毎月21日更新 エッセイ

対話の周辺(4)――対話の哲学へ

 新著の構想について

直言先生:先月の「新着情報」冒頭の「出版情報」で、新著についての情報を提供しました。まもなく出ようかという『〈中〉のロゴス――東アジアの目から』(萌書房)に続いて、「対話」を主題とする『哲学は対話である』(幻冬舎)を世に出す準備にかかっている、という内容です。ご覧いただけましたか。

中道さん:もちろんです。『〈中〉のロゴス』に続く対話論の本でも、私たちの出番が回ってくることになりますから、責任重大を感じないわけにはゆきません。

猛志君:『〈中〉のロゴス』では、僕たちの出番は先生の講義の後でしたが、『哲学は対話である』の方は、全篇が対話。脇役から主役に格が上がったような気がします。

直:お二人には、このHPのシリーズで活躍していただいていますが、書物の中でいっそう大きなお役目をしていただかなければなりません。ご承知いただけるでしょうか。

中:先生や猛志君とのお付き合いがなかったら、隠居老人の私は社会参加もすることなく、空しい日々を過ごしていたことでしょう。対話の集いに参加させていただくことが、いまでは何よりの励みになっています。

猛:僕の場合は学生ですから、たぶん中道さんよりも忙しい毎日だと思います。でも、年長のお二人と対話することは、大学の講義からでは絶対に受けられない刺激をいただく機会ですから、がんばって参加するつもりです。

直:お二人ともご協力くださるとのこと、どうもありがとう。この場では、「新着情報」では説明することができなかった新著の構想について、くわしくご紹介したいと考えます。さっそくですが、中道さん、何か質問したいことはおありですか。

中:対話論のご本は、前から計画されていたのではなく、ふとしたきっかけで考えつかれたように、「出版情報」で書かれていました。そのあたりの事情が気になりました。

猛:同じことが、僕も気になります。『〈中〉のロゴス』が、数年前から論文として発表されてきたことの集大成であるのに対して、対話論の方は、チョットしたはずみで考えつかれたように書かれています。この違いは何なんだろうかと。

直:お二人が不審を抱かれるのも、無理はない。じっさいに、偶然がはたらいて、トントン拍子に話が進んだのです。「新着情報」に記したとおり、『〈出会い〉の風土学――対話へのいざない』(2018年)を出した幻冬舎の編集部から、その改訂版を出さないかというお誘いが何度かありましたが、そのつど断ってきました。

中:どうして断られたのですか、その理由は?

直:「風土学入門」というべき旧著は、8年前の仕事であって、いまから見ると内容的に古すぎます。その改訂版を出すために、時間と金を費やすつもりなどない、というのが断りの理由です。

中:で今回は、違う結果になったと。それは、どういう事情からでしょうか。

直:今回、同じ話を持ちかけてきた若い担当者は、こちらが断りの意を告げると、実にアッサリと電話を切られた。そのいさぎよさが、印象に残りました。その翌日あたり、フッと思いついたのは、そうだ、「対話」というテーマがある、これを新書に仕上げるという提案をこちらからしてはどうか、ということでした。

中:伺っていると、まさしく「ヒョウタンから駒」というところですね。しかし、「対話」について本を書くという構想は、その前からおありだったのですか。

直:いえ全然。それまで考えることのなかった対話論の構想が、突如として頭に浮かんだというのが、うそいつわりのない事実です。

猛:それでも先生は、ここしばらく「対話」について、「木岡哲学対話の会」その他で取り上げて論じられています。そういう対話論の成果をまとめたいという気持ちが、潜在的にあったからではありませんか。僕からすると、「対話の哲学」は形になるのを待っていたという気がします。

直:おそらくそうだと思います。たとえば、『瞬間と刹那――二つのミュトロギー』(春秋社、2022年)を刊行した翌年、「〈二〉と〈三〉のあいだ――対話の構造」という論文を発表したのは、「対話」というテーマに心が向かっていたことの証拠です。

 

 「対話」というテーマ

直:なぜ私が、「対話」を主題とする本を書くことが必要だと考えたのか。そのあたりの事情がお判りですか、猛志君?

猛:そう訊ねられても、チョット……。「対話」のテーマが、最近の研究内容に占める比重が大きくなっているのかな、という程度の認識しかありません。

直:それじゃ中道さん、あなたはどうですか?

