毎月21日更新 エッセイ

テクノロジーの問題(5)

かたちの論理(下)

 

 科学技術の実情に暗く、門外漢である私が、向こう見ずにも「テクノロジーの問題」を5回にわたって論じつづけてきたのは、なぜでしょうか。素人である自分にしか言えないことを、このさい書き記す必要があると感じたからです。「素人にしかわからない」とは、「専門家がけっして考えない」こと、したがって、放っておけば誰も取り上げない問題、のことです。

前回のエッセイを読まれた方は、「ハーメルンの笛吹き」の喩えをご記憶でしょう。どこからともなく現われて、町中の子供をどこかに連れ去っていく笛吹きの話――技術万能の現代世界であって、そういう世界だからこそ、この喩えが意味をもつと私は思います。そう、われわれ現代人は、みんな寓話の世界の子どものように、どこか訳のわからないところに連れ去られようとしているのに、誰もそれをくいとめることができません。素人だけでなく、「専門家」にしても同じです。自身が連れ去られる子どもになるか、それを引き留めることができない大人のままでいるか、違いはそれだけです。

 こういう「テクノ・ペシミズム」に、待ったをかける動きは見られるでしょうか。見たことがありません――少なくとも、私の場合は。前回も書きましたが、私が期待するのは、それとは逆の、「テクノ・オプティミズム」の側からの強力な反論です。テクノロジーに洋々たる未来がある、というのなら、どうかその具体像を描いて見せていただきたい。「専門家」にお願いしたいのは、このことです。そうお断りしたうえで、本シリーズの最後に、ペシミストである私が、危機克服の可能性を托す唯一の道、〈かたちの論理〉の具体化に向けて提言することにします。

 

二種の技術

 私たちの暮らしは、科学技術の恩恵というべき便利な生活道具に囲まれています。いま私がこの文章を書いているパソコン、人々が片時も手放さずにいるスマホ(私は例外)その他、一々例を挙げるまでもなく、高度に発達した技術は、それのない暮らしが考えられないまでに、日常生活の隅々に滲透しています。いわゆるハイテクは、その最先端。ふつうの技術を基盤として、その先に花開いた未来志向的な技術の精華、ということができるでしょう。ローテクであれハイテクであれ、そういうものが必要か否か、という問いの立て方は、もはやナンセンスと言うべきです。

昔、地球環境危機を前に、人類は新石器時代に還るべし、と叫んだ有名な哲学者がいます。昨年亡くなられた梅原 猛先生です。しかし、そう叫んだご自身も含めて、一人たりとも、それを実行した者はいません。そう考え語ることは、むろん自由です。ですが、実行は不可能。なぜなら、私たちの身体そのものが、そういう科学技術によってつくり上げられた〈技術的身体〉にほかならないからです。それは、私たちの生きる世界が、隅々まで技術化していると同時に、それに合わせて自己の身体が、技術的に相当程度改造され、いわば「サイボーグ」化している、ということです。そういう私たちに、自己の身体をつくり上げてきた技術そのものを棄てる、という選択肢は存在しません。そもそも、自然か文化か、そのどちらかを選ぶか、といった二者択一は不毛です。〈あいだを開く〉風土学とすれば、その種の単純素朴な二元論とはきっぱり訣別して、いまある身体と技術から出発して、どういう方向に進むのかを考えなければなりません。そのために、まず直視しなければならないのは、「技術」として一括されるジャンルの中に、二つの異なる傾向があるという事実です。

前回すでに言及したように、技術には、それを開発する人間との関係で、大きく二種類、⒜人間のコントロールできるもの、⒝人間のコントロールできないもの、の区別が考えられます。その違いから考えてみましょう。

⒜人間のコントロールできる技術とは、前近代の手仕事に代表されるように、頭と手、理論と実践が連動するような技術です。たとえば工芸作品は、前もって引かれる図面なしに、技術者(職人)が現場でものを扱う作業によって、生み出されるのがつねです。それが可能であるのは、図面に相当する理論が、すでに頭に入っているからではないか、と言われるかもしれません。たしかにそうですが、それでも理論の内容は、身体の動きから独立に、抽象化されて存在するのではなく、手の動きにつれて具体化し、現実化するという点で、設計図とは異なります。完成度の高い作品は、あらかじめ考えたとおりに仕上がったものではない。というのは、「考え」が制作以前にあるのではなく、制作の過程をつうじて「考え」そのものが生成し、出来上がっていくからです。優れた職人は、そういう意味における手と頭の連携に長けた人、と言えるでしょう。

「手と頭の連携」を、これまで説明してきた〈かたちの論理〉に沿って言い換えるなら、〈かたち〉と〈かた〉の相互作用、ということになります。どういうことでしょうか。ふつうに用いられる〈かた〉の意味には、伝統・因襲といった消極的ニュアンスが伴います。しかし同時に、〈かた〉には、〈かたやぶり〉につうじる革新的な方向が含まれている、ということもすでに説明したとおりです。保守と革新、伝統と創造、という対照的なベクトルをあわせもつところに、〈かた〉の独特な性格がある。このことを改めて確認しましょう。というのも、対照的なこれら二つの面が分かちがたく共存する〈かた〉のあり方にこそ、人間のコントロールできる技術の本質が認められるからです。この特徴は、次に挙げるハイテクの性格とは、まったく異なるものです。

⒝人間のコントロールできない技術――私は、「ハイテク」をそのように特徴づけます。〈過度の単純化〉というそしりを受けることを覚悟の上で、私がそう言いたいのは、ハイテクの本領を「身体から切り離された頭」(AI)が、身体と連動することなく指令を出すあり方、と把えるからです。いかがでしょうか。間違っていると思われる方は、どうかその旨のご指摘をお願いします。ハイテクが「人間の手でコントロールできない」とは、繰り返しますが、人間の身体では一つにつながっている頭と手が、バラバラに働いて、それぞれの結果を出すということです。統一された人間身体においては、手の勝手な動きを脳がチェックして制止する。あるいは逆に、脳の勝手な思いつきを実行しようとするときに、手がそのとおりに動かない、という仕方で、相互に牽制し合うようなチェック機能が働く。手と頭を切り離すことで、異常に発達したハイテクの世界では、そういうチェック機能が失われるのではないか、と考えられるのです。

 

欲望と技術

 手と頭の分離は、〈欲望〉と深くかかわっています。かつて『邂逅の論理』(春秋社、2017年)の中で、〈欲望の論理〉を具体化したとき、〈欲望〉が二元論――現在の文脈では、手と頭の分離――をベースとして、無意識の欲動(リビドー)を呼び覚ます、というメカニズムに言及しました。二元論だけでもリビドーだけでもなく、この二つが暗に結びつくことで、欲望の無限増殖が進むという事態を、〈欲望の論理〉と呼び習わすことにしたのです。とはいえ、こういう大づかみな理解が、はたして妥当かどうか。言い出した私の方は、周囲の反応に期待しているのですが、これまでのところ、どこからも声―—賛否いずれであれ――が聞こえません。もしかすると、〈検証のしようがない仮説〉と見られているのかもしれません。私としては、決定的な反論がまだないことを幸いに、〈欲望〉と技術の関係をさらに追及することにします。

