毎月21日更新 エッセイ

〈あいだ〉に立つ(3)――第三者の役割

はじめに

直言先生:「〈あいだ〉に立つ」シリーズも、今回で三回目。過去二回は、「妥協」「中立」をテーマに取り上げて議論してきましたが、お二人の感想はいかがでしょうか。

中道さん:「妥協」も「中立」も、会社勤めの私のキャリアにとっては、重みのあるテーマです。以前のエッセイでは、先生にそのおつもりがなくても、高級な哲学の問題に付き合わされる感じがして、乗り気になれなかったことがありました。このシリーズになってから、「対話」に参加する楽しみがふくらんできました。

猛志君:いまおっしゃったことに、僕も同感します。自分の専攻する哲学では、「妥協」の意義なんてテーマは、まず論じられることがありません。「妥協」が問題になるとしても、それは真理追究の放棄であるとして扱われ、否定されるのがオチ。〈中間〉や〈あいだ〉が重要とみなされないのと、同じ流れです。

直:途中で失礼。哲学の世界でも、「妥協」を肯定する動きがなかったわけではない。あまり有名な人ではないけれども、フランスの哲学者ヴィクトル・クーザン(17921867)の「折衷主義」は、学派間の妥協を説いたとされています。

猛:それがどういうものか知りませんが、先生が問題にされたのは、僕らがふだん日常的に経験する妥協だったと思います。

中:そうです。妥協がどうして生まれるのか、なぜ妥協しなければならないのか、といった問題を考えさせられたのは、初めてのことです。私には、新鮮な印象がありました。

直:それはどうも。私としては、「妥協」についても、「中立」についても、もっともっと論じてみたいことがあります。でも、この対話篇の建前として、毎回のテーマを変える決まりがある。お二人の方では、つづけてどういうテーマを取り上げるのが、ふさわしいと考えられるでしょうか。

猛:僕としては、自分の信じる論理が、先生の言われる〈中〉や〈あいだ〉の論理に対して、どれだけ有効かを追究したいと望んでいます。ですが、具体的なテーマをと言われると、チョット……

直:たぶん君の尊重する二元論と、私が主張する非二元論。その〈あいだ〉を開くための試金石、ということですね。中道さんは、いかがですか。

中:前回のテーマは、「中立」でした。「中立」であることが、「あいだに立つ」ということである、と。その例として、先生は媒酌人、仲人の役割を取り上げられました。このことが、心に残っています。私としては、仲人のような「あいだに立つ人」を、テーマにしていただければ、ありがたく思います。

直:そうですか。それなら、「あいだに立つ人」とイコールではないが、「第三者」の存在を問題にする、というのはどうでしょうか。当事者が二人いるとして、その〈あいだ〉に立つ人は、「第三者」になりますから。テーマは、「第三者の役割」でいかがですか。

中:おっしゃることは、よく分かりました。それでお願いします。

 

再考――「第三者」とは?

直:さて、では「第三者」とは何か。おさらいを兼ねて、「第三者」の意味するものを確認することから始めましょう。

中:「第三者」は、当事者二人の外にいる第三の人物。その典型が、太郎と花子が結婚する場合の仲人、媒酌人であるという例を、先生は挙げられたと記憶します。

直:そのとおり。仲人には、①結婚する二人の外部に立つ、②二人の関係をとりもつ(媒介する)、という役目があります。これ以外に、何か役割がありますか、猛志君?

猛:「役割」と言うべきかどうか分かりませんが、レフェリーの場合には、「厳正中立」でなければならない、という条件を挙げられたと思います。

直:そうでした。媒酌人はともかく、裁判官や審判は「中立」でなければいけないということが、「第三者」に求められる。そういうことを、みんなで確認しましたね。

中:そのとき、私が「仲人口」を引き合いに出して、まぜっ返したことから、第三者が「中立」であるためには、そもそも何が必要か、という課題が提出されました。

直:それは「まぜっ返し」というより、きわめて本質的な注意点だったと思います。というのも、そこから「第三者が公正中立であるための条件は何か」という、新たな問いが生まれてきたからです。これは、猛志君の立てたテーマでしたね?

