毎月21日更新 エッセイ

あいだに立つ(2)――「中立」の立場

あいだに立つ(2)――「中立」の立場

 

直言先生:前回の対話で、最後に問題になったのは、〈あいだ〉や〈中間〉を、「中の論理」という言い方で、「論理」として主張する必要があるのか、ということでした。猛志君が提出したのは、そういう疑問だったかと記憶しますが、間違いありませんか?

猛志君:ええ、そのとおりです。間違いありません。

直:君が、そう考える理由を、もういちど簡単に説明してくれませんか。

猛:僕が哲学で学んだのは、真と偽、肯定と否定とをハッキリ区別して、あいまいにしないという「論理」です。そういう二値論理では、片づかないような「現実」があるということを、先生は「妥協」の例で説明されました。しかし、現実は現実、論理は論理として、別のものである。論理と現実(生)をゴッチャにしてはいけない、とおっしゃったのは先生です。とするなら、〈中間〉〈あいだ〉は「現実」だから、「論理」にはならないと考えました。

直:こちらの言いようからして、論理と現実とを区別するのが当然だ、ということですね。まことに論理的な説明で、感心しました。この点について、中道さんはいかがですか。

中道さん――前回、「妥協」が同時に肯定でも否定でもある、という先生のお話に、素人ながら感服しました。論理的に考えることで、そういう議論ができるということなら、〈中間〉とか〈あいだ〉についての「論理」が、あってもいいのかな、という気がします。これまでなかった〈新しい論理〉、それもOKかな、という気がします。

直:これは思いがけない援軍、どうもありがとう。ですが、「中の論理」が成立するかどうかは、当面オープン・クェスチョンにしておきます。今回、「あいだに立つ」シリーズ2回目で、取り上げてみたいテーマは、まさに「あいだに立つ」ことを意味する「中立」とは、どういうことか。「中立」という立場は、「妥協」に劣らず、日常の世界でよく表明されます。これを、お二人と一緒に考えたいと思います。私自身、これまで「中立」について考えたことはありません。したがって、いつものように「講義」から入るのではなく、お二人とのやりとりをつうじて、どこまで問題の本質に迫ることができるか、という自分にとってのチャレンジです。

中:前回に続いて、まるで私のために考えてくださったような「中立」のテーマ。私「中道」としては、この機会に一生懸命考えてみたいと思います。

 

「中立」の用法

直:「中立」という言葉は、どんな場合に使用されるでしょうか。最初に、お二人の考えを伺いましょう。

猛:昔、小学校の授業で、スイスが「永世中立」の国であることを習いました。

直:私も同じです。その場合の「中立」に、どんな意味がありますか。

猛:スイスの平和主義を表明したものと受けとめています。他のどの国とも、軍事的な同盟関係を結ばない、ということだと理解しています。

直:「平和主義」という点は、私の理解とまったく同じです。中道さんは、いかがですか。

中:そのことに関連しますが、私の場合は「非武装中立」を連想します。これも、平和主義の表れだと思います。

直:そうですね。日本が太平洋戦争に敗れた後、二度と戦争を起こすまい、という意思を端的に言い表すスローガンとして、登場したのが「非武装中立」でした。

中:「安保反対」を唱える、かつての社会党の切り札が、この言葉だったと記憶します。

直:そうです。ですが、高齢者同士のやりとりについていけない若い人たちのために、ここで簡単におさらいしましょう。敗戦国日本にアメリカ軍が駐留し、その占領下で制定された『日本国憲法』第九条に、戦力不保持の条項が盛り込まれた。ただし、「国際紛争を解決する手段としては、戦力を保持しない」(第二項)という趣旨の条文をどう解釈するかで、大きく二つの立場が分かれる。政府――自民党の前身――は、他国の侵略目的ではなく、自衛のための戦力は禁止されていないと解釈し、最初に「警察予備隊」(後に「自衛隊」と改称される軍隊)を創設した。政府は、少し後に『日米安全保障条約』(日米安保)を締結して、アメリカ軍に基地を提供するなどの便宜を提供、米軍の戦力、とりわけ核兵器の威力――「核の傘」――によって、日本本土を守ってもらう約束をした。一言でいえば、アメリカとの軍事同盟を結んだわけです。

