毎月21日更新 エッセイ

自著を語る(5)――『瞬間と刹那 二つのミュトロギー』

シリーズ最終回?

猛志君:「エッセイ」のシリーズは、これまで5回ずつ。今回が「自著を語る」シリーズの5回目ということで、2022年に刊行された『瞬間と刹那 二つのミュトロギー』(春秋社)を最後に取り上げる。そういう理解で合っているでしょうか。

直言先生:そうですね。これでシリーズを打ち止めにするなら、『瞬間と刹那』を最後に取り上げるのが、順当だと言えるでしょう。

猛:とおっしゃると、これで終わりにしない選択もあるということでしょうか。

直:単著が6冊しかない自分としては、残る一冊、あなた方との対話が中心の『〈出会い〉の風土学 対話へのいざない』(幻冬舎、2018年)をオミットすれば、5回のシリーズにぴったり収まる。そういうつもりでした。でも……

猛:ほかにも取り上げたい著書があるということなら、それは何ですか。

直:私には、共同研究の成果を形にした編著が何冊かあります。その中から、どれか一冊を選んで、語ってみようかという気持ちがあります。

猛:それなら、先生が退職される前の年に出された『〈縁〉と「出会い」の空間へ 都市の風土学12講』(萌書房、2019年)はいかがでしょう。共同研究の最新の成果が盛り込まれていますから。

中道さん:賛成です。猛志君や私が参加させていただいた大学院講義「都市の風土学」の集大成ですから、そのご本をめぐるいろんなお話を伺いたいと思います。

直:そうですか。それなら、5回のシリーズを終えた後の「番外編」として、その本を次回に取り上げることにしましょう。

猛:それでは、そういうことにして、最初の質問をさせていただきます。『瞬間と刹那』は、「時間」をテーマにした研究書ですから、風土学三部作とはだいぶ性格の違った著書であるように思われます。

直:君がそういう印象をもたれたとしても、別に不思議ではない。「瞬間」というのは、時間の観念を意味しますから。でも、この本では、「瞬間」と「刹那」という同義語をタイトルにしています。その点については、どう考えますか。

猛:実は、それがお訊きしたい最初のポイントです。本のオビには、「西洋的瞬間と東洋的刹那の〈あいだ〉を開き、時間的自由を取り戻す」とあります。これが、どういうことを意味するのかを、先生から説明していただきたいのです。

直:そのコピー(宣伝文)は、私ではなく、春秋社の編集者が考えてくれたものです。こちらでは思いつかない、内容の核心をズバッとついた表現に感心しました。

中:そうですか。出版社には、オビのキャッチフレーズを手がける専門家がいるのかと思っていました。

直:本の内容をよく理解していないと、コピーは書けません。ですから、ふつうはその本を担当する編集者が書きます。以前、それができないからと言って、私に書いてくれるよう丸投げしてきた編集者もいました。

 

比較思想の企て

猛:質問してから、オビの裏側に本文の一部が抜き出されていることに気づきました。これが答えなのかな。

直:そう、そのとおり。「はじめに」冒頭の6行です。読んでください。

猛:はい、こんな風に書かれています。

 

 本書は、そのタイトルから連想されるとおり、「瞬間」と「刹那」をめぐる比較思想の書である。「比較思想」とは何か。言うまでもなく、異なる思想の比較である。ではなぜ、何のために、思想を比較するのか。複数の思想の異なりを明らかにしつつ、その異なりを生む世界について、理解するためである。本書のテーマである「瞬間」と「刹那」とは、一般に同義語と見なされているが、異なる世界に成立した言葉として、意味内容を異にする。それぞれの意味を追究することによって、その背景を成す世界のあり方を明らかにする、ということが、この書に託された役割である。

 

直:どうです。これでひととおりの答えになっていると思うのですが。

猛:なるほど。それで、この本が書かれた狙いはよく分かりました。ただ、「瞬間」と「刹那」を比較することによって、「時間的自由を取り戻す」というのが、どういうことなのか、いまいちハッキリしません。

