毎月21日更新 エッセイ

〈出会い〉の人間学(1)――〈別れ〉と〈出会い〉

 

 月替わりのエッセイも、二つのシリーズ――「テクノロジーの問題」「あいだを考える」――を各5回連載して、ひと区切り。さて、次は何をと考えたときに、〈出会い〉のテーマが浮かんできました。〈出会い〉(もしくは〈邂逅〉)は、〈あいだ〉や〈縁〉と並んで、私の書くものに頻繁に登場するキーワード。それに、〈あいだ〉〈縁〉〈出会い〉は、それぞれの意味を説明しようとするとき、必ず他の二つに言及しないわけにはいかない、たがいに密接な関係にある言葉です。この三つの言葉を用いるとき、私には、これらすべてが危うい状態に置かれている現在の社会状況に対する、警戒や告発の意識がはたらきます。〈あいだ〉が閉ざされることで、人々がたがいに無縁化する社会、それは別の言い方では、「出会いなき世界」を意味します。最初、この「出会いなき世界」をシリーズのタイトルにしようかと考えましたが、イメージがあんまり後ろ向きすぎるので、ニュートラルな感じの「〈出会い〉の人間学」を選びました(『〈出会い〉の風土学』によく似ていますが、こちらでは焦点を〈人と人のあいだ〉に絞るとお考えください)。第1回は、〈別れ〉と〈出会い〉。通常、「出会いと別れ」というように言い表される語順を、上のように入れ替えたのは、なぜか。そのあたりから、話を始めます。

 

〈別れ〉あっての〈出会い〉

 「別れと出会い」という逆の語順を私に納得させたのは、おそらく大半の方がご存じの、中島みゆき『時代』。その第2番の歌詞では、「めぐる めぐるよ/時代はめぐる/別れと出逢いを繰り返し」というサビ(?)の部分に、この言い回しが出てきます。この歌を好んで聴く私も、どうして「出逢いと別れ」ではなく「別れと出逢い」になっているのか、長いあいだ理由が判りませんでした。時間の順で言えば、〈出逢い〉がまずあって、その後に〈別れ〉が来るはずなのに。何でやろ、おかしいなあ……。数年前に、やっと事情が判りました。〈別れ〉が〈出逢い〉の前にあるのは、〈出逢い〉がそれとして成立するのは、〈別れ〉が生じることによってである、という作者の考えがあるということです。言い換えると、〈別れ〉がなければ〈出逢い〉はない、ということ。もしこの言い方が腑に落ちないと言われるなら、誰かと出会った先には、いずれ必ず別れがやってくる、と言えば、それを否定する方はいないでしょう。中島みゆきは、そういう事の成り行きを見渡して、「別れと出逢い」という意表を突くまとめ方をした、というのが私の解釈です。

 この人の視線は、まるでお釈迦様のようです。出会ってから別れるまでの一連の経過を、上から俯瞰できなければ、こんな表現を思いつくことはないでしょう。上の歌詞より前の箇所からも、仏教的な発想が見てとれます。「今日は別れた恋人たちも/生まれ変わってめぐり逢うよ……」。いかがですか。「生まれ変わる」というのは、「日を改めて出直す」といった月並みな決意表明とは、まったく違います。恋人を失ったその時点で、すべてが終わり、もう二度と恋が甦ることはない。ただ二人に可能なのは、生まれる世を変えて、再びめぐり逢うことだけだ、と。もし、そういう読み方が許されるなら、『時代』を『輪廻』に置き換えてもよかったかもしれません――もっとも、そんなタイトルにしたのでは、レコードが売れませんが。

