慈悲は論理であり得るか

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  • このトピックには40件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により4年前に更新されました。
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    • #584 返信
      河村晃太郎
      ゲスト

      先日、障害者施設で殺傷事件を起した容疑者の初公判が行われたというニュースがあった。この容疑者が犯行に及んだ理由というのが、
      「障害者は不必要な存在だから、生かしておけない」(大意)
      というものだった。この事件の問題については、様々な人が様々な意見を述べているが、唯一見逃されている視点があると思われるので、ここで指摘させていただく。その視点とは、
      「裁く者と裁かれる者が、全く同じ論理を駆使している」
      というものである。
      容疑者の犯行は社会的に許容されるものではなく、何らかの罰則を受けるに値すると思うが、それはルール違反という設定の上でのことである。しかし、多くの識者もが、
      「容疑者は危険な、つまり不必要な存在だから、生かしておけない」
      と言っているのである。裁く者と裁かれる者が、同じ排除の論理を駆使しているのだ。それは欲望の論理によって規定される。
      「この世の資源は有限であり、それを享受するには一定の資格が必要である。その資格は役立つことであり、そうでないものや役立つものを害するものは排除されなくてはならない」
      というものである。そこには、断罪と許容、罪を憎むことと人を許すということの「あいだ」がない。つまり誰も慈悲の観点から問題を考えようとしていないのである。容疑者の主張は表現方法はさておき、社会の価値観を正確になぞったものであり、容疑者自身に慈悲の観点がなかったのだから当然のことなのであるが、この事件を真の意味での社会変革の契機にしようと思うのであれば、今からでも慈悲の観点を導入してはどうだろうか。
      震災後、「絆」という言葉が流行し、肯定的な人間関係が全て絆として語られているが、本来そこは「縁」と言うべきところである。絆はただ結びつきの強さだけが語られるのに対して、縁は結びつけながら開放するという働きを表す。人との関わりを縁=縁起として認識することから、「縁起=空」からの「慈悲」という通路が開かれるのである。
      木岡伸夫先生の著書『邂逅の論理』(春秋社、2017)は、これまで近代化を推し進めてきた「欲望の論理」から離れ、「縁の論理」によって対話を開くことで、人と人の関わりを新たな局面へ導こうと企てるものである。そこで企図される対話は、一方的な価値観の押し付けではない。対話はあくまでも対等で、許容的なものでなくてはならない。
      木岡先生は、その対話の始まるところで考察を終えられているが(間違っていたらすみません)、その対話の開かれるところに、慈悲の論理が立ち現れるのではないかと愚考しているのである。

    • #588 返信
      kiba1951
      ゲスト

      刑法に「社会的責任論」というのがあり、「社会に対して危険を及ぼす者は,社会から防衛処分(刑罰)を受ける」という内容です。
      「役立つものを害するものは排除されなくてはならない」と書かれている部分がこの論理に該当するようです。
      「社会を守る為に危険を及ぼす者を排除する」には倫理的要素がありません、コロナウィルスに罹った病人を隔離するのと同じです。
      「憎悪」や「赦し」とは別の次元の話の様です。
      「慈悲」の心をどの様な事件のどの局面で適応できるのか、中々難しい問題です。

    • #589 返信
      河村晃太郎
      ゲスト

      kiba1051様 コメントいただきありがとうございます。おっしゃる通り、社会通念上排除の論理が適用されるのは仕方がないことかと存じます。私だって、ゴキブリや蚊などと一緒に生活したくありませんから、それらを見かけると外へ出そうとするか、殺すと思います。しかし、「慈悲」ということにおいて、現時点で私が言いたかったのは、それを社会に適用させる方法ではなく、慈悲の心というものが「有る」のだということを言いたかった次第です。つまり、ゴキブリを殺すときに、「こいつは有害だから殺して当然」と思って殺すのではなく、生きているものの命への敬意を忘れることなく、にも拘らず殺そうとする自分を許してほしいという祈りの中で、「ごめんなさい」と言いながらゴキブリを殺すという行為をする。殺されるゴキブリは気の毒ですが、意に反してゴキブリを殺さなくてはならない私だって、気の毒ではありませんか。まずはそこを一つのきっかけにして、慈悲というものを考えたいと思ったようなわけです。

    • #590 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      河村さんのおっしゃる問題が確かに存在します。というより今回はあまりに分かりやすすぎる形になってしまったなと思います。
      やまゆり園の事件では、我々の内なる優生思想が問題とされました。そして死刑制度もまた優生思想と深く関連する制度です。
      今回、被告の死刑が確定した時に、こうした問題が取り沙汰されないのには違和感を感じました。

      私は元来、死刑廃止派なので、今更、死刑は優生思想であるとか、人道に反するとか主張してもつまらない。(他人に説得するときは、「冤罪が怖いから」という論でまずはいくことにしてます。本当は原理的に殺人=悪とできたらかっこいいですけど、なかなか難しい。)
      なので、逆にどのような理由があれば、今回の死刑を正当化できるであろうかと考え、まず思いついたのはアーレントの『エルサレムのアイヒマン』ですね。その最後に、彼女は、判事に次のような言葉で被告に呼びかける勇気があれば、この裁判で行われたことの正義は万人の目に見える形であわれてきたであろうと述べます。
      「『(・・・)ユダヤ民族および他のいくつかの国の民族とともにこの地球上に生きることを望まない−−あたかも君と君の上司が、この世界に誰が住み誰が住んではならないかを決定する権利を持っているかのように−−政策を君が支持し実行したからこそ、何ぴとからも、すなわち人類に属する何ものからも、君とともにこの地球上に生きたいと願うことは期待し得ないとわれわれは思う。これが君が絞首されねならぬ理由、しかもその唯一の理由である。」』ハンナ・アーレント『新版エルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』大久保和郎訳 みすず書房 p.384

      アーレントの政治哲学では人間の複数性が重要視されているので、複数性それ自体を否定する存在は許されないことになります。
      上記の引用を意地悪く言えば、「そんなにユダヤ人との共存が嫌なら、お前が死ねばいいではないか。それでお前の理想が実現できるぞ。望み通りにしてやる」ということになりそうですね。この理屈は結構説得的だと思います。だから我々も殺していいとなるかは置いておいて。
      ちなみにユダヤ人虐殺に加担したアイヒマンも結構インテリで、彼は彼なりに熟慮の上、ユダヤ人の最終解決はカントの定言命法に適うと考えたようです。今回の事件と似てますね。これはカントの定言命法の弱点でもあります。定言命法は自分で考えることを否定していないので、自分で考えた結果トンデモな独善を生み出す可能性はあります。もちろんカントも定言命法だけ考えればいいと思っていたわけではないでしょうが。

      殺人を悪とするのは、基本的にはカントのいう相互性(自分がやられたくないことは人にしない)が根拠となるでしょう。もうなされてしまった殺人に対しては、相互性という観点から死刑に処すという理屈はあり得そうですね。カントは死刑賛成派です。
      ちなみに、相互性を受け入れない人間も想定できますし、そうなるともっと面倒臭くなります。殺人=悪と原理的言えない、というか「それが悪だからと言って、なんでやってはいけないんだ?」「やってはいけないことを、やってはいけないのはなぜなんだ」、「本当にやってはいけないという究極のルールが存在するのか」という原理的な問題が出てきて、これに理屈で反論するのは私には不可能のように感じます。

      慈悲の観点。
      アーレントの話を続ければ、確か『人間の条件』(ちくま学芸文庫)のどこかで、許すことと罰することは物語を終わらせるという点で同じ効力を持つみたいなことを言っていたように思います。本が手元にないので、正確に引用できませんが。
      「罰することができるなら許すことができるし、許せないなら罰することもできない」とも言っていたような。(できれば確認してみてください)
      これもかなり説得的ですね。懲役三年で済ませられるということは、それを服役したら許せるということです。逆に何やっても許せないのなら、どんな罰を与えてもその罪に適わないの。故に罰することもできない。後者の感覚は実際の被害者は骨身に感じているのではないでしょうか。

