毎月21日更新 エッセイ

〈あいだ〉を考える(1)

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〈あいだ〉を考える(1)

――二元論をめぐって

 

 私の手がける風土学には、哲学がこれまで問題にしてこなかった事柄を表す言葉――平凡と言ってもよいような日常用語――が登場します。その中で、私が一番のキーワードとして挙げたいと考えるのは、〈あいだ〉です。このことから、「テクノロジーの問題」につづくエッセイのテーマを、〈あいだ〉とすることを考えつきました。言葉としては、何の変哲もない〈あいだ〉ですが、その意味するところは奥深い。なぜ、何のために、〈あいだ〉にこだわる必要があるのか。今回は、シリーズ(?)の手はじめに、そのあたりの事情にふれることから入りたいと思います。

 

〈あいだ〉と二元論

 いつごろからでしょうか、「あいだ」を冠した書物や論文が、やたら目に付くようになったのは。それには、きっかけがあります。「哲学者」と言ってもよいほど、この分野に造詣の深い精神医学者、木村敏氏の書名にこの語が登場したことが、〈あいだ〉ブーム(?)のさきがけではないか、と私は見ています。一つの言葉が流行する裏には、それが時代の関心にただちに応える明確なメッセージを含むだけではなく、人々が気づかないでいる潜在的な意識のどこかしらに、アピールする部分があるからではないか、と私は思います。「潜在的な意識」というのは、別の言い方をすると、〈隠れた欲求〉ということです。つまり、自分が言いたかった何かを代弁してくれる言葉にふっと出会って、それに飛びつくというわけです。近年、多くの著者が「あいだ」を使用する背景には、この言葉でなければ言い表せない、何かしら重要な意味が存在するという事実を物語っています。

 少し思わせぶりな言い方をしたのは、〈あいだ〉を愛用する人々が、自身のそうした潜在意識に気づいていないのではないか、と考えられる節があるからです。昨年私が出した編著『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ――都市の風土学12講』(萌書房、2019年)では、そのあたりを次のように皮肉っています。

 

同類の身[註.私自身が〈あいだ〉を多用していること]で僭越ながら、そういう著者たちに向けて、「あなたは、どういう意味でその言葉を使っているのですか」と尋ねたい衝動を抑えることができない。というのも、おおよそ「二つのものの中間」といった意味で〈あいだ〉を使用していると思しき方々は、この語が含む毒に、気づいていないのではないか、と思われる節があるからである。筆者と世の〈あいだ〉愛用者に、もし違いがあるとすれば、それは、この語が含む破壊力に気づいているか、いないかにある。(5頁)

 

 要するに、〈あいだ〉なる語には「毒」がある。その毒に気づかずに使っているのではないか、というツッコミを入れたわけです。では、「毒」とは何でしょうか。二元論を否定する、ということです。世の〈あいだ〉愛好者も、私自身も、おおむね二元論に従っている。二元論を公式に否定することはできないし、したくもない。けれども、二元論ではどうしても説明できないと思える事柄がある。そこで、二元論を否定するという訳ではないが、そのスキマをつくように、「~と~のあいだ」といった言い方を採用してみる。それであれば、正面から二元論を敵に回すようなリスクを負わないで済む、というわけです。

 ハッキリ言いましょう。その種の表現は、二元論を否定しないことによって、自分の身を安全地帯に置こうとする態度の表れです。しかし、〈あいだ〉を本気で主張するなら、二元論と闘わないわけにはゆきません。なぜなら、二元論とは、まさしく〈あいだ〉(中間)を認めない思考法、〈あいだを閉ざす〉態度そのものを意味するからです。このことを本気で考える人なら、〈あいだ〉を用いる場合には、従来の二元論をそのまま認めるのか認めないのか、という問いを自身に引き受け、場合によっては、「非二元論」に身を移さなければなりなくなります。

 

