〈対話〉から〈かたち〉へ
直言先生:「対話の世界へ」シリーズが、いちおう前回で終わりました。お二人は、こちらの難しい問題提起に我慢づよく付き合ってくださった。感謝あるのみです。今回からテーマを変えて、新しいシリーズに入りますが、その前に「対話の世界へ」シリーズについて、お二人の感想を伺いたいと思います。まず中道さんにとって、〈対話〉をめぐる対話の手応えはいかがでしたか。
中道さん:先生から、これまでの常識をひっくり返すような考え方がいくつも示され、こちらはそれについていくのに手一杯でした。正直申して、言われたことの半分も理解できていないのではないか、と思います。
直:難しい考え方がいくつもあって、理解に窮したとのこと。その中で、これは、という例を一つ挙げていただけませんか。
中:前回、「対話の目的は、対話自体」とおっしゃったことです。私の常識では、対話をすることの目的は、それをつうじて双方が一定の合意に達することにあります。そういう合意が成立しないような対話に、何か意味があるのでしょうか。この点が、ずっと引っかかっています。
直:対話が成立するための条件は、たがいに「対話を続ける」ことについての合意が生まれるということです。対話をつうじて何かが合意されるということは、もちろん重要ですが、対話すること自体への合意に比べれば、二の次の問題です。ですが、そういう私の説明に「納得しない」とおっしゃったことは、よく解ります。これについては、いずれまた議論する機会があるでしょう。猛志君は、いかがですか。
猛志君:前回の最後に、「対話の条件とは何か」という講義が行われました。いつものやり方だと、「講義」の内容をめぐって三人で議論していく、という流れになるのに、前回、講義だけで終わってしまったことが残念です。
直:ということは、講義に関して、君の方から問題にしたい点があった、ということですね。それは、どういう点ですか。
猛:異なる神を戴く人たち同士が対話することは、Ⓐ不可能である、Ⓑ可能である、という正反対の答えがどちらも成り立つ、とされた点です。いったい、ⒶⒷのどちらを支持されているのか、ハッキリした結論が出されないまま終わった、という印象です。先生の考えは、たぶんⒷだと思うのですが、くわしい説明がなかったので、よく判りません。
直:Ⓑです、ご想像のとおり。説明を極力省く、というのが私のクセで、ミステリアスな印象が生じたとすれば、申し訳ありません。講義では、対話の成立条件をめぐって、当方の「楽屋裏」をお見せする、というふれ込みでしたが、見せ方が大まかすぎたと言われれば、大いに反省しなければなりません。
猛:でも、〈対話〉というテーマについては、前回で区切りがつけられた。ということは、今回からのシリーズでは、そういう問題から離れて、まったく違うテーマを取り上げることになるのでしょうか。
直:そのお訊ねには、テーマは表向き変わることになっても、同じ問題意識を引き継ぐつもりである、とお答えしましょう。
中:とおっしゃると、それはどういうテーマでしょうか。〈対話〉よりも難しい問題になったらどうしようか、と不安になります。
直:ご安心を、と申してよいかどうか――。言葉としては、〈対話〉よりも具体的で身近な〈かたち〉が、今回からのテーマになります。
猛:へぇー、今度は〈かたち〉ですか。〈対話〉と〈かたち〉に、どういうつながりがあるのか、見当がつきません。
直:その「つながり」が何かを、いますぐ説明することはできません。一言だけ先ぶれしておくなら、「対話を考える」の前の「〈あいだ〉に立つ」のシリーズで、対立する二者を媒介する仲介者の役割を問題にしました。二者の〈あいだ〉を開くためには、第三者・仲介者が不可欠である、ということを論じましたが、そのあたりのことを覚えていますか。
中:はい、それが「三人対話」というお考えにつながっていった、という理解でよろしければ、私の頭の中に残っています。
直:そういうこれまでの流れを想い起こしていただけるなら、これから取り上げることになる〈かたち〉ないし〈かた〉は、「中間者」「第三者」というアイディアの〈発展版〉ということになります。そう申しても、いったい何のことやら、と思われるでしょう。いまお断りしたいのは、前回までの流れとこれから始まるシリーズとが、私の中では断絶していないということ、それだけです。
〈かたち〉の意味
直:さて、ここから本題に入ります。まず、お二人に質問します。日常の会話で〈かたち〉(形)という言葉を使われることが、たぶんよくあるでしょう。どういう場合に、〈かたち〉という言葉を使われますか。[以下、対話の中では、漢字の〈形〉ではなく、平仮名で〈かたち〉と表記する。理由は、同じ日本語である〈かた〉から区別するため。]
