毎月21日更新 エッセイ

あいだを考える(5)――距離と対話

あいだを考える(5)――距離と対話

 

 7月以降、新型コロナウィルスが再び猛威を振るい出し、感染拡大の第二波が到来したことは、どなたもご承知のとおりです。この事態の影響を受け、私の主宰する「木岡哲学対話の会」(7.24)も、会場にゲストを迎える通常のトーク形式を急遽取りやめ、ゲストの自宅と会場、各拠点を結ぶ同時多元中継の方式を、はじめて試みることになりました。会の一部始終は、「新着情報」にリンクさせる予定の動画でご覧いただくとして、今月のエッセイは、私が今日まで追求してきた〈対話〉と、最近耳にすることの多い「距離」との関係、という観点から、〈あいだ〉の意味を考えてみることにします。議論の狙いは、①「距離を保つ」とはどういうことか、②対話は正しい意味での距離によって成立する、この二点を明らかにすることです。手はじめに、「距離」の意味を考えることから入ります。

 

「社会的距離」とは?

 「三密」を避けることと関連して、「社会的距離をとる」という言い方が、よく用いられています。わざわざ「ソーシャル・ディスタンス」と言われるケースもあることから、これも欧米から輸入されたアイデアらしいと見当がつきますが、どこの誰がどういう意味で用いだしたのか、私にはハッキリしません。「ディスタンス=距離」は、中学生でも知っていますが、それに「社会的」がくっつくのは、どんな思惑からなのか、私のようなウルサ型の年寄りは、その点にこだわってしまいます。他人とくっつかないように離れよ、という意味なら、「物理的・空間的」距離と言えば済むでしょう。それを、わざわざ「社会的」という必要があるのか、と。「他人との間隔を空けよ」と言えば、何の紛れもありません。ウィルスの飛沫感染を避けるべく、他人との間隔を保つという配慮は、むろん必要でしょうが、その程度の常識を説くのに、わざわざ「社会的距離」などという言葉を使う必要があるのでしょうか。そういう細かいことに、ウサン臭さを嗅ぎつける私の方が、チョットおかしいのでは……とためらいつつも、いや、ここにこだわった方がよい、というもう一方の内心の声に従って、考えつく疑問点を挙げてみます。

 「二点間の距離」という場合のように、空間的な位置同士の隔たりを表すのが「距離」であることは、誰でも知っています。しかし、空間的な位置関係だけなら、直前に申したとおり、距離には物理的な意味しかなく、「社会的」という限定は不要、不適切であって、ケッタイな用法だと言わざるをえません。にもかかわらず、そういう変則的な言い回しが通用する裏には、単に物理的ではない別の――心理的?――意味合いが、「距離」に込められているのではないか、という疑いが生じてきます。そのとおり、「距離」という概念には、物理的な意味だけではなく、心理的な意味も含めた関係性が含まれています。付け加えて申し上げるなら、「距離」は、私がこれまで問題にしてきた〈あいだ〉と、非常に重要なかかわりがある言葉だということを、最初にご注意申し上げます。

 哲学の世界で「距離」に大きな意味を与えたのは、前回のエッセイでも名を挙げたドイツの哲学者、ハイデガー。彼は、人は何かに関心をもつことによって、はじめて「人間」なのだという事実を、日本語の「距離」に当たるドイツ語Ent-fernungによって言い表しました。この語を「距-離」という日本語に訳した九鬼周造は、漢文式に「離れを距(ふせ)ぐ」という読みを、この熟語に施しました(『人間と実存』岩波文庫、225頁参照)。ここで、哲学的な難しい解釈に立ち入ることはしません。人間――ハイデガーの用語では、「現存在」――とは、何ものかに関心をもつ(配慮する)ことによって、それとの関係を生み出す存在であるとし、そのあり方を「離れを距ぐ」という意味の「距離」として規定したわけです。『存在と時間』という大きなテクストの中で、ハイデガーは、「間隔」「離隔」など類似の言葉と並べたうえで、「距離」には人間の関心的なあり方が含まれるという点で、「隔たり」「離れ」しか表さない、前者のような言葉との違いを強調しています。

