ふたたび「対話」のテーマへ
直言先生:先月の「木岡哲学対話の会」では、哲学講話のテーマとして「対話の構造」を取り上げました。〈中〉につづいて、私が考えたいのは、「対話」というテーマです。お二人との対話でも、このテーマを議論したことは何度もあります。今回からの新しいシリーズ、タイトルを「対話の周辺」とするつもりですが、どう思われますか。
中道さん:「対話」がシリーズのテーマにされたことは、たしか4年前にあったかと記憶します(《対話の世界へ》2022.5.21~9.21)。その繰り返しにならないかが、気になるところです。そのシリーズ最初の回(「〈二〉と〈三〉のあいだ」)で、私たちがやっているのは「三人対話」であるということをおっしゃいましたが、もう一つスッキリしなかった覚えがあります。ですから、いちどその意味を掘り下げる機会があってもよいのではないでしょうか。
猛志君:いま中道さんが言われたことで思い出しましたが、対話の後で、「三人対話」について書かれた論文(「〈二〉と〈三〉のあいだ――対話の条件」『関西大學 文學論集』第七十二巻、第一・二合併号、2022年9月)をいただきました。対話はダイアローグ(dialogue)、二人でするものだ、という常識をひっくり返す考え方だったので、記憶に残っています。そういう問題をここで改めて議論できたら、面白いと思います。
直:お二人とも、このテーマに異存がないようですから、それで行くことにさせてもらいます。猛志君が口にされた4年前の論文が、切り口にはちょうどよい。内容を覚えておられますか、中道さん?
中:はじめの方で、私たち三人がしている対話を「三人対話」の例として引用されています。そのあたりは興味があったのですが、その後で西田哲学が出てきたあたりからは、チョット……。内容についていけませんでした。
直:「三人対話」を説明するのに、後期の西田哲学が参考になると考えたのですが、いけませんでしたか。猛志君も同じですか?
猛:西田は、〈私-汝〉の二者関係を〈私-汝-彼〉の三者関係に読み替えようとした。そのあたりまでの説明は、いちおうナットクできました。しかし、それにつづく後半は、風土の構造に結びつけるムズカシイ議論になったので、読むのを止めました。
直:そうですか、それは無理もない。読み手の事情もわきまえず、短い論文の中に言いたいことを詰め込みすぎる私の悪い癖が出てしまいました。申し訳ない次第です。
中:こう申し上げては失礼ですが、先生の書かれる論文は、私のような素人には難しすぎます。「三人対話」とおっしゃったことの真意も、いまだによく解りません。せっかくの機会ですから、ふつうの読者にもついていけるような説明を、ここで改めてしていただくというのは、いかがでしょう。
直:分かりました。「三人対話」という言い方をしたことの狙いは何だったのか。それを説明してから、「三人対話」についての私の考えが、最近どう変わってきたのか、という話題に移ることにします。
「三人対話」の意味
直:お二人との以前の対話、それをもとにして書いた論文、それが失敗だったと感じられる理由は、「三人対話」の定義があいまいだったということです。
中:「定義があいまいだった」といわれるのは、どういう点でしょうか。
直:キチンと区別しなければならない二つの場合を、ゴッチャにして扱ったということです。一つは、現実の対話の場が、対面する二人以外の第三者に対して開かれている、〈私〉と〈汝〉の対話に、第三者〈彼〉が参加してくることによって、二人ではなく三人の対話に拡がってゆく、というあり方を「三人対話」であるとしました。
猛:たしか、『〈出会い〉の風土学』(幻冬舎、2018年)の一節を引用して説明されたのが、そういう「三人対話」の意味でしたね。
直:そうです。われわれ三人が行っているのは、そういう意味での三人対話の典型です。そのあり方が、世間で行われている対話、ダイアローグと呼ばれる「二人対話」についても、当てはまると考えたわけです。
中:そのお考えは、私にもよく解ります。それとは違う、もう一つの「三人対話」というのが、どういうものなのかが、ピンと来ません。
