈距離〉の問題として考えてみましょう。私自身は、少なくとも現時点で「感染者」ではありませんが、検査を受けていない潜伏感染者である可能性があります。現在、外出自粛中の大阪市民は、おたがいを感染予備軍として、疑心暗鬼の眼で見る習慣に陥りつつあるように思われますが、違いますか?
目の前にいる他人が、自分を災厄に巻き込む感染者である可能性がゼロではない場合、どういう態度で接したらよいでしょうか。これは、私の風土学で言うところの、他者との〈あいだを開く〉ために、どうすればよいかという問題です。疫学上必要とされる対策――マスクの装着、「三密」の回避、その他――をとるべきであることは、言うまでもありません。とはいえ、他人と接触する機会をもつかぎり、感染のリスクを完全に避けることはできません。そこで、当然ながら浮上するのが、政府・行政機関の説く「不要不急の外出を避ける」という心得になるわけです。
「不要不急」って何?
この国の首相や各自治体の首長から、毎日のように聞かされるのが、「不要不急の外出を控えてください」という「お願い」です。外出の「禁止」ではなく、「自粛」ということは、各自で外出するかしないかを自主的に判断してください、という要請です。いまさら説明するまでもありません。外出の「自粛」ということは、その目的に対応する各種施設の営業「自粛」と相まってこそ、意味をもつ。これまた、言うまでもありません。かくして、生存に必要不可欠な食糧他の物資を扱う店舗を除いて、軒並み営業中止。大阪府知事によれば、「自粛」要請に応じない業者名を公表するとか。これは、ほとんど事業者に対する脅迫です。市民一般に向けた「お願い」とは、だいぶ趣が異なります。だからと言って、私の方から、自粛するななどという訳ではありません。諸外国のような「都市封鎖」にまで至らず、まだ外出する自由が残されている日本の現実において、「不要不急の外出を控える」ということの意味を、きっちり考えるべきだということを、私としては申し上げたいのです。
ここから、やや重たい話になります。外出する、しないの判断基準を定めるのは、自分自身だということです。そんなことは当たり前、判り切ったことだ、とおっしゃる方に――本当にそうでしょうか?例を挙げます。不要不急かどうかはさておき、私はオフィス(自分の仕事場)に、週3回通っています。午後、大阪駅前で市バスから降り、阪急電車に乗り換えるべく道路を歩いていると、大勢のサラリーマンを見かけます。都心に通う人々が絶えないのは、テレワーク、時差出勤等の勧奨に反して、従来どおり現場で働かなければならない仕事の都合があるからだ、と見当がつきます。どうして自粛できないか、と問えば、生計を立てるための仕事だから、といった答えがきっと返ってくると思います。そう、稼ぎの仕事は「不要不急ではない」という考えが、企業にも社員にもある場合に、さほど後ろ暗い思いもせずに、出勤できるのではないかと考えられます。それは、私に言わせれば、個人の自由にもとづく自主的判断ではなく、「生活のため」という大義名分による他律を意味します。少し言い過ぎかもしれません。こう言えば、どうでしょうか。感染不安と生活目的を秤にかけた結果、後者を棒に振るリスクの方が重い、と合理的に判断したからだと。
私が割合マメにオフィスに足を運ぶのは、特別「合理的」に判断したからではありません。外出してウィルスに襲われるリスクよりも、退職後の生活リズムを守るメリットを重視するから――しいて理由をこじつけるなら、そんなところです。この間、私のオフィスを何人かの学生や卒業生が訪ねてくれ、いずれも長時間付き合ってくれています。彼らといえども、感染の不安がないわけではなく、退去するや、すぐにマスク着用、帰宅すれば手洗い、うがいを欠かさない、とのこと。それにもかかわらず、訪問を「自粛」しない理由は、それによって被る感染のリスクよりは、得るメリットの方が大きい、という判断があるからだと思われます。こちらとしては、ありがたくも申し訳ない気分で一杯です。
冗談で学生に、もし君に恋人がいるなら、感染する危険を理由に会わないことにする、そんなことができますか、と訊ねたことがあります。すると、いや、会わないなんてことはありえない、という答えが返ってきます。当然です。恋人とのデートは、不要不急どころか、生きることそのもの。そんなふうに、命を懸けて守りたい価値を、社会は若者に提供しているでしょうか。例えば大学は?
