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直言先生:前回の「差異と〈あいだ〉」では、かなり言いたいことを言わせてもらいました。こちらはそれでよいとしても、当方の言い分を聞かされたあなた方が、どう受けとめられたか、それが気になります。
猛志君:僕は、ドゥルーズやデリダの愛読者ではありませんが、現代思想をもっとよく知りたいと思っている学生です。先生の立場と批判されている側の、どちらが正しいのか、まだよく判りませんが、ポスト構造主義と〈対決〉しようとしている人がいることを、初めて知りました。
中道さん:前々から伺っていた、先生の近代批判。その延長として、現代思想に対する評価が下されていると思いました。しかし、専門外の人間としては、チョット言い方がキビシすぎるような印象を受けました。
直:キビシすぎる、というのはどうして?
中:「逃げる」のは弱虫の態度だ、とおっしゃったあたりの感じです。私のようなケンカに弱い者の選べる手段は、逃げることだけ。「逃げるが勝ち」ということわざもあります。逃げずに敵に立ち向かう、というのはよほど自信のある場合。というか、危険を恐れない、特別な人の場合ではないでしょうか。
直:巨大な敵を前にしたなら、誰でも逃げたくなる。私だってそうです。例外はありません。欧米の哲学者たちは、伝統的な二元論の重圧に押しひしがれながら、何とか生き延びようともがいている。そういう人々ならばともかく、西洋近代とは異質な日本にありながら、向こうの最新流行思想の受け売りで、「逃走」やら何やらを振り回す手合いが、私には我慢できません。そういうことです。
猛:そういう考えがあって、近代哲学と現代思想、そのどちらにも目を向けなければならない、とおっしゃったわけですね。少し解った気がします。
直:ありがとう。そこで今回、これまでの議論を受け継ぎながら、より深く本質的なテーマに立ち入りたいと考えます。タイトルは、「対話の世界へ」。前回までに扱った「妥協」「中立」「仲介」は、どれも〈あいだに立つ〉ことの具体的な内容例。そのうえで、〈あいだに立つ〉ことの最も基本的なあり方を、「対話」の一言で規定したいと思うのですが、いかがですか。
猛:「妥協」にしても、「仲介」にしても、言葉のやりとりがベースですから、それらを「対話」というテーマにまとめられることは、僕にも納得できます。
中:私たち三人が、この場でしていることは、対話そのものです。私「中道」にも、いろいろ関係しそうなテーマだけに、大いに興味があります。
「対話」とは何か
直:お二人の賛同が得られたので、これからのシリーズを、こちらの提案のとおりに始めさせていただきます。手はじめに、「対話」とは何か、という根本的な問題から考えることにしましょう。猛志君、いまさっき、「言葉のやりとりが対話である」、と言われた。その理解で、間違いありませんか。
猛:対話が「言葉のやりとり」だということに、間違いないと思います。言葉を交わさないところに、対話は成立しませんから。
直:中道さんは、いかがですか。猛志君と同じ考えでしょうか。
中:ウーン、どうでしょう。「イエス」と言いたいのですが、私にはチョット引っかかる点があります。
直:それは、どういう点でしょうか。
中:「対話」が「言葉のやりとり」であることは、間違いないと思います。けれど、言葉を交わしていても、それだけで対話であると言えるかどうか……
直:言葉のキャッチボールがあっても、内容が対話であるとは言えない場合がある、ということですね。それは、どんな場合でしょうか。
中:ビジネス上の交渉は、たがいに言葉を交わし合う「会話」によって成立します。その場合、会話することが商談成立の大前提ですから、非常に気を使いながら言葉を用います。でも、そういう商談には、ここで私たちが行っているような、「対話」ならではの雰囲気がありません。
猛:それって、「自由」じゃありませんか。何を言っても許される、という――
中:そう、まさしくその「自由」です。対話にあって商談にない、というのは。
直:さっそく、対話についての本質規定が出てきましたね。対話とは、言葉のやりとりである、ただし、自由な発言が保障されるという条件の下で、と。
中:そうです、そのとおりです。
直:ほかに、対話の条件は考えられませんか。たとえば、参加者の人数など。
中:「対話」はダイアローグ、二人が交わす言葉のやりとりである、と承知しています。でも、私たち三人の言葉のやりとりも、対話であることに間違いないと思います。
猛:いま中道さんが言われた以外に、もっと大勢が参加する対話もあります。たとえば、著名なゲストを招いて、参加者と個別に意見を交換するような「対話集会」が、開催されることがあります。