中:私は、昔から山を見るのが好きですが、昨日、テレビの画面に冬の岩木山がくっきりした姿で映し出されたとき、思わず「きれいな〈かたち〉だなあ」という声が出ました。こんな例でも、よろしいでしょうか。
直:結構です。岩木山は「津軽富士」と称される秀麗な山容ですから、そこに雪が積もって青空に映える情景は、美しい〈かたち〉そのものだと思います。視覚的な印象がハッキリしている場合に、私たちは〈かたち〉を意識します。猛志君、君からも何か例を挙げてもらえませんか。
猛:それじゃ、中道さんとはチョット違う例を挙げてみます。僕は哲学専攻の学生として、これまで論文やレポートをいくつか書いてきました。それを読んだ指導教授――先生のことではありませんよ――の中に、お前の論文は〈かたち〉が出来ていないから書き直せ、と言われたことがあります。そのとき論文の〈かたち〉と言われたのが、何のことなのか、すぐには解りませんでした。
直:そうですか。で、そのとき解らなかった論文の〈かたち〉というものが、現在の君なら、こういうものだと説明できるでしょうか。
猛:そのとき、教授からは、章や節の構成、脚注の付け方が不適切だ、という具体的な注意を受けました。それは、論文としての「形式」が整っていない、という指摘ですから、その意味はよく解ります。ただ、論文の〈かたち〉というのが、「形式」というだけの意味なのかどうか……もう一つスッキリしていません。
直:なるほど。「形式」と「内容」を分けた場合の「形式」が、いちおう〈かたち〉に当たる。けれども、それだけで終わらない何かが、〈かたち〉には含まれているかもしれない。そういう疑問ですね。
猛:そうです。いま言われた区別でいうと、「内容」に当たる要素が、〈かたち〉には含まれているのかな、とそんな気がするのです。
中:[電子辞書を取り出しながら]こういうこともあろうかと、今日は電子辞書を持参してきました。『デジタル大辞泉』には、「かたち(形/容)」の説明として、①「見たり触れたりしてとらえることができる、物の姿・格好。物体の外形」というのが出てきます。用例として、「山の美しい――」が挙げられています。
直:なるほど。先ほど挙げられた岩木山の例そのままですね。それが一番ふつうの意味だとしても、それ以外に「内容」に関係するような意味は、挙げられていないでしょうか。
中:①に続く②として、(ア)「まとまり整った状態をもって表にあらわれた、物事の姿。形態」があります。それに、「文章の――を整える」という用例がついています。これは、まさに猛志君の出された例に、ピッタリではないでしょうか。
猛:そうだと思います。けど、辞書に出ている②の意味が、どういう点で①の意味と違うのか、チョット判りません。
直:辞書の説明の中で、「表にあらわれた、物事の姿」とあるところがポイントです。というのは、「表にあらわれる」ということは、それ自体としては隠れた「裏」がある、という事実を物語っているからです。ということは、「裏」の「内容」を表に出すことによって〈かたち〉が成立する、ということ。つまり、「形式」に「内容」の伴ったものが、〈かたち〉である、ということになるわけです。
猛:なるほど、そういうことか。僕の指導教授は、論文としての「〈かたち〉が出来ていない」という言い方で、形式が不十分なだけではなく、内容が不十分だ、ということも批判されていたわけですね。いや、いまのご説明でよく解りました。
直:ことのついでに、先ほどの説明にある「姿」(すがた)という言葉も、〈かたち〉とよく似た意味を表しています。「姿形」(すがたかたち)と一つにして用いられることも多く、人に対して「姿形が美しい」といったホメ言葉が用いられる場合、単なる外見だけではなく、その人の精神的な内面が充実している、といった意味合いを帯びていると思われますが、この点について、中道さん、いかがでしょうか。
中:いや、おっしゃるとおりかと思います。私など、この歳になっても「姿の美しい」女性に心を惹かれることがよくあります。ただ、少し弁解になりますが、自分が惹かれるのは、女性の外見というよりも、外見から窺われるその人の心なのだ、と。先生も、同じお考えでしょうか。
直:おや、こちらにお鉢が回ってきましたね。あなたより三つ年上の私など、女性のファッションや外見などに心を乱されるようなことは、もうありません。歳をとると、内面性が滲み出ているような人間の姿にしか、心を惹かれない。こんなことを言っても、年若い猛志君にはたぶん通じないでしょうけれど。
