毎月21日更新 エッセイ

風土学対話(1)――ドレイ問答

風土学対話(1――ドレイ問答

[登場人物]

・直言先生

 1年余り前に大学を退職してから、自身の哲学である「風土学」を世に広めることに、全力を尽くしている。年齢・性別・職業・肩書・思想信条を問わず、誰とでも開かれた〈出会い〉の機会をもちたいと願っている。もっとも、「異論を大歓迎」と公言しているものの、生来癇癪もちの性格が変わらないため、よほどの変人以外は近づきたがらない、というのが周囲の評。本人も、多少それを気にしている。

・猛志君

 三年前の『〈出会い〉の風土学――対話へのいざない』(幻冬舎、2018年)では、直言先生に鋭く突っ込み、しばしば困らせた元気な学生。学部を卒業した現在は、大学院に進学し、本気モードで哲学をものにしようと意気込んでいる。卒業論文ではカントを取り上げたが、最近は現代思想のさまざまな分野に関心を拡げている。

・中道さん

 その名のとおり、かつての対話では、自説を譲ろうとしない直言先生と、それに食ってかかる猛志君との〈あいだ〉に立って、とりなし役を務めた苦労人。商社マンとして30年以上の豊富なキャリアを経たのち、早期退職し、直言先生の主宰する「都市の風土学」に参加した。それにつづく「哲学対話の会」の終了を、残念に思う一人。

 

[対話]

最初のやりとり

直言先生:お久しぶり、お二人とも元気そうで何よりです。このたび、3年ぶりに再開する「風土学対話」に参加してくださるとのこと、ありがたく思います。お二人のことを知らない読者が多いと思うので、自己紹介を兼ねて、近況を報告してください。

猛志君:去年、先生が退職されたことを知って、残念に思いました。これまでのように、大学でアドバイスしてもらう機会がなくなる、と思ったからです。でも、オフィスやウェブサイトで、社会に発信されている様子から、また議論ができればうれしいなと思っていました。今回対話に参加できるなら、言いたいことはいっぱいあります。

中道さん:先生が運営されてきた「哲学対話の会」が終わったことは、本当に残念です。いまのご時世、他にオープンな対話ができる場は、私の周りにはありません。毎月発表される先生の「エッセイ」、欠かさず読ませていただいていますが、なかなかコメントを書く気にはなれませんので、こうして直接お話しできる機会を与えられるのは幸いです。

直:それはどうも。でも、どうしてですか。こちらはどんな質問・意見でも、受けつける気でいるのに、あなたのように引いてしまう人がいるというのは、どうしてかなあ。

中:それは私だけでなく、他の読者の方も同じだと思います。「エッセイ」と言えば、私などは肩のこらない読み物を期待してしまいますが、先生の書かれる文章は、「エッセイ」というより、「論文」のような気がします。それに対して、私のような素人が何か意見を言うというようなことは、チョット……

直:そうですか。わかりました。猛志君はどうですか。君も、私の書いたものは、ほとんど読んでくれていると思うのですが。

猛:僕の場合も、中道さんとだいたい同じ印象ですが、受けとめ方が少し違います。「エッセイ」ではなく、「論文」として書かれたなら、こちらとしてはきっちり意見が出しやすいのに、チョット見には柔らかい書き方をされているので、かえって突っ込みにくくなっているなあ、というのが正直な感想です。

直:「論文風」という点では、お二人とも印象が共通していますが、コメントしにくい理由が対照的ですね、なるほど。そういうことなら、対話の進め方も考えなければいけません。どうしましょうか。

猛:こちらから、提案させてください。これまでのエッセイの内容で、質問したいこと、反論したいことがあります。それを今度は、「論文」の概要という形にして、示していただいたうえで、それについてこちらから質問する、というやり方はどうでしょう。

中:賛成です。私が思いつかなかったやり方を提案されましたが、それならこちらもついていけそうな気がします。『〈出会い〉の風土学』では、各回の「講義」の後に「対話」がつづく、という形式でした。知り合いの社会人の中にも、そのおかげで何とか読みとおせた、という声がありました。

直:お二人とも、そのやり方がいいということなら、私の方に異存はありません。それで行きましょう。これまで4つのシリーズ、計20本のエッセイを発表していますが、どれから取り上げましょうか。

猛:先月の「日本と中国」では、「ドレイ」がキーワードに出てきました。考えてみて、よくわからない点がいろいろあるし、重要な問題だと思いました。

直:そうですか、そうかもしれません。それなら、今回の対話のテーマを「ドレイとは何か」ということにして、さっそくリクエストにお応えします。

 