直:検討するのにちょうどいい例を、猛志君が出してくれました。中道さんのご指摘どおり、「ダイアローグ」(dialogue)は、ギリシア語の「ディアロゴス」(dialogos、二つのロゴス)に由来するように、二人のあいだで交わされる言葉のやりとりを意味します。どうしてそれが、三人以上の集まりについても当てはまるのでしょうか。
中:先生は毎回、私たち二人の言うことをよく聞いて、言葉を発してくださる。猛志君もそうだし、自分自身もそういうつもりで、この集まりに参加しています。それぞれの言うことをたがいによく聞き合い、意見を交換することによって、三人の対話が成り立っているのだと思います。
直:なるほど、おっしゃるとおりですね。猛志君の意見は、どうですか。
猛:「対話集会」の場合だと、全員が同じだけ熱心に参加しているかどうかは、判りません。でも、誰かが質問して、それにゲストが答えることによって、一対一の対話が成立していると考えられます。多人数の集まりでも、そういう形での対話が可能なのではないでしょうか。
直:素晴らしい。私の出る幕がないくらい、お二人とも対話の本質を見とおしておられるようです。そのうえで、言わせていただくとすれば、どちらのご意見も対話の急所に関係するものの、突くポイントに少し違いがあるようです。
中:とおっしゃるのは、どういう違いでしょうか。
直:猛志君が説明されたのは、その場に参加する人数にかかわらず、対話というものは、基本的に一対一の関係、つまり二人の〈あいだ〉で成立する言語行為だという点です。
猛:そうです。僕が言おうとしたのは、ゲスト一人と参加者十人が居合わせた場合に、一対一の対話が十とおり生まれる、というようなことです。
直:それに対して、中道さんが強調されたのは、われわれのように三人が関係することで、はじめて成立するような対話、いわば「三人対話」――「鼎談」(ていだん)という語がありますが、ここでは使いません――というべき対話のあり方です。
中:「三人対話」ですか、その言い方をはじめて伺いました。二人の対話と、どこが違うのでしょうか。
「三人対話」の意味
直:猛志君のご指摘どおり、対話の基本形は、一対一の「二人対話」。しかし、対話にとって決定的に重要な「第三者」の存在をクローズアップするとき、すべての対話は「三人対話」である、というのが、私から強調したいポイントです。
猛:僕たちの対話が、「三人対話」であるとおっしゃるなら、それは分かります。けど、すべての対話が三人対話だとは、どういうことでしょうか。合点が行きません。
中:私も同じです。たとえば、先生と私のやりとりを、横にいる猛志君が聞いて、対話に参加してくる。いまなら、猛志君の発言を受けて、私が発言する番になる。そういう三人の関係が、どんな場合にでもある、と。そうおっしゃっているのでしょうか。
直:少し違います。対話の現場で、直接言葉をやりとりするのは二人であっても、その場には居合わせない「第三者」が関与することによって、対話が成立し進行する。その場にいない「第三者」の存在をクローズアップすることで、「三人対話」という言い方が生まれてくるのです。
猛:二人きりの対話が、「対談」という名目でよく行われます。それも「三人対話」ということになるのですか。
直:人物が二人だけであっても、その場で対話が成立するためには、隠れた第三者が不可欠だというのが、こちらの言いたいポイントです。どういうことだか、お解りになりますか、中道さん。
中:いや、まったく解りません。いま言われた「隠れた第三者」というのが、何を意味するのか、皆目見当がつきません。
直:そうですか。これまでの対話の中で、「中立」や「仲介」をめぐって、当事者以外の第三者が立ち会うことによって、交渉が進展するということを確認しました。それを想い起こしてください。紛争当事者間の「対話」は、傍が放っておいてうまくいくことは、決してない。そこに当事者以外の第三者――個人でも国家でも――が、仲介に入ることによって、調停がまとまる場合がある。私としては、そのことを念頭に置きながら、「対話」には、対面する二人以外の第三者が関係する、という説を提起しているのです。対話には、その場に居合わせる〈私〉と〈汝〉以外に、〈彼〉と呼ぶことのできる第三者が関係する。これが、「三人対話」を主張することの基本的理由です。この点について、猛志君の意見はどうですか。
猛:僕の意見は、反対です。なぜなら、一対一でそれぞれの考えをぶつけ合うのが、対話のあり方だと思うからです。こちらが言いたいことを言い、相手も自分の考えを言う。たがいの主張を突き合わせて検討する中から、一致点や不一致点が見えてくる。それをめぐって、検討を重ねるというのが、僕のイメージする対話のあり方です。
直:なるほど、おっしゃることは分かりました。この点について、中道さんはいかがですか。