      日本は「縁」や「慈悲」の考えがある割に、死刑賛成派が多いですね。
      「縁」や「慈悲」という概念をどう使うかはそれはそれで難しい問題です。
      仏教では、すべての事象が因果律と縁起で生起しているので、被告が障害者を殺したのも何かの縁です。
      慈悲も元々は選ばれし菩薩が我々に施すもので、私と今回の事件の被告も菩薩から見ればどっこいどっこいということになるでしょう。
      そういうコスモロジーをどこまで社会が受け入れられるかは分かりません(私自身には結構わかるコスモロジーであり、死刑に反対できるのも、そうした世界観に影響を受けているからかもしれません)。そうしたコスモロジーを受け入れずに概念だけを適当に使わせてもらうというやり方もありますが、しかしそれだとその概念がもともと持っていた意味や別の意味の可能性を喪失する危険性もあります。とはいえコスモロジーも時代や地域によって変わっていくので、「元々の仏教とは違う!」と原理主義的に批判するのも難ありです(「五輪」とか「三密」はあまりに別物になってしまいましたが)。ただ全く別物になってしまったら、そもそも仏教用語を使う理由はなんだったのか?別に他の、それこそ西洋の理屈でも良いのでは?と思わなくもありません。その辺をうまく処理しないと、ソーカル問題以後、そうした他分野の概念の使い方に学問はシビアになっているので、めんどくさいことになります。

      そう言えば「無縁」という言葉もどこから来たのか。これはこれで興味深い。本当に「無縁」な存在は仏教的にはあり得ないはずだし、それがあるとしたらそれは仏教が最終的に求める「解脱」のはずです。これがいつから、身寄りなく死んだ者を指すようになったのか。これは誰か研究していないか調べたいですね。

      個人的にはインド系の輪廻転生の世界観は好きなので、私は仏教のコスモロジーでもいいかなと思わないではないです。
      生まれ変わることが前提なら、全てが変わりますね。今回の被告は残念なことに、死刑になりますが、でも無限の来世で頑張ればいいことになります。ちなみに障害者も障害を持って生まれてきてしまったことは、それをいいか悪いか評価するのは別にしても、自業自得となります。前世の因縁ですね。私が今のような存在でいるのも自業自得です。全員、今あるようであるのは自業自得です。私も来世は今急速に繁殖しているコロナウイルスになるかもしれません。私はそのような世界観もそれはそれでいろいろ考えさせられることはあるなとは思います。(障害者支援をやっている身なので、表現に気をつける必要はありますが)

      もし生まれ変わりを否定し、この人生は一回限りのものだと考えるなら、別の世界観での考え方を採用してもいいかもしれません。というかキリスト教とか科学とかがそっちの世界観でしょう。キリスト教は魂の不死という問題がありますが、科学は死ねば終わりの世界観でしょうね。

    • #591 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      ちなみにどうでもいいことかもしれませんが、ゴキブリは私の前世のお母さんの可能性もあるので、極力殺さない方向でお願いします(笑)
      というのが仏教で殺生を戒める理由ですね。そういう世界観だから、「慈悲」ということの意味が分かり易いのかもしれません。
      普通は蚊やゴキブリの命なんて気にかけないですもの。ちなみに殺されたら殺されたで次生まれ変わった先でかつてのゴキブリは頑張ればいいとも言えます。生まれ変わる説は結構強力です。
      ちなみに私は単に殺すのが嫌いなので、虫も殺さない派です。

      「社会に対して危険を及ぼす者は,社会から防衛処分(刑罰)を受ける」という社会責任論は、社会を防衛することが正しいという考えがあるから存在するわけで、これはこれで倫理的な問題です。ただこの理屈で、危険人物(しかし既に拘束された)の生命まで断つことは正しいのかは考える必要があると思います。
      この辺りは倫理だけでなく、政治、社会、経済的な観点でも考えられますね。倫理の共有は案外難しいので、社会、経済的な観点から説得するという手もあります。「死刑は人道上問題があり、国際社会では廃止が主流になっている。先進国である日本もそうすべきだ」とか「死刑でなく更生させた方が、社会にとってもプラスだ」とか「死刑に犯罪抑止効果はない」とかなんとか。
      一方で、殺された側の感情や論理もあり、上記の議論では蔑ろにされがちです。そこを手当てする理屈も必要です。ヨーロッパの修復的司法が参考になるかもしれませんが、日本でどこまでできるかは不明です。
      慈悲はかなり超越的で、被害者にはなかなかできそうもないですが、被害者でなければ、その地平に立てそうです。当事者からすればそれも暴力になるでしょうが。近代以前は駆け込み寺がありましたね。あそこに駆け込めれば、世俗の罪から逃れ、寺で滅罪修行ができました。

      被告のように役立つか役立たないかで命の価値が決まるという考えは、優生思想であり我々の社会は受け入れることができません(本当に我々の社会は優生思想を受け入れることができないのか、本当は社会自体が、めちゃくちゃ優生思想で動いているのではないかという河村さんの論点がありますが)

      ちょっとごちゃごちゃした書き方になってしまいました。すみません。

    • #593 返信
      河村晃太郎
      ゲスト

      浦様 コメントをいただきありがとうございます。貴兄の見識と学識の深さには、驚嘆せざるを得ません。圧倒的な読書量ですね。それに対して、私などがお返しする言葉もないようなものですが、いくつか申し上げてお茶を濁させてください。私は、死刑については賛成でも反対でもなく、賛成でも反対でもあるという、レンマ的な立場です。なぜならば、私は死刑そのものを問題視していないからです。私がここで言いたかったのは、死刑になるようなことをしでかしてしまった人と、死刑を執行せざるを得ない人がいるとき、何が彼らを覆っているのかということでした。慈悲は上位の者から下位の者へ下される哀れみではなく、また許しに限定されるものでもありません(中村元『慈悲』講談社学術文庫参照)。慈悲は上下左右関係のない、超双方向的なものと捉えております。なぜなら、それが無自性、空というところから立ち現れてくるものだからです。以下、僭越にしてご無礼ながら、つまらぬことを書きますので、無礼なことがお嫌いでしたらお読みにならないでください。

      浦さん、あなたは立ち直れないほどの挫折や蹉跌を経験されたことはありますか。身近な人や愛する人を喪った経験がおありでしょうか。しかもそれが、過失や故意の殺人などであったことがありますか。なければ、そういう場合の、自分とそれを為した人の気持ちを想像できますか。答えはありません。少なくとも私にはここに書くだけの用意はありません。しかし、それは誰にでも起こりうることではないでしょうか。そういう挫折や悲しい経験をしたとき、誰かが悪いとか、何かのシステムのようなものが悪い、と言って戦うこともできます。多くの人が訴訟を起こし、反対の論陣を張ったりして、戦っています。殺すことが原理的に悪なら、それを誘発する戦い(論戦でも、相手を論破した場合、それは相手の死を意味します)も、原理的に悪となりませんか。私が問いたいのは、悪だから排除しようという、その動きそれ自体が、排除されようとしている悪と同型ではないのかということなのです。これも、答えは出せていません。もし、この慈悲をめぐるテーマに、本当にご興味と共感をお持ちであるなら、いつか誰かが為した議論に回収されるようなご意見ではなく、あなた自身の腹の底から出てくるような、もしくはカラカラの手ぬぐいを絞って、一滴の水を絞り出すような、そのようなご意見を伺いたいものです。お前如きに何が分かるか、と思っていただいて構いません。ひねりつぶしてみてください。あなたに撃破されるのを、私は楽しみにしているのです。

    • #595 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      大変素晴らしい質問をいただき恐縮しております。
      木岡先生に対してならともかく、私如きに対してそこまで深い質問をしていただけることに驚くとともに感謝しております。一方でうまくお答えできるかどうか緊張もしております。(一応書いてみたものの、時間もないので、一気に書き上げ、結局まとまりのないまま投げっぱなしになったような気もします。そして馬鹿みたいに長いコメントで大変申し訳ないです。)

      死刑について
      この問題については河村さんの論点よりも低いレベルのレイヤーの議論であることは間違いないです。ただ今回の事件が死刑という結末だったので、そのレベルでも議論したいと思っていました。
      死刑は現実の制度ですので、現実として取れる態度は3つと考えられます。存続を支持するか、廃止を支持するか、どっちでもいいとするか。私は廃止の立場をとります。
      よくある反論「身内が殺されても同じことが言えるのか」に対してはこう答えることにします。「もちろん殺人者を憎悪し、その死を望む可能性が高いであろう。であるが故にたとえそのような状況に陥っても死刑を選択できないように事前に廃止しておいてほしい」
      死刑が存在し私がそれを求刑できる未来よりも、死刑が廃止され私がそれを求刑できずに苦しむ未来のほうが、私にとって善だと考えるからです。もちろんこの考え自体が、まだ誰も身内を殺されていない今だから言えることであり、身内を殺された未来の自分にとっては極めて脳天気な態度と感じるでしょう。逆に言えば、今だからこそ、脳天気に死刑廃止を訴える立場を取れる。ならばその立場を積極的に活用すべきだと考えています。未来の自分にとってはとんでもない暴力ですが、必要な暴力だと考えます。