直:その言い回しは、編集者が考えついたもので、私はそれに関与していません。しかし、言われてみれば、なるほどそうか、という感じがします。

猛:ということは、先生自身にとって、意外なとらえ方がされたということでしょうか。

直:強く言うなら、そういうことです。出版社は、この著書を時間論であるととらえて、その意義をアピールしようとしたことが明らかです。そのこと自体は、少しも間違っていない。「瞬間」や「刹那」が時間を意味することは、確かなことですから。

猛:おっしゃっているのは、「時間」以外のテーマが問題だということですか。

直:ええ、引用文の最後に、「背景を成す世界のあり方を明らかにする」という狙いを挙げているように、世界の異なりを明らかにすることが、本書の目的です。「時間」というテーマは、その目的にとって必要な手がかりだということです。

猛:そうすると、書物の目的は、「瞬間」と「刹那」という二つの言葉の違いを問題にすることをつうじて、西洋と東洋という世界の違いを明らかにすることである。そう理解しても、よろしいでしょうか。

直:そのとおり、非常に正確な理解です。中道さん、このあたりまでの話で、何か問題はないでしょうか。

中:この本の副題が、「二つのミュトロギー」とされていることが、気にかかります。キーワードの「ミュトロギー」が、何のことだか見当がつきません。第二章は「瞬間のミュトロギー」と名づけられているので、「瞬間」についてミュトロギーが成り立つ、ということが判ります。その「瞬間」と比較される「刹那」も、ミュトロギーだとされています。二つのミュトロギーを比較するのは、何のためでしょうか。

猛:「ミュトロギー」(Mythologie)というのは、ドイツ語で「神話学」という意味ですね。どうして、わざわざドイツ語を使う必要があるのか、僕にもよく判りません。

直:できるだけ難しい専門用語を避けたいと考えている私が、わざわざ原語を用いた理由は二つ。一つは、「ミュトロギー」が、日本人哲学者三木清の用いた語であることに注意を促す、という理由。もう一つは、三木の考え方に従うなら、それを「神話学」と訳すわけにはいかない特別な事情があるということです。

猛:その「特別な事情」って、何ですか。

直:三木が、ミュトロギーをテコにして形而上学を乗り越えようとした、ということです。そういう当人の意図に最も深く関係する言葉なので、適当な日本語に置き換えることができないのです。

中:どういうことをおっしゃっているのか、まったくチンプンカンプンです。素人にも理解できるように、解説していただけないでしょうか。

直:承知しました。ご要望に応えられるよう、説明してみましょう。

 

講義:ミュトロギーと時間

「ミュトロギー」というのは、「ミュートス」(神話)と「ロゴス」(論理)を合成したドイツ語で、猛志君が指摘されたように、「神話学」と訳されます。「神話」と言えば、ギリシア神話や日本神話がすぐ思い浮かぶように、神々の登場する物語が連想されるでしょう。神話を研究する「神話学」は、それ自体、一つの学問として存在しています。しかし、三木が問題にしたミュトロギーは、そういう学問のことではなく、〈神話的なものについての語り〉(57頁)を意味します。その場合、「ミュートス」(神話)というのは、神々の物語ではなく、「それをそのまま受け容れるか拒否するか、の二者択一しかない主張、さらに立ち入って合理的根拠を追究する手がかりが、見つからないような言説」(39頁)というものです。

