毎月21日更新 エッセイ

欲望と技術(1)――欲望を飼いならせるか

新しいシリーズへ

直言先生:元旦早々、能登半島の大地震、羽田空港の飛行機事故と相次ぎ、大変な年明けになりました。お二人のスタートは、いかがでしたか。

中道さん:何が起こるか分からない年明けで、これから先が思いやられます。私の周辺は何事もないのですが、おのれの太平無事を喜ぶだけでいいのだろうか。そんな気がするこの頃です。

猛志君:中道さんと同じように、世の中の動きが気になって、あまり学業に身が入りません。能登の中学生や高校生が、家を離れてよその土地に避難しているというニュースを聞くと、いたたまれない気持ちになります。

直:私もお二人と同様です。異変の続く世界情勢と大災害を前にして、対岸の火事ではないという生々しい実感が、29年前の阪神・淡路大震災の記憶と重なって浮かんできました。こんな時期に何を対話のテーマにしたらよいのか、悩みました。

中:「欲望と技術」という全体テーマは、これまでのシリーズとだいぶ雰囲気が違います。どうして、このテーマを選ばれたのでしょうか。

直:先月の年頭所感(「新着情報」)を読まれたなら、こちらの意図は察しがつくのではないか。そう思いますが、どうでしょうか。

猛:ハハーン。ということは、生成AIの開発に待ったをかける内容のエッセイ、そこから「欲望」の問題に入っていくのが、狙いだということですか。

直:お察しのとおり。私としては、年頭のあいさつという形を借りて、ハイテクをめぐる現状に異議申し立てを行ったつもりです。その切り口が、「欲望」になります。

中:「欲望」という言葉は、〈欲望の論理〉というタームとして、ご本の中によく出てきます。風土学にとって、重要なキーワードだと受けとめています。でも、私からすると、今回のテーマ「欲望を飼いならせるか」に、チョット引っかかる点があります。

直:そうですか。「引っかかる」というのは、どういう点でしょうか。

中:欲望を「飼いならす」というフレーズの意味が、ハッキリしません。欲望を「抑える」とか、「制御する」とか言われたなら、その意味することの見当がつきます。けれども、「飼いならす」というのは、どういうことを意味するのか、私には見当がつきません。

猛:僕も中道さんと同じように、疑問があります。以前の対話で、「アル中」(アルコール依存症)について先生と議論したさいに(『〈出会い〉の風土学――対話へのいざない』幻冬舎、2018年、48-49頁)、先生は欲望を乗り越えるためには、欲望そのものと正面から向き合う必要がある、と主張されました。当時そのことから、先生は欲望の克服を考えておられる気がしたのですが、そうではないのですか。

直:おっしゃるとおり、当時の私は欲望を標的に掲げ、それが打倒されなければならない敵だと考えていました。その考えの大元は、いまも変わりません。

猛:ならば、どうして欲望を「飼いならす」という表現をされるのですか。その言い方だと、欲望を肯定しているようにしか聞こえません。

中:私の方は、欲望を一概に否定することはできないし、欲望があるからこそ社会が進歩する、という言い方をしたこともあります。その点で、先生とはスタンスが違うのかな、という印象を抱いたこともあります。そういう先生のお考えが、もし変わってしまったとするなら、どうしてなのか気になります。

直:お二人のご不審はもっともです。私のテーマは、欲望を「克服する」から、疑問形の「飼いならせるか」に変わりました。それはどうしてかを説明することが、今回の対話の目的になります。その手はじめに、これまで私が使用してきた〈欲望の論理〉という表現の意味を振り返ることから、始めることにします。

 