中:ご説明を伺っているうちに、昔のサラリーマン時代を思い出しました。そのころ手がけていた商談は、さっき猛志君が指摘されたとおり、自分にとって「対話」と呼べるようなものではありませんでした。あらかじめ交渉のレールが敷かれた会話には、自由がなかったからです。先生のおっしゃる「隠れた第三者」は、もしかすると、そういう場の空気のことかもしれない、そんな気がしてきました。
直:いまおっしゃったのは、対話には、それが成立するための〈場〉が不可欠だ、という本質的なポイントです。中道さんの紹介された商談の場は、それを可能にするための必須条件、「環境」と呼ぶことのできる何かです。
猛:いま「環境」という言い方をされました。僕にも、そういうものが必要だということは分かります。けれど先生は、それを「隠れた第三者」とか「彼」とか呼ばれました。まるで特定の人間が、対話に介入しているかのような印象を受けます。
直:君の疑問は、ごもっとも。私が、「彼」という人称代名詞を使用する理由は、「環境」という概念が、1920年代後半に日本に入ってきてから、しばらく経った30年代、西田幾多郎が「環境」を「彼の世界」と呼んだ事実にあります。20世紀後半に、「地球環境問題」が論議されるようになる半世紀以上も前に、誰も考えつかないような環境の本質論を説く人物が、この日本にいた。この事実を世間の人たちに知らせたい、という思いがあるのです。
猛:それは知りませんでした。どうして、「環境」が「彼の世界」と呼ばれるのか、教えていただけないでしょうか。
直:承知しました。ここから短い講義をします。
講義:環境――彼の世界
「環境」とは、何か。「彼の世界」である、というのが西田の答えである。私たちは、一人一人、環境の中に生きている。そういう個々の人間(西田によれば「個物」)は、環境による影響を受けている。このことは、誰にとっても頷けるだろう。環境の影響を受けない生活は、考えられないからだ。その反面、人間は環境に働きかけ、環境を支配しようとする。人間には、環境を変えていく自由がある。このことも確かである。しかし、これら二つの相反することを、どう説明したらよいか。西田の表現は、次のようなものである。
個物は環境に包まれ何処までも環境から限定せられるという意味を有するとともに何処までも環境から限定せられないものであり、かえって環境を限定する意味を有ったものでなければならない(「私と汝」1932年)。
ここに説かれているのは、「個物は環境によって限定される」と「個物は環境を限定する」という正反対の事柄が、同時に両立するという事態である。「個物」(I)と「環境」(E)とは、異なるものとして、たがいに区別される――いわゆる「二元論」。二元論の立場では、IとEの関係は、⒜IがEを限定する、⒝EがIを限定する、そのどちらかであって、⒜⒝の両方が同時に成り立つということはありえない。ところが、引用した一文は、⒜⒝の同時成立を主張していると受けとれる。これは、論理的に矛盾である。どうして、このような言い回しがとられたのだろうか。それは、この時期の西田が、「矛盾」を容認する「弁証法的論理」の立場に移行していたからである。
⒜⒝の両方が同時に成り立つのは、環境が「彼の世界」を表すことによってである。どうして〈彼〉なのだろうか。〈私〉と〈汝〉は当事者、それ以外の第三者は、すべて〈彼〉である。だが、そういう〈彼〉のふるまいが、〈私〉に影響を及ぼす。コロナウィルスの感染を恐れて、誰か一人がマスクを着用すれば、それを見た周りの者は、われもわれも、とマスクを身に着けるようになる。こうしていつしか、全員がマスクを着用する「環境」がつくられる。そういう環境に身を置く〈私〉と〈汝〉は、〈彼〉に倣って生きるかぎり、環境(彼の世界)を構成する一員――無数の〈彼〉の一人――に過ぎない。
しかし、そういう〈私〉は、また自身の行動によって、環境をつくり変えることのできる主体でもある。感染のリスクを低く見積もることによって、他に先んじてマスクを外す。そういう個人的選択が、為されることもありうる。すると、〈私〉の周囲にいる多くの〈彼〉も、私に同調して同じふるまいをとる、ということが起こりうる。それによって、環境のあり方が変わってゆく。すなわち、個物(私)の行動は、環境による限定を受けると同時に、環境を限定する自由を行使する。すなわち、たがいに矛盾する二つのことが、同時に成立する。これが、西田の言う「弁証法的限定」の内容である。
「彼の世界」である環境なくして、〈私〉や〈汝〉の行為は成立しない。〈私〉が言葉を発したり、〈汝〉がそれに答えたりするのも、すべて「環境」としての〈彼〉が存在するからである。「第三者」(彼)の介在なしに、対話が成立することは考えられない。
だれが環境を変えるのか
直:以上、「環境」が「彼の世界」であると考えられる理由を、手短に説明しました。お解りいただけたでしょうか。
