毎月21日更新 エッセイ

あいだに立つ(5)――差異と〈あいだ〉

ウクライナ情勢その後

(以下は、4.7時点でのやりとり)

直言先生:先月の対話で取り上げたウクライナ情勢ですが、ロシア軍の侵攻からひと月以上が経過しても、当初想定された首都キエフ陥落などには至らないまま、膠着状態が続いています。この状況を、お二人はどう見ていますか。

猛志君:ウクライナ軍が、祖国を守ろうと一致団結しているのに、ロシア軍は大義名分のない他国への侵攻に駆り出されて、士気が上がらない。想定されなかった苦戦の原因は、そこにあると僕は見ています。

中道さん:先生が予見された「中立化」への動きが、具体的に浮上してきました。トルコの仲介で実現した停戦交渉は、双方とも有利な条件にこだわるため、難航しているようです。それにしても、ここ何日かで明るみに出た、ロシア軍の「戦争犯罪」はひどすぎます。

直:トルコが〈あいだに立つ〉動きは、予想できませんでした。私としては、中国の仲介に期待しましたが、それは希望的な観測。考えてみれば、トルコは黒海をはさんで、ウクライナ、ロシア両国と向かい合っています。地理的位置としても中間的であるし、当然、両国との経済的な相互依存関係にも深いものがある。そういう点で、仲介役として適役なのかもしれませんね。

猛:でも先生、トルコはフランスと同じNATOの一員。そんな西側のトルコに、フランスのできなかった仲介役が務まるのでしょうか。

直:よく判らないが、トルコが親ロシアであることは、周知の事実です。軍事同盟であるNATOにいちおう加盟していても、参加国の思惑はさまざまだし、今回の対応についても、国ごとに温度差があることは確かでしょう。

中:国家として対立関係にあっても、民間レベルの対応が異なることは、私の経験上、ふつうによくありました。このたびのロシアへの経済制裁にしても、日本の政権が対ロ制裁に加わるよう働きかけたのに、ロシアでの経済活動を続けようとした日本企業もありました――その後、制裁の輪に加わったのも、やはり「日本的」だな、と感じないではいられません。

猛:「空気を読む」ってやつですね。先生が、いつも批判されている――

直:そのとおり。「G7その他の首脳と相談して」というのが、首相の決まり文句ですが、自分一人で物事を決めない、決められない、という日本政治の基本姿勢が、このたびの経済制裁の動きでも露呈しています。

中:申し上げるのにチョット勇気がいるのですが、「あいだに立つ」という今回のシリーズは、そういう日本の現実を変える、という狙いがあるのでしょうか。このシリーズでは、「妥協」「中立」に続いて「仲介」が取り上げられましたが、それで現実の問題がうまく解決できるのでしょうか。不安になります。

猛:そのご意見に、僕も同意します。トルコのように仲介する国が現れても、当事者同士の争いが収束しない現状を見ると、三者関係が紛争解決のキメテになるとは、とても思えません。

直:お二人から、厳しいツッコミをいただきました。言い訳のようですが、第三者が〈あいだ〉に入ったからといって、当事者同士の争いが収まるという保証はありません。しかし、中立の視点が入らないかぎり、敵対する当時者同士が和解に至る道は開けない。これが、私の強調したい点です。あくまでも原則論であることを、お断りしておきます。

猛:〈あいだ〉が二元論にない視点であることは、自分なりに何とか理解したつもりです。けれど何というか、他にはない哲学的主張であることのメリットを、もっとアピールできないかな、と思うのです。

直:それでは君にお訊ねしますが、〈あいだ〉よりもっと有力な哲学的主張というものが、何か考えられますか。

猛:ひとつ思いついたのは、「差異」です。最近手に入れた千葉雅也『現代思想入門』(講談社現代新書)には、「差異」が現代思想を読み解くキーワードである、と書かれています。

直:その本がよく売れているらしいことは、最近、新聞広告で目にしました。ならば、ちょうどいい、差異と〈あいだ〉がどう違うのかを、今回のテーマとして考えることにしましょう。中道さん、それでいかがですか。