「日本と中国」(6月)の概要

竹内好「中国の近代と日本の近代」(1948年発表、のち『日本とアジア』ちくま学芸文庫、1993年、に収録)をもとに、日本と中国にとっての「近代」および「近代化」の意味を考えた。日中とも欧米列強の圧力を受けてから、近代化に乗り出した点は同じだが、両国の事情は大きく異なる。明治以後、短期間で「脱亜入欧」をやり遂げた「優等生」日本に比べて、三千年の歴史を背負う中国では、さまざまな事情から近代化が遅れた。そうした母国の運命を引き受けた魯迅は、寓話「賢人とバカとドレイ」の中で、三とおりの人間類型を区別した。「近代化」に即して言うなら、「近代化」をためらいなく受け入れる優等生が「賢人」、近代化に反抗する少数派が「バカ」、不満がありながらも体制に順応する大衆が「ドレイ」に相当する。魯迅自身は、賢人を憎みバカを愛したが、自身、バカにはなれなかった――ドレイの支持を失いたくなかったため。ゆえに彼自身は、ドレイの一人としての自覚にとどまった。

この例に、日本の近代を考えるヒントがある。西洋に追いつき追い越せ、という「近代化」のスローガン。しかし、かりにそれに成功したとしても、ドレイが主人の地位についただけのことで、社会の構造は何も変わらない――「ドレイとドレイの主人は同じものだ」と魯迅の言うとおり。近代化に「成功」した場合でも、ドレイがドレイでなくなることはない。とすると、日本あるいは中国にとって、「近代」とは何なのか。そもそも「近代」をめざす必要があるのか。われわれにできることは、自身がドレイである運命を甘受したうえで、自分の生き方を考えること。それは、「近代」でも「反近代」でもなく、その〈あいだ〉に立つこと、〈非近代〉の途を歩むことである。

 

賢人こそドレイ?

直:どうでしょう、「論文」式に要点をまとめたことで、いくらか解りやすくなったでしょうか。

猛:これで解ったという点、よけい解りにくくなった点、両方あります。

直:両方とも聞かせてください。

猛:「賢人」「バカ」「ドレイ」が、それぞれ近代化にどういう役割を果たすのか。エッセイの中では言われなかった点が、いまの説明でハッキリしました。

直:「よけい解りにくくなった」というのは、どういう点ですか。

猛:「賢人」と「ドレイ」が、どこで区別されるのかという点です。近代化の「優等生」が賢人、近代化に反抗する「劣等生」がドレイだということですが、ドレイが「主人」に成り替わっても、ドレイのままだというのなら、賢人こそドレイだということになりませんか。それでは、賢人とドレイに元々あったはずの区別が、無くなってしまいます。

直:中道さん、いまの点についてどうですか。

中:私の中でモヤモヤしていた点を、猛志君がうまく言い表してくれました。さすが大学院生、研鑽を積まれていると感じました。ふつうの考え方なら、賢人はドレイの上に立つリーダーでしょう。そういう役割が否定されてしまったなら、賢人は賢人ではなくなり、ドレイと同じか、あるいはドレイ以下の存在になってしまうのではありませんか。

直:お二人とも、キビシイところを突かれました。おっしゃるとおりです。賢人が「ドレイ以下」というのは、非常に手キビシイけれども、魯迅にはそれぐらいの実感があったのではないかと思います。中道さんの言われたとおり、言葉の厳密な意味において、真のドレイというべき存在は、賢人です。この連中には、自分がドレイである、という自覚がないわけですから。

猛:とおっしゃると、ドレイには二種類ある、ということになりますか。自覚のあるドレイと、自覚のないドレイと。

直:そのとおりですが、細かく言うと三種類。①自分自身がドレイであると自覚して、その生き方に徹するタイプ。魯迅がその典型で、私もそれに倣う、というふうに書きました。それと、②自分がドレイであることに気づかないか、気づいてもそれを表に出さず、「優等生」としてふるまう連中、つまり「賢人」。③自分がドレイであるかないかにお構いなく、世の流れに従って生きる一般大衆、この三種類です。世の中の近代主義者、知識人の大半は、②。魯迅は、自分自身が②の一員であることに気づき、それを克服するために、①に転向した。竹内の解釈は、たぶんそういうことだと思います。

