毎月21日更新 エッセイ

風土学対話(2)――欲望と近代

風土学対話(2)――欲望と近代

中国の問題

直言先生:先月のつづきで、「欲望と近代」を問題にしたいと思います。お二人にとって、久しぶりの対話はいかがでしたか。

猛志君:先生の熱っぽい語り口は、以前のままだなあ、と感じました。特に、中国の問題をご自分に引きつけて考えようとされるあたりが、世間とは全然違っていて、先生らしいと感じました。

直:そうですか、それはどうも。中道さんは、いかがでしたか。

中道さん:猛志君に同感です。大学の先生方は、ほとんどが欧米寄りの姿勢で、中国を悪く言う人ばかり。日中が共通に抱える「近代化」の問題、という視点からの発言は珍しく、私にとっては新鮮でした。

直:中国と日本の事情は、もちろん異なりますが、なぜ中国が最近のような「覇権主義」的姿勢をとるのかを、内側から冷静に分析する専門家がいない。これは、あまりにもひどすぎると思って、私なりの見方を提起したわけです。そのあたりをお二人が酌んでくださったのなら、ありがたく思います。

中:これから中国は、どこに向かうのでしょう。それに対して、日本など世界の国々は、どう対応すればよいのでしょう。

直:それはむしろ、私の方から識者に訊きたいポイントです。私のような素人でも言えることは、日本の対応に関して、一部メディアの論調に見られるような中国叩きの尻馬に乗るな、ということ。政治の局面で言うと、訪米の折、向こうのご機嫌取りに終始した首相が、日米共同声明の中で、タブーとされてきた「台湾」の問題に言及した。そういう失敗を重ねるな、ということです。

中:何が「失敗」なのか、私にでも解るように、ご説明ください。

直:日本が戦前、台湾を属領として支配した歴史的事実は、ご存じでしょう。中国の領土を切り取って、日本の一部に加えた、という事実。それは、戦後、共産党の支配を逃れて中国本土から台湾に移ってきた人たちが、独立の国家をめざすという現在でも、とうてい拭い去ることのできない汚点です。中国共産党が、ことあるごとに掲げる、「一つの中国」というスローガン。これは、過去に欧米列強や日本によって国を分断され続けた、中国の人々の側からすれば、当然の主張です。欧米・日本に対して、中国首脳が「内政干渉をするな」と反撃するのは、向こうにとっては当たり前の理屈です。

猛:そうだとしても、香港の人権活動家が逮捕されたり、新疆ウイグル自治区でのジェノサイドなど、民主主義国家では許されないやり方がまかり通っています。それを他国が批判しては、いけないのでしょうか。

直:批判すること自体が、間違っているわけではない。前回の対談でも言ったように、大人が子どもに教えてやる、というような上から目線で、ものを言う態度が、不見識だと言っているのです。民主主義が判るか判らないか、そういうことは中国人自身の問題であって、アメリカなどから教えられる筋合いの問題ではない。前回、そういう当局者の発言を紹介しましたが、もう忘れましたか。

中:先生のおっしゃりたいことは、判ったつもりです。でも、それではどうしたらよいのでしょうか。すべて中国の内政問題だから、外国人は口を出さない、そういう態度でよろしいのでしょうか。

直:口を出すか出さないか、二者択一だとすれば、答えはありません。口を出せば、反発を買うし、口を出さなければ、現状をそのまま許すことになる。どちらも通らない、というディレンマの典型です。たとえば、その人の行く末を真剣に憂えるような親友が、自分の周りにいたとして、自分ならどういう態度をとるか、あるいはとらないか。そういうパーソナルな視点から考えてみるのが、一つの道です。簡単に答えの出る問題ではありません。

猛:了解です。ところで、前回に続いて、「欲望と近代」の問題を取り上げるとのこと。エッセイ最初の「テクノロジーの問題」のシリーズで、〈欲望の論理〉をテーマにされました。その内容を要約していただければ、と思います。

直:わかりました。だいぶ前の「テクノロジーの問題」(2)の内容をまとめてみます。

「欲望の論理」(2019年12月)の概要

 資本主義の近代を支配するのは、〈欲望の論理〉である。近代を生み、発展させてきた原理は、〈欲望〉。近代が、それ以前の時代と根本的に異なる理由は、欲望が社会を突き動かし、社会を根本から支配することによって、〈欲望の無限増殖〉と呼ぶことのできる現象が、世界を覆いつくすようになった事実にある。