猛:難しい西田哲学が、「環境」についてのユニークな思想を表しているというのは、はじめて知りました。チョット驚きました。
中:エコは、個人の心がけ次第のように言われていますが、「彼の世界」というものを考えに入れなければ、うまくいかないな、と思いました。
直:おっしゃるとおりですが、そのことについて何か不審な点はありませんか。
中:SDGsは、環境・経済・社会すべてについて、持続可能な発展をめざすとされています。三つのテーマが、どれもうまくいくというのは、理想論すぎて、ピンときません。いったい誰が、どんな責任を負うのだろうか、という疑問をいつも感じています。
猛:僕からも言わせてください。「環境に限定される」と「環境を限定する」という二つのことが、矛盾しながら同じ一つのことだ、という説明を伺いました。そのことの意味は、理解できましたが、その考えだと、「環境を変える」「環境をつくる」という主体の役割が、アイマイになるんじゃないでしょうか。
直:議論の焦点が、「対話」から「環境」に移ってしまいましたね。結構です。西田の言う「矛盾的自己同一」では、主体の役割や責任がアイマイになるという点は、ご指摘のとおりです。
中:それでは、西田哲学をもとにしてSDGsを推し進める、というような方向性は考えられないのでしょうか。
直:考えられないと思います。SDGsそのものが、いろんなテーマを寄せ集めただけの適当な作文ですから、誰が何にどういう責任を負うか、というような具体的課題は見つかりません。仮にそれを、「個々人の自覚による社会変革」に見立てたとしても、西田哲学からそのための実際的な指針を得ることは望めない、と私は考えます。
中:それは残念。そういうことなら、「彼の世界」という発想を活かす方向は、何かないのでしょうか。
直:あります。今回のテーマである「対話」に関して、私と汝の〈あいだ〉に立つ、という媒介者の役割が、〈彼〉にはある。この一点が、西田哲学の「弁証法的論理」を活かしてゆく方向として、私の期待するところです。
猛:それは、最初におっしゃった「三人対話」の成立に〈彼〉が関係する、ということでしょうか。
直:そうです、そのとおり。
猛:〈私〉と〈汝〉の対話に、〈彼〉がどう関係するのか、ご説明をお願いします。
媒介者としての〈彼〉
直:回り道を経て、本題に戻ってきました。先ほど用いた言い方では、〈彼〉とは「隠れた第三者」、たとえ「仲人」のような人物に具体化されなくても、対話が生まれるための基盤、条件を表します。
中:確認させてください。いま「基盤」とおっしゃったものが、先ほどは「環境」と言い換えられたわけですね。
直:そうです。そこから話題が別の方向に逸れました。ここで改めて、〈彼〉とは、〈私〉と〈汝〉の「媒介者」である、と規定します。
猛:さっきの議論で、僕は、対話を〈私〉と〈汝〉の二人で交わされる言葉のやりとりだと主張しました。ところが先生は、あらゆる対話が「三人対話」であるとして、反論されました。
直:そう、その続きを議論しましょう。猛志君、君はまったく初対面の相手に出会ったとき、どういう所作をとりますか。
猛:相手によります。その人が日本人なら、「こんにちは」と挨拶します。外国人の場合は、「ハロー」という英語の挨拶をすると思います。
直:結構です。それは、君が日本語であれ英語であれ、相手と共通の言語をもつと確信されるからではありませんか。
猛:ええ、そうでなければ、付き合いが始まりませんから。
直:そうでしょう。いま君が言われたことは、言語という共通基盤があるという条件の下で、対話が開始される。そういう最も基本的な事実です。その共通基盤のことを、「彼の世界」というのです。
猛:共通の言語があるって、当たり前じゃありませんか。それがなければ、対話も何も……
直:「当たり前」ではありません。共通基盤である言語なしに、二者が対面する。そういう状況が、君には考えられませんか。
猛:『エイリアン』じゃあるまいし、地球外生物と遭遇するならともかく、そんな出会いがあるなんて、考えられません。
中:チョット失礼。先生が喩え話をされているように感じられましたので、一言申し上げます。昔、私が駆け出しの社員として海外に駐在したとき、映画『ブッシュマン』に近いような体験をしたことがあります。
直:たしか、文明国の人間にとって何でもない品物の意味が、そういう文化をもたない人々には理解されなかった、そういう寓話のような映画でしたね。
中:はい。通訳を介して言葉を交わすことはできても、本当にこの相手と話が通じるのかしら、と疑いをもった経験が、自分には一再ならずあります。
直:対話の共通基盤がない、と思われる相手との交渉は、さぞ大変だったでしょう。
中:「大変」というより、「面白い」と思うことの方が多かったかもしれません。知人から聞いた話ですが、取引先のエチオピアから日本に招いた一行が、百均の店に何と6時間も陣取って、珍しくもない品物を片っ端から買い漁るのに、付き合わされたとのこと。驚いたというより、腹の底から笑ってしまいました。
