縁の論理・倫理と凶悪犯罪者

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  • このトピックには4件の返信、1人の参加者があり、最後に浦靖宜により3年、 7ヶ月前に更新されました。
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    • #379 返信
      こすぎまりあ
      ゲスト

      わたしはこれまで、宗教が社会の中で機能した時のプラスの面について研究をしてきました。具体的には、中東や東南アジアのイスラーム圏を中心に、宗教がファンクショナルであることで、ひとが生きる上でのセーフティネットが保たれやすく、ひとが心身ともに寒い思いをせずに生きていける仕組みについて着目し、調査してきました。

      そして日本に戻ってきてからは、日本の若い子たちが物理的には裕福であるにもかかわらず、メンタルに寒い思いをしているのを目の当たりにして、今、この場所に欠けていて、わたしが住まわしてもらった世界のいろんな場所であったものはなんだろう、違いはなんだろう、と探りながら、今、日本の若い子たちが寒くないために、何が始められるかというのを模索してきました。

      その一方で、宗教のマイナスの面、つまり宗教が虐殺などに巧みに利用されるという面についても、研究しようと最近ようやく決心がつきました。

      そんな時、木岡先生の「〈縁〉の倫理」(『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ』)を読んでいて、先生のおっしゃる縁の論理には、わたしが研究の対象としようとしている凶悪犯罪者(たとえば、オウム真理教の麻原彰晃のような)はどこに位置づけられるんだろう、居場所はあるのか? と疑問に思いました。

      他者を害する(殺傷する、だます)ことについて、抜きん出て感性が高く、並々ならぬ決意を持ってそれを実行するような精神のあり方や生き方は、ひととひとが無限につながっていく縁の論理、倫理の中ではどのように考えられるのでしょうか?

    • #380 返信
      木岡伸夫
      ゲスト

       貴重なメッセージをありがとうございます。
       「縁の論理(→倫理)に、麻原彰晃のような凶悪犯罪者の居場所はあるのか」というご質問に対して、ひとまず「無い」とお答えします。理由は、私の考える「縁結び」の範囲に、麻原のような人間が入らない、ということにあります。以下、既存の倫理学が扱ったことのない〈縁の倫理〉を、私が提起した事情をご説明します。
       「縁」は、倫理学が想定する一対一の対面的状況に生じる「責任」(レスポンシビリティ=応答能力)とは異なり、目の前にいない人々との精神的なつながりを意識することによって、その人びとに対する責任を負う、という仕方で成立するものです。その意味において、「縁結び」の相手とは、私がその人に対して応答しなければ、という倫理的な責任を感じる人間です。私は過去、麻原という人物から、何らかの呼びかけを受け取ったという記憶がなく、むろん応答の必要を感じたこともありません。つまり、この人は私にとって「無縁」の存在なのです。
       ですが、過去に無縁であったとしても、今後もそのままであり続けるかどうかはわかりません。いつか、何らかの仕方で、この世から消えたこの人物との縁が生まれる可能性が、ないとは言えません――いまも麻原を「尊師」と仰ぐ人々が、多数いるように。「縁」は、その拡がりが一定範囲に限られることなく、広くも狭くも設定できるところに、その特徴があります。潜在的には、縁は無数の他者を含むとも言える。現に数年前まで、私は縁を「無限責任」として捉えていました。しかし、最近になって考えが少し変わり、「縁結び」「縁切り」は個人の自由である、という立場になりました(最近著では、そちらの考えを主張しています)。
       〈縁の倫理〉は、有縁と無縁を差別します。しかし、その境界線をどこに引くかは、その都度の状況において、主体に課せられる重い問いかけです。この問題に気づかせてくださったご質問に、心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。

    • #471 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      こすぎまりあさんの研究面白そうですね。昔、宗教社会学者の稲場圭信氏の講義を受けたことを思い出しました。宗教といえば、どうしてもオウム真理教などのカルトを想起してしまう現代の日本においては、宗教の社会にとってプラスになる面を調査する、こすぎさんの研究は貴重だと思います。