中:私のような哲学の素人であっても、そのテーマには少し興味があります。ぜひこの機会に、勉強させていただきたいものです。

直:分かりました。そういうことなら、最初に「差異」という哲学用語について、必要最小限の説明を施すところから入ることにします。

 

講義:「差異」とは何か

哲学思想の世界では、20世紀後半に、「現代思想」と呼ばれる大きな潮流の変化が生じてきた。それは、「近代の終わり」「近代以後」を意味する「ポストモダン」の、思想的な表現だと考えられる。その流れの中で、「他者」などと並ぶキーワードとして、盛んに取り上げられ論じられるのが、「差異」。しかし「差異」は、それ自体、最近になって急に登場してきた考えではなく、古代以来の哲学の歴史の中で、しばしば問題にされてきた概念である。まず、その点を簡潔に物語る一文を引用する。

西洋形而上学がイデアや実体、根源など、永遠に自己同一的なものを優先し、〈非同一的なもの〉、生成変化するものを仮象として退けてきたことに抗議して、現代思想において前面に出されている概念ないし思考枠組み(『岩波 哲学思想事典』563頁、筆者は中岡成文」)。

「永遠に自己同一的なもの」を優先し、〈非同一的なもの〉を排除することへの抗議として、表面化した「差異」の概念。そのことに間違いはないが、哲学が古くから「同一性」だけを認めてきたわけではなく、「差異」にも着目してきた歴史のあることが、上の一文に続く叙述の中で説明されている。「イデアや実体、根源など、永遠に自己同一的なもの」を考えるということは、その反面で「〈非同一的なもの〉、生成変化するもの」があることを認め、かつ斥けることである。そのように、「差異」に対する「同一性」の優越を維持し続けてきたのが、伝統的な形而上学の世界である。

「生成変化するもの」の代表は、生物。そのうち最も身近な「人間」について考えてみよう。昨日の私と今日の私、周囲から見ても、自分自身にとっても、同じ存在であると考えられる。そういう事実からして、私の存在は「自己同一的」である。けれども、厳密に言うなら、昨日の私と今日の私とは、まったく同じではなく、少し違っている。細胞レベルでの新陳代謝が刻々に進むから、身体組織そのものが、昨日と今日では異なっているからだ――およそ二週間で、人の身体細胞は、そのすべてが入れ換わると言われている。物理的な意味では、私の身体はたえず変化しており、同じであることはない。面白いことに、人間はたえず変化する(差異化する)ことによって、はじめて自己同一的であることができる。一本の鉛筆をもう一本の鉛筆と見比べて、「同じである」と言えるのは、そこに変化しないもの同士の「等しい」(equal)関係が成り立つことによってである。これに対して、昨日の私と今日の私は、物理的意味において同じでないにもかかわらず、「自己同一的」(identical)である。この違いは、生きて変化するもの(人間)と変化しないもの(鉛筆)との、あり方の違いにほかならない。自己同一的なものは、つねに変化し差異化する。「生命とは、差異の過程である」(ジル・ドゥルーズ『差異について』青土社、1989年、54頁)。「ポスト構造主義」の代表者の一人ドゥルーズは、ベルクソン論の中でこう語っている。

ではなぜ、それまで無かったような「差異」への注目が顕われてきたのだろうか。上の引用によれば、それは従来の哲学に対する「抗議」の表明である。絶対的に同一な存在――その典型は「神」――が、この世界を支配する、という権力関係が続いてきたことに対する不満・反抗が、同一性に対する差異への注目を生み出した。それと同じ文脈において、必然性に対する偶然性への注目、、〈自己〉に対する〈他者〉の重視、として理解することができる。

