毎月21日更新 エッセイ

自著を語る(4)――『邂逅の論理 〈縁〉の結ぶ世界へ』

三部作の完成

猛志君:今回は、2017年刊行の『邂逅の論理 〈縁〉の結ぶ世界へ』(春秋社)についてのインタヴューとなります。この本が先生の代表作であるということを、ご自分でもおっしゃっていますし、僕らもそう受けとめています。中道さん、いかがですか。

中道さん:『邂逅の論理』が、『風景の論理』(2007年)、『風土の論理』(2011年)に引き続いて、風土学三部作の最後に書き上げられたということから、このご本が先生の代表作であると考えて、間違いないかと思います。

直言先生:この先、私の著書が刊行されるかどうか、何とも言えませんが、この本を書き上げた時点では、打ち止めのつもりでした。2012年に発病してから丸5年、それぐらいの余命かと覚悟していただけに、予定どおりに本が出せたことはラッキーでした。

猛:中道さんもおっしゃったように、この本は、風土学三部作の最後の著書。あらためて、三つの作品のつながりを伺ってもよろしいでしょうか。

直:『風景の論理』(世界思想社、2007年)は、風土における「世界の見方」を問題にした著作で、いわば《認識論》。つづく『風土の論理』は、われわれの生きている世界が「風土」である、という事実を明らかにする《存在論》。最後の『邂逅の論理』は、風土としての世界において、人がいかに生きるかを問題にする《実践論》ないし《倫理学》。俯瞰的に要約するなら、三部作のつながりはこういうことになります。

猛:哲学を専攻する僕にとっては、「認識論」「存在論」「実践論」(倫理学)というジャンルの区分は、うなずける気がします。先生は、風土学をこれまでの哲学に対抗する「新しい哲学」として構想されたのでしょうか。

直:もし君に「新しい哲学」として受けとられたなら、その評価を喜ぶべきなのかもしれませんが、そんな単純な話ではありません。私の思いは、もっと複雑です。

猛:というと、どういうことでしょうか。

直:古代ギリシアに起こって、3000年近く続いてきた歴史が物語るように、これまで哲学が取り上げずに放ってきた問題は、ほとんどありません。古代から現代まで、あらゆるテーマが繰り返し取り上げられ、論じられてきました。同じテーマが、人によって異なる視点から論じ直されることはあっても、手つかずのテーマが未知の大陸のように発見を待っている、という事態は考えられません。ですから、猛志君が口にされたような「新しい哲学」というものはない、と私は思います。

中道さん:意外なお話を伺いました。「序」のはじめの方で、「洋の東西を問わず、これまで世に出された哲学書、思想書の類に、「邂逅」を主題として取り扱った書物は、ほとんど見当たらない」と書かれています。ここを読んだときに、ああ、ここで先生は、誰も試みたことのない新しいことをやろうとされているのだな、と感じました。

直:「新しいこと」をやろうとしたというのは、そのとおりで、間違いありません。しかし、それが新しい「哲学」か、といえば、そういうものではないだろうというのが、最近になって実感されてきたのです。

 

新しい哲学、それとも?

猛:いきなり難しい話になりました。僕が口にした「新しい哲学」について、先生は「新しい」という部分は認めても、それが「哲学」だとすることをためらわれている。そのあたりの事情を、できるだけ簡単に説明していただけないでしょうか。

直:簡単には説明できない、ということをお断りしたうえで、とりあえず手みじかに言いましょう。書名に謳った『邂逅の論理』。「この書の目的は、「邂逅とはどういうことか」「邂逅はいかにして成立するのか」という筋道(論理)を明らかにすることにある」と最初に断っています。しかし、そういう意味の「論理」は、哲学の世界でふつうに用いられる意味の論理ではない。このことが、いまやハッキリした。だから、「邂逅の論理」を哲学だと主張することには、無理があるのではないか、と感じているのです。

猛:いまおっしゃったことは、たぶん「第三章 「論理」への問い」で問題にされていることに関係します。その中では、二つの論理がぶつかり合ったときに、どちらが正しいかを裁くことのできる上級審は存在しない、とされています。その場合に、邂逅が成立するためには「謙遜」や「自己否定」が必要だ、と書かれていることが、印象に残っています。