猛:ということは、日本は「中立」ではない、ということになりますか。

直:そう、戦後の日本は、東西冷戦の構造の中で西側の陣営に所属しました。その意味において、政治的に中立でないことは確かです。

中:それに対して、野党の社会党が、あえて「非武装中立」を唱えたのは、どういう理由からでしょうか。

直:憲法第九条に盛り込まれた、非戦・平和主義の理念を守る、という理由からです。当時の世界情勢は、アメリカを中心とする西側の自由主義国、ソ連(現ロシア)の率いる東側の社会主義国に分かれて、覇権争いを続けていた。たとえ自衛のためであろうと、戦力を保持することは、平和の理念に反することだ。まして、アメリカの同盟国になって協力したなら、そのこと自体が、戦争への加担を意味する。「非武装」のみならず、「中立」でなければ、平和主義を貫くことができない、というのが社会党の主張でした。

猛:疑問があります。スイスは「永世中立」でありながら、自国を守るための軍隊をもっていると教わりました。「非武装」ではないのに「中立」というのは、日本の場合とは違っています。どうしてスイスと違って、日本では「非武装」が「中立」に結びつくのでしょうか。

直:国際政治学者でない私には、スイスの事情はよく分かりません。けれど、日本の場合に関して言えば、戦力を放棄することと、政治的に中立であることとが、どうしても一体でなければならない理由があった、と言うことができます。

 

政治的「中立」

中:チョットすみません。私なりの考えを、申し上げてもよろしいでしょうか。

直:私よりもいくつか若い、中道さんのご意見を待っていました。

中:私が思うに、「中立」という立場は、右でも左でもない真ん中、ということです。戦後で言えば、アメリカなどの「西」、ソ連などの「東」、そのどちらの側にもつかずに、独立した位置を保つ。そういう中立国になることによって、どちらからも攻撃されずに平和を保てる、という思想が底にあったと思いますが、いかがでしょうか。

猛:へー、東西両陣営の真ん中に立つ、というのが「中立」ということですか。そんなこと、僕は考えもしませんでした。

中:いま申し上げたことは、先生が「中の論理」として、Aでも非Aでもない「両否」を説かれていることから、自分なりに考えつきました。

直:素晴らしい。「中立」というのは、対立する主張のどちらにも与しないこと、「両否」そのものです。それを、東西冷戦下の日本の立ち位置に結びつけて考えられたことに、感心しました。

猛:争っている当事者のどちらにも味方しない、という「中立」の意味は解りました。けど、そのことと非武装との結びつきが、もう一つよく分かりません。だって非武装のままでは、敵から攻撃されたときに、抵抗できないじゃありませんか。

直:非武装論を代弁するつもりはありませんが、中立国であれば、それを攻撃する口実がない、つまり攻めてくる「敵」はいない、ということが一つ。それと、もし万一、丸腰の日本が攻められることになったら、国際世論が黙っていない。国連軍など、日本を守る動きが起こるだろう、という期待もあります。

猛:でも、後者の場合だと、先制攻撃を受けることによって、多くの日本人が殺される。国連軍が到着する前に、もしかすると日本が滅亡するかもしれない。それでもかまわない、ということですか。

直:君のおっしゃるようなこと、私も昔いろいろ考えました。国連軍を待つ間に全滅する、それでは元も子もない、とね。

中:ですから、最低限、自衛のための戦力保持は必要だ、というリクツになる訳でしょう。私の知るかぎり、自民党にかぎらず、再軍備容認の世論は、皆そう言います。それにどう言い返せばよいのか……

