問題の確認
直言先生:三回にわたって、欲望と技術の関係を問題にしてきました。ここまでの流れで、お二人が気づいたこと、気になることを挙げていただくことから始めましょうか。
猛志君:先生が問題にされているのは、以前から批判されてきた近代の〈欲望の論理〉をどのようにして超えるのか、という点だと思います。その関心は、哲学を専攻している僕自身の問題意識でもあります。
直:〈欲望の論理〉をいかにして克服するか、というテーマが、君と私に共通するということですね。中道さんはいかがですか。
中道さん:先生のお考えは、それなりに理解しているつもりですが、私自身は欲望否定論ではなく、欲望を認めて付き合っていく方向を探るべきだと考えていました。その点で、シリーズ初回に「欲望を飼いならす」をテーマにされたことは、よかったと思います。
直:なるほど。現実をよく知る中道さんならではのご意見ですね。私としては、猛志君が挙げた欲望の〈克服〉というテーマ、中道さんが指摘された欲望との〈共存〉というテーマ、そのどちらにも心が惹かれます。言ってみれば、共存しつつ克服を図る、とでもいった形で、欲望を認めつつ、欲望の克服を図るということでしょうか。
中:それは、先生のよくおっしゃる言い方なら、「欲と無欲との〈あいだ〉を開く」とでもいったことになりますか。
直:お見事!そのとおりです。欲望の単なる肯定でもなく否定でもない、肯定でもあり否定でもある、というレンマの定式そのままですが、さてこんな言い方が通用しますか。
猛:僕のように形式論理で考える学生には、その言い方にはやや抵抗があります。欲望には、それに打ち克つか敗れるか、どちらかしかないように思われるのですが……
中:前回のテーマ「武術から武道へ」で言うと、そのあたりはどうなりますでしょうか。
直:武道の例は、欲と無欲との〈あいだ〉と言えるかどうかは、よく判りませんが、欲望から出発して欲望を克服する、という文化のあり方を物語る一典型のように思われます。何なら、そのあたりを再確認しましょうか。
猛:ぜひお願いします。先生におさらいをしていただいたら、前回の話がもっとよく理解できそうですから。
直:そういうことなら、君に付き合ってもらって、対話をしましょう。君は、剣道の授業を受けたことがあるということでしたね。
猛:はい、中学校の正課で、剣道を選んだということをお話ししました。
直:結構です。授業では胴着などを着用して、竹刀で打ち合ったかと思いますが、どうしてそういう形式がとられるのか、奇妙だとは思いませんか。
猛:別にオカシイと思ったことはありませんが、どうしてですか。
直:剣術は、本来、敵と真剣で斬り合うための技術。胴着を着用して竹刀を用いたのでは、剣術本来の目的から外れてしまう。その点が、問題だということです。
猛:でも先生、真剣はもちろん木刀でも、打たれた者の当たり所が悪いと、死んでしまうかもしれません。そうならないように工夫して、稽古用の竹刀や胴着を考え出したのじゃありませんか。
直:そう、そのとおり。真剣によって命のやりとりをするのが、剣術本来のあり方です。そういう武術としての本質――武術性――を弁えながら、殺人の手段であることを止めることによって、剣術は剣道に変容した。猛志君、このリクツが呑み込めますか。
猛:呑み込めないということはない、そうかもしれないと思います。けど、チョット腑に落ちないというか……
中:猛志君がスッキリしないのは、敵と戦って勝つ、という本来の目的があるのに、その目的を否定することによって「剣道」になる、というのは矛盾している。そういうことではないか、と柔道をやった私は思うのですが。違っているでしょうか。
猛:前回、先生に反論したのは、武術が武道に変化したのは、「目的のすりかえ」ではないかという点でした。いまの指摘を受けて、それを思い出しました。
直:先月と同じポイントに戻ってきましたね。門外漢の私が、ここで言いたいこと、言えることは、武術が武道になるという仕方で、新たな文化的伝統が成立した、というそのことだけです。そういう変化をどう評価するかは、別の問題であって、武道家の側から証言をいただきたいところです。
