毎月21日更新 エッセイ

〈あいだ〉に立つ(4)――哲学に何ができるか

新著の刊行

中道さん:先生、このたびは新著『瞬間と刹那――二つのミュトロギー』のご出版、おめでとうございます。とても難しそうで、私のような素人がついていけるかどうか、自信はありませんが、せっかく頂戴したこの機会に、頑張って読んでみたいと思います。

直言先生:それはどうも。「瞬間」と「刹那」という、あまり区別されない二つの言葉をめぐる、比較思想の本です。一般の方につうじるかどうか、不安を感じますが、ところどころでも読んでいただけたら嬉しく思います。

猛志君:僕からも、お礼を申し上げます。「目次」を見て、おもしろそうだなと思う反面、どうしてこういう本を書かれたのかな、というのが僕からお訊きしたい点です。

直:その質問にサッと簡単にお答えするのは、難しい。長い人生を、かいつまんで説明する必要がありますから。何なら、第一章「「瞬間」と私」だけでも、読んでみてくださるなら、この本のテーマがどこから出てきたかが、お判りになるでしょう。

中:「はじめに」に「一種の知的自叙伝」と書かれているのは、そういう内容のことですね。私もトライしてみます。

直:よろしく。ところで、これはまったくの偶然ですが、この本の刊行とほとんど同時に、ロシア軍のウクライナ侵攻が行われました。その出来事、この本の内容と何か関係があるでしょうか。

中:判りません。まったく見当がつきません。

猛:僕も同じです。「関係なし」と言いたいけど、そんなことを言うと、先生のことだから、きっとひっくり返されるような気がします。何かしら関係がある、といったような答えを期待されてるんじゃないでしょうか。

直:お二人とも、ずいぶん慎重ですね。「関係なし」と言い切ってもらった方が、ここから先の話としては入りやすい、というのがこちらの思惑でしたが。

中:それじゃお訊ねしますが、ウクライナ情勢と哲学には、関係があるのでしょうか、それともないのでしょうか。

直:簡単にお答えするなら、関係はありません。しかし、直接には関係がない、というあり方をつうじて、哲学が政治に関係する、ということを申し上げたい。この何日かのウクライナ情勢と拙著の刊行、それと先月までの対話の流れ、この三つを考え合わせて、これならどうか、というテーマが浮かんできました。

猛:へー、スゴイ。で、それは、いったいどんなテーマですか。

直:「哲学に何ができるか」というテーマです。これなら、三つのポイントのすべてに関係すると考えられます。理由はお解りですか。

中:いや、ピンときません。ただ、ウクライナ情勢と哲学の関係、というところに焦点を合わせたなら、「哲学に何ができるか」という問題に、ハッキリした意味が出てくるように感じられます。

直:当然そうでしょう。いま世界で大変な出来事が生じているのに、哲学はいったい何ができるのか、というふうにね。

猛:僕自身、中道さんが言われたのと同じように、何かアセリのようなものを感じています。学生として、本分の学問に精を出さないといけない。けれど、その学問、僕の場合は哲学が、戦争をくいとめる役に立つのか、という疑問です。

直:まさに、いま君の言ったとおり、これまでどおりふつうに学問を続けることの意味を、世界中の学生が自分自身に問い直している状況だと思います。ですから、今日の対話は、この問題を取り上げることにしましょう。

猛:賛成です。念のため伺いますが、前回のテーマ「第三者の役割」とか、それに関して最後に言われた「日本人の責任」といった問題が、今回も取り上げられる、と考えてよいでしょうか。

直:ええ、自分としてはそのつもりです。むしろ「戦争」という生々しい現実に出くわしたことで、抽象論に流れない議論ができるかもしれない。そういう意味で、こう言っては語弊があるけれども、「好都合」かもしれません。

 

二極対立の現実

直:議論の手始めに、まず、いまウクライナで起こっている出来事――言うまでもなく、ロシアの一方的な軍事侵攻――を、大局的にどうとらえるか、の確認から始めましょう。

中:「大局的」とおっしゃるのは、ロシアの軍事侵攻が全世界に及ぼす影響、ということでしょうか。

直:もちろん、そうです。旧ソ連の中心であったロシアと、その隣国でヨーロッパに近いウクライナとの間で起こった事件、それがローカルな紛争ではなく、世界全体を巻き込む大事件であるという事実が、そもそも何を意味するかを確認しなければなりません。

