前回の対話から
直言先生:新シリーズの2回目。前回は「欲望を飼いならせるか?」と題して、どちらかといえば、「欲望」に焦点を合わせました。今回は、ひきつづき「技術」に視線を向けて、いろいろ考えてみたいのですが、お二人のご意見はどうでしょうか。
中道さん:前回、すでに技術の現状について、先生から否定的なお考えが示されました。欲望を触発する原因として、技術がクローズアップされていたと思います。自分としては、柄にもなくハイテク擁護の側に立って、好きなことを言わせていただきました。先生のご気分を害したのではないか、と反省しています。
直:いやいや、とんでもない。こちらが否定する生成AIなどの開発に関して、違った見方ができることを示していただいたことには、感謝こそすれ、気分を害するなどということはありません。
猛志君:僕は、最後の方で議論された「技術」と「迎合」との違いということが、ずっと気になっています。たしか、技術は何らかの対象にとって利益になるもの、迎合は技術自体を目的にするもの、という区別が立てられていました。しかし、技術と迎合とのあいだに、そんなにハッキリした区別は立てられないのじゃないか、と疑問に思いました。
直:君は、スマホの例を挙げましたね。どうしてそんなふうに思ったのか、理由を説明してくれませんか。
猛:スマホには、それを利用する目的があって、人間の役に立つ。その点では、間違いなく技術だと思います。けれども、最近のスマホには、以前になかったような新しいアプリがいっぱい搭載されていて、当初の目的からかけ離れた利用がされている。僕の知り合いには、通話やメールよりもゲームに熱中するというように、当初の使用目的から離れてしまっている者がいます。これって、スマホが「迎合」になっている証拠じゃないか、という気がしたのです。
中:私も一応スマホを使う身ですので、ひとこと言わせてください。現在のスマホは、携帯電話の進化版というより、それ自体で完結した小型コンピューターとして認めるべきツールです。コンピューターの機能の中には、多彩なアプリが含まれていて、ゲーム機能もその一つ――私には使いこなせませんが。そういう総合的な利便性をもつことが、コンピューターという技術の本質ですから、それをいまさら技術か迎合か、などと疑っても仕方がないと思います。
直:なるほど。コンピューターが技術であるように、スマホも技術であるということですね。よく分かりました。しかし、前回引き合いに出したプラトンは、技術と迎合とのあいだに明確な一線を引いています。その理由を、ここでお二人に説明してから、技術とは何かについての議論に入りたいと考えますが、いかがでしょうか。
猛:前回説明された「技術」と「迎合」との違い、たしか技術は「何らかの対象のため」にあるのに対して、迎合は「技術自体が目的」だと言われたように記憶しますが、その違いがもう一つハッキリしません。すみませんが、技術と迎合とでは何が違うのか。何か具体例を挙げて、説明していただけないでしょうか。
直:承知しました。君と同じような思いの人も多いでしょうから、例を挙げて説明してみましょう。プラトンが挙げている具体例は、料理法と医療の技術、医術との違いです。それによれば、医術が技術であるのに対して、料理法は技術ではなくて「経験」であるとして、二つを区別しています。
猛:フーン、料理法は技術ではなく、「経験」であると。それはどういうことですか。経験と技術とでは、何がどう違うのでしょうか。
直:技術の本質にかかわる重要な質問です。その問題に立ち入ることは後回しにして、料理法に対する否定的な見方として、それが「快楽を目標とする仕事」であるから、という理由が示されています。
猛:もしそういう理由で、料理法が技術ではないとされるのなら、医術はどうして技術であると言えるのですか。医療には、身体上の不快を取り除いて快を実現する、という目標があるように思えるのですが……
直:現在の医療を見るかぎり、君の疑問はもっともです。本来の目的を忘れて、患者への「迎合」としか思われないような退廃的な医療がまかり通っていますから。それはともかく、対話篇のソクラテスの言い方では、医術は「自分が世話をしてやるものの本性をも、また自分が取り行なう処置の根拠をもよく研究していて、そしてそういったことの一つ一つについて理論的な説明を与えることができる」(『ゴルギアス』加来彰俊訳、岩波文庫、196頁)とのこと。どうですか、この点について。
猛:その意味は分かりますが、そのことは身体的な快楽とは無関係なのでしょうか。医療をつうじて患者を健康にすることで、身体的な快楽が実現すると考えても、おかしくないと思いますが。
中:私も、猛志君のおっしゃることに賛成します。たとえば、ガン手術の場合、病巣を摘出する直接的な処置以外に、できるだけ身体的な苦痛を減らすような緩和医療が主体になっています。それを一言で、「迎合」といって切り捨ててもよいのでしょうか。