 ふつうに言われる二元論は、主体と客体を分ける態度。物事を文字どおり「客観」視する、というごく当たり前のふるまいであって、それ自体に何の問題もありません。人がものを見るということは、ふつうはそのものに何らかの働きかけを行うことに結びつく。手元にある道具(例えば、スプーン)を見やるのは、それを用いて必要な目的(スープを掬う)を果たすための前提であって、そういう実際的目的を離れて、道具そのものをじっと見つめる、などということはありません。このあたりの議論は、ハイデガーが、日常世界における道具連関として明らかにした、哲学の世界では有名な分析です。ですが、ここでは「現存在分析」の詳細は棚上げにして、〈手と頭の連携〉に話を絞ります。道具であるスプーンを手にする行為は、それによってスープを掬うという目的と一体になっていて、双方の間にスキマがない。日常世界では、手だけが勝手に動くとか、頭が勝手に働いて別の目的を考える、といったことはまず起こりません。そうした習慣的なあり方の環境世界に、〈欲望〉が介入する余地はない、と言ってよいでしょう。

 いま申し上げたことの裏返しとして、手と連動しない頭、頭から切り離された手が活動するとき、〈欲望〉が浮上してくる、と私は考えます。それは、人間にとって「自由」と不可分です。頭は手から独立になることで、身体的な制約を受けることなしに、どんなことでも思い浮かべることができます。たとえ現実に実現不可能なことでも、考えることができます。まさしく、「精神の自由」を獲得するのです。いっぽう手の方は、デカルトが身体=機械とみなしたとおり、脳による直接的拘束を受けなくなれば、何もそれが人間の手でなければならない理由はありません。手と直結する道具は、文字どおり、手を離れた機械に代替され、活動の機能と効率をどこまでも高めていく。結果として、頭はAI、手は機械、という理想的な複合体――言うまでもなく、ロボット――が登場してくるのは、ごく自然な流れです。

 身体の制約を受けない「自由」な精神、精神とは別個に働く身体と、その延長たる機械。これらが〈欲望〉の元凶である、などと言えば、「近代を全否定する愚か者」という罵声が返ってくるでしょう。しかし、私の呈する疑問は、近代ないし〈欲望〉の全否定ではありません。かといって、もちろん、その裏返しの全肯定でもありません。〈欲望の論理〉を内蔵する私たちの〈技術的身体〉は、いったんそれを認め、受け容れるという前提に立たなければ、どうすることもできません。近代の宿命から逃れるすべがないわれわれとしては、それを認めたうえで、それとどう付き合っていくか、を考える以外にありません。姑息と言われれば、そのとおりですが、それ以外の道はないのです。

 

二種の?二元論

 〈欲望の論理〉を否定しながら、〈欲望〉そのものを全否定することはしない。その理由は、私たちが欲望を生む二元論を、批判はしても捨て去ることができない、という現実にあります。二元論は、日常生活を隅々まで支配しています。それを、オール・オア・ナッシング式に、認める、認めない、などということ自体が、ナンセンスです。時折、そういう二者択一式の議論をされる御仁も見うけられますが――かつての梅原先生が、そうでした。いやいや、故人の悪口はやめましょう。ということになると、私たちの前にあるのは、二元論および〈欲望〉を基本的に認めながら、その行き過ぎにどうやってハドメをかけるか、という問題です。これは、前代未聞の難問だと言わなければなりません。ふつうに言われる「問題」は、白か黒か、あれかこれか、の二者択一で答えが出るのに、この場合は、二元論を肯定しつつ否定する、といったとんでもない理屈を考えなければならないからです。

 肯定でもなく否定でもない、そういう私の言い方に覚えのある方なら、ああ「レンマ的論理」という奴か、と連想をはたらかされるかもしれません。そのとおり、レンマの出番がここでやってきます。二元論か非二元論か、という選択が、ロゴス的な真と偽の二値論理であるのに対して、〈あいだを開く〉レンマの論理(中の論理)では、「二元論でも非二元論でもない」がゆえに、「二元論でも非二元論でもある」という主張を、展開することが可能です(よろしければ、拙著で言及している「テトラレンマ」――山内得立が『ロゴスとレンマ』において提唱した論理――を参照してください)。そういうレンマの発想を具体化したものが、私なりに考えついた〈かたちの論理〉です。どうして、そんなことが言えるのでしょうか。

 〈かたち〉と〈かた〉は、別個の存在。技術的制作の場面に即して言い換えるなら、〈かたち〉は手の動き、〈かた〉は制作の目標・理念となる。この区別は、二元論そのものです。工芸の世界では、こういう作品を仕上げたい、という目標ないし理想があって、それに至るための「手探り」から事が始まります。素人の工作なら、手順を示すマニュアルがあって、そのとおりに手を動かせば、見本と同じ完成品が出来上がる。職人の世界には、そういうマニュアルはなく、いわゆる経験とカンに頼って、制作が進められます。その特徴は、けっして図面どおりにはいかないような偶然性を孕んだプロセスにあります。この過程を私は、〈かた〉から〈かたち〉へ、〈かたち〉から〈かた〉へ、という双方向の動きが一つになっているという点で、非二元論的な事実と考えます。というのは、〈かた〉と〈かたち〉は区別されるけれども、別々のものとして切り離されることができない、そういう「不一不異」の関係である、とみなしうるからです。これは、二つの存在(実体)をまったく別々のものとして切り離す、デカルト的な二元論とは、全然違います。違うけれども、二元論ではないのかと問われれば、いや二元論である――〈かた〉と〈かたち〉が、はっきり区別されるのだから――、と答えざるをえません。〈かたちの論理〉は、一種の二元論です。だとしても、近代世界を支配し続けてきた西洋的なロゴスの二元論ではなく、日本など東洋世界に特徴的な「レンマ的」二元論を表しています。

 レンマ的二元論には、ロゴス的な二元論とは異なる明確な特色があります。それは、技術の原理となる〈かた〉が、人間世界から独立した神のごとき存在――難しく言えば、「超越」――ではない、という点です。すなわち、人間的なふるまいである〈かたち〉とつながり、たえず〈かたち〉と相互媒介する〈かた〉には、「絶対不変の規範」という性格はない、ということです。もちろん、個々の〈かたち〉が相対的であるのと対比すれば、〈かた〉には絶対としての重みがあります――だから稽古事では、師匠の教える決まりごと、〈型〉に忠実に従わなければならないわけです。それでも、修業をつうじて到達された目標は、それが終点ではなく、さらに次の目標が現れる、といった仕方で、〈型破り〉が行われる。これは、人間にとって到達不可能な〈絶対〉とは、まったく違うものです。

まとめましょう。〈かた〉と〈かたち〉は、たがいに異なる二つの存在であり、その異なりによって、不可分な仕方で関係します。異なるものとして対立する、という意味では「二元論」、最初から不可分な一体性をもつ、という意味では「非二元論」、この両方の性格を具える〈かた〉と〈かたち〉の関係が、〈かたちの論理〉です。従来の言葉づかいからすれば、それは毛色の異なる二元論だと言えなくもない。ここで二種の二元論を分けるポイントは、〈かたち〉から区別される〈かた〉の存在性格にあります。〈かた〉は、〈かたち〉を産み出す原理・規範の位置に立つとしても、けっして神のごとき超越ではない。その点を見すえて、このシリーズの目標である技術の「倫理」を考えたいと思います。

 

技術の「倫理」へ

〈かたちの論理〉にもとづく〈技術の倫理〉が、もしあるとすれば、それはどういうものでしょうか。それに答えようとするなら、まずもって「倫理」をどう考えるかが重要になります。上の節では、あえて二種の二元論を区別する立場をとりました。その狙いは、ハイテクと〈かたちの論理〉を、同じ「二元論」の枠組で論じることによって、そこに成立する「倫理」の違いが際立ってくることにあります。どういうことでしょうか。(イ)ロゴス的二元論、(ロ)レンマ的二元論、この二つに分けて考えてみます。

