毎月21日更新 エッセイ

風土学対話(5)――〈自由〉と〈偶然〉

風土学対話(5)――〈自由〉と〈偶然〉

 

直言先生:先月は、「両否」(AでもBでもない)から「両是」(AでもBでもある)がどうして出て来るのか、という点について、私なりの考えを示しました。この説明で、お二人が納得されたのかどうか。それを伺うことから、始めたいと思います。まず中道さん、いかがですか。

中道さん:日本の「近代化」を例に挙げて、一生懸命に説明してくださった。そのことに感謝しながら、こう申し上げるのは気が引けますが、やはりよく解りませんでした。

直:解らなかったというのは、どういうところですか。

中:例に出された近代化の方針をめぐって、改革派と保守派とが争った。歴史上の事実としては、そのとおりだろうと思います。とはいっても、現実にはどちらかの主張が通って、そのつど勝ち負けの決着がついています。とするなら、ABどちらもあり、というような「両是」は、なかったのではないでしょうか。

直:事実として、「中道」は成立しない、ということですね。なるほど、おっしゃることの意味は判りました。それにお答えする前に、猛志君、君の方はどうですか。

猛志君:とても難しいお話だったので、理解できたという自信はありません。「両是」というのが、二つの選択肢が同じ重さをもつということなら、そのことは認めます。しかし、〈あいだに立つ〉というのが、中間地点に立つということなら、それでは選択のしようがないことになってしまいます。最初に挙げられた五輪開催の是非について言えば、中間地点に立ったのでは、「開催」と「中止」のどちらも選ぶことができなくなると思います。

直:お二人とも、重要な問題を指摘されています。現実には、ABのいずれかに決着するのだから、両者の〈中間〉は存在しない、というのが中道さん。これに対して、〈中間〉に立つことができたとしても、それではABのいずれかを決定することができない、というのが猛志君。どちらの疑問に対しても、すぐに答えるのは難しい。かといって、参考になるような過去のエッセイを、ここで引き合いに出すこともできないので、新たに講義をしたいと思います。考えついたテーマは、「自由と偶然」。それを聴いてもらってから、議論を再開しましょう。

講義:自由と偶然

私に「中の論理」を教えてくれたのは、山内得立『ロゴスとレンマ』(岩波書店、1974年)。この本の中で山内は、仏教の論理に「テトラレンマ」(四つのレンマ)があるとして、そのⅠからⅣまでを、こう定式化している。

Ⅰ A(肯定)
Ⅱ 非A(否定)
Ⅲ Aでも非Aでもない(両否)
Ⅳ Aでも非Aでもある(両是)

以上のうち、第三レンマ「Aでも非Aでもない」から、第四レンマ「Aでも非Aでもある」への転換が、「即」(即時)であるという理由から、山内はこの思考法を「即の論理」(後に「即非の論理」)と呼び、龍樹『中論』にそれがある、と記している。しかし、龍樹やほかの論者は、〈中〉の意義を、「Aでも非Aでもない」両否として強調することはあっても、「Aでも非Aでもある」という両是の形で主張することはない。その事実からすると、〈両否両是〉の転換を表す「即の論理」は、山内の創案であると考えられる。そうして山内は、絶対否定から絶対肯定に転じるこの考え方こそ、「中の論理」であるということを主張する。

龍樹や世親といった大乗仏教の祖師には、二分された両極をともに斥けることが、〈中〉の立場だという思想がある。しかし山内は、「両否」だけでは〈中〉に至らないとして、否定された二者をともに肯定する「両是」によって、はじめて〈中〉の境域が成立すると説く。双方の考え方には、大きな違いがある。

山内得立が〈両否両是〉の転換を強調した理由は、何だったのか。対立する二つの考えをどちらも否定する、というのが仏教の「空」。龍樹の『中論』は、両否の意味での〈中〉が、そのままで「空」であることを説いている。これに対して、山内は、「どちらでもない」というだけでは十分ではなく、「どちらでもないがゆえに、どちらでもある」ということが言えて、はじめて〈中〉の境地が開かれると主張する。両者のこの差は大きい。「空」に関して言うなら、龍樹の場合、Aと非Aの「どちらでもない」という両否が、「空」の根本である。これに対して、山内の場合、両非からAと非Aの「どちらでもある」という両是に至るという考えが、大乗仏教の「空」に一致するかどうかは微妙である。