直:おっしゃることは、よく分かります。高度先進医療の現実は、スマホなどのハイテクと同じく、「技術」と「迎合」との区別ができにくい典型的な例といえるでしょう。お二人に理解していただきたいのは、技術が迎合ではないと言われるときの、技術の本質的な特性は何かということです。
猛:僕が訊きたいのも、そういう意味での技術の本質です。それは、何でしょうか。
直:「魂にとっての善さ」を実現するということです。技術の目的は、「魂の善さ」(「徳」、アレテー)を高めることであって、それにつながらないような実践は、ふつうに技術と見られているような種類の行為であっても、プラトンはそれを「技術」(テクネー)とは呼びません。
猛:いまのお話は、現代の科学技術に対するイメージとは結びつきませんが、それだけに僕にとっては興味があります。
中:私も同様です。古代ギリシアの技術観をぜひ知りたい気がします。
直:ならば、ちょうどいい。古代の「技術」に対する考え方を、ここから説明しましょう。
講義――古代の技術観
プラトンの対話篇には、「技術」(テクネー)が重要なキーワードとしてよく出てきます。といっても、技術そのものが考察の中心ではなく、「正義とは何か」という「徳」の問題を追究するために、どうしてもふれなければならないテーマだからです。技術とは何か。技術は何のために存在するのか。先月の対話では、この点に関して、「それが働きかける対象のためになる」ものが技術、そうではなく「技術それ自体のための技術」つまり「技術のための技術」は、技術ではなく「迎合」にすぎない、として技術と迎合とをきびしく区別する、『ゴルギアス』の考え方を紹介しました。
この区別を引き継ぐ形で、プラトンの対話篇を代表する『国家』第一巻に、同じテーマがふたたび出てきます。そこでは、技術の探求する利益とは、「その技術がはたらきかける対象にとって利益となること」だとしたうえで、「医術は、医術の利益になることを考察するものではなく、身体の利益になることを考察するものなのだ」ということを、ソクラテスの口から明言させています(『国家』(上)藤沢令夫訳、岩波文庫、1979年、61頁)。つづいて、医術以外に馬丁の例が挙げられ、「馬丁の技術とは、馬丁の技術の利益になることを考えるものではなく、馬の利益になることを考えるものだ」として、あらゆる技術が、「その技術がはたらきかける対象の利益を考察するものなのだ」ということを強調しています。
この流儀で考えるなら、医者は医者自身ではなく、医術の対象である病人の利益を考えて治療する技術者であることはたしかです。しかし、先ほどお二人から疑問が呈されたように、技術の目的である「対象の利益」をどのように考えるかが問題になります。治療方針をめぐって、医者の見解と患者の希望が一致しないケース――例として、延命治療を望むかどうかなど――が、現代の医療現場ではしばしば生じてきます。医術の主体である医者と対象である病人自身の考える利益が一致しない場合など、当の技術がいったいだれのための技術なのかが、問われる事態になるわけです。
ソクラテスやプラトンの生きた古代には、そういう技術の目的をめぐるややこしい問題は、まだ発生していません。それなのに、プラトンが「技術」と「非技術」とを区別することに、こだわらざるをえなかったのは、どういう事情からでしょうか。そこには、『国家』がそのために書かれた理由というべき最も重要な技術、「政治」の問題が関係します。政治とは何か。国家の支配者が、人民を「よく」支配するための技術であるというのが、当時の考え方でした。その場合、「よく」支配するとは、正義に叶ったやり方で支配することを意味します。ここで『国家』が、題名のとおり国家の理想のあり方を主題とすると同時に、「正義について」とも題されていることに注意していただきたい。「理想の国家」と「正義」とが、一つに結びつくような仕方で、国家および正義を論じるということが、『国家』というプラトン最大の対話篇の眼目であると申し上げましょう。
では、なぜ何のために、プラトンは『国家』において、政治という「技術」を問題にしなければならなかったのでしょうか。それは、彼の師であるソクラテスが、不当な判決を受けながら、法に従って刑死したことに理由があります。ソクラテスは、アテナイの青少年に悪影響を及ぼしたとのかどで告発され、死刑の判決を受けた。そのあたりの経緯については、ご存じの方も多いでしょう。しかし、その先のこと、処刑当日の早朝、牢から脱出して逃げられるように手を回し、国外に逃亡するよう彼に説得した友人たちの勧めに逆らって、敢然と毒杯を仰いだソクラテスのことは?『ソクラテスの弁明』を読まれた方なら、そのあたりの事情についても、理解されているかもしれません。