 さて、少しばかり哲学的議論に立ち寄りましたが、いかがでしょうか。私が何を言おうとしているのか、これまでのエッセイに付き合ってくださった方なら、察しがつかれるかもしれません。そうです、昨今「社会的距離」の必要性を唱える人々に、上に挙げたような意味での「距離」の意識があるのかないのか、その点を私は問題にしようとしているのです。いくらか気どって「ソーシャル・ディスタンス」を口にするジャーナリストに、「離れを距ぐ」という意識がはたらいているでしょうか。そんなはずはありません。いつ聞いても、それは、他人との物理的間隔を空けよ、という以上のメッセージとして受けとることができません。しかし、そうでありながら、それだけの意味にとどまらない隠れたメッセージが、「社会的距離をとるように」というスローガンに込められているのではないか――その言葉を発する人たちは、そのメッセージに気づいているのかどうか――、という疑いがあります。ここから、私の批判はもう少しエスカレートします。各種メディアで、この言い回しを好んで用いる人たちに、次のような問題がどこまで自覚されているのか、という疑問です。

「物理的」距離ではなく、わざわざ「社会的」距離とする理由が、いったい何であるのか解せない、と最初に申し上げました。そこには、単に「物理的」ではない、「心理的」な意味が付与されている可能性があります。周囲の他人と一定の間隔を保つ、というだけのこと――それなら、物理的距離でいいわけです――ではなく、意識の上で、他人を近づけるな、もしくは他人からできるだけ遠ざかれ、というような「心理的」忌避の含みで、「社会的」距離が叫ばれているのではないか。強く言えば、他者との社会的関係を断つことにつうじる勧告の意味が、「社会的距離」の使用に含まれている、という気がします。この疑いが杞憂であることを、私としてはむしろ望みます。ウィルス感染防止と、社会的関係の遮断とは、まったく別次元の事柄です。前者を理由に後者を説くことなど、本来あってはならないこと。にもかかわらず、そういう事態が生じているのではないか、と疑わせるだけの事情が、この間の世相に目を向けることで浮かび上がってくるのです。

 

差別への転落

4月に「番外編」として発表したエッセイ「コロナウィルス雑感」には、多くの方から反響の声が寄せられました。そのエッセイの中で、私は中国武漢からの留学生K君が発した「差別」についての問題提起をご紹介しました。それは、爆発的感染の中心地である武漢が、隣接地域の人々から排除され、差別を受けるのに反し、直接の影響を受けない遠隔地――例えば、北京――の人々からは、逆に「神聖化」されるという趣旨の発言でした。ご記憶の方もおいででしょう。

それ以後も、日本国内ではこれと同様の差別現象と思われる事態が、ひんぱんに起こっています。たとえば、医療従事者とその家族に対する差別。医師や看護師の子弟が、学校などではまるでウィルスの運び手であるかのごとく、うとんじられ忌避されている、という現実。ところがいつごろからか、天王寺駅に近い大阪市立大学医学部病院前のバス停を通過するそのつど、甲高い子どもの声で、「医療従事者のみなさん、ありがとうございます」という録音の声が響き出しました。「差別」の尻から、「神聖化」。まるでマンガじゃありませんか。別の例――私が滞在している夏の別荘地では、周辺地域に居住する一家の中から感染者が出たために、周囲から村八分の扱いをうけ、地域外に移住することを余儀なくされた例があるということを、6月に来たさい、知人から聞きました。ヒドイと思われるでしょうが、これが日本社会の現実です。一部地域での感染者に対するすさまじいバッシングは、申すまでもないでしょう。自分に直接の影響が及ばない範囲でなら、感染被害者に対して人情を発揮するにやぶさかではないが、わが身に及ぶリスクを実感したとたん、冷血鬼に変貌する。4月に聞き及んだ中国のケースと日本の現状、ことの本質はまったく変わらないと私は考えますが、いかがでしょうか。