直:それは、いま言った第三者〈彼〉を、人ではなく「環境」に見立てることによって、第一の意味とは異なる「三人対話」が成立する、という考えのことです。あなたが「ついていけない」と言われた西田哲学を参照することで、その考えに至りました。
中:第三者は、人間ではなくて環境だ、とおっしゃったわけですね。環境が〈彼〉に相当するということが、どうして言えるのでしょうか。よく分かりません。
直:4年前の対話では、「環境――彼の世界」という講義を入れましたが、説明が簡略すぎてよく理解できない、と言われそうな内容でした。「環境とは彼の世界である」という西田の主張を、もっと肉付けして説明しなければならなかったと思います。
中:対話しているのは、〈私〉と〈汝〉。それ以外の人々が「環境」とされることは、いちおう理解できます。しかし、それが「彼の世界」であるというのは、どういうことでしょうか。〈私〉〈汝〉〈彼〉は、どう関係するのでしょうか。
直:世の中の出来事には、それを惹き起こした当事者と、それ以外の傍観者、つまり第三者がいます。当事者は〈私〉と〈汝〉、それ以外の第三者は〈彼〉であるとすると、〈私-汝-彼〉の三者関係が成り立ちます。この点については、よろしいですか。
中:ええ、当事者以外の人間は、全員が傍観者。そういう傍観者をひとまとめにして、「環境」と呼ぶこともできるでしょう。しかし、「彼の世界」という言い方が、私にはピンときません。
直:対話を例にとれば、人称的区別の意味は明らかです。〈私〉と〈汝〉が言葉のやりとりをする、いまの私と中道さんのように。それを横で聞いている猛志君は、傍観者つまり〈彼〉。その〈彼〉が、傍観するだけでなく、われわれ二人の対話に割って入る。猛志君、何か発言してください。
猛:西田は、対話モデルで環境を説明しようとしたのですか、スゴイなあ。
直:そう、そのとおり。と、ここで対話の主客が入れ替わる。猛志君が〈私〉、この私が〈汝〉の役を務めることで、さっきまでの当事者、〈私〉であった中道さんが、いまや聞き役に回って、〈彼〉の位置に立つことになる。〈私-汝-彼〉が、たがいの役割を交代することによって、ゲームのように対話がつづく、というわけです。「彼の世界」は、対話というゲームが行われる世界である、そういう風に考えていただければよいでしょう。
中:ということは、「三人対話」も一種のゲームとして考えればよいということですね。よく解りました。
直:対話モデルで「環境」を説明するだけなら、別に問題はなかったのですが、環境に〈彼〉以外の要素を含ませたために、話がややこしくなりました。
中:それはどういうことでしょうか。説明をお願いします。
弁証法的限定
直:問題は、あなたがついていけなかったという西田哲学の難しい概念を取り入れたことにあります。西田哲学後期の「弁証法的論理」では、三人称の〈彼〉が、人称的な存在の意味から離れて、「弁証法的一般者」と呼ばれます。
中:〈彼〉が「弁証法的一般者」なのですか。それは、いったい何のことやら……。
直:後期の西田を代表する「弁証法的一般者としての世界」(1934年)という論文に、「媒介者M」という概念が現れてきます。〈彼〉は、〈私〉と〈汝〉とをつなぐ媒介者であることから、「媒介者M」を意味するとされるわけです。
中:「媒介者」はよいとして、それが「弁証法的一般者」であるというのは、どういう意味ですか。
直:「表現的一般者」という別の言い方もされているので、そちらで説明しましょう――「弁証法」の説明は、ちとメンドウですから。「表現」というのは、個人の行いではなく、世界がその隠れた意味を表現することだとされる。たがいに対立する〈私〉と〈汝〉が関係するのは、両者を媒介する「一般者」、つまり「世界」のはたらきによるものだ、という説明が行われています。世界がその意味を明らかにするのは、「一般者の自己限定」であるという難しい言い回しが行われます。
中:先生と私が対話するのは、世界のはたらきであると。それじゃ、私や先生の意志は、どういうことになるのですか。世界によって、われわれがロボットみたいに操られている、というのですか。
直:あなたも私も、意志をもった主体として自由に対話している。そのことは否定されません。しかし、そうであると同時に、それは世界の意味が表現されるということでもある、ということが、西田独自の論理で言い表されているのです。