猛:そういう流れでいくと、世の中にはドレイしかいない、ということになりませんか。ものすごいペシミズムだなあ。

直:そう、そのとおり。アジアが西洋に追随して近代化するかぎり、ドレイであることを免れる道はないのです。魯迅の寓話は、そのことを私たちに教えています。

中:私は、商社でふつうのサラリーマン生活を送ってきました。海外駐在の経験もあります。会社の方針は、開発された最先端の商品を、世界各地に行き渡らせること。それは、世界中を「近代化」するお手伝いだ、と自分なりに理解して、長年働いてきました。ところが、先生のお考えでは、それはドレイを世界中に生み出していることになるのでしょうか。魯迅の思想というのは、私にはどうもよくわかりません。

直:お訊ねに、うまく答えられるかどうか。まず言いたいのは、「近代化」について、それが善か悪か、という単純な二者択一は、成り立たないということです。そのこととドレイの問題とは、いったん切り離して考える必要がある。第一点から考えましょう。

 

近代の光と影

直:近代には、最初から光の部分と闇の部分の両方があります。それを、どこまでが光で、どこからが闇か、という仕方でハッキリ区切ることは難しい。そういう二面性が、近代全体を覆っています。だから、近代を全肯定することも、全否定することもできない、ということを最初から申し上げているわけです。

猛:何か例を挙げて、その「二面性」を説明してください。

直:了解。たとえば、竹内好が近代の条件として挙げた「独立した平等な個としての人格の成立」は、「個人の自立」を意味し、ふつうに「光」と考えられています。個人主義が民主主義の基本であるという前提は、誰も否定できないでしょう。私も否定しません。

中:それなら、「民主主義」「個人主義」をみんなが認めるということで、何も問題はないのではないですか。

直:人類全部が最初から民主主義を信じて、いっせいにヨーイドン、というのなら問題はない。しかし、世界の一部、つまりヨーロッパが、他よりも早く民主主義を確立し、他の地域や国々が、遅れてそれに倣う、という歴史的なズレに問題があるのです。

猛:何のことだか、よくわかりません。日本は、明治以後の近代化に成功して、民主主義国の仲間入りを果たした。中国はそれよりも遅れて近代化した、という特有の事情も、これまでの説明でだいたい解りました。ところが、最近の情勢から、中国の現状は民主主義国ではなく、中央集権の専制国家だと批判されています。それは、近代化の遅れや不徹底である、というのが現在の常識です。

直:問題は、民主主義そのものが、正しいか正しくないかではありません。現在の国際社会の中で、「専制的」としてよく槍玉に上がる中国、ロシアにしても、指導者は自分が民主主義者であるということを否定しません。

猛;だったら、どうして最近、香港や新疆ウイグル自治区で、民主化を圧殺する事態が起きているのですか。ベラルーシの独裁者をロシアが支援するような動きが、どうして起こるのでしょうか。世界中が、中ロのやり方を専制的だとして、非難しているのに。

中:香港の民主活動家が逮捕されたり、自由な言論が規制されたりしている現状、私だけではなく、世間の誰もが心を痛めています。それに対して、先生は抗議されないのでしょうか。

直:ホットな話題になりましたね、ちょうどいい。私も心情的には、あなた方と同じです。何とかならないか、と思っている気持に変わりはありません。ただ、そのことを、メディアや評論家の「賢人」たちのように、そのまま国家批判に結びつける気にはならないのです。中国などの現状には、歴史つまり「近代」の問題が絡んでいますが、日本のメディアも評論家も、そのことをまるで理解していません。

中:それは、欧米のドレイになりたくない、ということですか。

直:簡単に言えば、そういうことです。彼らの心情からすると、民主主義が重要であることぐらい、言われなくてもよく解っている。それを子どもに教えるみたいに、お前たちから説教される覚えはない。バイデン政権発足後の米中高官対談で、中国の代表がそういう趣旨の発言をしたことを、私はよく覚えています。

猛:僕もニュースで見ましたが、双方のやりとりはケンカそのものでした。「中国には中国の民主主義がある」という主張が、記憶に残っています。

中:私も、あのやりとりを覚えています。それぞれの言い分があると感じました。ですが、現在の国際状況では、中国の対応はどう見ても覇権主義的で、民主主義的ではありません。それを見るかぎり、「近代以前」ではないでしょうか。

直:魯迅の生きた清朝末期がそうであったように、現在の中国も、ある意味で「近代以前」である、と言わざるをえません。昔と今に違いがあるとすれば、欧米列強に蹂躙された100年前に比べて、21世紀の現在、「改革開放」が「近代化」の成功をもたらし、世界第二の経済大国になった、という状況の違いです。