 〈欲望〉とは何か。それは、自分以外の人間、土地、自然、といった〈他者〉に目を向け、それを自分のものとして支配し、利用しようとする働きである。このような他者支配の欲望が、16世紀以後のヨーロッパに目覚め、未知の世界に進出して新天地を開拓する運動となって展開した。その結果、ヨーロッパ以外の多くの地域が侵略され、植民地化した。「近代」は、ヨーロッパの自己拡大の運動に始まる。近代を告げるデカルトの哲学は、「我思う、ゆえに我あり」として、「考える我」と「延長物体」とを根本的に分ける二元論をうちたてた。二元論自体は、思考の方法であって、直接「欲望」に結びつくわけではない。しかし、他者を「客体」としてとらえる「主体」の視線に、無意識的な欲動(心的エネルギーとしてのリビドー)が結びつくことによって、他者を欲望充足の手段とする〈欲望の論理〉が発動する。このメカニズムが、現実世界を動かす社会的制度、具体的には資本主義の経済システムに重なることによって、〈欲望の近代〉が現実化したと考えられる。

 近代を人体に喩えるなら、その頭の部分が二元論、手足となるのは技術的実践、テクノロジーである。頭と手足が連動して働くことによって、世界をつくり変えてゆく開発のシステム、資本主義が発動する。資本主義が〈欲望=機械〉(ドゥルーズ=ガタリ)とされるのは、頭と手足を切り離すことのできないような仕方で、欲望を体現する〈身体〉がつくられ、その自動的成長がつづくからである。

 〈欲望の論理〉とは、近代世界を覆いつくす資本主義システムのうち、意識の表層(二元論)と深層(リビドー)とがつながることで、欲望が発動する心的なメカニズムを指す。欲望を「本能」ではなく「論理」だとするのは、このメカニズムがまったくの無意識ではなく、意識される余地がある、という理由による。人は、自身の行動が無意識と意識との〈あいだ〉で営まれている事実を自覚することができるのである。

 半自覚的な欲望の追求には、〈模倣〉の契機が関わる。われわれは、他人の行動を眼にすることによって、欲望をかきたてられる。私の対象への欲求は、同じ対象を欲する他者に触発されることによって促進される。ジラールが、「三角形の欲望」として図式的に表現した欲望の〈模倣〉が、今日の情報社会の基調となっている。それは、モノへの欲求を情報が媒介することで、モノと情報とが一体の流れを生み出し、そこに人々を呑み込んでいく、というあり方である。

意志と欲望

直:もう一年半以上も前のエッセイなので、現在の私の考えに沿って、少しアレンジしていますが、議論の大筋は変わりません。この内容について、猛志君はいかがでしょうか。

猛:印象がチョット変わりました。〈欲望=機械〉を「身体」に喩えたあたり、前のエッセイにはなかった説明です。そのあたり、ご自身ではいかがですか。

直:よく気がつきましたね。そのとおり、「欲望」がそのまま身体化されているのが、現在の社会である、という説明を加えました。君は、これがどういう違いを意味すると考えますか。

猛:簡単に言うと、欲望のコントロールができない、そういう考えのように受けとれます。先生は、〈欲望の論理〉という言い方について、欲望を理性でコントロールできるという点から、「論理」という言葉を用いるのだ、と著書[.『邂逅の論理』春秋社、2017]の中で書かれていたように記憶しています。それが、コントロール不能、という考えに変わった、ということでしょうか。

直:まさに、そこがポイント。欲望は、頭つまり理性では制御できても、手足の方は制御できない、そのあたりを「身体」という比喩に込めたつもりです。

中:「ワカッチャいるけど、やめられない」。昔、そういう歌がありました[註.大ヒットした昭和歌謡、植木等の『スーダラ節』]。三年前の『〈出会い〉の風土学』の中で、先生と猛志君が、アルコール依存症をめぐって、意見を闘わせたことを思い出しました[註.『〈出会い〉の風土学』幻冬舎、2018年、「第3回 近代文明批判」4849]

