AI規制の現状について
中道さん:いつも先生が話題を挙げられますが、今日は私から。毎回取り上げられる生成AIなどの問題が、最近のメディアで特に目につくように感じられます。先生がどうお感じになっているのかを、お聞かせ願えないでしょうか。
直言先生:最近の動きで目立つのは、一つには、AIの技術開発が唖然とするほど加速度的に進んでいる、という事実。もう一つは、技術の利用にハドメをかけよう、という動きが世界的に起こってきたこと――たとえば、世界で初めてEUによる「AI包括規制法」が成立したことにつづいて、この方面で野放し状態の日本でも、AIの法規制に向けた検討が始まったと報じられています(『朝日』5.23)。
中:先生としては、AIの法的規制が必要だという考えに賛成のようにお見うけしますが、そういう動きをどのように評価されているのでしょうか。
直:法的規制は、当然あってしかるべきですが、もっともだと評価できる面と、こんなものではまったく不十分だと感じる面、両方があります。
中:評価できる面とできない面、具体的にはどういうことになるのでしょうか。
直:AI問題の本質は、人間の頭と手から生み出された技術が、人間の制御できない力として人間から「自立」し、それを人間が放置する状況をつくりだしたことにあります。その状況を変えなければならない、という私の立場は、前から言っているとおり、「生成AI撲滅論」です。そういう本質的な問題の検討に立ち入らずに、AI利用に伴うリスクの軽減、という場当たり的な発想で考えられているという点で、世界および日本における法規制は、まったく不十分と言わざるをえません。
猛志君:生成AIがつくった動画や文章が、オリジナルの作品と取り違えられるリスクについても、規制が行われるのでしょうか。
直:EUの規制法では、それもリスクに挙げられていますが、4段階のリスクのうち下から二段階目で、優先度は低い。AIの利用が「禁止」とされるケースは、それによって差別・人権侵害が起こりうる場合、そのリスクを許容できない、とするものです。「公共空間で犯罪捜査などの法執行目的で、遠隔でリアルタイムに生体認証を行うこと」などが、例に挙げられています。
中:猛志君が挙げた例は、生成AIを利用する例ですが、EUが禁止する人権侵害には該当しないと思います。EUは、生成AIについても規制しようとする考えなのでしょうか。
直:米国や日本では、AIの開発促進が企業活動のターゲットになっているので、法規制には消極的。『朝日』によれば、AIが人間をコントロールすることへの懸念が広がったのは、22年の「ChatGPT」の登場からだとされています。そのさなか、日米に先んじてEUで「AI法」が制定された。その中では、生成AI利用の作文や動画については、「特定の透明性が必要なリスク」とするにとどめ、技術開発自体を抑制する線までは踏み込んでいません。
中:とおっしゃるのは、それぐらいの規制が妥当である、という評価でしょうか。
直:まあそうです。それ以上の規制に踏み込むには、技術の本質を哲学的に追究する必要がありますから。技術は経済に奉仕すべきもの、という社会の大前提を覆そうとする政治家もいなければ、本来それを批判すべき哲学者もいない、というのが現状です。
猛:あっさり言われましたが、哲学者に技術批判ができないのなら、一体だれがそれをするのでしょうか。
直:一人一人の市民が、「オカシイ」という声を上げることです。もちろん君や私も、その中の一人として――
猛:先生も私も、二人とも哲学の人間です。哲学者なら、社会のためにできることがあるはずです。そうでなければ、何のために哲学という学問があるのでしょうか。
直:まさしく、君の言うとおり。哲学に携わる者には、一人の社会人としての発言とあわせて、哲学者に固有の責務が課せられています。それを忘れてはいけない。
猛:それを聞いて、納得しました。では、哲学は何をすればよいのでしょうか。
直:本来あるべき技術とは、どういうものか。その基本線を示すこと。その作業をつうじて、現在のテクノロジーが、いかにその線から外れているかを、人々、とりわけ技術者に気づかせるということです。
中:「生成AI撲滅論」ではなく、技術の本質論を展開されるということですね。それなら、私もお話についていくことができると思います。
四つの原因
直:技術論が専門ではない私の手に余るテーマですが、お二人に助けてもらって、〈技術とは何か〉ということを考えてみたい。猛志君、例の一問一答式で、対話に付き合ってくれますか。
猛:承知しました。僕も技術の本質を考えてみたいので、協力させていただきます。
直:それでは、いちばん基本となる問題から。猛志君、君の考える技術とは、どういうものですか。
猛:えーッ、そんな質問ありですか。いつもは先生から、「私はこうこう考えるけれども、君の考えはどう?」っていうような訊き方をされるのに。それでは、問題の丸投げじゃありませんか。
