「最前線」とは?
猛志君:「風土学の最前線」シリーズもこれで5回目、最終回です。最初に、お訊ねしたいことがあるのですが……
直言先生:何でしょう、それは?
猛:「風土学の最前線」というタイトルの意味は何か、ということです。「最前線」という言い方で、何を意味されているのかが、よく判りません。
直:そうですか。君はどんなふうにイメージしますか。
猛:戦場にたとえるなら、敵と戦う先頭部隊のイメージです。目の前の敵を撃退して、有利な戦況に導こうとする働きが、「最前線」の意味だと思います。
直:具体的なイメージで、いいですね。中道さんはどうですか。
中道さん:私にとって、戦場のイメージはありません。「風土学の最前線」から浮かんでくるのは、これまで先生が手がけてこられた風土学の土台の上に、何か新しい成果を生み出そうとされている、そういう最新研究が紹介されるのかな、という感じです。
直:なるほど。で、「新しい成果」があると感じられましたか。
中:それについて、こちらから申し上げるのは、チョット……。でも、何か新しい方向性をうちだそうとされている雰囲気は、伝わってきます。
直:具体的に、何かこれというものがありますか。
中:例えば前回、環境の「空間的スケール」について、これまでにない見方ができることに気づいた、とおっしゃった。そこに新しい方向性があるのではないでしょうか。
直:メゾ(中)のスケールから、ミクロ(小)あるいはマクロ(大)のスケールに移行することができるのではないか、と言ったそのあたりの問題ですね。
猛:割り込ませてもらっても、いいですか。環境のスケールを話題にされた、そこのところが、僕の印象でも「最前線」だと感じます。
直:お二人の受けとめ方が一致したわけですね。そのことは、今回の対話を進めるうえで好都合です。ただし、「最前線」の意味については、自分の考えとお二人のイメージにズレがあるようです。
中:「ズレ」とおっしゃるのは、どういうことでしょうか。
直:猛志君がおっしゃるとおり、戦いの最前線は、敵陣を突破することが目標の、最重要地点。研究について言うなら、懸案であるテーマに答えを出そうという地点です。
猛:それなら、こちらの言ったことと同じで、ズレはありません。
直:たしかにそうなのですが、君の理解と微妙に違っているのは、敵陣に突入できる用意が十分に整っていない、という現状認識があることです。このまま進撃しても、成果が得られないかもしれない。そんな危うさがあるのです。
中:とおっしゃると、「新しい成果」が生まれるかどうか、不確かな状況にある、そういうことになりますか。
直:ええ、そのとおり。突撃できる条件は整っているか。武器や装備はそろっているか。兵士の士気は上がっているか、等々。そういう事前のチェックに手間取って、モタモタしているというのが、私の「最前線」の状況です。
中:ご自身の道を突き進んでこられた先生にしては、気弱なおっしゃり方のように聞こえます。何か不安材料がおありなのでしょうか。
直:不安材料を一つ挙げるなら、歳かな。考え続ける体力、気力が続かないような気がするのです。アカンなあ。
猛:アキませんよ、そんなことでは。僕の方から、カツを入れさせてもらいます。前回の対話で、倫理をメゾ(中)からマクロ(大)の方へ拡大する方向を示したあとで、そのテーマを棚上げにされた。それを、これから取り上げなければいけません。
直:そうでした。そのテーマに向き合うことが、現在のコンディションではためらわれる、ということもあって、弱音を吐いてしまったようです。
テーマの確認
直:問題を確認しましょう。私にカツを入れてくれた猛志君、君の理解する問題のポイントは、どういうものですか。要約してください。
猛:先生は、環境を構成する空間を、マクロ(大)・メゾ(中)・ミクロ(小)の三つのスケールに分けられました。風土学は、この三つのうち、中間のメゾ・スケールを重視します。そこに「社会の空間と自然に対する関係」(ベルク)が表れるから、というのが理由だったと思います。
直:そのとおり。そういう説明に対して、君から異論が出されましたね。