中:ヘーッ、そういうリクツがあるのですか。猛志君は、そういう話をチャンと理解できますか。
猛:世界がどう動いていくかということを、個々の主体の行動から説明する立場と、世界の側から説明する立場とがあります。西田が「表現」というのは、後の立場だと思います。
直:そのとおりですが、後期の西田哲学では、それまでよりも個の自由にウェイトを置く仕方で、「歴史的世界の論理」が展開されました。個の側と世界全体の側、両方の立場が活かされるような論理の形式を考えようとした。そう言ってよいように思います。
中:先生は、西田のそういう考えを「三人対話」に取り入れようとされた、と受けとってもさしつかえないでしょうか。
直:ええ、ですが中途半端な議論に終わってしまった。それを反省して、「対話」の本来の意味から考え直さなければ、というのが現在の思いです。
中:とおっしゃると、「環境」が〈彼〉であるという考えを止めて、〈私〉と〈汝〉と〈彼〉、文字どおり三人で行われる対話を中心に考える、ということになるのですか。
直:いちおうそういうことになります。対話を、人と人が言葉をやりとりする場面に沿って、そこからじっくり考えてみたい、結論を急ぐことなく。そういう考えで、シリーズに「対話の周辺」というタイトルを付けることにしました。
中:お考えはよく分かりました。で、ここからのお話は、どういう流れになるのでしょうか。
直:これまで漠然と考えていた「対話の哲学」ということを、一つのハッキリした主張として追求したいと考えています。
中:ハッキリした主張、それはいったいどういうものですか。
直:「哲学とは対話である」という主張です。このことを、最近知ったハンナ・アレントの『責任と判断』から考えつきました。
中:先月の「新着情報」冒頭の記事「もう一人の私」で、アレントのことを書かれていますね。それに関係しますか。
直:お察しのとおり、アレント『責任と判断』(ジェローム・コーン編、中山 元訳、ちくま学芸文庫、2016年)に収録された「道徳哲学のいくつかの問題」という講演の中で、アレントが語っていることから、いろいろインスピレーションが湧いてきました。その中にどういうことが語られているのかを、ここでご紹介しましょう。
講義:対話としての哲学
アレントはこの本の中で、道徳の本質についてきわめて重要な事実を明るみに出しています。それは、善悪についての判断が、自分自身の内に潜む〈もう一人の自分〉との対話をつうじて行われる、という事実です。具体的な例として、ソクラテスが『ゴルギアス』の中で提起した問いの一つ、悪しきことを為すよりも、悪しきことを為される方がマシなのは、どうしてかという問いに対して、悪しきことを為した自己を抱えて生きることに耐えられないから、という答えを示しています。私は、一人ではなく、〈もう一人の私〉が自分の中にいて、自己の為すことを見張っている。私が悪しきことを為すと、もう一人の私との間に不調和が生じたまま、一生を過ごさなければならなくなる。ふつうの人間であれば、そのことに耐えられない。悪しきことを為すよりも、為された方がマシである、という主張を裏づける根拠として、ソクラテスが示した唯一の論拠は、このことであるとアレントは述べています。
誰にでも、自分が悪いと思える方向に、心が傾く場合がある。そういう悪への誘惑を断ち切る力がはたらくのは、自身の心の奥に潜むパートナーとの沈黙の対話によってである。そのように言われて、いやそんなことはない、として自己内対話を否定できる人がいるでしょうか。私は、いないと思います。自分では深く考えたことがなかったこの事実を、アレントによって突きつけられたことから、「哲学とは対話である」という命題を真剣に検討しなければならない、という思いが生じてきました。それまでの私が主張して、実行してきた「哲学対話」は、すべて二人(かそれ以上)が集まって、たがいに言葉を交わすというものでした。誰もが認める対話の主導者として、ソクラテスのしたことは、複数の人々がアゴラ(広場)に集まって、たがいに言葉をやりとりする行為としての対話でした。ところが、そういう哲学対話の元締めとも言うべきソクラテスのもとで、他者との対話に先立って――あるいは並行して――、自分自身との対話が行われていたのです――この議論の箇所には、見出しとして、「哲学の条件としての無言の対話」が掲げられています。