「社会的距離」という、一見何の問題もなさそうな一語から、私が感じるこだわりを押し広げていくと、上に申し上げたような「差別」への懸念にたどりつきます。「社会的距離をとりなさい」というスローガンは、てっとりばやく言うなら、感染リスクの解消を名目にして、他人との人間関係をできるだけ希薄にしなさい、という呼びかけとしか、私には受けとれません。そういう受けとめ方をしてしまう裏には、私が変人である点を除けば、現代世界が〈人と人のあいだ〉を閉ざす方向に突き進んで止まない現状、その決定版であるかのように、コロナ騒動が表舞台に居座っている、という現状認識があるのです。

「コロナ後の世界」に、私がまったく希望をもてない理由は、このような現状認識にあります。人的接触の回避による不利益を軽減するという目的から、IT(情報技術)の活用が奨励されています。私の勤めていた大学でも、授業をオンライン化することで、それなりの社会的責任が果たせているかのように錯覚している節があります。これに関して、対人的接触の放棄は、大学という存在の自己否定である、と私は主張してきました。そう申し上げれば、それではお前は、ITが〈人と人のあいだ〉を開くことに全然寄与しないと主張するのか、という反論が返ってくるでしょう。そうではありません。現在の状況において、新しい情報技術は、それなりの役割を果たすことができます。放っておけば、ゼロになりかねない〈あいだ〉を開くための、よすがとして、ITはかけがえのない社会的使命を発揮することができます。テクノロジーに消極的な私ですが、そのことを最近の「木岡哲学対話の会」でハッキリ実感しました。ここから、焦点を「距離」から〈対話〉に移して、議論を続けます。

 

〈対話〉の意味

 対話は距離を前提します。距離がなければ、対話は成立しません。対話とは「ダイアローグ」(dialogue)、すなわち「二つのことば(ロゴス)」ということです。二人が言葉を交わすためには、それぞれが別の位置にいて、たがいに離れたところから語りかける所作が必要になります。けれども、その場合の「距離」は、先にご説明したような意味で、単なる「離れ」「隔たり」というのではなく、「離れを距ぐ」関係性というものになるはずです。二人の占める空間的位置がどれだけ離れていようと、対話が行われるということは、二人のあいだに心理的な近づき、つながりがある、ということです。そういう意味で、対話するとは距離をとることであり、近さと遠さ、親しさとよそよそしさ、という正反対の要素を両立させるふるまいである、ということができるかもしれません。

 と、こう申し上げたなら、お前の言う「距離」とは、〈あいだ〉を指すのではないか、と問い返す方がおられるかもしれません。まさしくそのとおり、私がいつも口に出す〈あいだ〉とは、距離のこと。今回のエッセイに関して言うなら、(「離れを距ぐ」という意味での)距離をとるということは、そのまま〈あいだを開く〉ということにほかなりません。

 対話は距離を前提する。この出発点に戻りましょう。人間の歴史の中で、無数に繰り返されてきたのは、同じ場にいる人々が、顔と顔を突き合わせて言葉を交わす、「対面型」の対話です。私が主宰する「木岡哲学対話の会」も例外ではなく、毎回ゲストを会場に招いて発表をお願いし、その後で参加者との討論を行ってきました。しかし、7.24に開催した直近の例会では、こうした「対面型」の対話ではなく、会場外の自宅にいるゲストに、会場、各地点の参加者を結ぶ同時多元中継、というはじめての方式を採用しました。採用したというよりも、そうせざるをえない状況に追い込まれたという事情は、最近のウィルス感染者急増の状況から、ご想像いただけると思います。