猛:「異論」というか、自分なりの疑問を呈しました。ベルク先生の言われる「関係」は、「社会」ではなく、「個人」が他者と結ぶものではないか、と思うのです。
直:そうですか。「社会」はもともと個人の集まりですが、それを一つの〈全体〉に見立てた場合、〈個〉の立場が弱くなってしまう。そういう意見でしょうか。
猛:はい。風土学では、どちらかといえば〈個〉よりも〈全体〉が重視される。下手をすると、全体主義に流れてしまうんじゃないか、と。
直:そういう批判は、和辻倫理学に対して向けられることが多い。和辻の説く「間柄」の倫理学は、〈個〉を〈全体〉に従属させる全体主義である、というようにね。
中:たしか先生は、著書の中でそういう問題を取り上げられたことがあるように記憶します。『邂逅の論理』(春秋社、2017年)でしたか……。
直:ええ、その中の「第五章 風土の倫理学」で、「二つの倫理的立場」として、「間柄」中心の立場と個人中心の立場とを比較しています。
猛:そのことを忘れていました。すみませんが、その結論を教えてください。
直:簡単に言えば、個人主義と全体主義のどちらでもなく、個と全体の〈あいだ〉を開く倫理でなければならない、ということです。
猛:そうですか、個人主義に背を向けるということではないのですね。
直:当然です。「社会の空間と自然に対する関係」というベルクの定義が優れているのは、「社会」を「個人」に置き換えることができるということです。そう考えることによって、〈個〉が他の人間や自然に対して結ぶ関係を「風土」の意味に含めることが可能になる。個が集団に呑み込まれることなく、自立を保つことができるわけです。
猛:いま言われたことで、和辻風土学とベルク風土学との違いが見えてきました。ベルクの場合は、和辻よりも〈個〉の契機を重んじるということですね。
直:そう言えると思います。ただ、ベルクさんの風土学は、風土の領域的意味を切り捨ててしまうので、風土のローカルな決定力は陰に隠れてしまう感じがある。その点、風土の地域的性格をクローズアップした和辻の功績は、大きいと考えられます。
中:口をはさんで申し訳ありません。前回のおさらいから、話がどんどんそれていきそうなので、今回のテーマに話を戻していただけないかと思います。
猛:大中小という空間の三つのスケールのうち、〈中〉つまり地域のスケールに、個人という〈小〉のスケールを含める考えを示された。それに対して、僕が異を唱えたことで、話がややこしくなった。その流れで言うと、〈中〉から〈大〉へ、地域から地球へ、どうやって移行するのか、という課題が残っていることになります。こういうまとめで、合っているでしょうか。
直:そう。前回、君から追及された〈メゾ→マクロ〉という問題を棚上げにしました。この問題が、今回のテーマになります。
形而上学との訣別
直:最初に猛志君が出された質問に答えましょう。私にとって「風土学の最前線」は、「環境」の極大値である「地球」に適用できる倫理をどう具体化するか、という問題です。
中:先ほど口にされたのは、その問題に向かうための準備に、不安があるということのようです。どうしてでしょうか。
直:風土学は、空間で言えば、極大の「地球」でも極小の「個人」でもなく、中間の「地域」から出発します。前回申し上げたように、中間のメゾ・スケールから出発して、ミクロのスケールおよびマクロのスケールに、どう移行するかという問題が、風土学のテーマです。このテーマに対して、ヒントになるような参考意見が見当たらない。先行事例が存在しないということが、最大の不安材料です。
猛:さっきから名前の挙がっている和辻哲郎やオギュスタン・ベルクの風土学は、先行事例ではないのですか。
直:もちろん言うまでもなく、彼らは風土学の先駆者であり、貴重な理論モデルを提供している人たちです。でも、彼らには、中間的なものから出発して普遍的なものに向かう、という明確なメッセージは見られません。メゾからマクロへ、地域から地球へ、という方向性が認められないです。
中:先生の風土学は、和辻やベルクの風土学とは違う、そういうことをおっしゃっているわけですね。その違いを、専門外の私にも解るように解説していただけないでしょうか。