 〈出会い〉と〈別れ〉は、セットで考えられる出来事です。しかし、以上に申し上げたこの事実を、すんなりそのまま受け容れることのできる人が、はたしているでしょうか。それはそうだけど……とつぶやく方が多いと思われます。それは、〈出会い〉ということの明るいハッピーな面にしか、人々の関心が向かわず、そのように仕向ける言説のシステムが、社会を覆っているからです。誰もが幸せな出会いを願う。しかし、出会った先には、必ず〈別れ〉がつきまとう――たとえ遠い先であろうと。世に「出会い系サイト」なるものが数多存在して、男女のハッピーな出会いをお世話してくださるとか――たぶん、その宣伝文句に、「幸せな出会いと別れを約束します」というものはないでしょう。

 さきほど「お釈迦さま」を挙げたついでに、仏教について一言。「四苦八苦」は、熟語としてよく用いられる表現ですが、元々の内容をご存じでしょうか。「四苦」は「生老病死」(しょうろうびょうし)。生きていれば、いずれは老い、病気にかかり、やがて死ぬ、という人生の苦しみを、四文字で要約したものです。「老病死」をその中に含むという意味では、「生」がすべての苦を代表します。さて、「八苦」となると、残る四つは何か。「愛別離苦」(あいべつりく)「怨憎会苦」(おんぞうえく)「求不得苦」(ぐふとっく)「五盛陰苦」(ごじょうおんく)の四つですが、今回のテーマにかかわりが深いのは、前の二つ、「愛別離苦」と「怨憎会苦」。文字面からも、それぞれ「愛するものと別れる苦」「憎むものと会う苦」であることがお判りでしょう(後の二つは、そんなに用いられないが、「求めて得られない苦」「心身環境一切を形成する五要素が執着されていることから起こる苦」という説明が、辞書にあります)。これを見ると、出会うことは喜びだが、別れることは苦痛、というような単純な色分けはできません。〈出会い〉そのものに、歓喜と苦痛の両方が切り離しがたくつきまとっているのです。もう一つ、どうしてこんな嫌な相手と出会わなければならないのか、という「怨憎会苦」――私のように長く生きると、これこそ人生最大の苦ではないか、という実感を抱くものです。同感だとおっしゃる方も、多いのではないでしょうか。

 

偶然としての〈出会い〉

 「出会いなき世界」というシリーズ名を考えたくらいですから、現代世界での〈出会い〉の可能性について、私は悲観的な見方をしています。最初に申し上げた「〈あいだ〉が閉ざされ、人々が無縁化する社会」を言い換えると、そのまま「出会いなき世界」ということになります。「出会いがない」という言い方は、人々がハッピーな出会いを求めて、出会い系サイトに群がる現実からすると、奇異に映るかもしれません。実質上は「お見合い」である男女間の取り持ちに際して、収入・学歴・趣味その他の個人データをコンピュータに入れ、最高の相性を持つ相手と引き合わせる、というのがこうしたメディアの手口のようです。好相性の異性とのご対面が演出されるのなら、それを〈出会い〉と呼んでも、別に不都合はない。結構です。ただ私の考える〈出会い〉は、そういうものではありません。

 私が問題にする〈出会い〉とは、予測のつかない、不意打ちの出来事としての〈出会い〉、まさに偶然の出来事です。「偶然」というのは、「必然」の否定。必ずそうなるのが「必然」だとすると、それを否定する「偶然」は、そうなることもならないこともある出来事、別に起こらなくても不思議でないような出来事、を指します。とはいえ、自分が誰かと結ばれる(結ばれた)ことは必然だ、そう思いたいのが人情でしょう。恋人同士を結ぶ「運命の赤い糸」は、そういう思いの喩えとしてよく引かれます。こういう例では、必然と偶然の関係は微妙です。太郎と花子が、たまたま出会って恋に落ちたとする――さだまさしの『雨やどり』が物語るように(解りやすい例のつもりです)。「たまたま」(偶ゝ)という言い方が表すように、それは予想外の偶然の出来事。しかし、当人たちにとってみれば、二人が結ばれることは、前世から――神によって、と言っても同じこと――約束されていた必然である、そう信じたくなるでしょう。こうして偶然が必然に転化したとき、その出来事は「運命」と呼ばれます。