中:先生が強調されたのは、武道が成立することで、相手を倒したい、殺したい、というような生(なま)の欲求が、昇華されるということではないでしょうか。私は、そこに〈欲望の論理〉を超えるカギがある、と言われているように受けとめたのですが。
直:まさにそのとおり。〈道の文化〉の典型である武道を例に取り上げたのは、人間の存在と一体である欲望を乗り越えるモデルが、〈道〉にあると考えたからです。
中:ということは、〈道〉の対極には、欲望を乗り越えることができない技術がある、ということでしょうか。それはどういったものでしょうか。
直:これまでのシリーズで再三申し上げているように、私が告発しているのは、ただ欲望から出発するというだけではなく、欲望と一体化しながら、欲望を高進させることに向かうような技術です。具体的に言えば、ハイテク全般がそういう技術です。
中:欲望が技術に関係することは、これまでのお話で強調されているし、自分としても理解したつもりです。それに対して、私の方は、欲望が働かなければ技術は進歩しない、という反論をしています。
直:よく知っています。今回、私が取り上げるのは、欲望と技術とが分けられないつながりをもつという事実、技術それ自体に欲望が内在する、という問題です。
猛:その言い方だと、技術は欲望と一体である、だから技術は欲望を超えられない、というふうに聞こえますが。
直:そのとおり。技術と欲望とは、もともと一体である。そういう一体性を表わす言葉が、呪術(じゅじゅつ)というものです。
呪術と技術
猛:でも、もし技術が呪術だというのなら、技術は欲望を超えられない、というリクツになりませんか。
直:そうかもしれない。呪術というのは、科学的知識をもとにした技術では目的が果たせない場合に、非合理的な手段で目的を果たそうとするふるまいです。今回のテーマは、技術が目の前のカベを乗り越えようとするかぎり、呪術的な性格を帯びざるをえないということ。それを言ったからといって技術を貶めることにはなりません。まずは、そういう事実と向き合うことから、考えを進めていこうということです。その結果がどうなるのかは、さておき。
中:先日、呪術を取り上げたテレビ番組に、陰陽師の安倍晴明が紹介されていました。それを見て、科学が発達していない時代の技術が陰陽道なのかと思いました。呪術は科学技術の前段階として受けとめたのですが、そういう理解は間違いでしょうか。
直:別に間違いではありません。陰陽道は中国から来た占星術や易学がベースになっているので、科学と無関係ではない。それに対して、未開社会における呪術は、文化人類学が成立した当初、未開人に固有の「原始的心性」(レヴィ=ブリュール)の現れとして語られました。敵対する相手を呪い殺す、というようなしぐさは、その代表的な例です。文明社会と未開社会とをハッキリ区別して、呪術を後者に固有な所作として取り扱うというのが、文化人類学の当初の姿勢でした。
猛:テクノロジーに関する最初のエッセイ(「テクノロジーの問題」(1)2019.10.1)の中で、先生はイシグロイドを製作する行為が、昔よく行われた「丑の刻参り」の現代版である、などと書かれたので、その当時、石黒ファンであった僕は、いささか衝撃を受けました。
直:現代のハイテクに残っている呪術の事例として、第1回目のエッセイで批判的に取り上げましたが、若い君にはショックでしたか。今回、イシグロイド批判のような例を挑発的に蒸し返すことは止めにして、あらゆる技術に呪術の要素が関係しているという事実を、一般的に把えてみたいと考えます。
中:しかし先生、あらゆる技術に呪術の要素が関係しているというような説を、誰からも聞いたことがありません。それは、ご自分で考えられたのですか。
直:〈技術イコール呪術〉というような極論を口にしている者が、いるかどうか。いるかもしれませんが、よく知りません。しかし、呪術が文明社会の中にも潜在していて、呪術と技術とが連続的であるということを、ベルクソンは「静的宗教」(『道徳と宗教の二源泉』第二章)の中で、明らかにしています。ここで、その趣旨をご紹介しましょう。
講義:呪術と科学