現代思想の潮流は、それまでマイナーなテーマとして扱われてきた「差異」「偶然性」「他者」といった問題を、表舞台に立たせる大きな変化を生み出した。その動きは、「同一性」「必然性」「自己」といった理念を軸に発展してきた近代世界に対して、もうその考えは古い、として警告する審判のイエロー・カードに似ている。しかし、近代的理念が退場した場合、それに代わるべき主役は何ものであるのか。この点について、ポストモダンの論客たちは、各人各様の対応を示しているものの、特段これという選択肢を提示しているようには見えない。そういう理由は、「ポストモダン」は、たしかに「近代の終わり」を意味するものの、近代に取って代わるべき世界のあり方を積極的にうちだす地点にまで到達しておらず、克服されるべき(?)近代を依然として引きずり続けているからである。

 

近代と現代のギャップ

直:現代思想で「差異」に焦点が当てられるようになった事情を、ごくかいつまんで説明しました。よろしければ、お二人の感想を聞かせてください。

猛:近代哲学の代表であるカントを卒論で取り上げた僕としては、そこから現代思想が出て来る事情が気になります。近代哲学という高いピークに到達しながら、なぜそれが「抗議」を受けなければならなかったのか。ある程度は理解できましたが、もう少し説明していただきたい気がします。

直:了解。すぐ後で、その質問を取り上げましょう。中道さん、いまの説明はいかがでしたか。

中:哲学の歴史はいっこう不案内ですが、「近代」と「現代」に大きな違いが生じている、というあたりが、講義のキモであったようです。そういう時代の違いを、どう受けとめたらよいのかを伺いたいと思います。

直:お二人が問題にされたのは、近代と現代のギャップです。猛志君は、それを哲学の違いとして、中道さんは時代そのものの違いとして、受けとめられたわけです。焦点の絞り方が少し違うだけで、問題のポイントは同じです。それでは、まず猛志君から。カントのような近代哲学に対抗して、現代思想が登場しなければならなかった事情は何か。こういう疑問でしたね。

猛:そうです。僕が論文制作にあたって指導を受けた先生は、カントの研究に人生を捧げた方。そういう先生からすると、カント哲学のような理想の体系が存在しているのに、現代思想の連中は、何をゴチャゴチャ問題にしているのかよくわからん、というような口ぶりでした。

直:たぶん、そんなところでしょう。で、君の場合はどうですか。君も、カント哲学があれば現代思想など要らない、そんなふうに考えていますか。

猛:いや、正直言って、僕にもよく判りません。先ほど名を挙げられたドゥルーズやデリダなどのポスト構造主義にも、それなりの興味があります。それに、周りの学生を見ると、みんな現代思想の専門用語を使って議論をしている。それに乗り遅れたくない、という気持ちもあって、千葉先生の本を購入しました。

直:そうですか。で、その本は君の期待に応える内容でしたか。

猛:ざっと読んだだけですが、非常によかったと思います。ドゥルーズについての説明だけ見ても、「差異」についてよく解るクリアーな説明がされていますから。

直:君の印象どおりなら、それは非常によい本だと言えるでしょう。というのも、哲学の世界では、難しい専門用語を説明するのに、それ以上に難しい言い方を振りかざして、読者を煙に巻く、そういう類の本が多いから。それは書き手自身が、よく理解していないことの顕われです。

猛:『現代思想入門』は、いちど読むだけで、内容がスッと頭に入りました。

直:そうだとしたら、著者はよほど頭のいい優秀な人なのでしょう。その内容に関して、何か疑問はありませんか。

猛:それは、ドゥルーズなどの現代思想にふれた後で、カントのような近代哲学をこれからも勉強する意味が、はたしてあるのか。いったい何のために、自分がカントを研究するのか、という疑問です。これを先生に伺いたいと思います。

 

「近代」再考

直:分かりました。その問題に入る前に、もう一つのテーマ、中道さんが挙げられた「近代」と「現代」との違いについて、考えることにしましょう。中道さん、このさい何かおっしゃりたいことがあれば、どうぞ。

中:以前のエッセイ(「近代を生きる(1――最初の問い」2021.2.21の中で、先生は「モダン」(modern)という英語では、「近代」と「現代」が区別されない、ということを書かれています。この二つを区別する意味が、はたしてあるのでしょうか。この点から伺いたいと思います。

