最新の動向
直言先生:前回の対話、最後に「哲学者の引き受けなければならない役割とは何か」というテーマを挙げましたが、覚えておられますか。
猛志君:僕に特に関係のあるテーマだと言われたことを、よく覚えています。今日は、〈哲学者の役割〉をめぐって、いろんな議論ができることを楽しみにやって来ました。
直:そうですか。中道さんはいかがですか。
中道さん:私は、猛志君とは違って一般人、それも高齢者です。前回のお話では、哲学が専門家の独占物ではなく、万人に対して〈開かれた対話〉であるとおっしゃったことが、印象に残っています。そういう私にとって、専門の哲学者の果たす役割が何なのか、ということには非常に興味があります。
直:そう言っていただけるのは、ありがたい。実は、最近、お二人に関係することで、非常に重要なニュースがあります。
中:いったい何でしょう、それは?
直:もうすぐ私の新しい著書が出ることは、お二人ともご存じでしょう。
猛:『〈中〉のロゴス』という本ですね、いつ出るのですか。
直:初校を済ませたばかりです。たぶん秋、9月頃には刊行されると思います。
中:「重要なニュース」というのは、そのことでしょうか。
直:そうではありません。ニュースというのは、その次に出す本が決まったということです。
猛:へーッ、『〈中〉のロゴス』とは別に、もう一冊、本を書かれるということですか。以前の話では、これが最後と言われたように思うのですが、そうではないのですね。
直:次に出すつもりでいるのは、「対話の哲学」をテーマにする本です。つい最近、その企画を立てて、出版社との交渉に入りました。
中:それはおめでとうございます。立て続けに先生の新著が世に出るということは、私たちにとってもうれしいことです。
直:祝っていただく前に、条件を申し上げなければなりません。「対話」を主題にするからには、対話形式で全篇を仕上げたい。という訳で、このたびもお二人に協力をお願いする運びとなったわけです。
猛:『〈中〉のロゴス』では、全六章の後に、僕たち二人との「対話」が挿入されています。それは、講義が終わってからの意見交換、という形式で行われました。それと同じやり方をとることになるのですか。
直:「講義」に「対話」をつづけるというのではなく、最初から最後まで対話形式を通す、というやり方を考えています。
中:だとすると、プラトンの対話篇のような作品になるということですね。責任重大、私なんかに対話の相手役が務まるかなあ。
直:大丈夫。お二人とも、ふだんどおりの地を出して、付き合っていただければ、問題ありません。そのあたりの具体的な相談は、いずれじっくりさせていただきます。
プラトンの師ソクラテス
直:次の著書に直接関係するテーマとして、最初に断ったとおり、哲学者の果たすべき役割を考えます。哲学者として誰を取り上げるか、分かりますか、猛志君。
猛:前回の話に出てきた哲学者として、プラトンを論じるのじゃありませんか。
直:もう一人います。プラトンの先生であるソクラテス。この二人を比較して、哲学者の役割を考えることにします。
中:プラトンとソクラテスが比較されると。この二人を比較することの狙いは何でしょうか。
直:二人とも、対話を哲学の条件として認めた、ということが一点、しかし、二人にとって、対話の意義はまったく違う、ということがもう一点、この二つの理由からです。
猛:プラトンの対話篇では、ソクラテスが中心人物になっています。それは、ソクラテスがしている対話の意義を、弟子のプラトンが認めているということではありませんか。
直:そう、そのとおり。ソクラテスが、アゴラ(広場)を通りかかる人たちをつかまえて、問答をしかける。そこで繰り広げられる対話が、ソクラテスにとっての哲学――ギリシア語ではフィロソフィア、つまり「愛知」――でした。プラトンも、年長の兄二人に導かれて対話に参加し、ソクラテスの弟子となった、というのが歴史上の事実です。
猛:ということは、ソクラテスのやっている対話が気に入ったから、彼に弟子入りしたわけでしょう。その対話の意義を、認めなかったとは考えられません。
