1〈書かない〉という誘惑
今月から、「エッセイ」(対話)を再開しました。サイト開設以後、はじめて休載したことによって、書くこと、書かないこと、それぞれの意味が自分にハッキリ見えてきました。身辺雑記のネタとして、そのことを取り上げてみたいと思います。
文豪スタンダールの有名な「生きた、書いた、愛した」という墓碑銘――もしかして、語順が違ったかもしれません。「愛した」(amasse)が、「生きた」(visse)「書いた」(scrisse)の前にあったかもしれない。いずれにしても、この人にとって、三つのことが同じ重さで量られたという事実に、間違いはありません。スタンダールにとって、「生きる」ことは、そのまま「愛する」ことであり、また「書く」ことであった。話が飛ぶようですが、仏教で言う生老病死の「四苦」のうち、「生」が「老病死」すべてを包摂するのと同じ事態が、「生きた、書いた、愛した」にも表現されているように感じられます。
去る8月、私から「教えを受けたい」として、はるばる東京から木曽の山荘に見えた方がいます。来られた理由の一つが、最近ものを書くことができなくなっている、どうしたらよいか、という相談でした。有名大学のD.C.で西洋史を専攻していた、というその方に向かって、何をどう書けばよい、などという専門的な助言を与えられる用意は、こちらにはありません。そのとき私がしたことは、ちょうど手元に届いたばかりの拙稿――今月の「新着情報」に掲載――のゲラ(校正刷り)をお見せして、自分の論文ではしかじかの考えをしかじかの流儀で綴った、書くべき事柄をこのように書いた、という経緯の説明のみ。有力な情報提供になったとは、とうてい言えません。そのときにうまく言えなかったことが、いま言えるとすれば、それは次のようなことになります。
「自分のテーマを、自分で考え、自分の言葉で表現する」――私は「哲学」をこのように定義しています。「自分のテーマ」「自分の考え」「自分の表現」これら三つを一つにする行為が、〈書く〉ということです。その心は、「自分のテーマ」や「自分の考え」がまずあって、それから表現が生まれるわけではない、ということです。 何よりも、書くことから始めなければならない。ともかく何かを書くこと、それが引き金になって、考えるべきテーマが生まれ、そのテーマをめぐる反省が――もちろん〈書く〉ことをつうじて――深まっていく、というのが事の次第です。
このたびの引っ越しを機に、過去に書き溜めた手書きの大学ノートを整理したところ、厚みのあるノートの背に記した番号が、32まで数えられました――書かれた時期は、1989年から2012年まで。講義用ノートや特定のテーマに充てたノートを合せれば、冊数は倍以上になるでしょう。内容は、折々に考えたことども――読んだ本の感想や論評、論文用のメモから、「内面の記録」とでも称すべきつれづれの想いまで、何でもありです。こうした手書きのノートがなければ、著書の執筆は難しかったかもしれません。ノートが「32」までで終わっているのは、2012年以降、〈書く〉手段を、パソコンのワープロに切り替えたからです――当初は抵抗感があったものの、慣れることによって、頭と手とが直結するようになりました。
先月、エッセイを書かなくてよいのは楽だ、というホンネをこのページで洩らしました。〈書かない〉ことへの誘惑は、そのまま〈考えない〉ことへの傾斜にほかなりません。生成AIへの依存は、〈書かない〉生き方への転落です。人は、おのれの手で書かずとも、「大規模言語モデル」によって、適切な文章が作成されると言うでしょう。それは、〈書く〉行為とは似て非なる情報処理のプロセスにすぎない。〈書かない〉という誘惑に負けたとき、人間は〈考える〉ことから撤退するのです。
2 論文の公刊
最新の論文「ロゴスよりも先なるもの――意味としての〈中〉」が刊行されました。〈あいだ〉とは異なる〈中〉の意味について、昨年発表の二篇(「研究実績」参照)に続いて考えてきたことに、本篇で一定の決着をつけました。今月から再開した「エッセイ」の内容とも連動しています。
3 木岡哲学塾の活動状況
九月の活動再開以後、「木岡哲学対話の会」「哲学ゼミ」「個人レッスン」のいずれも、順調に活動を続けています。それぞれの近況をお伝えします。
Ⅰ 木岡哲学対話の会
◎第7回
日時:10月6日(日)13:00-16:00
会場:大阪駅前第三ビル17F第7会議室
テーマ:《新しいディシプリンを求めて》
- 哲学講話: 《「中」のロゴスへ》
「二者の中間」にとどまらない、もう一つの〈中〉の意味は、「正しさ」。それを表す「中正」「中道」など、二分法の「論理」ではとらえられない「中」のロゴス(意味)を指摘し、その重要性を語りました。
2)哲学対話
発表:《それをお金で買いますか~教育無償化を巡る一考察》
本年度第一回(3月)に取り上げられた「教育無償化」の問題。発表者は、臨床心理学と社会学の観点から、教育を「ソウルセイヴィング・プロジェクト」として把え、そのために不可欠な親から子への〈型〉の伝授、といった条件について論じました。
Ⅱ 哲学ゼミ
◎第7回
日時:10月20日(日)13:00-16:00
会場:木岡自宅
プログラム
1)『瞬間と刹那』「第七章 「刹那滅」の世界」
「刹那」「刹那滅」をめぐる初期仏教のミュトロギー(ミュートス的ロゴス)について、参加者各自に〈思考実験〉を促す時間が設定されます。
2)発表と討論
発表:《対話の意義について》
〈対話〉に関する問題意識を具体化する手続き、発表の仕方についての助言が行われる予定です。
Ⅲ 個人指導
関心の異なる塾生個々を相手に、2~4週に一回、各2時間の個人指導を行っています。先月紹介したお二人(Aさん、Bさん)のほか、9月下旬から10月上旬にかけて行われた、別の塾生とのレッスンは、以下のとおりです。
◎Cさん:
70歳代の社会人。長年ICT(情報関連技術)を手がけてきたキャリアをもとに、《日常生活に生成AIをいかに活用するか》というテーマに取り組んでいます。人間と技術の関係を図示した視覚資料が用意され、その内容に検討が加えられました。
◎Dさん:
中国からの留学生。研究の主題は、明治期における日本の近代化を参照しながら、それに呼応しつつ進められた中国の近代化について、反省を加えること。現在M.C.2回生として準備中の修論について、助言を行いました。
◎Eさん:
30代の会社員。〈意味〉の問題に関心をもち、1年がかりで山内得立『意味の形而上学』を読み上げた現在、標的をホワイトヘッドの哲学に切り替えて、『観念の冒険』の読解に入ったところです。