中:先生が対話論に力を入れておられることは、よく存じ上げていますが、私もそれ以上のことは……。当てずっぽうで言わせてもらえるなら、『邂逅の論理』からの発展かもしれない、という気がします。

直:どうしてそう思われたのか、理由を聞かせてください。

中:邂逅つまり〈出会い〉がどういうものかを、先生はご著書の中で明らかにされました。なぜ邂逅がこれまで問題にされなかったのか、そういう事の次第を、門外漢である私のような者にも理解させる内容でした。ですが、そういう地点から、もっと先に進もうとされているのではないか。そんな気がします。

直:「もっと先」のテーマ、それが「対話」であると。そう考えられるわけですね。

中:ええ。〈出会い〉を実現するために何が必要かを考えたとき、「対話」のテーマが浮上してくるのではないでしょうか。

直:よく考えておられることに脱帽します。そのとおりです。あなた以外にも、「哲学対話の会」のメンバーの中に、〈邂逅〉の理念型は提示されたものの、実践上の指針が示されていない、という不満を口にした人がいました。それを聞いて、何とかしなければならないと考えたことが、新著を手がけることの伏線になっています。

猛:〈出会い〉の問題が「対話」のテーマにつながることを、中道さんが把握されていたのはスゴイ。言われてみれば、そうかという気がします。この機会に、二つのテーマがどういうところでつながるのかを、解説していただきたいと思います。

直:承知しました。君は、〈出会い〉の事実が確立するのはいつだと考えますか。

猛:出会った当人同士が、たがいの存在を認め合った時だと思います。

直:たがいに存在を認識し合うことだと。それは、何によって判りますか。

猛:それぞれが言葉を発して、その事実を確認すること。これって、もう対話ですよね。

直:そうです。二人が出会った事実を確認するのは、たがいに言葉を交わすこと、対話によるほかありません。

猛:そのとおりだと思いますが、言葉を交わさない〈出会い〉というのは、考えられませんか。

直:考えられるとすれば、〈沈黙の出会い〉ということになる。そういう場合があるとしても、出会ったことの意味を後から考えるわけでしょう。それが言葉による以上、〈沈黙の対話〉が成立しないはずはありません。

中:そういう出会いなら、私にも覚えがあります。その場で言葉を交わすことができないほど、初対面の印象が強い場合、後から相手に言うべきことが浮かんでくるような……。そういうのも、「沈黙の対話」になるでしょうか。

直:いま言われたのは、目の前に対話する相手がいない場合でも、対話ということが言えるのかどうか、という問題です。実は、そういう問題も、新しい本の中で、「無言の対話はありうるか」として、取り上げる予定です。

中:〈沈黙の出会い〉がある以上、〈沈黙の対話〉がないはずはない、というのが先生のお考えですね。ナットクしました。そうすると、〈出会い〉と〈対話〉が、一つのテーマになってつながりそうです。

直:出会うことは対話すること、対話するためには出会いがなければならない。これが、邂逅論から対話論へのシフトが起こったことの理由です。

 

 哲学は対話である

猛:「対話」がテーマになった経緯が、大体分かりました。ライフワークとされた『邂逅の論理』(2017年)が出てから9年が経ち、『哲学は対話である』が来年刊行されるとすると、10年目ということになります。新しい著書の中で何を問題にされるのかを、この機会に説明していただけませんか。

直:分かりました。ポイントを順に挙げますから、君はインタヴュアーを務めてください。

猛:了解。最初に伺いたいのは、この本が読者にいちばん訴えたい点は、何かということです。

直:いま世間で注目されている「哲学対話」「哲学カフェ」は、一般の人々に縁遠いと思われていた哲学を、身近なものにする役目を果たしています。その点は評価しますが、対話と哲学との関係が、もう一つハッキリしません。

猛:ハッキリしないというのは、どういう点ですか。

直:そうした集まりは、「対話は哲学である」という考えに立って行われている。しかし、それと「哲学は対話である」とは、そもそも考え方が違うのです。

猛:「対話は哲学である」と「哲学は対話である」。主語と述語が入れ替わっただけの二つの文、何が違うのか僕には判りません。

直:違うのは、「対話は…」の方は、対話のようなものでも哲学なのだとして、哲学と対話の間に最初から差を設けています。おしゃべりイコール哲学であるとは、だれも考えないけれど、おしゃべりの中にも哲学のメがあるというのが、哲学カフェに集まる人たちの考えだと思います。