      次に慈悲の問題。
      河村さんの先ほどよりも高いレベルでの問題について考えます。
      死刑囚と死刑執行人の関係は極めて特殊なので、むしろ双方向の慈悲というのは起こり得るかもしれません。死刑執行人はその時までは死刑囚の身辺の世話をする刑務官です。死刑までの期間は長期にわたることが多いですから、極悪人とはいえ、情がうつることもあるでしょうし、長年世話をした人を自ら殺すのは大変な苦痛を強いられることと思います。一方、死刑囚はその事情をよく知っている身ですし、こんな自分のために献身的に世話してくれてきた人にこんな苦しい仕事をさせて申し訳ないと感じることがあるかもしれません。
      その時、双方向の慈悲と呼べる事象が生じているといえるかもしれませ。それは語弊を恐れずにいれば、二人の魂のステージのレベルが高いから起きていると私には思われます。
      そして誰もが常にそのようなレベルに立てないというのが私には現実のように感じられます。「一切有情悉有仏性」心の働きのあるものは何ものであれ、成仏の可能性があるという大乗仏教の思想を前提とすれば、慈悲の可能性もすべてのものにあります。とは言え、それが現に発露するかどうかはまた別の問題で、それが発露できるものはやはり他のものとは違う、レベルが一段高い位置にいると言わざるを得ないのではないかと思います。これは社会的なステータスとは異なる話です。貧者が富者に、悪人が善人に慈悲の心を向けることは十分考えられますが、それでもやはりそれは、富者よりも貧者の方が、善人よりも悪人の方が、慈悲の心という点では魂の高貴さが上だからだと言えるのではないか。どこまで行っても上下関係は残ってしまうのではないかと思います。
      魂のステージだの高貴さだのというとスピってる言い方に聞こえますが、要は空や慈悲の教えを学問的にせよ、体感的にせよ、理解している時点で、そいつは善人であれ、悪人であれ、凡夫よりも上の存在に思われるということです。その人たち同士で慈悲しあうというなら対等ですが、慈悲できるものとそうでないものとの関係での慈悲はそうではないのではないか。慈悲が常に対等というには、すべての存在が慈悲の可能性を秘めており、かつすべての存在が現に慈悲を発露していると言える必要があるのではないかと私は考えています。
      もし私の議論に反論するとしたら、何が考えられるか。慈悲を真如に置き換えれば、安然(841?-915?)の俗如の論理に近い気がしますが、慈悲でその論理が成立するのかと言われると、ちょっと想像しにくい気がします。真如はすべての事象を取り扱うのに対して、慈悲はある特定の心のあり方みたいなものですから。

      さて、議論は多岐にわたります。
      多岐にわたりつつ、微妙につながってもいると私には思われ、したがってどの順番で述べればいいのか悩みますね。
      とりあえず、河村さんは私の前のコメントの「原理的に殺人=悪」について言及されていたのでそれについて。

      実は私は本当のところは、殺人やその他すべての悪行とされる行為を、原理的にやってはいけないということはできないという立場に立っています。悪そのものを「してはならない行為」と哲学的に基礎付けること、悪とはやってはいけないのだと確実性を持っていうことはできないと考えています。こんなことを表立っていうのは憚られるので、先のコメントでは「そういう考えもあるね」くらいに留めましたが、せっかく自分の意見を述べろと言われたのでそうします。(と言っても原理的に何かが悪ということはできないという問題は、私が考えるまでもなく、様々な哲学者によって考えられてきた問題ですが)

      さて、実はこれは私にとっては前提に過ぎません。私はここからスタートしたい。私の論証したいことはこうです。
      「仮に原理的に何かが悪ということができないとしても、それで我々の倫理が無意味になることはない。我々はこれからも何かを善とみなし、何かを悪とみなす。それ自体に究極の根拠などなくても、それでも我々が倫理的に生きていくことは事実上可能である」ということです。

      これと似たような構造を持つ問題があります。
      一つは予定説や決定論の問題。
      決定論では、「起こったことは全て(神によってか、科学的因果法則によってか縁起によってか説により様々ですが)決められていたこと。これから起こることも全て決められていること」とされています。であれば、人間の自由はなく、倫理も存在し得ないのではないか

      もう一つは永遠がないことの問題。
      私たちはいつか必ず死ぬ。人類もいつかは絶滅するし、この地球も宇宙もいつかは無くなってしまう。それなのに生きている意味などあるのか。
      この問題に対してもこう主張したい。
      「仮に全てが決まっていても、そして仮にいつか全てが終わるのだとしても、それでも我々の人生に意味はあるし、倫理が無意味になることはない。例え全てが既に決定されていたとしても、全てがいつか終わるとしても、我々はこれからも自由に生きることが事実上可能であり、倫理的に生きることが事実上可能である」

      この論証は実は拍子抜けするくらい簡単です。
      「なぜなら、現に我々はそう生きているから」です。
      現に我々はそうしているという事実性に完全に依拠しています。
      あまりに簡単なので、今は実はこの論証には重大な間違いが含まれているのではないかと吟味中です。何かご意見あれば教えてください。そもそも前提=「善とか悪に究極の根拠はない」が間違っているという反論もあり得ます。

      3つの中で決定論がこの中では一番解決が簡単です。
      仮に全てが決定されていたのだとしても、私にはそれがわからないのだから、私は自由に生きるしかない。それを後から「それは決定していたことなのだ。お前は自由のつもりで自由でなかったんだ」と言えたとしても、結局神でない私にはそれはわからないのだから、私はこれからも自由に生きればいい。(これを批判するために、「お前は「自由」という言葉の意味を知らないうちにこっそり変えているんだ」ということができるのではないかとは感じています)
      「全ては決定されてたことなんだ。どうしようもないことだったんだ。だから私を罰するのは間違っている」と主張する極悪人にはこう言いましょう。「であれば、私がお前を罰するのも決定されていたことだ。関係ないのだ、そんなことは」
      決定論が正しいとする。それで世界は変わるのか。変わりません。そもそも世界はもともと決定論的だったという主張なのですから。そして決定論的な世界で現に我々は自由を、倫理を謳歌することができています。(それでもやっぱりそれは勘違いしているだけで、本当の自由とは言えないのではないかと主張することも可能ですが。私はこうした反論に魅力を感じない。うまく言えないですが、決定論的な世界での自由と、非決定論的な世界での自由の違いを我々は理解できるのか。みたいなもやもやです)

      さて、話を元に戻します。
      私は善悪の問題を原理的に基礎付けることはできないという立場です。なので私の立場は一般的に相対主義者ということになるでしょう(これも本当は(仮)にしておきたいのですが)。上の問題は相対主義であっても倫理的に振舞うことは可能であるということを主張したいと思い考えていることです。

      最後に相対主義者である私が、それでもこれだけは摂理だと感じていることをあげます。
      「起こってしまったことは変えられない。自分の身に降りかかってしまったことをなかったことにできない。なぜそうなってしまったかの究極の根拠などない」です。
      そう言えば、「究極的な根拠がない」ということと、先にあげた決定論は矛盾するようにも思います。例えば明日、浦靖宜が車に轢かれて死ぬとする。これは決定されていたことです。全てが必然のように思われます。しかし、一つだけ偶然が残ります。それは浦靖宜という人間が他ならぬこの「私」だったという問題です。浦靖宜がそうなってしまったことは、神だか、科学だかで説明できたとしても、それが「私」だったというのは説明の仕様がありません。そこにどうしようもない偶然があると感じています。

      実はここでの議論の前に、木岡哲学塾に参加されていた方と、メールでやりとりしているうちに、予定説に関して議論になり、同様のことを主張しました。
      その方には、極めて悲惨な体験をされた方、例えば被爆者に対して予定説を主張することはできないと言われました。
      確かにその通りで、単に相手を傷つけるだけなら言うべきではないでしょう。
      私は信仰を持たないので、そもそも予定説を信じてはいませんが、ただもし被爆者が本気で「なぜ自分がこんな目に」と訊いてきたとしたら、こう答えると言いました。
      「それは他ならぬあなたが昭和20年8月6日の午前8時15分に広島にいたからです」と。もちろん原爆投下の理由や、戦争が起きた理由を検証し、それを伝えることも意味のあることですが、根本的にはそう言うしかないのではないかと感じています。仮に原爆投下の理由や戦争が起きた理由を心の底から納得できたとしても(それ自体が困難だと思いますが)、最後にはそうした理不尽さが残るのではないか。