猛:それって、どんなやりとりだったかなあ。

中:あなたが、アル中の治療には薬が必要だ、と言ったのに対して、先生が、アルコール依存の現実と向き合うことから始める以外にない、と返されたやりとりです。それを忘れるなんて……

猛:思い出しました。僕が、科学的な対症療法を挙げたのに対して、先生が宗教家みたいに精神論をぶつ、という言い方をしたので、不興を買った、あのやりとりですね。

中:あのとき先生は、「欲望の論理」を理性でのりこえることができる、とお考えのように私には受けとれました。そのお考えが変わったのでしょうか。

直:欲望の現実を見つめる以外に、それを克服する方法はない、という考えそのものは変わりません。変わったことがあるとすれば、それで現実が変わるというような甘いものではない、という現状認識が進んだことです。

中:私は、長年世間と付き合ってきて、つくづく「人間というものは変わらないものだ」と思うようになりました。ところが先生は、欲望と向かい合うことで、それをのりこえることができる、というようにおっしゃった。それは、新鮮な驚きでした。

悪への傾向性

直:そのときのニュアンスは、「もし欲望と正面から向かい合うことができたなら」という仮定においてでした。その仮定自体が成り立たなければ、欲望の克服などありえない話になってしまいます。

中:それほど悲観的になられた、ということでしょうか。

猛:あのときの例は、アル中の治療でした。それと欲望の克服とは、次元が違うと思います。僕は、病気の治療には薬が必要じゃないか、と言ったのです。人間の欲望という問題は、それとは違って、人間の意志が関係してきます。

直:おっしゃるとおりです。カントで卒論を書いたという君であれば、彼の倫理学が、「意志の自律」を道徳的行為の大前提に挙げていることを、よくご存じでしょう。

猛:ええ、もちろん。カントが『実践理性批判』の中で、意志の自律を最高の原則に挙げていることは、承知しています。僕のテーマは、『純粋理性批判』の認識論でしたけれども。

直:カントは「意志の自律」を説く一方で、宗教論において、人間の「根源悪」という問題を論じています。アル中の例には、こちらの方がピッタリかもしれない。先ほど中道さんが出された、「ワカッチャいるけど、やめられない」の例は、こちらに当てはまります。

中:私のような初心者に、カントの難しい理論が理解できるでしょうか。

直:別に難しい話ではない。例を挙げましょう。私は多少(?)酒を吞みますが、飲酒の習慣がついたのは、大学に入ってから――当たり前ですね。それが歳をとるにつれ、少しずつ量が増えていき、やがて寝酒の癖がついた。就寝前に飲まないと眠れない、という困った習慣です。しかも、その量が徐々に増えていく。ストレスとの相乗効果で、酒量はエスカレートするばかり。挙句の果てが、9年前の脳卒中。小脳からの出血で、危ういところでしたが、特急電車の中で倒れたため、車掌の機転で通過予定の駅に臨時停車、救急搬送されたおかげで、一命をとりとめました。

  アル中に至るような飲酒の習慣を、「悪」だとします。悪への傾向性は、誰でも生来もっている。それが、たまたま酒の味を知ったことで、その傾向性が目覚め、ついには破局に至ることになる。けれども、もし一生に一度も酒を味わう機会がなかったとしたら、そういう傾向は、目覚めることがないまま終わるかもしれない。「根源悪」というのは、そういう人間だれしもの奥底に潜む、悪への傾向性のことです。

中:なるほど、誰にでも「悪」に陥る危険性がある、ということですね。よく解りました。

猛:いまの説明、個人の「悪」が問題でしたけれども、いま考えている「欲望」は、個人の問題というより、社会全体に関係するテーマだと思います。そうだとすると、どういうことになりますか。

個人から全体へ

直:非常に重要な問題が指摘されました。カントの「根源悪」では、一人一人の心の底に潜む悪への傾向性が問題になっている。しかし、こと「欲望」に関しては、個人の問題にとどまることなく、社会全体が関わってくる。欲望の主体は、個人というだけではなく、社会全体である。一人が欲望を抱くということは、それを他人が模倣するという仕方で、連鎖反応が生じる、ということです。それを私は、ジラールの言葉を借りて、「欲望の三角形」として言い表しました。