直:いや、まさしくそのとおり。プラトンがソクラテスを知って弟子入りしたのは、ソクラテスの哲学に共感したから。そのことに疑う余地はありません。ですが、師の哲学に対して、それをそのまま認めることができなくなる事態が生じてくる、ある出来事をきっかけに。
猛:「ある出来事」って、何ですか。もしかすると……裁判でソクラテスが死刑になった、あの事件のことですか。
直:お察しのとおり、その事件です。君は『ソクラテスの弁明』を読んでいますか。プラトンが著した最初期の対話篇、その中では、実際に行われた法廷の弁論が忠実に再現されています。
猛:ええ、読んでいます。いちおう目を通した程度ですが。
中:割り込んで失礼。哲学に縁のなかった学生時代の私でも、その作品のことは知っています。大学の哲学の先生が、新入生向けに挙げる推薦図書のトップに、『ソクラテスの弁明』が必ず挙げられていました。
直:そうでしょう。で、中道さん、あなたはそれを読みましたか。
中:岩波文庫で、たしか星一つ、50円だったと思います。買ったけれども、読みとおした覚えはありません。法廷弁論が、読んでいてまどろっこしい感じがしたので、途中で放り出したように思います。
直:哲学の推薦図書というのは、大体そういうものです。その中で、何か印象に残っていることはありますか。
中:死刑が執行される当日の朝、牢獄から逃亡する手はずを整えてやってきた友人たちに向かって、刑を受け容れる理由を説明するところがあります。もしかすると、『ソクラテスの弁明』じゃなかったかな?……
直:それは、文庫本で『弁明』とセットになっている『クリトン』の話です。そちらをあわせ読むことによって、ソクラテスの死の意味がよく見えてきます。
ソクラテスの死の真相
直:ソクラテスは、逃げようと思えば、逃げることができた。それなのに、逃げなかった。毒杯を仰いで死ぬことを選んだ。とてつもなく重い意味のある選択です。お二人に伺いたいのは、そういう人物が、もし自分の前にいたとしたら、何を考えるだろうか、ということです。
中:何を考えるか、と訊かれても……何とも言えない気持ちになる、とでもいうよりほかに、言葉がありません。
直:おそらくそうでしょう。猛志君なら、どうですか。
猛:僕も中道さんと同じですが、ソクラテスが死刑にならないためには、どうすればよかったのか、と考えると思います。自分がソクラテスの弟子だったら、の話ですが。
直:そう、それがプラトンの気持ちだったと思います。何もプラトンだけではない、人間だれしも同じ思いになるはずです。それが、政治家志望だったプラトンを哲学に向かわせた、決定的な理由だと私は考えます。
猛:そのことが、本のどこかに書かれているのですか、プラトンの告白として。
直:対話篇の作者であるプラトン自身は、作中に登場しません。ですから、文献学的な証拠というものは挙げられない。ふつうの人間なら、こうこうだと忖度(そんたく)するしかない。それをしない文献学者には、ソクラテスの死がプラトンにとっての哲学を決定づけた、という事実の意味が説明できないのです。
中:さっきのお話では、ソクラテスの哲学に惹かれて入門したのに、プラトンにとっての対話の意義は、ソクラテスの対話とは違うのだ、とおっしゃいました。そのあたりの事情にふれていただけないでしょうか。
直:承知しました。それを説明するには、二つの事実から考えなければなりません。一つは、ソクラテスがその哲学をつうじて、死ななければならない運命に陥った、という事実。もう一つは、偉大なソクラテスをアテネの社会が殺してしまった、という事実。この二つの事実が、ソクラテスの哲学とは異なる哲学の方向に、プラトンを向かわせた原因である、と私は解釈します。
中:ということは、ソクラテスの死に関して、ソクラテス自身とアテネの社会の両方に原因がある、ということでしょうか。
直:そうです。ソクラテスが死ななければならなかった原因の一つが、ソクラテス自身の哲学、もう一つが、アテネというポリス(市民国家)にあるということです。
猛:裁判で死刑の判決を下したのは、アテネの社会だから、後の方の原因はよく分かります。けど、ソクラテスの哲学が原因だと言われるのは、よく理解できません。だって、ソクラテスは何も悪いことをしていないじゃありませんか。
