毎月21日更新 エッセイ

〈かたち〉を考える(2)――〈かた〉とは何か

前回を振り返って

直言先生:前回から、新しいシリーズ「〈かたち〉を考える」に入りました。その初回として、「〈かたち〉とは何か」をテーマに取り上げましたが、お二人の感想はいかがですか。

中道さん:以前のシリーズ(「テクノロジーの問題」)とは違って、〈かたちの論理〉をわれわれとの対話をつうじて深めていくというのが、先生のお考えかと受けとりました。そういう理解でよろしいでしょうか。

直:そのとおり。以前のエッセイのようなモノローグ(独白)ではない対話形式で、どこまで〈かたちの論理〉を具体化できるだろうか。これは、私にとっての大きな挑戦です。

猛志君:前回の終わりのあたりで、先生は、〈かたち〉と〈あいだ〉を結びつけたい、ということをおっしゃった。「邂逅」つまり〈出会い〉、〈縁〉を生みだす〈あいだ〉、それに〈かたちの論理〉、この三つが一つになって、先生のめざす風土学が完成するのかな……あれから、ふとそんな考えが頭に浮かんできました。

直:私に対して批判的であることの多い君が、そんなふうに見てくれているとは……。ご指摘のとおり、と申し上げるほかありません。猛志君、何か疑問はありませんか。

猛:「他人の心」をどう考えるか、が僕にとって重要な問題です。〈かたち〉は単なる「形式」のことではなく、「内容」――中道さんの言葉では「心」――の表れである、と言われた。その場合の「心」は、いったい誰の心なのか。〈かたち〉が「他人の心」とどう関係するのか、というのが僕の感じた疑問です。

中:いまおっしゃったこと、専門的な意味はともかく、私が日頃疑問に思うことと、つながるように思います。それは、他人の心がわかるときとわからないときがあるのは、どうしてか、という疑問です。

直:「心」とは何か。これは、昔から人々が気にかけながら、満足が行くような答えの出ない問題です。いまお二人の出された疑問は、「心の哲学」という分野で扱われていますが、そんな専門的なことを知らなくても、日常用語として、「心」はひんぱんに使われています。ということは、哲学の専門家でなくても、われわれは「心」の意味を知っている、ということです。

中:チョット待ってください。いま先生は、「心」の意味を知っている、とおっしゃいました。ですが、私は「心とは何か」と訊かれても、うまく説明できません。それなのに、「意味を知っている」といえるのでしょうか。

直:「意味」を言葉の定義だと考えるなら、それができるのは、哲学者のような一部の専門家だけ。でも、あなたは――他の人々もそうですが――、「心」という言葉を何のためらいもなく使って、コミュニケーションができている。それは、言葉の用法が解っている、ということです。

猛:いまのお話から、一つ思い出しました。アウグスチヌスが、「時間とは何か」と訊ねられないとき、私はそれを知っている。訊ねられると、知らないのだ、と言ったそうですが、「心」についても、それと同じことが当てはまるということでしょうか。

直:その例とよく似ている、と言えるでしょう。ついでに、君のような哲学の学生向けに言い換えるなら、「言葉の意味を知っている」ということは、その言葉を用いる「言語ゲーム」に参加できる、ということです。

猛:なるほど。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」は、現代哲学に「言語論的転回」をもたらした、ということを哲学の講義で学んだことがあります。

直:「心」というものは、「これだ」といって示すことができない。隠れた内面を問題にする代わりに、人々が用いる言葉を心の働きに置き換えて考えようとしたのが、20世紀の哲学に起った言語論的転回です。その問題は、〈かたちの論理〉にも深く関係しますが、いまは横に置くことにしましょう

 

〈かたち〉から〈かた〉へ

直:さて、今回の対話のテーマを、〈かたち〉から〈かた〉に移したいと考えます。前回の対話をつうじて、「かたちが心を表す」という発見が生まれました。しかし、「心」は非常に多義的で、扱いにくい言葉です。その代りに、〈かた〉という日本語を取り上げて考えてみてはどうか、というのが私からの提案です。