直:このさい無理を承知で、簡単に言い切りましょう。世界や人間の存在を根拠づける理論は、哲学で言うところの「存在論」。別の言葉では、「形而上学」です。和辻は、哲学者・倫理学者ですから、当然として、地理学者であるベルクも、存在論によくつうじています。彼らの理論は、いずれも個性的ですが、西洋世界で成立した存在論・形而上学に支配されています。それが、〈中間的なもの〉からの出発を妨げているのです。
中:存在論については了解しましたが、それが「〈中間的なもの〉からの出発を妨げている」と言われたこととどう結びつくのかが、分かりません。どういうことでしょうか。
直:哲学は、物事の本質を、いつでもどこでも変わらない〈同一性〉として明らかにする学問です。ところが、事物や人間のあり方は、ときとところによって変わらざるをえない、つまり〈差異〉として成立する。ベルクも和辻も、〈同一性〉を大前提に置き、〈差異〉を風土性・歴史性として説明しようとする立場です。
猛:それが当然じゃありませんか。同一性があるから、それに対する差異が生じてくる。それ以外の行き方があるなんて、考えられません。
直:君も哲学の学生だから、彼らの立場からそんなに隔たっていない。君の意見は、いたってふつうの考え方だと言えるでしょう。存在論が提示する同一性を前提にしたうえで、そこから生じてくる差異、つまり特殊性に目を向けるわけです。私の場合は、そういう考え方とは逆に、差異から出発して、同一性が生まれてくるプロセスを明らかにしたい。それが、自分の風土学と和辻やベルクの風土学との違いだと考えているのです。
猛:それって、存在論の否定になるのじゃありませんか。
直:ハッキリ言えば、そう。2023年12月に発表した論文「〈道のロゴス〉試論」の最後、結論のところで、「形而上学との訣別」を見出しに掲げたのは、そういうことです。読む側にこちらの意図がどこまで通じたかは、分かりませんが。
中:その論文、文学に表現された「道」のイメージから議論が展開されるので、難しいところはあっても、興味をもって読むことができました。ですが、そういう狙いが最後に示されているということは、いま伺ってはじめて知りました。
猛:僕も、その箇所を見過ごしていました。ところで先生は、これまで書かれたものの中で、形而上学・存在論の否定を主張されたことはありますか。
直:それをキッパリと明言したことは、ありません。しかし、どの著書でもテーマに取り上げている〈かたちの論理〉は、元来、形而上学の克服をめざしています。
猛:いま言われると、なるほどそうだったのか、という気がします。けど、著書や論文の中で、「形而上学を克服する」という目標が掲げられているのを目にしたことはありません。それはどうしてでしょうか。
直:さっき「最前線」についての議論で言ったとおり、そういう目標を明言するだけの自信がなかったからです。準備が整わないうちに、スローガンだけを先行させることはできませんからね。
猛:先生は、形而上学が軽視してきた〈差異〉にこだわる立場をとられる。でも僕は、形而上学が〈同一性〉を中心に思考してきたことを、重要だと考えます。そういう考え方でなければ、普遍的なものの地平は開かれないと思うからです。
直:その考えは、よく解ります。特に、普遍性が保証されなければ、哲学ではないというのが君の意見なら、それにまったく同感です。
猛:それなら、何も形而上学を否定する必要はないのじゃありませんか。どうして、形而上学との訣別を主張されるのか、理由が分かりません。
直:理由は、西洋哲学の存在論・形而上学が世界を支配し続けることによって、それ以外の知が貶(おとし)められるからです。世界にはさまざまな形のロゴス、というか知のタイプがある。それらの〈差異〉を認める普遍性の立場が、求められると考えます。そうであるなら、西洋発の形而上学を相対化できるような新しい「論理」を開発しなければならない。これまでいろいろ迷いながらも、〈かたちの論理〉を看板に掲げてきたのは、そういう思いからです。
中:先生の議論についていくのは、骨が折れるのですが、いま最後におっしゃった「差異を認める普遍性」ということが、〈かたちの論理〉につながっているのかな、という感じがしました。