猛:少し前のニュースでは、バイデン大統領は、「第三次世界大戦を惹き起こさないために」アメリカは兵力を現地に派遣しない、と言ったそうですが、いまおっしゃったことにつながりますか。

直:まさにそのとおり。「第三次世界大戦を惹き起こさないために」という発言は、もし米ロの軍事衝突が起こったなら、それはそのまま世界戦争の始まりである、という認識を示しています。ロシアと敵対するアメリカの指導者に、まだ理性が残っているしるしです。そうであると同時に、いつ破滅的な世界戦争が始まってもおかしくない、という紙一重の状況であることを、その発言は物語っています。

中:国際情勢について、私などから申し上げるのも何ですが、第二次世界大戦後、東西冷戦の時代が長く続きました。それが、1980年代終わりの「東欧革命」によって終結した、とされています。東西対立の緊張関係が解けることで、世界戦争の危機は去った、と人から言われたし、私自身もそう思い込んでいました。そのはずが、「第三次世界大戦の始まる危機」ということですか、おおコワ……

直:コワいけれど、本当のことです。忠告のできる部下も助言者も、たぶん周囲にいない、ツァー(皇帝)ならぬ独裁者が、号令一下、軍隊を発動すれば、世界各地にいる同類の指導者が呼応して、軍隊を動かしかねない状況。これを「危機」と言わずして、何と言いますか――

中:そういう状況の中でも、アメリカはじめNATO側は、自前の軍隊を動かし、ロシアに応戦することまではしていない。それで、戦争拡大が防げているわけですね。

猛:でも、たとえ軍隊を前面に出さなくても、アメリカやNATO各国は、ウクライナに武器供与など軍事支援をして、実質的にロシアと戦っています。

中:私は、むしろ経済制裁の方に関心があります。世界各地と金融決済をするためのSWIFTから、ロシアのいくつかの銀行が排除されました。これでロシアの経済が、大きな打撃を受けることは確実です。

直:その制裁に踏み切ったということは、欧米諸国にとって相当大きな決断を意味する、と見られています。というのも、それによって、ロシア経済だけでなく、ロシアと金融取引のある各国にも、ダメージが生じると見込まれるからです。

猛:ということなら、ロシアに対する制裁の意味が、もう一つハッキリしません。というのは、ロシアと制裁する国々のどちらも損をする「痛み分け」になりますから。

直:そのとおり。自国にとっても不利な状況が生じると判っているのに、経済制裁に踏み切る理由は、何としてもロシアを痛い目にあわせる、ということだけです。

猛:それだけのことですか。軍事侵攻を止めさせるのが、目的ではないのですか。

直:さて、どう答えるべきか。経済問題は中道さんにお任せするとして、経済的損害を理由に、プーチンが戦争を止めるとは考えられません。

中:私もそう思います。たとえ国家が破産してもかまわないから、敵が降参するまで攻撃しつづける、というのが戦争の常ですから。ただ、経済が破綻することによって、政府の信用がいちじるしく低下し、国民から支持が得られなくなって、結果的に政権が倒れる。そういう展開は、あるかもしれないと思います。

直:おっしゃるとおり、あるとすれば、いま言われた筋書きだけ。経済制裁だけでは、戦争を止めさせるのに、屁のツッパリにもならないでしょう。

猛:となると、いまのところロシア軍の攻撃をストップさせる手段は、無いということになるのでしょうか。

直:アッサリ言うなら、ありません。中道さん、どうですか。

中:私も先生と同じく、無いと思います。ただ、そういうことが考えられるとすれば、先月の対話で取り上げられたように、「仲介者」が出てくる場合ではないでしょうか。ロシアとウクライナの〈あいだ〉を調停する、第三者が出てくればと思います。