直:そう、そのとおり。そこで用いた「謙遜」や「自己否定」という言葉は、「論理」のタームではない。そういう言葉を引き合いに出すことは、論理を生命とする「哲学」から離れることじゃないか。そういう思いがするのです。

猛:お言葉ですが、そういうふうに「論理の臨界」を問題にされたこと自体が、哲学的な反省だと僕は思います。既存の論理では扱えない問題がある、ということを指摘する、そのこと自体が、哲学の営みに含まれるのではないでしょうか。

中:いま猛志君が言われたことに同感です。このご本は、後になるほど難しくて、第Ⅱ部以降は例によってお手上げでしたが、Ⅰの第一章、第三章だけは、一生懸命読みました。前回、「レンマ的論理」として論じられたものが、こちらのご本で〈邂逅の論理〉とされているのではありませんか。そういう受けとり方は、間違っているのでしょうか。

猛:ついでに僕の方からも、お訊ねします。テトラレンマ(四つのレンマ)のうちのⅠ(肯定)、Ⅱ(否定)は、ディレンマを構成する。ところがそれ以外に、Ⅲ(両非)、Ⅳ(両是)を立てるのが、テトラレンマ。それゆえ、二つのレンマ(ディレンマ)にとどまるロゴス的論理をレンマ的論理が包摂する、というのが山内得立の主張である、と。この本では、そう紹介されています。この考え方だと、レンマがロゴスよりも上位の論理であることになる。そう理解しては、いけないのでしょうか。

直:まさに、いま君の言われたそのことが、邂逅の「論理」を考えるさいの出発点でした。その時点で、私は山内の主張を疑ってはいませんでした。しかし、第三章に取り組んでいるうちに、その考えが一変しました。

猛:それは、どうしてですか。理由を説明してください。

直:山内のようにレンマ的論理を信じる立場に立つなら、テトラレンマがロゴスの論理を包摂するということが主張できる。レンマがロゴスを包摂するというのは、論理の階型として、レンマがロゴスよりも上位にあるということです。しかし、そう主張した場合に、ロゴスを信じる人は、それをどう受けとめるか。おっしゃるとおりです、とはまず言わないでしょう。逆に、お前の言うレンマなどは論理ではない、論理として正しいのはロゴスだけだ、と反論するはずです。違いますか。

猛:そうかもしれません。相手の言い分が正しいとは、認めないでしょうね。

直:そうです。自分の信じることが「真理」であると信じている者同士が、出会って衝突したとき、どちらが正しいかについて、容易に決着はつかない。それが、〈邂逅の論理〉という問題の焦点です。

中:〈邂逅〉というのは、それまで知らなかった他人と出会って、おたがいの存在を認め合う、というだけのことではないのですね。

直:相手が自分とは異なる存在である、という事実に直面して、さてどう付き合えばよいかと反省することが、〈邂逅〉の成立する条件です。

猛:そうか。そうだとすると、〈邂逅〉というのは当たり前の事実ではなくて、なかなか成立しない出来事だということになりますね。

 

対決――〈邂逅〉の条件

中:以前、三人で対話したとき、自分と全然違う人間とは付き合わない、という自分のモットーをしゃべった記憶があります(『〈出会い〉の風土学 対話へのいざない』幻冬舎、2018年、39-40頁)。そのときは、おっしゃらなかったけれども、そういう態度では〈邂逅〉が成立しない、ということですね。いまになって、そのことがよく分かりました。

直:そういうことがありましたね。でも、相手が自分とは違うという事実を認めた点で、中道さんの態度は、最初から相手を無視する態度とは違うし、自分の理解の中に相手を収めてしまうやり方とも違います。それは、〈邂逅〉までもう一歩の地点だと言えるでしょう。

中:「邂逅までもう一歩」と言ってくださいました。そこで「もう一歩」踏み出すためには、何が必要なのでしょうか。

直:それは、答えにくい質問です。というのも、〈邂逅〉を成立させるには、目の前の相手が、それを受け容れることが前提になるからです。自分の側と相手の側、どちらにも本当の出会いを求める意志がなければ、邂逅は生まれません。

