〈あいだ〉を考える(1)についての質問

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  • このトピックには2件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により3年、 7ヶ月前に更新されました。
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    • #473 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      〈あいだ〉を考える(1)を拝読しました。
      西洋哲学がそもそも根本的に二元論的思考を前提にしているという木岡流西洋哲学史、面白かったです。

      私にとって、考えたい問題は、「皆、基本的には同じ人間で、同じ脳や中枢神経の仕組み等々で、同じように意識を発生させているのに、現に意識できる存在が私しかいないのはなぜなのか。それを決めたのは何なのか。」ですかね。それほど切実でもなくて(全く生活に差し障りないので)、おそらく答えも出せそうもない(科学的にも出せないですし、実は全治全能の神ですら、わからないあり方をしていると、ずっとこの問題について考えている永井均氏は述べてますね)ので、永井氏の議論を読んで楽しかったらいいかなと思ってますが。ただそういう問題があるという感覚だけはリアルですね。なので私にとってはデカルトの「我思うゆえに我あり」はかなり真理をついていると思っています。その後の心身二元論はむしろどうでもいいのでは?と思うくらいです。

      さて私は年代的にポストモダン思想から哲学・思想に触れてきた人なので、どちらかというと西洋の二元論的思考の問題を延々聞かされてきた方だと思っています。二項対立とか自然の鏡とか、その脱構築とか差延とか。私は哲学を専攻していたわけではないので、浅い理解に止まってますが、それでもかなり影響を受けてきたとは思っています。
      なので木岡先生が西洋のポストモダンとは根本的に異なる思考で、西洋の二元論を乗り越えようとしていることに興味があります。

      そこでいくつか質問なのですが

      〈あいだ〉という言葉に二元論が含まれていることに関してはどう考えていますか?
      〈あいだ〉といった時点で、両端(少なくとも二つ以上の何か)が想定されるしかないと思うのですが、どうでしょうか?
      木岡先生は二元論を全否定しているわけではないので、〈あいだ〉という非二元論的思考は二元論的思考を包含しているという理解が正しいのでしょうか?

      エッセイで同一律、矛盾律、排中律を説明しているところで、Aに仮に「白」を代入していますが、なぜ「黒」まで代入されるのでしょうか
      非A=非白=白以外の無数の色であって、黒だけが「白以外のもの」ではないはずです。「白か黒か」と言われたら、「灰色もあるだろう」と言うしかないでしょう。赤もあるし、黄色もある。別にそれで、西洋の論理が破綻したとは思いません。でも本当の問題は、「「白」と「非白」で全ての色を過不足なく包含し、かつ「白」と「非白」が矛盾しているのにもかかわらず、「白でもあり、非白でもある」と言えるのはどういうことか?」ではありませんか?
      まあ、多少不正確でも白と黒で述べた方がわかりやすいのかもしれませんが。

      最後に、「脳死は人の死か」という実践的な倫理の場面について。
      確かに「脳死は死ではない」いや「死である」と二元論的に決めてしまうことには暴力性が伴います。デリダとかが、「決定不可能性」みたいな言葉で言おうとしていたことですよね。線引きの暴力性。そうした暴力性から一旦回避する上でも、非二元論的思考は役に立つのかなと思います。
      しかし、現実にはどちらか決めるしかない問題があります。もし肉親が脳死状態となり、最終的にはどっちか選ばないといけないって人に、どうすればいいのか?と問われて、「脳死は生と死ともいえず、生でもあり、死でもある」と答えたら、そんな悟ったようなこと言われてもと困るような。。。
      まあ現実的には、脳死となった本人(の過去の意向)や「今、本人が脳死状態でなかったとしたらどう考えるだろうか?」という残された人たちの想像力と、残された人たちの意向を総合的に考えて判断するしかないのかなと思ってます。
      倫理学者の小松美彦氏は「死は共同体が決める」と言ってましたね。彼と論争した社会学者の宮台真司も最初は自己決定論者でしたが、最終的には、自己決定も共同体抜きには考えられないというコミュニタリアン的な考えに修正しました。

      聖書で、アダムとイブが善悪を知る木の実を食べるエピソード。人間の原罪ですが、人間が物事を善悪の二つに分けてしまう線引きの罪を伝えているように思います。全知全能の絶対的神に対し、我々はあくまで相対的存在。その線引きは必ず間違っています。(J・S・ミルが『自由論』で人の必謬性と言った問題です)でも既に知恵の実を食べてしまっているので、線引きせざるを得ないわけです。そこでイエスが出てきて、「罪は代りに贖ってあげるから、恐れずに前進め」と述べたんだという風に理解しています。どんな線引きも間違っている。でも間違っているからと言って何もしないわけにはいかない。それも間違っている。恐れずに正しいと思ったことをやり(=線を引き)、そしてその結果を引き受けるしかない。当然批判もある。それを謙虚に引き受けて、また線を引き直すしかない。
      私自身はそのように考えているのですが、今後エッセイで展開される、例えば容中律の思考などは、このような考えに修正をもたらすでしょうか?それは個別具体的な倫理の実践にどのように生かされるのでしょうか?