(イ)ロゴス的二元論の場合。デカルトは、精神の本質を「思考」、物体の本質を「延長」と考え、これら二種の存在を「実体」として区別する二元論をうちたてました。わざわざ教科書的説明を引いたのは、この区別が、技術の根本に潜む「頭」(理論)と「手」(実践)の区別にそのまま重なる、という事実に注意していただくためです。二つの実体のうち、どちらが技術を主導するのか、と訊ねたなら、まちがいなく「頭」という答えが返ってくるはずです。精神による指導がなければ、機械に等しい身体は動きようがない。デカルト以後に成立した「人間機械論」の立場から、そういう説明が出てくるでしょう。

頭-精神-理性…の先に想定されるのは、「神」。神は「思惟実体」そのものであり、人間的思考がそれに由来する完全な存在として、世界から超越します。神を宇宙の「創造主」とすれば、神によって創られた「被造物」は、神とはまったく異なる存在者でなければならない。たとえ、人間が「神の似像」と呼ばれるとしても、〈創るもの〉と〈創られたもの〉のあいだには、越えがたい隔たりがなければならないというのが、古代から西洋世界を支配しつづけてきた二元論です。ユダヤ=キリスト教の成立にまで遡るこの二元論を、近代的な〈精神-物体〉の関係にリフォームしたのが、デカルトの近代的な二元論。しかし、根底に流れるのは、同じ考え方です。

このような二元論に立脚する技術は、絶対的な原理(頭)とその適用(手)を分ける立場を導きます。他に依存することなく思考する頭と、頭の命令を忠実に実行する手。この関係は、神の定めた掟を人間がそのまま守る、という構図に重なります。「倫理」が、人間世界の中でしてもよいこと、よくないことの基準を意味するなら、それを定めるのは神である。神から絶対的に隔てられた人間は、その基準から外れないよう心がける。これが、絶対的な掟としての倫理あるいは道徳である、ということになります。

問題は、そういう基準を人々がいかにして知るか、またその基準をもとに、実際の倫理や道徳を定めるのは誰か、にあります。神自身が、直接それを人々に語ることは、まずありません。神に代わる誰かが、それを代弁します。かつては、『旧約聖書』の「山上の垂訓」が物語るとおり、モーゼのような「預言者」(神の言葉を預かるべく、神から選ばれた人)が、その役割を担いました。現在は、倫理学者が預言者の役目を代行する、と言いたいところですが、彼らはもはや倫理そのものには関心を寄せず、逆に倫理を疑うことこそおのれの使命であると任じて、謙虚らしくふるまっています。そういうご時世に、本気で〈技術の倫理〉をうちだす気のある人が、大勢いるとは考えられません(昨年知り合った香港の技術哲学者、ホイ・ユクなどは、稀少な例外だと思います)。

ロゴス的二元論に立脚する倫理、その長所並びに短所は、ともに「絶対性」にあります。聖書にもとづく「地球上の種を絶滅させてはならぬ」という主張が、環境倫理の命題になったとすれば、すくなくともキリスト教徒は、これを絶対の掟として忠実に守らなければなりません。そうでなければ、神に愛されず、神の怒りを買うことになる以上、この倫理的命令は絶対の重みをもちます。これに比べれば、人間世界の中での取り決めや契約に、それほど重大な意義はないと考えられる。それでも、人間社会で平然と倫理を踏み破ることが行われにくいのは、神意にもとづく「法」が存在する、という理由によってです。

以上が、ロゴス的倫理の「長所」だとすれば、「短所」は何でしょうか。神もしくは神意を伝える預言者によるもの、という保証が存在しないかぎり、倫理は不完全な人間による恣意的・偶然的な決まりになってしまいます。ですが、そのこと自体が「短所」だという訳ではありません(すぐ後で申し上げるように、偶然性を押し立てる別の倫理の立場も考えられます)。本来の意味の倫理は、神が定めた絶対の掟ですから、そうでないものが絶対的な権威をもつはずはない。にもかかわらず、ロゴス的な二元論が通用する世界では、歴史的に生まれた偶然の所産が、あたかも絶対であるかのごとく聳え立つ、といった事態が起こるところに、問題があります。当面の問題として、人間の手から生まれたハイテクに、一見すると神のごとき後光がまとわりつくのは、〈神-人〉に代表される二元論の枠組から「神」を除いた後に、それが位置を占めるからです。不完全な人間の手から生み出された技術が、それにもかかわらず、あたかも神であるかのごとく、超越的な地位に君臨する。こうした事態を生じてしまうのが、ロゴス的な倫理の「短所」です。

と申せば、いま述べた「長所」と「短所」は、別々のことではなく、同じ事柄の両面ではないか、という指摘が為されるでしょう。そのとおり、人間世界を支配する倫理に〈絶対〉としての権威を与えるのも、偽の神々を祀り上げて権威づけるのも、同じ二元論です。ですから、長所だけを残して短所を解消する、というような、虫の良いやり方は通りません。ロゴス的倫理に対置されるレンマ的倫理にしても、同じこと。その利点は、必ず反面としての欠点を伴います。次に取り上げるのは、そういう両面性を免れないものとしての、「レンマ的二元論」にもとづく倫理です。

 

結論――消極的方針

 (ロ)レンマ的二元論の場合。〈かたちの論理〉にもとづく倫理が考えられるとすれば、上に述べた〈絶対〉の倫理・道徳とは、およそ対照的なあり方になるはずです。いったい、何がどう異なるのか。〈かた〉と〈かたち〉の関係から、考えてみます。何度も繰り返すように、原理となる〈かた〉から、個々の〈かたち〉が生まれる。〈かたち〉は〈かた〉を手本・目標として意識しながら、それぞれの個性を表現する。そうした〈かたち〉の反復をつうじて、新たな〈かた〉がうちだされる……この過程では、二つの契機のうちの一方が、他方から切り離されるということは、起こりえません。ロゴス的二元論のように、創造主(神)の意志が、被造物(人間)の窺いえないところではたらく、といったことはありえないのです。

 〈かた〉は、神のごとき超越的原理ではありません。〈かたち〉と常にかかわり、〈かたち〉と連動することをつうじて、それ自体が変化する。つまり、〈つくるもの〉として〈つくられたもの〉をつくると同時に、それ自体が〈つくられたもの〉によってつくられる、という存在です――この言い回しは、西田哲学が用いた定式と同じです(後期の西田幾多郎は、弟子である三木清の着想した「形の論理」を借用して、以上のような、自称「弁証法」を展開しました)。

ここから導かれるのは、どのような〈技術の倫理〉でしょうか。抽象的で消極的な言い方ですが、〈かた〉から〈かたち〉が遊離せず、〈かたち〉から〈かた〉が切り離されないあり方を貫く、ということです。それは、具体的に何をどうすることなのでしょうか。それを考えることは、技術の現場ではたらく専門家にお任せしたい。私のような素人が、口を出すことのできるテーマではないと思うからです。私が最低限言えるのは、次のような基本的な点のみです。いかなる技術――ローテクでもハイテクでも――であれ、なぜ、何のためにそれを開発するか、という基本目標があるはず。その目的に沿った結果のイメージが、目標にして出発点となる〈かた〉を意味します。そこから着手される一つ一つの技術的挑戦が、〈かたち〉に相当します。それら個別の挑戦は、開始時点の〈かた〉と不断に突き合わされ、比較されることによって、次なる企てにつながってゆく。このやり方では、何だかわからないが、とにかく面白そうだからやってみる、というような冒険的企ては、斥けられ排除されます。そういう好奇心本位のチャレンジは、排除されなければならない、というのが私なりに考えた〈技術の倫理〉の結論です。〈かたちの論理〉は、世に多いベンチャー起業的な技術開発を、無謀として排除する倫理を提起します。

