近代を生きる(4)――「時間」という問題
前回、学生時代の思い出を語った最後に、自分の潜り抜けた闇は近代の「時間」であった、という「結論」を述べました。そこには、その一言ではとても尽くせない、さまざまな思いがこもっています。自分が闘ってきた相手は「時間」、それも「近代」の時間なのだ、ということを発見して、ようやく長いトンネル――仏教の世界で「無明」と呼ばれる――を抜け出すことができた。最近、そんな思いがしています。今回は、それがどういう意味で「時間」の問題なのか、ということをご説明したいと思います。現在、私が取り組んでいる著書のテーマは、「瞬間と刹那」。「瞬間」「刹那」のどちらも、ふつうのイメージで言うなら、「時間の要素」を意味する言葉です。私が大学院に進んでから、まもなくぶつかったのは、「瞬間」の問題。広い意味で、「時間」の問題と言うことができます。それから長い時を経て、このたび「近代を生きる」というシリーズの中で、新たに「時間」に向き合うことになった次第を、語りたいと思います。前回の「近代と私」からの、視点は変わるものの、続篇と考えていただければ結構です。
40数年を遡る昔、卒業論文が書けずに四苦八苦していた当時の私が直面していた〈壁〉は、つまるところ「時間」の問題であった、と。前回のエッセイで、そのように書きましたが、こちらの言わんとすることは伝わったでしょうか。たぶん、伝わらなかったと思います。失礼ながら、そう申し上げるのには訳があります。「時間」の問題が、何を意味するのか、それが60代も終わろうとする昨今、ようやく私に見えてきたという事実は、哲学とかかわりなく日々を生きている人たちには、おそらくそれが、一生のあいだ実感されないような問題ではないか、ということを物語ります。「時間」の問題は、それが問題であるということが見えないような仕方で、世の中を広く深く支配している問題です。そういう世の中が、「近代」なのだと申し上げれば、「近代を生きる」シリーズの中で、「時間」を取り上げないわけにはいかない、という当方の思いがご理解いただけるかと存じます。
「哲学者」と呼ばれる人種は、昔から「時間」を問題にして論じてきました。「哲学者」でないふつうの人々は、日々、時間を気にして生きることはあっても、「時間とは何か」といった抽象的な問題に、目を向けることはありません。というのも、世間の人々に、そんな問題を考えるようなヒマ(時間)はないし、それを考えなければ困る、ということもないからです。そういう意味で、「時間とは何か」を考えるのは、ヒマ人である「哲学者」の専売特許――ついでに申し上げますが、「学校」(スクール)の語源は、ギリシア語の「ヒマ」(スコレー)。ヒマ人の集まる学校という場で、哲学が教えられてきたわけです。
ですが、本エッセイでは、「哲学者」ではなく、ふつうに生きる方々に、「時間」の問題を考えていただきたい。「時間とは何か」は、ヒマ人にとってのヒマつぶしのテーマではなく、それを考えることが、よく生きるためには不可欠だということを、理解していただきたい。今回は、そういうチャレンジであるとお断りして、ここから本題に入ります。
卒業論文をめぐって
卒論制作中の私にとって、「時間」がどういう意味で問題だったのか。前回書いたように、「時間」がテーマではない、「ベルクソンにおける知覚と行為」という論文で、どうして実は「時間」が問題だった、などと言えるのか。また、そういう事情が、どうしてそのときにはわからず、いまごろになって見えてきたのか。不思議な話だと、われながら思います。ですが、それが私たちの生きている近代の、「時間」というものの厄介なあり方なのです。ここで、「時間」を「空気」に喩えてみましょう。自分を包み込んでいる空気は、それがなくては生きられない物質であるものの、目に見えないし、ふだんその存在を意識することはありません。それと同じく、「時間」は、われわれの日常生活を支配していながら、そのあり方に気づきにくい何かである。とりあえず、そんなふうに言ってもよいでしょう(もちろん私たちは、空気よりもずっとひんぱんに、時間を気にして生きています)。ここからしばらく、正体のつかみにくい〈敵〉の姿を見きわめよう、という試みにお付き合い下さるようお願いします。