猛:つまり、邂逅は「相互行為」だということですね。だとすると、どういうことが必要になるのでしょうか。

直:それを考えるうえで、ちょうどよい例だと言えるのは、明治以後の日本人が、西洋哲学とどのように出会い、付き合ってきたか、という過去の歴史です。『邂逅の論理』のⅡでは、その中の三人を「先駆者」として取り上げ、その業績を論じています。九鬼周造(第四章)、和辻哲郎(第五章)、田辺元(第六章)、この三人は、私が〈邂逅の論理〉というものを考えるうえで、貴重なヒントを示してくれた先輩です。

猛:というと、彼らが〈邂逅の論理〉のモデルを示したということですか。

直:そうではない。〈邂逅の論理〉というテーマを考えつかせてくれた九鬼周造は別格ですが、こうした先輩たちが〈邂逅の論理〉のモデルを提供してくれたわけではありません。

猛:では、先駆者だとされる日本人哲学者たちは、何をしたのでしょうか。

直:それぞれのしたことの意味は違います。ですが、ひとまとめにして言うなら、彼らは日本人が西洋哲学と邂逅するために必要な〈対決〉を、それぞれのやり方で実行したということです。

猛:〈対決〉とおっしゃったことの意味を、具体的に説明してください。

直:まずは、相手の考え方をくわしく学び、深く理解すること。そのうえで、それとは異なる自分の考え方や立場を明確にうちだして、相手に理解させようと努めること。言ってみれば、入力と出力のバランスをとること、これが〈対決〉の基本です。

中:私が学生時代に学んだ学問、マネジメントや経済学の授業では、これまでに蓄積されてきた理論や知識を正しく吸収して、できるかぎり自分のものにせよ、という教えを受けました。いま思うに、それは「入力」の要請ではあっても、「出力」の要求ではありませんでした。

直:無理もないことです。近代の自然科学や社会科学の理論は、土台になる根本的な思想、つまりは「哲学」にもとづき、その応用として発達してきました。そういう科学の成果を教え込むのが、今日の大学の務めですから、学問の土台となる哲学を批判する〈対決〉の姿勢など、学生に求めるはずがありません。そもそも教える側が、学問的対決など少しも経験しないまま、その地位に就いているのですから。

猛:九鬼、和辻、田辺、それぞれの〈対決〉の内容は、どういうものでしょうか。たがいのあいだに、どういう違いがあるのですか。

直:〈対決〉の内容は、三人それぞれに違います。九鬼周造の人生は、〈邂逅〉を求めるプロジェクトの連続であった、というのが私の解釈です。たとえば、当時、西欧を代表する哲学者として登場してきたハイデガーに対して、九鬼は日本的な「いき」の理解を求める対話を試みました。「いき」をめぐる二人の対話が、どのようなものであったかを語るテクストとして、ハイデガーは後に「言葉についての対話」という対話篇を発表しました。それは、ハイデガー自身と思われる「問う人」と、一人の「日本人」との対話という形式になっていますが、完全なフィクション。それを読むと、九鬼が求めた「いき」をめぐる対話が成功しなかった、ということが明らかです。両者の〈邂逅〉はうまくいかなかった。そのあたりの事情を、第四章でくわしく説明しました。

猛:三人のうち和辻哲郎も、ハイデガーから多大の影響を受けて、『風土』を著したということですね。

直:仰せのとおり。ただ和辻の場合は、ハイデガー哲学の日本への紹介に力を注いだ九鬼とは違って、「時間性」中心のハイデガーに対抗して、「空間性」を重視する立場から『風土』に取り組んだ。「入力」もさることながら、「出力」にウェイトがかかっています。

猛:〈対決〉の姿勢が、より鮮明になったわけですね。田辺の場合は、どうでしょうか。

直:ヨーロッパ留学中に、ハイデガーとの交流があった事実からも、その影響には大きいものがある。しかし、田辺の場合、西洋哲学の受容から抜け出して、日本の哲学を構築しようとする志向性が、最も強く出ています。ところで君は、田辺が「弁証法」にこだわった事実を知っていますか。