直:こちらの期待していた言葉が、それです。そこから考えてみることにしましょう。前回、「第三者の役割」で確認したのは、第三者は傍観者と当事者の〈あいだ〉に立つ、ということでした。ただ、ここまで三人とも、だいぶ頭に血が上っています。クールダウンするために、ここでチョットだけ講義をはさむことにしましょう。

 

講義:哲学と政治

哲学は、政治といかにかかわってきたか。そこには微妙な関係がある。というのは、哲学には、政治に無関係である面、政治に深くかかわる面、このどちらの面もあるからだ。そうして哲学が哲学であるかぎり、これら二つの面を一面だけに限定することはできない、と考えられる。そこで、政治にかかわりをもたない、⒜学問としての哲学、反対に、⒝政治に結びつく哲学、この二つが区別されながら、関係づけられるあり方を考えてみよう。

⒜学問としての哲学。古代ギリシアにおいて、支配層の市民は、生産活動に携わることなく、哲学(フィロソフィア=愛智)に代表されるテオーリア(観想)をこととした。そういう生き方が可能であったのは、日常生活の必要物を生産する活動(ポイエーシス)が、奴隷の労働に委ねられたからだ。政治はどうか――ものごとの本質を観想するテオーリアから切り離され、市民の実生活をとりしきる「実践」(プラクシス)として、その役割が認められた。つまり、政治は哲学ではないが、哲学と社会との中間にある実践の営みとして扱われた。これに対する哲学は、政治のごとき俗事を超越した有閑階級の暇つぶし! それは、世俗から離れれば離れるほど、宇宙の真理に近づく、といった非政治的な営みであった。このような性格は、基本的に中世・近代以降も受け継がれ、大学で研究される哲学は、高級な学問としての特権的性格を、今日まで維持しつづけてきた。

⒝政治に結びつく哲学。「哲学者たちは、世界をさまざまに解釈してきたにすぎない。重要なことは、世界を変えることである」(マルクス『フォイエルバッハについての11のテーゼ』)。このように、古代以来の哲学のあり方を大きく揺さぶる変化が、19世紀に出現した。哲学は、「革命」をめざす人々の理論装置にならなければならない、というマルクスの思想は、その変化を代表する。哲学は、思索のための思索ではなく、世界の現実を変えるための手段である、とする新しい考え方が生まれてきた。近代社会にとって、革命を求める左翼思想はもちろん、個人主義・民主主義を実現するためには、そのための思想的武器となる哲学が必要である。そういう考えのもとに、社会と無関係に営まれる知的な探究、というだけでは済まされない役目が、哲学に課されることとなったのである。

以上⒜⒝を比較して、言えることは何か。古代にテオーリアとして生まれた哲学は、あくまで⒜にとどまる。しかし、近代の哲学は、社会を営むプラクシスに関係して、⒝となることを要請される。近代に続く現代においても、⒝が重視されることに変わりはない。しかし問題は、⒜か⒝かの二者択一ではなく、⒜⒝のどちらも必要だということである。

このことを、〈あいだ〉(中)というテーマに結びつけて考えてみよう。マルクスは、従来の哲学が「傍観者」の位置にとどまっていたことを批判し、「当事者」の立場にならなければならない、と訴えている。〈傍観者から当事者へ〉ということが、その言葉の意図である。しかし、その意味は単純ではない。というのも、「当事者」の責任を引き受けるための前提として、まずは「傍観者」の位置に立つことが、哲学にとって不可欠となるからである。傍観者は、〈あいだ〉に立つ、つまり「中立」でなければならない。そのことによって、ものごとの真相を見きわめ、現実に対してとるべき行動の形が見えてくる。そこから、〈傍観者→当事者〉という移行が生まれてくる。そのうえで、当事者としてふるまうことから生じた結果について、ふたたび傍観者の位置に立ち返って検証する。そうして得られた教訓を、次の実践に取り入れる。このようにして、〈理論→実践〉、〈実践→理論〉というプロセス――相互的なフィードバック――が繰り返されてゆく。