 人は運命に愛されたいのなら、偶然そのものである〈出会い〉に開かれていなければなりません。コンピュータの情報から弾き出される相性が、そういう意味の偶然を排除するのは、機械の持ち前であって、そういうお見合いがよいのであれば、「雨やどり」のような偶然に期待する理由はないわけです。もっともテクノロジーの進化によって、偶然性の要素を取り入れたコンピュータ――量子コンピュータ?――も出現している、といった反論が返ってくるかもしれません。このあたりでテクノロジー批判を蒸し返すつもりはありませんが、「偶然の結果を導き出す」という所作が、意図的に行われたその時点で、偶然性は消えてしまう、と私は考えます。不意打ちの結果を演出したのでは、不意打ちの意味がなくなる、ということです。ついでに申せば、偶然を演出するという動機は、私がつねづね槍玉に挙げる〈欲望の論理〉そのものです。

 とはいうものの、テクノロジーが〈出会い〉の実現にとって、マイナスばかりであるとは言い切れません。現に、思いがけない出会いがITのおかげで生まれた「哲学対話」のケースを、先月のエッセイで取り上げました。哲学対話を主宰された梶谷真司先生(東大教授)からは、その後、当方からお送りしたエッセイに対して、丁重なコメントを頂戴しています。先生ご自身が、最近ではZoomなどによる非対面型の対話を積極的に進めておいでとのこと。先生はそのことにふれて、いったん非対面の対話に参加して好感触を得た若者は、もはや対面型の哲学対話には戻らない、という旨の意思表示をするそうです。それを伺った当方、驚くと同時に、ホーなるほど、と感じ入った次第です。やや複雑なこの受けとめ方には、それなりの理由があります。ご説明しましょう。

 

権力空間の壁

 遠隔地を結ぶオンラインでの哲学対話。これに喜んで参加する人たち、特に若者は、直接相手と対面して語り合うような、従来式の〈対話〉に消極的、苦手であると見うけられます。その原因の一つは、〈出会いの場〉たるべき教室が、教師と生徒によって構成される「権力空間」と化していることにある、と私は考えます。前々回のエッセイで、人々が「空気を読む」風潮を問題にしたことをご記憶でしょうか。そのときには、この言葉を用いませんでしたが、「権力空間」とは、その場に身を置くことで、命令されなくても他のみんなと同じ方向に動くような、一種の磁力がはたらく場のことだとお考えください。エッセイの中では、学生を吊し上げる書き方をしたものの、そういう空間は、特定の誰彼がつくり上げたというより、社会が寄ってたかってこしらえたものですから、そこに身を置くかぎり、誰しも例外なく「空気を読む」誘惑にかられることも、やむをえないところです。

その点、批判的な感性をもつ学生たちにしても、例外ではありません(いまごろフォローしても、遅いじゃないか!)。自由に考え、好きなように発言しなさい、そんな言い方で若者を〈対話〉の場に誘導しようとしても、そんなことは信じられない、嘘っぱちだ、と彼らが思ったとしても、不思議はない。〈対話〉の前提となる、対等な者同士の〈出会い〉に開かれた経験がない以上、それは当然の反応と言えます。退職の数年前、一般教養の「環境の倫理」という講義で、私の持論である〈出会い〉の意義を語った後、回収した感想のペーパーの中に、自分は生まれてから今日まで、「対等の出会い」というものを一度も体験したことがない、と書かれているのを読んで、ショックを受けました。しかし、そのとおりだろうと思います。20歳になろうかという年齢まで、その学生は、自身が「権力空間」しか知らないということを、告白しているのです。