19世紀後半から発達した文化人類学は、ヨーロッパ以外の土地に残存する未開社会のフィールドワークをつうじて、土着の未開人に潜む「原始的心性」を、支配者であるヨーロッパの社会に報告することを使命としました。フランスの人類学者レヴィ=ブリュールが、『未開社会の思惟』という著書で明らかにしたのは、文明社会に見られない「前論理的思考」の存在でした。呪術は、そういう思考を代表するとされる例です。このように初期の人類学が、西洋中心の視点から文明以前と以後との断絶を強調したのに対して、レヴィ=ストロースがうちたてた20世紀の構造人類学では、未開社会と文明社会とに共通の〈構造〉が存在することを指摘します。彼は、『親族の基本構造』という主著の中で、近親婚を避けるというタブーが、未開社会にも婚姻規則として現存する、という事実を明らかにしました。
構造主義の流行に先んじてベルクソンは、未開人も文明人も「精神の働き方は同じなのだが、それぞれに必要なものがおそらく違っているために、精神機能の向けられる対象物も違ってくるのである」(『道徳と宗教の二源泉』森口美都男訳、中公バックス『世界の名著64・ベルクソン』316頁)と書いています。未開人も文明人も、必要とするものを手に入れたいと思い、その目的を達成するための手段を考える、という精神の働き方は同じです。どうすればどうなるか、という因果関係を理解する知性は、どちらにも備わっています。しかし、未開人にとって、そういう因果関係の知識をもって達成できる目的は、自分の身体能力の及ぶ狭い範囲に限られている。科学の発達した社会であれば、因果の長く複雑なつながりを見通したうえで、遠隔の対象物に働きかける手段が考えられるのに、科学が未発達の原始人にはそれができないのです。しかし、目的を果たしたい願望は、どちらにも共通してある。で、どうするか。「呪術と科学との隔たりは、あたかも欲望と意志との隔たりに等しい」(同書386頁)。文明人の場合、意志が科学を技術に結びつける――後で説明します――のに対して、未開人は目標を達成したいという欲望を、そのまま技術に結びつけようとします。そこで呪術が登場する、こんなふうに――
たとえば今、一人の「原始人」が敵を殺そうとしているとしよう。だが敵の位置は遠い。手が届かない。しかしそれが何だろう。この男は怒り心頭に発している。そこで彼は、不在のその敵に向かって跳びかかるしぐさをする。そしてひとたび跳びかかれば。とことんまでゆく。彼は掴まえたつもりの、ないしは掴まえたと思いたいその相手を、両手の指で締め上げる。扼殺(やくさつ)してしまう。けれども成果が完璧でないことは自分でもよく解っている。彼は、自分に力でできることは、全部やった。あとは事物に引き受けてもらいたい、と彼は思う。いな強請(せが)む(同書381頁)。
この例は、敵を殺したいという願望が、科学の提供する合理的な見とおしを伴わないまま、ただ実現する場合のしぐさだけを演じることをもって、本物の成果に代えるというやり方を示しています。自分として、やれるだけのことはやった。しかし、自身の持ち合わせる身体能力では、目標が達成できない。そうした自分の能力の不足分を、事物が引き受けてくれるという期待を、事物に向けて投射する。ベルクソンの表現によれば、物質は「受けた運動を力学的に返す必然性に加えて、彼の命令に服従する能力をもあわせもっていなくてはならぬ」。つまり、後者のような「能力」――「好意」とも言われる――を事物に想定するところに、呪術の空間が成立するというわけです。世界の側が、こちらの期待に応えてくれるという当てがなければ、呪術は成り立ちません。そういう心性が、必ずしも未開人に限られないことは、われわれが子供のころ、遠足の前日にテルテル坊主を吊るして、翌日の晴天を祈ったしぐさを、思い出すだけで明らかでしょう。それは、文明人の心に、呪術的なものが生きていることのしるしにほかなりません。