中:先生の提唱される〈かたちの論理〉が、〈かたち〉と〈かた〉の区別をもとに考えられたものだということは、私なりに承知しています。ご提案に異存ありません。

猛:以前、先生にクレームをつけたことがあります。カントのような哲学者にはない〈かたち〉と〈かた〉の区別にこだわることに、どんな意味があるのか、と(『〈出会い〉の風土学』幻冬舎新書、2018年、144頁)。

直:そうでしたね。私の風土学は、西洋のヴォキャブラリーとは異なる日本語の世界に足場を置く立場なので、日本語である〈かたち〉と〈かた〉の関係から考えていくことが、絶対に必要であると考えています。そういう考え方をひとまず受け入れたうえで、異論を提出してもらえませんか。

猛:わかりました。その方針に従います。

直:ありがとう。それでは手はじめに、前回の〈かたち〉と同じく、〈かた〉の辞書的意味を調べることから始めましょう。中道さん、検索をお願いできますか。

中:承知しました。電子辞書(『デジタル大辞泉』)では、「かた(形/型)」に続けて、①「(形)ものの姿や格好。形状。かたち」とあって、「洋服の――が崩れる」「髪の――を整える」という用例が出ています。

直:それだけだと、〈かたち〉と区別がつきませんね。ほかには、どんな意味がありますか。

中:続いて、②「(形)証拠に残すしるし。保証のしるし。⇒抵当。「カメラを借金の――に置く」があり、さらに③「(型)ある物のかたちを作り出すためのもの。鋳型。……」という具合に、何と!①から⑫まで意味が区別されていて、それに「形」と「型」のどちらか、もしくは両方、という仕方で、漢字があてられています。〈かたち〉に比べると、〈かた〉は複雑ですねぇ。

直:おっしゃるとおり。わずか二文字の〈かた〉という日本語に、いろんな要素が含まれていて、考える材料に事欠きません。ここまで猛志君、何か気になることはありませんか。

猛:①の説明だと、〈かた〉はそのまま〈かたち〉を意味するから、この二つを区別する必要がありません。ところが、②や③の説明を聞くと、〈かた〉には明らかに〈かたち〉とは違った意味が含まれているように感じられます。この二つの語は、いったいどういう関係にあるのか。頭が混乱しそうで、よくわかりません。

直:ごもっとも。話がややこしくなるのは、〈かたち〉と〈かた〉には、もともと同じことを意味するという面、意味を区別しなければならない面、この両方が入り混じっているからです。先ほど辞書で挙げられた①③のうち、①は同じである面、②③は区別される面に関係します。

猛:気になる点があります。漢字の表記だと、ふつう〈かたち〉は「形」、〈かた〉は「型」というふうに表記されます。先生は、最近その区別をせずに、〈かたち〉〈かた〉というように、仮名書きされています。何か理由があるのですか。

中:私も同じ疑問を感じていました。ひらがなで書くと、漢字から受けとれるような意味の違いが消えてしまうのではないか。そんな印象を受けます。

直:そこが非常に重要なポイントです。二つの言葉が、まったく同じ意味ではなく、さりとて別々に切り離して扱うこともできない微妙な関係、一にして二であるような「不一不二」の関係にあることを書き表すためには、仮名書きで〈かたち〉と〈かた〉――「ち」があるかないかの、わずかな違い――を使い分けることが、決定的に重要なのです。

中:とおっしゃると、「形」「型」という漢字の表記では、そういう違いが表現されない、ということになるのですか。

直:そうです。私がこの点に気づいたのは、20195月、ソウルで開かれた国際ワークショップで知り合ったホイ・ユク(Hui Yuk)から、漢字の「形」と「型」には、私がそれらの文字によって表そうとするような意味の違いはない、と指摘されたときです。しかし、〈かたち〉と〈かた〉は、元々日本語として、中国語にはない意味のつながり――意味連関――をもっています。それを活かそうと考えて、それ以来、私の書くものは、すべて仮名表記に統一しているのです。