40数年前の卒論で、どんなことを書いたのか。細かいことは覚えていませんが、おおよそこんなことでした。私の目の前に、一個のリンゴがある。リンゴと、それを見ている私のあいだに、何かが生じる。何かを見るというのは、哲学の用語で言えば、「知覚」。この状況について、「私は、目の前にある一個のリンゴを知覚する」という描写が成立するといえば、それで話は終わります。終わるはずです。しかし、それだけではない、という気がする。というのは、何かを見ているとき、それを見ると同時に、それとは別の何かが生じている、ということを感じないではいられないからです。その「別の何か」を、論文中では「行為」と呼びました。一個のリンゴを知覚しながら、それとは別のこととして、私は何かを行為する。いや、すでにしてしまっている。ということは、私にとって、「知覚」と「行為」とは、別々の出来事だということです。別々という理由は、知覚が行為を生み出すのでもないし、行為によって知覚が生じるというのでもない、この二つが独立に成立する、ということです。お分かりになるでしょうか、当時25歳であった若造の「哲学的」反省が、およそどういうものだったかということが。
その「哲学的」反省のテーマは、「知覚」と「行為」との越えがたいギャップ、として要約できる問題です。しかし、かりにそう要約できたとしても、その問題に答えることはできません、西洋哲学(フィロソフィ)の世界に身を置くかぎり。というのも、そこに「時間」の問題が関わってくるからです。それは、どういうこと?ここで話を急がず、腰を落ち着けて、事の次第を考えることにしましょう。「知覚」と「行為」のギャップというのは、例えば私が、一方、目の前にあるリンゴを見ながら、他方、手が原稿用紙のマス目に文字を書きつけている、といった二つの事柄が、別々に起こっている状況を指します。どうしてこの二つの事柄が、別々に、しかも同時に起こっているのか、説明がつかないというのが、私の反省の出発点でした。
哲学専攻の卒業論文では、西洋の大哲学者を取り上げ、そのテクストの解釈をとおして、何かしらの哲学的テーマを追究する、というのが昔からの慣わしです。私が取り上げたのは、フランスの哲学者ベルクソン(1859-1941)の『物質と記憶』(1896年)という、超ムズカシイ書物でした。このテクストは、精神と身体の関係――心身関係――を、その双方と密接に関係する「脳」のはたらきから解明しようとした著作で、問題が難しいこともあって、ベルクソンのテクストの中で最も難解だとされています。『物質と記憶』は、例えば「失語症」のように、言葉の記憶が失われる現象について、損傷するのは記憶自体ではなく、記憶が現実化するためのメカニズムである、という点を実証的に解明しました。しかし、この本の学問的価値を説明することが、卒論の目的ではない。そのことも、前回申し上げました。
「知覚」と「行為」、見ることと働くこととは、別々の出来事であって、一つには結びつかないように思われる。それはなぜか、というのが私のテーマで、それに答えようとして、ベルクソンのテクストに訊ねる、というのが卒業論文の趣旨でした。これに対して、「知覚」と「行為」は、もともと一体であるというのが、「行為論的知覚論」と称される、ベルクソンからの答えでした。なぜ、そう考えられるのか。生きるために、見ることと働くこととの連携が必要不可欠だからです。「リンゴを見る」という知覚は、それが食べ物であるという判断を含み、そこから「リンゴを食べる」という行為が成立する。そういう一連のプロセスをつうじて、知覚と行為は連動する(具体的には、リンゴを見てから、それを手に取って食べる)。そのように「知覚」と「行為」は一体であるというのが、ベルクソンの考えでした。そういう考え方は、人間の行為には、すべて目的が内蔵されている、という〈常識〉にもとづいています。
そういう〈常識〉に異を唱えて、「知覚」と「行為」は別々だというのですから、私は相当にヘソ曲がりだった。でも、このヘソ曲がりは、歳を経るにしたがい、西洋哲学に批判的な目を向けるようになり、それとは違ったものの見方、考え方が可能であることを、実感するに至りました。今日から振り返って、その当時のこだわりには、それなりの意味があったと確信します。つまり、そこに「時間」の問題が関係するということです。
「時間」の問題
「時間」の問題、というのはどういうことでしょうか。なぜそれが、最近になってクローズアップされてきたのでしょうか。できるだけ整理して、簡単な形で定式化します。かつて「知覚」と「行為」の関係が、説明できないと思ったのは、その関係を時間的に考えたからです。時間的に考えるとは、原因と結果のつながり――いわゆる「因果関係」――として、物事をとらえることを意味します。それは、西洋近代に成立して、あたかも空気のごとく、われわれをすっぽり包み込んでいる発想です。近代を生きる人々は、それを逃れるどころか、それが特別な発想であるということすら、意識することなく、そうした「空気」を生きています。哲学を学び始めた若者が、そういう「時間」のあり方から、批判的な距離を十分に置くことができなかったということは、いまにして思えば、無理もないことです。そう言った尻から何ですが、未熟とはいえ、現在の自覚につうじる反省が、20代前半の私に芽生えていたということは、何ほどか評価されてもよいように思われます。前回、最後に「三つ子の魂百まで」と書いたのは、当時のそういう姿勢に対する自画自賛です。