内容は後回しにして、とりあえず今回の試みが従来のやり方と異なる一点を挙げるなら、このたびの哲学対話は、同じ場に人々が居合わせることなく行われた、「非対面型」の対話であるということに尽きます。評価はさておき、今回の試みが〈対話〉として成立したこと自体は、間違いのない事実です。Zoomを利用して、多くの方が参加されました。中心は、「哲学対話」の提唱者である梶谷真司先生(東京大学教授)。先生はじめ、自宅のパソコン、スマホをつうじて参加した学生、社会人のみなさんも、これが新しい形の対話であるという確信を共有されただろう、というのが私の受けた印象です。かく申す私も、テクノロジーの発展によって、「非対面型」の対話が可能となった時代に、私たちが生きているという現実を、正面から受けとめなければならないことを痛感しました。ただしそれは、従来のような「対面型」の対話が、それとは違う「非対面型」の対話に取って代わられた、ということではなく、性格の異なる二種の対話を、いずれも選ぶことができる選択可能性を人々が手にした、ということを意味します。どちらがよいとか、悪いとかいうことではなく、二とおりの可能性を前にして、私たちが対話に何を望むのかについて、真剣な反省が求められている、そう申し上げたいのです。

 

「哲学対話」の実際

 ここで、「哲学対話」とは何か、という問題を考えてみます。考える材料は、これまで「木岡哲学対話の会」が行ってきた「対面型」の対話と、先日、「非対面型」で行われた梶谷先生による「哲学対話」、この二つです――お断りしておきますが、後者もふつうは「対面型」の対話であって、特別な事情から、今回たまたま「非対面型」で行われたものの、二つの対話を「対面型」「非対面型」として区別するつもりは、まったくありません。

 先日の会で司会に当たった私は、最初に二つの「哲学対話」が完全に一致する点を、三つ挙げました。①哲学とは自分で考えること、②考えるためには対話が不可欠であること、③対話の場を開く必要があること、この三点です。いかがでしょうか。エッ、ウソ―、という声が上がるかもしれませんね。エライ「哲学者」が考えたことを学ぶということが、哲学だと信じ込んできた――というより、信じ込まされてきた――人たちは、「自分で考える」ことが哲学だというような話は、すぐには受け容れられないでしょうから。連載中のエッセイに付き合ってくださっている方なら、私の書くことから、すでにそういう趣旨を読みとっておられるかと思います。梶谷先生の著書『考えるとはどういうことか』(幻冬舎新書、2019年)には、哲学対話の意義が、解りやすい明快な文章で述べられています。その本からも、上の三点は、誰の目にも明らかに伝わってくるでしょう。私の方から、それに付け足して説明する必要は感じません。

 私とは違って、ITに堪能な梶谷先生は、「対話型哲学の可能性」と題したスライドを用意され、要点を映し出して、哲学対話に参加するうえでの心得を何点か挙げられました。非常に印象的な内容でしたので、以下に書き出してみます。

 

[哲学対話のルール]

  〇何を言ってもいい。

  〇人の言うことに対して否定的な態度をとらない。

  〇発言せず、ただ聞いているだけでもいい。

  〇お互いに問いかけるようにする。

  〇知識ではなく、自分の経験にそくして話す。

  〇話がまとまらなくてもいい。

  〇意見が変わってもいい。

  〇分からなくなってもいい。

 