 このように、山内の考える「中の論理」は、絶対否定を重視する大乗仏教よりも、絶対肯定に比重がかかる。その言わんとする点は、Aと非Aのどちらも否定することによって、Aと非Aのどちらも等しく選ぶことができる、ということにある。ここで、前回エッセイの最後に挙げた「自由」を想い起こされたい。「自由」とは、二つある選択肢から選ぶ場合に、どちらを選んでもかまわない、ということである。だが、「どちらでもよい」ということが言えるためには、あらかじめどちらかを選ぶように仕向ける力が働いていない、ということが前提条件。世の中の選択は、ほとんどの場合、どちらを選ぶべきかの方向づけが行われていて、日本人の大半はその力に従おうとする――つまり、「空気を読む」。それなのに、自分の意思で選んでいるから自由だ、と錯覚している。ハッキリ言って、それは自由ではない。

 まず、眼の前にある選択肢をどちらも否定する[両否]。それによって、どちらかを選ぶように仕向ける背後のプレッシャーから遠ざかる。それが、「自由」の大前提である。自分が自由になれば、ABか、という強迫観念をもつことなく、自然体で臨むことができるだろう。そのとき、ABどちらの目が出るかは、「偶然」にすぎない。語弊を承知で言うなら、自由であるとは、偶然に任せる境地になる、ということである。

 

対話再開

直:以上、〈中間に立つ〉ことが、「自由」であるための条件である、ということに絞って説明しました。前回の対話の補足のような内容です。これが、今回の議論にとってプラスになるかどうか。ともかく、お二人のご意見を伺いましょう。

猛:最後に言われたこと、ABのどちらを選ぶかは「偶然」であって、自由とは偶然を認めることだ、というのが強烈でした。

直:どうしてですか。自由が偶然を認めることだというのが、君にとって意外な考えだということですか。

猛:おっしゃるとおりで、偶然と自由とは、僕の中では一つに結びつきません。先生にそれを言われて、そうだろうか、そうかも……と迷い出したところです。

直:なら、しばらく時間をとって、考えてもらいましょう。そのあいだに、中道さん、あなたのお考えを聞かせてください。

中:ウーン、難しいですねぇ。世の中の動きは、そのときどきの流れでコロッと変わります。ABどちらの目が出るかは、時の運、というのが私の見方でした。それがいま、「偶然」という言葉によって説明されました。

直:「時の運」と言われたが、それは「偶然」の言い換えです。「運」とか「運命」という言葉は、「偶然」という代わりに、世間でよく使われます。

中:ですけれど、「運命」というと、それから逃れられない「必然」というように、私には受けとれます。「偶然」と「運命」とは、何か正反対の意味をもつように思われるのですが、素人考えでしょうか。

直:いいえ、そのとおりです。「運命」には「必然」の意味があります。ですが、それだけではなく、同時に「偶然」という意味が含まれています。難しく言うと、「運命」は「偶然の必然化」ということです。そう言っても、理解されるかどうか……。

中:「偶然の必然化」、そんな言い方を聞いたのは、生まれて初めてです。ですが、「偶然」と「必然」とは、正反対ではないのでしょうか。初歩的な質問で、すみませんが。

直:どういたしまして。世間の人たちは、みんなあなたと同じように考えています。何か出来事が起こったとき、それは必然であって、偶然の結果ではない、というように。そういう場合、必然とは偶然でないこと、逆に偶然とは必然でないこと、この理解に間違いはありません。

中:それなら、偶然が必然になるというのは、常識では理解できません。どうして、そうなるのでしょうか。

直:それにお答えするには、偶然性についての哲学的議論を持ち出す必要があります。でも、それに入る前に、先ほどから考え込んでいる猛志君に、偶然と自由について意見を言ってもらいたいと考えますが、どうでしょうか。

猛:まだ、考えがまとまりません。一つ言えるのは、自分の行為が偶然ではなく、必然によるものだと考えないと、「自由」とは言えないのではないか、ということです。

直:どうしてそう考えるのか、理由を挙げてもらえませんか。

猛:「自由」というのは、自分のやりたいことを自分で決めるということだと思います。「偶然」というのは、自分の意志では決められないことでしょう。ということは、自分の意志で決定したことなら、「必然」ということになります。

直:よく考えましたね、素晴らしい。ですが、君の説には一つ見落としがあります。それは、いま問題にしているのが、〈中間に立つ〉場合だということ。つまり、二つの選択肢があって、そのどちらにすればよいのか、自分の意志では決定できないような状況だということです。

猛:確かにそうでした。選択肢がAB、そのどちらとも決められない、というのが問題の起こりでした。

直:そうでしょう。そういう場合、どちらにも決められない、というのがふつうです。それなのに、君は、自分の意志で決定する「自由」がある、と信じている。

猛:確かに。でも、そうなると、そういう状況では「自由」がない、ということになるんじゃありませんか。それなのに先生は、そういう状況に「自由」があると言って、それを「偶然」と結びつけている。なんだか、頭がこんがらがってきました。