猛:なるほど。言われてみれば、そんな感じがします。「哲学は…」のほうは、それとは違う考えなのですか。

直:違います。「哲学は対話である」の方は、哲学と対話とは最初からイコールの関係に立つ、つまり対話以外に哲学というものはない、という考えです。

猛:いやオドロキです。哲学イコール対話である、対話以外に哲学はないと。それが先生の考えだとすると、他にそんなことを言う哲学者はいるのですか。

直:たぶんいないと思います、一人を除いて。世にいう「哲学」は、文章体で書かれたテクストを指しています。文章化されない言葉のやりとりである対話が、即哲学であると考えた人物は、前々回の「エッセイ」で取り上げたソクラテス以外にいません。

猛:ソクラテスの弟子であったプラトンはどうですか。

直:プラトンの対話篇は、「対話の哲学」と呼ぶべきカテゴリーに入りますが、対話の位置づけが師であるソクラテスとは異なる。このことも、前々回に明らかにしました。

中:インタヴューの途中に割り込んですみません。たしか、「対話のための対話」がソクラテスの対話、「対話を打ち切るための対話」がプラトンの対話だとして、二人の考えを区別されたことが、私の頭の中に残っています。

直:いま問題にしていることに引きつけて言うと、ソクラテスの哲学は端的に対話そのものである。それに対して、プラトンの場合は、対話の内容を対話篇というテクストに仕上げることで、哲学が完成する。対話そのものとしての哲学から、「書かれた哲学」に重心が移動しているのです。

猛:ということは、書かれて本になる以前の対話にこそ、哲学の本質があるのだと。そういう主張を、新しい本の中で展開するつもりだということですね。了解しました。

直:新著の最大のキモは、いま言ったことにあります。インタヴューを続けてください。

 

 問いの内容

猛:『哲学は対話である』という著書のいちばん大きな狙いは、対話以外に哲学というものはない、という主張を展開することであると。その点は、頭に入りました。哲学書を読むことが本業だと考えてきた僕のような学生には、それだけでも衝撃的な内容です。ですが、個人的に質問したいことはいったん横において、インタヴューを再開します。そういう主張をうちだすにあたって、本としての形式や内容を工夫する必要があるように思います。どういうところをアピールされたいのかを説明してください。

直:哲学と対話とがイコールであることをアピールするには、だれかと実際に対話をすることが、決定的に重要です。対話の実践ならそれでよいけれども、しかし、それだけでは本になりません。ということで、対話のリアルな進行を記録して、「哲学は対話である」ことを読者に実感してもらうという方法、言ってみれば「プラトン方式」を採用します。私自身が、ソクラテスよろしく、猛志君、中道さんのお二人と組む「対話劇」を、読者に提供するわけです。

中:このホームページと同じく、私たち二人が先生の相手役を務めるわけですね。責任重大です。

猛:「三人対話」の形式で演じられる対話劇。それぞれの果たす役割が、あらかじめ決まっているのでしょうか。

直:お二人には、基本的にこれまでどおりのキャラクターを演じていただければ、十分と考えています。私自身は、本の中で取り上げるテーマ、つまり「問い」を発信します。あなた方は、こちらの問いを受けて、それぞれの立場から意見を述べる相方、という役回りですが、このエッセイがしばしばそうであるように、問答の主体が入れ替わることもありうると考えています。

中:ということなら、私は、先生よりも少し若い高齢者で、長年の会社勤めが終わり、生きがい探しの中で、哲学への関心に目覚めた一市民、として対話に参加する。そういう心構えでよろしいのでしょうか。

直:それで結構、何も問題ありません。私としては、あなたのような「ふつうの人」が、〈哲学イコール対話〉という考えに、どこまで共感してくださるかが、本書にとっての試金石だと考えます。

猛:それじゃ、僕の役割はどうなるのでしょうか。僕は、先生や中道さんよりもうんと若い現役の大学院生。カントを中心に西洋哲学を一から学んでいる一人として、対話劇にどういう貢献ができるのか、いささか気になるところです。

直:君の場合も、そのキャラクターのまま、こちらと付き合ってくださることを期待しています。君の人生経験は私たち二人よりも浅いけれども、君には学問を究めて社会に貢献したいというナイーヴな理想、他の若者にはない貴重な情熱があります。そういう君ならではの視点から、人生の最終盤に来て、「哲学は対話である」という主張にたどりついた私の考えが、本当に正しいかどうかをチェックしていただきたい。同学の先輩として、君にかける期待はきわめて大きいのです。

猛:よく解りました。ご期待に副えるようがんばります。先生の新しい著書が、対話形式をとる理由がナットクできました。つづいて質問しますが、本の構成についての方針はどういうものでしょうか。