      以上が質問ですが、このスレッドで答えて頂かなくても、今後のエッセイで応答して頂ければと思います。

    • #491 返信
      木岡伸夫
      ゲスト

       本質的な問題に、コメントくださったことにお礼申し上げます。質問内容のニュアンスを省略して、4点に要約させていただきます。
      ① 「あいだ」は二元論を前提するのではないか。
      ② 「あいだ」の非二元論的思考は、二元論を包含しているか。
      ③ 色の比喩に用いた「白」に対する「黒」は、不適切。「非白」とすべきではないか。
      ④ 脳死問題において、二元論に立つ自己決定論とコミュニタリアニズム以外の現実的選択があるのか。「容中律」を活かすことができるのか。
       以上、勝手な単純化をご容赦ください。
      1――「あいだ」(between;zwischen)は「二つのもの」を意味する言葉。二元論を前提することは、おっしゃるとおりです。
       2――「非二元論」=「レンマ的論理」は、そのうちに「二元論」(ロゴス的論理)を包含するというのが、山内得立『ロゴスとレンマ』の主張。しかし、それではレンマがロゴスの上位に立つ構図となるので、東西の〈邂逅〉は不首尾となる。どうすればよいのか、という問題に『邂逅の論理』(春秋社、2017年)で答えました。
       3――これも仰せのとおり。「非白」ではなく、「黒」を用いたのは、例をわかりやすくするためです。とはいえ、「黒」を挙げることで、「白でも黒でもなく、白でも黒でもある」中間の色に存在が与えられるのです。最初から何百もの色彩が存在するのではなく、二元論では許されない〈中間〉を密輸することで、色の世界が成立したとお考えください。グラデーションやポストモダン的「差異」の根柢は、二元論です。このことを、本エッセイ最後の「二元論の「論理」」で書いています。もう一度読んでください。
       4――非二元論的な〈あいだ〉を具体化する倫理的選択はありません。「脳死は生か死か」どちらとも決まられない日本人ならではの現実がある。それを認めることから始めよ、と言うだけのこと。許しがたいのは、「日本人には二元論は身につかない」といった言い方で、西洋人の論理とは異なる日本人の論理を侮蔑する学者連中――生命倫理学の代表面をした加藤尚武のような手合い。「容中律」を提唱したルーマニア人リュパスコは、二元論の牙城パリの学界から黙殺されました。現在、一部にその思想を活かそうとする動きも見られますが…
       「哲学塾」が再開され、以上の点はもちろん、あらゆる問題について議論できるのが楽しみです。

    • #496 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      お答えいただきありがとうございます。

      2.今、『邂逅の論理』を拝読しているところです。今はちょうど、九鬼とハイデガーの「対話」のところですかね。また拝読した後に、議論できたらと思います。

      3.改めて、「二元論の論理」の箇所を読みましたが、まだ少し疑問はあります。

      「先ほど見たように、「白でもなく黒でもない」中間としての灰色があるということを、私たちは見とどけました。ということは、第三の法則である「排中律」は正しくない」とあり、それを誤魔化すために、「差異」や「グラデーション」を導入したとのことですが、白と黒の二項対立は木岡先生が分かりやすさのために持ち出した例であり、元々は「白と非白のどちらでもないことはあり得ない」あるいは「白または非白のどちらかが真でなければならない」ということだったと思います。であれば排中律に誤りはないことになります。

      おそらく私は二項対立と二元論がいかなる関係にあるのかを理解していない可能性がありますね。

      デリダなど現代思想が問題にしたのも「男と女」「西洋と東洋」「本質と現象」「パロールとエクリチュール」といった自明視されていた二項対立で、かつ一方が他方より優位に立っており、それが固定化されているという問題でした。

      この「男と女」と言った二項対立と「白と非白」と言った形式論理がどう関係あるのかが、まだ私の中で不鮮明なのかもしれません。

      4.排中律から導かれる二値原理では、脳死などの曖昧なものに関してどう扱うのか難しいですね。
      加藤氏がどのような理由で「日本人には二元論は身につかない」と言ったのかは分かりませんが、論理的思考は訓練しないと身につかないものなので、日本人だからは関係ないと思いますね。また現代人は訓練していない人も、どちらかというと二元論的な思考で生活しているのではないかと思います。むしろ、私たちは二元論以外のものの見方がわからない、想像できないことの方が難しい問題だと思います。

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