直:君の頭を混乱させてしまって、申し訳ない。いまのやりとり、中道さんはどう思われますか。

中:私よりずっと頭のいい猛志君が、「混乱した」というぐらいですから、こちらが言えることは何もありません。ただ、先ほどから伺っていて、先生のおっしゃる意味の「自由」は、「運命」について、「偶然の必然化」と言われたこととつながっているのかしら……という気がしました。

 

偶然と必然

直:おっしゃるとおりです。自分の意志では決定することができない状況では、どんな選択も「必然」ではなく、「偶然」になります。ちなみに、「偶然」とは、「そうでないことが可能なあり方」。「必然」とは、逆に、「それ以外ではありえないあり方」です。

中:では、「運命」について、いま言われた意味での「偶然」が、「必然」に変わるというのは、どうしてでしょうか。

直:下世話な例を挙げましょう。一人の青年が、若い女性との集団見合いの場に臨んだとしてください。その席上、たまたま一人の相手と目が合った。それから、何となくお互いが気になって言葉を交わすうちに、「この人だ」という直感がはたらき、やがてゴールイン。よくある話ですが、「運命的な出会い」の例になるでしょう。

猛:「一目惚れ」ってやつですね。よくわかるけど、それは〈自由=必然〉の例じゃないんですか。

直:結婚した後にリクツを言うと、たいていそういう話になります。結ばれた男女のどちらも、「運命的な出会い」は必然であった、というふうにね。けれど、二人の目が合ったのは、「たまたま」(偶々)、つまり、それが生じないことも可能であった、という意味での「偶然」そのものです。

猛:そうであったとしても、出会った当人同士が、〈出会い〉を必然だと考えることに対して、第三者がそれを「偶然」だというのは、理不尽ではありませんか。

直:確かにそのとおり。同じ事柄を「必然」と見るか「偶然」と考えるかは、見る人の立場、見方の違いによって変わります。

猛:それ、はじめて聞きました。だって、必然と言えば偶然の否定、偶然は必然の否定、というのが常識ですから。

直:常識には違いないけれど、偶然と必然はコインの裏表、物事を見る角度次第で、どちらも成り立つということを、このさい頭に入れてください。

中:集団見合いの例は、頭の硬い私でも、何となく腑に落ちました。ただ、そうは言っても、前に例に出された国家の方針決定などが、「偶然」という言葉で片づけられるのでは、納得が行きません。その決定が「必然」である、という説明を、国民としては求めることが、当然ではないでしょうか。

直:政治の世界で、「偶然」はタブーです。昨年観たTV番組の中に、NHK(当時)の大越健介キャスターが、読売新聞主筆の渡辺恒雄氏にインタヴューする特集番組(『独占告白・渡辺恒雄』)がありました。実に面白かった。ナベツネ氏の回顧談を聴いていると、昭和の政権交代劇が、必然性などまったくない、人間臭いドタバタ劇の連続であったことが、よく判ります。実質は「偶然」の連続でありながら、いかにもそれらしい理由をくっつけて必然化する、という政界の裏事情も、よく解って参考になりました。

中:それの「平成篇」が、再放送されました(117日)。世間を騒がせた、あのナベツネさんの放談か……という気がして、私は観ていないのですが、そんなに面白いのですか。

直:彼が読売新聞のトップに座って以後の「平成篇」よりも、若い番記者時代を回顧する「昭和篇」が秀逸です。昨年放送されたドキュメンタリー番組の、ベストワンでしょう。また再放送されるでしょうから、その機会に観てください。

 

科学と宗教

猛:お二人のやりとりにお邪魔してすみませんが、同じ一つの事柄が、「偶然」に見えたり、「必然」に見えたりする、とおっしゃるのは、どうしてそうなるのか、理由を教えていただけませんか。

直:お答えしますが、その前に訊かせてください。君の必然性に対するこだわりは、どこから来ているのか。それを考えたことがありますか。

猛:科学は、物事を合理的に考えて、なぜそういうことが起こるのかを明らかにしようとします。哲学も基本は科学と同じで、物事の原因や理由を理性によって説明しようとします。ですから、この世界のあり方は、必然であって偶然ではないということが、カントの本を多少読んで、僕が学んだことです。

直:非常にクリアーな説明で、よく解りました。君が言われたことを、そのままこちらからの回答に利用させてもらいます。少し硬い説明になるけれど、哲学という学問の根本にかかわる重要なポイントです。