直:たいへん重要で、本質的な問題だと思います。前のエッセイで書いたとおり、「モダン」とは「新しい」ということ。古代・中世に比べて、新しい時代が近代です。歴史の区分で言うなら、西洋では1719世紀ぐらいにかけて、それまでの時代とはハッキリ違いのある「新しさ」をもった時代として、近代が成立したとされています。

中:「西洋では」と断られましたが、西洋以外の地域でも、近代が成立したというのではないのですか。

直:それも重要なポイントです。厳密に言えば、西洋以外の地域に「近代」は存在しません。古代や中世から明確に区別される「新しい」時代として、近代が成立したのは、西洋世界だけです。このことも、前のエッセイで書いています。

猛:日本史の授業では、日本の近代は明治時代から始まったと教わりました。明治は、近代ではないのですか。

直:その質問に対する私の答えは、いつも申し上げるとおり、日本にあるのは「近代化」であって、「近代」ではないということ。西洋近代をモデルとして、それに倣う「近代化」が始まったのが、明治時代です。「近代化」の時代イコール「近代」、という大ざっぱな図式を立てることによって、君が授業で教わったような理解が生まれたのです。

猛:明治以後の日本が、もし近代でないのなら、どういう時代になるのですか。古代ですか、中世ですか。

直:君のその言い方に乗じて答えるなら、古代的な土台の上に西洋近代が接ぎ木された、雑種的な時代、一種のチャンポンです。

中:明治以後の日本は、チャンポンの時代ですか!驚きました。

直:別に驚かれる必要はありません。古代・中世・近代の三区分は、西洋世界をモデルとして、その歴史区分を全世界に当てはめることで成り立つ、西洋中心的な「世界史」の見方に過ぎないからです。西洋以外の世界が、古代的な状態にあってまどろんでいたところに、西洋がいきなり乗り込んできて脅しをかけた――前にも書いたように、黒船来襲時の日本が、その典型です。そこから否応なく始まった「近代化」の過程において、元からある要素と新しい要素とがゴッチャになって、雑種化するのは、当然の成り行きです。

中:それでも、私たちが生きているのは「現代」ではありませんか。先生は、そのことまで否定されるのでしょうか。

直:とんでもない!おっしゃるとおり、われわれは現代に生きています。それが西洋の近代とは異なる雑種的な時代であれ、何であれ、自分自身の現に生きる世界が現代であること、このことは前のエッセイでも断ったとおりです。

中:おっしゃることの意味が、よく解りません。日本には「近代化」だけがある、という言い方で、先生は日本の「近代」を否定されました。それなのに、近代と同じ「モダン」で表される「現代」の方はある、とおっしゃるのでしょうか。

直:そういうことになります。日本や日本と同じく、遅れて近代化に乗り出した世界の国々には、西洋とは異なる運命を引き受けざるをえない状況としての「現代」がある、というのが私の考えです。

中:重ねてお訊ねしますが、それは、西洋とは違った意味での「現代」、ということでしょうか。

直:そのとおり。日本でも中国でも、それぞれのやり方で「近代化」が進行しました――それが終わったわけではなく、現にいまも続いています。そういう歴史的な状況は、「近代の終わり」を意味する西洋的な「ポストモダン」とは、まったく異なっています。ここから、さっき棚上げにした猛志君の質問に戻ろうと思います。

 

なぜ近代哲学を学ぶのか

直:猛志君、君は現代思想に接する一方、カントのような近代哲学の研究を続けたい、とも考えているわけですね。

猛:ええ、そう考えています。けれども、近代の哲学が現代思想によって乗り越えられたのなら、カントにこだわることにどんな意味があるのか。これが、僕からお訊ねしたいポイントです。