関西大学では――ほかの有名大学も、軒並みそうですが――、新年度から原則、オンライン授業を行う予定です。これについても、大教室での一方通行の講義に慣れている学生は、別にいままでと変わらない、と平然とコメントしました。驚くこちらの方が、ナイーヴすぎるのかもしれません。こう申し上げたからとて、オンライン利用の授業が無意味だとか、すべきでないと主張するわけではありません。時と場合によっては、それもやむを得ないでしょう(現に私も、非常勤として「環境学入門」の講義で、7月に2回、それをしなければならなくなりそうです)。私が不満に思うのは、そういう方式があくまでも緊急避難であって、本来の対面型の授業に取って代わるべきものではない、という自覚が見られない現実です。以上は、ハイテク利用に懐疑的な「変人」の所感です。
最後に、変人としての極論を申し上げます。人と人の〈出会いの場〉であることを放棄した大学は、もはや大学ではない。そんなものは、つぶしてしまった方がよい。はばかりながら、かく申す私は、そんな大学に早めに見切りをつけて、新しい〈出会いの場〉を設けました。コロナウィルスの脅威に張り合えるだけの、〈一期一会〉の場を提供したいと念じています。
[付記]
これをお読みくださった方に――感想・質問・意見、何でも結構ですから、〈出会いの広場〉にお寄せいただけませんか。最近になって生じた暮らしの変化について、どんなことをお感じになっていらっしゃるか、一言でも聞かせていただければ、それに言葉を返させていただくつもりです。どうかよろしくお願いします。
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「自粛」しない理由は、それによって被る感染のリスクよりは、得るメリットの方が大きいと書かれています。
これは「危険負担」の考え方で、私が関大の授業で教えて貰った数少ない有益な概念でした。
「危険負担」は個人レベルでは納得のいくものであると思いますが、社会全体に対する個人の責任から見ると如何でしょうか。
今の緊急事態下において、一人が病気に罹ると社会全体に対するダメージは重大なものになります。
従って個人は己の属する世界を支える為、己のできる事をなすべきだと思います。
加えて出来ない人に対しては援助をすべきで、さらに言えば強制・排除されてもやむを得ないと思います。
One for all, All for one
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「危険負担」をめぐる個人的判断のうちに、「社会全体の被る不利益」をカウントせよ、というご意見。そのとおりで、別に異論はありません。「自身が周囲から感染するリスク」は、「自分が他人を感染させるリスク」から切り離せないというご意見、なるほどと感じ入りました。しかし、だからと言って、個人よりも社会が大事だ、という結論にもっていくのは、「違う」と申し上げたい。貴意を汲んだ上で、個人にとっての行動の自由は、社会全体の利益・不利益の考量にもとづいて表現されるべきだ、という趣旨にとらせていただきたいと思います。最後の「強制、排除されてもやむを得ない」という一言――真意がよくわかりませんが――など、何か全体主義の感じがして、腑に落ちません。
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コメント失礼致します。感染症危機における差別や自粛に対する御意見、大変興味深く拝読させていただきました。
私の意見ですが一つ言えることは、このような大衆レベルでの危機を体験するのは一部を除いて我々若い世代にとっては初めての体験ではないかということです。危機の内訳は世界中誰もが同じ人間であり感染する可能性があるということ、それから感染症にかかった場合、一割前後ですが死亡するリスクがあることです。このような「自粛」が要求される状況下で実際に自粛を行うか否かという選択に大きく関係するのは、それぞれの人間が自己や他者が生き延びるに対してどれだけの価値を認めてきたか、それを共有してきたかだと思います。残念ながら私は国家や民族に対してそれほど守るべき何かを見いだせていません。見出しているとすれば、私の生活にかかわる他者、あるいはかかわってきた他者といった具体的存在です。聞いた話ですが、例えば私の知り合いは肺炎もちの妻を持っており、その妻のためにかたくなに自粛をしているそうです。そのように具体的な価値とリスクを各々が引き比べて理性的に判断し実践できれば十分ではないかと私は思います。必ずしも自粛が答えになるとも思えません。
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『「強制、排除されてもやむを得ない」という一言――真意がよくわかりませんが――など、何か全体主義の感じがして、腑に落ちません。』と書かれています。
政治の目的が「最大多数の最大幸福」について、反対は少ないと思います。
「全体主義」か「民主主義」かの議論は幸福を達成する為の方法論に過ぎません。
何れの方法を採るかは地域・民族・歴史等の諸事情に因って決まるもので、何時でも何処でもギリシアの民主主義が最適ではないと思います。
共産主義者の鄧小平ですら「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」と言っています。
また、幸福は「生理的欲求」「安全欲求」が満たされて後に、自由・平等等が求められると思います。
先ずは「命あっての物種」であり「衣食足りて栄辱を知る 衣食足りて栄辱を知る 」であります。
自治体の首長にとって「市民を守る事」は最初にして最大の課題であります。
もしこれを看過したならば首長は不作為責任を追及されるべきものです。
さらにこれは制度の選択ではなく運用のレベルの話です、限定的・選択的な政策に対して「全体主義」と決めつけるのは適当ではないと思います。
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Kiba1951さんが具体的に個人のどのような行為を「強制・排除」されても止むを得ないと考えているのか、コメントだけでは分かり兼ねますので、木岡先生が腑に落ちないのも当然ではないかなと思います。