直:まさにそのとおり。〈かたちの論理〉が提示する〈かたち〉から〈かた〉へ、という動きは、〈差異〉の中から〈同一性〉が生まれる過程を表しています。形而上学が前提する〈同一性〉から〈差異〉への方向は、〈かたちの論理〉に沿って言うなら、〈かた〉から〈かたち〉が生まれる過程です。対照的な二つの方向は、それぞれで完結することなく、その逆方向の運動とかみ合わされることによって、たがいに相対化されます。
猛:そういう考え方なら、形而上学は破棄されるのではなく、〈かたちの論理〉の中に包摂されるということになります。そう理解してよいでしょうか。
直:ええ、それで結構です。
猛:それなら一つ、質問があります。〈かたちの論理〉に沿って考えるとき、地球全体に当てはまる普遍的な倫理の立場は、どういうものになるでしょうか。〈人類はみんな同一〉という前提に立たなくても、普遍的な倫理というものが成り立つでしょうか。
直:もっとも重要なポイントです。きちんとお答えしたいが、うまくいくかどうか。自分の考えを示す前に、自分がこれまで手本と考えていた道徳思想を紹介します。学生時代から仰ぎ見てきたベルクソンの哲学です。
講義:エラン·ダムールあるいは開いた道徳
『道徳と宗教の二源泉』(1934年)の中で、ベルクソンは「閉じた道徳」と「開いた道徳」とを根本的に異なるものとして区別しています――タイトルの「二源泉」は、二種の道徳が異なる根源から生じることを表しています。ベルクソンは、「閉じたものの」と「開いたもの」とを、本質の異なる二つの次元に振り分けます。それらが混じり合って、一つになるというふうには考えないのです。
ふつう私たちは、小は家族、大は国家に属する一員として、共同社会の中で生きています。そういう共同体において、守るべきルールや規律があり、守るべきおきてという意味での法律があります。そうした共同体の内部で守られる道徳が、「閉じた道徳」です。われわれが社会の決まりに背くことができないと感じるのは、閉じた社会の中で内向きに働く道徳的な拘束力、「責務」の意識です。その意識は、戦争のように、自己の属する社会の目的に個人が同調しなければならない場合、「愛国心」という形をとるのがふつうです。
国家愛が「閉じた社会」の道徳、「閉じた道徳」だとすると、その対極に、別の源泉から生じる「開いた道徳」が位置します。後者の典型は、人類愛。それは、「開いた魂」が人類全体を包む愛として、国家愛のように閉じた社会に対する感情とは、本質が異なるものです。つまり人類愛は、特定の対象に向けられることのない、開かれた感情を表します――「この種の愛は、動物、植物、さらには全自然へまでも広がっている」。というのも、「それが人類に達したのは、どこまでも人類を超えることによってだった」からです(引用は、『道徳と宗教の二源泉』森口美都男訳[世界の名著64、中公バックス]、250-251頁)。
二つの道徳の区別に関して、前回参照した「修身斉家治国平天下」という『大学』のスローガンが思い出されます。儒教では「修身」、つまり個人道徳から、「平天下」という政治の目標に至るまで、「仁愛」という理念が貫くことをめざしています。家族がたがいに愛し合うように、国民みんなが同胞への愛で結ばれるような社会が、理想であるとされています。中国全土を統一する秦帝国が成立する以前の戦国時代、「諸子百家」の一人である孟子のような思想家は、孔子の教えを受け継いで、分立する地方国家の王たちに、仁愛の理想を説いて聞かせたわけです。
ベルクソンの考えから言えば、地方国家であれ統一国家であれ、すべて「閉じた社会」であって、開かれた地球全体ではない以上、儒教道徳は「閉じた道徳」にすぎないことになります。私は、『二源泉』を初めて読んだ若い日、「開いたもの」の思想に感激しました。その中で説かれる「エラン・ダムール」(愛の飛躍)こそ、世界を変える力であると信じました。現在でも、その思いは変わりません。しかし、それと同時に、さまざまに制約された人間社会の中で、「閉じたもの」を開いてゆくにはどうしたらよいか、という現実的課題が浮上してきたこと、このことも事実です。