なぜ、ソクラテスは逃げなかったのか。古来、〈謎〉とされている問題ですが、私に言わせれば、理由はハッキリしています。それは、国法を破るという不正を、彼が犯さないと決めたからです。不正を受けた場合に、不正をもって応じることをしない。これは、ソクラテスが『ゴルギアス』や『国家』の中で、不正を受けた場合に、「不正をもって報いる」ことと「不正をもって返さない」ことのどちらを選ぶべきかを論じて、前者を主張する相手に向って、後者の方がより害が少ない、として認めさせた主張です。悪法による裁きに服従すべき理由はない、というのが当時はもとより、おそらく現在でも有力な考え方でしょう。しかし、ソクラテスはそういう考えに同意することなく、判決そのままに自らの死を受け容れた――この点に関するソクラテスの考えは、「ソクラテスの弁明」と並ぶ「クリトン」に、くわしく説明されています。国法との対話を含むこの作品を、ぜひご一読ください。
ソクラテスの刑死は、彼が70歳、プラトンが28歳の、紀元前399年の出来事。この事件が、その後のプラトンの人生を決定したことを私は信じます。正しい行いが、不正によって葬り去られることのない社会を実現するには、どうすればよいか。この問いを胸に書き上げられた代表作が、『国家』であることは明らかです。政治という技術の対象は、支配者ではなく、支配される人々です。しかし当時は、支配する側の「強者の利益」が正義である、という考えが常識でした。ソクラテスは、そういう主張を振りかざす論敵――『ゴルギアス』にも『国家』にも登場します――を前にして、政治の技術は支配者の利益ではなく、被支配者の利益を図るものだ、という見解を示し、その主張を認めさせるのです。
政治とは何か、正義とは何か、というような大問題には、これ以上立ち入りません。古代ギリシアにおいて、技術の典型として政治が考えられ、その目的は対象である被支配者の利益を図ることにある、というプラトンの思想を紹介したところで、ひとまず講義を締めることにします。
魂の「善さ」とは?
直:どうですか。技術としての政治というプラトンの考えに、納得されたでしょうか。
猛:哲学を学ぶ自分が、知っておかないといけない基本を教えられました。技術が正義と結びつけて考えられる、ということには同感します。けれど講義の中で、まだ説明されていないことがあるような気がします。
直:それはどういう点ですか。教えてください。
猛:先ほど、技術の本質が、「魂にとっての善さ」を実現することだとされた、そのことが何かという問題です。技術は「対象の利益」を図ると言われた、そのこととは別に、「魂にとっての善さ」とか「徳」が、技術とどう関係するのかについては、まだ説明されていません。
中:私からも、感想を言わせてください。ソクラテスの死が、プラトンにとって決定的な意味をもったというご説明は、なるほどと感じ入りました。その事件が、プラトンを「正義」の追究に向かわせたというのも、そのとおりかと思います。しかし、「正義とは何か」という倫理の問題と、人々を支配する政治とを結びつけるという考え方は、もう一つ腑に落ちません。政治は技術の一種であるとしても、道徳や倫理は人間の心の問題。二つを分けて考えた方が、よいのではないでしょうか。
直:その疑問は、ごもっとも。政治は公の世界の問題、正義に代表される徳は個人の心の問題、として切り分けて考えるべきだというのが、現代人の常識でしょう。政治に徳を求めるなんてことは、現に裏金問題で騒いでいる日本の状況を見るかぎり、「ナンセンス」だと言われても仕方ありません。しかし、ソクラテスの刑死からプラトンがまず考えついたのは、政治家になって国のあり方を変えるという選択でした。そうしなければ正義が実現しない、という切実な思いがあったことは、まぎれもない事実です。
猛:へぇー、そうですか。プラトンは政治家になろうとしたのですか。でも彼は、政治家ではなく、哲学者としてその名を後世に残した。それは、どうしてですか。
直:『ゴルギアス』の中で、ソクラテスの論争相手カリクレスは、哲学というものは若いときにやるのはよいけれども、歳をとってからもやり続けるものではない。そうでないと、つまらない人間から告発を受けて、裁判で死刑にされてしまうだろう、と言っています。このように言うカリクレスは、ある意味で、プラトンその人の分身とも考えられる。哲学に命を懸ける人間が、不当な裁判によって抹殺されてしまう成り行き――対話篇制作時には、過去の事実――を予告しているのですから。
中:事情はよく分かりませんが、私が考えるに、ソクラテスに死刑判決が下されたという結果は、裁判制度や法制度の問題として論じるべきではないでしょうか。正義を国家のレベルで実現するというような発想は、現実から飛躍しているように感じられます。