二元論と哲学

 ここで当然ながら、「二元論」がどういうものかという問題に、目を向ける必要があります。「二元論」とは、そもそも何でしょうか。哲学の世界で常識とされている二元論。そうは言っても、哲学の世界になじみのない人たちを、壁のようにはね返すのが、「二元論」という専門用語かもしれません。長年この世界で生きてきた私は、よい意味でも悪い意味でも、哲学と二元論は一体であると考えます。そう考えるようになったのは、比較的最近のこと。直前に挙げた「非二元論」の立場に身を置いたときに、〈敵〉である二元論が、とてつもなく強力な相手である、ということが判ってきたときです。二元論が強力であるのには、もっともな理由があります。それは、二元論というものが、哲学の誕生と同時に成立し、したがって哲学と二元論は、切っても切れない強固な関係にある、という理由からです。どうして、そんなふうになっているのか。ここから、歴史を遡って考えることにしましょう。

 と言っても、何も「哲学の歴史」をひもといて、説明しようということではありません。「哲学」を意味する「フィロソフィア」(知を愛すること)が、古代ギリシアで始まったのは、およそ三千年前のこと。その時点における哲学は、人々にとって、むずかしい理屈をこねる知的遊戯ではなく、どうしても考えずにはいられないことを、一生懸命に考えることでした。私達にとって、どうしても考えなければならないテーマ、とは何でしょうか。このエッセイをお読みくださる方に、お訊ねしたい――あなたにとって、どうしても考えたい(答えを出したい)テーマとは、いったい何ですか。

 さて、どんな答えが返ってくるでしょうか。皆目見当がつきません。けれども、この私が三千年前に生きていたとして、お前にとっていちばん切実な問題は何だ、と訊かれたなら、たぶんこう答えるのではないかと思います――「何で、この世界はこんなふうになっているのか」です、と。そう答える理由は、この世界では、どうしてそうなるのかわからないようなケッタイな出来事が、次から次に起こるからです――ちょうど今現在、「パンデミック」が世界全体を混乱に陥れているように。

 それと、たぶんもう一つ、「何で、こんな世の中に自分が生きていなければならないのか」という問いも挙げるのではないか、と思います。中学生や高校生ではない、まもなく古希に到達しようかというジイサンが、ですよ!こんなバカみたいな疑問に取りつかれるのに、若者も老人もない、玄人も素人もない、誰もかれも、です。それが人生ではありませんか。

 昔、京大で教鞭をとられた野田又夫先生(1910~2004)は、「哲学」のもっとも一般的な定義として、「世界と人生の意味についての理性的反省」を挙げられました(『哲学の三つの伝統』岩波文庫、2013年)。つまり、上に挙げた二つの素朴な問いに答えるのが、哲学であるということでしょう。この定義のキモは、「理性的」反省、というところにあります。というのも、「理性的」にこだわらなければ、哲学以外の手段、神話や宗教をつうじて、同じ問いに答えることができるからです。この世界の外に天国や地獄があるとか、悪いことをした者は、死後に裁かれて地獄に堕ちる、とか……。それは、想像力、ファンタジーによる答えであって、「理性的反省」ではありません。

それでは、「理性的」に考えると、どういう答え方ができるのでしょうか。ここからの話は、厳密な論証ではなく、こういうふうに考えてみることが可能ではありませんか、という一つの喩え、いわば〈思考実験〉です。しばらく、それにお付き合いください。

先ほど、「どうしてそうなるのかわからないケッタイな出来事」と書きました。どうしてそうなるのか、原因・理由を知りたい、というのが人情です。手っ取り早く、いいかげんに答えようとするなら、何だか目に見えない力のせいでそうなるのだ、となる。そういう見えない力に、「神」の名をあてがうというのが、神話や宗教のやり方です。しかし、神話的な説明で納得せず、さらにそういう力の意味を追究しようとするときに、哲学および科学の出番が回ってきます。哲学・科学が神話や宗教と違うのは、その場合の原因追及に「理性」を用いるかどうか、という一点です。