解りにくいと思われるので、具体的な例で説明しましょう。たとえば、人が生きるか死ぬかの瀬戸際にあるような場合、死ぬとどうなるかを必死に考えるのがふつうです。そういう切実な場面において、「死んだらあの世に行く」というような言葉が、周りから発せられる。その言葉を聞かされた本人は、それをそのまま受け容れるか、「そんなものはない」と拒否するか、二つに一つです。「あの世」を示すことができない以上、判断の合理的根拠は成立しません。しかし、人間にそれを信じたい気持ちがあり、信じないわけにはいかない理由が存在する場合、そうした説明が受容される。それと同じく、「時間」という目に見えないものを表す言葉は、その存在を信じる人――信じない人もいます――にとって、ミュートス(神話)であるということになります。それを信じることも、信じないことも、どちらも自由だからです。

というと、「何、時間が神話だって!」そう叫ぶ人もいるでしょう。無理もない、一年365日、一日24時間、1時間60分、というように、時間が本当に存在すると信じる人にとって、時間が神話だと言われたのでは、自分の生活が否定されたように感じるでしょうから。そういう人に向かって、一日が24時間であるという事実を、あなたはどのように証明しますか、と訊ねたら、何と答えるでしょうか。「……」となるはずです。一日であれ、一時間であれ、「時間」というものの実在を示すことはできません。なかには時計の文字盤を指して、これが時間だという人がいるかもしれない。しかし、時計は、時間が存在すると仮定したうえで、その長さを測るように社会が取り決めた約束からつくられた仕掛けにすぎません。「一日が24時間である」というのは、時間というミュートス(神話)にもとづくロゴス(論理)、ミュトロギ―であって、それ自体がフィクションなのです。

世界中のほとんどの人は、時間の存在を信じています。理由は、信じた方が生活に便利だということです。ただ、その信じ方は、時と所により、人によって、さまざま。なかでも、「過去から未来に向って飴の様に延びた時間」(小林秀雄「無常という事」)と評された西洋近代の時間は、現在に至るまで全世界を覆いつくす絶対的なフィクションとして、人間を支配しつづけています。そういう時間が「つくりもの」「神話」であるといったところで、誰からも相手にされないのは、それが抵抗できないほど強力に人を支配する神話であることを物語っています。それが神話であることを人々に知らせる一つの方法は、それに対抗できる別の神話を呼び出して、比較すること、つまり一方を他方によって〈相対化〉することです。この本の中で、私は西洋近代の時間観念を相対化する戦略を、二つ立てました。一つは、「時間」一般ではなく、「瞬間」を問題にすること。もう一つは、西洋的瞬間に東洋的刹那を対比させる――オビの謳い文句のとおり――こと、この二つです。理由を説明します。

「瞬間」がきわめて短い時間であることは、誰でも知っています。しかし、それがどれだけ短いのかを言うことはできません。瞬間の長さ(短さ)を測ることはできない。瞬間が測定不可能だと言っても、ゼロではないということは、誰もがかけがえのない体験として瞬間を生きている、という事実から明らかです。瞬間は、ゼロに近い時間だとみなされているけれども、確かに存在する――そこから、瞬間は時間のアトムではなく、永遠のアトムであると主張したキルケゴールのような人もいます。こういう不可思議な「瞬間」が、一種のミュートス(神話)であるということは、おそらく認められるでしょう。

「瞬間」は時間の「点」として、時間全体の要素であるというのが、西洋における時間観念です。本書ではそれを、ミュートスである瞬間にロゴス(論理)が加わったミュトロギーであるとみなします。私たちが「時間」としてすぐ思い浮かべる直線的時間と点的瞬間のセットは、ロゴス化されたミュートス、つまりミュトロギーを表します。本書「第一章 瞬間のミュトロギー」は、古代ギリシアのプラトンから近代のカントまで、西洋哲学が「瞬間」を含む時間をどのように論理化していったか、の歴史を明らかにしたものです。