直:おそらく日本で哲学を学んでいる人たち、とりわけ若い人たちのほとんどみんなが、君と同じ疑問を抱えていると思います。そうではありませんか。

猛:たぶん、そうだと思います。

直:だとすると、君も含めてそういう人たちに言いたいのは、先ほどから中道さんに申し上げている点、日本の現代は、西洋の近代および現代とは違うのだということです。

猛:どういうことでしょう。日本と西洋では、現代のあり方が違うということですか。

直:そうです。西洋においては、近代を通過することによって、「近代以後」を問題にするポストモダン状況が到来した。それと比べて、近代を通過しない日本、「近代化」の経験しかない日本には、本来の意味でのポストモダンが存在しないのです。

中:言葉にこだわるようですが、「本来の意味で」存在しない、とおっしゃるのは、日本でよく言われる「ポストモダン」という言葉は、西洋の場合とは違う意味のものだ、ということでしょうか。

直:そのとおり。日本の社会、特に思想的流行に敏感な連中が口にする「ポストモダン」は、西洋世界で言われるそれとは、実質が異なるものです。

猛:いったい何が違うのですか。

直:先ほど言ったとおり、明治以後の日本は、近代化によって移植された西洋近代と、それ以前から続く古い伝統とのハイブリッド(雑種)。そう言いたければ、それが日本の「近代」です――私自身もそういう含みで、暫定的に日本に「近代」を認める、という結論を出しました(前出のエッセイ参照)。その事実をふまえるなら、西洋社会が現に当面しているポストモダンは、日本社会では「近代化」の先端にくっついたオマケの部分でしかない。そういう部分的な性格のものだということを、十分弁える必要があります。

中:「ポストモダン」は、日本では近代化した部分にだけ当てはまる、というわけですね。なるほど。

猛:そういうことなら、日本では、ポストモダンの現代思想だけを問題にするのではなく、それよりも前の近代哲学を研究しなければならない、ということになるでしょうか。

直:お察しのとおり。日本社会は、「近代化」において、いまだ発展途上というべき段階にありながら、同時に「近代以後」の思想文化までもが、最先端のファッションとして流れ込んできている状況です。

中:つまり、「近代」と「近代以後」がチャンポンになっている、と。

直:そのとおり。そういう現実に即して考えるなら、猛志君の専攻している近代哲学には、今日の日本社会で求められるだけの理由が十分にある。カント哲学の出番が終わったわけではない、ということです。

猛:おっしゃることは、理解できました。でも、さっきも議論したように、絶対者の同一性を前提するようなこれまでの哲学が、「差異」の思想によって乗り越えられたのなら、近代の哲学に目を向ける意味が、あんまりないのじゃありませんか。

 

差異と〈あいだ〉

直:もし本当に、近代が乗り越えられたとすれば、ね。しかし私は、そうは見ていません。近代思想は、ポストモダンによって乗り越えられていないと思います。

猛:それはどうしてですか。

直:簡単に言うなら、近代哲学――だけではなく、古代以来の哲学すべて――の魂は、二元論にある。ポスト構造主義であれ何であれ、西洋起源の哲学(フィロソフィ)は、その二元論が超えられないからです。

猛:千葉先生の本では、二項対立を脱構築したのがデリダだ、と説明されています。それは、二元論を超えたことにはならないのですか。

直:ソシュールなどが、二項対立の図式を〈構造〉としてうちだした。「脱構築」によって、そういう枠組みを壊した、とは言えるでしょう。しかし、私が「二元論」と呼ぶのは、構造主義よりもはるかに根の深い、西洋世界の歴史と同じくらい古い、ロゴス的な思考の伝統です。

猛:僕は、ドゥルーズが言うような「差異」の考えは、二元論を否定し乗り越えるものだ、という印象を受けました。そういう理解は、オカシイのでしょうか。

直:オカシイとは言えません。二元論の「否定」と言える面が、そこにあることは確かですから。でも、それは本当の意味での〈対決〉ではない。いわば、ケンカを避けて逃げ出した弱虫の態度に過ぎません――むかし流行った、浅田彰『逃走論』の題名どおりに。