直:ゴメン、「技術とは何ですか」というような問い方をしたのは、私たちがそんな問いを前にしたとたんに、うろたえてしまうほど、技術の本質から遠ざかった暮らし方をしているという事実に向き合ってもらうためです。別に、君を困らせようという魂胆からではありません。
中:そういうことでしたら、最初の質問に対してだけ、猛志君に代わって私がお答えしたいと思います。よろしいですか。
猛:お願いします。対話のつづきは、僕が引き受けさせていただきます。
中:〈技術とは何か〉という質問に対する私の答えは、「生活に役立つものを、人間がみずからつくりだすはたらき」です。これでいかがでしょうか。
直:いいですね。その答えなら、こちらとしても対話がつづけやすい。そういうものが技術だとしたうえで、具体例を挙げて考えましょう。では私の方から、技術の例に「家を建築すること」(建築術)を挙げましょう。猛志君、この例でいかがですか。
猛:まったく問題ありません。家の建築について、何を問題にされるのですか。
直:家を建てるという技術にとって、何が必要かという問題です。君が必要と考えるものを挙げてください。
猛:木材などの建築材料、資材です。それがなければ、何も始まりません。
直:結構。それ以外に必要なものは?
猛:家の設計図というか、図面がなければ、家は建てられません。
直:そのとおり。ですが、建築資材と図面があっても、それだけで家を完成させることはできない。ほかに必要な条件があるはずです。
猛:家のつくり手が必要です。建築は、大工さんの働きによって実現します。
直:建築の材料、大工、図面(設計図)、三つの条件が揃いました。これらによって家が出来上がるとするなら、この三つは、家を建築することの「原因」であるといってよいことになる。でも、建築の「原因」は、これら三つがすべてだと言えるでしょうか。
猛:えッ、まだほかに何か「原因」があるのですか。判らないなあ。
直:家を建てるのは、何のためですか。誰のために建築が行われるのですか。
猛:建てられた家に誰かが住むためです。でもそれは、建築の「目的」であって、「原因」ではないように思いますが……
直:目的も原因の一種であるというのが、アリストテレスの考えです。君は、アリストテレスの「四原因」説を知りませんか。四原因の一つに「目的因」が挙げられています。
猛:すいません。哲学史の知識が不十分な僕には、「目的因」が浮かんできませんでした。
直:「四原因」というのは、質料因――家の例では建築材料、形相因――設計図、作用因(動力因)――大工、それに目的因の四つ。これらが全部揃わなければ、家の建築は成立しないと考えられる。これら四つのうち、アリストテレスが独自に考えついたのが、「形相因」と「目的因」だとされています。
中:チョット気になることがあります。口をはさんでも、よろしいでしょうか。
直:どうぞ何でも。
中:アリストテレスは、原因を四つ挙げたということですが、四つも必要だろうか、という疑問があります。材料がなければ家は建てられないのだから、質料因は認められて当然です。つくり手である大工の存在も、原因(作用因)に挙げてよい。しかし、家の図面は、大工の頭の中にあると考えれば、わざわざ「形相因」などを立てる必要はない。そういうことにならないでしょうか。
直:作用因と形相因とは一体である、そういう考えですね。形相因を消去してもよいという考え方は、昔からあります。
中:ついでに言うと、目的因もよく解りません。家を建てるのは、人が住むためという大前提があってのことですから、それを原因の一種のように言うことに対して、私には違和感があります。
直:近代科学では、形相因や目的因を原因に数えない立場が主流です。猛志君、なぜだか分かりますか。
猛:近代以後の科学は、因果論的に物事を考える。それに対して、アリストテレスの考えは目的論的であるから、認められないということでしょうか。
直:そのとおりです。アリストテレスの思想は目的論であって、近代科学はそれとは対照的な因果論ないし機械論の方向に進んだ。それが、哲学史の常識になっています。
猛:ということは、技術の考え方も、目的論ではなく因果論になったということですね。
直:近代科学と結びつく技術が、そういう方向をたどることは、避けがたい傾向だったと考えられます。しかし、技術の本質は、目的論を外しては考えられない。今回は、この点を特に強調したいと考えます。アリストテレスの哲学は、目的論で成り立っています。その意義を、ここから講義で明らかにします。
講義:正義と目的論