 

アルケーと現実

 大学で受ける「哲学」の講義には、かならず「西洋哲学史」が含まれ、古代ギリシアにおける「フィロソフィア」(哲学)が、万物の起源、「アルケー」を訊ねることから始まった、という事実を教えられます。最初(?)の哲学者タレスは、そのアルケーとして「水」を挙げた、というように。現代の私たちは、水がH₂O、つまり水素と酸素の化合物であるという知識を有し、したがって水自体が、あらゆる物質の元素たるアルケーではない、ということも判っています。ですから、古代人のナイーヴな思考力を笑うことは簡単です。

 重要なことは、自然のメカニズムを理性によって解明しようとする哲学が、このようにして始められた、という事実です。アルケーを、タレスのように「水」と考えるか、「無限なるもの」(アナクシマンドロスの場合)と考えるか、考え方はいろいろありますが、そんなことは大した問題ではありません。自然が、現に目に見えるとおりの姿形をしている、というだけではなく、その背後にある見えない何か――「原理」と言ってよいようなもの――にもとづいて存在するという理性的反省が、およそ三千年前に開始され、それが今日まで続く哲学の最初の歩みとなったのです。

 万物の根源を考えること。それは、いま私の眼の前にある事物を、それが現にあるようにさせている何か目に見えないものがある、そういうもののはたらきによって、現実がそのように成立している、と考えることを意味します。哲学の言葉づかいに慣れた人なら、その結びつきを「現象」と「本質」の関係と呼ぶことでしょう。そうです、眼に見える現象を隠れた本質と結びつける思考のはたらきが、「理性的反省」の中心になるのです。私たちがこうして生きている世界を、ただそれだけで存在するものとしてではなく、それ以外の眼に見えない存在との関係で成り立っているものとして、それゆえ二つの異なる存在の関係として、把える態度が、まさしく哲学であるということになるわけです。「二つの異なる存在」を区別すること――お判りでしょう、それが二元論というものです。物事の根拠に向けられた理性の眼差しは、二元論を必然的に生じます。二元論に至らないような哲学というものは、ありえません。

 「世界と人生の意味についての理性的反省」(野田又夫)は、世界と世界の背後にある原理との結びつきを探り当てます。「世界の意味」については、いちおうそれでよいとして、もう一つの「人生の意味」については、どう考えられるでしょうか。私たち一人一人、顔も性格も異なる個性をもちながら、この世界を生きています。だとすると、だれもが世界にとってなくてはならない不可欠な要素であって、それぞれが何らかの役割を担っていると考えるのが、ふつうではないでしょうか。こうして、〈隠れた原理〉――それを「神」の意志と考えるのは、ごくふつうの態度です――と自分の存在が、つながっていることを実感できたなら、自分の生き方がその原理に沿っているということを、信じたいと思うのが当然のことでしょう。そうなったなら、たとえば神が、この世のあるべき姿を「法」「道徳」などとして定めた、と考え、それに従う生き方を選ぶはずです。「人生の意味」とは、世界の背後に潜む隠れた原理を意識して、自分がそこから外れないように心がけて生きること、それ以外のことではありえません。法や道徳倫理は、このようにして、二元論から切り離すことができない仕方で成立します。

 

古代から近代へ

 このエッセイは、二元論に対して、〈あいだを開く〉非二元論の重要性を主張する狙いで書き出されたものです。しかし、こんなふうに二元論こそ哲学であると言って、それを持ち上げるような書き方をしたのでは、非二元論の立場がなくなりそうで、ヤバイ気がします。ですが、〈敵〉の正体を見抜くことから、本当の闘いが始まります。ここまで説明してきた二元論の強みは、裏返せば、その弱点にほかなりません。二元論の「弱点」とは、いったい何でしょうか。