猛:「三角形」っていうのは、どういうことでしょうか。もう少し具体的に、説明をお願いします。

直:〈ABCの三者関係を考えます。ABに心を惹かれているとする。それだけなら二者の関係ですが、もう一人のCが、Aと同じようにBに惹かれる状況が生じたとすると、ACとは、同じBをめぐるライヴァル関係になります。こうして成立するのが、「欲望の三角形」。ACの、CAの、欲望をそれぞれが模倣し合うことによって、関係の中での欲望のエネルギーがエスカレートしてゆく、そういうあり方です。

猛:そういう三者関係が、社会全体に拡がっていくと考えられるのでしょうか。

直:〈ABCの外に、〈BCD〉〈CDE……という仕方で、次々に三角形がつくられていく形を想像してください。ウィルスが感染するように、欲望が社会全体に伝播していく様子がわかるでしょう。

中:クラスの仲間がもってきた新製品を見て、自分もそれが欲しい、と親に訴える。そんな例を挙げていらっしゃいましたね。私の場合も、同じようなことがあったのを思い出しました。友達と同じ品物を買ってもらえず、ダダをこねて泣いたこともありました。

直:「他人と同じものを自分も」というのは、横並びの現象。〈大量生産-大量消費〉の産業資本主義を動かした、欲望の原理です。「他人と同じものではイヤ」というのは、そういう横並びの段階を経て、豊かさが社会全体に行き渡った時点で生じてくる、差別化の欲求を表します。同一化と差異化、欲望の拡張にはこの二つのベクトルが関係する、と考えてください。

中;戦後世代の一人として、子ども時代に貧しさを味わった身ですから、おっしゃるような現実があったことを、実感しています。お言葉を返すようですが、「社会全体の欲望」と言われると、何かそれがマイナスであるかのように聞こえます。ですが、社会全体が豊かさをめざして一生懸命働いたからこそ、戦後の経済発展が実現したのではないでしょうか。それを、〈欲望の論理〉という言葉でひとくくりにして、否定的に扱われることに対して、私は納得ができません。

猛:僕も、このさい言いたいことがあります。中道さんがおっしゃったような、戦後の経済発展以外にも、現在のテクノロジー、ハイテク化に対して、先生は否定的な見方をされていることが、エッセイから伝わってきます。AIVRその他、先端技術全体を、「欲望」に結びつけて否定されることは、あまりに偏った考えではないかと感じています。

欲望と技術

直:前回ふれた問題が、お二人から改めて提出されました。私が〈欲望の論理〉を標的にする理由は、二つあります。一つは、私の考えは、「欲望」自体を否定するものではない、ということ。生きることそれ自体が、生存の欲求に根ざしています。よく生きようとするかぎり、「欲望」を棄てることはできない。まず、この点を断った上で、次に言いたいのは、「欲望」は単なる「欲求」ではなく、無限に増大する傾向をもっていて、下手をするとハドメがかからなくなる。近代を生み出したのは、そういう無際限の欲望を増殖させるシステムであり、そういう近代と一体になったシステムのことを、〈欲望の論理〉と呼ぶのです。

中:「無限の欲望」と言われると、確かにそれは問題かなという気がします。けれども、文明の発展やその中心になる科学技術の進歩は、現状に甘んじることのない改善の努力によって、可能になったのではないでしょうか。「欲望の増殖が悪い」と言われれば、それまでかもしれませんが、それでは文明の発展を否定することになってしまうのではないでしょうか。世の中の先行きが案じられます。

猛:中道さんに賛成、というより僕は、もっと強く反論します。先生は、「欲望自体を否定しない」とおっしゃいました。前回の対話では、財産がいくらあれば十分か、と僕に質問され、これで十分だという線引きができないのが欲望の本質だ、と言って批判されました。このさい言わせてもらうなら、いくらあっても満足しないからこそ、現状改善の努力が生まれるのです。先をめざして進むのが、近代社会だとすれば、僕はその「光」に期待します。先生は近代のマイナス面だけを見て、全否定されているのではありませんか。