話を現在の社会に移しましょう。未開社会ならばともかく、今日の文明社会において、もっぱら科学がもたらす確実な情報――できることとできないこととを弁別する――にもとづいて技術が働くか、と言えばそんなことはありません。人間が主体となるどんな技術であっても、無事に成果を生み出すかどうかは、やってみなければわからない、といった不可測の性格が付きまとっています。技術者のスピリットは、イチかバチかの可能性に賭けて、ともかく課題にチャレンジすることにある、といったふうの常識をよく耳にします。それも当然の話で、できることが当たり前のテーマなら、手がけるだけの価値はない。到達できる確実な見通しがない困難な課題にこそ、技術者は挑戦しなければならない、というのが技術者のモラルとされているのではないでしょうか。
このような見方を認めていただけるなら、技術が欲望に支えられている事実は明らかであり、欲望によって働くという技術の本質は、呪術と何ら変わることがないということも、理解していただけるはずです。現時点では、目標に届かない水準にある技術。目標と現状とのギャップを超えさせようとして働く力が、欲望というものです。ただし、同じ欲望を原動力としながら、呪術の方は、目標の達成を事物の側の「好意」にゆだねるのみであるのに対して、テクノロジーは、コンピューターなど人間の期待に応じてくれる合理的な手段を駆使することによって、未踏の地平を開拓していく。その違いは、比較にならないほど大きい、といわなければなりません。とはいえ、いくら水準の高い技術であろうと、〈欲望の論理〉に囚われている事実は、未開社会と文明社会において根本的に変わらない、と私は考えます。ここからの対話で、そのあたりの議論を続けることにしましょう。
技術は呪術的か?
直:以上、未開人の原始的心性に固有なものとされる呪術が、現代の技術文明の底にも潜んでいる、という話をしました。お二人は、どんなふうに聞かれましたか。
猛:技術では届かない目標との距離を、縮めようとするのが呪術だという説明は、おもしろかったし、よく解りました。けれども、いまの講義で納得できないところもあります。
直:それはどういう点ですか。指摘してください。
猛:最後の方、呪術に頼る未開人の心性を、技術者全員に共通するかのように言われたところです。現代の優秀な技術者を、未開人と同列に置かれるのは、納得がいきません。
直:そうですか。君が指摘した問題点は、今回の講義で私がいちばん言いたかったところですが、納得できませんか。中道さんは、いかがですか。
中:私も、猛志君にほぼ同感です。技術を支える科学の土台があって、テクノロジーは今日まで発展してきました。それなのに、技術を動かす精神が呪術だなんて、まるで呪術と科学には差がない、と言われているような気がします。呪術が一種の宗教だと言われるのなら、まだしも理解できるのですが。
猛:僕にも、そんなふうに聞こえました。ベルクソンのような哲学者が、呪術と科学とを区別しないようなことを言っているのですか。
直:そんなことはない。先ほども引用したように、「呪術と科学との隔たりは、あたかも欲望と意志との隔たりに等しい」。欲望に動かされる呪術を駆逐することで、科学の世界が拡大されていった。それでも、呪術の時代から科学の時代に切り換わったというわけではなく、「科学と呪術とは、どちらもひとしく自然的であり、いつの時代にも共存していた」(387頁)というのが、ベルクソンの考えです。
猛:ってことは、科学の支配する時代になっても、呪術が残っているっていうことですね。
直:そう、そのことを解ってもらうために、「テルテル坊主」の例を出したのですが、君には通じなかったのかな。
中:呪術的な要素が現代の生活に残存している、とおっしゃるなら、そのとおりかもしれないと思います。でも先生は、猛志君が言及した「イシグロイド」のような例を、技術の堕落であると把えておられるように感じます。最先端の技術の成果が、どうして呪術の類と見なされるのか、私にはまだその真意がつかめません。
直:イシグロイドを、私は丑の刻参りに使われる藁人形に見立てました。生命のない物体に、生命を吹き込もうとするかのごとき所作であると見て、やっつけたわけです。しかし、例が刺激的過ぎたことで、反発されたかもしれません。ここからは、技術が〈欲望の論理〉によって働く、という本質的な点に議論を絞りましょう。猛志君、一問一答式の対話に付き合ってくれますか。
猛:ソクラテス式の「問答法」(ディアレクティク)ってやつですね、喜んで。