私が取り組んできた哲学対話は、対面する相手との間で閉じられる「二人対話」を、それ以外の人々が加わる「三人対話」へと展開することが狙いです。大学などで行われるのは、上に立つ教授が発する言葉を学生がうやうやしく拝聴する、という一方通行の講義。それを双方向的なやりとりに変えたいということが、哲学対話に向かったことの最大の動機です。ただし、それは哲学「対話」であるとは言えても、「哲学」対話であることを保証するものではありません。対話をすること、それこそが哲学であると主張するためには、その主張を根拠づける理論が必要である。そういう思いに対して、アレントは、きわめて有力な指針を示してくれた、ということを感じています。
まだ十分掘り下げたとは言えない手探りの段階ですが、哲学とは対話である、という考えがここから具体化してきました。哲学としての対話に、次の三タイプを区別することができると考えます。このアイディアを、私の主宰する「木岡哲学対話の会」第一部の「哲学講話」で披露しました。
(1)自己内対話
自己の内なる〈もう一人の私〉との対話。すべての思考に共通する自己内対話が、哲学の原点である。自己ともう一人の自己とが、〈私-汝〉として交わす「二人対話」。
(2)対面型対話
ふつうに行われる他者との対話(ダイアローグ)。その実体は、自己内対話に他者が加わって展開する〈私-汝-彼〉の「三人対話」である。自他の〈出会い〉と〈対話〉をつうじて、それまでなかったような〈気づき〉が得られる。
(3)非対面型対話
人称的存在が相手ではなく、既存の知識・情報をつうじて、そこに表現された〈意味〉へと開かれる行為。知の集積としての公共的な哲学が、個々の〈私〉の哲学に入り込む。
以上三つの対話によって、世間一般が認める意味での哲学と、一人一人が自分のテーマを考える哲学とを結びつける道が開かれたと考えます。これ以上の説明は、お二人とのやりとりに委ねることにします。
哲学の二義性
直:講義では、哲学と対話とを等しいものとして結びつける考えを表明しました。お二人が、どう受けとめられたかを聞かせてください。
猛:「哲学とは対話である」という言い方は、初めて聞きました。これまで哲学対話については、「対話は哲学である」という考えが基本だったと思います。それは、対話することも哲学なのだという考えであって、対話と哲学とをイコールの関係に置くものではなかったと。そう受けとったのですが、当たっているでしょうか。
直:当たっています。これまでの私は、対話以外の要素が哲学にある、という漠然とした考えを抱いていました。しかし、いまの考えでは、そんなものはない、哲学のすべては対話に帰着する、というように大きく変わっています。
中:いま「対話以外の要素」と言われました。それは、どういうものでしょうか。
直:例を挙げるとすれば、「直観」。私は、ベルクソンの研究から出発したので、哲学の本質が直観のはたらきである、という彼の思想に共感していました。いまも共感しています。
猛:ということは、その直観主義を捨てるということですか。哲学のすべてが対話である、とおっしゃるのは。
直:直観がもし対話でないとすれば、そういうことになるでしょう。しかし、直観を「自己内対話」とみなすことができたなら、対話の立場が直観主義を含むということができるかもしれません。その点については、これから検討していく必要があるけれども。
中:世間一般のイメージでは、哲学というのは特別優秀な頭脳をもった哲学者が専門にするもので、ふつうの人には関係のないものだとされています。ところが、先生の定義によれば、哲学とは「自分のテーマを自分で考え、自分の言葉で表現すること」。これを徹底するということから、「哲学とは対話である」とおっしゃったのではないだろうか。私は、そんなふうに受けとめました。
直:なるほど、そう受けとられましたか。哲学が専門家の独占物であるという考えと、哲学が一般の人々に開かれた知の営みであるという考え。二つの哲学観は、一見すると対立するけれども、実は一致させることができるというのが、講義の最後に挙げた三つの対話のモデルが意味するところです。その理由がお分かりですか?