直:近代社会に「光」と「影」の両面があること、その一方だけを見て、他方を見ないとすれば、片手落ちになります。私が「光」の面に言及しないとすれば、それは反面である「影」の深刻さに気がつかない――もしくは、気づかないふりをする――連中の無責任さに、警鐘を鳴らす、という目的からです。あなた方が、「光」を強調されることに対して、こちらに特別異論があるわけではない。それは、それで結構だと言いましょう。

猛:「光」と切り離せない「影」というのは、どういうものですか。そのために、近代のメリットがなくなる、といったもののことでしょうか。

直:そうです。そのとおり、それによって近代の「光」を消し去ってしまうような「影」として、私は〈欲望の論理〉を挙げているのです。このさい、お二人と全面対決することになろうと、私は自分の主張を曲げるつもりはありません。

猛:近代が、かりに病気の種をまいてきたとしても、それに対応して治療する医療や薬を開発してこなかったでしょうか。「影」を克服してきた実績が、近代社会にはあります。

直:そんなノーテンキな言い分を、私は信じない。核兵器開発の経緯一つをとってみても、人類が絶滅に至らずに済んでいるのは、人間の知恵というより、偶然のおかげでしかありません。欲望の無限増殖は、必ず世界の破滅をもたらすはずです。

中:これは、大変なことになってきました。私がお二人のあいだに割って入るのも何ですが、無限の進歩というのも楽観的過ぎるし、反対に人類絶滅というのも、行き過ぎのような気がします。ほどほどの中庸の線、というのが考えられないでしょうか。

猛:カントの啓蒙的理性の立場が、それだと思います。カントは、西洋が世界の中心だという考えではなく、全世界の人々がたがいの違いを認め合ってまとまるために、普遍的な理性から出発しようとしました。その線を再確認する必要があります。

直:カントのそういう考えは、近代世界から生まれた貴重な叡智だと考えますが、カントが蘇って、今日のハイテク社会の狂乱ぶりを見たら、何というか、訊いてみたいものです。彼の想像した普遍的理性にもとづく近代社会とは、まったく対極の世界に絶望することでしょう。

猛:それは、現代の科学技術が人間理性から外れてしまっている、ということでしょうか。

直:そうです。理性の立場とは、人間がしてよいこと、してはならないことを弁え、二つをゴッチャにしないこと。まさに、中道さんのおっしゃる「中庸の線」に踏みとどまる、ということです。テクノロジーは、おのれがどこまで進むべきか、どこで立ち止まるべきかを、それ自体で調整できない。どこまでも進んでいく、というのがテクノロジーの本領です。なぜかというと、現状における欠如、不足が、技術開発の出発点になるからです。だから、テクノロジーとしては、現状のままで不足なし、とするわけにはいかない。なければ、無理にでも不足をつくり出す。これは、〈欲望〉の発動と技術とが、一体であることを意味しています。

中:私が申しあげたような「中庸」の徳は、テクノロジーのうちには存在しない、とおっしゃるわけですね、なるほど。

〈あいだ〉に立てるか

猛:僕は、そういう説明には納得しません。もうこれでよし、という線引きができないから、技術はその先をめざそうとする。そこに技術の立場がある、ということなら、それを僕は受け容れたい。そういう意味の〈欲望〉が、進歩の原動力になるというのであれば、カントだってそれを否定しないと思います。

直:カントを引き合いに出すのは、やめましょう。カントの時代である18世紀には、まったく考えられなかったような技術革新が実現して、世の中が根本的に変わった。その変化は、下手をすると人類滅亡に至りかねない危機を孕んでいる。この事実は、猛志君だって、認めないわけにはいかないでしょう。

猛:ええ、それは認めます。ですが、だからと言って、文明の進歩に背を向けるわけにはいかない。人間がつくり出した危機であれば、それを人間の手で解決する以外にない。そのための最有力の手段である科学技術に、背を向けることはできないでしょう。

直:いまのご意見を聞いて、第一回のエッセイで紹介した、技術哲学者ホイ・ユク(許煜)とのやりとりを思い出しました。その折、「君はテクノロジーの将来に対して、どうしてそう楽観的になれるのか」というこちらの質問に、ホイは「私自身は、ペシミストだ。けれども、高齢のあなたと違って、私には将来に向けて責任がある」という意味の答えを返しました。彼と私は、現状認識や将来についての危機感を共有しながら、現在の技術に対する態度において、大きな違いがある。そのことを思い知りました。