直:こう申して、賛成する人がいるかどうか、何とも言えませんが、非武装論の根底には、一つの哲学というか、ハッキリした理念があります。それは、もし攻撃されたなら、いさぎよく命を捨てる覚悟をもつ、ということです。

猛:攻撃されても、抵抗しないのですか。それでは犬死です。そんな考えは、どこの国でももたないでしょう。

直:国家全体が、無抵抗のまま滅んだというような例は、聞いたことがありません。個人による非暴力の実践なら、ないわけではない。ガンディーのように、信仰を支えに非暴力の運動を展開して、インドの独立をやがてかちとった例もあります。

猛:それは知っています。ですが、国家が無抵抗という形で、非戦の意志を示すということは、僕には考えられません。

直:そうかもしれません。「中立」の意味を政治的にとらえると、どうしても国家にからむ難しい問題になる。中立の立場を考えるのに適当なテーマは、他にないでしょうか、中道さん?

中:政治と無関係ではないかもしれませんが、大きなテーマとして、「裁判」があると思います。人を裁く立場は、中立でなければならないからです。

 

人を「裁く」ということ

直:裁判官に「中立」の態度が求められるのは、当然のことです。それと共通するテーマは、他にありませんか、猛志君?

猛:スポーツの世界で人を裁くのは、レフェリー、審判の役割です。僕は、サッカーの試合をよく観ますが、レフェリーの笛次第で、ゲームが左右されることがよくあります。

中:サッカーには不案内の身ですが、昔、マラドーナの「神の手」事件[1986年ワールドカップ・メキシコ大会の試合で、アルゼンチン代表マラドーナの犯したハンドの反則が見逃され、ゴールが認められた事件]があったことは、覚えています。これは、審判の「中立」が破られた、ということでしょうか。

猛:僕は、そうは思いません。マラドーナの神業的な動きに幻惑されたレフェリーが、つい反則を見逃してしまった。それは、人間的なミスであると理解しています。「神の手」という表現が、そのあたりの事情を表していると思います。

直:厳正中立であるべき審判が、ゲームの流れの中で反則を見逃す、という「人間的なミス」をしてしまう。ミスジャッジ、と言えばそれまでですが、それがあるということ自体、「中立」の難しさを物語っているように思われます。

猛:それって、どういうことですか。実を言うと、僕はあれが単なる反則の見落としではなく、マラドーナに応援する空気がスタジアム全体にあったために、起こった出来事ではないかと感じています。

直:同感です。私はボクシングが好きですが、採点結果でよく言われる「ホームタウン・デシジョン」は、審判を取り巻く会場の空気が、「中立」を危うくする典型的な例だと言えるでしょう。

中:先生からも猛志君からも、「中立」が難しい例を挙げられたので、私自身のチョットした経験を申し上げます。入社して何年も経たない平社員の時代、仕事上のミスで、部長からよくられました。ところが、同期入社の中に同じようなミスをしても、上司からお咎めを受けない者もいる。どうして私だけが……と、よく不満を抱いたものですが、だいぶ後になって、君には「叱られ役」が向いているからネ、なんて話を部長の口から聞かされ、自分のめぐり合わせを恨めしく思ったことがあります。ところが、そういう自分が後に昇進したとき、親しい部下に対して、以前の部長と同じように不公平な対応をしていることに気づかされて、ガクッと来たことがあります。

直:そうですか、いわゆる「えこひいき」とは逆の例ですね。いずれにしても、人間社会で公正中立であることは難しい、という例だと思います。「神の手」事件と同様のケースは、特別というより、どこにでもあるということですね。そういう次第なら、ここで「中立」であるために、どういう条件が必要かを問題にしましょう。猛志君、君の考えはどうですか。