猛:「逃げる」ことが、そんなに悪いのですか。ポストモダンでは、そういう行き方しかできないのだ、と言っているように思えますが。

直:二元論を棄てて生きられない西洋の人々が、二元論を免れようとして考えついた選択肢の一つが、その縛りから「逃げる」こと。そこには、やむをえない面があることは認めます。しかし、そういう状況を、日本のように別の世界に生きる人間が、わがこととして引き受ける理由はない。そうではありませんか。

中:日本人はわが道を行けばよい、と先生はおっしゃるわけですね。それは、どういう道なのでしょうか。

直:「差異」に逃げ込むのではなく、〈あいだを開く〉という別の道を行くことです。

猛:〈あいだ〉については、これまで何度もお話を聞いてきました。それと「差異」とは、何か関係があるのでしょうか。

中:「差異」と〈あいだ〉の関係、私にも興味があります。お聞かせください。

直:どうやら今回の山場にさしかかってきました。ご説明します。「差異」の基本は、それ自身との異なり、「自己差異化」にあります。その典型が、人間のような生き物であることは、生理的代謝の例を挙げたことでお解りになるでしょう。つまり、自分自身のあり方がたえず変化していくという事実が、「同一性」に対して強調されます。

猛:お話を伺っていると、「差異」は、〈あいだ〉とは別物であるように感じます。

直:どうして、そう感じるのですか。

猛:〈あいだ〉は「二つのものの中間」、ですから二者の存在を前提します。「差異」には、そういう前提がありません。

直:まさにその点が、ドゥルーズたちの付け目、狙いなのです。二者を想定しないことによって、二元論に正面から立ち向かう必要がなくなるからです。

中:失礼、先生のおっしゃる〈あいだ〉が、二元論を前提するのに対して、「差異」の考えだと二元論が問題にならない。そういう意味でしょうか。

直:ええ、そのとおり。悪く言えば、二元論と闘わなくて済むように、現代思想は「差異」の立場に逃げ込んだ。そう言ってもよい、と私は考えます。

中:ということは、〈あいだ〉と「差異」の違いは、二元論と闘うか闘わないかの違い、そういうことでしょうか。

直:私の意見は、そういうことです。

猛:反論があります。「自己差異化」は、自己の中から無限に差異を生み出す過程です。それに対して、〈あいだ〉では、対立する二者の中間しか考えられないことになります。

直:キチンとお答えしましょう。対立するAB、両者の中間にMが位置するとします。つづいて、AMの中間にを立てる、さらにA の中間にを立てる、このプロセスを繰り返していくなら、無限に続く微分の過程として、「差異化」を説明することができます。

猛:それって、まるでゼノンのパラドックス「飛ぶ矢は飛ばない」のようですね。

直:そうです。これは、「中の論理」を適用することによって「差異」が説明できる、ということの喩えです。その反対に、「差異」から出発しても、〈中〉に辿りつくことはできません。なぜかと言えば、〈あいだ〉を開く「中の論理」が、分けられた二つのものを前提するのとは逆に、ドゥルーズたちの言う「差異」は、最初から二元論と向き合うことなく、そこから逃げるという行き方を意味しているからです。

猛:ウーン、いま初めて耳にした説明です。でも、どうしてそういう行き方が生じてきたのでしょうか。

直:そこが重要なポイントです。西洋三千年の哲学の歴史は、そのまま二元論の歴史です。ロゴス(言葉、論理)は、〈神人間〉〈イデア現実〉〈精神身体〉というように、本性の異なる二つのものを分ける思考、それなくしては哲学が成立しない根本条件です。そういうロゴスを棄てることは、近代二元論の克服をめざす現代思想の立役者たちにとっても、できる相談ではない。だから、「差異」や「脱構築」のように、二元論と正面衝突しなくてもよい概念装置を工夫する方向が、生まれてきたわけです。

中:お話を伺っているうちに、日本の現代が西洋とは違ったあり方をしているということが、何となく見えてきたように思います。先生は、そういう日本だからこそ、〈あいだ〉を開くことに意味がある、とおっしゃっているのですね。

直:まさにそのとおりですが、今回はこれで時間になりました。また、その続きを議論しましょう。

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