「強制排除」が絶対あってはならないとは私も思いません。私は自由主義者ですが、殺人を犯そうとする自由は強制・排除されるべきだと思っているからです。
そういう意味では、kibaさんがこれは運用の問題だとおっしゃることもわかります。
とはいえ国家権力の暴走という観点から考えれば、強制排除はできるだけ最小限に止めるよう、厳しい制限をかけておいた方が良いと思います。
今回のコロナ禍に関していえば、いくつかの国では自粛ではなく、外出禁止令を出し、違反者に刑罰を科していますが、日本はあくまでも自粛にとどめています。これはこれで空気の支配という日本独特の恐ろしさがないではないですが、自由主義者の私としてはほっとしています。感染者の増加の対数グラフを見ても、理由はまだ不明ですが、西欧に比べて明らかに感染増加を低く抑えこめています。自粛でこの調子で行けるなら、これ以上の法的規制をしない方が良いと思います。もちろんなぜ西欧に比べてマシなのかはわからないので油断は禁物ですが。
「生理的欲求」や「安全欲求」を行政が満たさねばならないのは当然ですが、とはいえ、それを人質に「自由」や「平等」を制限されてはたまりません。
なので我々は憲法に「基本的人権として誰もが自由・平等を享受している」と書き込むことで、国家がそれを犯すことは「絶対に」許されないと制限をかけています。福祉を生業にしている私にとっては「基本的人権」こそ人類の偉大な発明だと思っています。そういう点では私は極めて近代主義者ですね。(とはいえ憲法が有名無実化する危険性は常にあるので、結局は日々のチェックアンドバランスが大事になってくるのですが。)
最後に「全体主義」か「民主主義」かについてですが、「全体主義」と「民主主義」は両立する政治制度です。というより、20世紀の全体主義は民主主義から生まれました。ナチス政権は当時最も民主的とされたワイマール共和国から民主的に誕生しましたし、ソ連も官僚主義とはいえ、革命は人民の支持を受けて成功しています。カール・シュミットは民主主義(democracy)は民衆(demos)による支配(kratia)であり、支配するもの(民衆)と支配されるもの(民衆)が同一であることに主眼をおきました。政治とは友と敵に分ける行為であり、友を構成する人々はみな同一である。もし同一であるはずの友の中に異分子が混じっていれば、それは敵として排除される。現在は20世紀の苦い経験を踏まえて、内では友の中の差異や多様性を尊重し、外では友と敵を乗り越えるような国際的な取り組みが行われてきましたが、再び暗雲が立ち込めています。人々がポピュリズムの政治に巻き込まれている今は、かなり危うい状況にあるのではないかと思います。
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追記しえば、状況の変化に応じて、最悪の場合、都市封鎖も必要になる可能性がないわけではありません。
国民の生命・財産を守るため必要止むを得ない措置であれば致し方ないでしょう。
ただし、そのためには適正手続きの乗っ取って、法律を定め、それに従って行うべきです。
そして後からでも確実に、法の制定過程に問題がなかったか、措置の実施に問題がなかったかチェックできるようにすることが絶対です。
今回の特措法では都市封鎖はできません。
しかし政府は3月26日に感染症法第33条にある都市封鎖の条件である第1種感染症(エボラ出血熱など非常に致死率の高い感染症です)に今回の新型コロナウイルスを入れるため政令を変更しました。これで法的には感染症第33条に従って都市封鎖は可能になっています。政令の変更なので、国会審議は必要ありません。一応、厚生省の科学審議会を経なければならないという制限があったようですが、「緊急時だから」と審議会は開かれず、持ち回り文書に各大臣がハンコをついて決裁されました。結果、残った記録は「承認された」の一言のみです。これでは後からどんな過程で法が制定されたのか、いざ実行されたときに、それが本当に適切な処置だったのか、後から検証もできません。この国は公文書管理が極めてずさんなので、仮に本当に必要な強制であっても、不信感が拭えません。ならばもうできるだけ何もしないでくれ(これは極論ですが)と嘆きたくなります。もちろん最終的にはチェックしない我々国民が悪いんですがね。
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大竹さん
初めまして。
「残念ながら私は国家や民族に対してそれほど守るべき何かを見いだせていません。見出しているとすれば、私の生活にかかわる他者、あるいはかかわってきた他者といった具体的存在です。」というコメント
実際、私もそこから始めるしかないんじゃないかなと思います。それ抜きに、国家がどうこう言われてもぴんとこないと思います。ぴんと来てたら逆に怖いです…
とはいえ、人類という大きなくくりも捨てがたいし、これからは発展途上国を中心にとてつもない数の死人が出ると予測されてます。それに対してどうすればいいのか。小さなところから始めて、大きな範囲まで、各人の気に掛かる範囲を広げるにはどうしたらいいのかなと思います。
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『国家権力の暴走という観点から考えれば、強制排除はできるだけ最小限に止めるよう、厳しい制限をかけておいた方が良いと思います。
そのためには適正手続きの乗っ取って、法律を定め、それに従って行うべきです。
そして後からでも確実に、法の制定過程に問題がなかったか、措置の実施に問題がなかったかチェックできるようにすることが絶対です。』
仰る通りで、私も同感です。
『具体的に個人のどのような行為を「強制・排除」されても止むを得ないと考えているのか』
余り具体的でもないですが、私は刑法における「緊急急避難」的な物を想定しています。
「緊急事態下」における「緊急避難」行為であるとすれば、多くの場合は法律の規定や前例がないと思います。
その場合「適正手続きの確証がないから無作為に過ごす」よりも、「間違っているかも知れないが実行する」を支持したいと思います。