以上のとおり、哲学の営みは、⒜⒝のいずれかのみではなく、両方を必要とする。一言でいうなら、哲学は傍観者と当事者の〈あいだ〉に立つ。哲学は、政治と一体ではないが、かといって政治から切り離されることもない。哲学と政治の関係は、まさしく「不一不異」のレンマ的関係そのものである。

 

対話再開

直:哲学と政治の関係を、〈あいだ〉という観点から考えてみました。お二人の感想は、いかがですか。

猛:確認したいのは、哲学が「傍観者と当事者の〈あいだ〉に立つ」とおっしゃったことの意味です。それは、哲学が「第三者」の立場だということですか。

直:そう、哲学はつねに第三者でなければならない、ということです。

猛:それじゃ、たとえば僕が、当事者としての行動をとった場合には、それは哲学ではない、ということになるのですか。

直:建前から言えば、そうなります。君は学生、市民として、主体的・政治的に行動する。それは自由ですが、そのとき君は、哲学のポジションからいったん離れることになる、そういうことです。

猛:よく解りません。たとえば僕が、ロシアの攻撃に抵抗するウクライナ人民を支援するために、何かしたいと考えて、募金に応じる、あるいはデモに参加する。そういった判断は、先ほどの講義では、「⒝政治に結びつく哲学」になると思います。いまのが答えだとすると、⒝が否定されることになるのじゃありませんか。

直:そういう反論は、十分考えられる。じっさい、君のような考えに立って、哲学を実践そのものと勘違いして、「社会参加」に身を投じた人たちが大勢いる。半世紀前の左翼――とりわけ「全共闘」の学生――が、そういう連中でした。

中:いまのご説明で、半世紀前の学生運動を思い出しました。当時私は、まだ中学生でしたが、東大安田講堂攻防戦のテレビ中継[全共闘運動の拠点校であった東京大学のシンボル安田講堂に、学生が立てこもり、機動隊との攻防戦の様子が、全国に実況中継された。そのあおりを受けて、1969年の東大入試は中止された]のことをよく覚えています。

直:そうですか。当時の私は、翌年に大学受験を控えた高校生。東大入試が中止され、どういう影響が出るかに、気をもんだ記憶があります。過激な革命運動に飛び込んだ学生たちには、哲学によって世界をつくり変えようとする志がありました。

猛:そういうことなら、「政治に結びつく哲学」のあり方そのものじゃありませんか、違いますか。

直:ええ、その当時、哲学イコール社会参加(アンガージュマン)だと主張したサルトルなら、そういうことを認めたかもしれません。

 

アンガージュマンをめぐって

中:哲学に疎い私でも、サルトルの名前ぐらいは知っています。たしか、ボーヴォワールと一緒に、来日していますね。

直:日本にも来ています。ボーヴォワールは、実質的にサルトルの夫人でしたが、「自由」でありたい、という思想上の理由から、婚姻関係を結びませんでした。

猛:サルトルの名前は、哲学の講義でよく出てきます。僕は、彼の学問以上に、その生き方に興味があります。サルトルは、哲学と政治を結びつけた人物ではありませんか。

直:そうです。ですが、彼はブルジョワ出身の学者として、哲学と政治を哲学的に結びつけた。そこに一定の限界があります。

猛:それは、どういうことですか。「哲学と政治を哲学的に結びつける」というのは、どういうことをおっしゃっているのか、よく分かりません。

直:簡単に言うと、「当事者ではない」もしくは「当事者にはなれない」、そういう限界を、身をもって示したということです。ついでに付け加えると、そういう意味の「限界」は、必ずしも哲学にとってマイナスばかりではありません。

中:申し訳ありませんが、どういうことをおっしゃっているのか、もう少し具体的に説明をお願いします。

直:すみません、話を短く端折るいつもの癖が出ました。サルトルは、ブルジョワ階級の出身。フランスでは、パン屋の子はパン屋、学者の子弟は学者、というように、社会的階層が固定されていて、日本社会のような流動性がありません。

中:ほう、フランスの事情はよく知りませんが、まるでインドのカースト制度のようですね。

直:それほどではないが、日本のように、貧乏人が出世して企業経営者になる、といったような出世物語は、フランスのような先進国では例外的だと考えた方がよい。それは、サルトルの場合で言えば、ブルジョワのインテリである彼が、貧乏な労働者に一体化するのは、不可能に近い制約がある、ということです。