 このルールを見て、すぐに「そのとおり」と頷く人が、どれだけいるでしょうか。私は、ウーンと唸りました。「対話」から「討論」を連想しがちな人たち――私もその一人ですが――にとっては、意外そのものではありませんか。これらのルールには、発言をあらかじめ方向づけたり、規制したりするようなシバリは、まったくありません。討論会であれば、ふつう「発言しなければ」というようなプレッシャーがかかるものですが、三番目のルールを見ると、それからも解放されると判ります。これらの項目は、〈対話の場〉を自由な空間として開くための必要条件と言えるでしょう。このことを裏返してみれば、現在、社会とりわけ学校などで、自由にのびのびと発言できる機会が、ほとんど奪われてしまっている現実が、逆に浮かび上がってきます。ハワイ大学から始まったという哲学対話の運動は、「子どものための哲学」(Philosophy for Children, P4C)という理念にもとづく取り組みです。子どもが対話をつうじて、考えることの面白さに目覚めていく結果を知って、日本の社会でも、哲学対話を実践する梶谷先生のような方が現れたわけです。去年でしたか、その「哲学対話」に参加した偏差値の低い高校に通う生徒が、有名な難関大学に合格したという記事が、『日経』に出ていました。これなど、現在の学校教育に欠落している「自分で考える」ことの楽しさに目覚めた生徒が、潜在能力を開花させた一例ではないかと考えられます。

 八つあるルールの中で、私の身にいちばん深く応えたのは、二番目の「人の言うことに対して否定的な態度をとらない」でした。このルールは、相手がどんな発言をしても、それを拒否することなく受け容れる態度を意味します。長年続けてきた教師生活の中で、学生に相対して、「君は間違っている」といったもの言いを避け、相手の発言を拒否しないような対応ができたかと言えば、そうではなかったと認めざるをえません。「教育的指導」にとらわれるかぎり、相手との自由な〈対話の場〉を開くという目標は、掛け声だけで終わってしまうでしょう。この点が、先日の会から私が得た多くの教訓の中で、筆頭に挙げたいものです。

 

〈対話〉と論争

 ここから、私がこれまで行ってきた「哲学対話」のありように話を転じます。「木岡哲学対話の会」は、その前身である「都市の風土学」(関大の大学院講義)の時代から通算すると、大方20年の歴史を数えます。最初の頃は、リレー式講義のゲスト教員が、毎回交代で登壇、90分の時間枠のほとんどを一方通行で講義し、残されたわずかの時間――まったく時間を残さない方も、相当数いました――に、聴講者が質問する(というより、させていただく)というものでした。このやり方に慣れない社会人には、沈黙する傾向が強く、発言を促すために、ナヴィゲーターの私が口火を切ることで、かろうじて後に続く人が出る、といった実情でした。そういう状況が次第に変わり、スタッフにも参加者に語りかける余裕が生まれてくるとともに、参加者から質問・意見が活発に出されるようになったのは、ここ数年のこと。それ以前は、「哲学対話」というにはおよそ程遠い状況が長く続きました。

 そんな実態ではあっても、部分的にではあれ〈対話〉を取り入れたことで、私は硬直した大学のあり方に風穴だけは開けた、という自負をもっています。大学のありようはともかく、20年間、こういう取り組みを続けてきたことは、現在の「対話の会」に引き継がれて、私自身のバックボーンになっています。とはいうものの、大学での講義をベースに発展させた哲学対話であることからして、そこには払拭されるべき旧弊、問題点が残っている、ということも確かだと思われます。同時に、それだけではなく、アカデミックな根をもつ哲学対話なればこそ、生かし続け育んでいかなければならない面もあると考えられます。この両方の面について、梶谷先生主宰の「哲学対話」から、考える手がかりをいろいろ頂戴した次第です。

 「木岡哲学対話の会」の前身である「都市の風土学」では、私は「人の言うことに対して否定的な態度」をとることに躊躇しませんでした。リレー式の講義ですから、年間計20人を超えるゲスト講師が、入れ替わり登壇します。看板は「都市の風土学」でも、年ごとにテーマ・内容を変更してプログラムを組む関係から、固定的な多数のメンバーに、毎年新しいスタッフが何人か加わります。私は、自身の講義以外の回は、ナヴィゲーターとして他の先生方の講義を司会し、最後の討論を仕切りました。その討論では、一般参加者をそっちのけで、講義担当者とケンカすることがよくありました。一般の方から、「先生、あまり興奮しないで」と釘を刺されることも、しばしば――「キレやすい」私の性格は、年齢とともに、とりわけ8年前に脳卒中で一時リタイアしてからというもの、高じる一方です。いま思えば、周囲にずいぶんご迷惑をかけたに違いありません。