中:先生は、以前のエッセイで、「テクノ・ペシミズム」ということをおっしゃいました。その立場からすると、猛志君は、「テクノ・オプティミズム」ということになりますか。

猛:自分では、オプティミストのつもりはありませんが、ペシミストでないことは確かです。ホイさんの考えを聞いて、自分と近いものがあると感じました。

直:そうでしょうね。いろいろ不安があるとしても、現在のイノベーションと付き合っていかなければ、どうにもならないという気持ちは、あなた方若い世代に共通でしょうから。そこが、私のような年寄りとは違うところです。

中:一つ、思いついたことがあります。先生の言われるとおり、〈あいだを開く〉という方針にしたがうなら、テクノロジーを全肯定するのでも、全否定するのでもない、〈中間〉に立つべし、ということになるのではないでしょうか。そうすれば、いま対立している先生と猛志君との〈あいだ〉が、もう少し開かれるのではないでしょうか。

直:ハイテクを是認するのと拒絶するのとの〈中間〉、そんなことは、いまあなたから言われるまで、考えたことがありませんでした。ウーン、そうか……

猛:僕の方も、ハイテク否定論に突っかかるばかりで、肯定論と否定論との〈あいだ〉に立つ、というテーマを全然考えつきませんでした。いかにも中道さんらしい発想だな、と感心しました。

直:そういうことなら、技術・テクノロジー全般について、どうすれば〈あいだを開く〉境地が実現するのかを、われわれ三人共通のテーマとして、一から考え直してみることにしましょうか。ともかく、新たな課題が見つかったということで、今回はここまでとします。

コメント

    • アキアカネ
    • 2021年 8月 29日
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    素朴な質問です。
    いまさらお聞きするのも恥ずかしいようなことですが、以前からよく分からないと思っていたことなので思いきって質問します。
    それは「近代」ということです。そこにはなにか定義のようなものがあるのでしょうか?例えば年代的に何年頃から何年頃とか、
    またそれは「現代」とは、なにか明確な区分があるのかないのか? 「近代」がなぜ重要視されるのか?
    本当に哲学のなにかも分からない素人の質問で恐縮ですが、わかりやすく教えていただけるとありがたいです。
        

    • 木岡伸夫
    • 2021年 8月 31日
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    「近代」というのは、あなたや私が生きている、まさにこの時代を意味します。それを「近代」だと意識しないのは、私たちが近代でない時代を知らないからです。近代でない時代を体験したことがないから、いまが近代であることの意識も生まれない。空気がある世界で、空気を意識しないのと同じ理屈です。
    「近代」と訳される「モダン」は、「新しい」を意味する、とエッセイの中で書きました。新しいものが次々に生まれ、より新しくなる社会に、私たちは生きています。トイレを例にとっても、クミトリ(和式)→水洗(洋式)→ウォシュレット→……といった改良が当たり前で、旧式に戻ることがありえない、それが近代社会です。「前近代」では、何も変わらないし、変わらないのが当然、それに文句をつけるのはオカシイ、というあり方でした。
    しかし、たえず新しいものが生まれる近代に、違和感が生じてくる。それは、こんな行き方が限界を迎えるのではないか、進歩の原動力である科学技術が破綻し、人類が破滅するのではないか、という危機感を生んでいます。それが、あえて「近代」を問い直すという、インテリや学者の姿勢であるということをご理解ください。
    大枠としての「近代」の中で、直接自分の生きている「いま」の時代が、「現代」です。日本人の大半は、太平洋戦争終了(1945年)以後の生まれですから、そういう人々の「現代」は、戦後の時代。したがって、「現代」は「近代」の一部ですが、いつからを「近代」とするかは、人ごとの考え方によります。近代のはじまりを、ヨーロッパの17,8世紀以後とするのが、いちおうの「常識」ですが、「新しさ」を何に認めるかで、いろんな考え方ができますから、客観的にこれ、という決め方はできません。
    以上でお判りいただけたでしょうか。不明な点は、引き続き質問してください。

    • アキアカネ
    • 2021年 9月 01日
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    「近代」の中の「いま」が「現代」ということで、いままでモヤモヤしていたのがストンと腑に落ちました。
    ありがとうございました。

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