一点だけ、念のために付け加えると、ロゴス的二元論の立場が強みとなるのは、超越的な理念や規範が強力に作用して、個々の実践を導く場合です。レンマ的二元論の場合、〈かた〉にはそういう超越性・絶対性はありえない。〈かたち〉との関係ではたらく〈かた〉は、内在的・相対的にならざるをえない(先にふれたように、絶対性がないという点で、これを弱点とする見方も成り立ちます)。ですが、翻ってお訊ねしたいのは、人類の将来を見すえて、これこそ絶対だと言えるような理念を、今日誰かがうちだしているでしょうか。そういうものは、見あたりません。〈欲望の論理〉が地球上を覆いつくした現在、あるのはただ、「成長」の空疎なスローガンのみ。それを意識するなら、〈技術の倫理〉はさしあたり、上に述べたような消極的方針をとるしかない、と私は結論します。

 

                

コメント

    • kiba1951
    • 2020年 4月 19日
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    「頭はAI手は機械、という理想的な複合体――言うまでもなく、ロボット――が登場してくる」と述べられています。
    ①産業革命以前の戦争・農業・漁業・林業・鉱業に於いて最も重要な要素は人間の筋力でした。
     しかし筋力は蒸気機関の発明により代替されました。
    ②手工業の時代になって重要になってきたのは手とそれを制御する神経系でした。
     しかし手工業はNC・MC工作機により代替されました。
    ③コンピュターの発明により頭脳労働にも機械が進出してきました。
     1)指先に乗る記憶素子1つに全人類が太古から現在までに書いた全ての書籍が書き込まれる様になりました。
     2)CPUの演算速度の速さについては巧く表現できない位早くなりました。
     3)その結果2045年にはシンギュラリティー(人工知能の性能が全人類の知性の総和を越える時点)が来ると言われています。
    ④左脳が担っているとされる論理能力について機械は人類を超越しそうですが、右脳の美・善・真の感覚や感情・想像力等についてはまだ遅れている様です。
     意識・生命・魂と時間・空間・物質・エネルギーとの関係はまだ明らかにされておらず、解明し代替するにはまだ時間が懸りそうです。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 4月 24日
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     エッセイ本文では立ち入ることのできなかったテクノロジーの歴史、現状について、いろいろ説明されています。「頭」と「手」が独立して、それぞれの機能が機械に代替されることによって、異常な発達を遂げたという経緯が、具体的に示されています。私の提唱する〈かたちの論理〉は、ハイテクによって極度に分離された「手」と「頭」に、一体性を取り戻す努力を試みてはどうか、というものです。これからの見通しについて、いずれ再論する機会をもちたいと考えています。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 13日
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    「私が期待するのは、それとは逆の、「テクノ・オプティミズム」の側からの強力な反論です。」とありましたので
    テクノ・オプティミズムからの反論を考えました。反論というより決意表明といった感じですが。特に何かを参照したわけではないので、これが「テクノ・オプティミズム」なのかは分かりませんが。

    ↓↓↓
    「木岡先生のご高説、興味深く拝聴しました。
    頭と手との関係をもう一度取り戻した技術が必要だという論には首肯できることも多いです。
    しかし、だからといって好奇心に基づく冒険的な企てを否定することには同意できません。

    それは我々人間の種としての可能性を狭めることになります。可能性を広げる必要などないとしても、それを止める権利もまた誰も持たないはずです。

    我々はもっと先に進みたいのです。人類が滅亡するその時までに、我々がどこまで行けるのか、見てみたいのです。

    我々はこれからも挑戦を続けます。火星に行く意味などないとしても、火星に行けるよう努力します。そして火星で何事かを為そうとするのであれば、エネルギーを調達する必要があります。そのために、今考えられるエネルギー調達先の最大候補である原子力技術をこれからも開発し続けます。
    原子力は確かに危険です。人類は核兵器の恐ろしさを身を持って経験しました。原発事故も何度も経験し、文字通り計り知れない被害を受けました。
    核兵器は廃絶すべきかもしれません。核分裂という核のゴミを発生させる原子力発電はやめるべきかもしれません。しかしいつか我々は核融合を成功させ、アインシュタインの最も有名なあの公式E=mc2の通りに、質量からエネルギーを得る方法を開発しなければならないのです。核兵器や原発は捨てても、原子力技術だけは捨てるわけにはいかないのです。
    なぜなら火星に生物はほぼ生息しておらず、化石燃料が存在しないからです。今の我々は化石燃料でエネルギーを得ています。自然エネルギーを得ることが地球上では可能だとしても、地球よりも太陽から遠い火星では不十分かもしれません。仮に十分な自然エネルギーを得ることが火星でも可能だとしても、その設備を作るためのエネルギーを別に調達する必要があるのです。そのためには原子力が必要なのです。
    火星移住を諦めることは、人間が地球という与えられた環境以外の環境でも適応できる可能性を一つ潰すということです。
    我々は諦めきれません。これからも火星に行ける努力を、質量からエネルギーを取り出す努力を続けねばならないのです。
    火星に行く意味などなくてもやるのです。誰にそれを止める権利があるのでしょうか。

    木岡先生はテクノロジーが人間のコントロールから離れてしまうことを危惧されています。
    確かにその危険性がないわけではありません。
    例えば先にあげた原発事故。有名なチェルノブイリ原発のコントロールパネルは何百何千もの計器とスイッチがひしめく機械の塊であり、それらの計器を観察しつつ、その都度たくさんのスイッチやレバーを操作して、原子炉を安定させる技術は文字通り神業であり、テクノロジーが人間業を凌駕してしまった分かりやすい事例かもしれません。しかしそれはその当時のコントロール設計が不味かったという話です。計器やスイッチをより簡略化したり自動化することは可能です。
    かつての航空機のコックピットにもおびただしい数の計器とスイッチがありました。そのため操作ミスによる墜落も何度もありました。しかし現在では簡略化、自動化することで、操作が簡単になり、事故が減少しました。もちろん自動化したことが原因となった墜落事例もあります。しかしそれにもまた対策がうたれていくのです。もしも本当に対策のしようがない、あるいは一度の失敗が壊滅的な打撃を与えるのであれば、その時にはそれを諦めればいいのです。それまではどこまでも技術でもって技術を制すればよいのです。

    あるいは、テクノロジーが人間のコントロールから離れることよりも、テクノロジーが自然環境、生態系、人間の身体、精神などに不可逆的な影響を与えてしまうことを心配する向きがあるかもしれません。確かに一気に我々含めて絶滅するということは避けたい。我々はそのためなら持てるどんな叡智もテクノロジーも使っていきたい。そこには木岡先生の〈技術の論理〉を含まれます。しかし、それでテクノロジーの進展をそれまでとすることはありません。絶滅の危機が起きた時には対応しつつ、これからもテクノロジーをどんどん進めるのです。

    一気に絶滅しないのであれば、変化を恐れる必要はないのです。
    今ある自然環境に価値があるのでしょうか?
    今ある生態系が大事なのでしょうか?
    変わってしまった自然環境や生態系の方が今あるそれよりも劣っているのでしょうか?