講義:〈欲望の論理〉再論

 〈欲望の論理〉というキーワードが最初に登場したのは、「自著を語る」シリーズの初回で取り上げた『風土の論理――地理哲学への道』(ミネルヴァ書房、2011年)の「序章 〈問い〉の構造」です。そこでは、風土学が担う近代批判の契機は、「近代と「近代化」を支配してきた〈欲望の論理〉を、一つの〈構造〉として把え、その〈構造〉を解体するための実践を構想すること」(11頁)であると書いています。風土学をうちたてることの狙いは、西洋に成立した近代と、それに追随する他地域の「近代化」に照準を合わせ、それが孕む問題の〈構造〉を明るみに出すこと。そういう問題の〈構造〉が、〈欲望の論理〉と名づけられたわけです。近代と「近代化」のどちらもが、〈欲望の論理〉に根ざしているという考えが、これ以後の著作を生み出す重要なモチーフになっています。私の代表作と自負する『邂逅の論理――〈縁〉の結ぶ世界へ』(春秋社、2017年)の中で、〈欲望の論理〉は二つの章(第一章、第三章)にまたがって論じられ、追及が行われています。以下、そのあらましを紹介します。

 欲望の主体は個々の人間ですが、『邂逅の論理』では、特定の誰かではなく、人々が集まってつくる共同体としての国家が、欲望の主体となるケースを問題にしました。国家を擬人化することに疑問を抱かれる向きもあるかもしれませんが、世界史では、「ロシアがバルカン半島の権益を狙う」というように、国家を人格化する記述が当たり前に行われます。そういう擬人化が許されるなら、「近代は、西欧が非西欧に向ける欲望から始まった」という主張の意味するところ――当否は別にして――は、理解していただけるかと思います。国家が、他の国家に対して欲望の目を向け、実力行使を行ったことは、西欧の国々が西欧以外の国々を侵略し、その資源を強奪したうえ、その国土を植民地として支配した歴史的事実が物語るとおり。ドギツイ言い方をすれば、西欧が光り輝く近代文明を確立できたのは、非西欧を餌食とすることによってです。『邂逅の論理』第一章は、そういう結果をもたらした原動力を、〈欲望〉という心理的機制として論じています。

 もっと重要なことは、ここでいう欲望が、特定の個人が何ものかに向ける気まぐれな心の動きなどではなく、明確で具体的なメカニズムをもつ〈システム〉として、国家や民族を支配しつつ機能してきた、という事実です。この点に、拙著が〈欲望の論理〉という言い方を選ばざるをえなかった最大の理由があります。というのは、もし欲望が個人的な心の働きにとどまるのであれば、その〈論理〉を問題にする必要はないと考えられるからです。

 さて、欲望の〈論理〉とは何か。それは、近代をしるしづける社会的心理である。というより、その働きによって近代が生まれた、といえるような、近代誕生の原動力です。〈欲望の論理〉は、デカルトがうちたてた主客二元論を表層、フロイトが無意識のエネルギーとして解釈した「欲動」(リビドー)を深層とする精神構造である、という説明を拙著の中で行いました。これ以上ないほど簡単な図式ですが、西欧に成立した近代と、西欧から発して世界中に広がった「近代化」の動きが、これによって説明されます。それが〈論理〉であるという理由は、欲望が個々人に内面化されることで、近代人のパーソナリティが形成されると同時に、個人を成員とする集合体、地域から国家に至るまでの社会、さらに西欧という〈世界〉の全体が、それに従って動くメカニズム、「欲望=機械」(ドゥルーズ-ガタリ)として機能するということです。このことを私流の〈かたちの論理〉に沿って言い換えるなら、個人の欲望という〈かたち〉が、社会全体の欲望という〈かた〉に関係して、双方がたがいに強め合うような一体化が成立する、ということです。

 個人的心理としての欲望が、社会全体を特徴づける欲望と一体不可分であるという事実。この事実が、〈かたちの論理〉によって説明されるということに、このほどようやく気がつきました。私の欲望と私以外の人々が抱く欲望とは、密接に連動しています。他人は他人、自分は自分、といって別々に考えることのできない事情が、欲望の問題に潜んでいます。近代を動かし、形成してきた欲望。それをもし「克服」しようというのであれば、個人と全体、〈かたち〉と〈かた〉とが不可分に一体化して働くメカニズムを、とりあえず〈論理〉と名づけて、その仕組みを明らかにしなければなりません。〈欲望の論理〉を〈かたちの論理〉として解明することが、課題になるのです。