猛:僕の感想も、中道さんに似ています。プラトンが、哲人王の支配する理想国家を考えたということは、哲学の授業で教わりましたが、ソクラテスの死と国制の問題とを直接結ぶ発想というのは、チョット現実離れしているなあ、と思います。
直:そうですか。お二人とは違って、私の場合、今回まじめに対話篇を読み直してみて、先生の死を自分はどうしてくいとめることができなかったのか、というプラトンの歯ぎしりするような思いが、こちらに伝わってくるように感じました。それが、『国家』を生み出した最大の要因である、と私は確信します。
猛:さっきお訊ねした「魂にとっての善さ」は、政治にどう関係するのでしょうか。
直:「徳」(魂にとっての善さ)を体現する政治家が支配者となって、支配される人々に徳を身につけさせること、それが政治であるということです。
中:ということは、政治の「技術」とは、支配者が自分の利益を図ることではなく、支配される人々にとって何が利益であるかを考えることだ、ということですね。先ほどたしか、そんなふうにおっしゃいましたね。
直:そうです。今日の本題「技術は何のために」に、やっと戻ってきましたね。
正義としての法
直:今回、技術のあり方を考える手がかりとして、プラトンの『国家』という古典を引き合いに出したことの理由は、いまお二人の言われたことから明らかです。というのは、政治が技術であるというプラトンの思想は、今日それとは正反対の世界にわれわれが生きている現実を示しているからです。
猛:どういうことをおっしゃっているのか、よく分かりません。
直:ハッキリ言いましょう。政治とは、被支配者の利益を図るもので、それこそが正義の実現であるという主張が、『国家』においてうちだされている。このような政治および正義についての考え方が、もはや絵空事でしかないような現実にわれわれは生きている。プラトンの作品は、それとは正反対の世界を描き出すことをつうじて、その事実を浮かび上がらせているのです。
中:先生がおっしゃるのは、現実の世界がもはや正義の実現ではない、ということですね。それは、どういう政治のあり方を指しているのでしょうか。
直:ソクラテスの対話の相手であるカリクレス(『ゴルギアス』)、トラシュマコス(『国家』)の口から出る「強者の正義」が、そのまま通用するような政治です。紀元前5世紀のアテネでは、それより前の民主制が衰退して、「僭主」と呼ばれる独裁者が幅を利かせるようになっていました。現在の世界は、そのころの状況を連想させます。
猛:「強者の正義」というのは、具体的に言うと、どんなことですか。
直:国家の支配者が、自分に利益をもたらす法律をつくって、それに人々を従わせるシステムがはたらくということです。
猛:それって、全然正義ではないじゃないですか。為政者の利益にはなっても、国民の利益にならないというのが、事実であるなら。
直:そのとおり。ですが、そういう政治が誰の目から見ても不正であったとしても、制定された法に違わない、という裏づけさえあれば、不正行為が正義としてまかりとおる。それが現実なのです。
猛:法に背かなければ、何をしても許されるってことですか。何だか解せないなあ。
中:猛志君の不満はもっともだとしても、何十年も世の中を見てきた私の目からすると、法さえあれば、「正義」が堂々と主張できる。先生のご説明のとおりだと思います。
直:猛志君、「強者の利益」の例として、プーチンのロシア、トランプのアメリカ――「もしトラ」は過去の話ではない――を想像してください。彼ら「独裁者」は、自分のしていることは正しいとして、その根拠に法の存在を持ち出してくるのが常です。
猛:ってことは、法がなければ、連中としても「強者の利益」を実現することはできない、ということでしょうか。
直:そうです。「法」が「正義」と同等の意味をもつがゆえに、独裁者といえども、何でもしたい放題にはできない。法によって自身の正当性を主張する替りに、矩(のり)を超えることができない、という足かせを自らに課すことにもなる。一種のジレンマが成立するわけです。
中:正義をいかに実現するかは、ひとえに法にかかってくるということですね。そういう流れからすると、法の制定は「技術」の問題である、ということになってくるような気がするのですが……
直:ええ、おっしゃるとおり。さすがは中道さん、私がふれたいポイントを見事に突いてこられました。
中:いえいえ、そんなことはありません。プラトンは、正義を実現するための法を、どう考えたのでしょうか。
教育という技術
直:法がどうあるべきかという問題は、大部の著作『法律』で論じられています。ですが、ここではそういう法律論よりも、正しい法を制定する支配者をいかにしてつくりだすかが『国家』の中心問題であった、ということを指摘しましょう。そこで論じられるのは、国家を動かす支配者をいかに教育するか、というテーマです。
猛:支配者をつくり上げる教育が、技術の問題として論じられるわけですね。おもしろいけれども、そんな技術ってあるのかなあ。