猛:ええ、そうだったと思います。それについて、先生が〈神の眼〉を条件に挙げられたのに対して、中道さんが、「神」というのは、国や民族によって違うのがふつうだから、「神」を引き合いに出しただけでは、中立性は保証されない、という話をされました。

直:そのとおり。その問題は、異なる神をいただく世界宗教同士の対立抗争が、どうすれば収束するか、という深刻な問題につながる。このことも確認したことです。

猛:その問題、哲学の世界では、「相対主義」というテーマで論じられる。たしか、僕がそう言ったところで、前回の対話が終わりました。

直:よく記憶していますね、まったくそのとおり。ですが、その続きで「相対主義」を取り上げるよりも、「第三者の役割」に焦点を当てることから、議論を続けたいと思います。当事者同士が抱える問題に対して、「第三者」には何らかの責任がある、と考えられるでしょうか。お二人の意見を聞かせてください。

中:「第三者」というのは、おっしゃったように、当事者同士の問題には関与しない立場の人、「傍観者」であると思います。傍観者に責任を負わせることは、そもそも無理ではないでしょうか。

直:たしかにそのとおり、傍観者にとって、そこで起こっている出来事は、他人事に過ぎません。悪い喩えで言うなら、「火事場の野次馬」のようなものです。「責任」など、問うべき筋合いではないかもしれませんね。

猛:異論があります。先生は確か、〈縁の倫理〉に関して、「責任」とは「応答能力」である、とおっしゃっていたように記憶しています。

直:そう、自分に対して呼びかける人がいる場合、その相手に応答することが、「責任」の意味であるということを、「縁の倫理」(拙編著『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ――都市の風土学12講』萌書房、2019)の中で書いています。論文の趣旨は、こういうことでした。

 

講義:「応答能力」としての責任

「責任」が発生するのは、どういう場合だろうか。たとえば、自分の目の前に誰か苦しんでいる人がいるとする。分かりやすい例――歩行の不自由な老婆が、路上でつまずいて、転倒する場面に出くわしたとする。そのときあなたは、たぶん「どうしましたか」と叫んで駆け寄り、相手を介抱するはずだ。誰でも遭遇するこうした場面が、「責任」の意味を考えるのに、ちょうどふさわしい。

「責任」(responsibility)とは、語源からして、「応答する」(respond)能力(ability)のこと。困っている人が、「助けて」と声を挙げるなら無論だが、たとえ無言であっても、こちらが呼びかけられていると感じることによって、それに応えなければ、という思いが生じてくる。そのような呼びかけを感じとることが、「責任」を生み出す第一の条件と考えられる。そのとき「応答する」とは、呼びかける相手に応えて、何かをすることである。ただし、それをしようと試みても、実際にできるかどうかは、やってみなければ分からない。そうであっても、「やらなければ」もしくは「やれる」という気持ちが働かなければ、「応答する」ことにはならない。「応答する」には、呼びかけに応えて何かをしようとする「能力」が含まれる。このことが、「責任」の成立する第二の条件である。以上をまとめるなら、相手からの呼びかけを感じとり、それに応えて何かをしようとする、この二点が一つになって、「応答能力」としての「責任」が発生すると考えられる。

最も分かりやすい「責任」の例として、目の前にいる相手との〈呼びかけ応答〉が成立する場合を挙げた。この例では、自分と相手とが一対一の対面状況にある場合に、責任が発生する。こうした対面状況をモデルに考えられるのが、倫理学における「責任」である。

たとえば、誰かと相対したとき、自分は相手の言い分に真剣に耳を傾け、同じく相手の方も、こちらの言うことを傾聴する。それぞれの主張を聴き合い、たがいの言い分を考慮したうえで、自分の要求を相手に突きつけるいっぽう、相手も同様の所作をとることを認める。これが、個人の「責任」を核とする交渉の基本である。近代社会における「責任」は、当事者同士が立ち会う対面状況に成立する倫理である、と考えられる。

 ところで、面前に相手がいない場合、その人に対する責任はないことになるのだろうか。そんなことはない。目の前にいない相手に対しても、責任があるというのが、〈縁の倫理〉である。というのも、〈縁〉は、対面する相手以外に、その相手を超えて背後に拡がる多くの人々と結ばれる関係性を意味するからだ。いったん〈縁〉が結ばれたなら、その相手が目の前にいようといまいと、絆が切れることはない。そういう関係性が、〈縁〉にほかならない。すなわち〈縁〉とは、それで結ばれた相手が、つねに目の前にいるかのように想定して、その人に対する責任を負う仕組みのことである。

 〈縁の倫理〉は、〈縁〉独自の責任を生む。とはいえ、直接対面しない他者にも責任を負うという思想が、個人主義・自由主義を旨とする西洋の倫理学にないわけではない――「未来世代への責任」を説く、「世代間倫理」などは、その一例。いずれにせよ、「ご縁」が日常用語として行き渡っている日本の社会には、他人の不幸を他人事として片づけることをしないようなエートス(倫理基盤)が存在する。日本人には、このことを自覚して実践するとともに、〈縁の倫理〉を世界に向けて発信する「責任」がある、と私は考える。