 講義はここまでにして、お二人との対話に戻りたいと思います。

 

欲望との付き合い方

中:以前の『邂逅の論理』(2017年)では、欲望が南北問題を生じさせる原因だとして、強く批判されていたように記憶します。ただいまの講義では、そのことよりも、〈かたち〉と〈かた〉に当たる個人の欲望と全体の欲望との関係が、クローズアップされていたように思います。〈欲望の論理〉の意味が変わったのかな、という印象です。

猛:僕も中道さんと似た印象です。以前の説明では、欲望が「北」の先進国から「南」の途上国に転移することによって、欲望のグローバリゼーションが成立する、という図式が示されました。ところが、いまの講義では南北関係に全然ふれられませんでした。

直:お二人とも、ごもっとも。近代および「近代化」と南北問題とが、本質的に一体であるという当方の事実認識は、何も変わりません。当時の主な関心は、環境問題の根本が南北問題である、という主張にありました。ただ今回は、欲望との付き合い方を主題化するという観点から、個人と社会の関係性をクローズアップしたまでのこと。それによって、〈欲望の論理〉が〈かたちの論理〉の一種である、という事実が浮かび上がったわけです。

中:いま「欲望との付き合い方」という言い方をされました。そのことが「欲望を飼いならせるか」というテーマの意味だと考えてよろしいのでしょうか。

直:そうです。かつてのアプローチでは、〈欲望の近代〉を全体として俯瞰することはできても、問題の実質にどう切り込んでいくかについて、具体的な手順が見つかりませんでした。欲望を「克服する」ことが、欲望そのものを否定することだというのでは、あまりにも単純すぎて、話にならない。かといって、欲望の増殖をただ黙って見ているだけ、というのも無策に過ぎる。欲望の全肯定でも全否定でもない、いわば中間的な〈あいだ〉を探りたいという思いが、今回のテーマにつながったわけです。

猛:おっしゃることは分かるのですが、欲望を「飼いならす」という表現が気になります。その言い方だと、まるで飼い犬のように、欲望がコントロールされるものだ、というイメージが浮かんできます。

中:私は一匹犬を飼っていますが、これが飼い主に忠実であるかと思いきや、ときどきこちらの制止を聞かずに暴れまくるかと思えば、叱った私の手に嚙みついてきたりする。ほとほと手を焼かされる相手です。犬一匹でも、「飼いならす」ことは容易ではありません。

直:中道さんの出された例は、何かを飼いならすことの難しさを物語る好例です。実は、私がこの表現を用いた理由に、いまおっしゃった点が関係しています。

中:それはまた、どういうことでしょうか。「飼い犬」と「欲望」とに、何か似たところがあるということでしょうか。

直:私の考えでは、そうなります。もちろん、この二つは同じではない。飼い犬は、飼い主に養われているとはいえ、飼い主から独立した主体です。欲望は、それとは違って、人間から独立した存在ではありません。人間のうちに潜み、精神の一部として働くものです。ところが、欲望は人間によるコントロールを脱して、逆に主体である人間を、奴隷のようにおのれに従わせる。その凶暴さは飼い犬とは比較にならない、といってもよいほどです。

猛:ペットなら、飼いならすことができる。しかし、欲望の場合は、それを飼いならすことができるか、「?」ということですね。

直:そう、その「?」がつく形で、欲望との付き合い方を考えてみよう、というのがこのシリーズの狙いです。

猛:先ほど引き合いに出したアル中の例について、もう一度お訊ねします。以前の対話の中で、先生はアル中の治療に当たって、事実に向き合うことから始める以外にないと言われました。その事実を明らかにするのが、〈欲望の論理〉じゃないかと思うのですが……