 上に紹介した二元論は、哲学の授業で教えられる典型的な二元論、デカルトがうちたてた「主客二元論」「心身二元論」などとは違うものです。それは、後者のような近代的二元論よりも古く、哲学(フィロソフィア)の誕生にまで遡り、哲学そのものと一体であるような二元論のことです。まずもって、このことを断っておく必要があります。なぜなら、二元論を受け容れる立場も、逆に二元論を否定し乗り越えようとする立場も、真のターゲットが近代のデカルト的二元論ではなく、その源流である西洋哲学の根本的発想であることに、想い到っていないと見られるからです。端的に言えば、哲学とはすなわち二元論であり、二元論に立たないかぎり、哲学はありえない。そういうことを教える哲学の授業が、どこかの大学で行われているなら、聴いてみたいものです。少なくとも私の経験したかぎり、そんなことを教えてくれた先生はいません。ちなみに、哲学イコール二元論、という事実を私に示唆した哲学者は、前回のエッセイでその名を挙げた山内得立。山内は、西洋哲学の研究をつうじて、その核心が二元論であることを早くに見抜き、それとの対決に生涯を捧げました。しかし、ここでそんな脇道の議論に入ることはできません。

 二元論とは何か、という本題に戻ります。世界の意味を反省する哲学は、世界をつくる「原理」と、その働きによって生まれた「結果」の区別を立てます。「原理」と「結果」、より一般的に「原因」と「結果」の関係が、二元論であることを確認してください。「原因」と「結果」は、たがいに独立しているから、二つをゴッチャにしてはいけない。これが、一番わかりやすい二元論のルールです。

 そのルールに沿って考えるとき、例えば、世界の創造主である「神」と、被造物である「世界」や「人間」は、別のものとして分けなければいけない、という決まりが生まれます。古代ギリシアには、〈神-世界〉の区別とよく似た、〈イデア-現実世界〉という区別が立てられました。それが、哲学者の祖とも言うべき、プラトンの「イデア論」です。そういう区別を、近代にリニューアルしたのが、デカルトの二元論。古代の二元論における「神」「イデア」を「精神」「主観」に、「現実世界」を「物体」「自然」に置き換えれば、そのまま近代的二元論となるわけです。それが「近代的」であるというのは、理性的反省が、宇宙全体から人間周辺までスケール・ダウンした、ということです。だからといって、二つのものを根本的に区別する二元論の本質は、何も変わりません。

 

二元論の弱点

 ここから、二元論の弱点、というテーマに移ります。哲学的に考えるということは、異なる二つのものを根本的に区別して、混同しないようにする、そういう態度を意味します。そこに何か不都合があるでしょうか。「哲学的」に生きようとする人にとっては、何の問題もない。ですが、私たち全員が「哲学者」であるわけではなく、そうでない「ふつうの人」が、世の中の大半です。それに、哲学者である人たちも、四六時中、哲学者であり続けるわけではなく、「ふつうの人」に還る時間があります――たぶん、そうである時間の方が、トータルに見て長いはずです、すくなくとも私の場合はそうです。そういう「ふつうの人」である時間に、私たちはただ「二元論者」としてだけ、ふるまっているでしょうか。このことを、どなたにも考えていただきたいのです。

 人は誰でも、二元論的に考えることができるし、誰に命令されなくても、そういう生き方、見方をしています。目の前にある鉛筆は、私の道具として客体であり、それを私が用いて文章を書く行動は、そのことを一々意識することがないほど自然に、自分が二元論に従って生きている事実を表しています。その意味において、われわれの誰もが二元論の徒であって、二元論から離れて生きる者は誰もいないと言えます。