猛:はい。昭和初期に日本に入ってきたマルクス主義から影響を受けて、カント研究や数理哲学の時代の分析的な論理から、ヘーゲル、マルクスの弁証法論理の立場に移行した、ということを知っています。

直:そうですか、それなら話が早い。田辺は、当時日本社会に入ってきた弁証法の論理を消化して、自分流の独自の弁証法につくりかえた――彼は、それを「絶対弁証法」と名づけています。もちろんそれは、ヘーゲルやマルクスの言う弁証法とは、まったく違ったものです。

中:「弁証法」という言葉を、むかし学生だった頃、よく耳にしました。当時の新左翼が革命を叫ぶスローガンの中に、よく出てきたような記憶があるのですが、それと田辺の弁証法とは違うのですか。

直:マルクス主義の弁証法は、唯物論をベースに、ブルジョワをプロレタリアが打倒する革命の必然性をあとづける論理です。しかし田辺の弁証法は、階級闘争を革命に導こうとする左翼の理論に出てくる弁証法とは、意味がまったく違います。

中:そうでしたか。この本の第六章を、私は読んでいません。厚かましいお願いですが、ポイントを説明していただけないでしょうか。

直:そういうことなら、ここで田辺の言う「弁証法」がどういうものかを講義しましょう。それは、「種の論理」という呼び名で知られています。

 

講義:「種の論理」――意義と限界

「弁証法」は、ディアレクティック(dialectic)の訳で、ギリシア語のもとの形は、ディアロゴス(dialogos)。「対話」(dialogue)と同じく、「二つのもののロゴス」ということです。そういう語源から、区別された二つのものがぶつかり、闘いながら、物事が進展するあり方として、弁証法が考えられました。よく用いられる〈定立→反定立→総合〉という図式は、何かある考え(A)が、それと両立しない考え(非A)と矛盾する「ディレンマ」を生じることによって、そこから新しい何か(Aと非Aとの総合)が生まれてくる、という考えを表します。二つのものの矛盾や葛藤を基本とするのが、従来の弁証法の考え方。田辺は、そういう基本を変えて、三つのものが関係する独特な論理的枠組みを考えました。それは、種・個・類という三者が関係する「社会存在の論理」というもので、三つの次元を「種」に代表させるということから、「種の論理」と呼ばれています。

社会存在を代表する「種」。種とは、人間がその中に生まれて所属する社会、具体的には「国家」を指します。国家や民族が第一次的に存在し、個人はその中から第二次的に成立するという考えを、田辺は19世紀のフランス社会学派から示唆されました。社会の中心は、種である国家。その中から生まれる個は、国家に従属する反面、国家による束縛に反抗して、自由に生きようとするエゴを発揮します。個と国家全体。この両者に生じる矛盾葛藤の関係は、同時代の和辻哲郎も取り上げた問題で、和辻はそれを「個と全体の弁証法」と称しています。

「種の論理」がユニークなのは、そういう二者の葛藤に関係する第三の項として、「類」を考えたこと。田辺が「類」を着想したのは、同時代のベルクソン『道徳と宗教の二源泉』(1932年)からでした。ベルクソンは、この最後の主著の中で、「閉じた社会」と「開いた社会」とを二分し、両者はまったく異なる起源をもつこと、閉じたものから開いたものへ移行する途は存在しないこと、を明らかにしました。「閉じた社会」は、蟻や蜂のように本能で営まれ、成員のそれぞれが全体を維持するという役割を本能的に果たしている社会になぞらえられる。そういう社会に、個の自由は存在しません。それとはまったく異なる起源をもつのが、「開いた社会」。「閉じた社会」にときとして出現する道徳的英雄や宗教的天才は、当の社会を越えて全自然、宇宙にまで及ぶ「愛」の力によって、閉じた社会を開き、人々の心を一つにします。この二つの社会には、本質的な隔たりがあって、閉じた社会から開いた社会へと移行する途は存在しない。具体的に言うなら、自然の求める家族愛・国家愛は、がんらい閉じたもの。それを開かれた人類愛へと拡張することは不可能だ、というのがベルクソンの主張です。