直:正しい法による人々の支配を実現するためには、正しいということが認識できる支配者を養成することが、必須の前提になります。君の言うとおり、教育という技術がカギになることはたしかです。
中:それでは、正しいということの認識は、どうすれば成立するのでしょうか。その認識がなかったなら、正義の法を定めることも不可能ということにならないでしょうか。
直:誰もがよく知るプラトンの言い方では、正義そのものである「善のイデア」を認識することによってです。
中:それでは、善のイデアを認識するには、どうすればよいのでしょうか。もし教育によってそれが可能になるというのなら、それはどんな教育でしょうか。
猛:僕のイメージを言わせてもらうなら、善のイデアをよく知っている先生が、知らない者にそれを教えることになると思うのですが、教えられるのかどうかは疑問です。
直:徳は教えられるものではないというのが、プラトンの先生であるソクラテスの持論でした。プラトンにしても、君がイメージするように、善そのものを教えるという考えは持っていません。
猛:それじゃ、善のイデアを認識できるようにするには、どうすればよいのですか。
直:それだけの素質、能力をもった優秀な若者を、善のイデアが認識できる高みに到達させるように、知的教育を施すということです。
猛:それって一種のエリート教育じゃありませんか。誰にでも分かるように、先生が生徒に教えを説く、ということではないのですか。
直:ふつうのイメージでは、君の言うとおり、優秀な教師がいて、自分の知識を生徒に伝えるのが教育。しかし、究極の善のイデアは、そんなふうに教えることのできるものではない。自分で気づく以外にないものです。
中:教育というのは、本人が気づくことのできるように、周囲が環境を整えることだという、そういう考えをおっしゃっているのでしょうか。
直:そう、まさにそういうことです。正義とか善といったものは、人に教えることはできない。本人自らそれに気づくことができるように、環境を整備するということが、技術としての教育のあり方であると言えます。
〈気づき〉に向けて
中:先生は現在のテクノロジーに対して、私とは違って、否定的な考え方をされています。古代のプラトンを引き合いに出されたことは、テクノロジー批判とどのようにつながってくるのか、その点をお聞かせ願えないでしょうか。
直:やっと本題に戻ってきましたね。プラトンの技術観が、現在の状況にとって意義をもつとすれば、それはここまで論じてきたような〈気づき〉という大事な一点を忘れる方向に、世の中が動いていることを、われわれに気づかせてくれるということです。
猛:〈気づき〉がないことを、気づかせてくれるってことですね、ギャグみたいだけど。
直:そのとおり、君はうまいことを言いますね。技術が独り歩きしてしまっていることに、誰も気づかない。素人にとって、技術がどんな方向に進んでいるのか、それが本当にわれわれの暮らしにとって必要なものかどうかを、立ち止まって考えることをさせないような仕方で、技術が「進歩」し続けている。いや、その動きは「進歩」などではなく、盲目的である点からいうと、「暴走」と呼ぶべき種類のものです。
中:これはまた、テキビシイお言葉です。技術の発展を「進歩」と呼ぶか「暴走」と呼ぶか、どこでこの二つが分かれるのでしょうか。
直:〈気づき〉が生まれるか、生まれないかの違いです。技術の側から言うと、技術者自身が自己の扱う技術の意味を自分自身に問いかけること――この技術は何の役に立つのか、それとも特に何かの役に立つというものではないが、ちょっと面白そうだからやってみる、という程度のものかを、見きわめるべきだということです。プラトンの言うように、「対象の利益になる」ものが技術だとすれば、後者の場合は対象のためではなく、言ってみれば技術それ自体のための技術。それをプラトンは「迎合」であるとして、きびしく斥けました。
猛:技術を利用する主体、僕たちの側からすると、「暴走」はどうすれば防げるのでしょうか。
直:プラトンが考えたような理想的な支配者、「哲人王」は存在しません。善のイデアを認識して、政治を動かすような指導者が存在しない以上、技術の独走を許さないように、人々がたえずそのあり方をチェックすること。オカシイということに自分から気づいて、その時点で「待った」をかけることです。先月、生成AIの開発に、私からクレームをつけたように――
中:生成AIの利用をストップさせることが正しいのかどうか、私にはまだ確信がもてません。けれど今回、〈気づき〉が必要だとおっしゃることには納得しました。
直:そうですか、それで結構です。今回はこれまでとして、引き続き考えていくことにしましょう。
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