毎月21日更新 エッセイ

風土学対話(3)――〈中間〉と〈あいだ〉

風土学対話(3)――〈中間〉と〈あいだ〉

夏から秋へ

直言先生:五輪直前の新型ウィルス感染爆発に加えて、異常な長雨、八月は大変な時期でした。お二人は、この夏をどう過ごされましたか。

中道さん:「外出自粛」のご時勢ですから、恒例にしているお盆の旅行も控えて、自宅で本ばかり読んでいました。先生のご著書も、この機会に読み返させていただきました。

猛志君:偶然、ってことかな。僕も、中道さんと同じような過ごし方をして、積読していた先生の本を読んだりしました。僕が読んだのは、『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)ですけど、中道さんが読まれたのは?

中:私が再読したのは、『邂逅の論理――縁の結ぶ世界へ』(春秋社、2017年)です。

直:お二人のありがたいお言葉に、感謝あるのみです。でも、私の書いたものを読もうとされたのは、どういう事情からでしょうか。印象は、いかがでしたか。

猛:先月の対話で、「近代」について議論した最後に、テクノロジーを〈あいだ〉の視点から考え直すということを、たがいに了解して終わりました。〈あいだ〉という風土学のキーワードを、自分が理解できているという自信がないので、それをテーマにした先生の本にとっついて、考えてみようと思いました。

直:で、印象はどうでしたか?

猛:〈あいだ〉について、これまで抱いていたイメージが変わりました。よく聞く〈人と人のあいだ〉という言い方から、人間関係が問題にされているような感じがありました。けれど、〈あいだ〉というのは、いうなれば哲学のリクツというか、「論理」の問題なんだ、ということが判りました。

直:なるほど、言われてみれば、もっともな感想ですね。中道さんは、いかがでしたか。

中:〈あいだ〉とは、〈出会いの場〉であるという説明を、先生はよくおっしゃっています。ですから、〈あいだ〉イコール〈出会い〉という線でお書きになった『邂逅の論理』を、このさいきちんと読んで学びたい、と考えました。

直:内容については、どうでしたか。

中:〈出会い〉がテーマの中心であることは、それなりに判ったつもりです。ですけれども、猛志君が言われたように、〈出会い〉そのものよりも、それに関連する「論理」が追究されている本だと思いました。白状しますと、哲学的な論理については、私には難しすぎて、ついていけませんでした。

直:そうですか、そうかもしれません。〈あいだを開く〉こと自体よりも、〈あいだを開く〉ための予備的な仕掛けとして、「論理」を問題にしている。お二人の感想から、そのことが自身に見えてきました。

猛:哲学を専攻する学生として、先生が「論理」を問題にされたことの意味は理解できます。ただ、〈あいだを開く〉とか、〈あいだに立つ〉ということは、論理の問題であると同時に、人の生き方の問題ではないでしょうか。後の方の面を、もっとくわしく説明してほしい、という気がします。

直:君のおっしゃることは、もっともです。今回の対話では、そのあたりをポイントにしたいと思います。「あいだを考える」のシリーズ初回「二元論をめぐって」で取り上げたのは、二元論批判。これは、「論理」の問題です。これをもとに、最近の考えを加えて、それが〈あいだを開く〉生き方と、どうかかわるかについて講義しましょう。

「二元論をめぐって」(2020年4月)にもとづく考察

二元論には、二つに分けられたものの〈中間〉がない。①二元論の欠陥を補うために、「中の論理」が必要である。〈中〉(中間)は、〈あいだ〉を意味する。②〈あいだを開く〉生き方とは、どういうものか。①と②を結びつけて考える。