    あるいは我々も変わっていくかもしれません。

    生命倫理では試験官ベイビー、クローン人間、人間と動物を合成したキメラ、サイボーグにアンドロイドを倫理的な問題として扱います。
    なんと反倫理的なことなのでしょうか。
    彼らは試験官ベイビーやクローン人間、キメラ、サイボーグ、アンドロイドが五体満足の人間よりも劣っていると見做しているのです。
    彼らのような存在が生まれてしまうことを勝手に可哀想だと決めつけているのです。
    なぜキメラやサイボーグもまた我々同等の倫理的存在たりうると思わないのでしょうか。

    望んで生まれてきたわけではないのに暴力的だですって?
    ではあなたは望んで人間に生まれてきたのですか?望んで男に?女に?それ以外に?
    誰も望んでこの世に生まれてきたわけではありません。生み落とされることそれ自体が既に暴力なのです。「自然な」セックスでできようが、試験官で作られようが同じです。
    我々は皆、生み落とされた後に仕方なく今ある自分を肯定していくしかないのです。
    彼らにもそれができないとどうしていえるのでしょう。できないとしたらそれは技術が悪いのでなく、彼らが自己を肯定できないくらい、彼らを差別する人間がいるからでしょう。

    我々は人間です。でもそれは途中形態に過ぎない。これからも進化していくのです。「進化」が肯定的すぎる言い方なら、「変化」していくのです。我々の生み出すテクノロジーが、それを促進していく可能性があるのならば、それを止めるのではなく、人間以後の存在を含めた倫理を考えるのが、本当に必要なことなのではないでしょうか?

    我々は木岡先生のいう〈技術の論理〉に基づく技術を邪魔する気はありません。ただ我々は我々が思うテクノロジーを進展させるだけなのです。」

    我ながらそこそこ強力に仕上がったのではないか?と思いつつ、しかしめちゃくちゃな言いようですね(笑)

    • kiba1951
    • 2020年 5月 15日
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    私はこの様な極論・暴論が大好きです。
    極論・暴論を用いる事により、事態の状況を明確にする事が出来るからです。
    がんばれー!

    • 木岡伸夫
    • 2020年 5月 15日
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    テクノ・オプティミズムからの反論、「待ってました」と言いたいところですが、ずいぶんハチャメチャな内容ですね(オヤオヤ、だからいいんだ、という応援もあるようですが…)。
     テクノロジーの推進者は、科学技術の進歩が人類の幸福、利益に結びつく、という大義名分をかざすことによって、人民から吸い上げたべらぼうな研究資金の費消を正当化しています。それなのに貴方は、従来の意味での人間ではない、クローン人間その他の「開発」が許されるかどうかを問題にすることが、「反倫理的」だとおっしゃる。私は世の倫理学者に敵対していますが、彼らが生命の操作を倫理的問題として論じることを、間違いだとおっしゃるなら、彼らの側に立ちます。いまクローンの是非は問いません。クローンをつくることで、人間が幸福になるか不幸になるかを考えなければならない状況だから、それが正当な研究開発であるかどうかを検討しなければならない。それが、倫理学者の果たすべき役割です――彼らは、それで給料をもらっているのです。倫理的であるかどうかなど問題外、好きなことに挑戦すればよろしい、というお考えのようですが、誰からも支援を受けずに、したいことができますか。
     昨年9月、デンソーのイベントCreation GIGⅡで、「人工生命」(AL)の第一人者、池上高志東大教授とバトルをやりました。目標達成間近だと豪語する氏に、私は、そんなことはあなたの自己満足でしかない――さすがに、そこまで露骨な言い方はしませんが――という趣旨の批判を呈しました。彼の共同研究者である石黒氏をこき下ろしたついでに、です。とはいえ、信念をもって研究に邁進する池上氏の真剣さに、一目置いたことも事実。彼は、自分の研究には――石黒などと比べてでしょう――予算がつかないということを、別にコボすというのでもなく、淡々と述解していました。それは当然です。人工生命ができることによって、誰かが得をするという訳でもないのですから。(興味がおありなら、2時間にわたる実況を、Facebookでご覧ください。出演者二人に無断で、動画を勝手に配信するデンソーの傲慢さに抗議して、同社とはプッツンになりましたが。)
     実際の対話なら、いくらでも付き合いますが、ヒマ人でない私としては、もう一点だけにとどめます。それは、私がテクノ・ペシミズムに立ちつつも、〈かたちの論理〉をふまえた技術開発の基本原則をハッキリ申し上げているにもかかわらず、単なる消極論だと誤解されている点です。〈かた〉と〈かたち〉の相互媒介、と申し上げていることの内容を、以前のエッセイにまで遡って、よく読んでください。ロボットを制作する際に、完成した暁にどんな利用価値が生まれるか、何の役に立つのか、というヴィジョンをもって取りかかる。これが〈かた〉に相当する。その理念・方針に沿って、試行錯誤する(つまり、〈かたち〉をつくっていく)。そういう〈かた〉と〈かたち〉の相互規制が成り立たないような、何でもいいから、思いついたことをやってしまえ、という開発現場の独走を許してはならない。これが「消極的方針」の意味です。そうならない仕組みを、現場の技術者に考えてほしい、という思いで書きました。
     「テクノロジーの進展」を否定しない、という点ではわれわれは同じです。違いがあるとすれば、テクノロジーの進歩を認めたうえで、その暴走をいかにして食い止めるか、という問題意識があるかないか、それだけです。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 15日
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    kiba1951
    kibaは以前に「再生医療」のワークショップに参加し、加藤和人(大阪大学大学院医学系研究科)教授の御講演をお聞きしました。
    加藤教授は科学者として真摯に研究に取り組まれ、その態度には強い感銘を受けました。
    今社会の関心はIPS細胞・遺伝子とAI・ロボットに集中しております。
    また、世界では生命科学での覇権・利益を求めて何でもありの国もある一方で、過度の宗教的制約も存在します。
    大学・企業人の講演はどうしても「HOW」に偏り、「WHY」「WHAT」が欠落します。
    尤も理系研究者としては当然で、むしろ生命科学に対する人文科学者の無関与が問題だと思います。
    「IPS細胞・遺伝子」への興味は「生命の根源」に対する疑問であり、「AI・ロボット」への興味は「魂・自我」に対する疑問と言えます。
    「神の領域」である生命科学に対し最適の政策を採るには現実論(過去の推移・そろばん勘定)に加え、理想論(本質論・目的論)が不可欠だと思います。
    其の為には宗教者・哲学者・法学者・歴史学者・人類学者等の関与が必要であると思います。
    加藤先生も宗教者や哲学者の生命科学への関与については大きく期待されておられました。
    「テクノロジーの問題⑤」に於いて浦さんがこの問題に対し一つの考えを提示されました。
    この問題は「AI・ロボット」と並ぶ大きな問題ですので、別トピックを建てて論議しようではありませんか!