中:専門用語をできるだけ使わずに、説明していただけますでしょうか。

直:お任せください。この世界がどのようにできているかの仕組みを、誰もが理解できるよう、理性的に説明するのが、科学の立場です。この点について、異存はありませんか。

中:ありません。そういうものが、科学であると思います。

直:では、次の点についてはどうでしょう。科学は、この世界――「宇宙」と言ってもよい――で起こるどんなことについても、説明できると考えられるかどうか。

中:ウーン。ふつうに起こる出来事は、すべて科学的に説明できるようにも考えられますし、まだ科学者が解けない難問がある、とも言われているようです。

直:猛志君、君の考えはどうですか。科学によって答えられない問題があるかどうか。

猛:それこそ、カントの考えた問題です。カントの『純粋理性批判』は、理性で考えて答えられる問題と、理性によっては答えの出せない問題とを分け、前者を科学に割り当てました。ですから、科学では答えの出ない問題がある。でもそれは、科学が理性の範囲内で考えられる問題だけを扱う、という根本制約によってです。

直:非常にきちんとしたカント理解です。カントがやろうとしたことは、理性の力がどこまで及ぶかの線引きをして、科学の扱うべき対象を限定するという仕事、それが『純粋理性批判』の内容です。

中:お二人の話で、よく解りました。つまり、答えの出ない問題を科学は考えない、ということですね。

直:そう、そのとおり。ですが、いま言われた「答えの出ない問題」というのが、問題です。そういう問題が、何かありますか、猛志君。

猛:第一批判(『純粋理性批判』)で取り上げられているのは、伝統的な「形而上学」の問題です。人間に自由はあるか、死後にも魂は存続するか、といった問題です。

直:カントをよく勉強しましたね。で、カントはそういった問題を、理性では扱えないからという理由で、学問から追放しましたか?

猛:たぶん、そう来るだろう、と予想していました。科学が扱える問題は、「純粋理性」の対象です。ですが、純粋理性では扱えなくても、「実践理性」が取り扱うことのできる問題として、神の存在その他をカントは認めています。科学のように、ハッキリした答えが出なくても、人間がそれを考えることに意味がある、という問題です。

直:「魂の不死」などという問題は、ふつうの頭で考えても、答えは出ない。ですが、「実践理性の要請」にしたがうなら、それを考えてもよいのだという思想。これについて、君自身はどう考えますか? 答えの出ない問題を考える、という行為を。

猛:「答えが出ない」とまで言い切るのは、チョット……。しかし、神を信じる人なら、魂が死後も生き続けることを信じるでしょう、それが答えだと思います。

中:見当外れの意見かもしれませんが、問題は、科学と宗教の違いじゃないでしょうか。科学の問題なら、答えが出るか出ないか、どちらかです。それが宗教になると、周りのだれも認めなくても、その人だけは信じるという態度になります。そこが、科学との違いじゃないか、と私は思います。

直:そのとおり。いまおっしゃったことは、「見当外れ」どころではありません。科学の場合だと、「答えが出ない」というのも、一つの答え。ところが、信仰に関しては、「鰯の頭も信心から」というように、人によって、信じる信じないの違いが生じてくるのが、ふつうのあり方。しかも、そのことを誰も不思議だとは考えない。そちらの方が、不思議だと思いませんか?

 

ふたたび「偶然」と「自由」へ

直:科学と宗教の違いが出てきたところで、君と議論してきた「偶然」と「自由」の関係に話を戻したい。君は、考えても答えの出ない問題に対して、答えを出す責任があることを認めました。それは、二つの選択肢の〈中間に立つ〉以上、避けられないジレンマである。この言い方で、間違いありませんか。

猛:ありません。おっしゃるとおりです。

直:そういう状況で、それでもいずれかを選ぶことになる。その選択を、私は「偶然」と呼んだ。この言い方で間違いないでしょうか。

猛:間違いなく、そうおっしゃいました。

直:まるで、ソクラテス流の誘導尋問みたいで、気が引けますが、もう一点、そういう「偶然」の選択を、私は「自由」であると言った。そのことに対して、君は自分の意志で選択できないのだから、「自由ではない」とおっしゃった。この事実については、認めますか。

猛:認めます。ですが、その場合、「自由」というのは、自分がそうすることに必然性があるという意味です。先生は、ABかのいずれかを選ぶことに、必然的な理由がないから、それは「偶然」だと言われた。僕は、その状況には自由がない、という点を強調したつもりです。

直:君が「自由がない」という、まさにその状況こそ、「自由である」というのが、私の主張です。なぜそう言えるのか。二者の〈中間に立つ〉ことによって、どこからも誰からも、「こうせよ」というプレッシャーを受けることがない。つまり、外圧から「自由」である、そう言える状況になります。そういう状況の下で、自分が何かをしようという気になったとしたら、それは「内圧」以外ではありえません。わかりやすい例で言えば、先ほど中道さんが挙げた宗教の例のように、ある神を「信じる」といったはたらきが、それに当たります。