 長らく付き合ってきた――親友と呼べるほどに――同僚ですら、ディベートによって敵対し、それっきり縁が切れた人もいます。いったい何が問題なのか。学問上の立場や主張の異なる相手と、正面からぶつかったからだ、と言うだけで説明になるでしょうか。そんなふうに人間関係を壊すような討論が、〈対話〉なのかと疑問を抱かれることでしょう。〈対話〉から連想されるソフトな空気は、学問的ディベートにはありません。とはいえ、学問の世界は、主張の正否をめぐってしのぎを削る真剣勝負の場である、と私は考えます。研究者なら、そのことを承知して学問の道に入ったはずではないか、というのが自己正当化の弁明です。

 けれども「哲学対話」は、そういう学問的闘争ではなく、自由に考え、ものを言うことのできる機会として、だれに対しても開かれなければなりません。現在の「木岡哲学対話の会」には、その気持ちがはたらいているつもりですが、参加者はどう受けとめられているでしょうか。私にとって、〈対話〉は自由な語り合いと、場合によっては論争、そのどちらかというのではなく、両方を含みます。読者のみなさんにとっては、いかがでしょうか。

 

今後に向けて

 最後に、距離と対話の関係に立ち返って、おさらいしておきます。

 人と人が出会って言葉を交わす行為が、〈対話〉です。出会うこと、言葉を交わすことは、「距離」を前提します。距離とは、離れること、隔たることではなく、その反対に「離れを距ぐ」こと、つまり関心を持ち合うこと、を意味します。あなたと私は一体じゃない、けれど別々でもない、という関係を自覚することが、〈あいだを開く〉ということ。著書で再三述べてきたこのことを、今回は「距離」をもとに対話すること、として言い換えたわけです。「ソーシャル・ディスタンス」という気取った言い方には、このような「即かず離れず」の意味が感じられません。昨今の報道を見ると、リアルがダメならバーチャルでいいじゃないか、として「バーチャル飲み会」から「バーチャル帰省」まで何でもあり、といった風情です。何度でも繰り返して言いますが、バーチャルそれ自体がいけないとか、それをするな、という訳ではない。どうしてもそれが必要な場合には、テレワークもオンライン講義もやむを得ない、と私は考えます。けれども、何十万年も昔から人類が経験して維持してきた、直接顔と顔を見合わせてのやりとりが、〈あいだを開く〉対話の基本である。この事実をふまえた上で、緊急避難的に非対面型の対話を活かす道を考えるべきではないか。先月の「木岡哲学対話の会」は、ハイテク受け容れに消極的な私に、そういう方向の可能性を示唆してくれた、貴重な機会であったと総括して終わります。

コメント

    • 小室
    • 2020年 8月 30日
      Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699

    「社会的ディスタンス」については、私も同じように考えていました。「社会的」の表現は、差別をうみやすくなっていると思います。
    隣町の初感染者の女性が引っ越されたという話を最近、耳にしたところです。「2メートルディスタンス」にすればよかったのでしょうか。それならば、2メートル以上離れた近所の人々は、安心したのでしょうか。「社会的」だから、狭い地域のなかで、孤立していったのでしょうか。怖ろしいことです。
    「社会的」も、以前木岡先生が取り上げられた「空気をよむ」も、あいまいな表現で、日本人はこういう表現をよく使いますし、好きなのだと思います。「2メートル」とすることの方が限定されていて二元論的で、私は好きではありません。私は、言葉を使う人の側に、問題があるのではないかと思います。
    先生がお書きになっている〈もの〉ように、日本語は、何種類もの意味があって、あいまいです。「社会的」も「空気をよむ」も、〈あいだ〉を開いてとらえることができれば、むしろスムーズなのではと思います。現代の日本人が〈人と人のあいだ〉を閉ざす方向に突き進んで止まない現状であるのに、あいまいな表現を好みやたらと使いたいことがバランスを欠いてしまい、こうした哀しい結果を生むのだと考えました。