      ちなみに私がこうした議論を好む理由は、先の死刑廃止の理由と同じく、その理不尽さが私のもとに訪れた時に、受け入れることができるように準備しておきたいからです。本当は生まれ落ちてきた段階で、我々は常に既に世界の不条理さを受け入れているのだと言えるのですが。

      最後の問題に入ります。
      なぜ私は時にカントやアーレントを取り沙汰し、時に仏教の思想を取り沙汰するのか。
      随分と節操がないように感じます。いつか誰かが為した議論に回収されるようなご意見でいいのか。
      私の考えはこうです。私ごときが考えたことは既に誰かが考えている。私ごときにいつか誰かが為した議論に回収されない意見は出せない。

      このコメントで述べた自説も、明らかに様々な哲学者の議論を参照して構成されています。ああ、これは永井均っぽいなぁとか、ここはスピノザっぽいなとかめっちゃ感じます。やっぱカント天才やなとか。俺の考えていることなんて全部カントのアンチノミーの議論でぶった斬れるんじゃないの?とか思わないではないです。

      とにかく、私は私に自信がない。ただ、多少は偉大な哲学者や思想家、宗教家の考えてきたことを理解することはできるように思う(多分)。であれば、これらをできるだけ理解すべきである。これから様々な問題について、個人的な問題にせよ、社会の問題にせよ、考えていく必要がある。そんな時に、自分だけで考えても仕方がない。なんせ私は歴史上の偉大な知性に対して圧倒的に馬鹿なのだから。カントならこの問題をどう考えただろう。ブッダならどうか。孔子や孟子はどうだろうか。
      もちろんみんなが皆都合よく同じ問題について考えているわけではない。生きた時代も社会状況も世界観も異なります。似たような問題も実は微妙にズレがあったりします。
      しかし、結局は彼らがどんな問題に悩んでいたかを知り、追体験していくしかないのではないか。それを自分の問題に当てはめて考えを進めていくしかないのではないか。それが人生を豊かにするのではないか。

      例えば、仏教の世界観では、世界は永遠です。私はずっと輪廻転生するし、この宇宙はいつか滅んでも、次の宇宙がまた生成され、輪廻も継承されます。そうした世界観で築かれる倫理には、我々の知らない良さが含まれているのではないか。それを理解するためには、一旦はその世界観にひたる必要があるのではないか。

      私が、様々な問題に対して、カントはこういってたとか、仏教ではこう考えるとかいうのも、ある種の追体験です。いや、そもそもカントも仏教も本当にその問題について考えていたかはわかりません。私が勝手に当てはめているだけの可能性が高いです。しかしこの当てはめもある程度考えないと的外れになってしまうし(まあ実際そうなっていることが多いと思いますが)、結局私のような凡夫には、そう当てはめて考えてみるほうが、つまり巨人の肩に乗っかった方が、よりよく考えることができるのではないかと思います。(今後ももっといろんな思想や世界観を知り、そこから何かを考えていきたい。例えばアイヌ民族はどういう世界観で生きているのだろう。それは我々が悩んでいる問題を解決するヒントになるのではないか・・・みたいな)

      そして最後に私のささやかな希望として、未来に文化を残すことに貢献をしたいという思いがあります。私がこうして様々な哲学者の話をするのもそれにつながるのではないか。私は研究者でもなければ、優れた読者でもないですが、しかし様々な思想、哲学、宗教が後世に残るためには、私のようなにわかも含めた、なんとなく思想好きが必要なのではないか。結局彼らの本を買い支えるのは私たち凡夫なのです。なぜ文化を、思想を未来につなげる必要があるのか。文化が我々人間同士の平等を担保するからとも言えますが、やはり未来のイエス、未来のブッダ、未来のソクラテスに期待したいからです。かつての彼らは、その後の二千年以上に及ぶ人間の知の営みを知る術はありませんでした。しかし、未来に生まれる彼らは、それらを知ることができる。そのためにはそれが残っていないといけない。どんな形であれ、それこそ抽象的な空理空論のような形でしか残っていなかったとしても、未来の奴らなら理解できる可能性、そこから素晴らしい理論を組み上げる可能性があります。だったらどんな形であれ、残っていた方がいいでしょう。
      これ自体が阿呆な妄想だとも言えますが、もしもそんな未来がありうるとして、もし私の哲学思想好きが、砂粒ほどでもそのことに貢献できていたらいいなぁと思うのです。

    • #599 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「こいつは有害だから殺して当然」と思って殺すのではなく、生きているものの命への敬意を忘れることなく、にも拘らず殺そうとする自分を許してほしいという祈りの中で、
       「ごめんなさい」と言いながらゴキブリを殺すという行為をする。と書かれています。
      奥深いお言葉と思いつつも良く判りませんので、教えて下さい。
      「憎んで殺す」はとても一般的です、「検討の結果殺す」は裁判制度でしょうか、 「ごめんなさい」と言いながら殺すが充分に理解できません。
      これは二律背反の立場に追い込まれた者の「自分の本意ではないが、抗しきれず殺す」と云った言い訳ではないですよね。
      では何なのか、教えて戴けたら嬉しいです。

    • #600 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      実は私は結構抗しきれずに殺してしまうことが多いです。
      普段はゴキブリとかは逃がします。
      職場で発見された場合、ゴキブリに対応できる職員がなぜか私しかいないので役が回ってきます。
      衛生面もあるため、立場上殺すことになります。
      なので申し訳ないと思う気持ちはありますね。
      別に許してほしいわけでもなく(そもそもゴキブリにとっては、私がどう思おうが伝わらないし、伝わっても「だったら殺すなよ、ふざけんな!」と思うでしょう)、なんかそう思わずにはいられないみたいな心境です。

      死刑は一応刑法に定められているので制度ではあるのではないか。
      そもそも刑法には殺人が悪いとは書いていない
      刑法では、「殺人を犯したものは3年以上の懲役または死刑に(裁判官は)処さねばならない」という命令が書いてあるだけです。
      決められた命令=ルールに従うのが制度なら、死刑もやはり制度ではないでしょうか?

    • #602 返信
      河村晃太郎
      ゲスト

      kiba1951様 お尋ねの件について、私見を申し上げます。私は肉を食べます。お肉になっているからには、殺された動物です。私でない誰かが殺したのであっても、私がそれを食べる以上、私が殺したのと同じです(仏教では誰かが私のために殺したもの、殺すところを見たもの以外なら食べて良いとありますが、あくまでも食べて良いだけです)。ともかく、その肉を前にしたとき、生命の尊厳への礼拝と、死んだ動物への謝罪と、それによって命を与えられる感謝とを込めて、「いただきます」と言いませんか?肉牛だから屠殺は当然というわけではない。やはり命を与えてくれた(必要を満たしてくれた)ことへの感謝と懺悔は起こりえます。ゴキブリの場合、食べるわけではありませんが、人間の都合で殺すことに変わりはないので、やはり同じだと言えませんか?その辺りのこととすり合わせてお考えいただければ、お分かりいただけるのではないでしょうか。

      浦様 失礼なコメントに対して、非常に真摯なコメントをありがとうございます。失礼ついでに言いますが(言うなよ、とは言わないでください)、過去の偉大な哲学者と未来に現れるであろう立派な思想家の間に居て、砂粒のような存在だというのが本心でしたら、それは違うと断言できます。問題は、頭が良すぎることです。私の友人にも、頭の良い人がいて、この人は東大からパリ大に留学し、博士号と教授資格を取り、今はKO大学で教えているのですが、彼女の口癖は「それはもう、乗り越えられている」でした。あまりにも知識がありすぎて、どんな問題が来ても、既に誰がどういう議論をしたかが全部わかっているので、そう言う他ないのでしょう。しかし、そんな言葉に撃沈するようではものを考える意味がありません。誰かがそれについて何か言っていたとしても、自分で考え、自分なりに表現できれば、それはそれでいいのではないでしょうか?巨人の肩に乗るタイミングを間違えないでください。私などは、あなたほどの知識も見識もありませんが、巨人を使う場合、こういう方法を取っています。例えば、ベルクソンの「笑い」に関する論説を参考にして、悲しみについて考える、というような具合です。そうすれば、ベルクソンの肩に乗りながら、「何だ偉いのはベルクソンだろ?」みたいなコメントを食らわずに済みます。笑いを論じてベルクソンに言及するなら、ベルクソンを超えることは至難ですが、悲しみの考察にベルクソンの笑いを使うなら、それはその点で私の創見だと言い張れると思っています。そんなことはとにかく、浦さん、あなたが現在真剣に取り組んでいるテーマについて、評論的なエッセイでもいいので、何かまとまった形で発表していただけませんか?できれば、論旨と根拠のはっきりした論文として通用するようなものが望ましいですね(いわゆるアカデミックな論文形式を踏襲せよ、という意味ではありませんので、念のため)。