猛:それでも、サルトルは労働者階級に味方して、革命を支援した知識人である、と言われています。

直:そう、そのとおり。ですが、本人が仮に望んだとしても、サルトルは一労働者になることはできない。それが宿命づけられている、ということです。

猛:そんなバカな!人間は、なろうとすれば、何にでもなれる。それが自由な社会の原則ではないですか。

直:建前としては、ね。でも実際には、それは無理。何なら、別の例を一つ挙げましょう。サルトル、ボーヴォワールと同時代の女性哲学者、シモーヌ・ヴェイユ(19091943)。ユダヤ人のブルジョワ家庭に生まれた彼女は、キリスト者としての使命感から、工場に入って女工となる道を選んだ。でもそれは、自分が階級の異なる女性労働者にはなれない、という運命を自覚する結果に終わりました。『工場日記』には、その彼女の血のにじむような体験が綴られています。

中:そんな人がいたのですか。哲学の世界も、インテリの自由人ばかりではない、ということですね。

直:いろんな人がいます、ほとんど〈妖怪の世界〉と言いたいぐらいに、ヴァラエティがあります。

 

仲介者は誰か

直:ここで、哲学者の生き方から離れて、「ウクライナ情勢」という現実の問題に戻りましょう。お二人は、現状をどう見ていますか。

猛:ロシアは、核兵器の使用をちらつかせて威嚇したり、原発を攻撃したり、ムチャクチャをやっています。プーチンの狂気を、どうしたら止められるか。毎日、そのことで頭がいっぱいです。

中:先ほども申しましたが、私はことここに至っても、仲介役というか調停者が現れないのは、どうしてだろうか、と不審に感じています。フランスの大統領がプーチンに面会して、それらしい役割を果たそうとした形跡があるものの、うまく行きません。どうして、「第三者」が〈あいだ〉に立とうとしないのか。事情がよく分かりません。

直:フランスは、NATOの一員。対立する両陣営の一方に属する「当事者」ですから、第三者の役目が果たせないのは、当然のことです。

中:それなら、ロシア側にもウクライナ側にも立たない第三国が、〈あいだ〉に入らなければならないことになります。そういう国が、存在するでしょうか

直:一つ挙げるとするなら、先日の国連会議で、ロシアに対する非難決議に賛成も反対もせず、「棄権」した国々、その中でも最有力の国として、中国が考えられます。

猛:日本はどうですか。先生のことだから、中国よりも日本に仲裁役を期待されるような気がしたのですが……

直:お二人ともご存じのとおり、日本はアメリカ、NATO諸国に歩調を合わせて、ロシア非難決議に賛成し、相当踏み込んだ経済制裁をうちだしました。これでは、とても「中立」とは言えません。

中:しかし現実に、中国は、この問題に関して何もしていません。ロシアとのこれまでの友好関係から、またアメリカとの敵対関係からして、ロシアを非難する国々とは共同歩調をとらないのだ、と見られているようです。

直:それでも、ロシア非難決議に「反対」する態度を表明していない、という点が重要です。その点が、ベラルーシ、北朝鮮など、独裁者の支配する国とは違う点です。

中:中国の指導者習近平は、ロシアのプーチンと仲が良く、メディアではどちらも「独裁者」という扱いがされています。ロシアのウクライナへの軍事侵攻が成功すれば、それに倣って、中国も台湾を武力で制圧するのではないか、という観測が行われています。

直:あなたのおっしゃるとおりなら、国連決議に「反対」票を投じてもよかったのではありませんか。中国がそれをしなかったことを、どう説明しますか。それは、自分たちが単純にロシアの味方ではない、という意思の表明だと、私は受けとめています。その証拠に、3.1に、ウクライナの外相が中国に調停を依頼した。それにまだ応じていないのは、中国の抱える面倒な諸事情が、足を引っ張るからです。

猛:でも、中国はウクライナに味方していません。世界中の141ヶ国が、ロシアを非難する姿勢を示しているのに、その輪に加わらないのは、ロシアへの肩入れをしているように、僕には見えます。