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 15日
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    私の暴論にお付き合いいただきありがとうございます。
    生命倫理の部分では、相手を反倫理的だと批判する一方で、私の議論は非倫理的で、起きてしまった現状をひたすら肯定しているだけなので、問題大アリですね。
    とはいえ、現にそれが起こってしまったら、例えば本当にキメラが生まれてきてしまったら、「お前の存在は倫理に反してる」なんて言えないので、そうなった時の倫理を考えざるを得ないんじゃないかとは思っています。「お前を非難しているんじゃない。お前を生み出した技術を非難しているんだ」なんて言い訳されてもねぇ。私だったらめっちゃ傷つきますよ。なので、命に関しては生まれてきたものは全面的に肯定せざるを得ないという前提で今は考えています。そしてそうなると、それが何の技術で生まれたのか、それが倫理的に正しいかどうかをもうその段階では問えなくなっちゃうと思うんですよね。まぁだからこそ慎重にやれ、とか手を出すなと言えるんですけど。でも現にそうした技術が使われている未来人がこの議論を見た時に、「俺たちが否定されてる」とか「俺たちのような存在は倫理的に間違っていると過去の馬鹿共は思っていたらしい」とか思ったとしたら悲しいじゃないですか?前にもチラッとお話ししたかもしれませんが、私は過去の人間が未来の俺たちをどう想像していたかとか、未来の人間は過去の俺たちをどう思うかとか想像して、自分の行動とか考えを決めてしまうことがあるので、今回はめっちゃ未来寄りの意見です。木岡先生にとっては、人工生命とかキメラとかが存在する未来は間違った未来、あるいはあり得ない未来なのかもしれません。とはいえ、今の黒人とか先住民の人たちが、大航海時代の宣教師たちの「アボリジニーは人間か?猿か?」みたいな議論を見ると怒ると思うんですよね。でも当時の宣教師はアボリジニを人間と認めることの倫理的問題を本気で気にしていたんですよ。なので、当時の人の倫理観が問題だったと未来の私たちからは言えるけれど、同じように今の時代を生きる私たちも絶対未来人に怒られると思うんですよね。倫理学者が一番怒られる可能性があると思っているんです。「この時代の哲学者の非倫理性ったらない」って言われると思うんですよね。気にしてもしょうがないんだけど、気にしてしまうんです。というか気にすることも大事だと思うんです。

    さて前座はさておき、〈かたちの論理〉を踏まえた技術開発について、私なりに疑問を呈します。

    〈かたちの論理〉を踏まえた技術開発が「何でもいいから、思いついたことをやってしまえ、という開発現場の独走を許」さないのはその通りだろうと思うのですが、木岡先生はそのような独走の代表例として、現代のどのような技術を想定しているのですか?それがまず、いまいちよくわからないです。

    木岡先生がコメントで「ロボットを制作する際に、完成した暁にどんな利用価値が生まれるか、何の役に立つのか、というヴィジョンをもって取りかかる。これが〈かた〉に相当する。その理念・方針に沿って、試行錯誤する(つまり、〈かたち〉をつくっていく」と言っているように、木岡先生が批判した石黒先生を擁護できますよね。実際、普通には彼はちゃんと一つ一つ目的設定して、それをクリアするための技術を開発していると思いますよ。「ロボットを人間にする」という目標そのものは、哲学の知見からは、それがいかに荒唐無稽か批判することができると思いますが、とはいえ実現不可能な目標をあえて設定することで、じゃあ機械の計算と人間の知性はどのように異なるのか、人間が瞬時に文脈を理解したり、今集中すべきことに自然とフレームを当てたりする能力を機械に持たせるには何が足りないのか、作って試してみることで、いろいろ分かることがありますよね。これは作ったロボットの利用価値というより、ロボットを作る過程でわかることを知りたいからロボットを作るという話ですが、それも木岡先生にとっては欲望の暴走でテクノロジーの暴走の問題なのでしょうか?一体今の技術開発のどこに、本当の意味での目的もよくわからない闇雲さがあるのでしょうか?

    一般市民の無知が問題?それも大きいと思っていますが、私は正直、一般市民(大衆)を信じていません。彼らに科学的知識を与えてもろくなことにならないと思っています。彼らと科学的知識が融合して生じるのは、「科学的エビデンス」なるものを盾にして他者を排除するコロナ禍ですかね。それは3.11で経験済みだと思います。一人一人はちゃんとした人が多いと思いますよ。でも大衆になると全然ダメだと思います。私は科学的、理性的に物事を考えられる人がマスになるという想定は、あまりに楽天的だと思っています。私はかなりペシミストです。人民が自由に声を上げることができることは大事だけど、政治が人民の声を常に聴く必要はないと思っています。それではただの衆愚制ですから。

    そして私が一番気になるのは、〈かたちの論理〉に基づく技術開発で、原爆の開発を批判できるのかです。
    原爆は極めて目的合理的に作られた兵器ですよね。「効率よく敵を殲滅する!戦争を終わらせる!世界に対する優越性を確保する!」
    とても明確な目的だし、残酷なまでに目的を達成する優秀な手段でしたよ。
    絶滅収容所もそうですよね。「ユダヤ人を殲滅する」という目標に対して、非常に合理的。
    目的や理念は最低最悪だと思いますけどね。

    兵器は戦争に勝つために作られた技術です。
    それが「完成した暁にどんな利用価値が生まれるか、何の役に立つのか、というヴィジョンをもって取りかか」り、「その理念・方針に沿って、試行錯誤した」結果できたのが、戦争の兵器です。これらは目的と手段が密接に結びついているという点で、〈かたちの論理〉に整合的ですし、開発する「頭」も、それを使って敵を殺傷する「手」も、ほぼ同一の存在だという点で、〈かたちの論理〉に整合的です。実際には開発者と兵隊は異なる存在かもしれないですけど、「兵器はそれを使う兵隊こそが作るべきで、それこそがテクノロジーの暴走を抑えることができるのだ」というのも変でしょう。

    それに原爆は一瞬にして数十万の命を奪いましたが、ルワンダの大虐殺では棍棒や鋤で100日で100万人が殺されました。結局テクノロジーがどうであれ人間はヤバイんですよ。書いてて人間よりロボットの方がマシな気がしてきましたよ(冗談ですけど)

    閑話休題
    なぜ兵器にこだわるか。
    それは木岡先生がハイテクという言葉でイメージしている今の我々の文明の利器であるインターネットやらスマホやらドローンやらロボットやら何から何まで、元々は兵器として、あるいはそれに準ずる戦争に勝つための道具として開発されてきたものだからです。これからの技術もそうだと考えます。大陸間弾道ミサイルとかめっちゃ宇宙開発に転用されそうじゃないですか。
    それらは元々は目的と手段がちゃんと結びついた形で開発され、ちゃんと目的どおり人を殺してきたんです。ちゃんと目的を持った人間のコントロール下においてそれらは使われてきた。それが後になって目的から離れたから、今の便利さがある。「核の平和利用」とかそういう奴ですね。むしろ目的や理念から離れて一人歩きしてくれた方がありがたい。そのおかげで多くの人が豊かになっている。先の生命倫理の話と同様で、どんなに酷い目的で開発されて、どんなにたくさんの人を殺した技術であっても、もう僕たちはその技術単体を反倫理的だと批判できない。だって現にその技術のおかげで命をつないでいる人がたくさんいるからです。

    とにかく何でもいいから闇雲に開発しているわけではない。そう思えるのは僕らが無知だからで、本当は極めて残酷な理念に基づいて開発されている。批判すべきはそうした理念であり、理念に対して無批判になっている目的合理性、アドルノ的にいえば道具的理性ではないですか?