中:三つのモデルそれぞれの意味については、分かる気がします。でも、それによって二つの哲学観がどう一致するのかについては、見当がつきません。
直:哲学についての二つの考えを、ⓐ「哲学とは、自分のテーマを自分で考えることである」、ⓑ「哲学とは、「哲学者」という専門家の営みである」として区別しましょう。だれでもよいから、哲学者を一人思い浮かべてください、中道さん。
中:それでは、プラトンにします。
直:結構です。プラトンが哲学を始めたきっかけは、何だかご存じですか。
中:知りません。何がきっかけですか。
直:ほかにもいろいろあるでしょうが、プラトンは、年長の兄たちからソクラテスについての話を聞いて、その人間性と生き方を尊敬していた。そのソクラテスが、裁判で死刑判決を受け、それを受け容れて死んだという衝撃的な事実から、哲学に心を傾けるようになったというのが定説です。
中:それが、プラトンを哲学に向かわせたというわけですね。なぜ、何のために、哲学をやろうとしたのでしょうか。
直:それも一言では尽くせませんが、考えられる最大の理由は、ソクラテスを死に追いやったような社会を改める、という目的を抱いたからではないか、と私は考えます。その証拠が、彼の代表作である『国家』。ソクラテスのような人が、殺されることのない理想の国家とは何か、を考え抜いた作品です。
中:そういう事情があったとは、知りませんでした。プラトンには、答えなければならない自分のテーマがあったということですね。
直:そのとおり。どんな偉大な哲学者も、まず自分のテーマを自覚しなければ、哲学は始まらない。そういう意味で、先ほどのⓐ「哲学とは自分のテーマを自分で考えることである」という定義は、ⓑ「哲学とは「哲学者」という専門家の営みである」で言われる哲学者についても、当てはまるということが明らかでしょう。
中:哲学者と呼ばれる人たちも、われわれふつうの人間も、哲学の出発点が自分のテーマである点に関しては、同じだということですね。そのとおりかと思います。
猛:ですが、ⓑの意味では、哲学は世間一般に対して閉ざされている。僕のような学生が悩むのは、ⓐとⓑのギャップをどうやって埋めたらよいのか、という問題です。
直:よく分かります。そのギャップを埋めるアイディアが、三つの対話モデルにあるというさっきの話に戻りましょう。
三つの対話モデル
直:先ほど挙げた三つの対話モデル、そのうち「(1)自己内対話」については、講義で説明したとおりで、それに付け加える必要はありません。何か不審な点がありますか。
猛:不正を為すよりも、不正を為される方がマシだという考えの根拠が、〈もう一人の私〉との対話にある、という先ほどのお話は、具体的でよく分かりました。アレントは、そういう自己内対話が、哲学だと主張しているのですか。
直:私と隠れたもう一人の自己との間で交わされる無言の対話が、「哲学が成立するための前・哲学的な条件」であると言っています。
猛:その言い方だと、哲学イコール対話である、とまでは言っていないような気がします。それは、どうしてでしょうか。
直:分かりませんが、もしかすると、「対話」とは言えない要素が哲学に含まれる、という考えがあるのかもしれません。
猛:対話とは言えない要素って、さっき口に出された「直観」のようなものですか。
直:先ほども言いましたが、「直観」を対話ととらえることが可能かもしれない。しかし、それは対話というものではなく、一方的な教え、言ってみれば「啓示」(神による真理の示し)であるとするなら、「対話」とは言えなくなるかもしれません。
猛:信仰の立場からすると、神から言葉を受けとることは、もはや対話ではない、ということになるわけですね。難しいなあ。
直:難しい問題です。これからよく検討しなければなりません。
中:三つのモデルのうち、「(2)対面型対話」というのは、われわれがしているような対話のことですか。だとすると、意味はよく分かります。そういうふつうの対話が、「哲学」であると言えるのは、どうしてでしょうか。
直:対面する二人が、どちらもよく考えて言葉を交わすとき、それぞれの内に潜む〈もう一人の自己〉との対話が生じます。甲と乙との対話であれば、甲は乙以外に、もう一人の甲とも同時に対話している。ということは、そこに甲、乙、もう一人の甲、という三者が関係する「三人対話」が生じていることになる。申し上げていることは、お判りですか?