夢から現実へ
直:では、最初の一問。君にとって、現在のテクノロジーによって解決してもらいたい課題があるとすれば、それは何ですか。それとも、そんな課題はありませんか。
猛:何だろう、すぐには思いつかないな……チョット待ってください。
直:「宇宙旅行」というのは、どうですか。いまのところ、特別に訓練された宇宙飛行士だけに許されている特権ですが、誰でも月や火星に行くことができるような未来、という目標が考えられます。
猛:「月移住計画」というプロジェクトがあることは知っています。でも、僕の場合、宇宙に憧れるような性格じゃないので、そんな夢を抱いたことはありません。
直:意外に現実的ですね。君にとって、もう少し現実的な目標、例えば「空飛ぶクルマ」は、どうですか。
猛:いいですね。でも、それはもう夢の話じゃなく、すでに実用化が始まっています。
直:21世紀に入る直前、近未来のロサンゼルスを舞台にした映画『ブレードランナー』では、空中カーが大都会の空を飛び回っていました。そのシーンを見て、ありえない景色でありながら、意外なほどリアルな感じをもったことを覚えています。
中:お二人に割り込んで、ゴメンナサイ。私も映画を観ましたが、当時として少しだけ時代を先取りしているだけで、空飛ぶクルマはありうるものと受けとめていました。現在は、まだ実験段階でも、もうすぐふつうに実用化される段階に来ています。
直:考えつかれた時点で「夢」「空想」であったものが、10年、20年と経つうちに、実験段階を通り抜けて実用化されていく。それが当たり前の時代に、われわれは生きています。
中:そういう成り行きは、当然だと思います。技術の進化に、ストップをかけることができるのでしょうか。
直:いま技術の「進化」と言われた。その言い方では、技術がまるで生き物のように、それ自体で動く力をもっているように聞こえます。
中:そうかもしれません。ご意見に逆らうようですが、私にとっては、技術は自律的に発展する分野のように思われます。
猛:さっき先生は、僕にテクノロジーの課題は何か、と質問されました。それに対して、僕は、いまのところ特に夢はない、というように答えました。
直:お二人はそれぞれ、技術に関して、「自律的な発展」「夢」というキーワードを出された。どちらも非常に重要なポイントです。猛志君、夢がなければ、技術は発展しないと思いますか。
猛:ウーン、どちらかと言えば、夢は必要だと思います。宇宙開発だって、「宇宙に行きたい」という夢から始まるわけですから。
直:でも、それが夢であるということは、まだ現実ではない、いまのところは実現できないということですよね。
猛:そうです。夢というのは、当分実現する見込みがない目標、いつか実現したらいいな、という憧れということです。
直:その場合の「憧れ」というのは、別の言葉を使うと、「欲望」にほかならない。違いますか。
猛:そうだと思います。去年のWBC決勝で、アメリカ・チームとの戦いの前に、大谷選手が「メジャーに憧れるのを止めましょう」と仲間に呼びかけたのは、アメリカに勝ちたいという欲望の表現ですから。
直:非常に適切な例だと思います。というのは、「憧れる」というのは、目標が遠くにあって、そこまで届きそうもない距離があると認めることですから。大谷選手が「憧れるのを止めよう」と言ったのは、メジャーと日本の野球のあいだに、越えられないような隔たりはもう存在しない、自分たちの実力を発揮すれば勝てる、という呼びかけですから。
猛:「夢」とか「憧れ」という言葉は、最初から目標との距離を認めてしまっている、ということですね。でも、そこから目標を達成しようという努力が生まれるということなら、夢をもたないと何も始まらないと思います。
中:私も昨年のWBC決勝に熱狂しました、年甲斐もなく。猛志君が夢や憧れについて言われたことは、そのまま技術の問題に当てはまるのではないでしょうか。技術の進歩は、まず初めに壮大な夢を抱くこと。考えついた時点では、誰ひとり実現するとは考えられないようなプロジェクトが、アイディアを実行に移す過程で地道な努力を重ねるうちに、前途が開けてくる。そういう例は、技術史によく見られます。
〈技術の論理〉とは?