猛:お二人ほど長く人生を生きていない僕には、そういう微妙な問題はよく解りません。歳をとって、そういう心境になるのを待つしかありませんね。
〈かたち〉の底にあるもの
直:さて、〈かたち〉とは、単純な意味での「形式」ではなく、「内容」を伴った外見のことである。この点について、いちおうの了解が生まれました。ここから話を先へ進めたいのですが、よろしいでしょうか。
中:結構です。続けての議論をお願いします。
猛:僕も同じですが、一点、お訊ねしたいことがあります。〈かたち〉が「内容」を伴った形式であるとされた、そのことは了解しましたが、その場合の「内容」とは何か、ということです。
直:素晴らしい。いま君から出された「内容とは何か」という疑問。それが、ここからいっしょに考えたいテーマです。まさにピッタリのタイミングで、君から出された問い――〈かたち〉によって表される「内容」とは何か。さあ、君はどのように考えますか。答えてください。
猛:質問しているこちらに、逆に質問されるのですか。解りません。「形式」ではない何か、「内容」を意味する、としか答えようがありません。
直:それでは、答えにならない。「内容とは何か」を訊ねているのに、「内容である」というのでは、まるで同語反復じゃありませんか。
猛:……
中:年寄りが横から割り込んでも、よろしいでしょうか。先ほど、女性の外見についてのやりとりで、先生は精神的な「内面性」と言われ、私は「心」が〈かたち〉には含まれる、という考えを申し上げました。〈かたち〉が表す内容は〈心〉である、そういう答えではいけないでしょうか。
直:たいへん結構です。同じ答えでも、「内容」にはそれ以上突っ込む余地がない――つまり内容がない――のに対して、「心」という言葉には、いろんな角度から検討を深めることのできる可能性があります。ここから、「心」をめぐって考えてみることにしましょう。
中:ありがとうございます。ただ、「心」は哲学の重要問題。これについての議論は、先生と猛志君にお任せして、私はそれを横で聞かせていただきたいと思います。
直:「心」は、哲学のタームであると同時に、日常用語としてだれもが使う、ふつうの言葉です。中道さんの経験から、われわれ二人が学ぶことのできるポイントが、たくさんあるはずです。
中:承知しました。では、及ばずながら、できる範囲で口をはさませていただくことにします。
直:それでは、第一問。お二人のどちらに答えていただいてもよいのですが、「心」というものがあると仮定して――というのは、そんなものはないという主張も、哲学の世界にはありますから――、心は目に見えるでしょうか。それとも、見えないでしょうか。
猛:見えません。見えるのは「物」であって、「心」は見えないというのが、哲学の常識です。
直:結構です。では、それについて質問します。目に見えるものであれば、それがあることを誰でも確認することができます。ところが、おっしゃるとおり、「心」というものは、「これだ」と言って指さしたり、目に見えるようにして示すことができない。ならば、「心」がある(存在する)ということが、どうして言えるのですか。
猛:物体が空間的な延長をもつのとは違って、精神・心には拡がりがない。延長がない代りに、「考える」働きとして、心は存在する。デカルトの言い方では、「思惟実体」として存在します。
直:ではその場合、「思惟実体」の存在は、どうやって確かめられるのですか。それが、目に見えないとすれば。
猛:……考える本人が、「自分は考えている」ということを自覚することによって、だと思います。それ以外に、確かめる手段はありません。
直:考える働きは、考えている本人にしか判らない。しかし、もしそうであるなら、周りにいる他人には、その当人が考えているかどうかは判らない。理屈では、そう言うことになりますね。
猛:ご存じのとおり、それが、他人に心があるかどうかは判らない、という「独我論」の主張になるわけです。
直:このあたりで、中道さん、何かご意見は?常識ある社会人の立場で、ご意見をお願いしたいところです。
中:「独我論」という言葉を耳にしたのは、初めてです。何ともケッタイな理屈だなあ、というのが、私のような素人の受ける印象です。われわれが生きている世界の中で、他人にも自分とおなじ心がある、ということを本気で疑っている人など、一人もいないと思います。だって、そんなことを疑い始めたら、この世界で生きていけませんから。
直:まさにおっしゃるとおり。ふつうに生きている人々にとって、他人にも自分と同じような心がある、ということは疑いようのない事実です。そういう当たり前の事実を、疑ってかかるのが哲学である、と。君なら、そんなふうに中道さんに返しますか、猛志君。