これが社会の現実だとすれば、非対面型の哲学対話を体験して自由を味わった若者たちが、ふたたび現実の空間に戻って哲学対話を続けようという気にならない、ということも十分理解できます。彼らにとっては、ヴァーチャルな出会いと対話が、「解放空間」であるのに対して、対面型の哲学対話に臨むことは、これまでイヤな思いをさせられてきた「権力空間」に復帰することと変わらない。理屈を言えば、そういうことになるでしょう。私が感じた「ホーなるほど」の中身は、以上のとおりです。

リアルとヴァーチャル、現実と虚構を対比させて言えるのは、現代の若者が前者の価値に懐疑的である度合に比例して、後者への評価や期待が高じていく傾向が、明らかだということです。リアルの世界には、期待するものがほとんどない。かといって、それを変えたり、否定したりするだけの気力も意志もない。そんな連中が飛びつくのは、現実には手に入らないアイテムがすぐ手に入る――すくなくとも、そう信じさせてくれる――ヴァーチャルの世界です。3年前、自分は現実の世界にはまったく期待しない、その代わりに精巧に虚構世界を仕上げて、その中で生きることに人生を賭けたい、そういう決意をクラスの中で表明した1年生がいました。驚くほど頭脳明晰なその学生は、リアルとヴァーチャルの違いを弁え、この二つをけっして混同しないと断った上で、自覚的に後者を選択すると言ったのです。それに対してどう応じたか、記憶が定かではありませんが、現実には虚構に取って替えることのできない重みがある、といった月並みな言葉で、お茶を濁したかと記憶します。むろん相手は、そんなことは百も承知の確信犯ですから、痛くもかゆくもないという風情でしたが。

 

〈別れ〉の真実

 現実の世界で連綿と受け継がれてきた行為の多くが、情報技術の進歩によって、実際に行われなくなってきた現実を、ウィルス感染禍の日々、私たちは目撃しています。テレビ会議やオンライン授業は言うに及ばず、この夏も、前代未聞のヴァーチャル帰省やらヴァーチャル墓参りなど、何でもありといった勢いは、とどまるところがありません。それらについて、つべこべ言うことは止めておきます。ここで私が強調したいのは、人生には、自己がそれとリアルな仕方で向き合う以外、誰も代わってくれない事柄がある、という真実です。VRなどがどうすることもできない厳粛な出来事、それは「死」です。

 ですが今回、「死」について述べることはせず、「死」そのものではないが、ある意味で「死」に匹敵する重さをもつ経験、〈別れ〉について考えることにします。中島みゆきの歌詞が、〈出会い〉よりも前に置いた〈別れ〉、その意義は何か、ということです。〈出会い〉もさることながら、〈別れ〉と〈出会い〉のセットで日本人がより重視してきたのは、〈別れ〉の方です、間違いありません。流行歌、というより演歌の主題は、圧倒的に〈別れ〉が中心――『別れの一本杉』『別れても好きな人』……タイトルに「別れ」を謳った曲は、いくらでもあります。かの中島みゆきにも『わかれうた』があり、そこではお釈迦様の視点どころか、当事者の立場で、別れに伴う地獄の苦しみを歌っています。

 日本人は、なぜそんなに〈別れ〉が好きなのだろう?という疑問が生じたとしても、無理からぬほど、人々は〈別れ〉の主題に執着し、深い思い入れを抱いています。真相は、別れること自体が好きだというのではなく、〈別れ〉に伴うもろもろの情緒――愛着、未練、思い切り、など――にしがみつき、いわば日々の常備薬を服用するように、その情緒を思い返して生きているということです。「別れることは死ぬよりつらい」そんな歌詞があるほどに、当事者にとってつらく苦しいのが、〈別れ〉の体験であるということを、たいていの日本人は知っています。恋人との別れは、かけがえのない身内との死別に匹敵するという実感は、私がこれ以上説明するまでもないことです。しかし、そういう深刻な感情が、流行歌の世界でしょっちゅう表現され、歌われているということは、それが日常化され、「消費」されている、ということです。悲劇の作者が、それを見る観客の「カタルシス」(心の浄化作用)を誘うように、〈別れ〉を表現する作者と、それを受容する聴衆、観客とのあいだに、一種の「共犯関係」が成り立っているということ、これも間違いのない事実です。