1 中の論理――二元論批判

明治以後、日本に導入された新しい学問「フィロソフィア」(哲学)の柱は、二元論。古代ギリシアに発したのは、宇宙を動かす根本原理と、それによって動かされる(つくられる)ものとを区別する、二元論である。そういう二元論の近代版が、「考える我」(精神)と我によって考えられる世界(自然などの物体)とを分ける、デカルトの二元論。三千年近い昔から、西洋の哲学は二元論によって営まれ、それにもとづく近代の科学技術が、西洋の世界支配をうちたてて今日に至っている。したがって、二元論は哲学の〈魂〉。それを棄ててしまったなら、哲学はもはや哲学ではなくなる。しかも、二元論的に物事を分ける手続き――まさしく「分別」――は、私たちの生きるマナーそのものであって、それなしでは生活が成り立たない。人々の暮らしには、二元論をつうじて哲学が根を下ろしている。わざわざ「哲学」と名のつく知的遊戯に耽るまでもなく。

そういう二元論にも、決定的な弱点がある。それは、分けられた二つのものの〈中間〉がない、ということである。二つのものを分け、ゴッチャにしない。そのことのメリットは、計り知れないほど大きいが、反面、本来混じり合っていたもののあり方が、説明できなくなる。一例を挙げるなら、心(精神)と身体。心身を区別することによって、近代的な医療技術が開発され、めざましく進歩する。もはや前近代的な祈祷や呪いに頼る必要はない。しかし、人間の病気には、たとえば「心身症」と呼ばれるような、中間的なあり方をするものがある。近代医学は、心と身体にまたがる中間領域を問題にしないし、できない。それは、二元論にとって避けがたい弱点である。

以上のとおり、二元論には光と影、明と暗の二面がある。明るい面だけをとって、影の部分を棄てる、というご都合主義が通らないとすれば、どうすればよいか。二元論=近代と考えたとき、近代の全肯定も全否定もナンセンスである。とするなら、近代か反近代か、といった二者択一ではない仕方で、近代を生かし続ける途を模索しなければならない。それが、二元論に欠落する〈中間〉の意味を活かす思考、「中の論理」(山内得立『ロゴスとレンマ』岩波書店、1974年)である。山内は、それを二元論である「ロゴスの論理」に対して、「レンマの論理」と名づけ、東洋の仏教思想にその典型を見出している。

二元論は、対立する二者の〈中間〉を問題にしない。そういう〈中間〉の意義をクローズアップするのが、「中の論理」である。〈中〉(中間)とは何か。二元論が対立させるABの〈中間〉、と考えられるような何かがあるか。あるのはAB。それ以外には、何もない。よって、〈中間〉が意味するのは、AでもなくBでもない、という「否定」と、ほかでもないABとがある、という「肯定」――である。すなわち、AでもBでもないがゆえに、AでもBでもあるというのが、〈中間〉の意味である。

2 〈あいだ〉を開く

〈中間〉は、〈あいだ〉と言い換えられる。〈中間〉の意味する「否定」と「肯定」とは、〈あいだ〉についても当てはまる。〈人と人のあいだ〉を考えるなら、それは太郎の場所(A)でも、花子の場所(B)でもない。だが、それゆえに、太郎と花子とに共通の場所であるというのが、二人にとっての〈あいだ〉である。そして、そういう意味の〈あいだ〉が、語源――「合処」(アヒド)――の表すとおり、会う処、〈出会いの場〉ということになる。二元論が〈中間〉を考えないということは、異なるもの同士の〈出会い〉を問題にしない、ということである。

「否定」(AでもなくBでもない)から「肯定」(AでもありBでもある)が生まれる、というのが〈出会い〉のあり方である。「否定」がなければ、「肯定」がありえない。とすれば、「否定」の方がより重要である。その理由は、ABとが、ともに「自己否定」を行わなければ、対等な〈出会い〉にならないからである。〈出会い〉と見られるような二者の遭遇は、過去の歴史にしばしば起こってきた。しかし、それが、対等同格の主体同士による〈出会い〉――〈邂逅〉――でなかったのは、一方が他方よりも上位に立つという優劣関係が、その場を支配したからだ。自分を相手よりも上(もしくは下)に置かないためには、「自己否定」が不可欠である。そういう自己否定のふるまいを、『邂逅の論理』「第三章 「論理」への問い」では、「謙譲」と呼んだ。