直:病気を治すには、病態をよく観察して、そこに至った原因を突き止めることから始める以外にない。社会の病的な状態から、主客二元論とリビドーの結合が、近代のもたらしたさまざまな病気の二大要因であることを突きとめた。ともかく、その事実から出発するために、〈欲望の論理〉という呼び名を考えつきました。ここまでは君の言うとおりです。しかし、それだけでは何の解決にもならない。喩えで言うなら、無意識の欲望は、凶暴な飼い犬。それとどう付き合っていけばよいのかを、飼い主の立場で考えなければならない、ということです。

 

AIの「新しさ」とは?

中:ここまで議論に参加しておきながら、いまごろ持ち出すのは恐縮ですが、私にはどうしても腑に落ちない点があるのです。ここでそれをお訊ねしても差し支えないでしょうか。

直:どうぞ、何なりと。

中:猛志君は了解されたようですが、年頭所感のエッセイで、ChatGPTのような生成AIの開発そのものを問題にされた、そのことです。生成AIの何がいけないのか。先生は、人間がコントロールできない技術の前例として、原子爆弾を挙げられた。その意味はよく分かりますし、原爆の開発は間違いだと思います。しかし、それとAIとは違います。AIは人間社会にさまざまな恩恵をもたらしていますし、われわれの日常生活になくてはならないことが明らかです。その開発や利用に待ったをかけようとされる理由が何なのか、私には釈然としません。

直:そのご意見を期待していました。いまだにスマホの使用にすら踏み切っていない私ですが、日常生活の隅々にまでAIが入り込んで、便利で快適な生活を送るための必須条件になっています、もはやAI抜きの暮らしは考えられないほどに。その事実を認めたうえで、しかしそこからChatGPTのような技術の開発に向かうことは間違いであって、やめるべきだと申し上げているのです。AIと生成AIとを区別する、そこにポイントがあるのです。私の言うことが、お判りになりませんか。

中:ふつうのAIは認めるが、生成AIは認めないと。そうおっしゃっていることは分かりましたが、両者を区別される理由が何か、もうひとつよく分かりません。

猛:僕から言ってよいのかどうか。先生は、人間が主体的にコントロールできる技術は認めるが、人間のコントロールできない技術は認めない。そういう考えをおっしゃっているように思いました。それで間違いないでしょうか。

直:そのとおりで、間違いありません。これまで開発されてきたAIの技術は、それが使用される目的が限定され、何のための技術かが明らかでした。それが、生成AIになると、それを利用することの目的や意味が分からない。それは「人間のための技術」ではなく、「技術のための技術」だと思われる。そんなものに手を出すことは、人間の破滅行為であると言いたいのです。

中:ChatGPTによる作文は、利用者に予想のつかない作品を生み出す可能性があります。ということは、それを利用することによって、これまでなかった「新しい作品」が生まれるということです。「新しい作品」をもたらすために、という目的があるのなら、生成AIを認める条件になるのではないでしょうか。

直:「新しい」とおっしゃるけれども、専門家に聞いたところでは、本当に新しいものなど何もありません。生成AIが取り扱うのは、既に存在する情報のデータだけであって、そういう既存の情報が、人間には見当のつかない複雑な計算過程をつうじて処理されるので、そこから何が出てくるのかは予見できない。結果が予測できない点を取り上げて、「新しい」とか「珍しい」とか言って、騒いでいるだけの話です。猛志君、君はChatGPTを使って作文したことはありますか。

猛:自分ではありませんが、友人がそれで「論文」を試作したのを見たことがあります。

直:その印象はどうでしたか。「新しい」ものが感じられましたか。

猛:チョット見の印象ですけど、少なくともそこに新しい何かがあるとは感じられませんでした。いかにも論文らしい文章ですけど、何ていうか、人間の書いたものらしい感じがしませんでした。