 〈別れ〉は「死」に匹敵する重さをもつ、そう申しました。より正確に言うとすれば、〈別れ〉は、自分にとって大切な存在を失うという意味で、小規模な死を意味する出来事、一度きりの終わりではなく、生きているあいだに繰り返される〈喪失〉の体験である、と言えます。それは、生きているからこそ体験される「死」、「生きながらの死」ともいえる出来事です。こういう説明に対して、納得できないとおっしゃる方は、おそらく「生」と「死」をまったく反対の事柄であって、両立しない矛盾の関係にある、と考えておられるのでしょう。そういう方は、たぶんおっしゃるでしょう――生きているとは死んでいないこと、死んだとはもはや生きていないこと。人は生か死かのどちらかであって、その両方であるとか、どちらでもない、というようなことは考えられない、と。これに対する私の言い分は、人生における〈別れ〉は、生のさなかに含まれる死を意味する、生きていることはそのうちに「死」を含む、ということです。私が説いているのは、とんでもない理屈でしょうか。

 いま申し上げたことに関連しますが、若い学生の大半は、生と死をたがいに対立する事柄と受けとめています。この考えは、生と死を対立矛盾の関係とする二元論から来ていて、世間一般のそういう思考を、若者が代表していると考えられます。ですから、彼らは死ぬことを何よりも恐れています。新型ウィルスの脅威を、私のような年寄りには理解できないほど彼らが強く受けとめているのも、世間一般の底流に敏感な若者だからこそ、と思われます。生きていることで、彼ら手に入れたい価値が何なのか。判りませんが、生涯にやり遂げたいこと、守りたいものが、彼らにそうたくさんあるようには見うけられない。しかし、何はなくとも、少なくとも「生きる」ことは手放したくない。死ぬことだけはイヤだ。それが、世間に蔓延する「感染恐怖症」に対する、当方の受けとめ方です。

 生きていることは、小規模な死の繰り返し。この真実を納得するためには、あなたが体験されたことのある「死ぬほど(もしくは、死ぬより)つらい」別れを想い起こしてくだされば十分で、それ以上申し上げることはありません。そんな経験をしたことがない、そうおっしゃる向きに対して、こちらに返す言葉はありません。

 

〈出会い〉なき世界

 〈出会い〉と〈別れ〉、セットになっている二つの重大事件に対して、日本人が十分な感性を持ち合わせていることは、ここまで挙げてきた具体例からも明らかです。二つのうち、どちらかと言えば、短調の〈別れ〉に焦点が合わされやすいのは、それが日本人好みの演歌の基調だから、と言えばそれまで。気になるのは、ハッピーな〈出会い〉に心を寄せる人たちに、もう一方の〈別れ〉の真実を見ようとしない傾向があるのではないか、という点です。その点は、直前に指摘した世間一般の風潮と関係があるように思われます。現代世界を覆う生と死の二元論が、〈出会い〉と〈別れ〉をいずれか一方のみで片づけてしまうような、底の浅さを生み出しているのではないか、と私は懸念します。