猛:そういう事情があったとは、知りませんでした。僕が気になるのは、〈かた〉には〈かたち〉にない意味があるとされる、そちらの違いです。〈かた〉にあって、〈かたち〉にない意味とは何でしょうか。

 

痕跡(見えないもの)

直:さっき挙げられた②③の意味は、〈かた〉が〈かたち〉とイコールでないことを表しています。②の例――「借金のかた」――から解るように、〈かた〉(質)となるのは、元の物(借金)とは違うけれども、その物のもつ価値に相当する何か、つまり「抵当」です。

中:「質」が〈かた〉を意味するというのは、はじめて聞きました。なるほど。質草となる品物と支払われる金額とは、等価ということになりますか。

直:いちおう、そういうことになります。この場合の〈かた〉(質)は、〈かたち〉とは違っているけれども、同等の価値があると見られるわけですから。

猛:しかし、そういう意味と、③の「ある物のかたちを作り出すためのもの」という意味とは、違うと思います。「鋳型」のような例は、どう考えたらよいのでしょうか。

直:非常に本質的なポイントを突いてきましたね。おっしゃるとおり、鋳型と、そこに材料を流し込んでつくられる鋳物とは、違います。鋳型のような〈かた〉と、それによってつくられる物とは、等価ではありません。そこで、〈かた〉を元にして〈かたち〉が作られる、という点に注目すれば、〈かた〉は〈かたち〉を生みだす根源・原理であるとして、この二つを区別しなければならなくなります。

猛:〈かた〉は原理で、〈かたち〉は製品、という区別が成り立つわけですね。それじゃ、〈かた〉と〈かたち〉とは、違う次元の存在だということになってきますね。

中:チョット待ってください。猛志君のように〈かた〉と〈かたち〉とは「違う次元の存在」なんて言われると、素人の私でも口をはさみたい気持ちになります。鋳物であれば、鋳型にかたどられて、はじめてその〈かたち〉ができる。ということは、〈かた〉はもともと〈かたち〉をもっている、ということでしょう。ですから、何と言うか……、〈かた〉と〈かたち〉とは、ほとんど同じものだ、と言えるのではないでしょうか。

直:いま中道さんは、自分の言葉で、〈かた〉の意味に迫ろうとされた。素晴らしい、拍手です。

中:いや、お恥ずかしい。〈かた〉と〈かたち〉とは、ほとんど同じものだ、と自分から言っておきながら、「鋳型」と「鋳物」とはやっぱり違うのだ、と。このことを説明しなければなりません。私の手に余る問題のようです。

直:電子辞書を、もう一度引いてみてください。たくさんある〈かた〉の意味の中に、「痕跡」「形跡」というような説明はないでしょうか。

中:ありました。⑩「もと何かがあったことのしるし。あとかた。形跡」というのが、出ています。これを言われているのでしょうか。

直:それです。手っ取り早く言ってしまうなら、「あとかた」のように用いられる場合の〈かた〉は、いま目の前にある物の〈かたち〉とは違って、もはやそこには存在しないものを意味します。「形跡」とか「痕跡」と言われるのは、それ自体として目に見える何か、つまり〈かたち〉でありながら、それが指し示すのは、消えてしまってここにはないもの、の方です。私の言っていることは、お二人に通じていますか。

中:何とかついていけますが、何か具体的な例をお願いします。

直:それじゃ一つ、いま思いついた「雪男の足跡」を例にしましょう。「雪男」とか「イエティ」と称される生き物が存在するという噂は、昔からよく耳にします。ヒマラヤのような高山地帯に棲んでいて、ヒトの一種であるとか、いや類人猿であるとか……。実物の目撃情報以外で、よく取り上げられるのは、雪男の足跡、つまりその存在を物語る「痕跡」です。足跡は一つの〈かたち〉ですが、同時にそこにはいなくて、どこかにいるらしい存在を証拠立てる〈かた〉でもある。この例でいかがですか。