猛:僕から見ると、信仰というのも、一種の「必然」だと思います。神様を信じれば、これこれの幸福が得られる、という期待があるから、それで入信するのではないでしょうか。

直:ご利益を説いて入信に導くのは、どの宗派も用いる常套的手口です。しかし、本当の信心は、思いがけず神に出会う、といった「偶然」によるものだ、と私は考えます。

中:これまで私が知り合った人たちは、たいていキリスト教や仏教など、既成の宗教に属していました。海外で付き合った人の中に、「無神論」とか「無宗教」を表明する人はいませんでした――西洋で「無宗教」というのは、人間ではないとみなされる、そんなふうに聞いた覚えがあります。ですが、お二人のように、自分の信仰が「必然」か「偶然」か、というような話を聞かされた例はありません。何というか、親や社会にしたがって、自然に信仰に入るというのが、一般のあり方のように思います。

直:そうでしょう。西洋でも、両親がカトリックだから自分もカトリック、日本でも、先祖代々の宗旨をそのまま引き継ぐ、というのがふつうの信仰のあり方です。個人の決断が要求されるケースは、まずないと言うべきでしょう。

中:となると、自分の信仰が「必然」か「偶然」か、と考えることに、いったいどんな意味があるのでしょうか。

 

「賭け」と決断

直:ふつうの人たちが、自分の信仰をそういう深刻な問題として考えることは、めったにないでしょう。ですが、自分にとって神や仏とは何か、神仏を信じることに何の意味があるのか。そういう問題を必死に考えて、真剣に答えた人たちがいることも確かです。キリスト教が中心の西洋では、パスカル(16231662)を例に挙げましょう。「パスカルの原理」などで知られた天才で、科学者・数学者として業績を上げました。この人は、晩年――と言っても、30歳代――になって、学問などこの世の中の事柄は、すべて気晴らしに過ぎない、と言い切って見切りをつけ、神の信仰に心を傾けました。

中:昔、たしか物理の授業で、パスカルの名前だけは聞いたことがあります。科学者のパスカルが、宗教に向ったなんて、チョット驚きです。

猛:僕の場合、『パンセ』は少しだけ読みかじった程度です。大学の講義では、彼のキリスト教信仰が、イエズス会などのカトリック派とは違って、戒律のキビシイ、何て言ったかな……?

直:ジャンセニスム。

猛:そう、その「ジャンセニスム」の立場を主張するためのノートとして、『パンセ』が書かれたと聞きました。

直:学部時代の知識が、まだ生きていますね、大いに結構。君は、パスカルが神を信じるか否かを「賭け」に喩えた、という話を知っていますか。

猛:知りません。哲学史の時間は、退屈で昼寝をしていたので、聞きもらしたのかもしれません。

直:こういうことです。神を信じるか信じないかは、二つに一つ。神を「信じない」に賭けたところで、何の利益も損失もない。ところが、「信じる」に賭けた場合、神から与えられる幸福は無限である、こういう内容です。

中:へぇー、そんな話ですか。信仰が「賭け」の対象になるなんて、何か私には不謹慎な話のように思えます。

直:そう思われても、不思議ではない。ですが、私は、パスカルの考えをこう推察します。信仰をもたない者は、神を信じて何かいいことがあるかどうか、と問いかける。しかし、信じなければ、何もよいことが生まれないことは確かである。その反面、信じた場合に得られる幸せは、無限である。そういう理屈を説いたところで、信じた方が得だから信仰を選ぶ、というような「合理的」な計算が生じるかどうか。

猛:言われてみれば、確かに合理的な計算ではありませんね、「賭け」っていうのは。

直:そうです。言うならば、「賭け」とは文字どおり、当人の全存在を賭けた決断です。

中:「決断」という言い方は、はじめて聞きましたが、なるほど。大の大人が賭け事に熱中する理由は、その辺にあるのでしょうね。

直:そうです。「アタリ」か「ハズレ」か、結果が判らないからこそ、人は賭けに熱中する。そこには「偶然」が働いています。「偶然」に賭ける決断は、人間のもつ「自由」の典型だと言える。これが、「必然」を「自由」に結びつける猛志君に反対して、「偶然」こそ「自由」の条件だ、と私が主張する理由です。

猛:ご説明、ありがとうございます。まだスッキリしませんが、おっしゃることの雰囲気は伝わってきました。これからよく考えてみます。

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