 

第三者の責任

猛:いまの講義から考えると、第三者は、当事者同士の〈あいだ〉に立っています。〈あいだ〉というのは、当事者のどちらの呼びかけにも応答できる位置だと考えられます。それなら、第三者にはそれなりの責任がある、と言うべきではありませんか。

中:へーなるほど、私には考えつかないようなことを、猛志君は言われました。さすが秀才だなあ、と思います。ですけど、さきほど先生が使われた「野次馬」という言葉は、「無責任な見物客」を表しているように思われます。先生、この点はいかがでしょうか。

直:お二人とも、「第三者」のあり方として、本質的な点を突かれている。どちらのご意見も、もっともだと感じました。ひとことで言うなら、「第三者」とは、問題を当事者と共有できる、その意味で責任を負う存在、しかも同時に、その責任をいつでも放棄して逃げ出すことができる存在、というものです。

猛:責任があるのに、その責任を放棄することができる、ということですか。それって、矛盾だなあ。

中:矛盾そのものですけど、世の中の人間はみんなそうです、私も含めて。

直:「私も含めて」とおっしゃるところが、鋭い。「第三者」が、みんな中道さんのように、第三者の矛盾を自覚されているかどうか――

猛:もしそれが現実だとすると、第三者には責任があるのですか。それとも、責任はないということですか。

直:君の好まない言い方になってしまって、申し訳ないが、第三者に「責任がある」ということも、「責任がない」ということも、ともに否定される。そして、そう言い切ることによって、第三者には「責任がある」と同時に「責任がない」、と言うことができる。まさに、レンマ的な〈両否両是〉になるわけです。

猛:例のごとく、先生は「レンマ」を引き合いに出されますが、人には「責任がある」か「責任がない」かのどちらかです。「どちらでもない」とか、「どちらでもある」というようなあいまいな言い方では、「責任」を問題にする意味がありません。

直:これは手キビシイ。君のことだから、そういう反論を返してくることが予想されました。しかし、当事者についてはともかく、第三者の責任については、そういう言い方しかできない、というのがポイントです。君の考え方だと、第三者に対して責任を問うことができなくなる。そうじゃありませんか。

猛:どうしてですか。第三者には、それなりの責任がある、と言えばいいじゃありませんか。その方が、責任があるのかないのか判らないという言い方より、よっぽどはっきりしています。

中:いま、お二方のやりとりを傍で伺っている私は、傍観者というか、第三者だと思います。ということからして、私にはこの場で何かを申し上げる責任があるのでしょうか。それとも、責任はないのでしょうか。

直:それを私に訊かれたということは、責任のあるなしが、ご自身ではハッキリしないからではありませんか。

中:おっしゃるとおり、責任があるのかないのか、自分では判断がつきかねます。ですから、先生のご意見をお訊ねしました。

直:そこが、問題の急所です。第三者である中道さんに、責任があるかないか。それを客観的に判定できる物差しはないし、判定できる審判もいないのです、「神」以外には。ですが、「神」はこのさい考えないことにしましょう、話がややこしくなりますから。

 

傍観者と当事者の〈あいだ〉

猛:僕なら、中道さんにこう言いたい――あなたには責任があります、と。だって、僕も中道さんも、この「対話」に参加しているわけですから。

直:それは、中道さんが「傍観者」ではなく、「当事者」だということですね。いかがですか、中道さん ?

中:言われてみれば、確かに私は対話の「当事者」です。その意味では、猛志君が指摘されたように、責任があるということになります。

直:でも、ついさっき私に質問されたとき、あなた自身は、責任があることを自覚されていなかった。そうではありませんか。

中:そうです。自分に責任があるのかないのか、よく分からなかったので、ああいうお訊ねをしました。

直:そこがポイント。つまり、自分が「傍観者」であると思った瞬間、「当事者」としての責任は消え去ってしまう。ところが、猛志君から「当事者」であると指摘されたとたん、消えたはずの責任が、よみがえってきたわけです。

中:チョット待ってください。お二人がおっしゃるには、当事者には責任がある、傍観者には責任がない――と、そこまで言われたかどうか。とすると、この私は、いったいどちらになるのでしょう。

直:それを決めるのは、あなた自身、あなた以外の誰でもありません。自分が「当事者」であると自覚したとき、その人は自分自身に責任を引き受けたことになる。逆に、「傍観者」として自己を規定したなら、その瞬間に責任を放棄したことになります。

中:よく解りました。先生のいつものお言葉にしたがうなら、私は傍観者と当事者の〈あいだ〉にいる、ということですね。

直:まさに、そのとおり。われわれは誰しも、そういう意味の〈あいだ〉に位置する存在です。この点について、異存はありませんか、猛志君 ?