しかし、西洋における「瞬間のミュトロギー」は、絶対的ではありません。東洋の仏教には、「瞬間」と似ているものの、性格が大きく異なる「刹那」というミュートスがあります。刹那は、きわめて短い時間を意味する、その点で瞬間によく似ています。しかし、瞬間が「点」のように時間の要素であるのとは違って、刹那はそれだけで完結する時間の全体を意味します。それが意味するのは、世界は刹那ごとに生まれ、かつ滅する、という「刹那生滅」(刹那滅)の思想です。ここには、時の流れがとぎれることなく、いつまでも続いていく、という西洋的な時間とは異なる思想があります。時間の異なりは、そのままそれを生きる世界の異なりを表わしています。西洋世界と東洋世界とは同じでない。その事実を、「瞬間」と「刹那」が物語っています。瞬間と刹那は、二つのミュトロギーとして、西洋と東洋を代表します。それらを比較することによって、近代世界の行き詰まりを打開したいという思いから、この著書が生まれました。講義はここまでとして、後はお二人と議論しましょう。

 

時間は神話か?

猛:「ミュートス」の説明として、最初に「あの世」を例に出されました。僕は、来世とか天国・地獄とかいうのは、神を信じさせるためのつくり話だと思っているので、それが神話であるというのは、よく解ります。それに対して、時間が神話だと言われることには、合点がいきません。神を信じるか信じないかは、人によりさまざまで、「受け容れるか拒否するか」は自由です。しかし時間は、いまも僕たちがそれに従って対話しているように、誰もがそれを信じて受け容れているものです。同じ「神話」という言葉で、「あの世」と「時間」をひとくくりにされることには、納得がいきません。

直:そうですか。君らしい反論だと思います。中道さんは、いかがですか。

中:私の方は、先生が「時間は神話である」とおっしゃったことに驚きました。衝撃が走った、と言っていいかもしれません。というのも、サラリーマン生活を長年続けてきたあいだ、自分の生き方がフィクション――確か、そう言われました――に支えられている、という考えを抱いたことがなかったからです。

直:「衝撃」の中身を、もう少し語っていただけますか。

中:先生が担当されていた「都市の風土学」の講義[関大大学院の自由科目「人間環境学研究」の別称。一般社会人にも開放する形式で運営された]に参加させていただいたのは、哲学を学ぶことで、仕事一筋の人生にはない気づきが得られるかもしれない、という期待からでした。「時間」についての先ほどの一言は、そういう期待に応える言葉で、ああそうか、と目からウロコが落ちたような気がしました。

直:そうですか。それはそれとして、先ほど「チンプンカンプン」と言われたことが、気になります。そうおっしゃったのは、どういう点でしたっけ。

中:「ミュトロギーをテコにして形而上学を乗り越えようとした」というのが、何を意味するのかということです。

直:そう、その点でしたね。それは、こういうことです。「ミュートス」というのは、人生における大事な事柄について、人間が考えついたこと。時間がどういうものかを直感的に言い表す言葉が、それです。第二章で挙げたパルメニデスの「たちまち」を覚えていますか?

中:ええ、動から静へ変化するには、「たちまち」に入り、「たちまち」から出なければならない(40頁)、と書かれているアレですね。面白い言い方をするなあ、と思いました。

直:学生時代にご指導をいただいた辻村公一先生(故人)が、「瞬間」を問題にするなら、「ト・エクサイプネース」(「たちまち」のギリシア語)について考えたまえ、と助言された記憶が、いまもずっと残っています。

猛:でも、それって形而上学の一種じゃないんですか。パルメニデスと言えば、エレア派を代表する哲学者ですから。

直:そう思われるかもしれない。しかし、言われてみればそのとおりだ、として受け容れるか、ナンセンスだとして拒否するか、どちらかというのが、ミュートス。そういうミュートスに理屈をくっつけることで成り立つのが、ミュトロギ―です。

中:ということは、ミュトロギーは、ふつうの人間が考えついてもオカシクないようなリクツだ、ということでしょうか。

直:まさに、そのとおり。この世界のあり方を目に見えない(形を超えた)存在、神などによって説明するのが、形而上学だとすると、そういうやり方を拒絶して、ミュートスの言葉によって人間の経験を説明しようとするのが、ミュトロギーの立場。三木清は、「三木人間学」と言われるように、人間主体を中心にして形而上学を乗り越える哲学をつくろうとしたのです。