猛:対立する両者のどちらに対しても、利害関係のない「第三者」であることが、絶対の条件です。スポーツの試合では、中立国のレフェリーを立てるのが、その証拠です。

直:そのことは、裏返して言えば、ゲームの当事者と同じ国の審判では、身びいきの判定が生じやすい、ということですね。

猛:実際にそうなるというのではなくて、身びいきであると疑われるリスクを除くために、第三者的な立場の人を審判に指名する、ということだと思います。

直:私の持論から申し上げると、人が人を裁く場合に「中立」であるためには、〈神の眼〉が要求される。ここで〈神の眼〉というのは、人間世界でふつうに生じる利害関係を超越する視点、ということです。「中立」であるためには、それが人間であれ神であれ、「第三者」の存在が不可欠になります。ここで、『邂逅の論理』(2017年)以来、ずっと気になっている「第三者」の意味について、これまでに考えついたことをお話します。

 

講義:〈邂逅〉における「第三者」の存在

異なる主体甲と乙とが出会うとき、それが〈邂逅〉(思いがけない出会い)であるためには、甲乙以外の第三者丙が関与する。出会う主体は、むろん甲と乙の二者であって、丙ではない。では、丙とはどういう存在で、何をするのか。いちばん分かりやすい喩えで言うなら、丙とは、甲と乙を結びつける仲人(媒酌人)である。太郎と花子が結婚するとき、見合いであれば当然だが、恋愛結婚であっても、ふつうは媒酌人が立てられる。媒酌人は、他人同士である当事者二人に対する「第三者」の位置に立って、婚姻が公的な事実であることを証明する役割を担うという点で、社会に無くてはならない存在である。

結婚における仲人の意義を拡張して、あらゆる〈出会い〉には、両者のあいだに第三者が関与しなければならないと考える。というのも、あらゆる〈出会い〉には、それを成立させる媒介者が不可欠だ、と考えられるからである。媒介者というものが、なぜ必要なのか。当事者の一方(甲)が、他方(乙)と出会って、その存在を認めることができるためには、自他の関係を客観的に保証してくれる者が、いなければならないからである。そういう立場の第三者が、もし存在しなかったなら、〈邂逅〉は成立しない。

当事者二人の関係だけでは、なぜダメなのか。出会う二人の一方にとって、他方はこれまで知らなかった存在、〈他者〉である。自分とは異なる〈他者〉であることを認め、その存在を受け容れるということが、〈出会い〉でなければならない。結婚する相手は、もしかすると、共生が不可能なエイリアンであるかもしれない。そうではなく、一生連れ添うことのできる伴侶であるということを、誰かが保証しなければならない。その役割は、甲でも乙でもない丙、つまり媒介者の役割である。これが、結婚という社会的制度にとって、媒介者=仲人が不可欠とされることの理由である。

結婚以外の〈出会い〉についても、同じ論理が成立する。他者との遭遇を〈出会い〉として受けとめる場合、そこには必ず媒介者が存在する。偉大な師とめぐり合うとき、そこには同じ人物を師と仰ぐ別の誰かがいて、その導きが働いている。人ではなく、これぞという書物との出会いに際しても、その本を評価する他人の言葉が介在するのは、ごくありふれた事実である。そういう意味において、〈私〉と〈汝〉の〈出会い〉には、それを演出する〈彼〉が介在する。これは、まさしく社会関係そのものである。

そう言ったなら、いや、〈出会い〉は独立した二人の出来事である、三者関係ではない、という反論が返ってくると予想される。いかにもそのとおり、ふつう甲と乙の〈出会い〉は、二人だけで完結する出来事であって、そこに丙などという第三者が介在することはない。だが、この点についても、私自身の確信を述べたい。甲として乙に相対するとき、私は〈甲乙〉という二者関係をもつほかに、甲と乙から離れた丙の視点に立って、〈甲乙〉の関係を俯瞰する位置に立つことが可能である。つまり私は、文字どおり、〈当事者〉甲としてふるまうとともに、その場から離れた〈傍観者〉、第三者の視点をとることができる。そのようにして成立するのが、「独立なる二元の邂逅」(九鬼周造)である。それが〈邂逅〉だとするなら、そこに〈甲丙〉の三者関係が成立することに、間違いはない。以上の理由から、〈邂逅〉とは三者の関係であると結論する。