古代ギリシアを代表する三人の哲学者――ソクラテス、プラトン、アリストテレス。この三人は、年齢順で師弟関係にあります。彼らによって、現在まで続く哲学の〈核〉が形づくられたと言ってよいでしょう。哲学の〈核〉とは何か。ここではそれを、事物のあるべき姿を明らかにして、それを実現することだと考えます。事物のあるべき姿は、「アレテー」(徳)と呼ばれ、物にそなわっている「よさ」を意味します。たとえば、ナイフのアレテーは、よく切れること。それと同じように、人間にも本来そなわっているとされるアレテーがあり、プラトンの挙げる主要な徳は、知恵・勇気・節制・正義の四つでした。それらの中でも、知恵・勇気・節制の三つが、バランスよく並び立つように図る最上位の徳が、正義でした。プラトンの『国家』が、「正義について」という副題をもち、正義を実現するための国家のあり方をテーマとしたことは、正義の意味を明らかにして、その実現をめざすことが、彼の哲学の目標であったことを表しています。以下、シリーズの初回で述べたことの繰り返しになりますが、ご容赦ください。
三人のしたことを、かいつまんでごく簡単に紹介します。ソクラテスは、人々との対話をつうじて、何が正しいか正しくないかを明らかにしようとしました。それによって、〈正義とは何か〉が決定されたわけではありません。しかし、何が正しくないかということは、明らかにされた。それは、不正が己に加えられたとき、それに不正で応えることである――この点は、『ゴルギアス』でも『国家』でも強調されています。ソクラテスが広場で人々に対話をしかける行為は、青年たちを腐敗させる、という市民からの告発を受け、裁判によって死刑の判決を受けた。この裁判のやり方が不正であったにもかかわらず、ソクラテスは友人たちからの逃亡の誘いを断り、毒杯を仰いで死んだ。それはなぜか。国法に従わずに逃亡することは、受けた不正に対して不正で応えること意味するからです。
弟子のプラトンは、師が刑死を受け容れた衝撃の事実から、正義の意味、正義を実現するための方法を、哲学のテーマにしました。正義とは何か。現実を超えた理想の世界に、その原理である「善のイデア」が存在する。正義を実現するには、善のイデアを認識できる優秀な指導者――哲人王――を養成して、哲人王の支配する国家をうちたてること、これ以外にないというのが、ソクラテスの死から出発したプラトン哲学の結論です。重要なことは、正義が個人個人の生き方ではなく、国家という共同体の存在と結びつけて考えられていること。正義は、それを実現させるための国家が存在しなければ実現しない、と考えられていることです。
さて、プラトンの弟子アリストテレスは、正義の問題をどう考えたか。プラトンが考えたのは、「理想国家」。現実の国家は、アテナイがそうであったように、寡頭制・民主制・僭主制のいずれかであって、「優秀者支配制」にはほど遠い――プラトン自身が認めたとおり。この点に関して、エリートばかりでない国家の現実を見すえて、あるべき政治や人間の生き方を考えるというのが、師プラトンとは違う道を選んだアリストテレスの哲学であったと考えられます。国家においてのみ、正義が実現される。この認識は、彼が背いた師プラトンと同じです。アリストテレスの場合、国家において正義を実現するための政治学が、最高の学問であるとされ、同時に、国家における人々の正しい生き方を明らかにする倫理学が要請されました。
プラトンとアリストテレスの立ち位置は、大きく異なります。プラトンのテーマは、最高の徳を身につけた優秀な支配者が、国家の正義を実現する。善のイデアを認識できる支配者を生み出すことが、政治の課題であって、支配される民衆がイデアを認識できるかどうかは、二の次である――とまで言っては、言い過ぎかもしれませんが――わけです。かなり乱暴な言い方をするなら、プラトンが求めるのは、哲学および政治の世界のエリート。それに対して、アリストテレスの政治が問題にするのは、エリートではなく、ふつうの市民です――「ふつう」という言い方がふさわしいかどうか。アテナイの社会を支えているのは、奴隷ですから、それから区別される「市民」そのものを、エリート的存在と見なすべきかもしれません。
そこで、市民の生き方を問題にできるような考え方の枠組が必要になります。プラトンのイデア論に代って、アリストテレスがうちだしたのは、「形相」と「質料」の区別。形相とは、人間を含めた生物種がそれを目的とするような本質、質料は形相の実現に必要な材料です。植物であれば、生長するための種子が質料、育って一人前になった姿が形相と考えられる。俗に言う「ウリのつるにはナスビはならぬ」――種子はよく似ていても、実のなる姿が異なるのは、両種の形相が違うからだ、と説明されます。アリストテレスが生物学の祖であると見られるのは、生物が形相を有し、個体や種ごとに異なる本質を具えている、という事実を明らかにしたからです。