猛:「雪男」の例は、おもしろいと思います。ですが、雪男が「どこかにいる」というのは、あくまでもその存在を信じる人の言い分で、信じない人にとってはデマにすぎません。存在するかしないか、判らないものについて、「痕跡」「形跡」なんてことが言えるのですか。

直:さすが猛志君、〈かた〉の本質に関係する鋭いツッコミが入りましたね。「雪男の足跡」と見られるものが、本当に雪男の存在と結びつけられるかどうか、何とも言えません。それが、ヒトとは別の大型獣の足跡だと判った場合、それは「痕跡」という意味を失ってしまいます。その反対に、もし雪男の存在が目撃されて、それとその足跡との関係が確認されたなら、それを〈かた〉や「痕跡」と呼ぶ理由もないことになるでしょう。

中:抽象的な思考に慣れていない私ですが、いまおっしゃったことから、〈かた〉がどういうものかが、少し見えてきたような気がします。こういうことではないでしょうか。目に見える〈かたち〉――この例では、足跡――が、それとは違う何か――雪男――に結びつくとき、〈かた〉と呼ばれる。しかし、〈かた〉が意味する「雪男」が、本当に存在するかどうかは判らない、と。

直:ブラヴォー、そのとおり!〈かたち〉が目に見えない何かに結びつけられるとき、それは〈かた〉と呼ばれ、〈かたち〉から区別される。そういう微妙な考えを、よく理解されたな、と感心します。

猛:「雪男」のような未確認生物だと、それが存在するかどうかは判らない。けど、先ほどの「鋳型」のように、それ自体としてハッキリ存在する〈かた〉もあります。〈かたち〉に対して、〈かた〉が表すものは、存在するのか存在しないのか。いったい、どちらなのですか。

直:「哲学」らしい答え方をするなら、〈かた〉は、存在と非存在のどちらかではなく、両方、有と無の両方に開かれています。といっても、これでは中道さんから「抽象的すぎる」というクレームがつけられそうです。哲学的で難解な議論は棚に上げて、ふつうに〈かた〉が実践される世界、芸能や武術のような伝統文化を例にして、〈かた〉の本質を考えてみることにしましょう。

 

講義:〈型〉の日本文化

日本は〈型の文化〉である、とよく言われます(以下、〈かた〉以外に〈型〉の表記も使用)。日常生活の隅々にまで、いろんな〈型〉が浸透しているほか、特に〈型〉の習得や発展を目的として営まれる文化領域も多数あります。生活の作法として修められるお茶(茶道)や活け花(華道)といった稽古事、昔から今日に伝わる伝統芸能、身心の鍛錬をつうじて高い精神的境地をめざす武術(柔道、剣道、etc.)など、そのほとんどに「道」の名がつけられています。「道」というのは、文字どおり延々と続く修業のプロセスを表し、その過程は、すべて〈型〉に関係しています――中国から来た「道」の考えは、もともと道教に由来し、東アジア文化の核心に位置する根本的な思想ですが、今回の講義の中では、それに立ち入ることはできません)

日本的な〈型の文化〉が、可視的な〈かたち〉と不可視の何か(X)の両方にまたがる営みであることを、ここから説明します。たとえば、武術の一種である空手について。私はまったく不案内ですが、基本技とされる「突き」や「蹴り」が、やみくもな動作ではなく、一定の〈型〉にしたがって実行されるということは、どんな素人でも知っていることです。初心者が、そういう〈型〉を修得するということは、師範が模範的な演武によって、また教則本や口頭での指示をつうじて、弟子に教えていく。そういう〈型〉は、身体的実践と言葉による説明のいずれか、もしくは両方によって、具体的に示される〈かたち〉を表します。弟子は、手本としての〈型〉をなぞる(模倣する)ことによって、それに近づくことが期待されるのです。この場合、師範が自らを手本として演じる動作が、まさしく〈型〉を表します。その場合の〈型〉は、「理想化されたモデル」という意味での、具体的な〈かたち〉です。そういう条件のもとに、〈型〉は〈かたち〉と一致します。空手の競技会では、「形」(〈かた〉と呼ばれる)という種目があって、試合のように相手と闘うことなく、空手としての理想的な所作を演じて、その完成度を競うものです。具体的な〈かたち〉イコール〈かた〉という思想が、種目名からも読みとれます。