間違いが判明すれば「修正・撤回」すれば良いのであって、「判断できない・決断できない・実行できない」よりは遥かに良いと思います。
今回のコロナウィルス対策で当初イギリスが打ち出した基本方針は「集団免疫」でしたが、数日後誤りを認めて撤回しました。
更に言うと「ダッカハイジャック事件」では犯人の要求に屈し6人の収監者を開放し16億円を支払っていますが、これを「超法規的処置」の一言で済ませています。
日本で契約や法は欧米・中東の一神教国ほど絶対視されない様です、「令外官」の伝統でしょうか。
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コロナについて言えば、ゴールは一つで「集団免疫」しかないとは思います。撲滅は不可能(可能だとしても何十年か先)なので、インフルエンザが一つ増えたくらいの状態に持っていくしかないでしょう。
国民にどう表明するかは別として概ねどの国もそのゴールを目指しているはずです。その間に医療崩壊が起きないように、感染拡大をできるだけゆっくりにしているわけです。
とはいえ、日本の場合だと6000万人くらい罹患してもらう必要があるわけで、致死率1%なら60万人が最終的に死亡する計算になります。一気に死ぬわけではないのですが、この数字だけみると大変な数ですね。ボリス首相が批判されるのも仕方ないといえば仕方ない。
まあ5年くらいかけて徐々にと考えられてるわけですが。ただこのウイルスはまだわかってないことが多いため、今後も見解が変わることはあると思います。
集団免疫の原理的な批判を言えば、死ぬ人間は厳密なランダムではなく、身体の弱い人のほうがリスクが高いことです。私も終結には集団免疫しかないと思っていますが、そこには身体の弱い人が犠牲になっても仕方がないという優生思想がないわけではありません。この悪を少しでも緩和するためには重症者を確実に救えるよう医療体制を万全にすることが前提です。
緊急時には間違っている可能性があっても実行することが大事なのは、その通りだと思いますが、問題はこの国は間違っていたかどうかを後で判断できる材料を全然残さないことです。
そのあたりの不首尾は森友・加計問題や陸自の日報問題でだいぶ国民にしれたかと思いますが、例えばイラク戦争で日本がアメリカをいち早く支持し、支援しましたが、どのような理路でそうなったのか未だに不明です。国際的にはイラク戦争は概ね間違った戦争とされており、アメリカを支持したどの国の当時の政権も釈明し検証せざるを得ない状況となり、検証報告書が数百ページにわたっており一部機密を除けば誰もが請求し閲覧可能です。日本では一応外務省が報告書を作ったようなのですが、我々が検証できるのはA4レポートの4枚ほど。何をどう検証したのか全く不明です。こういった情報公開についてはNPO法人情報クリアリングハウスの活動を参照すれば参考になるかと思いますが、とにかくこの国はkibaさんがいうような「修正・撤回」がきちんと行える国ではないと考えています。
じゃあ、緊急時何もしなくていいのかと言われたら、kibaさんのおっしゃるとおり、何かする必要があります。
なので緊急事態に陥る前に、国の記録方法、公文書管理や情報公開のあり方を少しでも改善する必要がありますね。
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kibaさんが緊急避難と書いたようにどちらかというと個別の対応についてのやむを得ざる措置について考えているのに対して、私は戦争というデカイことを例に出してしまいましたが、少し思いつきました。
私の勤務地でもある豊中市は災害時の避難に支援を要する高齢者や障害者の名簿を作成していましたが、その中には第三者への公表の同意を得られていない人たちもいました。しかし昨年の大阪府北部地震の際には同意を得られていない人も含めて、名簿を民生委員に配布し、訪問するようにしました。
kibaさんが想定している事例はそういったことなのかなと思いました。
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その人の生命を救う為に、第三者に個人情報を渡す事に大きな問題はないと思います。
私は「緊急避難」と言いましたが、それを極大化すれば「100人の命を救う為に3人の無辜の生命が犠牲になっても止むを得ない」迄包含されると思います。
100人と3人は例ですのでどれ位の比率ならば、その行為が許容されるのかは判りません。
また、自分がその3人に含まれたり、犠牲の意思決定をする立場に追い込まれたいとも思いませんが。
救助隊の派遣を決定する責任者が何れの決断をしても非難し難いです。
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登山家3人が雪山登山をしたばかりに救助隊100人が危険にされされます。
「雪山に登るな」と「三密を避けろ」とは同じだと思います。
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豊中市の事例は新聞などを見ると概ね高評価だったようですね。
おお!なかなか踏みこんだところまでついてきますね。
救命救急のトリアージが100人か3人かみたいなトロッコ問題とどこまで同一と言えるのか微妙ですが、100人か3人かの問題であるかのように感じてしまうのはわかります。
許容できる比率が存在すると想定する以上は、その観点だけでいえば、kibaさんは功利主義者ということになりますね。まぁ私ももし純粋にトロッコ問題的事態に直面したら、功利主義的に判断せざるを得ないのかもしれませんが(とはいえ、3人の中に子供が含まれてたらどうか、肉親が含まれてたら?とか考えるとそれでも純粋に功利主義を貫けるのか微妙ですが)、そのような思考実験的事態に直面することはないと思っているので、私は功利主義の立場には立ちません。
実は孟子が、トロッコ問題に似た事例をあげていて、そこでは祭りの生贄にされる牛と王とが目があってしまい、王がかわいそうに思って、牛の代わりに羊を犠牲にしたという話です。王はそんな自分の判断が変だと思って、孟子にどう思うのか尋ねるのですが、孟子は、その仁の心があれば王たるにふさわしいと王を称賛します。