本題に戻って、「時間」とはいったい何でしょうか。それは、原因と結果の関係、因果関係である、と書きました。このことは、原因と結果を結ぶ線が時間の経過を表す、という例で説明できます。一つの出来事があって、それに別の出来事が続くとき、人は前の出来事を「原因」(C)、後の出来事を「結果」(E)と呼んで、〈C→E〉の関係を思い浮かべるでしょう。原因と結果は同時ではなく、そのあいだにズレがあるでしょう――まったく同時、という関係も考えられますが、このさいそれは無視します。もちろん世の中には、因果関係ではない関係がたくさんありますし、無関係のケースも数多い。たとえば、この文章を書く私と、それを読むあなたの存在。あなたと私は、別々の存在であって、「原因」と「結果」の関係ではありません。百人からなる社会があるとして、その中で生きる人々は、それぞれの生活を別々に送っていますが、そのうちの甲と乙の存在に、因果関係が成立するわけではない。とはいえ、甲は甲の生活の中で、朝起きて会社に出かけ、仕事をこなし、やがて帰宅する。乙は乙で……といった仕方で、自分にかかわる出来事を各自が別々に経験します。個々人の生活において、因果関係が成立するのは間違いないことです。百人いれば、百とおりの因果関係が成立する。ということは、百とおりの時間が経過するということです。
「百とおりの時間」と言いました。それはオカシイ、時間は一つだ、私の時計もあなたの時計も、同じ時刻を指している。全世界に共通の時間は、一つしかない。人類は、誰もが共通の時間を生きているのだ、と反論してくる方がおありでしょうか。たしかに、そのとおりです。地球上の時間は、現在、グリニッジ標準時間というものに統一されています。ですから、あなたと私の時間は違う、などといった言い方は、公式には通用しません。しかし、私の問題にしている「時間」は、そういう制度化された社会的な時間のことではなく、一人一人が生きて体験する時間、〈私の時間〉と呼ぶことがふさわしい時間のことです。物事の順序として、そういう私的な個々の時間から、それを集約して統一する共同社会・国家の時間が生まれ、さらに数多くの国家が連合してつくる、全体としての「地球社会」が成立することによって、人類共通のただ一つの標準時間が、約束事として定められたのです。順序は、けっして逆ではありません。
さて、〈私の時間〉について。日常生活の中で、何かこれということを思いついて、実行に移す場合を考えてみます。パソコン作業に疲れたので、気分転換のために散歩に出る、といった例を挙げましょう。この例は、「パソコン作業に疲れる」(心理的原因C)、「気分転換」(目的P)、「散歩に出る」(行為結果E)という三つの要素を含んでいます。記号で表せば、〈C→E〉となり、「原因」と「結果」を結ぶ「→」を「目的」に置き換えれば、〈C-P-E〉という図式になります。この図式〈C-P-E〉が、われわれの日常生活を支配していることを、だれでも認めるのではないでしょうか。社会生活を営むというのは、一定の目的を果たすべく、自分自身の手で無数の因果連関を設けて、それを実行していくことだからです。この図式を認めない人がいるなら、その人は、社会生活からドロップアウトした存在、アウトローであることを自認する人たちだ、ということになるでしょう。
因果関係と時間
私が、①ある心の状態にあって、②何らかの目的を考え、③考えたことを実行する。「行為」と呼ばれるのは、こういう仕方で、①-③のつながりをつくり出すことだと考えられます。直前に〈C-P-E〉としてまとめた〈原因-目的-結果〉のつながりを、心理と行動の関係に見立てることができるでしょう。私たちは、日々の生活の中で、こういう形の因果関係を生きています。でも、そういうことをあまり意識しないでいられるのは、〈原因-結果〉のつながりが日常生活の隅々まで行き渡っているために、それを一々意識しなくてもよいようになっているからです。その点からすると、私が卒業論文の中で、「知覚」と「行為」のギャップにこだわったというのは、かなり異常なことでしょう――これら二つの要素に、〈原因-結果〉の関係があると認められたなら、「ギャップ」などという問題は生じないはずですから。誰もが疑わずに生きているような事柄に引っかかり、こだわって考えるのが、哲学。哲学だからこそ許される問題に、ぶつかったのだと言えるかもしれません。