直:失礼ながら、君の見方は、たぶん世界中の国々、世間一般の人たちもそうでしょうが、あまりにも単純です。ロシア=敵、ウクライナ=味方、という二分法に立って、ロシアに対する批判、制裁に躍起になっている。中立的な「第三者」であることの意義が、君にも世の人々にも解っていない、と言わざるをえません。

猛:どうしてですか。今回の軍事侵攻、誰がどこから見ても、悪いのはロシアである。それを先生は、お認めにならないのですか。

直:どういたしまして。悪いのはロシア、そんなことは火を見るより明らかなことです。しかし、それを言うだけでは、何の解決にもならない。それとも君は、ロシア非難の大合唱を繰り返すだけで、事態がよい方向に進展するとでも思っているのですか。

 

「妥協」に向けて

中:まあまあ先生、そんなに興奮なさらず、私の申し上げることもお聞きください、お願いします。私は、この前から先生が提唱されてきた〈あいだに立つ〉ことの意味を、自分なりに受けとめ、理解してきたつもりです。「妥協」や「中立」が、それ自体、そんなに悪いことではないのだ、という新鮮な発見もさせていただきました。ですが、今回のウクライナ情勢に関して、〈あいだに立つ〉とはどういうことかが、私には見えてきません。どうすれば、第三者としての調停役が務まるのか、先生のお考えを聞かせていただけないでしょうか。

直:承知しました。最初に、ロシア=悪、ウクライナ=善、という二分法を問い直すことから始めましょう。私は、「ロシアが悪い」ことの裏返しとして、「ウクライナが善い」とする発想自体が、すでにオカシイと言うか、間違っていると思います。

猛:「ウクライナが善い」というのは、無法に生命を奪われたり、国外脱出を迫られたりしているウクライナの人たちへのエールだと、僕は受けとめています。

直:虐げられたウクライナ国民を支援すること、そのこと自体は当然であって、何もオカシイことではない。しかし、それと国家の政治的対応とは、別の問題です。

中:というと、先生は、ウクライナ政府の政治姿勢に問題がある、とおっしゃるのでしょうか。

直:そうです。ウクライナの指導者が、NATO加盟への希望を公言してはばからず、ロシアと敵対する姿勢を強調する、そのやり方が拙劣であり、間違っていると考えるのです。

猛:ロシアが、敵対的なNATO諸国と対峙する最前線がウクライナ、その地域がロシアに背を向けて、敵側に回ることだけは防ぎたい。そういう思惑が、今回の軍事侵攻の底にある、という解説を聞いたことがあります。

直:それが解っていながら、ウクライナ政府は、NATO加入一辺倒の態度。これでは、ロシアに攻撃してください、と挑発しているようなものです。

猛:では、どうすることが正しいのでしょうか。ウクライナがNATOに加盟したいと願うのは、国家として当然の意志であって、そういう選択の自由が否定されるべきではない、と僕は思います。

直:それは、建前論にすぎない。そういう思いを内に秘めつつ、当分のあいだ――プーチン政権が健在中――ロシアをあまり刺激しないように取り繕う、というのが大人の政治家です。それをせずに、国民の生命を犠牲にしてまでも、一気に目的を達成しようとしているのが、現在のウクライナの指導者です。

中:誰からも聞かないようなお話を伺いました。現在、両国間で3回目の協議に入ろうとしているものの、進展する見込みはないようです。どうすれば、よいのでしょうか。

直:周囲の反発を覚悟のうえで言うなら、ロシアがウクライナに提示する二大条件――①非軍事化、②中立化――のうち、①は独立国家の消滅を意味するから、「受け容れられない」としてこれを拒否し、②だけを呑む、という「妥協」です。つまり、当分NATOには移行しない、と約束すること。直接交渉では、たぶん無理でしょうから、第三国――中国でもどこの国でもよい――が〈あいだ〉に入って交渉を助けることが、このさい必要だと考えます。

○付記――以上の対話は、36日の時点で行われた。よって、その後の情勢変化は、対話の内容に反映されていない。

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