ここでは、くわしい説明を省略して、「中立」にかかわるポイントのみを挙げた。

 

〈出会い〉と「中立」

直:「中立」とは、第三者の視点に立つことであるという考えを、私の〈邂逅の論理〉に関連させて説明しました。どう受けとめられましたか。

中:媒酌人の社会的役割を、きちんと説明されたことに、感じ入りました。仲人は、社会の代表なのですね。そう言われて、なるほどと思いました。

猛:その話から、先生は、〈邂逅〉にも媒介者が必要、という考えを説明されました。そうか、と納得できる感じもあるけれど、違うんじゃないか、という疑問もあります。

直:「違う」と思われるのは、どういう点ですか。

猛:〈邂逅〉に、ほんとうに媒介者が必要か、という点です。仮に、僕が誰か女性と出会って、その人を「一目惚れ」で好きになったとする。その気持ちは、僕だけのものであって、誰かに左右されることはないと思う。そういう〈出会い〉は、出会った当人同士の問題であって、第三者には無関係です。

直:本質的なポイントを突く反論です。出会いは、〈甲乙〉二人の出来事であって、第三者には関係しない、ということですね。二人の間に割って入る第三者はいない、という点に関してなら、おっしゃるとおりです。第三者などいなくても、〈出会い〉は生じる。そのとおりです。しかし、〈出会い〉は、「一目惚れ」の瞬間がすべてではない。その後に、太郎と花子は、たがいに対してどんな言葉をかけ、どういう関係を結ぼうとするか、を考えるはずです。それは、〈出会い〉に続く〈対話〉を予想します。対話において、相手との付き合いに不可欠な「マナー」を弁えなければならない。そういうマナーが意識されるということは、〈私〉が、自他のいずれでもない〈彼〉という第三者の視点に立つ、ということです。私の言うことが、了解していただけますか。

猛:よく解ります。けれど、いまの話に出てきた〈彼〉は、社会的なマナー、制度などに当てはまる言葉で、特定の誰かの存在ではありません。〈彼〉という言葉で、先生は、人格的な存在と社会とを混同されているような気がします。

直;私が〈彼〉というのは、特定の人格という姿を借りて、人々の前に現われる「社会」のことです。第三人称の〈彼〉は、社会一般の代名詞だと考えてください。ちなみに西田幾多郎は、後期の論文の中で、「彼の世界」という表現を用いていますが、そこで言われる〈彼〉は、いま説明したような「媒介者」を意味します。

中:ただいまのやりとりからすると、〈彼〉というのは、仲人的な存在のことだと考えてよいのでしょうか。

直:そうです、おっしゃるとおり。

中:「仲人口に乗せられる」という陰口があるように、世の中ではあいだに立つ人が、公正中立であるとは限りません。「あいだに立つ」ことと、中立であることとが、イコールだと言えるでしょうか。

直:ウーン、そうか。「あいだに立つ」ことと「中立である」こととは、イコールではないと。たしかに、そのとおりです。そういう問題は、特に考えていませんでした。どうしましょうか。

猛:それなら先生、ここで僕の方から、新しいテーマを提案させてください。

直:それは助かります。君の提案を聞かせてください。

猛:そのテーマは、「第三者が中立であるための条件とは何か」です。いかがでしょうか。

 

「中立」の立場は可能か

直:今日は、お二人にすっかりお株を奪われてしまいました。それで行きましょう。それじゃ猛志君、提案者である君の考えを聞かせてください。

猛:さっきのマラドーナの例から、考えました。彼の場合は、「神の手」が働いた、という見方が周りからなされたために、審判のミスが「不正」だとして、あまり責められなかった。「神」がいるかいないかは別にして、「神の裁き」というような性格があれば、結果は中立的だということになると思います。

直:なるほど。私自身も先ほど、「中立であるためには、〈神の眼〉が要求される」と言いましたが、それを思い出しました。この点について、中道さんのご意見はどうですか?