トロッコ問題で考えればこれはおかしなことです。牛が助かったのはいいけど、じゃあ羊の立場はどうなるのか。王もそれで疑問に思ったのでしょう。
孟子は、王は牛を直接見ることで憐憫の情が生じた。一方、王は羊を直接見なかった。だから犠牲にできた。
孟子がここでやっているのはトロッコ問題の否定です。後から振り返って考えれば、牛か羊かどちらを助ける方が、功利的かということになりますが、大事なのは、今目の前の牛を助けるか助けないかなのです。問題は手前で起こっている。そしてそれを解決する端緒は「牛がかわいそう」という惻隠の情でしかないだろうというのが孟子の答えですね。後はその情をどこまで広げていけるかです。
さて、トリアージ問題にこれを適用すると、トリアージでは、基本的に助かる見込みの低い人を判別して、救命すれば助かる見込みのある重傷者から助けます。これだけを聴けば功利主義的に聞こえますが、実際の救命士は助かる見込みの低い人にも惻隠の情が湧きつつも、助かる見込みのある重傷者の方により強い惻隠の情が湧くのではないか。(めっちゃ推測ですが。当たってる自信もないです。)前者は手を尽くしても死ぬ可能性が高い。後者は自分が手を尽くせば助かる。助からなければ、それこそ自分が見殺しにしたのと同じ。それで後者を選ぶ救命士の感情は功利主義とは違うものであり、惻隠の情に近いのではないかと思います。
功利主義は統計と親和性の高い倫理学説です。それは「後から」「俯瞰的に」みればそう言えると言った性質を持ちます。(多分。)でも現実は「後から」「俯瞰して」見ることはできません。私から見える視点からしか基本的には判断できないのです。私はマクロなレベルにおいては統計は役に立つと思いますが、ミクロなレベルにおいては、事前予測という形で役に立たないわけではないが、それを倫理的判断の基準にはできないと考えています。その理由は、上記の通り、どれだけ事前に統計データとって予測をしても、それが現実を映しているわけではないということと、どのような統計的な判断、功利的な判断にも男尊女卑や、エイジズム、レイシズム等々が紛れ込んでおり、純粋な功利的判断はあり得ないだろうからです。基本的には現場の個人の理性と情の絡み合いの中からしか倫理的解答(100%正しいなんてことは神にしか不可能ですが)はあり得ないのではないかと考えています。
どうでしょう?結構苦しい言い訳って感じもしますね。
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「雪山に登るな」と「三密を避けろ」とは同じだと思います。
まあ同じっちゃ同じですが、それでも雪山に登る自由や集まる自由はあると思います。
そしてその結果リスクが現実化しても助ける責務が救助隊にはあります。
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先ほどの私の回答
「その理由は、上記の通り、どれだけ事前に統計データとって予測をしても、それが現実を映しているわけではないということと、どのような統計的な判断、功利的な判断にも男尊女卑や、エイジズム、レイシズム等々が紛れ込んでおり、純粋な功利的判断はあり得ないだろうからです。」
「上記の通り」は不要ですね。全然上記の通りじゃありません。しかも「現実を映していない」のも「すべての統計、功利判断には男尊女卑などの価値が入り込まざるを得ない」と言うのは同じことのような気がしますね。言いたかったのは、「統計データを使う場合、何らかのアルゴリズムに従って統計を取ることになるわけだが、そのアルゴリズムにプログラム作成者の価値が入らざるを得ないだろう。それを無批判に受け入れるわけにはいかない」みたいなことですね。
しかし、これがkibaさんが追求していたことなのか。。。なんか一人で勝手にずれて行ったような気も。
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雪山登山の例は、100人か3人かという問題ではないですね。実際、3人は助かったが100人の救命隊は代わりに死んだとかは多分あり得ないので。
実際には大まかにいえば、103人無事か、登山家3人は残念ながらかのどちらかでしょう。100人のうち誰かが死ぬ可能性もありますが。そしたら責められても仕方ないですが、それでも行く自由はあります。やめといた方がいいとは思いますけど。
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「後から」「俯瞰して」みたかのように現在を捉えて対応するってことを人間は普段からしている気もしますね。そしてその能力はかなり重要な気がします。かなり人間的な能力な気がします。すると私の意見は修正する必要がある気がしてきました。
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よくよく考えればトロッコ問題自体が、4人で海に漂流して、生き残るために、ジャンケンか何かで負けた人、あるいはすでに衰弱していた人だったかを、殺して食いつなぎ、漁船に助けられたみたいな事例が18世紀かそこらにあって考案されたものだったはず。
現実は思考実験を超えてますね…
これは確かに「緊急避難」です。
でもこれではっきりしました。
「緊急避難」はそうしないと「自分の命」が失われるんです。
でも「100人か3人」のトロッコ問題はどちらにも「自分の命」は含まれていません。自分はどっちの命をとるかを選ぶ超越的な何かです。それはなんだかズルい気がしますが、どうでしょう?ズルいって問題じゃないかもしれませんが。
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トロッコ
私ならばトロッコを山道を走る自動車に置き換えて、前方に「園児のグループ」と「小学生のグループ」が居れば「妻共々崖に突っ込みたい」と思っています。
ただし前方にいるのが「老人会のグループ」ならそこに突っ込むかも知れません。
二次遭難
「助ける責務が救助隊にはあります」との事ですが
「救助義務」が問われるのは「保護責任」がある人に限定されるのではなかったでしょうか?