刊行されたばかりの『二源泉』から、田辺は大きな刺激を受けました。ただし、彼は「閉じたもの」と「開いたもの」との区別を受け容れ、両者の本質的な違いを認めたうえで、「閉じた社会」を「開いた社会」に転換する論理を考えようとしました。そういう論理は、ベルクソンにはありません。ベルクソンによれば、「閉じたもの」を開いたのは、哲学者のソクラテス、イスラエルの予言者、仏教の阿羅漢、といった少数のエリートたち。しかし、風雲急を告げる1930年代の国際情勢の中で、日本が国家として果たすべき使命をつよく意識した田辺にとって、選ばれた少数の天才ではなく、ふつうの人々が果たすべき〈実践〉とは何か、を追究することこそ急務であったのです。一人の人間として何をなすべきか、何ができるのか。こういう切迫した問いかけは、ベルクソンにはありません。そういう時代の問いに答えようと全力を尽くしたところに、田辺の誠実さがあることを認めないわけにはゆきません。この問いに対する答えを、田辺は弁証法の論理に託したのです。

「種の論理」において、「種」(国家)と「個」とは、たがいに絶対否定の関係に立ちます。この二者を、第三の次元である「類」が媒介することによって、「個」はもはや国家に反抗する我欲の主体であることをやめ、「類」化された「類的個」となる。同時に国家も、「種的国家」のあり方を脱して、「類的国家」に変貌する。このように、種・個・類がたがいに否定し合いながら、媒介し合うとする「絶対弁証法」によって、「開いた社会」を実現する道が開かれる、と田辺は考えました。

結果として、こうした論理が何を生み出したかを顧みましょう。太平洋戦争に参戦した軍部のスローガンは、欧米列強の帝国主義的支配から、アジアの同胞を解放するというもので、その大義名分は、「大東亜共栄圏」構築のための「聖戦」でした。国家に背くおのれの罪を悔いた個が、戦地に赴くことによって、世界を変える先兵となる。そう信じて戦地に赴いた数多くの若者が、アジアの解放どころか、侵略の手先という役割を務め、無残な死を遂げたことは、ご存じのとおりです。

もとの理想と現実とに、あってはならない乖離が生じたのは、どうしてでしょうか。「種の論理」は、日本という国家、一つの社会の中で構想された論理、「閉じた社会」に通用する論理です。敵である米英など、他の社会的主体との協議をつうじて共有された論理ではありません。「種の論理」が、そういう閉じた世界に通用する論理であることに、根本的な問題がある、と私は考えます。「種」や「類」の意味は、一つの社会だけで決定することができません。たとえば、「種」について、私が「日本人」であるという事実も、自分以外の他人――外国人を含めて――がそれを承認することで、はじめて成立します――LGBTのように、性自認が他者の認識と食い違う場合があることを、参考にしてください。「類」にしても、どれだけの範囲を指すのか――たとえば、 ヒト以外の生物も含むのか――など、一つの社会だけでは簡単には決まらない問題です。〈類-種-個〉という、生物学に由来する分類法を社会的存在に適用することは、不適切であると言わなければならないでしょう。

「種の論理」の意義と限界は、とりあえず以上のとおり。ここから対話に戻りましょう。

 

〈邂逅〉のために

猛:「第六章 〈あいだ〉を開く主体」で評価されている「種の論理」が、ただいまの講義の中では厳しく批判されました。チョット驚きました。どうしてそうなったのでしょうか。

中:私もいまの講義を聴いて、先生が『邂逅の論理』の先駆者とされてきた田辺の哲学が、バッサリ否定されたように感じました。

直:お二人とも、そう感じられましたか。実はいま、戦争と風土学との関係を考える必要があって、田辺について書いた第六章を読み返したばかりです。読んでいるうちに、これはマズイな、と思われるところがいろいろ出てきて、何が問題なのかをハッキリさせようとしたわけです。

猛:先ほどの批判は、いまになって気がついた問題だということでしょうか。

直:そうではありません。たとえば、田辺が採用している「弁証法」は、閉じた世界に通用する論理であるという批判を、『風景の論理』(2007年)の「終章 形の論理――構造と弁証法」の中で、すでに表明しています。