中:自分の経験からしても、その考えに賛成です。人間同士の争いの場面では、誰もが自分の意見にこだわってしまい、中立の立場に立つことができません。そんなときに仲裁に立つ人は、自分の意見ではなく、「神の思し召しによれば……」というように、神様を引き合いに出してきます。そういう場面を、私は外国――主にキリスト教国です――で、いくどか見てきました。

直:そうでしたか、そういうことでしょうね。人間にもつことができない公正中立の視点は、神のものだという思想が、外国では行き渡っているわけですね。

猛:「外国」と言われましたが、日本にはその思想はないのでしょうか。

直:いや、そんなことはない。卑近な例で言えば、神前結婚。夫婦の絆が結ばれる場面に、神が立ち会うという思想は、万国共通です。

中:神様によって、公正中立が保証される。その考えが万国共通である、とおっしゃいました。そこまでは納得しました。

直:「そこまで」と言われたのは、その先に何か問題がある、という意味でしょうか。

中:こういうことを申し上げるのは、畏れ多い気がしますが、海外で自分の抱いた違和感は、神様がおっしゃったことだから、無条件に正しいと考えられるのか、という点です。

直:いつも穏やかな中道さんが、いささか過激な発言をされたのは珍しい。その「違和感」について、もう少し説明してもらえませんか。

中:承知しました。いくつかの国に駐在した感想ですが、国によって信仰される神様が違っていることからすると、「神の思し召し」の意味も、国ごとに変わってくるんじゃないかと思います。

直:それを伺って、知人の話を思い出しました。その人は、子どもの頃に家族と南米パラグアイに移民し、その地でカトリックの洗礼を受けられたとか。開拓移民であるご自身の信仰と、本部のバチカンなど、ローマ・カトリック教会の「正統」な教義とに、大きなギャップを感じる、ということをつねづね言われています。

中:そうでしたか、そんな話は初めて伺いました。私などは、少なくともキリスト教を信じる人たちの間では、同じ神様が信じられているものと思っていましたが、そうとも言えないのですね。

猛:いまの先生のお話を聴いて、真っ先に頭に浮かんだのは、キリスト教とイスラム教の対立です。宗教が違えば、当然、信じる神も異なってくる。それぞれが、自分の信じる神が正しいと主張して、言い争うことによって、テロなど深刻な事態が生じてくる。

直:おっしゃるとおり、現代世界で最も深刻な問題は、異なる神を戴く世界宗教同士の争いです。それに加えて、「同じ神」を信仰する人々のあいだでも、対立や不一致があるという現実。こうした状況を前にするなら、「神」を持ち出すことによって「中立」が成り立つ、というような考えは、幻想に過ぎないということが、中道さんのおっしゃった「違和感」の底にあるかと思うのですが、いかがでしょう?

中:まさにそのとおりだと思います。私がボンヤリ思っていても、うまく言えない急所を、言葉で表現してくださったことに感謝します。

直:議論を整理しましょう。「第三者が中立であるための条件とは何か」が、目下のテーマ。それに対して、〈神の眼〉という答えが出てきたけれども、神も、神を信じる人間も、そのあり方は一つではなく、多様である。とすると、ここから先、何を考えていけばよいと言えるでしょうか、猛志君?

猛:「さまざまな神が信仰される世界で、どうしたら中立が成立するか」です。僕の専攻する哲学では、このテーマは「相対主義」の問題として議論されています。

直:相対主義対絶対主義。これは、現代哲学の中心問題の一つです。では、このことを頭に置きながら、対話を続けていくことにしましょう。

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