さて、一個のリンゴを眼にする私(P)と、原稿用紙のマス目を埋めている私(A)。このポイントに戻って考えます。知覚する私と行為する私。二つの私、PとAのあいだに、因果関係があると言えるでしょうか。もしくは、〈原因-目的-結果〉一体の関係があるでしょうか。〈原因-結果〉をつなぐような「目的」(意味)はない、と当時の私には思われました(深く詮索すれば、「卒業論文を仕上げる」という「目的」がある、という言い方もできるでしょうが、それは後追いのコジツケに過ぎません)。因果関係が成り立たない以上、私にとって、知覚と行為の溝は埋まらなかったということです。これは、いまになって振り返るなら、「時間」に対する疑問に行き着く出来事です。どうしてでしょうか。因果関係によってはじめて、〈過去-現在-未来〉という、ふつうにイメージされる時間の流れが成立するからです。下の図をご覧ください。
P₁→A₁→P₂→A₂→P₃→……
これは、一つの知覚(P₁)が条件となって、ある行為(A₁)が生み出され、その行為が新たな知覚(P₂)を惹き起こし、それがまた次の行為(A₂)を生む……、といった仕方で、知覚と行為のあいだに〈原因-結果〉の連鎖が成立する、というありかたを図式化したものです。このような因果関係のつながりを、そのまま私たちが生きている日常の時間の流れに重ね合わせることができる、と私は考えますが、いかがでしょうか。
過去の出来事が「原因」となって、現在の状態が「結果」する。この種の思考がはたらく例は、いくらでも挙げられます。(例)「太平洋戦争中に、日本が朝鮮半島を属領として支配した」(A)→「現在の韓国を反日感情が覆っている」(P)。途中の複雑なプロセスを省いて、思いきり単純化した、マクロ・レベルの因果関係(行為→知覚)の事例です。国家のレベルでも、個人のレベルでも、過去と現在を結ぶ〈原因-結果〉の歴史的なつながりが存在していて、そういう意識がそのままリアルな時間の感覚を生み出していることが、お判りいただけるかと思います。
縁起――時間の否定?
私の卒業論文は、いま思うと、日常生活を支配している因果性の意識=時間の観念に対して、異を唱える趣旨の内容でした。そういう時間否定の趣旨に気がついたのは、つい最近のこと、先月更新したエッセイの執筆中でした。なぜ、いまごろそんなことに気がついたのか。私自身が変化したからです。これまで自身がしたがってきた、西洋哲学(フィロソフィ)の思考法から距離をとって、違った角度から物事を考えるうちに、哲学が理論化し、それを自明として受け容れてきた近代社会の時間観念が、絶対的なものではないということに、目が開かれたのです。何らかの主張(テーゼ)に異を唱えることができるのは、それと対立する別の主張(アンチ・テーゼ)をうちだすことによってです。私にとって、西洋哲学、およびそれに支配された社会の常識に対する、アンチ・テーゼとして現れてきたのは、仏教思想。とりわけ、その重要な骨格である「縁起」の考え方です。ここでは、ごく簡単に要点を説明しましょう。
「縁起」の「縁」とは、物事のつながり、関係。この世の中にあるすべてに、見出される関係を意味します。そういう広範な関係性の中で、出来事が起こるというのが、「縁起」の意味です。ですから、時間的な因果関係も、当然「縁起」のうちに含まれます。しかし、「縁起」が「因果」と異なるのは、その関係性が、因果関係のように時間的なつながりがなくても認められる、という点です。「此れあれば彼あり」という有名なフレーズが表しているのは、「此れ」と「彼」とに〈原因-結果〉のように明確なつながりが見出せない場合でも、何らかの関係がありそうなら、そこに「縁」が成立するということです。「リンゴを見る私」と「原稿を書く私」、私の知覚と行為に、かりに因果関係がなかったとしても、「縁起」という意味での関係性はありうる、というのが仏教的な縁起観の特徴であると言えます。仏教の世界では、物事を「色・受・想・行・識」という五蘊(ごうん、「五つのまとまり」)に分けます。「リンゴを見る」というのは、身体による事物の知覚として、「色・受」に相当し、「原稿を書く」行為は「行」に属する、といった具合に、二つの事柄は区別されながらも、ゆるやかな関係(因縁)のうちにあるという理解が、縁起思想によって可能になるわけです。