    もちろん木岡先生がそうした理念を「欲望の論理」で批判しているのはわかっています。ただ「かたちの論理に基づく技術開発論」でそれができているのかがわからないんです。

    とはいえ私がまだ「かたちの論理」を理解していないだけの可能性はもちろんあります。「「目的」と「手段」の結びつきが明確であることが〈かたちの論理〉である」という前提での反論なのですが、そう単純なものでもないだろうとは思っています。ただそのあたりが具体的にどういうことなのか、なかなか分かりづらい。〈かたちの論理〉には「身体性」も関わるはずですが、ここでは捨象しました。それが兵器開発の抑止になるのかわからなかったのです。というか身体性を捨てるためにガス室とか作ってるわけですよね。いくらユダヤ人が憎くても、目の前のユダヤ人の子供の頭を銃でぶっ放せんのかって言ったら、流石に身体レベルで拒否反応が起きるわけです。なので、ガス室で静かに処分する。ということは身体性がやっぱり大事なんですが、簡単に捨て去られた歴史を考えると抑止にならないなと。

    とにかく木岡先生には、今の私の議論をコテンパンにやっつけてもらいたいのです。〈かたち〉と〈かた〉の相互媒介が具体的にどのようにこれからの「原爆」の開発を制御するのかを論じて欲しいのです。また仮に抑止できるとしたら、先ほどの身体性を捨てるためのガス室のように、絶対にそんな倫理を捨てにかかると思うのですが、簡単に捨て去れないためにはどうすればいいでしょうか。みんながそうした倫理観を持って常に抑止し続けるくらいしか思い浮かびません。悲劇が起こった後なら、もうこれは禁止ってルール化しやすいでしょうけど、悲劇を未然に防ぐことは本当に可能なのかしら。

    今の私の実感としては、暴走を食い止める問題意識がないから現状肯定するというより、問題意識はあるけど、とはいえ現実はどんどん先に行ってしまうし、しかも肯定しないといけない局面がどんどん発生してしまうから、現状肯定になびかざるを得なくなっているというところです。なかなか絶望的ですよ。

    最後に個人的には木岡先生に『21世紀の啓蒙』を書いたスティーブン・ピンカー辺りを批判的に論じて欲しいなぁとは思っています。彼は「とにかく世界は良い方向に進んでいる。気候変動も解決可能である。ダメなのはペシミズムで、それは要は人間は良かったことよりも悪かった方に焦点を置きがちだから生じるバイアスだ。そんなのに囚われていてはいけない」という認知心理学者(その域を越えた手の広げようですが)で、とにかくデータをたくさん用意して、いかに世界が改善の方向に向かっているか論証しています。今、力を持っているのはデカルトでもポストモダンでもなく彼らのような世俗主義者なんですよ。いけすかないなと思いつつ、なかなか反論が難しい。リチャード・ドーキンスと論争したスティーブン・ジェイ・グルードの気分です。

    もちろん先生は先生の仕事があるので、全然無視してもらっても構わないのですが。
    ちなみに上記の本は僕はさらっと立ち読みしただけなのですが、ここに書いた以上は読まないといけない感じですね。
    来月あたりは彼らに洗脳されているかも・・・

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 15日
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    ドーキンスの論争相手はグルードではなくグールドです。失礼しました。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 5月 16日
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     お判りでしょうが、こちらはいくぶんカッとなって、攻撃的にもの申した。それに対して、貴方の方もケツをまくって(失礼!)反撃してこられた。これでこそディベート、意義ある対話というものです。他用を抱えて信州の別宅に来ている当方、kibaさんご提案のとおり、「出会いの広場」あたりで別立てのトピックにして続けていただきたいものです。「ヒマのない」私として、ご批判に正当な部分があることを認めつつ、誤解の指摘だけはしておきたいと考えます。
     「正当」というのは、〈かたちの論理〉をテクノロジー批判に適用するという、このたびの試みが、現状認識に裏打ちされた理論的補強を必要とするのに、まだそれに手が着けられていないという点を、鋭く指摘されたこと。もっとキチッとしておかなければならない作業を省いたまま、無謀な企てに乗り出した私の不用意を突かれたことは、ご指摘のとおり、ありがたく存じます。「誤解」には、いま申したとおり、当方の責任もありますが、昨年来、このテーマで発言してきたことをご存じないまま、気楽に発言されているのではないかと思われる節もある。
     第一に、ロボット・人工生命の類が、将来的に意識をもって人間批判をするという、SF的発想。時間のなかったソウルでの発表でも、デンソーのイベントでも、それは原理上、絶対にありえないことだ、とこの点だけは強調しました。ここで、テクノロジー批判の標的を、はっきり申し上げます。それは、自分にそっくりのロボットをつくっている石黒浩です。アンドロイドこそ人間だ、と言っている石黒を私が断罪するのは、本人が妄想にかられて何を言おうと勝手だが、貴方を含めて若い世代をその気にさせている罪深さの故です。デカルトは、精神と物体を二つに分けた。それが技術開発の原点である以上、「精神でない」物体を、いくら精巧な機械に仕上げたとしても、それに意識をもたせることはできない。二つに分けたものは、一つにはならない。判りきった話です。たぶん、そんなことはないと反論されるでしょうが、そもそも「意識」が何であるかを考えないから、SF的妄想がはびこってやまないのだ、と私は考えます。ハイテクに好意的な現代の「哲学者」連中が、意識の問題をまったく考えないバカさ加減は、驚くべきものです。石黒本人の「哲学」――があるとすれば――を仕込んだ責任は、この連中にあると言うべきかもしれません。ご異論がおありなら、塾で徹底的にやり合いましょう――「ロボットに心はあるか」(「ないのか」の方が御意に叶うのなら、それで)が、テーマです。
     第二に、〈かた〉と〈かたち〉を〈目的-手段〉の関係に置き換えている点。私が、〈かた〉の説明に「ヴィジョン」という言葉を用いたのは、〈かた〉が単なる理念ではなく、身体性を含む図式であるとの含みからでしたが、やはりそんなとり方をされましたか。それでは、〈かたちの論理〉がウェーバー流の「目的合理性」に成り下がってしまう。説明に手間暇をかける必要があることを、痛感しました。〈かたちの論理〉を、核兵器開発を止めさせるだけの理論装置たらしめよ、とのご忠告を真剣に受けとめます。
     これで止めさせていただきます。この後もコメントを追加されるのはありがたいけれど、それに付き合うことはできません。何とぞ、あしからず。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 16日
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    第一の点について
    石黒先生の名誉のために申し上げておくと、私は石黒先生の哲学を知らないですし、彼の本を読んだこともないですし、あまり興味もないので、少なくとも私に対しては彼に罪はないですよ(笑)

    「デカルトは、精神と物体を二つに分けた。それが技術開発の原点である以上、「精神でない」物体を、いくら精巧な機械に仕上げたとしても、それに意識をもたせることはできない。二つに分けたものは、一つにはならない。」
    これは少し不用意な言明で、人間が心身二元論的に物事を認識しがちであるということと、現実として「精神」と「物質」が二つに分かれているかどうかということは異なることです。上の言明だと、本当に「精神」と「物質」は異なる二元のものであり、石黒は「物質」だけを素材にロボットを作っているから、「心」が宿らないんだと言った反論に聞こえてしまいます。それは木岡先生の趣旨とは異なるはずです。そもそも「精神」と「物質」は異なる二元の存在だと言う認識自体が誤りだと言う話だったはずですから。私自身も、私たちが「精神」と「物質」と分けて捉えているものは、不可分の関係にあり、本当は切り離しては存在できないものと考えています。本当に二つが別々なら向精神薬とか意味ないはずですからね。(じゃあ全部一元論的に考えればいいのかと言えば違うのですが)

    石黒先生が二元論的に思考していても、現実は二元論的に存在しているわけではないので、なんか偶然(ガチで偶然)に「意識」なるものが人工的に造れてしまったみたいなことは考えられます(「偶然」を強調したのは、木岡先生の仰るように、少なくとも二元論的思考では意図して「意識」を生み出すことは不可能だと思うからです)
    まあ人類滅亡までにそんな偶然があるかわかりませんが(「人類滅亡」はいつか宇宙も滅ぶからという前提で述べています)