 

二元論と弁証法

直:以上、手みじかに、①二元論の問題点、②〈あいだを開く〉生き方、について説明しましたが、どうでしょうか。〈中〉と〈あいだ〉の関係に絞って、解りやすさを心がけたつもりですが……

猛:以前より、説明がスッキリしたという印象です。「二元論批判」と〈あいだを開く〉こととが、一本の線でつながるということが解りました。

中:私などは、「二元論」と〈出会い〉の問題がどうつながるのか、これまでボンヤリとした理解しかありませんでした。この二つが一つのことであると、先生がおっしゃる気持ちは、だいたいみ込めたつもりですが、まだスッキリ腑に落ちたとまでは申せません。

直:それは、どういうところでしょうか。何かポイントを挙げていただけませんか。

中:前半の「二元論批判」は、哲学の問題ですから、先に猛志君から意見を出していただいて、私はそれに続きたいと思います。

猛:それじゃ、僕の方から。古代ギリシア以来、西洋の哲学の根本は二元論である、と先生は主張されました。デカルトの二元論は、その近代版であるともおっしゃった。僕の知るかぎり、そんなことを主張している本に、お目にかかった覚えはありません。先生以外に、同じことを主張している例はあるのですか。

直:前半の「二元論批判」で、その名を挙げた山内得立が、私の知る唯一の例です。私の主張は、この人からの受け売りです。もっとも山内は、「弁証法」をターゲットにして、西洋の哲学や論理が、例外なく「二元論」である、という趣旨の議論を展開しています。

猛:「二元論」と「弁証法」とは、同じということですか。デカルトやカントは二元論だが、ヘーゲルの弁証法はその発想をひっくり返した、というのが哲学史の常識です。

直:ごもっとも。哲学の教科書は、君が言うような「常識」を並べていますから。ですが、「弁証法」(ディアレクティク)は、もともとギリシア語「ディアロゴス」からつくられた言葉で、ディアロゴスは「二つのもののロゴス」を意味します。ですから、異なる主体が言葉(ロゴス)を交わす「対話」が、英語でダイアローグ(dialogue)だとされるのです。「問答法」とも訳される弁証法は、基本的に二元論だということになります。

中:素人の疑問です。「二元論」と「弁証法」とが同じものだというのなら、哲学の常識では、どうしてそれが違う考えだと見られているのでしょうか。

直:古代の二元論は、「神」とか「イデア」といった絶対的存在と、人間が存在する現実世界とを、根本から区別しました。そんなふうに区別されたものを、どう結びつけるかが、プラトンやアリストテレスの「弁証法」のテーマです。近代になると、「神」に人間の精神が置き換わり、人間とそれ以外の存在との関係が、ふつうに言われる二元論の問題になる。そういう地上世界中心の二元論を、もう一度絶対的な存在を視野に入れて書き直すとしたら、どういうことになるか。ヘーゲルの弁証法は、低い水準の感覚的現実から、最高水準の「絶対精神」まで、精神が〈上昇〉していくプロセスを具体化しました。対立する二つのものが闘争しながら、その関係をつくり変えていく、という運動を描いた点が、それまでの哲学と違う点ですが、異質なものを分ける二元論の基本が変わるわけではありません。

中:そういうことですか。哲学の根本が二元論だとおっしゃる意味が、何となく解ったような気がします。ついでにもう一つ、これも素人の質問ですが、明治時代に哲学が日本に入ってきたとすると、それまでの日本には哲学がなかった。ということは、日本人には二元論という考えがなかった、とそう受けとってよいのでしょうか。

直:難しい質問です。明治以前、つまり江戸時代まで、日本には、西洋にあるような哲学が存在しなかった。ということは、デカルトが考えたような形の二元論もなかった、ということになる。しかしそれが、日本人は二元論に無縁である、とか二元論が解らない、ということとイコールではありません。というのも、明治以前の日本にだって、哲学がなかったわけではないのですから。