中:「衣食足りて礼節を知る」という諺があります。豊かになった中国が、近代国家にふさわしい民主主義を実現できていない理由は、どこにあるのでしょうか。

直:あなたが引かれた諺は、中国に伝統的な儒教の理念、孔子が説いた「礼」の基本です。お訊ねに答えるとすれば、二点。一つは、近代化は「衣食足る」にとどまることなく、無限の欲望に火をつけた、という点。二つ目は、国力の上昇によって、かつて天下の中心にあったことの記憶、つまり「歴史」の自覚ですが、それによって「中華思想」が呼び覚まされたという事実です。中国が世界のリーダーでなければならない、というプライドが、そこにはたらいています。

中:なるほど。近代化したから、そのまま西洋的な民主主義が実現する、というふうにはいかない事情があるということですね。わかりました。

猛:先生は、シリーズ最初のエッセイで、現在の日本が近代なのか、近代でないのか、という問題を提起されました。その流れで行くなら、中国はどちらですか。近代ですか、近代以前ですか。

直:両方です。近代であるとともに、近代以前でもある。この二つの契機が共在するところに、問題の難しさがあります。それは、中国よりいくらか早く近代に突入した日本とも、共通する問題です。

 

近代と近代以前

直:以前のエッセイでは、近代的なものと前近代的なものとが混じり合っている日本を、「近代」に位置づけることができるのかどうか、迷いました。明治以後の日本が近代であることは、歴史の常識ですが、どう見ても近代的とは言えないものが残っています。現実を見ると、日本に「近代化」はあっても「近代」という実体はない、と言いたくなるわけです。

猛:それでも先生は、「現在の日本が近代である」と結論づけられました。それは、どうしてですか。

直:「近代」の指標は「新しさ」、それまでの時代にはなかった人権や個人主義の思想が、日本に入ってきて、それなりに定着した、という事実は動かせません。そういう「新しさ」が社会に滲透した以上、それを「近代」という時代のしるしとして、認めなければならないということです。

猛:そういうことなら、日本の近代というのは、前近代とともにある時代だということになりますね。文字どおり「新しい」時代だとは、言えないわけですね。

中:それでも、社会全体が豊かになったのは、近代化の成果だと思います。中国共産党結成

100周年の記念行事では、習主席が演説の中で、まっさきに「小康社会」を実現した、という実績を高らかに謳っています。近代化の目標が達成された、ということを認めさせようとしています。

直:10億を超える人民が、飢えることなく生活できる社会を実現したということは、近代化の最大の目標を達成したということで、偉大な成果といえるでしょう。そのことに異議はありません。ですが、ご承知のとおり、それは社会主義の統制経済によってではなく、「改革開放」経済、つまり自由主義の経済を取り入れることによって実現したものです。

中:そこに何か問題があるのでしょうか。

直:大いにあります。食うや食わずやの貧しい時代に、なかった欲求、豊かになりたいという欲望が、目覚めたということです。資本主義の先進国、とりわけアメリカに顕著な〈欲望の論理〉が、近代化によって中国にも入ってきた。儒教的な「衣食足りて礼節を知る」にとどまらない、欲望の自己増殖が起ってきたわけです。

中:先生の著書やエッセイの中で、〈欲望の論理〉がしばしば取り上げられ、批判されています。こう申し上げるのは何ですが、私はそれに対して、いつも違和感を抱いてきました。というのは、豊かさを求めるのは人間の自然な心理で、そういう本性を否定したのでは、社会は進歩しないと思うからです。商社に勤務していた時代、低開発国に教育用のパソコンを届ける仕事をさせてもらったことがあります。それを手にした子供たちの、嬉しそうな表情は、いまも忘れられません。

直:そうですか。貧しい国々は、先進国からの開発援助のおかげで、文明の恩恵にあずかることができました。円借款で実現したインフラ整備によって、経済成長を進める足場ができました。そこに近代の光がある、というならそのとおりです。そういう光の部分を認めたうえで、光には必ず影がつきまとう、という点を理解していただきたいのです。

中:影のない光はない、ということですか。それでも、最初から光が差さない暗闇のままであるぐらいなら、光を求めるのが当然の成り行きです。マイナスがあるからと言って、プラスを求めなければ、文明は停滞しつづける以外にないと思います。

猛:僕も中道さんの意見に賛成します。近代の弊害ばかり追及するような近代批判では、将来への展望が開かれません。このさい言わせていただくと、先生の風土学には未来志向的な方向性があまり感じられません。