猛:そういう批判が、どうしていまになって出てきたのでしょうか。

直:それは、「戦争」というテーマを強く意識したことに関係があります。「閉じた社会」である国家同士の戦争を、どうして止めさせることができないのか。そのテーマを考えるうちに、日本の参戦を意義づけようとした田辺の論理を、根本から批判し直さなくてはならない、そういう気になったのです。

中:私は先生に近い世代で、もちろん戦争体験はありません。けれど、学徒動員で戦地に赴いた自分より上の世代が、どうして国家の犠牲にならなければならなかったのか、と考え込むことがあります。そんなとき、戦中世代は軍国主義教育に洗脳されて参戦したのだ、と自分に言い聞かせてきました。そういう理解では、いけないのでしょうか。

直:「洗脳」の内容が問題です。「お国のために敵と戦う」そういう意識は、軍部に言われるまでもなく、当時の日本人の大半がもっていました。しかし、インテリたちは、自分が参加する戦争にどんな意義があるのかを、真剣に考えないわけにはいかなかった。そういう内心の要求に、「種の論理」が応えたわけです。

猛:僕なんか、昔から疑問でしようがないのは、戦時中の若者がどうして「戦争反対」を叫ばなかったのか、ということです。

直:平和の時代に生まれた君が、そういう疑問を抱くのは、しごく当然の話。それに対して、年寄り連中が返せる言葉は、その時代を生きていないから、そんな気楽なことが言えるのだ、ということぐらいでしょう。私から言いたいのは、第一に、そんな発言をすれば、とたんに官憲に拘束され、日本社会で生きていけなくなる、という客観的事実。もう一つ、もっと本質的な問題として、君自身が日本人である以上、君は「戦争反対」とはたぶん言えなかったはずだ、ということです。

猛:エーッ、そんな……僕は、自分が日本人であるよりも前に、一人の自由な個人だと考えています。

直:そう言いたい気持ちは、よく分かります。しかし、自分が「個人」であることを主張できるのは、その前に特定の社会に生まれ、その中で社会に反抗する自由を体験してからのこと。個人以前に存在する、そういう社会のことを、田辺は「種的基体」と名づけました。田辺が手引きに利用したベルクソンが、「閉じた社会」と呼んだのは、そういう社会のことです。

中:ただいまのやりとりを伺って、個人に何ができるのかを考えました。猛志君は、一人の個人として、戦争反対の意思を表明したいとおっしゃった。それに対して先生は、個人として反戦の意思をもつこと、それ自体が困難だと指摘されたように伺いました。

直:誤解を防ぐために申しますが、個人として反戦の意思をもつことが不可能だと言っているわけではありません。その意思をもつべきだし、表現すべきである、と私自身考えています。しかし、国家という「閉じた社会」の中で、個人が自立して何かを行うことは、非常に難しい。ほとんど不可能に近い、と思われるのです。

猛:どうしてでしょう。先ほどの講義では、類に媒介された「類的個」が、国家を「類的社会」に変える、という田辺の考えを説明されました。

直:講義の中でも少しふれましたが、「種」にすぎない日本という国家の中で、他の国家との相談もなしに、「類」のカテゴリーを勝手に設定した。そういう「類」は、民族宗教の神のようなものにすぎません。

猛:言われることが、よく分かりません。「類」って何ですか。

直:田辺は、ベルクソンの言う「開いたもの」の次元を「類」と解釈して、そこに全人類を包摂しようとしました。しかし、それは完全な誤解です。ベルクソンは、「開いた魂」が人類のように有限な対象をめざすものとは考えていないのです。

猛:それじゃ、僕たち一人一人は、何を目標にすればよいのですか。

直:さしあたって、国家という「閉じた社会」から出て、他の社会との〈あいだ〉を開くこと、風土と風土との〈あいだ〉に立つということです。そういう人間を、私は「間風土的主体」と呼びます。いずれ、そのことの意味をくわしくお話しする機会がやって来るでしょう。

猛:了解しました。今回の対話は、これまでとします。

 

 

 

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