猛:どんな哲学ですか。それは、西洋から輸入されたフィロソフィアと、同じ意味の哲学ですか。僕は違うと思います。もし同じだったなら、わざわざ西洋からそれを輸入する必要がありませんから。

直:おっしゃるとおり、明治以前の日本の哲学は、西洋の哲学と同じではありません。しかし、二つの哲学がまったく違うかといえば、そんなことはありません。何といっても、どちらも哲学ですから。ただ、二元論に関しては、こう言いたいと思う――日本の哲学も哲学である以上、二元論的に考えるロゴス的性格があるにはあるけれども、西洋哲学のような徹底的な二元論ではないのだ、と。

 

二元論のゆくえ

猛:もともと一つであった二元論と弁証法が、近代になって分かれた、とおっしゃった点に関して、訊きたい点があります。

直:どういう問題でしょうか。

猛:弁証法が、対立する二者の関係を前提するから、それ自体、二元論だという点は、了解しました。僕の疑問は、現在、二元論がデカルトの時代のようなものではなくなってきているのではないか、ということにあります。最近になって、二元論を超える方向が生まれてきているのではないか、ということです。

直:君のその考えは、私とは正反対です。かりに、近代哲学が「現代哲学」に変わろうとどうであろうと、哲学であるかぎり、二元論は超えられないし、超えた実例というものを、私は知りません。

猛:ことを哲学に限らなくても、科学の世界では、二元論を超える取り組みが続けられているじゃありませんか。たとえば、物質から生命をつくり出すとか、ロボットを人間に近づけるとか……

直:また、その話ですか。1年以上前に、エッセイや「出会いの広場」に、盛んに書き込みがあったトピック。こちらも、最初はお付き合いしたものの、すぐイヤになって匙を投げた、あのやりとりがそうでしたね。私は気の短いイラチで、この連中には「二元論」の意味が何も解っていないと判断して、身を退いた経緯があります。

猛:あのころのやりとりを、いま読み返してみると、議論がかみ合っておらず、先生がウンザリされている様子が、よく伝わってきます。でも、前回の対話から、〈あいだを開く〉ことが、僕ら三人の共通課題になっているのですから、考え直してみてもいいのではないのですか。

直:非生命物質を生命物質から切り離すことが、生命科学の出発点。同じく、考える精神から、考えない延長物体を切り離すことから、機械の技術開発がスタートした。どちらも、原理的に区別されたものをゴッチャにしてはいけない、という二元論の方法そのものです。非生命から生命をつくる、とか、ロボットを人間に仕立て上げる、などというのは、科学技術の出発点である大前提を、まったく無視した妄想である。こういう趣旨を、投稿されたコメントに対する応答の中で、ハッキリ書いているでしょう。

猛:ということは、先生は二元論者であって、分けられたものの〈あいだ〉を認めない、そういう考えだということですね。

直:(?)……

猛:〈あいだを開く〉という考えなら、〈生命と非生命のあいだ〉が考えられるし、〈人間とロボットのあいだ〉が成立してもいい、となるように思うのですが、違いますか。

直:まったく予期しないツッコミだったので、動転して言葉を失いました。君の言うことは、二元論を批判するつもりの私の言葉が、自分自身に返ってきて、はからずもおのれが二元論に囚われている実態をさらけ出したわけです。これは参った。

中:私も驚きました。先生が展開されているテクノロジー批判を、私などは文字どおりに受けとめて、そうかなるほどと思ったり、チョット行き過ぎではないか、と疑ったりしてきました。しかし、いまの猛志君の質問を伺うと、二元論が超えられるのか、あるいは超えられないのか、という問題は、非常に難しいということに気づかされました。猛志君に感謝です。

猛:そんなに言ってもらえるほどの意見ではありません。この夏、以前、先生が討論されたお相手、池上高志先生[東大教授、「人工生命」(AL)開発の第一人者]の『動きが生命をつくる』(青土社)という本を読んで、「人工生命」は、生命でない機械と、ふつうに考えられる生命体のどちらでもない何か、生命と非生命の〈あいだ〉じゃないか、という感想をふと抱いたので、いまのような質問をしたわけです。