中:判ります。甲と乙との「二人対話」は、実のところ、それぞれの背後に隠れた〈もう一人の私〉を含む「三人対話」なのだ、ということですね。
直:〈もう一人の私〉は、甲と乙それぞれに存在します。ですから、甲と乙とは、それぞれの仕方で三人対話を行っている、ということになるわけです。
中:そういう対話が、哲学だと言えるのは、なぜでしょうか。
直:甲と乙、それぞれのもとでの三人対話から、〈気づき〉が生じる。甲の側と乙の側、それぞれに共通の気づきが生じてくる。このことが、対話そのものが哲学である、と言える事実ではないかと考えられます。
中:共通の気づきに至ること、そこに哲学の意味があるということですか。ということは、もし気づきが生じなかったら、それは哲学ではない、ということになるのではないでしょうか。
直:対話は、何かしらの気づき――合意といってもよい――を求めて行われますが、気づきに至るとは限りません。むしろ、何の成果も生まずに終わることの方が多いでしょう。しかし、というより、だからこそ、対話を続けることに意味がある。それは、出口の見えない争いに陥っている敵対勢力が、何らかの解決策を求めて交渉のテーブルにつく、という状況と似ています。対話によって合意に達することよりも、対話を続けるというそのことに、対話の意義があると考えなければなりません。
中:哲学の意義は、対話によって成果を得ることではなくて、対話を続けることそのものにあるという訳ですね。分かりました。
猛:僕は、三つの対話モデルの中で、特に「(3)非対面型対話」に関心があります。というのは、僕が日常行っているテクスト・リーディングが、文字を介した著者との対話である、という考えが示されたからです。
直:そうですか。私としては、よく言われる「本との対話」の意味を一般化しただけですが、その点に君の関心があるわけですね。
猛:自分のしている学問が、浮世離れした特権的な行為ではなくて、誰もがしている哲学対話の一つのタイプにすぎないのだ。そう考えることができて、チョット救われたような気になりました。
中:私の方からも言わせてもらうと、哲学者のしていることは、自分のようなふつうの人間からかけ離れたことではないんだ、という気持ち、何というか頼もしさのようなものが、湧き上がってくる気がします。
直:「哲学は万人に開かれている」という当方のメッセージを、感じとられたわけですね。対話モデルで哲学を考えたことの狙いは、そこにあります。ただし、そのモデルに関して、もう一点、付け加えておきたいことが残っています。
中:何でしょうか、それは。
直:先ほど挙げた二つの哲学観のうち、ⓑに出てくる専門家としての「哲学者」、それが引き受けなければならない役目は何だろうか、という点です。次回は、対話における哲学者の役割を考えたいと思います。これは、特に猛志君に関係のあるテーマです。
猛:了解しました。よろしくお願いします。
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