 〈出会い〉があれば、いつか必ず〈別れ〉がやってくる。これは、だれ一人打ち消すことのできない厳粛な事実です。しかも、〈別れ〉はいつと予定されることなく、突然やってくるというのが、通常のあり方です。昨日、元気で挨拶した相手が、もう今日はこの世にいない、あまりにも唐突にやってくる〈別れ〉。そんな出来事は、お釈迦様の時代から、「無常」という語で言い表され、仏教徒のもつべき当然の心得として、語り継がれてきました。日本で最大の信者数を抱える浄土真宗本願寺派の聖典に、蓮如上人「白骨の御文章」があり、「朝に紅顔の美少年が、夕には白骨と化す」旨が語られています。ご存じの方も多いでしょう。 そういう人生の真実から目を逸らし、生きていることの明るい面にしか光を当てようとしないのが、現代文明の表層。そして、それを支えてきたのが、近代二元論に根をもつ〈欲望の論理〉です。「死」のない「生」だけ、〈別れ〉のない〈出会い〉だけを、クローズアップして事足りているのが、昨日今日始まったことではない、21世紀社会の現実です。またか、と思われるかもしれませんが、ホームページが続くかぎり、私はこうした批判を書き続けるつもりです。

 ヴァーチャルの世界にすべてを賭けたい、という決意を述べた学生を先に紹介しました。それがもし可能なら、彼は夢の世界を現実として生き抜くことで、あるいは幸せな人生を送ったことになるかもしれません。しかし、それは絶対に不可能です。年老いて病に倒れたとき、彼にヴァーチャル・ケアをしてくれる伴侶がいるでしょうか。臨終に立ち会って、看取ってくれる者が、誰かいるでしょうか。優秀なロボットなら、あるいはそれをしてくれるかもしれない。しかし、この世に二人といない自分の死を代行してくれる者が、存在するかどうか――ロボット工学者に、「自分」の身代わりがつくれる、というようなことを真顔でおっしゃる方がいることを、私は昨年参加したデンソーのイベント(Creation GIGⅡ)で知りました。どうぞご勝手に。そんなことは、千万年かかっても不可能である、と私は断言します。生きること、死ぬこと、出会うこと、別れること、これらはただ人間だけ、それも「自分」だけの問題であって、絶対に他人事ではありません。

 Zoomの画面をとおしての哲学対話を知った若者が、対面型の対話に戻らないという話が、真実だとすれば、上に申し上げたような現実が、そこに関係していることは確かです。もちろん、オンラインによる対話は〈出会い〉ではない、などということではありません。それがなければ、〈出会い〉が不可能であった人同士が、映像をとおして顔と顔を合わせ、言葉を交わすことによって、対話の出来る範囲、つまり〈出会い〉の空間が、大きく広がったことは間違いありません。現にこの私も、実際の会場ではたぶん知り合うことがなかったであろう何人かの方と、親しく言葉を交わすことで、大きな収穫を得ました。それは、貴重な経験であるということを認めます。

 しかし、その気になれば、顔と顔を見合わせて対話することのできる人々が、あえてそれを避け、スクリーン越しのやりとりを選ぶという現状に、私は一種の危惧を抱かざるをえません。何がいったい問題なのか。本エッセイの最初の方で、対等で開かれた〈出会い〉の成立するヴァーチャルな「解放空間」と、〈あいだ〉が閉ざされた現実の「権力空間」を分けました。二つの空間のうち、前者を選んで後者を避けようとする人が、若者に多くいる現実を、私は一方で「なるほど」と認めつつ、その反面、「それでは困る」という、相反する思いを抱くのです。ヴァーチャルなものは、リアルなものに取って代われない。その端的な事実を〈死〉と〈別れ〉という二大事件を例に挙げて、上に説明したつもりです。ヴァーチャルの次元には、〈死〉も〈別れ〉もありえません。だから、というべきなのか、VRに惹かれるのは、リアルな世界に裏切られて失望し、もうこんな世界に極力かかわらないようにして生きようと思う人たち、その大半が若者です。そんな若者が、Web上の哲学対話を楽しむこと、そのこと自体にとがめる筋合いはまったくありません。