『二源泉』の中で、「開いた魂」の例として取り上げられるのは、哲学者ソクラテスのような道徳的英雄、神の子イエスのような宗教的天才、つまり他に類のない「エリート」たちです。ユダヤ人ベルクソンの思想には、国家の意識が希薄である、という指摘がなされています。日本人である私にとって、ユダヤ=キリスト教の精神的伝統が、仏教のようなアジアの「静的宗教」よりも優れた「動的宗教」とされている事実を、そのまま受け容れることには、抵抗があります。できることなら、仏教や儒教の説く人間の生き方も視野に入れた、西洋中心的でない地球倫理の立場を確立したい。西洋に生まれた形而上学を認めつつも、それを唯一の基準とするのではなく、さまざまな〈差異〉、可能性の一つとして相対化できるような立場を切り拓きたい。そういう思いから、〈かたちの論理〉を構想したわけです。
大風呂敷を広げましたが、風土学の最前線を〈かたちの論理〉に見定めたところで、ひとまず講義を終わります。
「閉じたもの」を開く
直:ベルクソニアンから出発した私が、〈かたちの論理〉というライフワークに到達した経緯を語りました。どういう感想をもたれました。
猛:ウーンそうか、という感じです。〈形而上学との対決〉の意味が、これほどハッキリ口にされたのは、はじめてですから、チョット驚きました。
中:最近取り上げられた「中庸」や「道のロゴス」という考え方が、どうして出てきたのかという背景が、少し理解できたような気がします。先生は、ベルクソンの哲学から少し距離を置いたところで、〈かたちの論理〉を追究されている、と考えてもよいでしょうか。
直:そうです、そのとおり。ベルクソンとの〈距離〉は、東洋思想と〈縁〉を結んだところから生まれた、と言ってよいかもしれません。
猛:一つ、質問させてください。ベルクソンの「エラン・ダムール」のような思想は、東洋思想にはないと思います。西洋哲学にしかない理念に代わる何かを、東洋思想のように形而上学ではない領域で見つけることができるのでしょうか。
直:「エラン・ダムール」は、ベルクソンの考えた思想で、それに代わるものは、どこにも――むろん、中国にも日本にも――見つけ出すことはできません。できることがあるとするなら、それは「閉じたもの」を少しずつ開いてゆく手続き、「開いた道徳」ではなく、「開いてゆく道徳」とでも言いたいような何かです。
中:「開いた道徳」ではなくて、「開いてゆく道徳」ですか。それについて、ぜひお話しください。
直:まだよく考え切れていない問題なので、うまく説明できる自信はありません。聞いてオカシイと思われたら、すぐに突っ込みを入れてください。
猛:その点は、僕に任せてください。説明をお願いします。
直:ベルクソンは、「閉じたもの」と「開いたもの」とを二分しますが、重要なのは、両極の中間に「開いてゆくもの」があるという事実です。「閉じた魂と開いた魂との間には、開かれゆく魂がある」(276頁)。もし世の中に英雄的なエリートと凡庸な大衆との二種類しか存在しないのであれば、前者がいくらがんばっても、社会は変わらないでしょう。社会が「形態変化」(transformation)を生じるのは、開いた魂の呼びかけに人々が応えて、自らを開く動きに参加するからです。そうではありませんか。
猛:たしかに、ふつうの人々が行動を起こさないかぎり、世の中は変わりません。しかし、ヒトラーのように民衆を扇動する動きに人々が乗せられて、一つの方向にまとまる危険もあります。全体主義が恐ろしいのは、カリスマ的な指導者が、それに惹かれる一般大衆をコントロールするような状況が、簡単に生じるからです。
中:猛志君のおっしゃる「全体主義」の危険性、私にも思い当たる節があります。特に現代社会では、SNSなどを利用することによって、一躍ヒーローが誕生する、といったことが珍しくありません。先生のおっしゃる「閉じたもの」を開く働きとは、まったく違うと思うのですが……
直:一つ、適当な例を挙げましょう。ベルクソンが「開いた魂」の代表に挙げるソクラテス。彼は、民衆を扇動するような方法を取ったでしょうか、猛志君?