警察官にどこまでの責任・義務があるかは良く知りません。
井戸に落ちようとする子には「惻隠の情」が湧きますが。雪山登山の大人には「GO WITH YOUR RISKだと」思います。
ですのでこんなややこしい事態を招くのを避ける為にも「雪山に登るな」が私の結論です。
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惻隠の情が何に対して湧くのかは人によってばらつきがあるので、井戸に落ちる子供にすら何も情が湧かないサイコパスにみたいな人もいれば、極悪人の死刑囚にすら、こんなことするために生まれてきたわけではなかったろうになと憐憫の情を抱いてしまう私みたいな変人もいます。
とはいえ人間の動物的な脳の反応だと思うので、ある程度普遍性はあると思いますが。
結論の「雪山なんか行くなよ」っていうのは常識的にはその通りでしょう。
素人のくせに危険な雪山に行くという人がいたら、私もやめとけと止めます。
ただ身体を拘束して行かせないようにする権利はありません。
人間には愚行権があるので(私はあると思っているので)、最終的には本人の自由だというしかない。これは原理的な問題です。
さて次にそんな愚行をしでかしたが為に、窮地に陥った人を助けるべきなのかどうか?助けるのもそれなりにリスクがあります。
kibaさん同様、一般常識的には「助けるべきじゃない」という答えが大勢を占めると思います。うちの家族もこの手の話になると「自己責任なんだから、助けるべきじゃない」と答えるので、肩身が狭いです。
私はこの手の自己責任論が嫌いですが、私は自分自身は極めて強力な自己責任論者だと思っています。どういうことか。
確かに自身の愚行の結果、遭難するという事態に陥ったのは、その人の自己責任です。それは他人の風邪は代わってあげられないのと同様の世界の摂理だと思っています。摂理なので倫理以前の端的な事実だと思っています。
では「自己責任だから助けない」でいいのか。ここには飛躍があります。助けを求めている人間に対し、助ける、助けないの選択をするのは救助する側です。選択主体は救助側なので、当然、どの選択をしようが、その結末は救助側の自己責任として引き受けなければなりません。「ねばならない」という表現も不適切で、引き受けるしかないのです。端的な事実ですから。
私が一般の自己責任論に嫌悪まで感じてしまうのは、他人の判断は自己責任にするわりに、自分の判断は他人の自己責任で免責しようとする態度がダブルスタンダードに見えるからです。他人がどうあれ、助けないって選択したのは自分じゃないか。なぜそこに自己責任論を適用しないのかと。
法律のことは確かなことが言えませんが、救助を求める声をキャッチした以上は警察や山岳救助隊(これも警察の一部かしら?消防?)など公的な組織は救助義務があると思います。
「あなた自己責任なんで助けません」という話は流石に聞いたことがありません。なんなら救助に失敗した場合は救助側に過失が問われる場合もあります。遭難した理由が登山者の愚行だった場合はその点と勘案して賠償が決まります。
荒天等で救助が危険なため助けにいけないことはあっても、それは助けに行くことを前提とした判断だと思います。
まあでも本当にややこしいので、kibaさんのおっしゃる通り無謀な登山はしてはいけないですね。
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『他人の判断は自己責任にするわりに、自分の判断は他人の自己責任で免責しようとする態度がダブルスタンダードに見えるからです。他人がどうあれ、助けないって選択したのは自分じゃないか。なぜそこに自己責任論を適用しないのかと。』
なるほど、そこは深く考えていませんでした。仰る事は尤もです。
むかし、イランかイラクに行った人がアルカイーダに捕らえられた時に「自己責任だ、政府は身代金を出すな」と揉めた事がありました。
新聞論量も当初は自己責任論だったのが次第に変化していったように記憶しています。
評価基準が人によって、時間の経過によって変化するので、意思決定者にとっては困難な問題です。
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自己責任論について納得していただけたようでよかったです。
というより、今まで他人にこのことで納得してもらえた試しがないので、嬉しかったです。
私がこの問題を考えるようになったのは、まさにイラク戦争時に、日本人の青年香田証生さんが武装勢力に捕まり、彼らの「自衛隊をイラクから撤退せよ」という要求が聞き入れられなかった為に、殺害されるという事件からです。
私は当時、小学六年生でしたが、とてもショッキングで、さらに香田こうださんに「自己責任だ」という非難が相次ぎ、政治家まで「自己責任であり、政府に助ける責任はない」と言い出す始末で、子供ながら不可解に思っていました。
「もうすでに監禁されるという罰を受けてるんだから、これ以上自己の責任とれと言われても…」と子供心に思ったのを理論武装させていった感じです。
近年は被害者がジャーナリストでもあり、彼らからマスメディアは情報を買っているため、報道に関しては流石に安直には自己責任論を展開しなくなったように思います。全くないわけではないですが。
ジャーナリストに対しても「危険と分かってるのに行く方がおかしい」という意見もありますが、そこが危険と分かってるのはジャーナリストが取材してるからであり、そこが危険じゃなくなったと判断するためにも、いつかは誰かがそこに行く必要があります。
もちろん危険地域の取材についてはプロが事前にしっかり準備をし、現場でも臨機応変に対応することが前提ですし、失敗して捕まったんならその落ち度を責められても仕方ありませんが、まずは生きて帰らせないと検証のしようがないですし、彼らが手に入れた貴重な情報もパーですね。
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トリアージ
「野戦病院でのトリアージは重傷者は後回しにし、戦線復帰が可能な者に医療資源を投入して早期の戦力回復を図る」が運営基準だそうです。
自衛隊でも現代の軍隊で主流のこのトリアージを導入しているそうです。