 

師弟を結ぶ絆

猛:僕が知っているのは、西田幾多郎の弟子の中で、マルクス主義に傾倒した三木や戸坂潤のような「左派」が、戦時中に官憲に弾圧され、二人とも獄死したという事実です。どうして、そんな運命を辿らなければならなかったのか……

直:この本の中でもふれていますが、三木は最後まで西田の忠実な弟子。西田も三木を最愛の弟子として評価していました。不思議だと思いませんか。

猛:とおっしゃるのは、どうして?

直:西田は、マルクス主義に近づくことはなく、戦争中は、どちらかと言えば右寄りの保守的な立場。イデオロギー的に言えば、敵対してもおかしくない間柄です。

中:その話を伺って、私は不思議に思いました。いわば、「右」の先生と「左」の弟子とが、たがいに認め合う間柄なんて、ふつうには考えられないことですから。

直:もしも三木が、マルクスやレーニンのご託宣をそのまま繰り返すだけの教条主義者であったなら、西田との絆が続くことはなかったでしょう。本の中で説明したとおり、マルクスの弁証法と西田哲学の「無の論理」とを結びつける新しい人間学を、三木はめざしていました。二つの思想は、水と油の関係ではなく、一つに結びつけられるという確信が、三木にはあったのです。

中:お恥ずかしい話ですが、いまおっしゃった西田と三木の関係を説明された第六章が、読めていません。そのポイントをお聞かせ願えませんでしょうか。

直:なぜミュトロギーか、という本質にかかわる点なので、重ねて説明します。西田哲学の根本原理として、「絶対無」が挙げられています。西洋の形而上学で《神》や《イデア》などとして特別に扱われる原理を、西田は「絶対無」としたのです。それは、《神》なんてものを前提しなくても、世界のことは説明できるという考えですから、一種の無神論であって、「反形而上学」の立場だといえる。しかし、そういう含みがありながら、西田は形而上学を脱し切ることができない。「絶対無の自己限定」なんていう、妙チキリンな言い回しを用いることによって、「無」がもはや無ではなく、いわば《神》に近い存在であるかのような印象が生じてくるのです。中道さん、ここまでの説明は理解されましたか?

中:ハイ、何とか。「無」でありながら、「自己限定」が言われるのは変だ。そういうことですよね。

直:そのとおり。西田が形而上学から離れる「無の論理」の発想に立ちながら、伝統的な形而上学にとらわれつづけているのを見ていた三木は、「無の論理」を徹底することで、もはや神が支配するのではなく、人間が主体として世界をつくっていく、という論理をうちだそうとしたのです。

猛:そこで必要になったのが、革命をめざすマルクスの思想、「弁証法」である、ということでしょうか。

直:さすが猛志君、こちらの言いたいポイントに先回りしてくれましたね。おっしゃるとおり、人間社会で抑圧され搾取される労働者階級が、立ち上がってブルジョワ階級を打倒する、という左翼革命の思想は、世界の根本原理に絶対者を置く形而上学と絶縁しなければ、力をもちません。そのための手がかりになるのが、西田の「無の論理」だったわけです。

中:なるほど、いまのご説明で、少しハッキリしてきました。ですが、もし神がいなくなった場合、世界の動きはどう説明されるのでしょう。神に頼らなくてもいい世界、という考えは、うなずける気がするのですが……

直:ポイントは、「無からの創造」です。神ではなく、人間が考え出した基本的なミュートスと、それが肉付けされたミュトロギー。これらがいかに成立し、発展するかを説明する論理があれば、もはや形而上学に用はない、ということになります。