 ですが、そういう一般的事実とは別に、二元論では片づかないような現実に直面することがある。そういう事態は、けっしてまれではない、と私は考えます。それは、どういう場合でしょうか。多くの場合、物事は白か黒か、そのどちらかであるとして、答えが一つに決まるものです。よく見れば、白は白であって、黒ではない。黒は黒であって、白ではない。よく見ても、白だか黒だかわからない、白でもなく黒でもない、とか、白でもあり黒でもある、というような事態はまずない、と言いたいところですが、実はあるのです――「白でもなく黒でもない、白でもあり黒でもある」中間として。これに対して、そんなものはない、白か黒かそのどちらかだ、とおっしゃる方がいるなら、「灰色」が現に存在する事実を示すだけで十分でしょう。二つのものがたがいに対立するとき、そのどちらでもなく、どちらでもあるような「中間」が、必ずある。それがある、という事実に目を向けることから、話を続けましょう。ここから、二元論に対する批判を提起します。

 色の話が単純すぎるようなら、もう少し哲学的な問題を例にとって、二元論の弱点を挙げることにします。『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)で例に挙げた「脳死」の問題。「脳死は人の死か」に対して、答えは、イエスかノーか、二つに一つというのが、この問題を論議した日本社会の対応でした。議論をリードした人たち――政府の諮問機関である「脳死臨調」に集った専門家――は、個々にさまざまな意見を開陳しましたが、脳死は生でもなく死でもない、とか、生でもあり死でもある、といった「中間」に立つ答えを出した人は、いませんでした。無理もない、ここに集まった科学者や哲学者は、例外なく二元論者であって、その立場からすれば、脳死は生であるか、さもなければ死である、といった二者択一の答えしか出てこないからです。

 脳死は生か死か、そのどちらなのかよくわからない、とか、どちらであっても別にかまわないじゃないか、といった声がどこからも出てこないのは、どうしてでしょうか。二元論では、区別された二つの事柄の〈中間〉を認めない、つまり〈生と死のあいだ〉はありえない、ということになっているからです。これが二元論の最大の問題、弱点であると申し上げたい。それだからこそ、二元論では不十分であり、非二元論に立たなければならない理由がある、というわけです。

 いま二元論の「弱点」と言いましたが、二元論自体が間違っているとか、二元論を拒絶せよ、といった式の否定論を申し上げているのではありません。必要ならいくらでも繰り返しますが、二元論を放棄して生きることはできません。二元論を捨てたのでは、日々のオマンマを食らうことさえできなくなります。二元論の弱点として、どうしても克服しなければならないのは、二元論の立場をとるかぎり、二項対立の中間に立つ――拙著の言い方では、〈あいだを開く〉――ことができない、というその欠陥、限界です。残念なことに、二元論を標榜する人々はもとより、これを敵視する陣営の人々も、この考え方、「論理」の欠陥に、気がついていないのです。このことが、「論理」の問題であるということを、今回のエッセイの最後に申し上げます。

 

二元論の「論理」

 「論理」から、何を連想されるでしょうか。「理屈」、ときによっては「へ理屈」という言葉で、論理に対するマイナス・イメージを表明する方も、おいでになるのではありませんか。「それは理屈に過ぎない」という言い方は、理屈では割り切れない真実が別にある、という思いを言い表したものです。「論理とは何か」という面倒な議論はさておき、私たちがふつうにものを考えるときに、かならずそれに従っているような決まり、ルールがあるとするなら、それが「論理」ということになります。論理というからには、そこから外れたものの考え方は成り立たない、そんな考え方をするのはルール違反である、そう言ってよいでしょう。

 

 1 AはAである。

 2 Aは非A(Aでないもの)ではない。

 3 Aと非Aのどちらでもないものはありえない。

 

以上の三つが、形式論理の三法則と呼ばれる規則で、順に、同一律、矛盾律、排中律、と称されるものです。どんな語句でも結構ですから、「A」に何かを入れてみてください。どんな言葉を代入しても、これらの決まりはビクともしません。正しいのです。そうして、すべての事柄をAと非Aの二つに分けて考えるという点で、形式論理は二元論の世界を前提しています。