直:そういう技術の進歩を、さきほどあなたは「自律的な発展」と表現された。同じことを、技術にはそれ自体の「論理」がある、という言い方で表現できるかもしれない。それを認めたうえで、今日のハイテク、とりわけAIに関しては、〈技術の論理〉を逸脱しているのではないか、と疑わざるをえません。
中:私には理解しにくい、難しいことを言われているような気がします。「技術の論理を逸脱する」とおっしゃるのは、どういうことでしょうか。
直:別に難しい話ではありません。技術は、人間が手と頭の両方で制御できる、という条件の下で発展してきた。私が恐れるのは、そういう人間主体のコントロールが利かない、人間の手から離れてしまうような方向に、技術が向かっているということです。
中:「人間がコントロールできない」ということの意味が、もう一つよく解りません。具体的に言うと、どういうことでしょうか。
直:その意味は、ひとことでは表現しにくい。大きく言って、二つの意味があります。一つは、前回の対話のはじめに、軍事目的でのAI利用を取り上げました。あなたも危惧を表明されたので、覚えておいででしょう。
中:LAWS(自律型致死兵器システム)の問題ですね。よく覚えています。
直:その軍事技術は人間の手で開発され、人間の意志で利用される。その意味において、人間がコントロールできるものだ、と言おうとすれば言えなくもない。問題は、その技術を利用する人間の〈欲望〉にあります。
猛:原爆について先生が言われたのは、いったん核兵器が開発されたなら、その使用を食い止めることができない、ということでした。それが〈欲望〉ということですか。
直:そうです。いったん技術が開発されたなら、人間はそれを使用したいという誘惑に打ち克つことができない。それが分かった時点で、技術そのものの研究開発を断念すべきだ、ということを申し上げたいのです。
中:人間の欲望についての悲観論は、私にも理解できますし、特に異論はありません。「人間がコントロールできない」ということの意味が、もう一つあるということですが、それは何でしょうか。
直:シリーズの第一回であなたと議論した、ChatGPTなどの生成AIの問題です。予測のできない結果を生じる、その技術が「新しい」という点を、そちらが評価されたのに対して、結果が予測できないということは、人間が技術をコントロールする責任を放棄したことである、と私は考えます。
中:人間の側の責任の放棄、とおっしゃるのですか。私にとって、生成AIは、自分の思考では気のつかない発見をさせてくれる、頭のいいパートナーのような存在です。そういう考えは、間違いでしょうか。
直:世の中には、そういう考えをする人が大勢いるのでしょう。一応理解できる言い分ではある。しかし、間違っているというのが、私の結論です。技術のための技術が独り歩きするご時世、人間の欲望を抑えるべく、立ち止まって考える必要があると私は思います。猛志君は、どうですか。
猛:僕にゲタを預けられても、何と言ったらよいか……。哲学の課題として、欲望を抑えるための〈かたちの論理〉を考える、と先生はおっしゃっています。その成果を待ちたいと思います。
直:お二人から、非常に参考になる意見を伺いました。次回のシリーズ最終回で、〈欲望と技術〉について、自分なりの総括を行いたいと思います。
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