    • #603 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「ごめんなさい」は礼拝と謝罪と感謝なのですね。
      有難うございました。

    • #604 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      ありがとうございます。普段、頭の中でぼんやり考えていたことを書いただけなので、書いてみるとやっぱり弱点が色々浮かんできそうですね。
      私はただの福祉職員で、今は資格の勉強とか、引越し等々、雑事に囚われていますが、時間を作って磨き上げてもいいかもしれません。ただそれよりも読みたい本が多すぎますが。

      ちなみに(からが長いのですが)
      私はその彼女とはむしろ逆で、「実は乗り越えられてないんじゃないの?」と考える方ですね。
      そう簡単に、プラトンやカントやハイデガーを乗り越えることはできないのではないか?やっぱり彼らに何度も帰る必要があるのではないか?そして帰るたびに見方が変わっていくのが古典を読む面白さだと思いますね。

      最近話題の思弁的実在論はカント哲学の乗り越えと言われますね。私も彼らの議論は確かにカントの議論のある部分を乗り越えようとしていると思います。とはいえ、カント哲学が考えようとした問題がそれでなくなるとも思えません。何の問題について考えるかに依りますが、これからも彼の議論は参照せざるを得ない。例えば、自由と因果律の問題を彼の考えを肯定的にせよ、批判的にせよ言及せずに語るのは、やはり片手落ちではないか(とはいえ、他にも言及すべき存在はたくさんいるので、本当のことをいえば全ての議論が片手落ちではあるけれども。しかしこれだけは外せない凄い奴が歴史上存在するわけです)。もしかしたら、世の中にはカントを全く知らないまま、カントレベルの哲学を構築する人がいるかもしれない。実際、ファーストカントがそうだったんだから、第二のカントが現れてもおかしくない(ちなみに思弁的実在論のメイヤスーの本は、フランス人なのにカントっぽくて読みやすいです)。しかし、第二のカントが、第一のカントと同じ『純粋理性批判』を書いたら、めっちゃ凄いですけど、ガッカリですよ。「いや、お前は三批判書は全部読んでおいて、その先を考えるべきだろおぉぉぉ」みたいな。そしてやはり第二のカント出現後も、第一のカントが用済みになるとは思えない。

      それとは別に、やっぱり私はカントや法然に比べたら(比べるのも烏滸がましいですが)、全然愚かですよ。それは圧倒的に感じます。もちろん自分で考えるのは大事ですけど、でもカントや法然の著作を読む時だって、十分自分で(そしてたくさんの文献に支えられながら)考えてるはずですけどね。「この人は何が言いたいんだろう。何が問題だと考えているんだろう。今の議論はさっきの議論とどうつながるんだろう」と考えないと理解できないですもの。そしてそれが少しわかった時の快感が私は好きなんですよね。そこに至るまでがしんどいですが。

      去年、ある人から大月書店版のマルクス『資本論』全巻を譲り受けたので、ちびちび参考書片手に読んでいるんですけど、やはり資本主義社会がどういう社会なのかを理解する上で、『資本論』を読まないわけにはいかないなと思いました。アホみたいな感想ですけど、「やっぱりマルクスはすごいなぁ」と思いました。
      もちろんマルクス主義の問題点は知っていますし(というか今となってはそこからマルクスを知ることの方が多いわけですが)、別に『資本論』を読んでマルクス主義者に転向するわけではないですけど、しかし、資本主義を考える上で、『資本論』での議論は今でも有効だと思いますし、ましてや「我々はマルクスを超えた」とは安易にはいえないなと感じました。(もちろん今じゃ使えない部分もあるでしょうけど)

      そういえば、私はポストモダン思想の影響を受けているのですが、彼らの議論を知ったのは、大学一年で初めて受けた数学の講義でした。
      その数学教授はとにかくポストモダン思想が嫌いで、ソーカル事件を引き合いにだし、ニューアカデミズムの浅田彰や中沢新一の数学の使い方の問題点を指摘してました。浅田も中沢も知らなければ、田辺元もコーラもクラインの壺もちんぷんかんぷんだった私は、「これが大学か。とにかくまずは教授が批判している彼らが何者なのか知らねば」と思って、適当に参考書とか読んでいたら、いつの間にかポストモダン思想にハマってましたね。ミイラとりがミイラになった感じです。「こいつらめっちゃ賢いんですけど・・・」みたいな。
      今でも全然有用性を失ってないように思うのですが、なぜみんな簡単に「ポストモダンは終わった」とか「ポストモダン思想は乗り越えられた」とかいうんでしょうね。

      「カント哲学の限界は・・・」とか、私も口にするときありますけど、口にしつつ「いや、よくいうわ。目の前にカントがいて、議論したら、グゥの音も出ないくせに」って思いながら言ってます。

      「自分で考え、自分なりに表現できれば、それはそれでいいのではないでしょうか?」
      もちろんそれでいいと思いますよ。ただそれがほとんど確実に砂粒程度のものだということに変わりはないと思います。やっぱりレベルの差は歴然としてあると思うので。そして別に砂粒で悪いとは思いません。無限の過去と無限の未来に期待するって結構仏教っぽくて受け入れられるかなと思ったのですが。

      またもし自分の議論に何がしかの新しさがあるのだとしたら、それこそ、過去になされてきたハイレベルな議論と照らし合わせて、確かにこれは新しい知見だと確認する必要があると思います。とにかくまずは過去になされた議論に回収してみる作業を通して出ないと、それに回収できないものを探せません。私は結構保守主義なので、そう考えがちですね。ポストモダン思想家が、無限の過去のテキストを参照する思想的保守主義者だから、その影響でしょうかね。

    • #605 返信
      kiba1951
      ゲスト

      お二方の論議を読んでいて、その鋭さと己に対する揺るぎ無い自信に感銘を受けております。
      ①誰かがそれについて何か言っていたとしても、自分で考え、自分なりに表現できれば、それはそれでいいのではないでしょうか?
      ②自分の議論に何がしかの新しさがあるのだとしたら、それこそ、過去になされてきたハイレベルな議論と照らし合わせて、確かにこれは新しい知見だと確認する必要がある。
      ①②の論に対してともに共感を覚えますが、ともにと云う処に己の至らなさを痛感致しております。
      しかし、己の浅学を省みず臆面無く批判したり質問したりしてきた自分を振り返りますと、①は正に己の行動そのものだと。
      そして、②によって己の考えの不明確さや誤りを正していただく御利益を得ております。
      今後ともお二方の内容豊富で鋭い議論を期待致しております。
      しかし臆面無く書き込んでるとは言いつつも多少は気にしていますので、意見陳述のハードルを余り上げないで頂けたら嬉しいです。

    • #606 返信
      河村晃太郎
      ゲスト

      kiba1951様 ハードルを上げているのは、浦さんです。私ではありませんので、よろしくお願い致します(笑)。

    • #607 返信
      kiba1951
      ゲスト

      確かに!
      あのB29の様な(古いですね~、私も)絨毯爆撃には太刀打ちできません。
      教えて下さい、慈悲の心は善悪の判断があって後のものではないのでしょうか?

    • #608 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      何だか、すみません。。。

      私は、慈悲は善悪の判断を超えた上でのものだと了解してますね。つまりそれが善であるか悪あるかは関係がないと思います。

    • #609 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「慈悲は善悪の判断を超えた上でのもの」との事。
      でも多くの場合、断罪の結果に対する「情状酌量」的なニュアンスで適応されている様に思えます。
      無罪判決に対しては親和性が低い様に感じます。
      後でないにしても、別の見方をすれば的な「並列構造」であって「上部構造」ではないのでは?