直:悪いことをしたから死刑になった、というような単純なリクツではない。彼のしている哲学の営みが、それをねたんだり憎んだりする連中からの告発をまぬがれなかった。そこに事件の原因がある、と考えなければいけません。
猛:ソクラテスを憎む連中から告発を受けた原因が、その哲学にあるということでしょうか。もう少し、そのあたりの説明をお願いします。
直:ソクラテスの死から、プラトンがどういうことを考えたかは、プラトン初期の対話篇『ゴルギアス』に読みとれます。そこから中期の『国家』に至る経緯について、講義で説明しましょう。
講義:『国家』はなぜ書かれたのか
プラトンを代表する中期の作品『国家』は、タイトルのとおり、〈国家はいかにあるべきか〉という問題を追究した国家論です。と同時に。副題「正義について」が表すように、〈正義とは何か〉という哲学のテーマに照準を定めた正義論として有名です。さらに、プラトン哲学と言えば、すぐに頭に浮かぶのは、「イデア論」。これらのテーマをめぐって、対話が繰り広げられます。ですが、ここではこうした重要なポイントに立ち入ることは避け、ソクラテスとは異なるプラトンの立場がどういうものか、どうしてそれが成立したか、という一点に絞って、両者の比較を考えることにします。
『国家』よりも早く書かれた初期最後の頃の『ゴルギアス』。その中に、明らかにソクラテスのことを指すと判る批判的な言葉が、対話の相手カルリクレスの口から発せられます、こんなふうに。
……いいかね、ソクラテス、哲学というものは、たしかに、結構なものだよ、ひとが若い年頃に、ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし、必要以上にそれにかかずらっていると、人間を破滅させてしまうことになるのだ。なぜなら、せっかくよい資質をもって生まれて来ていても、その年頃をすぎてもまだ哲学をつづけていたのでは、立派なすぐれた人間となって、名声をうたわれるものとなるのに、ぜひ心得ておかなければならないことがらを、どれもみな心得ないでしまうにきまっているからだ(岩波文庫版『ゴルギアス』加来彰俊訳、139頁)。
老人になってまでも哲学をつづけることで、「破滅」に至った人間と言えば、目の前にいるソクラテスしかいません。カルリクレスは、フィクションの中の対話者ソクラテスを相手に、何と、現実のソクラテスがたどった運命を語り聞かせるのです。
今もし誰かが、あなたをでも、あるいは、そういった連中[「哲学に深入りして行く連中」]のなかの他の誰をでも逮捕して、何も悪いことはしていないのに、しているのだといって、牢獄へ引っぱって行くのだとしてごらん。いいかね、あなたはそのとき、どうしてよいかわからないで、目を白黒させているだろうし、また言うべき言葉も知らないで唖然としたまま、開いた口もふさがらないだろうからね。そして、法廷へ出頭したなら、あなたを訴えた告発人が、実につまらない、やくざな人間であったとしても、もしその男があなたに死刑を求刑しようと思えば、あなたは死刑になってしまうだろうからね(143頁)。
以前この箇所を読んだとき、何でこんなケッタイな発言が挿入されているのだろう、と不可解に思いました。いまは、プラトンがこの箇所に与えた意味がよく解ります。それは、プラトンがソクラテスの哲学に対して抱く思いの一端を、作中のカルリクレスに代弁させているということです。70歳で刑死したソクラテス。そんな歳まで哲学を続けていたのでは、不当な告発を受けて死刑にされる運命を免れない、という言い分は、師の悲惨な最期を知る弟子が抱いた実感だと思われます。そこから、ソクラテス流の対話――〈対話のための対話〉というべきもの――をつづけることなく、それに代わる哲学を自分の手で確立しなければならない、という考えが生じてきた。もしそうだとすれば、『国家』が書かれなければならなかった必然性が腑に落ちます。