「One for all, All for one」の二つ目のOneは「人」ではなく「目的」だそうです。
一つの原則を適用する場合でも、その適応場所によって運用が異なるようです。
愚行権
「人間には愚行権がある」素晴らしい考えです。人類進歩の要因の一つだと思います。
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まさに入山禁止の山に入って遭難し救助された事故が今日ニュースになってましたね。
こういうのを見るとやっぱり愚行はまずいのではと思わないではないです(笑)
ただ人間はいつも理性的で正しい判断ができるわけではないので、愚行を犯しても大丈夫なように保険があるのはいいことではないでしょうか。
戦争でのトリアージはそうなるでしょうね。兵隊は駒ですから、物として扱う側面が出てしまうのは仕方ありません。カント的には人間の物格化であり定言命法に反してますけど、そもそも戦争自体が道徳的にまずいですからね。その内部での道徳的な不味さを指摘しても、虚しさはあります。(戦犯とか従軍慰安婦問題とかも。もちろん無法状態よりも戦争犯罪という規定があった方がいいとは思いますし、慰安婦問題も戦争だったんだから仕方ないで済ませていいとは思いませんが)
One for all, All for one
スポーツの試合など区切りの明確な目的なら素晴らしい効力を発揮する言葉ですね。試合時間中はそう生きることは可能です。
問題は人間は複数の共同体に属しており、そのそれぞれでOne for all, All for one を実行していかないといけないのに、ある特定の共同体のoneが他の共同体のoneより優先させられる状況があることですね。例えば会社のoneのために家庭のone を犠牲にしないといけない状態に追い込まれたり、国家のoneが全てに最優先させられたりすることです。もちろん国家や社会がなければ、家庭や個人もないんだと言えるわけですけど。何でもほどほどに、なぁなぁでやるのが一番だと思いますけどね。
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『何でもほどほどに、なぁなぁでやるのが一番だと思いますけどね。』
予見できない将来に対しては、これが低リスクで高パフォーマンスな在り方だと思います。
世の中で最も質の悪いのが「旺盛な向上心に基づいた、強烈な倫理観」だと聞いた事があります。
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5/1にソウル市内のクラブなど5軒を訪れた20代男性のコロナウィルス感染が6日に判明、11日時点で86人が感染したとの事。
彼の行動をどう評価すべきでしょうか。
これは考え方の例ですので刑法の構成要件まで厳密に追求しないで下さい。
また、韓国では4/20から遊興施設の営業が再開されてますが、営業禁止の発令前の設定で考えて下さい。
1、身をもってコロナウィルスの流行状況を検証した犠牲的精神溢れる立派な人物である。
従ってその功を顕彰すべきである。
2、コロナウィルス感染の危険性を承知していたのに、クラブ等を5軒も廻ってコロナウィルスをばら撒いた。
傷害罪で刑事責任を追及すべきである。
3、クラブ等を廻り感染したのは本人の自由であり、自己責任として完結する。
しかし、感染させられた者からの民事責任の追及は免れない。
4、その他
お考えが有れば教えて下さい。
PS 本人が訪れたクラブがゲイクラブであるのが判明し、LGBT問題も引き起こしているとの事です。
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1.彼がコロナウイルスの危険性を検証する為にそのような行為に及んだかは不明なので評価しようがありません。仮に検証のつもりでやったのだとしたら、プロに任せるべきであり蛮勇です。
2.コロナの危険性は認知していたとしても、クラブに通った時点では自分が感染者かどうかはわからなかったはずなので、それで傷害罪が適用されることはないはずです。私も今日仕事に行きたくさんの人と関わりました。数日後私が陽性者だと判明して、今日会った人にも感染させてたとして傷害罪を適用されたらたまったものじゃありません。というかその理屈だと今まで感染した人全員が傷害罪になってしまいます。
また確実に感染者だと分かった上で、不特定多数の人のいる所に出向き、感染させた場合も傷害罪に当たるかはわかりません。隔離の指示は出てるだろうから、国によっては何かしら罰則があるかもしれませんが。私もこの点に関しては危害防止原則の観点から罰則を設けてもよいのではないかと考えています。日本は社会的制裁が凄そうなので、その辺を加味しての罰則、あまりに制裁が大きいなら罰則はなしでもいいと思います。ただ罰則を設けることでかえって、検査を避ける人が多くなるなら、いちいちお咎めしないほうがよいかもしれません。
(最近、そんな事例が日本でありましたね。陽性と分かってから高速バスを利用した人)
その辺の判断は私にはできかねますね。
3.基本的には自己責任ですね。他人の風邪は代わってあげられない点で。「自己責任だから治療もしてやる必要がない」は暴論ですが。あと、それで他人がかかった場合の民事責任も、詳しくはわかりませんが、普通に考えれば、その他人もまた自分の責任でクラブに通って感染してるんだから、移した人を責めるのはお角違いでは?と思います。
4.その他は特にありませんね。
PSのゲイクラブについて言えば、本人のプライバシーの問題や、LGBTに対する差別を助長する可能性が極めて高いので、行政が公表したことや報道がなされたことを問題にすべきではないかと思います。
仮にそうした場所が感染源になりやすいのだとしても、差別を助長させないように対策すべきですね。
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「御門違い」ですね。すごい違和感あった。
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浦さんは彼を如何評価されます?