猛:いいえ、彼が行ったのは、〈対話〉によって人々におのれの無知を悟らせるという行為でした。もっともアテネの社会は、そういう彼の方法を理解せず、青少年の精神に悪影響を及ぼしたという理由で、ソクラテスに死刑を宣告しました。
直:ソクラテスと多くのソフィストのようなデマゴーグ(扇動家)との違いは、まさにそこにあります。ソフィストのとる手段は、演説のような弁論術。それは一方的な説得の技術であって、それを現代社会に適用したものが、SNSだと考えられる。対するソクラテスは、理性的な対話をつうじて、「閉じたもの」を開いてゆく。こちらの方は、全体主義に対抗する最強のハドメであると見なければなりません。
「最前線」のこれから
中:なるほど、「閉じたもの」を開いてゆくカギは、対話にあるわけですね。おっしゃることは、よく解りました。けれども、そういう意味の対話が、どこまで有効性をもつのかについて、少し疑問があります。
直:対話の有効範囲は限られていると。そうおっしゃりたいわけですか?
中:ええ、たとえば、いまここにいる三人のあいだで対話が行われている。その中で理性的な反省が生まれているとしても、その有効範囲は、われわれのあいだだけに限られているように思うのです。
直:これは、中道さんの言葉とも思えない。ここにいるわれわれのあいだで、「三人対話」が行われている。それは、三人だけで完結するなら、閉じたサークルにすぎない。けれども、三人対話は、それを構成するメンバーを超えて、外へと無限に開かれていく。そのことを以前から申し上げているはずなのに、お忘れですか。
中:思い出しました。たしかにそうです。ただ、そうはいっても、マクロの環境である「地球」を守るために、対話以外の手段が考えられないかという点が、私には疑問として残ります。
直:ミクロの「個」、メゾの「地域」は、〈対話〉でよいとして、マクロの「地球」に対しては、それにふさわしい倫理を設定しなければならない、というお考えでしょうか。
中:そうとっていただければ、何よりです。
直:了解しました。この点に関して、猛志君、何かご意見はありますか。
猛:今日の先生は、形而上学と訣別して〈かたちの論理〉を完成させたい、という趣旨のお話をされました。いま中道さんが挙げられた「地球」の倫理について、形而上学に頼らずにそれが具体的に実現できるのかどうか。自分には、まだよく分からない、という以外にありません。
直:君のその答え、メゾからマクロへ、地域から地球へ、どのように移行するかが、われわれの課題であるということを、改めて確認させてくれました。その課題に、まだ完全な答えが見つからないということも、三人共通の確認事項です。したがって、「風土学の最前線」は、そのまま維持されることになります。
中:私は、先生が〈かたちの論理〉をどんなふうに仕上げようとされるのかを、横から見守らせていただきたいと思います。
直:ありがとう。中道さんには、ひきつづき対話をつうじてのサポートをよろしくお願いします。猛志君、君は自分の研究をつうじて、何かこれは、と言えるものを見つけるように努めてください。その努力に対する応援は、こちらとしても惜しまないつもりです。
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