もちろん、ソクラテスの哲学が間違っているというわけではない。それは、誰とでも対話を行い、正しい知へと向かう営みをともにする、哲学の王道そのものだと言えるでしょう。そのための方法である対話は、絶対確実な結論に到達しないことによって、万人に開かれています。ソクラテス的対話には、「結論」がない。そういう「遊戯」を続けていたから、ソクラテスをねたみ憎む連中に付け込まれてしまうのだ。これが、弟子プラトンの見立てた問題の急所だとするなら、どうすればいいのでしょうか。揚げ足をとられて告発されるようなことがない哲学をつくること。すなわち、絶対確実な結論に至るような哲学のシステムを確立すればよいのです。これが、『国家』第五巻から第七巻で論じられる哲学の意味です。そういう哲学を修めた統治者が、上に立って支配する国家こそ、理想国家であるということになるわけです。
第七巻では、そういう哲人統治者を教育するためのプログラムが示されます。そのプログラムでは、哲学者を育成する最終段階の学科とされるのは、ディアレクティケー(哲学的問答法)。ディアレクティケーは、ソクラテスが実行した一問一答式の対話の仕方ですが、プラトンはそれを整備して、イデアの認識という最終目的を達成するための決め手となる学課に仕立て上げたことになります。『国家』が書かれた目的の一つは、哲学の内容を変え、ソクラテスとは異なるプラトンの哲学をうちだすということでした。もう一つは、哲学を柱とする政治が行われる理想国家建設のプランを提示することですが、こちらについては省略します。ここでは、哲学そのものと対話の意味が、師弟のあいだで違うものになっていった経緯を説明しました。お二人との対話に戻りましょう。
対話の目的は何か?
直:ソクラテスとプラトン、二人の哲学は違うのだ、という話をしました。お二人は、どんなふうに聞かれましたか。
猛:僕にとっては初耳でした。というか、哲学史の授業では、ソクラテスからプラトンへ、さらにアリストテレスへと至る流れによって、哲学の形が定まっていった、というような常識が教えられてきたので、ソクラテスとプラトンの哲学は違う、といういまの説明を聞いて、チョット驚きました。
直:古代ギリシアの三人によって、哲学の本流がつくられていった。その最初の二人に、大きな方向性の違いがあるということを強調しました。二人の違いは、対話がもつ意義にあるという、その点についてはいかがですか。
猛:二人にとって、対話の意味が違うということは、よく判りました。その違いは、対話の目的にあるということでしょうか。
直:そうです。対話の目的というところが、この話のキモになります。
猛:ソクラテスの場合、対話の目的は、対話することそのものだということですね。
直:そうです。その点については、いかがですか。
猛:ウーン、どういったらいいのか。対話の目的は対話自体、そんなことを考えたことがありません。
直:それじゃ、中道さん、あなたの考えはどうですか。いろんな対話を経験されているでしょうから。
中:対話すること自体が目的であるケースは、私がいたビジネスの世界ではよくあることです。珍しいことではありません。
直:それでは、ソクラテス的対話についてもナットクされると。そう受けとってもかまいませんか。
中:いや、そうではありません。ビジネスとして私たちがしてきた対話と、ソクラテスがしかけた対話とは、意味が全然違うと思います。
直:対話の意味が全然違うと。それはどういう違いですか。
中:何というか。われわれビジネスマンがしてきた対話は、ただおしゃべりをして、仕事上の人間関係をつなぐための対話であったと思います。無目的というか、付き合いのための対話、というよりもムダなおしゃべりに近い。それと比べると、ソクラテスがしかける対話には、ハッキリした目的があるように思います。
直:ハッキリした目的というのは、何ですか。
中:こう申し上げてよいかどうか、「真理の探究」とでもいうようなものではないか、と思います。
直:「真理の探究」ですか。ピッタリした言い方ですね、お見事です。
猛:対話のハッキリした目的が、真理の探究である。その点については、僕も同じ意見です。ですが、それならそれで、僕には一つ疑問があります。
直:何ですか、その疑問とは?