しかし、なぜそちらの方が、現実の対話よりも好ましいのでしょうか。画面上のやりとりは、どれだけ激しい迫真の内容だったとしても、相手と直接対面するディベートほどの攻撃性はなく、正面衝突することでこうむる打撃も少ないように感じられます――昨年12月、デンソーのイベントにWeb参加した私は、現地の会場と自分の位置(関大の哲学合同研究室)との奇妙な距離感に当惑しました。自分がここにいるのか、それとも向こうの会場(デンソー東京支社)にいるのか、どっちなのかがハッキリしない、不思議な感じでした。薄いヴェールをとおして言葉をやりとりしている、そんな感じだと言えば、伝わるでしょうか。リアルな対話ないし論戦というものではなく、非現実の――だから、「ヴァーチャル」というのでしょうが――出来事という雰囲気が、そこに漂っていました。付け加えて申すなら、そういうやり方も、それはそれで無意味ではない、と感じたことも事実です。ですが、ヴァーチャルはリアルではないし、リアルに取って代わることはできない。そういうものとして、現実の重さを覆い隠す目的に利用されないかぎり、という条件付きで、私はVRの利用価値を認めます。

テクノロジー礼賛者から、たぶんいろんな反対意見があるでしょう。それをお待ちしています。

コメント

    • 小室
    • 2020年 10月 01日
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    反対意見が出ませんね。こういう場での論争は面白いと思うのですけど。

    私自身の若い頃も、生と死が隣り合わせだと思うのは、身内の死や先生の話やお経を聴いたりする時だけでした。「さよならだけが人生だ」と聞き実感できず、なんでだろうと考え込んだ記憶があります。
    それでも、時に死を思い出させてくれる縁があったことが、今に繋がるのかもしれません。

    エッセイをよみ、数年前にみたスピルバーグの『レディプレイヤーワン』を思い出しました。未来の地球、環境破壊により荒廃した世界が舞台。貧富の差が大きく、多くの貧困者たちは、仮想現実(VR)の世界に、生活のほとんどを費やします。その世界を楽しむ為に、食べて寝て稼ぐ。現実とかけ離れた仮想の世界が、全ての楽しみ。支配層の人間にコントロールされ、ギリギリの生活をしながら、綺麗で夢のような享楽的仮想世界への出入りを繰り返し続ける。ストーリーや結末よりも、VRに取り憑かれている未来図がショックで、しばらく頭から離れませんでした。私たちの2、3世代先の人たちが、こうならないとは言えない。心底恐ろしくなりました。
    VRの世界で生きると、私たちは人間ではなくなると思いました。脳を持った機械です。
    脳だけで、想像を楽しむのですから夢とあまり変わらない。私は、現実が死んでいるようなものだと思いました。
    しかし、ヴァーチャルの魅力は、現実を生きる手応えや体験の面白さを覆い被せるほどの力を持っている現実です。テクノロジーの力は強大です。

    今を生きにくく逃避したいと思っている人、傷つき恐れる人は、現実の対話で救われたいと思わない。全く期待していない。肉体の衰えや痛みや死が訪れたら、バーチャルに助けてもらうのでしょうか。もうどうしようもないところにまできている気がします。
    現実の対話を避ける人に、このような場での対話を伝えることで、少しでも何か変わればいいのですけれど。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 10月 02日
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     お書きのとおり、小室さんは当方に対する「反論」ではなく、一種の「エール」を送られました。しかしそれは、「エール」というにはあまりに苦い、共感の表明です。ここには、私たち二人に共通するテクノ社会への悲観論がつづられています。それを私は、「テクノロジーの問題」シリーズの中で、「テクノ・ペシミズム」と名づけました。エッセイをめぐる読者との意見交換をつうじて、「テクノ・オプティミズム対テクノ・ペシミズム」の対立の様相が浮かび上がってきたことは、みなさんご承知のとおりです。
     しかしながら、この二つの立場は、見かけに反して、実際はさほど対立するものではない、と最近思うようになりました。というのも、悲観論にせよ楽観論にせよ、テクノロジーの未来像を客観的に予測してその是非を占う、といった所作は、誰もとりようがないというのが現実であって、技術の発展をなすすべもなく座視しつつ、ただ主観的な思い――絶望あるいは希望――をそれに添えることしかできないからです。10年後のテクノロジーは、これこれの成果を実現する、だから支持すべきだ、とか逆に、かくかくの人間破壊をもたらすことが確かだ、それゆえ否定する、などといった「実証的」な論法をとることはできません。今から20年前に、今日のようなAIやVRの盛況を予想できた人がいるでしょうか。それと同様、20年後の世界に何が生まれているか、誰も客観的に予測できないのが、ハイテク社会の実状です――技術革新の主体である技術者にも、その予測は不可能でしょう。つまり、だれも予測できない流れに巻き込まれながら、ああだこうだと言い争うしかない現実。私はその現実を、「テクノ・デカダンス」と呼ぶのが適切であると考えます。
     それはともかく、今回のシリーズでは、テクノ化した社会現実を上から見下ろす総論的アプローチではなく、その中で生きる――生きざるをえない――われわれ一人一人のテーマを、各論的に扱いたいと考えています。よろしくお願いします。