中:先生に猛志君まで、「新しさ」を否定されたのなら、これといって反論できる材料はありません。ただ、AIが人間に代わってそれらしい文章をつくることができたとしたら、それ自体が「新しい」ことではないでしょうか。私としては、そういう新しさを追求する行為の意義は否定できないように思われますが……

直:生成AIは、それまで人間の世界に存在しなかった技術の出現を表している。その事実が「新しい」ということは、誰も否定できません。問題は、ここで言う「新しさ」が、人間にとって期待される価値を持つかどうかです。ポイントをこちらに移しましょう。この点については、どうですか。

中:生成AIが人間に価値をもたらすかどうか、という難しいお訊ね。そんなことを考えたことがない私には、いまの時点では何とも答えられません。申し上げられるのは、現段階でハッキリした価値が見つからないとしても、今後の技術の発展次第で価値が生まれてくるのではないか、ということだけです。

直:なるほど、そういう考え方もあるでしょうね。猛志君は、どうですか。

猛:AIも含めたハイテク全体が、人間の働きに取って代わり、人間を不要にしていくのではないかと言われています。人手不足の世の中で、AIが役に立つ状況は、間違いなくあると思います。

直:君は、その状況についてどう考えますか。率直な意見を聞かせてください。

猛:よく分からない、というのが正直なところです。ハイテクのメリットは認められるが、それがどんなリスクをはらんでいるのかについてまで、判断できる材料が僕にはありません。

 

問題の所在

直:お二人の立ち位置は、どうやら私とほとんど同じ。ハイテクの将来について、確たる見とおしがないまま、漠然とした期待ないし不安に包まれている、というところでしょうか。もしお二人との違いがあるとすれば、哲学にかかわってきた一人として、この問題に対して明確な態度表明が必要だと考えている。この一点だけです。

猛:「年頭所感」には、生成AIの開発に反対するという先生の姿勢が、はっきり打ち出されていました。けれども、その主張の根拠が何かについては、それほど明確ではなかったと思います。

中:その意見に同感です。ChatGPTの何がどう問題なのかを、先生は説明されていません。何となく反対、といったことだけでは、主張として弱いように感じられます。

直:「何となく反対」では、主張として弱いと言われれば、まさにそのとおり。ですが、そんな印象を生じさせるようにしか、批判ができないところに、この問題の急所があるのです。私の言いたいことが、お分かりになりますか。

中:何をおっしゃっているのか、全然分かりません。

直:そうでしょう。一般の人間には善し悪しが判らないような仕方で、物事が進行する。それがハイテク化の実状です。どこでその動きにストップをかけたらよいのか、立ちどまって考える暇がないまま、なし崩し的に事態が進展していき、そうした折々に「成果」と称するものが公開される。「そんなものは要らない」と言おうにも、そのタイミングが見つからないまま、事態が進行する。もはや後戻りができないのです。われわれが生きているのは、技術の独り歩きに歯止めをかけることができなくなっている、そういう社会だということです。

猛:いまの説明を聞いて、先生はChatGPTのような技術自体よりも、それを受け容れる社会のあり方を問題にされているのかな、という気がしたのですが。

直:猛志君らしい、急所を突いたご意見です。そう、そのとおりと言いたいところですが、問題はそう単純ではない。技術開発自体とそれを認める社会の両方に問題がある、というのが私の考えです。二つの事柄は、根っこのところで結びついているけれども、別々に分けて考えた方がよい。そう思います。

中:お言葉を返すようですが、技術の開発は社会のニーズにもとづいて行われています。現在のハイテクも、便利さを求める社会の要求に、科学者・技術者が応じるところから生まれてきました。技術の成果と社会の要求とは、もともと一体だと思います。