猛:真理という目標があるのに、「結論」を出さない、という対話のあり方です。ハッキリした目的があるのに、対話すること自体以外に目的がないというのは、矛盾じゃないでしょうか。
直:対話に関する本質的な問題が指摘されましたね。君の言うとおり、真理の探究が目的であるのに、結論を出さない、というソクラテスのやり方では、何のために対話をするのか分からないと。そういう疑問を出されたわけですね。
猛:ええ、そうです。何かしらの結論を出さないと、前に進むことができません。それでは、いつになったら真理に到達できるのか、先が見えないことになります。
直:それは君の言うとおりで、認めないわけにはゆきません。けれども、対話するそのつど、「答え」つまり「結論」を出さないという、そのやり方によってこそ、真理探究の道が開かれる。ソクラテスは、そういう行き方こそが「愛知」であると考えているように、私には思われるのです。どうですか、猛志君。
猛:ウーン、そうかなあ……
〈道〉としての哲学
中:こんど出版される『〈中〉のロゴス』の中で、先生は「中道主義」を「頂極主義」から区別されました。本の最後の方で、ソクラテスが中道主義をとっていると。たしか、そんな見解を示されていたかと。
直:よく指摘してくれましたね。その話と、いま議論しているポイントに、つながりがあるということに、気づかれたのでしょうか。
中:気づいたという訳ではないのですが、関係がありそうに思われたので、口にしました。ソクラテスと「中道」との関係を教えていただけないでしょうか。
直:ふれなければならないポイントに来たので、ご説明します。ソクラテスとプラトンの関係は、頂極主義と中道主義の関係に相当するというのが、本の中でうちだした私の解釈です。
中:プラトンが頂極主義、ソクラテスが中道主義だというお考えですね。二人の立場は、大きく異なるということのようですが、どんな風に違うのでしょうか。
直:本に書いたことを繰り返すと、話が長くなります。ここでは、哲学を一つの〈道〉に譬えて説明することにします。哲学が学問の修業であるという意味において、〈道〉であると考えることに異論はありませんか、猛志君?
猛:ありません。僕にとっての哲学は、日々前進しようとつとめる〈道〉そのものです。
直:たいへん結構、そのとおりだと思います。それを認めたうえで、もう一点、お訊きします。その道には最終地点、目標がありますか。
猛:さっきも言ったように、哲学は真理の探究ですから、目標地点は「真理」だと言えます。
直:では、その目標は、これだとして、目に見えるものですか。
猛:いいえ、見えません。見えなくても、確かな目標となるのが、真理というものだと思います。
直:君だけでなく、学生や研究者は、みんな君と同じことを言うでしょう。見えなくても、真理は必ずあるのだと。しかし、確実にこれがそうだといって、示すことのできないものが、どうしてあると言えるのでしょうか。
猛:たとえ見えなくても、それがあるということが信じられる、そういうものが真理ではないでしょうか。
直:水掛け論を打ち切るために、ハッキリ言うことにします。それが存在する、ということが証明できない、にもかかわらず、それが存在するという信念――信憑(しんぴょう)と言い換えた方がよい――によって、目標が仮設される。そういう目標の典型が、プラトンの「イデア」というものです。それを想定することによって、知識の追求に明確な目的が生まれてくる。イデアの認識という目標に向かって、向上していくという学問のコースが、成立するのです。
中:お話の途中で、口をはさんですみません。いまおっしゃっているのが、頂極主義のあり方でしょうか。学問の道に最終目標を立てるわけですから。
直:真理イコール「イデア」という頂点をめざして上昇するあり方は、まさしく頂極主義そのものです。