さて、ここまで空手の世界では、特別に優れた価値をもつ〈かたち〉が〈型〉と呼ばれることが判りました。ということは、〈かたち〉と〈型〉には、それ以外の違い、本質的に異なる点はない、ということでしょうか。先ほど指摘したとおり、〈かた〉には「あとかた」「痕跡」といった意味がある。目に見える何らかの〈かたち〉を介して、そこにはない不在の何か――とりあえず「X」とします――を指し示す。これが、〈かた〉を〈かたち〉から区別する、決定的なポイントです。〈かた〉は、一方では可視的な表現――かたち――を表しながら、その反面では不可視のXへと開かれている。本講義の直前に、〈かた〉は存在と非存在、有と無との両方に向って開かれている、と抽象的に表現したのは、そういうことです。〈かたち〉は、そういう〈かた〉のもつ一面、「存在」「有」という面だけに着目した日本語です。それに対して、「非存在」「無」に関係する場合には、〈かたち〉から「ち」の一字がとれて、〈かた〉になる。〈かたち〉と〈かた〉には、文字どおり「ち」が付くか付かないかの、軽微な違いでありながら、本質的な区別があると考えなければなりません。

いま最後に述べたことは、私の創見ではありません。向井周太郎『かたちのセミオシス』(思潮社、1986年)の中で、日本語の〈かたち〉を〈かた〉+〈ち〉から成るものとする着眼が示されています。その内容について、中村雄二郎『かたちのオディッセイ』(岩波書店、1991年)は、次のように紹介しています。

  すなわち、〈かたち〉の〈ち〉は、〈かた(象)〉の方向を示す接尾語であるという説と、〈いかづ(雷)〉、〈をろ(蛇)〉、〈いの(命)〉などの場合のように自然の根源的な激しい力〈ち(霊)〉を意味し、〈かた〉が生きている姿であるという説とがある。しかし、〈いのち〉が〈い(息)+ち(自然の力)〉つまり〈自然の勢い〉を意味するものであってみれば、後者の意味のほうが妥当であろう(同書68頁、ゴチは強調点の代り。)。

中村氏は、〈かたち〉の〈ち〉が、「自然の力」を意味する、という後者の説に軍配を上げていて、私もそれに賛同します。しかし、このことだけでは、〈かた〉が表す「X」は、存在するのか存在しないのか、という先ほどの猛志君の問題に答えることはできません。ですが、講義はこのぐらいで切り上げ、対話に戻りたいと思います。

 

有と無のあいだ

直:できるだけ具体的な例を挙げて、〈かた〉の二面性を説明したつもりですが、どうでしたか。

中:空手の例などを挙げて、私どもにも解るように工夫されたお話だったと思います。とはいえ、これまで聴かせていただいた講義の中で、いちばん難しいというか、ハイレベルの内容だと感じました。

直:あなたが感じた「難しさ」について、どういうあたりかを、もう少し説明していただけませんか。

中:〈かた〉というものが、理想的な〈かたち〉の一種であるとされた、その点は呑みこめました。しかし、その反面で、〈かた〉が「不可視のX」に開かれている、とおっしゃったあたり。へー、哲学は難しいことを考えるもんだなあ、というのが率直な感想です。

直:猛志君はいかがですか。

猛:哲学の勉強をしている僕にとっては、「不可視のX」に引っかかるということはありません。それに似た言葉として、カントの「物自体」だとか、「本体界」だとか、いろいろありますから。ただ、先生のおっしゃる〈かた〉は、西洋の形而上学で問題にされるような「存在」とは、だいぶ違っているように感じられます。というのは、「X」とされるものが存在するのか存在しないのか。お話を伺っただけでは、どっちかがハッキリしないからです。それは、いったいどういうものでしょうか。