猛:同じことを繰り返しますが、〈あいだ〉を強調するということは、自分には責任がないという言い逃れを許してしまうことになります。

直:「言い逃れを許す」ということですが、それではダメなのですか。

猛:ダメだと思います。というのは、道徳や倫理というのは、絶対にこうしなければいけない、という内心の声のようなもの、それを何て言ったかな……

直:カントの用語で言えば、「定言命法」。

猛:その定言命法にしたがうことが、倫理の原則だとしたら、言い逃れができるということは、倫理の存在を否定することになります。

中:いや、スゴイことをおっしゃる。猛志君はエリートだなあ。私のような凡人も含めて、みんながそういう道徳を守れたなら、理想的な世の中が実現するでしょうに……

直:カントは、誰もが道徳的原則を実践できると考えていたわけではありません。むしろ反対に、実践できないからこそ、それを承知のうえで、理想として道徳の格率を掲げた。まあこんなことは、大学で教える倫理学の常識ですが。

中:おっしゃっているのは、凡人にとっても倫理学は重要だ、ということですね、なるほど。

直:あなたの立場に引きつけて考えましょう。問題は、傍観者と当事者の〈あいだ〉に位置するということ、その状況において何ができるか、ということです。

猛:僕は、そういう意味の〈あいだ〉ではなく、「当事者」の視点に立って責任を負うのが、人として当然のことだと主張します。

直:結構。君がそう主張することが、オカシイという訳ではありません。「傍観者」から「当事者」へ、というシフトが生じるのは、さきほど中道さんも納得されたように、実際よくある現実です。

中:いまおっしゃった、まさにそのとおりですが、猛志君のように「責任をもつべし」と言われることに、私としては多少の抵抗があります。

直:それは、どういうことでしょうか。

中:哲学者お二人の前で、こう言ってよいのかどうか、憚られる気がしますが、思い切って申し上げます。私は、ごくふつうの人間で、先ほど思わず口にしたような「エリート」では、まったくない凡人です。そういう私にとって、「当事者としての自覚をもて」「責任を引き受けよ」といった言葉を聞くと、何かしら「上から目線」を感じてしまうのです。そういう平凡な人間にとっても、近づきやすい哲学とか倫理学を、期待してはいけないのでしょうか。

 

あたりまえの「自由」

直:ウーン、そうか。そういう思いがあったのですね。エリートではなく、ごくふつうの人につうじるような哲学。中道さんのいまの発言に重なるような声が、つい最近あったことを思い出しました。

中:それは、どんな声でしょうか。ぜひ、お聞かせください。

直:前々回、「妥協」をテーマに対話を行いました。それを読んだ一人の方から、「妥協」というのは、自分も含めて世間のみんなが、日頃それを体験しながら、後ろめたい思いを引きずっている。そういう中、「妥協」のもつ肯定的な意味を取り上げた対話から、これまでになかったような手応えを感じた、というありがたい評価をいただきました。

猛:ほー、「妥協する」ことを苦にしないのが、世間一般かと思っていました。そんなことはない、ということですね。

中:あの折の私は、いま先生の紹介された方と同じような思いでいました。妥協というのは、本来あってはならないこと。妥協することには、敗北に近いような後ろめたさが、いつもつきまとっていました。ところが、先生のご意見では、妥協には、肯定と否定のどちらかではなく、両方が含まれる、とのこと。その考え方に、自分としては目からウロコが落ちる思いをしたのです。

直:そうでしたか。あの折の「妥協」と、今回の「第三者の責任」。二つのテーマは、底の部分でつながっています。それは、どちらのテーマについても、考えるカギが「自由」にあるということです。

中:そうおっしゃるのは、どういうことでしょうか。

直:以前の対話[202111月のエッセイ]で、自由は必然か偶然か、という難しい議論をしたことを覚えていますか。それをここで蒸し返すことはしません。とりあえず「自由」の意味を、「しなければ」という囚われから解き放たれた状態、と考えてください。「妥協」というのは、A案とその否定であるB案のどちらか一方、という強迫観念から、解放されること、つまり自由によって成立します。それと同じく、当事者双方のどちらかにつかなくてよい状態、それが第三者の立場というものです。ですから、どちらについても、「自由」だという言い方ができます。この点については、どうでしょうか。

猛:「自由」には、「からの自由」と「への自由」があるという話を、哲学の講義で聞いたことがあります。いま先生がおっしゃったのは、「からの自由」であって、「への自由」ではありません。そちらは、どうなりますか。