直:大きく「理論篇」と「実践篇」の二部に分け、最後に「応用篇」を置きます。Ⅰは、「対話とは何か」を追究する理論篇。「対話とおしゃべりとでは、何が違うのか?」といった具体的なテーマを6つ挙げ、対話の本質に迫っていきます。

中:私たちのあいだで、「沈黙」を話題に取り上げたことがあります。沈黙と対話の関係なども、テーマにされるのでしょうか。

直:理論篇の最後に、「無言の対話はありうるか?」という問いを扱います。対話の本質論に「無言」「沈黙」というテーマは欠かせません。

猛:Ⅰが理論篇、Ⅱが実践篇になるわけですね。実践篇では何を扱うのですか。

直:「いかに対話するか」を問題にします。「二人対話」と「三人対話」では、何がどう違うのか。三人対話では、二人のあいだに割って入る仲介者の役割が重要です。その役割はどういうものか、といった問いに答えなければなりません。

中:前から疑問に感じていたことですが、対話には必ず終わりが来ます。私たちのこの対話もそうですが、最後に結論を出すことが必要なのか、それとも時間が来たら打ち切る、といったやり方でもよいのかどうか、という問題はいかがでしょうか。

直:実践篇の6つの問いの中で、「結論は必要か」というテーマを挙げて、それなりの答えを出すつもりでいます。

猛:理論篇で6つ、実践篇で6つ、それぞれ具体的な問いを発して、それに答えていく、という流れになるわけですね。それが終わってから、Ⅲ「応用篇」に移ると。応用篇の狙いは何でしょうか。

直:実を言うと、当初の構想では、Ⅰ「理論篇」、Ⅱ〈実践篇〉の二部構成で終わりにするつもりでいました。それが後になって、もう一つ、Ⅲ「応用篇」(対話に何ができるか)を追加するアイディアが生まれてきました。その内容は、

 

○家族とどのように向き合うか

○紛争の調停は、いかにすれば可能か

○日本が果たすべき役割は何か

 

という三つの問いを立てて、どこまで答えられるかにチャレンジします。

 

 三つの応用問題

猛:どれも重大な意味をもつ問いが、三つ挙げられています。その狙いは、どういうところにあるのでしょうか。

直:現代世界において、対話が切実に求められる局面を三つ挙げて、問いの形にしました。いずれも抜き差しならない重要性をもつ問いであることについて、異論はないかと思われます。

中:まったく異論ありません。ただ、どうしてこの三つの問いを立てる気持ちになられたのかをお伺いしたいと思います。

直:もっともなお訊ねです。中道さん、風土学において、〈あいだ〉がカギになる局面はいくつあったか、記憶しておられますか。

中:先生の理論では、環境のスケールを、ミクロつまり「個人」、メゾすなわち「地域」、マクロイコール「地球」、という三つのレベルに分けて、〈あいだ〉を考えようとされています。

直:よく覚えておられる、そのとおりです。対話が要請される局面は、個人と個人がかかわり合うミクロのレベル、社会と社会、国と国とが関係し合うメゾのレベル、そしてグローバルな地球全体というマクロのレベル、計三とおり考えられる。それぞれのレベルについて、一つずつ問いを立てた結果が、応用篇の三つのテーマになったということです。

猛:三つの問いは、環境の三つのスケールに対応しているということですね。分かりました。ですが、はじめの二つは納得がゆくとして、最後の問い――日本の果たすべき役割は何か――は、日本という国家に関する問いですから、マクロのスケールではなく、メゾスケールの問いになるように思われます。

直:私がそれをグローバルなレベルの問いとして立てたことには、理由があります。国家に関する問いは、たとえば「日中関係をどう改善すればよいか」「アメリカの世界戦略に追随することの是非」といった例を考えれば、ローカルな国際政治の問題になります。しかし、日本の果たすべき役割は何か」という問いは、そうしたローカルな国際関係の視点とは異なる、マクロな地球全体の視点に立つものです。

猛:地球全体の視点に立つことは、日中関係や日米関係といった国家と国家の〈あいだ〉という視点とは、次元が違うと。そういうことを言われているのですか。

直:そうです、そのとおり。一国単位で発想されるナショナル・インタレスト(国家利益)の視点を超えなければならない。そういう意味で、グローバルな次元において〈あいだを開く〉というテーマは、この私にとっても、未開拓の領域に属します。人生の最終盤に来て、この最大の課題に挑戦しないわけにはゆかない、という気持ちが湧いてきたのです。