    よく「蟻には心がない。全部予めプログラミングされた本能で動いているだけだ」みたいな物言いがありますね。「意識がない」という意味で言っているのなら大問題です。(あくまで「人間ような心はない」という意味でしょうが(それも本当にどうかな?))
    私にありありと「自分には意識がある」と感じられる以上、規模や複雑さは違えど同じように肉体や中枢神経系等を持つ蟻にそれがないとどうして言えようか。
    人間ほどではないにしても、人間の意識に準じる何かはあるだろうと推定する方が自然です。快不快、恐怖、興奮の感情くらいはあるんじゃないか。ただミジンコとかになってくるとちょっと不安になりますが。もしミジンコにも、動物である以上、僅かながら私たちの意識に準じる何かがあるのだとしたら、ミジンコくらいなら、人工的に造れそうなのかな・・・。いや、ミジンコレベルを作るのも今の科学や生命に関する洞察ではまだまだで、二元論的思考で止まっていては無理でしょうけどね。
    私が「意識のある人工物を作れるのではないか」みたいな考えをするのは、上記のようなイメージを抱いてです。それすらも「あり得ない」と否定されるなら、ぜひ今度お聞かせください。
    でもよくよく考えたら、「蟻に心なんてない」みたいなこと言う連中に、心のあるなしを判断できるのかという大問題がありますね(笑)

    第二点について
    ご指摘の通り、明らかに誤読ではあると思います。ただ、どうしてもそういう理解のされ方をしてしまうのではないかとも思います。私も「ガラス職人とか陶芸家とか作曲家とかなら、そうなのかな」と漠然とイメージできる気はするのですが。私自身は学生時代に合気道をやっていたので、「かた」とか身体図式とか好きなんですけどね。言葉で説明しようとすると、難しい。禅問答みたいな感じになってしまいます。
    それと、正しい理解の上での〈かたちの論理〉による技術開発と、木岡先生が批判されている技術開発があまりに異なるので、前者が後者に影響を与えることが本当に可能なのかという疑念はあります。ただでさえ説明困難なのに、どう技術者にインストールするんだろうと。

    貴重なお時間ありがとうございました。

    • kiba1951
    • 2020年 5月 20日
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    1、『「身体から切り離された頭」(AI)が、身体と連動することなく指令を出すあり方』とあります。
      しかしこれは逆に「手が頭や心と無関係に新技術や新製品を開発している」と言うべきではないのでしょうか?
      戦争という非常事態に於いて、頭(理性)や心(惻隠の情)の制約なしに手(実行主体)が暴走したのが原子力開発ではないのでしょうか?
      そして今我々は生命科学・人工知能開発において同じ失敗をしようとしている気がします。
    2、「技術の倫理へ」以降は残念ながら理解できません。
      これは「納得できない」ではなく「全く理解する事ができない」と言う意味で、試験前に初めて刑法の教科書を読んだ時と同じ感覚です。
    3、「なぜ、何のためにそれを開発するか、という基本目標があるはず。」とあります。
      商品開発においてニーズオリエンティド開発とシーズオリエンティド開発の二つがあります。
      ニーズオリエンティド開発はマーケットを分析して人々が望んでいるがまだ市場に存在しない商品を開発します。
      シーズオリエンティド開発は画期的だがどう商品化できるのか分からない発明・発見を時間をかけて市場自体を創造します。
      これは個人の好奇心や学問的追及がスタートの場合が多いですが、成功すると時代を変革し巨万の富を得る事ができます。
      ですのでシーズもニーズに優るとも劣らない重要なスタートと言う事ができます。
      とは言っても放射性物質や病原菌を不用意に弄んで良い訳ではありません。

    • 浦靖宜
    • 2020年 5月 21日
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    1.および2.深く考えず、脊髄反射的に行動しているなら、「頭と無関係に」と言えそうですが、私が例に挙げた原爆や最終解決は頭だけで考えた結果だと理解した方がわかりやすいんじゃないかと思います。ただ考えが足りないなと思う局面は世の中に多々あります。AI手塚治虫も「ちょっと大丈夫か?」と思いましたし。
    よくよく考えたら、フランス革命とか共産主義革命とかは頭で考えた素晴らしき社会の青写真を実行に移そうとしたら、現実(手)の制約が大きすぎて全然うまくいかなかったわかりやすい例かもしれません。どちらも革命の後が大変でしたね。粛清とか。理想(頭)に反する存在は許せないんですよね。そういう勇足には慎重になれという点で、木岡先生の倫理は有効だと思います。もちろん我々は革命を経た後の存在なので、革命を全否定はできませんが。私も保守主義っぽいところがあるので、漸進主義でいった方がいいと考えがちです。
    何か絶対的なもの(神でも理想でも科学でも)を想定して、現実を作り上げることは有効な面もあれど、上記の例のような無理が起きがちです。そうではなく、具体的な実践を通して、大事にすべき理念を練り上げ、その理念をもとに、また具体的な実践を行う。そうした実践の積み重ねが理念をより良いものに変えていくといった循環の方が、理念先行の暴走が起きずに済むのではないかというのが、木岡先生の考えでしょう。

    3. 私はどんな技術開発も目標なしに為されているとは思えないので、そうでないベンチャー企業的な開発があるという見方には懐疑的です。

    ただ、もう一度原爆の例で考えれば、原子力の科学そのものは、具体的な実証実験と理論構築の相互フィードバックで出来上がったものであり、それ自体は特に暴走でもなんでもないのだが、それとは別にとにかく強力な爆弾を作りたいという戦争のための目的があって、原子力科学がそのために利用されてしまった。戦争を有利に進めたいという考え(頭)が、原子力科学を道具(手)として利用してしまったみたいに考えれば、だいぶ木岡先生の理屈に添うようになるのではないかと考えました。もともとは「原子力科学理論」という型の追求、そのための実験(形)だったのが、型と形が切り離されてしまい、いつの間にか型の方が、「原爆」の型にすげ替えられてしまって、実験(形)もそれを具体化したものに変化してしまった。ただこの理解だと「単に当てはめた型が不味かっただけであって、型をすげ替える事自体は悪いことではないのではないか」という気もしますね。もちろんそれは型と形を切り分ける二元論的な発想が前提ではあるのですが。それを否定してしまうと、およそ発明というものが成り立たないような気もします。「〈かたちの論理〉で原爆を批判できるか」よりも「〈かたちの論理〉で白熱電球を発明できるのか」の方が批判として厳しい気がしてきました。「発明なんかなくたっていい」というのは、「石器時代に戻れ」に近い主張になってしまいますね。「〈かた〉から〈かたち〉が遊離せず、〈かたち〉から〈かた〉が切り離されないあり方を貫く」という制限を少し緩めて、多少は切り離されても良いこととするとなると今度は、どこまでの型と形の切り分けが良くて、どこまでが暴走につながり良くないのかの判断をする必要がありますね。今度はそのためのある判断基準が必要になりそうです。その基準の調達先はやはり日々の実践から、「流石にこの切り離しはまずい」と気づきを得ることからでしょうか。

    そして何より厄介なのが、やはり私たちが言葉を使う以上、どうしても心と身体、手と頭、型と形を分けて考えてしまいがちだという事ですね。相当みんなが賢くならないと暴走を止めるのは無理では?って気がします。龍樹の『中論』の議論をほぼ全員高等教育で修了するくらいのレベルにならないと社会がこれを達成するのは難しい気がしますね。

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