猛:デカルト以来、「他人の心」は、哲学の中心問題を占めてきました。デカルト主義者とされるフッサールの現象学や、彼以後の現代哲学も、このテーマをめぐって論じています。「他者とは何か」という問題は、僕にとっても大いに関心があります。
直:それなら、ちょうどいい。他人に心があるということが、どうして判るのか、という「他我問題」について、ここから少し説明してみましょう。先回りして言っておきますが、哲学があまり考えない〈かたち〉を手がかりにすることで、そんな問題はクリアーできる、というのが私の考えです。
講義:「他人の心」
デカルトは、「我思う、ゆえに我あり」という有名な原理をうちたて、ここから近代哲学が始まったとされています。「考える我」には心がある、そのことを私自身は知っている。しかし、他人は私ではない。私に心があるように、他人にも心があると言えるのかどうか。あるとしても、他人の心についてどのように知ることができるのか。こうした問題が、それ以来、「他我問題」あるいは「他者の問題」として論じられてきました。
この問題をめぐる複雑で面倒な議論を、いちいち取り上げるヒマはありませんが、代表的な二つの説を簡単に紹介します。一つは、「類推説」。私は、自分の存在が、考える働き(心)と拡がりのある身体、〈思考〉と〈延長〉から成り立っていることを知っています。では、他人についてはどうでしょうか。目の前にいる誰かを見て判るのは、その人の身体的状態。自分は、悲しいときに涙を流す。ところで、目前にいるその人は、泣いている。ということは、私の〈悲しみ-涙〉という関係をもとにするなら、他人の「涙」から、その「悲しみ」が推し量れる。つまり、自分の心的状態と身体的状態との関係にもとづいて、他人の目に見える身体的状態から、その心的状態を知ることができる。これが、「類推説」の立場です。もう一つの「感情移入説」は、他人の身体的状態から類推するよりも前に、他人の感情に共感したり同調したりする本能、衝動が、人間には具わっているとする説。自分の感情を他人に移入する、というあり方を指して、「自己移入」「自己投入」と呼ばれることもあります。
これらの「回答」は、キビシイ言い方をすれば、問題の解決とは言えないものです。なぜかと言えば、デカルトが心と身体、自己と他者というものを、別々の存在として分けたその時点で、分けられたものが一つになる道がふさがれてしまっているからです。自分自身の心と身体、〈自己〉と〈他者〉の存在を分離してしまうことによって、〈自己〉から〈他者〉のありようを類推するとか、自己の感情を他人に移し入れる、といった無理な考え方しかできなくなる。それは、デカルト以後の二元論、および個人主義が、分けられる以前の自他がつながった状態を説明できる論理をもっていないことを物語ります。私の著書やエッセイの中では、そのことを〈あいだ〉が閉じられてしまった、という言い方で批判しています。ご承知の方もおいででしょう。
二元論的に自己から切り離された「他人の心」は、どこにどのように存在するのでしょうか。「私の心」(Ma)と「他人の心」(Mb)とは、たがいに切り離される以前には、〈Ma—Mb〉として一つにつながっています。と言うと、MaとMbとは同じものなのか、区別されないのか、という反論が返ってきそうですが、そういうことではありません。MaとMbとは、同じでもないが、別々の異なるものでもない。自他の心は、一つであって同時に二つである。西洋哲学の形式論理では、そういう主張は絶対に認められない。「矛盾律」(Aと非Aとは両立しない)が、それを許さないからです。矛盾律という「ロゴスの論理」に対して、大乗仏教では、「不一不二」(一でもなく二でもない)、「不一不異」(同一でもなく別異でもない)といった「レンマの論理」が通用する。このことは、拙著『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)を読んでくださった方なら、ご承知の話と思います。
〈あいだ〉とは何か、AでもBでもないが、そのことによって、AでもBでもある、というのが、AとBの〈あいだ〉です。この定義を当てはめれば、自分でも他人でもないが、それゆえに自分でも他人でもある、というのが、自他の〈あいだ〉が開かれた、〈Ma—Mb〉というあり方、二つ(Ma、Mb)が分けられながら、しかもつながっている、というあり方です。MaとMbとが、「最初からたがいに独立している」のか、「たがいに分かれながらつながっている」(独立でない)のか、この違いが、二元論と非二元論(あいだの論理)との違いであることに、ご注意ください。