直:〈かた〉の先に想定されるものを、「不可視のX」と呼ぶだけではすまされない、ということですね。君が研究してきた形而上学は、「存在」と「非存在」とを明確に区別します。存在でも非存在でもあるとか、存在でも非存在でもない、といった言い回しはとられません。ところが、私のいう「X」は、存在と非存在のどちらとも言えない何か、しいて言うなら、有と無の〈あいだ〉と呼ぶしかない何かなのです。

猛:「X」と名づけられたものは、「存在」じゃないのですか。だったら、「非存在」つまり「無」だということになる。でも、こんなふうに言い返すと、お前にはレンマが解っていない、とやっつけられそうですが。

直:どういたしまして。そんな断定的なことを申し上げる気はありません。

中:お二人から置いてけぼりを食いそうな当方としては、このさい、一つだけ素人臭い質問をさせていただきたいのですが……

直:何でもどうぞ、ご遠慮なく。

中:〈かたち〉と〈かた〉をめぐる今回の対話は、私にとってものすごく身近なテーマでした。まず、このことから申し上げます。私は昔から能楽に興味があって、下手の横好きで、謡の稽古もしていた時期があります。能は、〈型の文化〉そのものだと思います。先ほどおっしゃったように、能の〈かた〉は模範的な〈かたち〉そのものです。ですから、稽古は、その〈かたち〉をまねることに費やされます。そうして、一つの〈かた〉がマスターされても、修業はそれで終わりません。その段階から次のステップへ、さらにその次へ、と進んでいって、はてしなく続くとされています。このことと、〈かた〉の先に「不可視のX」があるとされたことには、何か関係があるのでしょうか。

直:中道さんは、私から申し上げようとして、ふれないままに来た本質的なポイントを見事に挙げられました。おっしゃるとおり、「道」が想定する無限の過程と「不可視のX」とは、深くつながっています。

中:よく解らないながらも、いまおっしゃったことには非常に興味があります。修業の道が無限であるということと、「不可視のX」とがつながっているとは、どういうことでしょうか。

直:その理由は、〈かた〉が固定されないというか、固定されてはいけない、ということにあります。ふつうに〈型〉という言葉を使うとき、決まったやり方、パターン、といったものが連想されます。ですから、「固定されない型」という言い方は形容矛盾です。芸能の世界では、一つの〈型〉の習得をめざして、稽古が繰り返される。その結果、目標が達成された、と師範が認める段階に到達します。猛志君、そういう段階を何と言いますか。

猛:剣道なら「免許皆伝」。そこに至って、うやうやしく奥義が授けられる。そんな場面を、時代劇でよく見かけます。

直:そう、そのとおり。ですが、問題はその先です。中道さん、修業はそこで終わりますか。

中:私の理解では、「免許皆伝」は、そこから再スタートするための中間点、小休止のようなものだと思います。だって、修業の「道」には最終到達点がないわけですから。

直:そこで重要になるのが、「型破り」「型くずし」と呼ばれる否定の契機です。〈型〉は、最初は目標になるとともに、そこに到達したとたんに否定されなければならない障害物となる。肯定と否定の契機を同時に含む、という矛盾したあり方をしています。

猛:ひとつの目標が達成されたなら、それに代わる別の目標が現れる。そんなことは、日常当たり前の出来事であって、矛盾でも何でもないじゃありませんか。

直:君がそんなふう考えるのは、〈かた〉が〈かたち〉に関係し、〈かたち〉と一体で発展していく運動を、視野に入れていないからです。

猛:そう言われても、〈かた〉と〈かたち〉の関係がどういうものか、くわしく説明されない現時点では、ピンときません。

中:こんなふうに考えてもよろしいでしょうか。一つの〈型〉が成立しても、それで終わりではなく、次の〈型〉が現れ、さらにその次の〈型〉が現れてくる……というように、最終目標が何になるかは、窺い知ることができない。だから、そういう何かを「不可視のX」としておく。

直:そのとおりです。今回の対話は、ここまで。引き続き、いまあなたが要約されたポイントを、〈かたち〉と〈かた〉の関係に即して、明らかにしていきたいと考えます。

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