    • #610 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      いや、一般名詞的な「慈悲」
      たとえば「人生哲学」という時の「哲学」くらいの意味合いで使うレベルで「慈悲」の言葉を使ってるなら、そうなんですが。

      しかし、本来は情状酌量と慈悲は全く異なります。

      慈悲は慈悲喜捨という言葉とセットなのですが、慈悲喜が共感や優しさに近い概念にたいして、捨は他からの働きかけで、生じる自身の心の動きを全て平等に観察することで、それに左右されない平静さを指します。

      我々悟ってない存在は、世界を何がしかの物語として捉えて、自分もその中で生きていると感じています。
      悟った存在は世界で起こる事情は全て縁起の法則で起こっているだけなので、別に我々が喜んだり悲しんだりすることに特段の意味があるわけではない。物語から外れた認識に立っている。

      ブッダのようにすでに悟った人は、生きることにも死ぬことにも執着しない状態になっています。修行中はことさら生きることを否定しているかのようですが、悟ってしまうと生きることを愛好しなければ、嫌悪もしない状態です。釈迦は悟ってから死ぬまでの数十年を、いろいろ説得もあって、慈悲を行うために生きることにしました。(本当はすぐに死んで、この世界から永遠におさらばしてもよかったのですが)

      先の物語の外の話に戻せば、慈悲は物語の外に抜け出せた存在が、もう一度、物語に介入しようとするメタ視点だということができます。

      別に衆生を救うことが正しいとか、意味のある行為だという風に執着しているわけでもなく、意味は特にないんだけど、とりあえずそうしとくくらいの感じでしょうか。
      別にそれは不真面目でもなく、私もケータイゲームに毎日勤しんでますが、別にゲームする意味もないんだけど、やっている時は(オンラインゲームで相手も存在するので)真面目にやってます。
      まず慈悲はそういうレベルでの行為だということです。

      あんまり世俗がどうとか関係がない。

      ちなみにお釈迦様は慈悲を行うこと=衆生に仏法を説くことにしましたけど、あくまで対象は釈迦の説法を理解できる能力(=機根)のあるものに限っています。

      (仏教用語で「機根」=宗教的能力のあるものを言います。「機根」の「根」は「根性」の「根」です。末法の世では機根が最低レベルになるので、法然は人間は全て愚者だという愚者論を展開します)

      あと慈悲をするかどうかは悟った者にとっては完全に自由です。しなきゃいけないものではない。

      それが遍く衆生を救済すべきだという考えに転換するのは、釈迦入滅後数百年経た大乗仏教以降ですね。

      慈悲は何に対する慈悲なのかというと、
      「お前らは悟れず、無明から縁起発生装置が起動して、我という一時的現象が発生し、人生の喜悲こもごもを感じ苦しんでいる。本当は自縄自縛でそうなってるんだけど、そのことがわかんないから、なんで俺がこんな目にとか思ってるのは、かわいそうだね」
      というような、衆生が悟りの境地がわかってないことに対するあわれみです。死刑囚も被害者遺族も、彼らが悟ってでもいなければ、あわれみの対象になりえます。

      慈悲の実践の概念も使えそうですね
      私はたとえ、本当は全て決定論的で自由などなくとも、たとえいつかは全て終わるのだとしても、人は自由に倫理的に生きることができると主張したいと考えてますが、
      これは慈悲を行うステージでの世界の介入の仕方に似てる気がしました。
      普通決定論に立てば、全てが無意味になってしまいそうです。
      しかし、無意味と言ってしまった段階で、無意味という意味が発生してしまいます。本当は無意味も意味も効力を失ったところで、人生を楽しめばいい(楽しまなくてもいい)という悟後の人の境地をどう理解するかが、「それでも人生にイエスという」為に何が必要かのヒントをくれるような気がしてきました。

    • #611 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「衆生が悟りの境地がわかってないことに対するあわれみ」が慈悲なんですか!

      例えると
       英語が出来る者が出来ない者に対する「優越感を伴う憐み」とか、酒を飲める者が飲めない者に対する「小馬鹿にしたような憐み」
      の様にも取れますね。
      あまり有難くもないですね。

    • #612 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      そりゃまぁ、当事者からしたら、お前に何がわかるんだって感じですけど。
      もちろん仏教は苦が発生する明確なシステムを十全に理解しているので、「いや、俺はパーフェクトにお前の苦しみがわかってる」ことになるのですが。

      別にそんな理論はなくても、他者が苦しんでいることに、自分も苦しみを感じたり、同情したりすることはありますよね。
      ルソーはピティエ(憐み)と呼んで、かなり重視しています。
      それも当事者からは常に「お前に何がわかる!」と言われるものではありますが、それを否定してしまうと一切連帯とか成り立たなくなるので、他人が他人を勝手に同情する自由は認めるべきだと思います。
      ただ大事なのは「同情は勝手にやる」ものだという認識ですかね。やむなくしてしまうものなので、なかなかそうした認識に至ることは難しいですが、同情や共感は暴走もしやすい。

      そういった文脈でルソー批判を展開するのがハンナ・アーレントですね。弱者に同情しない奴は人非人であり、殺して良いというめちゃくちゃがフランス革命時に吹き荒れるわけですが、それはルソーの影響だと。あとマルクス主義もそれを引きずってて危険だという感じです。

      私は同情は大事な能力である。そもそも同情は思わず知らず起こることなので、同情そのものを否定しても仕方ない。ただ同情が何によって引き起こされたのかとか、その同情が最終的に何に向かっているのかを反省的に振り返るのも重要だみたいな折衷的な考えでいます。

      これは時代によって移り変わるものですが、人間、感情が大事か、理性が大事かっていう問題があって、最近だと行動経済学でノーベル賞とったダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』がそうだと思いますが、

      (ざっくり分けるとファスト思考が感情、直感、辺縁系、動物で、スロー思考が理性、計算、前頭葉、人間)

      今はファストはバカでダメなので、みんなスロー思考を重視しようというのが世のビジネス書では多いですね。

      本当はどっちも大事というか、そもそもどっちも人間に備わっており、それら二つが対立した結果、神とか倫理が発生するんだと思います。一人の命か五人の命かといったトロッコ問題だと、スロー思考では五人となりがち。でもファスト思考だと「でも見捨てたくない」という強い感情的反発が起きる。それを解決するために、高次の倫理的存在を要請してしまうみたいな。カントの議論とかもそうして理解できるんじゃないかと思います。

    • #613 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      あと別に優越感は感じてないんですよ
      というか別に優越感があってもそれは全く問題でない。
      そんなのどうでもいい。
      「あいつは俺を憐むことで、優越感に浸っているんだ」と僻んでいる時点で、やはりその人は優越感に囚われたかわいそうな人になってしまうんですよね。
      その点、一時期流行った「同情するなら、金をくれ」の方がクリティカルだと思いますね。

    • #614 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      最後に少し言い訳をすると、「慈悲」の具体的内容自体は時代や地域、部派、宗派で異なるだろうと思います。ただお釈迦様の慈悲はそうしたものだったし、その後の仏教の慈悲の根底も、「どうしても悟れない奴いるけど、どうする?」が第一の課題だったと思います。(違ってたらごめんなさい)

      そこから、五性格別説とか、一切衆生悉有仏性説とか、実は全部が真如論説とか専従念仏とか、もっと具体的に癩病患者は文殊菩薩の化身説とかいろいろな考えが出てきて、それを調べるのも面白いと思います。

    • #615 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「どうしても悟れない奴いるけど、どうする?」が第一の課題だったと思います。とあります。
      人生に様々な苦悩・葛藤があるのは洋の東西を問わないと思います。
      西洋では苦悩・葛藤を乗り越えるのに科学を発達させて外部世界を変革・支配する事で乗り越えようとした。
      対してインドでは苦悩・葛藤を己の認識・評価を変える事で乗り越えようとした。
      この変革対象の内外の違いがその後の科学的・軍事的・経済的な差となり、支配・被支配の分かれ道となったのでしょうか?
      そうすると仏教・ヒンズー教の罪は大きいですね。

    • #616 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      たしかに、西洋の科学が外界に働きかける傾向があるのに対して、仏教は内観を観察する傾向はありますね。仏教における心の構造とかめっちゃ複雑ですし、それがのちに西洋人を魅了している面はあると思います。「阿頼耶識は集合的無意識だ」とか(違うと思いますけど)

      ただまず、近代科学に先に到達したのがえらいわけではないので、私は罪とか悪とか関係ないとは思います。

      あと文明がどう発展するかは思考法だけで決まるわけではないでしょう。
      中世までは、中国やイスラームが圧倒的に先進国でした。
      教育システムも早いうちに整えられてましたし、技術も開発されていきます。
      一方、それに比べると西洋は圧倒的に田舎です。もともと西洋の中心はギリシア、ローマでしたが、そこが滅ぶと残りは田舎で、教育システムも盤石じゃなかったので、知の散逸も起こります。
      ただ教会という組織がヨーロッパ各地に広がり、神学を学ぶために大学ができると、ようやく知を再生産するシステムが機能するようになります。

      また歴史を通して、交易や戦争で中国やイスラームからいろいろ学んでいます。製紙法、火薬、羅針盤は中国発祥ですし、数学やアリストテレス哲学はイスラームから学んでいます。製紙法は唐との戦争で西に伝わり、アリストテレスの逆輸入は十字軍がきっかけでしたね。火薬と羅針盤がなければ銃も航海もないですし、アリストテレスがなければ、普遍論争もなく、近代哲学もないでしょう。