さて、ここから今回の対話のテーマである〈かたち〉に焦点を合わせます。というのは、〈かたち〉とは何かを考えることによって、以上述べたような、非二元論的な〈あいだ〉の意味が、よりハッキリしてくると考えられるからです。〈かたち〉が単なる視覚の印象ではなく、その意味として「内容」(心)を表しているとすれば、それを〈かたち〉として人々が認めるという事実は、「心」を人々が共有している、ということにほかならない。そういう意味で、〈かたち〉の表す内容(意味)は、「私の心」だけでなく「他人の心」にも関係している、そう言えるでしょう――現代哲学にくわしい向きは、ウィトゲンシュタインが唱えた「言語ゲーム」論を想い起こしてください。公共的に使用される「言語」に、〈かたち〉を置き換えれば、彼の議論と〈かたち〉がつながってくることをお解りいただけるでしょう。
「他人の心」を知ることができるのは、われわれが〈かたち〉の世界に生きているからです。最初から自他を分断する――〈あいだ〉を閉ざす――ふるまいに出さえしなければ、「他我問題」は消えてしまいます。必要なことは、近代哲学の第一命題「我思う、ゆえに我あり」が出てくる手前の事実を見直す勇気をもつこと、それだけです。
[以上のうち、「類推説」と「感情移入説」については、『岩波哲学思想事典』岩波書店、1998年]の「他我問題」についての説明(浜渦辰二)を利用させていただきました。]
〈かたち〉と〈あいだ〉
直:講義はここまで。言い足りない点については、お二人との対話でフォローすることにしましょう。お二人から、何かあれば――。
中:これまで、ご本やエッセイの中で、繰り返し説かれている〈あいだを開く〉というフレーズ。その意味が、「他人の心」という角度からもう一度説明し直されたことが、新鮮でした。ただいまの講義では、二元論的に〈あいだ〉を閉ざすことによって、「他人の心」が謎になってしまう。〈あいだ〉が開かれたなら、「他我問題」は消えてなくなってしまうのだ、と。そうおっしゃったと受けとりましたが、いかがでしょうか。
直:だいたいそういうことですが、「他人に心があるか」という問題と、「他人の心が理解できるのか」という問題は、次元が異なります。自他が同じ言葉を使用している、という「言語ゲーム」の考えと、社会の誰もが〈かたち〉を認めているあり方とは、前者について「イエス」の答えを出しますが、後者については何も答えません。現代哲学で扱われているのは、主として後者の他者理解の問題ですから、そう簡単には答えられません。
猛:〈あいだ〉について、いま説明されたようなことは、だいたい頭に入っているつもりです。しかし、〈かたち〉と〈あいだ〉の関係については、初めて伺ったような気がします。どうして〈かたち〉と〈あいだ〉を結びつけようと考えつかれたのか、そのあたりを説明していただけないでしょうか。
直:猛志君、私たちの対話が収録された最初のテクスト(『〈出会い〉の風土学――対話へのいざない』幻冬舎、2018年)の中で、君は「カントにはない〈形〉と〈型〉の区別を立てることに意味があるのか」(144頁)という疑問を、私にぶつけてきました。その時点で、立ち入った説明はできませんでした。〈かたち〉は〈かた〉から区別されながら、〈かた〉と不可分に結びついている。それが、自分なりの〈かたちの論理〉の考えであって、カントにもカントに倣った三木清にもない、私独自の発想です。
猛:そのとき、先生は「形の論理」を取り上げられましたが、それが三木や西田の言うそれとどう違うのかについては、説明されませんでした。
直:〈かたちの論理〉は、30年来のテーマとして、どの著書の中でも取り上げてきました。再近著『瞬間と刹那――二つのミュトロギー』(春秋社、2022年)の「第六章 瞬間から歴史へ」でも、くわしく論じていますが、このテーマだけを徹底的に追究した本は、まだ書いていません。もし、そういう著書を手がけようとするなら、どうしても〈かたち〉と〈あいだ〉とを結びつけて論じなければならない、というのが私の思いです。
中:ホームページの「エッセイ」は、「テクノロジーの問題」シリーズから始まりました。その後半の三回は、「かたちの論理」(上・中・下)というタイトルであったと記憶しています。その議論をもういちど繰り返す、ということでしょうか。
直:「繰り返すのか」と言われれば、確かにそうですが、単純に同じように論じるつもりはありません。ちなみに中道さん、「かたちの論理」シリーズの印象は、いかがでしたか。