直:それを聞いて、思い当たる節があります。デンソーのイベント[20199月に開催されたCreation GIGⅡ:「欲望と、技術の哲学」、Facebookで公開中]で討論した折の印象を振り返るなら、この人が追求している「人工生命」は、機械を生命にするものではなく、単なる機械でも人間でもないような何か、猛志君の言い方を借りると、〈機械と生命のあいだ〉といえるものだったように思います。この人には、『人間と機械のあいだ』という共著もありますが、「あいだ」の意味が問題です。その研究のパートナーである石黒氏は、ロボット=人間という、根も葉もない主張で、世の中をたぶらかしているけど、それとは訳が違う考えかもしれません。

中:私から伺うのは何ですが、すると先生は、哲学が科学に関係する分野では、二元論を超える取り組みが行われている、とお認めになるのでしょうか。

直:そうなるかもしれませんが、結論は保留させてください。今回、二元論をめぐって、〈中間〉に関する理論的な問題を議論してきました。それと関連する〈あいだ〉は、理論よりも〈出会い〉という実践の問題になってきます。こちらについて、お二人の意見を聞かせてください。

 

〈出会い〉と自己否定

猛:「ABが、ともに自己否定を行わなければ、対等な〈出会い〉にならない」と言われたことが、引っかかります。その場合の「自己否定」というのは、何を意味するのでしょうか。また、それがなければ対等な出会いではない、というのもよく解りません。いままで誰からも聞いたことのない、重要な考えだとは思うのですが……

直:その質問を待っていました。中道さんは、この点についていかがですか。

中:私は、それなりに理解できたつもりです。こちらの理解では、「自己否定」というのは、自分がこれまで培ってきた能力や実績、地位といったものを投げ棄てて、白紙の状態で相手と向かい合う態度、というように受けとったのですが、違っているでしょうか。

直:素晴らしい、そのとおりです。私が言いたかったのは、そういうことです。

中:前回の対話で、長年生きてきた者の感想として、人間というのは変わらないものだ、という実感を述べた記憶があります。自分を白紙の状態に置くというのは、私の考えでは、自分を変えることとほぼイコールです。これまで多くの人と出会ってきたつもりですが、そういう「自己否定」というのは、ほとんど無かったと思います。

直:どうして、それができないのでしょう。

中:私が生きてきたビジネス社会では、相手に自分をどう見せるか算段したうえで、交渉に入るというのが、ふつうのやり方です。交渉を有利に運ぶためのノウハウが、欠かせません。素のままの自分をさらけ出したのでは、商売はできないのです。

直:なるほど、そうですか。猛志君の経験上も、そういうことになりますか。

猛:自分自身の経験から言うと、「対等の出会い」という前提そのものが成り立たない、というのが教育現場だと思います。

直:それは、なぜですか。

猛:教える側は、生徒に対して権力をもっています。権力を保つためには、自分を偉く見せる必要があります。それを見ていると、恰好つけてるな、ということがすぐ判ります。

直:教えられる側は、どうですか。

猛:やっぱり、そういう先生に合わせて自分をつくる。「仮面」をつけずに、先生や周りの仲間と向き合うなんてことは、出来ない相談です。

直:昔、一年生向けの講義で、「対等の出会い」についてしゃべったところ、感想のメモの中に、「自分は生まれてから、一度も対等の出会いを体験したことがない」というのがあって、衝撃を受けました――もしかすると、「エッセイ」に書いたかもしれません。君の話から、そのときのことを思い出しました。

猛:カントの言う「事実問題」として、「対等な出会い」は、成立たないように思います。「自己否定」が、その前提条件だとすると、それも無理だということに、なるのじゃないでしょうか。