    • 若森みどり
    • 2020年 10月 12日
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    木岡先生の、「生きていることは、小規模な死の繰り返し」という言葉が強く響きました。先生のエッセイを読んで私にとってよりしっくりくる表現は、「別れ」よりも「喪失感」かもしれない、とも改めて認識しました。オンラインではそれなりの議論空間が生まれたり打ち合わせや懇談会などができます。ただそのあとに来る、ミーティングルームから退出した後にやって来る、めまいを伴うような「落差」をたびたび経験し、表現しようのない疲れを感じることがありました。身体が重いのです。リアルとバーチャルでのつながりの「落差」をこのように身体が表現しているのかもしれない。先生のエッセイを読んで、疲れるな、と感じる経験をそのように捉え返しました。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 10月 15日
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    若森先生のお書きになっていること、当方にも思い当たる節があります。6月、7月、9月と3回続けて、オンライン方式の「対話の会」を開催し、その司会を務めました。司会者の役目は、ゲストと参加者のやりとりを「仕切る」ことですが、それを区切る「開会」と「閉会」がキマラない、という感じでした。「これで終了します」と言っても、終わった感じにならないのです。この点は、会場だけでなく、Zoomの参加者も同様であったように見うけられます。先生のおっしゃる「リアルとバーチャルの落差」に、あるいは関係するかもしれません。私なりに突っ込んで申すなら、バーチャルの空間――おそらく時間も――には、区切りというかケジメがない、エンドレスである、そのことが疲労感や重苦しさの一因ではないかしらと考えますが、いかがでしょうか。
     私だけでなくテレワークの体験者各位に、そのあたりのことをコメントしていただけないでしょうか。

    • シベール
    • 2021年 1月 26日
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    私の考えは少し違います。私は65を超えましたので、今は「別れ」の方が「出会い」よりも多いので、「別れと出会い」の方が自然です。みゆきは二十歳で父との別れという大きな経験をし、新しい出会いに期待したのだと思います。

    • 木岡伸夫
    • 2021年 1月 27日
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     シベールさん、ありがとうございます。父との死別が、『時代』を書かせた動機とのご指摘、事情を何も知らない私には、思いがけない事実を教えていただきました。歌詞中の〈別れと出会い〉は、一つのセットです。仮に、父親との別れが重大な体験であったとして、歌詞では誰との「出会い」が想定されているのでしょうか。歌詞では、「生まれ変わり」による、同じ相手――「今日は別れた恋人」――との出会いが、想定されていると受けとれます。
     最近知った事実を一つ。中島みゆきの家の墓は、私の家のそれと同じ墓地(奈良県天理市)にあります。彼女は、その地にゆかりの宗教の熱心な信者であるとのこと(その芸名は、初代教祖の名から来ている、と聞きました)。驚きましたが、彼女の歌の精神性に関係すると思わされた事実です。

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