      ただ近代への圧倒的なブレイクスルーは西洋で生じたので、それによる技術の獲得後は西洋優位になりました。

      どの文明も人間技なので、どの文明も近代と同等のレベルに達する可能性はあります。今は部族社会で生きている人たちも、5000年後くらいには我々と同等の文明に達している可能性があります。

      ただ、進歩(という言い方がまずければ、変化)しやすい条件はあって、例えば文字を発明すること、ユーラシア大陸のように横に長く、異なる文明との接触がそれなりにあり、知の交換が可能なこと、だいたいは宗教がその機能を果たすのですが、なんらかの教育システムを作り出すことといった条件がタイミングよくうまく絡み合う必要があるんじゃないかと思います。

      今回の歴史のブレイクスルーは西洋でしたが、もう一回歴史を繰り返したら、次はどこがブレイクスルーを起こすのか。こればっかり歴史をやり直せないので、わかりません。
      ただ今回西洋でそれが起こったことは事実ですので、なぜそうだったのかを検討することは重要ですし、その一端をキリスト教や西洋で発達した哲学が担っているのは間違いないでしょう。

      あと仏教は基本的に弱い宗教で文明の中心地インドや中国では衰退しました。
      日本や東南アジア、チベットでは定着しましたけど。
      なので仏教だったからダメだったとも言えませんね。

    • #617 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「アリストテレスの哲学が、イスラームに入って最高の展開を遂げ、それが中世以降、西欧に逆輸入されることでスコラ哲学を生み出した」と木岡先生から教えて戴きました
      最高の展開を遂げたイスラームのアリストテレス哲学はその後どうなったのでしょうか?
      もし、イスラームのアリストテレス哲学が政治・軍事的要因で衰退・絶滅したならば、ヨーロッパ社会のその後の発展を左右したのは「論証法の有無」とは言えないのではないでしょうか?
      済みません、10日の哲学塾の主張を蒸し返して。

    • #618 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      そう言われると、そんな気もしますねぇ
      私もイスラーム世界がその後どういう展開を遂げたのか不勉強なので、詳しくはわかりません。特に思想や科学がどう展開したかは。
      一応、つい100年ほど前まではオスマントルコ帝国が存在し、列強と肩を並べていましたが、第一次大戦で衰退し滅びました。

      歴史学的には西洋の優位は科学技術よりも近代的な諸制度でもたらされたものと考えることが多いと思います。(例えば中国はアヘン戦争でイギリスに負けましたけど、もしあの時点で中国が国民国家化してたら、多少技術で劣っていようが人口が圧倒的に違うので勝てたと思うんですよね)
      つまり、さまざまな自由化とそれによる資本主義社会、国民国家というあり方などが他を圧倒する勢力になった。単に他をぶっ潰すというより、他の存在もまた資本主義化、国民国家化させる感染力を持っていたからと考えられます。

      こうした諸制度は必ずしも科学と関係があるわけではない。同時並行的に誕生したのであって、科学技術=近代とは必ずしも言えない。近代化すると教育システムも人海戦術化するので、技術の伝達力は飛躍的に高まりますがね。
      科学が誕生した背景と、資本主義社会や国民国家が誕生した背景にもキリスト教や哲学が関係しているとは言えますね。

      私は列強が列強だったのは、国民国家を早い段階で作れたことと、資本主義社会に早い段階で到達したことが大きく、科学技術だけでは列強になれないだろうと考えているのですが、そうした近代化は状況がそうさせたところがあるので(例えば一部の地主が儲けたいからエンクロージャー法を制定するとか30年戦争とか)、どこまで「論証法の有無」で説明できるかはわかりません。
      そうした有無がエンクロージャーや宗教戦争の発生、ウェストファリア条約や人権宣言に関与したと言えなくもないのかもしれません。

    • #619 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「列強が列強だったのは、国民国家を早い段階で作れたことと、資本主義社会に早い段階で到達したことが大きく、科学技術だけでは列強になれない」と書かれています。
      あの時代の列国の興隆は社会体制と組織の整備に因る処が多かったのでしょうね。
      現在の中国の軍備拡張と戦狼外交は植民地にされた記憶が今も強烈に残っているからでしょうね。

    • #620 返信
      kiba1951
      ゲスト

      『肉を前にしたとき、生命の尊厳への礼拝と、死んだ動物への謝罪と、それによって命を与えられる感謝とを込めて、「いただきます」と言いませんか?』とあります。
      「謝罪」が必要なのは他の生物を食べる動物としての「原罪」だからでしょうか?
      それとも、弱肉強食・敵者生存の原則からすると不必要な事なのでしょうか?
      若しくは単に「夕日に涙する様な単なる感傷に過ぎない」ものなのでしょうか?

    • #625 返信
      kiba1951
      ゲスト

      人生の様々な苦悩・葛藤に対し、インドでは己に対しては「悟り」、他人に対しては「慈悲」で乗り越えようとした。
      中国では己に対しては「格物・致知・誠意・正心・修身」、社会に対しては「斉家・治国・平天下」で乗り越えようとした。
      西洋では己に対しては「哲学」、外部世界に対しては「数学・物理学・工学等」で自然を支配する事で乗り越えようとした。
      何れも各分野の解決手段として有効だと思われますが、この三つを統括する思想・概念はないのでしょうか?

      前回の「謝罪」が負の清算法だとすれば、これ等は積極的な打開策であると思います。
      前回と合わせて皆様のお考えを教えて下さい。

    • #626 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      ないでしょう。
      哲学は哲学で、内面も外界も説明しようとするので、内面は哲学で、外界は科学と住み分けしてるわけでもありません。もちろん科学は科学で内面も外界も説明しようとするはずです。
      インド全体はわかりませんが仏教も当然内面も外界も説明する体系を持っていますし、儒教もそうした体系を持っています。
      宗教は基本的にそうした説明体系を持ってると考えていいでしょう。

      それを統括するものは想定しづらく、哲学や科学が真理を独占すると見るか、宗教が真理を独占すると見るか、どの説明体系も真理を独占することはできないと見るか。

      あるいは様々な説明体系や、それぞれの真理が存在する場合に、それらがぶつかり合う時に調停する必要があります。この調停する概念を「正義」と呼んでいます。(ロールズに代表されるリベラリズムの考え方です)
      「正義の反対はもう一つの正義」とよく言われますが、本当はこれは間違いで、正確にいうなら「(各共同体や説明体系ごとに)複数の「善」が存在し、それらを調停するために正義が要請される」となります。
      ただし、現実にどこまで公正に正義を要請できるかは難しい問題です。
      例えば、ある共同体Aでは殺人を犯した者は死刑に処すのが善と考えられている。ある共同体Bでは死刑は人権侵害であり、死刑にしないことが善と考えられている。Bの人がAの人を殺害した場合、どういう判断が正義=落とし所となるのか。
      死刑はBが納得せず、終身刑と言われてもAは納得しないように思われます。私は人権派で死刑は否定しますが、この理念が本当にAの善に優越するのかはわかりません。できることといえばとことん議論しあって、どちらかが(あるいはどちらも)変わっていくことに期待することくらいしかないと考えています。

    • #627 返信
      kiba1951
      ゲスト

      あきませんか、素晴らしいアイデアを思い付いたと悦に入ってたのですが。

    • #628 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      3つを統括する思想は具体的にどのようなものなんですか?