 しばらく前に挙げた色の例(白と黒)で考えてみましょう。「1 白は白である」「2 白は黒(白でないもの)ではない」は、文句なしに正しいと判ります。問題は3。先ほど見たように、「白でもなく黒でもない」中間としての灰色があるということを、私たちは見とどけました。ということは、第三の法則である「排中律」は正しくない、そういうことになるでしょうか。これは大問題です。「灰色」は例外だ、そういう言い方で逃れようとすることはできません。「論理」であるかぎり、その適用に例外を認めたなら、論理そのものが崩壊してしまうことになるからです。

 では、どう考えたらよいのか。とても難しい問題ですが、二つの道が考えられます。一つは、二元論に立つ形式論理以外の論理はない、として「中間」(あいだ)を認めない方向をとることです。と言うと、そんな乱暴な、それじゃ灰色はどうなるんだ、とおっしゃる方がいるでしょう。別にどうということはない、二つのもののあいだをできるだけ詰めるような存在の秩序を想定すればよいのです。a(白)、c(黒)に、b(灰)が割って入るa-b-c…のようなつながりを、最初から想定しておけば、排中律が現実に対して当てはまらない!という嘆きを聞かされることもないはずです。現代思想でよく用いられる「差異」(difference)――何なら、「グラデーション」と言い換えてもよい――という用語は、〈あいだ〉を認めない二元論の立場を維持するために、考案された工夫の一種だと私は考えます。

 もう一つの道は、上に紹介した形式論理とは異なる、別の「論理」を考えるという方向です。この方向に踏み出したのが、このエッセイでも言及した山内得立。山内は、形式論理という「ロゴス的論理」に対抗する「レンマ的論理」において、「排中律」をひっくり返す「容中律」という考えをうちだしました。私は、これが〈あいだを開く〉思想であると確信して以来、この道を追い続けてきました。その一部始終は、次回に。(つづく)

 

コメント

    • 大竹 太郎
    • 2020年 4月 26日

     コメント失礼いたします。私はこの春から一介の会社員になったものです。その立場から「読み取れたもの」というのをまとめてみました。

     「〈あいだ〉を考える(1)」というエッセイを読ませていただきました。このエッセイの筆者は、「二元論」という我々が持つ一般的思考法と、それとは異なる「あいだ」の思考法のふたつを比較し、違いはどこにあるのかという点をクローズアップされていたかと思います。誠に僭越ながら、一読したところ改めて非常に難しい内容だという感想を抱きました。なぜなら「あいだと二元論」という章では「あいだ」という語を使うのであれば「二元論を否定する」という毒をみとめなくてはならない、と言いながら一方で「二元論の弱点」という章では「二元論を放棄して生きることはできません。」と明言しておられるからです。否定する必要がありながら、放棄することはできないのだとすればジレンマに陥ってしまいます。難しいと感じたのはこのような点でした。
     しかし単純なジレンマでもないようです。おそらくこのエッセイでは「二元論」と「あいだ」の思考法を並べてどちらを取るか、というような形ではなく、この二つの思考法を踏まえたうえでどのように徹底した態度を作ることができるか、ということが焦点なのではないかと私は思っています。
     二章以降、「二元論と哲学」、「アルケーと現実」、「古代から近代へ」という章では、ざっくりしていてすみませんが、二元論が哲学の根本的に結びつくこと、およびその哲学が我々の認識を歴史的に規定してきた、ということを主に筆者は記述されたのだと私は解釈しました。つづく「二元論の弱点」という章では、その当の哲学が我々をとりまく生活のすべてを説明出来るわけではない、ということを記述されています。それは日常を構成しているものの中には二元論で割りきれない「中間的」事柄が存在するためである、という事でした。この二元論的思考法における「中間的」事柄は、それが存在するとすれば、二元論という法則における例外ということになります。エッセイ中では「差異」や「グラデーション」といった考え方が「中間的」事柄をとらえるための枠組みとして紹介されますが、こうした枠組みを設けても依然「中間は二元論の例外である」というかたちが解消するわけではありません。二元論の立場に立ちながら、例外に対しては二元論とは別のやり方をする、このような曖昧な態度の取り方がおそらくこのエッセイの焦点となっています。
     あくまで一般的な原理原則を打ち立てようとして、徹底して取り組むのであれば、二元論の「限界」となっている三則目の「排中律」を否定し、二元論自体と二元論によって規定されたあらゆる枠組みを考えなおす必要があります。
     以上の事をまとめると、このエッセイの筆者が言いたいことというのは、「二元論」と「あいだ」を二足のわらじの様にして場面によって使い分けるという曖昧な態度ではなく、二元論を踏まえつつ、いつでも、どこでも通用するような「あいだ」の論理を構成する必要がある、ということだったと私は解釈しました。間違っていたらすみません。