「形相因」の考え方は、目的論に結びつきます――「形相因」と「目的因」とを同じに見ることもできます。事物に形相が具わるのは、そのもののあるべき姿を目的とするからです。国家において、市民それぞれの個性を実現することが善であり、政治の目標でなければなりません。しかし、これだけの短い説明では、技術に目的が不可欠だという本日の論点には至りません。後はお二人との対話をつうじて、技術と目的の関係を考えることにしましょう。
技術と政治
直:いまの講義では、解りにくい点が多かったのではないかと思いますが、いかがでしたか。
猛:解りにくいというより、これまで考えたことのない話題が出てきたので、チョットとまどいました。
直:それは、どういう話題ですか。
猛:政治の目的が、個人の本質――「形相」と言われましたが――を実現することである、という思想は解ります。でも、それと技術の問題とは次元が違うような気がします。大工仕事に「目的」が必要だという、先ほどの例も、それ自体としては理解できます。けれども、政治の世界で言う目的と技術の目的とでは、意味が違うのじゃないでしょうか。
直;同じ「目的」でも、政治の場合と技術の場合とでは、意味が違うということですね。中道さんは、いかがですか。
中:プラトンとアリストテレスの考え方の違いが、気になりました。プラトンのイデア論が、政治のエリートを念頭におく考えであるのに対して、アリストテレスの政治学では、一般市民が中心に考えられていると。いちおう、そういう理解でよろしいでしょうか。
直:そういうふうに申しました。中道さんは、どちらの考えに共感されますか。
中:いや、私にとってどちらの考えがよいか、などという判断はできません。ただ、素人なりに気にかかる点があって、それを申し上げてよいかどうか……
直:言ってください。どんな小さなこだわりでも結構ですから。
中:政治に目的が関係するのは、どちらの場合なのかな、という点が気になりました。
直:というと?もう少し具体的に言うと、どういうことでしょうか。
中:プラトンの考える理想国では、支配者が正義を実現することになるから、市民があれこれ考える必要がなくなる。政治の目的は不要になるように思います。アリストテレスの言う政治が、ふつうの市民を相手にするものであるなら、人々の求める「善」の意味が違ってくるはずですから、各自の生きる目的が問われてくる。そんな点が気になります。
直:なるほど。異なる個人が暮らす国家の中では、「善のイデア」一本では覆うことのできない、さまざまな善が追究される。それぞれにとっての「目的」が問題になるわけですね。
猛:それって、政治が技術を必要とするということじゃありませんか。各自の目標とするものを突き合わせて、調整するということですから。
直:政治が技術の問題であるということは、たしかです。政治に目的が必要であるということと、技術に目的が不可欠であるということとは、切り離して考えられません。
中:先生のおっしゃるとおりだと思うのですが、どうすれば政治が技術として成り立つのか、私には見当がつきません。
直:何か根本的な問題を考えておいでのように見うけられます。もう少し説明してください。
中:うまく言えるかどうか……私たちが「善い」と考えることは、一人一人違っていると思います。しかし政治は、一人一人にとっての善よりも、共同社会全体の「善さ」を実現しようとする。ということは、全体が個よりも重視されることではないでしょうか――たとえば、戦争遂行の場合のように。政治家は、よく国民一人一人を大切にする、というようなスローガンを掲げます。それはウソであるということが、国民には判っています。けれども、どうにもなりません。
猛:おっしゃったことに、ほぼ同感です。僕がさっき、政治は技術であると言ったのも、国民全体をコントロールするテクニック、というような含みがあってのことです。
直:技術というものが、ネガティヴに見られかねない理由が、現実政治にはある。そういうことなら、私にも異論はありません。それはそれとして、アリストテレスが政治について言っていることを確認しておきましょう。
政治の目的は共通善
直:政治が技術であるということは、技術一般がそうであるように、政治はある目的のために存在するということです。猛志君、その目的は何だと思いますか。
猛:ウーン、何だろう。一つ考えついたのは、国民の生活が安定するような経済の仕組みを整える、っていうことです。
直:中道さんは、いかがですか。
中:私も一つだけ挙げるなら、他国から攻撃されないような平和と安全保障のシステムをつくることでしょうか。ほかにもいろいろあるでしょうが……