「因果」と「縁起」、物事の関係性は、この二つに分けられることが判りました。そのことで、いったい何が変わるのでしょうか。もっぱら因果の視点だけで見られていた関係に、縁起の視点が加わる、そのことの利点は何でしょうか。「時間」の意味が変わる、という点が挙げられます。ふつうの意味での因果関係は、〈過去-現在-未来〉にわたって流れる時間を意味します。それは、一方行への矢印(→)で表される直線的時間です。近代世界を支配するのは、このような直線的時間であって、誰もがそれにしたがって生きています。人が時間を気にする習慣から逃げられないのは、〈原因-結果〉の無限の連鎖に自身が組み込まれるように、人生のさまざまな局面――仕事や遊び、結婚や子育て、ついには自己の死までも――をみずから設計し、その図面をきっちり消化しようとするからです。なぜそうか、と言えば、そういう生き方が要求される「近代」に、私たちが生きているからです。そういう生き方が、しばしば苦になることはあっても、そこから逃れて自由になるすべがない、というのが、「因果」と一つになった近代の「時間」というものです。「縁起」という視点は、そういう時間の意識を消し去るわけではないにしても、それがすべてではない、として相対化することができます。もっと強く言うなら、「縁起」を考えることには、「時間の否定」という意義があります。最後に、この点に少し立ち入って終わります。
時間を問い直す
「時間の否定」!! そりゃ、いったい何のこと? 私の申し上げたいことは、正確に言い直すなら、「近代を支配する直線的時間の否定」ということです。さらに補うなら、そういう近代的な時間を、完全に否定して生きることは不可能ですが、それが時間のすべてではないということを見きわめ、そういう時間観念を相対化するということです。このことは、昔、小林秀雄が「無常という事」の中で、「過去から未来に向って飴の様に延びた時間」が、人々の幻想である、と喝破した近代批判の蒸し返しにすぎません。高校の国語の教科書にも取り上げられた、このエッセイは、現代人が「無常」に心を開いていないことと、「常なるもの」を見失って生きていることとを、同じ一つのことであるとみなし、その精神を支配する近代の時間観念を、上のような比喩的な言い回しで批判しています――白状しますが、高校生当時の私には、何のことだかピンときませんでした。
仏教思想の核心は、「無常」の直観にあります。釈尊が直観した「無常」の意味を、芯から理解することが、修行の目的である「悟り」――「解脱」あるいは「涅槃」の境地――をもたらす、というのが仏教の考えです。そういう仏教の立場において、時間の直線的進行という観念は、「無常」を認めない生き方と結びつく。なぜでしょうか。前進する「時間の矢」は、次から次へと「新しい」ものが生まれてくるイメージを表現します。「新しい」ものが生まれないことは、停滞。それなら直線で表す必要はなく、一つの点を打てば済みます。何も新しいものがない世界は、停滞しているといえば、悪いイメージになりますが、別の言葉でいうなら、それは「永遠」。動き続ける「時間」と、動かない「永遠」。「時と永遠」の関係が、昔から宗教の世界で問題にされてきました。キリスト教にとって、「永遠」は堕落した人間の住む地上界ではなく、神のまします天上の世界のあり方を表します。時間的に生きる現実世界から、どうすれば無時間的な永遠、神の世界に近づくことができるか。これが、信仰のテーマとされてきたわけです。
「縁起」の話に戻りましょう。仏教には、キリスト教のように、神の世界と人間世界との絶対的な隔たりはありません。人間の行いも自然の出来事も含めて、あらゆる事柄が、「此れあれば彼あり」といった相関関係のネットワークをつくっている。縁起の関係は、〈原因→結果〉という一方的で時間的な関係ではなく、原因と結果を入れ替えて考えることのできる相互的な関係、いわば空間的な関係です。そういう縁起的な構造の下では、「新しい」何かが次々に生まれてくる、という事実を説明することは難しい。どんな事物も、他のすべての事物と「縁」によってつながり合い、〈全体〉のネットワークを構成していますから、その一つの要素が変わるとすれば、同時に他のすべて、世界全体が変わらなければなりません。こういう考え方をリクツで推し進めると、世界全体が瞬間ごとに生まれては滅びる、という「刹那生滅」(刹那滅)という思想が現れてきます。とんでもない考えだと思われるかもしれませんが、この世界の存続を直線的時間によって思い浮かべるのとは違って、「瞬間」(仏教の用語では「刹那」)の観点から説明する立場には、それなりの合理性があると考えられます。
いま私が取り組んでいる――早ければ、今年中に出版される見通しの――著書の題は、『瞬間と刹那』。その中で、西洋的な時間に含まれる「瞬間」と、仏教的な「刹那」の意義を比較することをつうじて、「新しさ」の追求に明け暮れる近代的な生き方を根本から見直そう、というメッセージを発信します。近いうちに刊行のお知らせができるように、と内心ひそかに期しているところです。
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