      木岡先生に質問です。よかったら、こすぎさんも。
      一つは仏教の、我々の普通の倫理観では相容れない部分をどう考えるかに関わることです。
      例えば、大乗仏教の基本である唯識思想を大成した世親は『大乗五蘊論』の中で、「地獄に落ちるような大罪を犯そうとしている者を止める手段が殺人しかない場合、その人を殺しても菩薩戒には反せず、むしろ功徳となる」といった論理を展開している場面があります。
      あるいは、浄土教では、悪人正機として、悪人の方が善人よりも救われるという論を展開しています。昔、ユダヤ人の浄土教の僧侶が講演した時に、「阿弥陀仏はヒトラーを救いますか?」といった質問をした人がいて、僧侶は「そんなわけない!」とめちゃくちゃ怒ったそうです。
      私も僧侶の気持ちがよくわかりますが、とはいえ原理的には「救うのでは?むしろブッダはヒトラーのような奴こそ、救わねばと思うのでは?」と考えてしまいます。法然は「聖意測りがたし」と言っています。全ての宗教がそうでしょうが、阿弥陀仏のような超越的存在が誰を救うのかなど、そもそも凡夫の我々にわかるはずがないということです。その通りでしょう。とはいえ、凡夫に受け入れがたい倫理観ではあります。
      木岡先生は、仏教思想を援用して〈縁の論理〉を展開されていますが、とはいえ、風土学は仏教ではないわけです。しかし援用している以上、恣意的に仏教の使いにくい部分を無視するわけにはいかないような気がします。木岡先生なりの仏教との距離の取り方があると思うのですが、そのことについて教えていただけたらと思います。
      こすぎさんは、そのような側面のある宗教を社会はどのように受け止めるべきだと思いますか?

      他いくつかありましたが、質問が長くなったので、とりあえず以上とします。

    • #494 返信
      木岡伸夫
      ゲスト

       非常に難しい、重い質問です。〈縁の論(倫)理〉が仏教の理念に立脚する以上、仏教との距離をどう設定するのか――この問いかけから逃げることはできません。小杉先生のおっしゃったことを、少し違った角度から突っ込み直された、と感じます。人間として、他者との縁の有無を分ける、その上で麻原は「無縁」の徒として切り捨てる、というのがひとまずの回答でした。これは、〈縁〉の世俗的な活かし方、凡俗の凡俗に対する対応です。ですが、大乗仏教の理念に立つなら、麻原もヒトラーも阿弥陀仏の「摂取不捨」に与るべき存在である、そう言えるでしょう。救いようのない悪人すら、阿弥陀仏は見捨てることがない。そうでなければ、浄土教は意味をなさないと思います。貴方が「原理的に」とおっしゃる、そのお考えに同感です。この点、僧侶が質問者に立腹したというのは、信仰の問題のプロとしては、「失格」と言わざるをえません。やりとりのコンテクストが不明ですが、宗教上の立場と現実上の対応(犯罪者との接し方)をごっちゃにしてしまうような状況が、そこに生じたのかもしれません。
       となれば、お前の言う〈縁の倫理〉は、大乗仏教の根本理念から距離を置く、一種の世俗的倫理なのか、と問い返されるでしょう。そうだと申し上げます。私が〈縁の倫理〉を提起した理由は、対面状況に発生する「責任」(応答能力)しか問題にしない(できない)、今日の「倫理学」の狭さに対する不満です。ですから、おのれの不満解消に仏教を利用したのか、と反論されれば、それを認めざるをえません。一言だけ――罪業深重の悪人が、いかにすれば救われるかは、世俗的な倫理で解決できる生易しい問題ではありません。現にそれにもがき苦しんでいる、私自身の最大のテーマだと申し上げます。

    • #498 返信
      浦靖宜
      ゲスト

      お答えいただきありがとうございます。
      仏教に限らず、様々な宗教が抱える問題ですね。キリスト教の弁神論なども同様の問題でしょう。
      「麻原もヒトラーも救われる」なんて言えば、信者さんの信心も離れそうなので、人を見て法を説けば良いのかな(=嘘も方便)とは思いますが、原理的には被害者にとっては厳しい答えになるでしょう。

      風土学的倫理学は世俗的倫理ではあるわけですね。
      哲学は宗教ではないので、世俗的倫理を考えることになる一方で、完全に世俗だけの観点だけで考えると袋小路に陥ってしまうように思います。(ダニエル・デネットやスティーヴン・ピンカーのように「世俗主義でバリバリいくぜ。実際世界はなんだかんだで良くなってんじゃん。暴力は減ったし、個々人の自由や豊さも増えている」という哲学が完全にメインストリームになってますが。しかもかなり反論が難しい。)
      風土学が、仏教の知見を取り入れようとしているように、超越について考えてきた宗教の知恵を今後もうまく取り込んでいく必要はあるのかなと思います。

      既存の「倫理学」の狭さについて
      私は実践的には孟子のいう惻隠の情みたいなものからスタートするしかないのかなと思っています。まずは目の前の困っている人に遭遇した時の感情を大事にしろと。ルソーだったらピティエ(憐み)と呼ぶでしょう。目の前の人に対する応答する。まずはそこから始めるしかないという観点では、私も応答責任みたいな考えに近いタイプです。
      孟子は王に、その思いやりの心(仁)をできるだけ大きい範囲に広げることが君主として重要だと進言していましたが、仁を地球規模にまで広げることができるのか。そこに〈縁の倫理〉の考えを適応すべきなのかもしれません。

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