直:日本の常識は、外国の非常識。その逆もあることを頭において、他者と付き合う必要があるということでしょうね。「三人対話」は、広い意味での共通言語――その風土の〈常識〉という「隠れた第三者」――をふまえることで、相互理解の途が開ける、ということを私流に言い換えたものです。中道さんの出された例は、自分の国にはない珍しい品物が欲しいという欲求、それを認めることによって、コミュニケーションが成立した、と言える珍しい例です。
猛:いま言われた「コミュニケーション」は、「対話」と同じことでしょうか。
直:さて、どうでしょう。君は、同じだと思いますか。
猛:僕の理解では、「コミュニケーション」というのは、「意志疎通」を意味します。「対話」の中には、意思が疎通しない場合もあるでしょうから……
直:おっしゃるとおり、私もその点が重要だと思います。コミュニケーションというのは、言葉のやりとりが通じ合う世界を前提としているのに対して、対話の場合には、必ずしもそういう前提がない。この点に、二つの語の違いがあると考えられます。
中:とおっしゃるのは、コミュニケーションではないような対話がある、ということでしょうか。
直:そうです。そういう対話があるとすれば、それが「二人対話」、つまり第三者が介在しない対話だ、というふうに私は考えます。
対話とコミュニケーション
直:ここから今回の山場として、「対話」と「コミュニケーション」の違いを問題にします。この二つが違う、という私の考えに対して、お二人は異存がありませんか。
猛:そういう違いを考えたことは、僕にはありません。ただ、コミュニケーションでは、大勢の人々が交流する場面を連想しますが、対話の場合には、私とあなたが面と向かって言葉をやりとりする、というようなイメージがあります。
中:さきほど、私が過去に行った商談は、対話ではなかった、という感想を申し上げました。いま考えてみると、そういうときの言葉のやりとりは、対話ではないとしても、コミュニケーションに当たるという気がします。
直:お二人の指摘、猛志君は参加者の人数、中道さんは会話の内容から、二つを区別する考えを示されました。言ってみれば、それぞれ量と質の観点から、違いを述べられたわけですが、いずれも適切な指摘だと思います。対話とコミュニケーションとは、同じではない。今回の最後に、その違いを明らかにして終わりましょう。
猛:コミュニケーションでは、不特定多数の意思疎通が想定されていると思うのですが、それはどうしてでしょうか。
直:「コミュニケーション」(communication)は、「コミュニティ」(community, 共同体)に関係します。どちらも「コモン」(common, 共通の)からつくられた言葉です。共同体は、三人以上で構成される社会と言ってよいでしょう。コミュニティの成員同士に通じ合うような言葉のやりとり、それによってコミュニティを維持していくための言語行為が、コミュニケーションであると言って間違いありません。
猛:「三人対話」というのは、そういうコミュニティの中でのコミュニケーション、という意味ですね。どうやら、おっしゃることの意味が解ってきました。
直:ありがとう。次に、「商談」と「対話」の違いを。商談の場合は、所属するコミュニティが違っている者同士が、どちら利益を得るという商行為の目的を了解することで、成り立つ言葉のやりとりです。私は、それも一種のコミュニケーションであると認めます。
中:それもコミュニケーションである、というのは、ビジネスの決まりごとが「第三者」として働いている、ということですね。
直:そのとおりです。商談にせよ日常会話にせよ、それを成り立たせる環境があることによって、生み出される言葉、専門用語でいう「言語ゲーム」(ウィトゲンシュタイン)が、コミュニケーションの意味です。
中:しかし先生、先ほど「対話」を「会話」から区別するポイントとして、猛志君が「自由」を挙げられ、それに全員同意しました。コミュニケーションが、対話とは違うということなら、コミュニケーションに自由はない、ということになってしまわないでしょうか。
直:「対話に自由がある」ということは、「コミュニケーションに自由がない」ということとイコールではありません。「自由」がどういうものか、自由があるとかないとかいうのは、どういうことか。それを考えることは、これまでの議論から、次のテーマに移ることを必要とします。今回は、コミュニティ内部に生まれる「三人対話」(コミュニケーション)と、コミュニティを前提としない「二人対話」とを区別した地点で、終わることにしましょう。
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