    • #629 返信
      kiba1951
      ゲスト

      内的には「格物・致知・誠意・正心・修身」と「悟り」と「哲学」を下部概念として持ち、外的には「科学」「慈悲」「平天下」を下部概念として持つ大統一理論。
      それがどんな物であるのかは判りませんが「何か無いのかい」と思っただけです。すみません、無責任で。

    • #630 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      ちなみにkibaさんにとっては「科学」とか「キリスト教」などではなぜいけないのですか?
      別に仏教や儒教は誤りであり、本当は科学こそが、全てを説明可能な、大統一理論なんだという主張は可能ではないでしょうか?
      「格物致知」とかどうでもよくて、全部ニューロンネットワークで説明できるし、全ては科学的因果法則で説明できるのであり、善悪とか倫理はそのような真理とは全く関係がない、人間の勝手な営みだでも良いのでは?私自身は内心それでも良くて、人の営みとして勝手に倫理とか考えているつもりです。

    • #631 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「キリスト教」だとは思いませんが、「科学」ではないのかと言われると否定できません。

    • #632 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      科学的真理と善悪が関係ない、みたいな言い方をしたので、逆に関係づける話をしてみます。

      時々、私はこの掲示板でもマルチバース宇宙論について言及していますが、私が宇宙物理学のマルチバース仮説なんかが面白いと思うのは、それでなぜこの世界に悪が存在するのか、一応の説明がつくからです。

      宇宙が無限に複数あるとして、我々の宇宙はその一つとします。
      確率的に言えば(と言っても本当に宇宙が複数存在するのか分からないので、何を数えて確率と言ってるのか本当はわからないんですが)、我々のような姿をしている宇宙は極めてまれで、多くは星々も存在しなようなスープ上の宇宙だったり、あるいはあまりに物体が固まり過ぎてるような宇宙とか。この宇宙には様々な定数が存在します。宇宙定数とか。これはなぜだかよくわからないけど、観測したらそういう数値だったというものです。物理法則にはこうした定数が色々絡んできます。そして宇宙によって物理法則に関わるこうした様々な定数は異なると考えられます。そして例えば宇宙定数なんかは理論的には0とか1が一番整合性があるのに、実はこの宇宙の宇宙定数は観測してみると0よりわずかに大きい、中途半端な正の数だったりする。でも確かに宇宙定数が0とか1だったら、理論的に、私たちは存在し得ない。地球とか太陽系ができない宇宙になってしまうからです。そして理論的にそれが一番整合性があるなら、他の宇宙のほとんどはそんな宇宙じゃないか。
      そして私たちが存在している以上、私たちがいるこの宇宙は、私たちが存在できる範囲の宇宙定数(その他様々の定数)に定まります。あたかも私たちが存在するのに都合よく宇宙が存在している。これを「人間原理」と呼んでいます。別にこれは、人間が存在するからこの宇宙が存在すると言った人間中心主義的な思想ではなく、「人間が、生物が存在できるということは、宇宙定数が0とかはあり得ないよね。僕たちが現に存在し、宇宙を観測しているということは、銀河系、太陽系、地球が存在できるような宇宙じゃないといけないし、であればそれがどのような宇宙であるかは自ずと定まってくるよね」という結果から原因を推測する極めてオーソドックスで保守的ですらある推論方法です。
      ちなみに、「人間が存在するから、宇宙が存在する」という人もいて、一応これは「強い人間原理」と呼ばれています。私が今のべた人間原理は「弱い人間原理」と呼ばれています。

      さて、この「弱い人間原理」から、なぜこの世界にそれなりに悪が存在しているのかを一応説明することができます。「人間原理の消極的効果」とか呼ばれています。
      まず、宇宙は無限に複数ある。そのうち、私たちのような知的生命体が生存できる環境を用意できる宇宙は、極めて稀と理論上推定できるとする。私たちの宇宙はエリート宇宙なわけです。とは言え、宇宙は無限にあるので、知的生命体が存在できる宇宙の数も、無限の濃度は薄いが、無限にある。当然、それらのエリート宇宙によって、知的生命体が生活しやすい環境の良さには異なりがある。めちゃくちゃ生きにくいが知的生命体が何とか生存できる宇宙もあれば、知的生命体にとって極楽浄土のようなスーパーエリート宇宙がある。
      さて、我々のこの宇宙はそうしたエリート宇宙群の中で、どれくらいの地位にいるだろうか?
      我々の宇宙がやっぱり最高なのか。それとも数あるエリート宇宙の中では落ちこぼれなのか。

      進学校に入学した生徒も、配属されたクラスの中で、自分はどれくらいの学力があろうかと考えるかと思います。
      そして多くの人が「自分は平均くらいだろう」と推定するのではないでしょうか?実際はテストしないとわかりませんが、推測するならそれが一番確率的にあり得そうです。

      これと同じ考えをエリート宇宙に当てはめると、我々の宇宙のエリートっぷりは数あるエリート宇宙の中でも平均的と考えられるでしょう。
      かろうじて知的生命体が存在できるギリギリの宇宙でも、知的生命体が何にも脅かされるパラダイス宇宙でもない。適度に生きやすく、適度に苦難のある平均エリート宇宙と考えるのです。
      確かに私たちは極めて恵まれた環境で生きています。母なる地球ですね。とは言え、広い目で見れば、私たちにとって生息可能な範囲は、広い宇宙の中で、今のところ地球だけです。他に地球と似た星があったとしても、到達がほぼ不可能です。しかもこの地球も、ほとんど海で、人が住めるのは3割の陸地のうちのさらに何割か。しかもそこも地震やら台風やら熱波やらで人は死ぬし、時どき疫病も流行ります。環境負荷に弱く、人間の活動で、生息地が壊れたりします。そう考えるとめっちゃ暮らしやすいわけでもない。我々自身も知的生命体でありながら、極めて愚かなことに手を染めてしまうことがある。
      もしかしたら、スーパーエリート宇宙ではそんなことあり得ないのかもしれません。

      こうして人間原理から、我々の宇宙が、知的生命体が住む宇宙としては平均的で、故に程々の悪が存在するだろうことが一応説明することが可能なのです。
      あくまで推測に過ぎないですけどね。

    • #633 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      訂正
      「知的生命体が何にも脅かされるパラダイス宇宙でもない」

      「知的生命体が何にも脅かされることのないパラダイス宇宙でもない」

    • #723 返信
      kiba1951
      ゲスト

      「触らぬ神に祟りなし」と言いますが、これは神を否定した祟りなのでしょうか?
      6/18に風呂で転倒して肋骨を強打、ヒビが入ってしまいました。
      あな恐ろしや。

    • #982 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      それは災難でしたね。お大事になさってください。
      「触らぬ神に祟りなし」は日本のことわざなので、別に神を否定しているわけではないでしょう。単に下手に関わったら、神様に怒られる。なので関わらない。別に関わらないから神様がいなくなるわけではないでしょう。
      「触る」というのは元々は「触穢」のことだったのかもしれませんね。つまり穢れに触れる。すると神様は怒るわけです。
      これは山本幸治『穢と大祓』で議論されていることですが、例えば死体とかに関わると穢れが発生します。そして儀式とかは穢れの大きさに従って延期します。小さな穢れなら7日間とか、大きな穢れなら14日間とか(日数はテキトーに言ってます。)「延喜式」でシステマチックに決められています。なので祓うわけですが、実はこれは穢れを祓っているわけではない(少なくともそれだけではない)というのが山本の議論ですね。穢れそのものを祓っているのだとしたら、祓った時点で穢れは消失します。しかし貴族の日記とか記録を丹念に調べると、もう祓ってるはずなのに、儀式はきっちり延期されている。穢れが祓って消失したのなら、もう延期する必要はないのに、きちんと延期している。では祓いとはどういう行為なのか。山本によれば、祓いというのは神様に対する謝罪なのだということです。「儀式が遅れてごめんなさい」というお詫びを神様にするのが祓いであり、穢れそのものではなく、穢れを発生させてしまった罪を祓うという観念があったようです。穢れそのものをなかったことにはできないのかもしれませんね。

    • #1167 返信
      kiba1951
      ゲスト

      神を否定したのは前回の「(大統一理論が)キリスト教だとは思いません」を指します。
      詐欺師グループが宗教団体をでっちあげる際に、敷地・神殿・住職等を全て手配したが「教義」をどうするか全く忘れてしまったそうです。
      それらしい環境に荘厳な神殿さえあれば、取り合えずお賽銭をあげて手を合わせる日本人らしい話と感心した事があります。

    • #1259 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      ポイ捨て禁止の場所にちょっとした地蔵さんや小さな鳥居を設置するみたいな話ですね。
      ああいうのも起源が失われた何百年後かの人々には、昔に人たちはずいぶん小さな道端の神様を拝んでいたらしいとか思ったりするんでしょうかね?本当はポイ捨て防止の為だけに置いたものなのに。
      というより私たちが昔の人に対して抱いているイメージが、そのような盛大な勘違いの可能性も常にありますね。

      「教義」を忘れる詐欺グループは確かに日本人っぽい感じがしますね。
      とはいえ、やっぱり脅威なのは「教義」を纏ったカルト集団でしょう。
      特に最近興る宗教は「科学」を教義の重要な要素の一つに掲げることが多いですね。ここまで科学が隆盛を極めると確かに無視もできないとは思うので、それについて語る宗教が出てくること自体は別に問題ないと思うのですが、安易に自分たちの教えを科学でもって正当化するのはどうかと思います。だったら科学で良いのでは?と。(ちなみに私は駅前とかで勧誘を受けると、忙しくない限りは30分は話を聴くようにしてますが、本当に科学的にも正しいんだと主張する団体が増えています。まあ科学もまた神が作ったものだといえなくはないですけど)

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返信先: 慈悲は論理であり得るか
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