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お身体お大事に
できればこれを教訓に、退院後も流行がおさまるまではクラブ通いを控えたほうがいいでしょうと思うくらいですね
それでも行くのは自由だと思いますが。そもそもクラブも営業してるわけだし。
良い悪いの評価をするなら、悪い結果になったんだから、悪い評価になると思います。今更責めてもしょうがないですけど。
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彼に対しては「お身体お大事に」と忠告されるとの事。
それではこの事件自体についてはどの様に評価されます?
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韓国の状況をきちんと押さえているわけではないのですが、おそらくは感染拡大がある程度抑えられ、制限緩和が進みつつある中での、クラスター化だと思われます。今日武漢でも封鎖解除後のクラスター発覚がニュースになってましたね。
一度、制限した結果、感染が抑えられたのなら、解除すると再び感染が拡大してしまうのは、完全滅菌(菌じゃなくウイルスですが)できない以上、どの国でも事情は同じでしょう。
とはいえずっと制限しているわけにもいかないので、感染再拡大自体はやむを得ないと思います。重症者を確実に救い、感染拡大も医療崩壊を起こさない程度であればよいと思うので、今後も制限解除と再制限の微妙な調整をしていく必要があるでしょうね
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制限解除は制限開始以上に判断が難しいと思います。
制限実施は医療関係者の判断で実施できたでしょうが、解除となると関係先が多岐に亘ります。
何方に決定しても不満が必ず出ると思われます。
それこそ高度な政治判断と揺るぎ無い信念が必要だと思います。
今まで日本はコロナ危機に対して巧く対処してきましたが、今後も冷静で効果的な対応ができる事を祈っております。
浦さんのお考えが聞きたくて、ひつこく追及し失礼しました。
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全然大丈夫ですよ
わかんないことはわかんないって言いますし。
自粛は都市封鎖に比べてレベルの高い措置なので、本当は成熟した市民社会を前提にしたものですが、日本は市民同士の相互監視、空気の読み合いを前提にしてやっている感があるので、それはそれで不安があります。今までの投稿で感じているかもしれませんが、私は日本に対しての期待感があまり高くないので、ちょっと辛口になりがちですね。いや期待しているから辛口なのか。。。
制限解除は判断が難しそうですね。再制限の基準もどう作るのか。
「制限実施は医療関係者の判断で実施」
私自身はそこにネックがあると思っています。そもそも社会や経済にも深く関わることを、医学的見地に多分に偏った判断をしてしまった。もう少し社会全体を加味してなぁなぁでやればよかった。今後も医学的見地を重視するのであれば、よほどのことがない限り、制限解除はできません。医者はなかなか「もう大丈夫」とはいえません。科学者ですから、100%はないんです。そこを政治家が「まあ専門家はああ言ってるけど、とりあえず落とし所はこの辺で」と総合的に判断してほしいところなのですが、しょっぱなから科学的エビデンスに頼り切りなため、制限解除でどこまでそのなぁなぁ=総合的判断力を行使できるのかどうか。まぁ国民の意思にもよるのですが。
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一期一会
出会いの場
昨日木岡先生からメールをいただき、
その中に、中村WEBデザイナーからのメールが転送されており、動画の編集を知ることができました。ありがとうございました。
また木岡先生とは約一年前に、ひょんなことからお知り合いになり、復職願いの文章を書いていただきました。ありがとうございました。
今度お話しをさせていただく、ゆずりは では、いろいろなかたとお会いすることができました。ありがとうございました。
また、病気してからは、さらにいろいろな なかまに出会うことができました。ほんとうにありがとうございました。
今度は、バーチャルですが、出会いの場を作りたいです。よろしくお願いします。