直:お二人が挙げているのは、近代国家で営まれる政治が、特に気にかけなければならない二つのポイント、経済と軍事の問題です。しかし、アリストテレスが掲げる政治の目的は、そういう常識的な目的とはまったく違うものです。最近読んだマイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』(鬼澤 忍訳、ハヤカワ文庫、2011年)によれば、アリストテレスにとって、国家の目標は軍事でも経済でもない。「アリストテレスにとって、政治はもっと高い目標のためにある。善く生きる術を学ぶためにあるのだ。政治の目的は、まさに、人びとが人間に特有の能力と美徳を養えるようにすることだ。共通善について熟慮し、実践的判断力を身につけ、自治に参加し、コミュニティ全体の運命に関心をもてるようにすることだ」(305-6頁)と。いかがですか。
猛:政治が人々の美徳を養うためにある、なんてことは考えたこともありません。僕の知るかぎり、政治の世界は美徳どころか、悪徳の巣窟でしかありませんから。
中:驚きましたが、以前、TVでサンデルが出演した『ハーバード白熱教室』をチラッと観たときの印象では、社会全体を幸福にする条件を問題にしているように感じました。そこには、いま引かれたような「共通善」という考えがあったのか、と納得がいきました。
直:政治共同体としての国家が存在する理由は、人びとがそなえている可能性を開花させて、美徳に高めることだという考えは、典型的な目的論です。政治は、人びとがよく生きるためにこそ存在する。この考えは、政治が最高の技術である、という認識を物語っていると思われます。猛志君、この点はいかがですか。
猛:僕の理解する技術は、自分の頭の中にある目標を実現するための手段、というものでした。でも、いま伺った話では、アリストテレスの考えは、それとはだいぶ違うように感じます。
直:国家は、そこに属する人々の善さ(徳)を実現するという目的をもつ。この目的を達成することが、国家にとっての正義である。この大原則によって、政治という技術は、目的達成の手段となります。それゆえ、政治の技術には目的がなければならない。このことを、今回の結論にしたいと考えます。
猛:でも先生、僕らが日常用いている技術は、個別の人間関係やものづくりに関係しています。先生の批判されるハイテクは、情報に関する専門の技術です。そういうふつうの意味の技術と比べて、国家の政治が技術であるというのは、次元が違うのではないでしょうか。
直:政治とハイテクその他とは、次元が違う。君のおっしゃるとおりですが、それは二つの次元がカイリするようになった近代世界の特色であって、それ自体が、技術本来のあり方から外れた異常な現象なのです。
中:すると先生がおっしゃるのは、国家を動かす政治と日常生活で用いられる技術とが、本質に違いがないということなのですか。
直:そう、そのとおり。技術にはそれが目ざす目的(テロス)がなければならない、という点に関して、政治もモノづくりも違いはないということです。
猛:しかし、以前に聴いた哲学史の講義では、古代ギリシアでは、政治にかかわるプラクシス(実践)と、生活に必要なものをつくるポイエーシス(制作)とが分けられ、プラクシスの方が高く価値づけられている、ということでした。
中:先生は、先ほどアテナイの奴隷制に言及されました。政治活動に携わる市民の下で、生産活動に従事するのが奴隷、ということになると、プラクシスとポイエーシスという異なる種類の活動が、どちらも同じ技術であるといって済むのでしょうか。
直:プラクシスとポイエーシスの違いは、重要です。技術に特徴的な〈目的-手段〉の関連は、制作活動であるポイエーシスの特徴とされ、プラクシスにはそういう特徴はありません。プラクシスの本質は、行為に目的が内包され、いわば〈目的〉と〈手段〉とが一体になった活動であるところにあります。それは、エネルゲイア(現実活動態)と呼ばれて、奴隷的なポイエーシスのあり方から区別されます。
猛:プラクシスとポイエーシスとは、目的が行為の中にあるか、外にあるかの違いだということですね。技術の意味が、身分によって変わってしまうというのは、何か腑に落ちないなあ。
直:もっともな疑問ですが、そういう問題はいずれ考えることにして、「欲望と技術」のシリーズは、これで締めることにしましょう。よろしいですか、中道さん。
中:はい。技術は目的と結びつくことで成立する。このことが、目的不在のハイテク社会に先生が突きつけられた「ノー」の理由である、ということを理解しました。
休養宣言
直:どうもありがとう。ここでお二人にご相談というか、お願いがあります。
中:それは何でしょう。お聞かせください。
直:2019年11月以来、「エッセイ」は毎月の更新に合わせて、一度も休むことなく続けてきました。このあたりで、いちど休載して充電を図りたい。二、三か月休んで、その間にこれからの方針を考えたいのですが、理解していただけますか。
中・猛:了解しました。
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