中:ということは、それと違う中道主義では、学問の道に目標がないということになるのでしょうか。
直:最終地点がないという意味では、おっしゃるとおり。ここで終わり、と言えるような目標がないからこそ、いつまでも歩み続ける以外にない。それが、学問であれ、芸能や武術であれ、〈道〉と名のつくかぎりの修業のあり方です。
猛:学問でも、芸能文化でも、それが道であるかぎり。修業に終わりがないという点は、そのとおりだと思います。けれども、哲学は真理の探究だということに、先生は同意されたと記憶します。目標が定まっていないのに、それが真理の探究だということが、どうして言えるのですか。
〈中道〉を行く
直:頂極主義の場合には、明確な目標が存在する。それに対して、中道主義では、正しい道を進んでいることの保証がないのではないか、という質問です。タイムリーな問題提起なので、ここでお答えしましょう。中道さん、恐縮ですが、あなたのお名前の意味をお聞かせください。
中:〈中道〉の〈中〉には、「正しさ」の意味があるということを、以前教えていただきました。ですから、〈中道〉の意味するところは、「正しい道」ということになります。
直:ありがとう。では、〈道〉が正しいこと、つまり中であることを約束するのは、何でしょうか。
中:ふつうの考えでは、偏っていないあり方、行きすぎない、バランスのとれた行き方であるということができます。儒教で言う「中庸」のあり方が、それだと考えられます。
直:そのとおりで、間違いありません。ですが、『〈中〉のロゴス』では、そういう「過不及の中」とは違う意味が、〈中〉にあることに、注意を促したつもりです。最後の章のことなので、あなたの目に留まったかどうか……
中:「中間性」とは「媒介性」である、と書かれたところでしょうか。それなら、記憶に残っています。
直:その箇所です。人と人の〈あいだ〉を開くはたらきが、「中間性」であると書きました。そういう媒介者としての生き方を、ソクラテスの対話に認めることができるのではないか、ということに最後になって気づいたわけです。
猛:ソクラテスが「媒介者」の役割を果たしたというように書かれていますが、そのことと哲学のあり方との関係に立ち入られていないので、あまりよく理解できません。もう少しくわしい説明をしてほしいと感じました。
直:平たく言うなら、哲学者としてのソクラテスは、同じ道を行く修業者に対して、側面から助言を施す先輩、「先達」の役目を務める。そういうことが、哲学者と呼ばれる人の存在理由であるということです。
猛:哲学を志す人の「教師」じゃなくて、先輩としての務めを果たすこと、それが哲学者の役目だとおっしゃるわけですね。そのことは解りました。でも、まだ疑問が残っています。
直:何でしょうか。
猛:道の先達であるというだけでは、その道が正しいということは保証されません。それが絶対に正しい道、真理に至る道であるということを、保証する何かが必要ではありませんか。
直:君の言い分は、よく分かります。その道が正しいことを保証する「神」のような絶対的な何かが必要だという考えは、形而上学を要請します。私としては、それに頼ることをしない「非形而上学」の行き方がありうるということを、拙著の結論にしました。ソクラテスが行った対話は、〈絶対〉を立てることをしないという条件のもとに、真理を求める営みをつづける方法だと言いたいのです。
猛:僕としては、ソクラテスのやった対話中心の哲学とは違う行き方をしたプラトンの方に、より大きな魅力を感じます。ですが、ソクラテスとプラトン、どちらの道をとるかについては、もっとよく考えたいと思います。
直:それがよいでしょう。この二人が哲学の原型をつくった元祖ですから、そのどちらに従うべきか、後に続く者として簡単な答えはないと思います。

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