     続きのエッセイを楽しみにしております。失礼しました。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 4月 29日

     本エッセイにおける私の二元論批判に対するコメントは、他にも「出会いの広場」で「二元論への疑問」として、他の方々から取り上げられ、突っ込まれています。それに対して、昨日お返しした時、二元論をめぐる私のスタンス――貴方から「ジレンマ」と指摘された両義的な態度――について、こちらのコメントでお答えすると書きました。
     「二元論を否定する」けれども「二元論を放棄しない(できない)」という言い方は、明らかにジレンマであり、矛盾しています。この点に関して、否定と肯定がなぜ両立するのか、という点の説明を補足したうえで、私が結局のところ、二元論批判をつうじて、哲学を基礎とする西洋文明に敵対しようとする理由を、短く説明します――もちろん、それで説明が十分であるはずもないので、今後のエッセイで書き継ぐとともに、「哲学塾」など実際の対話の場で、みなさんといくらでも論じ合う用意があることを申し添えます(HP上のやりとりには、一日の一部の時間を充てることしかできない事情があるのです)。
     二元論対非二元論、ロゴス対レンマ、という大枠で論じていますが、後者の側に立つ者は、前者に対抗すると同時に前者を受け容れる、という二律背反的な対応をとる以外にありません。なぜなら、二元論を否定するという所作自体が、二元論を容認してはじめて可能になることだからです。これは、二者の中間、〈あいだ〉(between)が二者の存在を含意することと同じです(浦さんからの質問への答え)。その二元論の問題は、二者を分けるだけで、分けられたものの中間を認めない「排中律」にあるということも、述べているとおり(必要なら、どこかで議論を蒸し返してもよい)。
     二元論の肯定・否定ということは、論理の形式よりも、その運用にかかわるアンビヴァレンツの問題です。かつて私のゼミ生であった貴方には、〈欲望の論理〉を一から再説するような手間を省かせていただきたい。二元論の本質―—それが何かは、第二義的な問題とさせていただきたい――を、二者を分ける態度――例えば、主客の分離――という一点に集約した場合、欲望の無限増殖を抑えるすべがない。それをいかに抑えるか、という関心の下で浮上するのが、〈あいだを開く〉レンマ的論理です。〈欲望〉を全否定することはできません。基本的に欲望を認めるけれども、それをセーブするための理論装置として、どうしても〈あいだ〉の論理が必要になる、という訳です。実質的には、こちらのジレンマがより重大です。近代世界をいかなる意味において肯定し、かつ否定するか、という根本問題ですから。
     ポストモダンなど、二元論批判らしきものは、すべてロゴス的論理の牙城に迫ろうとしない、上っ面だけのもの。一昨年も、フランスの若手現象学者数名と国際シンポで組みましたが、ベルクの「通態性」程度の発想すらない、お寒い実力でした(「新着情報」のページの「新刊紹介」を参照)。
     二元論を「敵」に見立てる理由は、それが西洋世界発の哲学の優位性を信じて疑わない独善性、私の言う「優等生の論理」と一体であるということです。別の言い方をするなら、他者との〈邂逅〉に向けて開かれていないということ。どうか、お持ちのはずの『邂逅の論理』を本気で読んでください。そこに私の言いたいことのすべてがあります。

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