直:専門用語が出てきたから、ついでに言いましょう。「事実問題」と「権利問題」とを区別したのが、カントです。「対等な出会い」は、かりに〈事実〉ではないとしても、〈権利〉上は考えられる。対等でない現実を意識するということは、対等の関係が考えられることの証拠です。それを〈理念〉として掲げることに、意味があります。理念によって、現実が変わるか変わらないか、それは判らないが、哲学の存在理由は〈理念〉を示すことであって、それ以外にはありません。

中:素人の考えですが、現実の出会いは対等ではない。けれど、理想的な対等の出会いを心がけて、それに近づくように努めよ。そういうことになりますでしょうか。

直:そう、おっしゃるとおりです。間違いありません。

猛:いま言われたことは、自分の問題という意味では、そのとおりだと思います。しかし、〈出会い〉というのは、相手がいなければ成り立ちません。自分について「自己否定」が出来たとしても、相手の側もそれに合わせるのでなければ、「対等な出会い」はナンセンスな話です。

 

対等であるための条件

直:〈出会い〉にかかわる最大の問題が、いま指摘されました。猛志君のおっしゃったことは、〈出会い〉の倫理にとって、一番の難所になる問題です。四年前、『邂逅の論理』を世に出したとき、出会うこちら側の条件として、「自己否定」――本の中では、「謙譲」――について書いたのですが、その時点では、相手の側を問題にしていなかった。それを問題にしないかぎり、〈出会い〉という相互行為は成り立たない。そういうことに、最近ようやく気がつきました。

猛:先生の風土学に、盲点があったということですね。そういうことに、最近まで気づかなかったというのは、どうしてですか。

直:哲学や倫理学という学問が、基本的に自分中心の発想しかしないからでしょう。自分についていえることは、他人にも当てはまる。自分と同じように、他人もふるまうだろう、という思い込みがはたらくから、「普遍妥当性」なんて言葉を気安く口にできる。

猛:学問が「普遍妥当性」を要求することは、おかしいのですか。もしそうなら、僕は哲学を続けられなくなる。

直:私が問題にしているのは、普遍妥当性を測る物差しが、いつも自分の側に置かれている、というあり方です。他者の側から、それを突き崩される可能性があることを考えない。そういう西洋近代の学問に特有の自己中心性を、哲学が免れていないということを、批判しているのです、自戒を込めて。

中:先生のおっしゃること、学問オンチの私ですが、仕事の世界でも同じことが言えるような気がします。オレが、オレが、という態度でその場を仕切ろうとしても、うまく行きません。相手のイニシアティヴが引き出せるように、自分が少し退いて相手の出方を待つ。そういう心得を教えてくれた先輩もいます。

直:中道さんのそういう経験談を、あれこれ伺いたいものです。『瞬間と刹那』を書き上げる過程で、今回のテーマに関係する発見がありました。最後に、それをご紹介します。私に〈邂逅の論理〉を示唆した九鬼周造は、今から90年以上前、フランスのポンティニーという場所で、外国人を前にして、二度、フランス語で講演をしました。その目的は、相手に自分との〈出会い〉を呼びかけることであった、と私は解釈します。そのとき彼は、聴衆に向って、「私たちは、すでに無数回出会っているのではないだろうか。そして、いま新たに出会おうとしているのではないだろうか」と問いかけます。もちろん、無数回出会った、なんて事実はありません。過去から未来にわたって、無数の〈出会い〉が繰り返されるためには、ふつうに流れる時間ではなく、同じことを繰り返す時間、「輪廻」が存在しなければならない。そんな時間が、〈事実〉であるわけはない。けれども、われわれの〈出会い〉は無数に繰り返される、そういうことを信じたい気持ちが、少なくとも問いかける彼の側にはある。彼は、そういう自分の思いを伝えるだけで、相手がそれをどう受けとめるかを、相手の意思に任せようとしたのです。それは、〈出会い〉が、自分の都合ではなく、自他の協働によって成立する、ということを物語っています。

中:そういうことが書かれているのなら、ご本を読ませていただきたいと思います。

猛:僕もです。ぜひ読ませてください。

直:わかりました。拙著は、順調なら年内にお渡しできる見込みです。

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