直:お二人とも、私の近代観に異議を唱えておられる。風土学には、未来を切り拓いていく力がない、という批判のようです。それで結構、今回の「ドレイ問答」の流れに沿って言わせてもらうとするなら、私がお二人のように近代を肯定できない最大の理由は、人間を〈欲望〉のドレイと化してしまう点です。

猛:〈欲望〉を悪いもののようにおっしゃる点も、腑に落ちないところです。いったい、欲望の何が、そんなにいけないのですか。無欲に生きるよりも、欲望を実現しようと努力することで、人間は潜在能力を最大限に発揮できるようになるのではありませんか。

中:私自身、名前のとおり、「中庸」を大事に考えているつもりです。ですから、欲望をとことんまで追求するようなことは、避けるべきだと思います。でも、猛志君の言われるとおり、大きな目標を立て、それを実現しようと一生懸命努力することが、必要ではないかと思います――企業にとっても、個人にとっても。いかがでしょうか。

 

〈欲望〉のゆくえ

直:お二人の意見は、世間一般を代表しているように見うけられます。そうだとすれば、私も議論する張り合いがあるというもの。それじゃ、以前[註.『〈出会い〉の風土学』の第1回で行われた、「自然」についての問答]やったように、ここでソクラテス式一問一答を試みましょう。猛志君、受けてくれますか。

猛:喜んで。

直:〈欲望〉とは、金銭であれ物品であれ、何かある対象を手に入れたい、と望むことだと考えられるが、違いますか。

猛:いや、そのとおりです。

直:では、望む対象を手に入れたとき、君はそれで満足しますか。それとも、さらにそれ以上を手に入れたいと思いますか。どちらですか。

猛:対象によりけりです。手に入れて、それで満足できる対象もあれば、より以上を求めようとする対象もあります。

直:結構。では、後者のような対象があるとして、それはどういうものですか。たとえば、お金はどうですか。

猛:ええ、それに間違いありません。ですが、これまでの対話の中で、先生のおっしゃりたいことは、僕には判っています。金銭に対する欲望が無限だ、とおっしゃりたいのでしょう。先回りして言わせてもらうと、僕の場合、金銭欲には限りがあります。

直:それは、どういう限度ですか。

猛:自分のしたい生活を送るのに、不安がないだけの金額です。それ以上のお金を所有したい、とは思いません。

直:たぶん、ふつうの人ならそう答えるでしょう。億万長者になりたい、とは言いにくいから。で、混ぜっ返すようで恐縮だが、「生活に不安のない金額」というのは、いくらですか。三千万、五千万、それとも一億円?

猛:(……)

直:答えられないでしょう。いくらなら十分だ、という線引きができる性格の問題ではありませんから。私は、しばしば〈欲望の無限増殖〉という言い方をします。「無限」というのは、「これでよい」という線引きができないこと、「足るを知る」ことがないあり方、のことを言うのです。

中:横から割り込んで恐縮ですが、チョット言わせてください。若い猛志君は、いくらなら十分か、という計算をしたことがないから、ご質問に即答できなかっただけだと思います。私なら、残りの人生を20年と見積もって、年間300万円の生活費にそれを掛け合わせると、合計6000万円が答えになります。

直:常識的に考えれば、そういう計算になるかもしれません。私のような年寄りは、月々いくらの年金をもらって、何年生きるか、というような計算を日頃からしているので、身につまされる話です。しかし要は、いくらあれば生活できるか、という問題ではなく、いくらあっても、これで十分、という安心が生まれないような、〈欲望〉のはたらきです。〈欲望〉は、それ自体にブレーキをかけることができません。常に、もっともっと、と先に向うのが、〈欲望〉なのです。

中:それが、資本主義の根本原理だとおっしゃるわけですね。

直:そうです。何なら「資本主義」の代わりに、「近代社会」と言ってもよい。この二つは、私の考えでは、ほとんどイコールです。

猛:先月のエッセイにつづいて、今回も「近代」の条件として、「個人の自立」ということを挙げられました。僕は、そういう近代の精神と資本主義とは、次元が根本的に違うように思います。

直:そういう考え方もあります。私も昔は、君のように、個人の意識と資本主義経済とは別のものだと考えていました。マルクスのように、下部構造である経済が、上部構造である人間の意識を決定する、という考え方に反対して。しかし、最近、近代と〈欲望〉の関係に目を凝らすことによって、この二つが一体であるというか、少なくとも別々ではない、と考えるようになりました。この問題は、そう簡単には片づかないということで、最初の今回は、これまでとさせてください。

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