中:「印象」と言われても、チョット……。〈かたち〉と〈かた〉の区別であるとか、いろいろ重要なことが論じられているな、という感じでしたが、内容そのものにはまったくついていけませんでした。
直:おそらくそうでしょう。あなた以外の読者も、ほとんどの方は、同じ印象だと思います。その大きな理由は、当時のモノローグ(独白体)にあります。自身の中で完結した思考回路を、そのまま公にする表現形式が、モノローグの特徴。それでは、おのれの言葉が、相手の心に届いているかどうか、確かめられない。しかし対話なら、相手の反応を見て、言葉を選び直すことが、いくらでもできます。かつて自己満足に終わった〈かたちの論理〉を、対話形式でみなさんに共有していただくことはできないだろうか。それが、お二人に協力をお願いして、〈かたちを考える〉シリーズに着手した理由です。
猛:〈かたち〉がどうして〈あいだ〉に結びつくのか、その答えはまだ伺っていませんが、そのテーマに取り組もうとするお気持ちだけは理解できました。
直:そうですか、ありがとう。それでは、いま君の提出した問題は次回以降に持ち越すこととして、今回はこれで終わることにします。
Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699
今回のエッセイ、とても刺激的で興味深く読ませていただきました。読んでいて、下記のことを考えました。
言いたいことを結果から申しますと、考えることには、考えないことも必要であるということです。
コメントいただけますと嬉しいです。
心が「考える」実体であること(裏返すと身体は「考えない」実体と言えると思います)。その「考える」ことはロゴスに依っておりますね。
また、カタチが自他の心が共有されて生じるとのこと。
これらのことから、
心がカタチに影響を与えるし、同時にカタチが心に影響を与えるという相互作用があるのが自然と考えました。
また、心と身体にも同様に相互作用があるのが自然で、つまり、心が司る「考える」こと(ロゴス)と身体が司る「考えない」こと(レンマ)には相互作用があると言えると考えました。ロゴスがあるからレンマがあるし、その逆も然り。
これらのことから、対話には「考えない」ことも「考える」ことと同時に必要になると考えました。
Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699
訂正いたします。
デカルトは心と身体を、思考と延長と言っており、
身体を「考えない」実体とまでは言っておりませんでした。失礼しました。
なので、身体を「考えない」実体とまでは言えません。ただし、身体を「考えることもするし、考えないこともする」実体、または「考えない」実体と言えると考えました。
Warning: Trying to access array offset on value of type bool in /home/kioka/kioka-tetsugaku.jp/public_html/wp-content/themes/agenda_tcd059/functions.php on line 699
デカルトの心身二元論から、「考える」心と「考えない」身体との相互作用という、重大な問題を提起されました。デカルトは、身体が精神に働きかける結果として、「心の受動」=「情念」(passion)を問題にしました(『情念論』)。ただし、彼の立場では、「身体が考える」という言い方はできません――第二信でおっしゃるとおり。
私が重要と考えるのは、最後の「対話には「考えない」ことも「考える」ことと同時に必要になる」いうくだり。「対話」はロゴスのやりとりですから、対話する甲と乙とは、それぞれがロゴスを発信する時点で、たしかに「考える」。しかし、「対話」の成立には、相手の発するロゴスを「聴く」という、いわば受動の契機が不可欠になる。相手の言葉が、まっすぐこちらの心に届いて、それまで無かったような「気づき」が生まれてくるためには、自分の心を開いて相手のロゴスを受けとめるという態度が必要です。その態度を、あえて「考えない」という言い方で、要約することができるかもしれない……そんなことを考えつきました。その場合、「考えない」ことも、精神(意識)の働きの一部と考えられます。ここで立ち入ることはできませんが、記憶や無意識といった深層心理の問題に関係すると考えられます。
最後に一言――「レンマ」を「考えないこと」と見なされているのは、誤解です。レンマはロゴスから区別されるものの、「論理」の一種であり、山内得立も木岡もそういう考えに立っています。