直:こちらが前例に挙げた原子爆弾の開発も、社会の要求から生まれたという点では、まさにおっしゃったとおりです。そこから引き出される教訓は、悪魔の兵器を生み出した社会、大きく言えば文明社会の全体を、当の技術もろとも批判して乗り越えなければならない、ということです。人間の幸福につながらない技術、そういう技術を受け容れるばかりか、さらに促進してしまう社会、この両方を根本からつくりかえなければならない。私の思いは、そういうところにあります。

猛:久々に先生らしい直言を耳にしました。どうやら2024年は、いまおっしゃった問題についての風土学的展開が見られそうです。いま先生が、そのあたりについて、何を考えておられるのかを聞かせてください。

 

今年の抱負

直:お二人に向って大きなことを口にした手前、後には引けなくなりました。まだ何も具体的な予定はありませんが、当面ヴィジョンとして温めているのは、技術との関連を明らかにする方向で、〈欲望の論理〉を書き換えるということです。

猛:今日の講義で取り上げられた〈欲望の論理〉は、これまでとは違って、個人と社会とを一つにするような欲望の〈構造〉がある、というお話でした。そういう点を、もっと掘り下げるということでしょうか。

直:そうです。欲望が個人の心理的機制であると同時に、社会全体の構造であるという認識を、〈欲望の論理〉として明確にうちだしたい、と願っています。

中:そういう方向で考えられるということなら、今回問題にされた生成AIのような個々の技術について、個別にその善し悪しを論じることはされないということでしょうか。

直:そんなことはありません。技術自体の善悪を問題にすることと、そういう技術を生む〈構造〉を具体的に解明すること。この両面作戦をとるつもりでいます。

中:いまおっしゃったうちの前者、たとえばChatGPTに関して、それがよくないという判断は、どこから出てくるのでしょうか。

直:私がいま読んでいるプラトンの対話篇には、お訊ねに対する答えと考えられるプラトンの思想が、ソクラテスの発言として示されています。「その技術自身のためをはかるものではなく……その技術が働きかける対象の利益になる」(『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、62頁)ものこそ、本来の「技術」であるという主張です。この場合の「対象の利益」とは、人々の魂を善くすること。それに対して、魂の向上に与ることのない「技術のための技術」は、経験・熟練にもとづく「迎合」にすぎない、として厳しく指弾されています。現代のハイテクの産物は、そのほとんどがここで言われる「迎合」であると私は考えます。

中:古代ギリシアで、すでに技術の本質が論じられているのですね。なるほどと感じ入りました。それに対して、素人が何も口をはさむ余地はないと思われるのですが、チョット引っかかる点があります。言ってもよろしいでしょうか。

直:それは何でしょうか。

中:「技術」と「迎合」とを区別して、その間に線を引く。その考えは分かるのですが、現在私たちを取り巻く社会の中で、そもそもどれが本当の技術なのか、そうではない迎合なのか、という区別がつかないように思えるのです。

猛:いま中道さんに言われて、僕もそんな気がしてきました。たとえば、毎日使っているスマホですが、これって「技術」なのか「迎合」なのか、よく判りません。

直:技術と迎合、そのどちらなのかが、プラトンの時代と異なる現代では、見きわめがつきにくい。その点は、おっしゃるとおりです。要不要の分別を働かせないように、欲望を無限に増殖させる社会システムが問題だ、と言ったところで、納得のいく答えになるのかどうか。難しいなあ……

猛:先生、さっきの講義の中で、〈かたちの論理〉に言及されました。個人的な〈かたち〉と社会的な〈かた〉、この二つの関係として、欲望の〈構造〉を考えるという方向が、想定されていたのではないでしょうか。

直:いや、よく思い出させていただきました。ご指摘のとおり、〈欲望の論理〉を〈かたちの論理〉の一種として展開したい、というのが今年の抱負です。しかし。うまくいくかどうか……

中:今回いろいろ失礼なことを申し上げましたが、先生の新たな研究成果を期待しています。よろしくお願いします。

直:こちらこそよろしく。今日のところは、ここまでとします。

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