中:たいへんな覚悟をされていることが、こちらにも伝わってきます。無責任なお訊ねで申し訳ありませんが、応用篇の三つの問いは、どれをとっても、決定的な答えが出せる保証がない難問ばかりだと思います。どこまで答えるおつもりでしょうか。

直:実践篇の中で、「結論は必要か」を考える、ということを先ほど申し上げました。その問いに対して、結論は不要と答えるつもりでいます。私の方針は、答えが出るかどうかが判らない探究の道を、行けるところまで、お二人とともに歩むこと。それは、気楽なおしゃべりに終始してもかまわない、ということではありません。これしかない、という方向を見きわめつつ、議論を重ねて、目標達成のイメージが浮かんでくる地点までは、歩みを進めたいと考えます。途中で行き倒れになる可能性も、なきにしもあらずですが。

猛:先生が構想されている「対話の哲学」について、おおよそのイメージがつかめました。ここから先は、インタヴューではなく、僕たち二人がこのプロジェクトに参加することによって、何が得られるのかという点について、質問させていただきたいと思います。先生、それでもよろしいでしょうか。

直:結構です。何でも質問してください。自分で言うのも何ですが、「哲学は対話である」という本の発するメッセージは、通常の哲学書とはずいぶん異なっていますから。

 

 「対話の哲学」のメッセージ

猛:ここまでの流れから、新しい著書がユニークな内容であることは、僕にも明らかです。いま口にされた「従来の哲学書と異なる」点として、何をいちばん意識されているかを、もういちど説明していただけませんか。

直:そうですね。従来の哲学書との最大の違いを一点だけ挙げるなら、「答えを出さない」ということかな。この言い方で通じますかね。

猛:対話は問答ですから、問いかけに対する答えというものはある。しかし、そこで問答を打ち切るといったやり方で、最終回答を出すことはしないと。そういうことをおっしゃっているのでしょうか。

直:私の言い方を補足して、より正確な理解を示された。そのとおりです。言い方を変えるなら、暫定的な答えが出されても、それで終わりにすることなく、さらなる探究に向けて、答えを開いておく。そう言った方がよいかもしれません。

猛:従来の哲学書ではそうなっていない、というのはなぜでしょうか。

直:著者自身の中で完結するモノローグ(独白体)で書かれていることが、その原因です。他者との対話なしに、自分一人で考える――もちろん「自己内対話」と呼べるものはあるにしても。そういう思考のスタイルをとるかぎり、自分で出した答えを「結論」の形で閉じる以外にないわけです。

中:「答えを開いておく」とおっしゃることの意味は、大体つかめました。私のような素人でも、対話に参加することの意義があるとおっしゃっているように受けとれます。しかし、哲学書を公にするのは、「哲学者」という専門家です。学問のプロが専門書を手がけ、専門外の者は、それを読むことで勉強させていただく。こういうプロとアマとの厳然たる格差は、対話の世界ではどういうことになるのでしょうか。

直:先々月のエッセイで取り上げたソクラテスの場合を、引き合いに出しましょう。ソクラテスは、真理探究という道を対話の相手とともに歩みます。相手よりも一歩先んじた「先達」と呼ぶことがふさわしい位置に立って。道における先達と後進との関係、そこに専門家と初心者、プロとアマとの絶対的な格差はありません。

中:そのお話、私にもよく分かります。しかし、こと学問の世界となると、専門家とアマチュアとの隔たりは決定的に大きく、その差をのりこえることができません。

直:おっしゃるとおりですが、専門家と一般人との二極関係に終わるのではなく、双方の〈あいだ〉に立つ中間者・媒介者が必要です。難しい学問の中身を、ふつうの人が聞いて分かる程度にかみくだいて説明する人と言えば、イメージがつかめるのではありませんか。

猛:いまの説明を聞いて、「二人対話」から「三人対話」に移行するとおっしゃったことの例ではないかと感じました。

直:なるほど。君がカントの原典にトライするときに、参考書・二次文献をひもとくというのは、三人対話の例に相当するわけですね。

中:対話の三つのモデルのうち、非対面型の対話として「書物との対話:」を挙げられましたね。猛志君のご指摘から、そのことを思い出しました。

直:『哲学は対話である』は、まだ執筆途中の段階です。キチンとした本に仕上がるように、これからもお二人のご協力をよろしくお願いします。

中・猛:こちらこそ、よろしくお願いします。

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