猛:「無からの創造」は、中世哲学史の講義に出てきました。何もないところから、神の創造が行われるという意味であったと記憶しています。いま先生がおっしゃったのは、そういう神学的な考えとは違う思想ですね。

直:「無」から何かを生み出す働きを、三木は「生産的構想力」と称しています。「構想力」というのは、想像力、イマジネーションのこと。カントから考えついたこの思想を具体化するために、三木は『構想力の論理』に取りかかりましたが、ご承知の事情により、完成しませんでした。

 

〈かたちの論理〉へ

猛:今日、最後にぜひともお伺いしたいことがあります。『瞬間と刹那』が、単なる時間論ではなく、ミュトロギーの書であることが、さっきからの説明で判りました。先生自身が、三木の考え出したミュトロギーの立場を受け継ごうとされている。そういう理解で、よろしいでしょうか。

直:そうとってくださって結構です。考え方としては、三木と同じく非形而上学的な「無からの創造」として、あらゆる文化を考えようとする立場をとります。それとあわせて、彼の引き受けたもう一つの課題に答えることをめざしています。

猛:「もう一つの課題」とは、何ですか。

直:〈かたちの論理〉を仕上げることです。三木が自身に課した「形の論理」は、彼が『構想力の論理』で追究した西洋哲学の応用版という形式では、仕上がらなかった。理由は、早死にしたためではなく、原理的に不可能な企てだったから、というのが私の理解です。

猛:たしか、『邂逅の論理』第七章でも、そのことを書かれていたと思いますが、ここでもう一度、そのポイントを説明してください。

直:「形の論理」を追究した三木と西田が問題にしている「形なき形」は、「形」から区別されるかぎりでの「型」。「形」から「型」を区別したうえで、「型」から「形」が生まれ、「形」から「型」がつくられる運動は、西洋哲学の論理では説明することができません。

猛:なぜでしょうか。僕はこれまで、西洋哲学の論理で取り扱うことができないテーマはないと信じてきました。

直:「形」と「型」のように、二つが別々でありながら、同じでもあるような「不一不異」――龍樹の挙げた「八不」の一つです――の関係を、二元論にもとづく西洋の「ロゴスの論理」では扱うことができないのです。

中:山内得立先生による「レンマの論理」は、そのことを明らかにされた、ということでしょうか。

直:そうです。山内の偉大な発見をベースにして、その上に三木や西田が着手した「形の論理」を自分流にアレンジした〈かたちの論理〉を仕上げるということが、偉大な先輩の後を追いかける私の、最後の務めだと考えているのです。

猛:三木や西田の求めた「形の論理」と先生の〈かたちの論理〉とは、何がどう違うのかを教えてください。

直:今回問題にした「ミュトロギー」は、〈ミュートス(神話)+ロゴス(論理)〉を意味する西洋的な概念です。そういう西洋的な思考の枠組みをいったん壊して、東洋的な思考を取り入れることのできる仕組みをつくりたいと考えています。そういう柔軟な発想は、西田にも三木にもなかった。というより、そういう仕方で東西の垣根を乗り越えられる条件が、当時の日本の「哲学」には整っていなかった、と考えられます。

猛:東西の垣根を乗り越えるというのは、すごく魅力的なポイントだと思います。何か、そういう取り組みを考えておられるのでしょうか。

直:今月の「新着情報」に紹介している「〈道のロゴス〉試論」は、そういう取り組みを自覚して書いた論文です。〈道のロゴス〉という表現が適切かどうか、まだ確証はもてませんが、〈道〉は中国思想におけるミュートスでありながら、東西文明の違いを乗り越える根本語ではないかと考え、そこからさまざまな思想の〈型〉が生まれてくる経緯を考えようとしています。その姿勢自体は、「二つのミュトロギー」を追究した『瞬間と刹那』の狙いと変わりません。

猛:分かりました。そういうことなら、このさい「〈道のロゴス〉再考」を読んでみることにします。

 

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