直:「自由」が論じられる場合、いつも二種類の自由が区別されます。別段、それに異論があるわけではないけれども、今日の議論では、「からの自由」を重視したい。われわれが、いつも受けている重圧、「しなければ」というプレッシャーを取り除くことが、先決問題だと考えるからです。そういう重圧が無くなれば、わざわざ強調しなくても、「への自由」が成立する、というのが私の考えです。「あたりまえの自由」とは、そういうものです。

猛:解りました。そういう自由と「第三者の責任」は、どうつながるのでしょうか。

直:第三者がとる〈中間〉の位置は、同時にその責任の所在を表しています。当事者ABが対立している状況において、第三者はAからの呼びかけに対しても、Bからの呼びかけに対しても、等しく開かれています。つまり、第三者である私は、どちらの声に対しても、それを聞いて応答することができる。「応答能力」、責任があるわけです。

中:すみません、口をはさむようで恐縮ですが、別に中間に人がいなくても、相手の声を聞きとることはできます。当事者同士の話し合いであっても、応答することは可能ではないでしょうか。

直:そうです、そのとおり。きちんとした対話であるなら、おたがいに相手の言うことをしっかり聞いて、それに応じるというのが、ノーマルなあり方です。

猛:しかし、国際紛争が起こると、たいてい当事国同士の争いに「中立国」が割って入り、仲裁役を務めます。

直:私が言うつもりのことを、君は先取りしてくれました。まるで透視能力があるみたいに。

猛:僕がお訊きしたいのは、どうして当事国同士の話し合いで問題が解決しないのか、という疑問です。

中:私も猛志君と同じです。それに、もう一つ付け加えると、仲介者が間に立つにもかかわらず、紛争の解決にはめったに至らない。それはどうしてなのか、です。パレスチナ問題が、そうであるように――

 

新たなテーマへ

直:たしかに、お二人がおっしゃるとおり、国際紛争の場面では、かならず第三国が間に立って、調停役を務める。にもかかわらず、目標となる最終合意の成立に至らず、延々と紛争が繰り返されていく。その典型例を、パレスチナ問題に見ることができます。

猛:いったい、誰が悪いのでしょう。ふつうに考えるなら、アラブの先住者をユダヤ人が追い払う形で、第二次大戦後にイスラエルが建国された。非は、ユダヤ=イスラエルの側にある、と僕は思います。

直:君のそういう意見は、世界の多くの人に共通しています。しかしそれは、すくなくとも、対立するユダヤ=イスラエルとアラブ=パレスチナの〈あいだに立つ〉ことではない。パレスチナ人の側に、父祖代々の土地を守ろうとする大義があるように、ユダヤ人にも「シオニズム」の大義がある。

中:先生がおっしゃりたいのは、その場合、〈あいだに立つ〉第三者――国家なり個人なり――は、中立でなければいけない、どちらかの側についてはいけない。そういうことではないでしょうか。

直:仰せのとおり。どちらの側にも立たないということが、「第三者の責任」の一番基本になることです。

猛:さっき言ったように、僕はパレスチナの側に味方をしたい。イスラエルやそれを支援するアメリカの圧倒的な力に、パレスチナ人民が抵抗している現実を見ると、そう言わざるをえません。

直:君がそういう立場をとることは、もちろん君の自由です。しかし、それでは、当事者同士の〈あいだに立つ〉第三者であることはできません。

猛:でも、問題が解決していないこれまでの経緯を見ると、〈あいだに立つ〉ことで何かがよくなるとは、とても思えません。

中:過去に試みられた第三国による調停が、ほとんど成功していない現実からして、猛志君ほどではありませんが、私も悲観的になります。

直:パレスチナ問題に関心を向ける人たちのほとんどが、あなた方とよく似た心境だろうと想像します――私自身も、お二人と同類ですから。ここで、新しいテーマをお二人に提案します。それは、「日本人の責任」とは何か、です。

猛:えっ、それって「第三者の責任」とは違うのですか。

直:〈日本人=第三者〉と考えれば、同じことになるかもしれません。けれども、ここであえて「日本人」というのは、あなた方が、「パレスチナ問題」に対する〈部外者〉あるいは〈傍観者〉というのとは違った関心、いわば〈当事者〉に近い関心をもって考えようとしている事実を見込んでのことです。自分にとって、「パレスチナ問題」とは何か、それに対して自分に何ができるのか、といった準当事者的な立場に身を置いて、考えてみようではないか、ということです。

中:この問題が、まさに他人事ではない、ということですね。承知しました。

猛:こちらも了解しました。この機会に、一生懸命考えてみます。

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