    昨日、『〈あいだ〉を開く レンマの地平』読書会に参加しました。脱線に次ぐ脱線で進みが遅くてまだ第二章ですが、[哲学対話のルール]がお互いの暗黙のルールになっているのだと感じました。信頼できる仲間内なので暗黙でいいのですが、そうでない場合は、このルールを掲げて始めるのがいいですね。参考になりました。
    第2章後半は、「自性」「世俗諦」など調べながら読みました。すべて「仏語」と記してあり、「日本哲学用語」とでも書いてあればいいのにと思います。「仏語」→宗教となりやすいので、これらの言葉が身近にならないのではないでしょうか。日本人はもっと自国の哲学を学ぶべきです。
    読書会で私は、「縁起はすなわち空」を理解できないことをみんなに問いかけました。縁起や無自性までは、なんとか読み進められるのですが、「空」が出てくると、止まってしまうのです。話し合うことで、私は「空」をつかみとって頭で理路整然と理解したい、私の感覚にどうしても「からっぽ」の「空」があって、そこから逃れられないのだと気づきました。「空」をつかみとりたいその手を離すといいですよ、「混沌」のようなものととらえたら、と教えられ、わからないなりにも、ふんわりと落ちつきました。
    本に、「直観的」とあるように、感覚的にとらえることなのでしょうか。自分の頭の固さを自覚しました。

    先生のエッセイ、読書会の仲間も読んでいて、毎回話題にのぼります。「人間」と「自然」から「もの」へ、そして、「風土学」へと続くのでしょうか。楽しみにしています。これも「縁起」ですよね。広がっていますね。とても面白く楽しいです。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 9月 01日
      Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699

    小室さんのご意見から、言葉の難しさを改めて考えさせられました。「縁起」「空」「自性」など、元々仏教用語には違いないけれども、日本人の日常用語に入り込んでいて、それなりに使いこなされています。『仏教辞典』――私は岩波と法蔵館のものを使用――には、オリジナルの正確な意義が出ていて、日常用語との異なりが印象づけられるものの、後者といえども長年の歴史の中で定着した意味ですから、それなりにレッキとした重みがあります。
     「空」を「からっぽ」と受けとめられるのは、そのとおり。英語では「空」をemptinessと訳す以外にありませんし、同様に「無」もnothingnessと訳すことになる。仏教由来の概念について、今日のわれわれが具体的なイメージがもちにくいことの一つの理由は、私たちの手持ちの概念が、西洋哲学の世界で形成された用語につよく影響され、それを介しなくては「理路整然たる理解」に達しない、という事情があるためです。ですから、「レンマ的論理」って何だ、そんなものが論理か?といった反論が出てくるのも当然のこと、無理もありません。あなたに「空」の「直観的」あるいは「感覚的」な受けとめ方を助言された方がおいでなら、その方は日本の哲学に特有のこうした事情をよくご承知なのでしょう。
    「日本哲学用語」集が、もしできるとすれば、①インド-中国から伝来したのち、日本語として定着した用語、②西洋哲学の伝統から輸入された用語、③以上の二種類がミックスされ、フュージョンすることで一般化した用語、この三種の語を慎重に区別しなければなりません。それは大変なことです。余談ですが、現在の私は、「瞬間と刹那」という主題に取り組んでいます。ほとんど同じ意味にとられているこの二つの言葉に、きわめて大きなギャップがあることを、最近になって感じています。ある種の言葉が、西洋と東洋のいずれかにのみあって、他方にはないとすれば、その言葉は、その世界に固有な考え方、生き方を表す指標であると考えられます。そういった認識を、いま取り組んでいる著作に反映させたいと願っています。

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