毎月21日更新 エッセイ

対話の周辺(5)――対話における〈中〉

 新著刊行

中道さん:このたびは、『〈中〉のロゴス――東アジアの目から』(萌書房)のご出版おめでとうございます。各章の後半に登場させていただいた私にとっても、対話が本になったことは、感慨深いものがあります。

猛志君:先生の本に登場させていただくのは、『〈出会い〉の風土学――対話へのいざない』(幻冬舎、2018年)以来です。講義の終わった後に僕たちから質問するような形式は、前と同じですが、その頃よりも対話の質が若干向上したのかな、という気がします。

直言先生:もしそれが君の実感だとしたら、その理由は、お二人がこれまで対話に熱心に参加してくださったことで、いろんなテーマに対応するキャパシティが上がったからではないでしょうか。

中:そうおっしゃられると、私などはお恥ずかしいかぎり。先生の学問についていけるだろうか、といつも戦々恐々の気分でした。

直:どうしてどうして。こちらの方も、お二人の関心にフィットする話題が提供できるか、と毎回悩んでいます。今回のトピックは、前回議論した内容を承けて、そこでふれることなく終わった論点を一つ補う、といった性格のものです。

中:前回にした議論を補うトピック、それはどういうものでしょうか。

直:新著のテーマ〈中〉と対話との関係です。前回、あなたは『邂逅の論理』(春秋社、2017年)の〈邂逅〉という問題が、「対話」のテーマにつながっていることを指摘された。今回は、その流れとは別に、〈中〉の問題が「対話」とどう関係するのかを確かめようと思います。

中:ということは、12年前に書かれた『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)から〈中〉というテーマ、〈対話〉というテーマが、分かれて出てきた。この二つのテーマが、どこでどうつながるのかを考えるということですね。承知しました。

直:では、12年前の『〈あいだ〉を開く』が、何を問題にしたのかを振り返ることから始めましょう。この本のことをよく覚えておいでのあなたにとって、『〈あいだ〉を開く』が論じた中心テーマは、何だったでしょうか。

中:キャッチ・コピー式に言うなら、「二元論が閉ざした人と人の〈あいだ〉、人と自然の〈あいだ〉を開く」だったと思います。

直:そのとおり、それで間違いありません。猛志君にとっては、どうでしたか?

猛:二元論が閉ざした〈あいだ〉を開く、ということよりも、二元論に根ざした〈欲望の論理〉を超えなければならない、という呼びかけの方が、僕の印象に強く残っています。同じことかもしれませんが。

直:〈あいだを開く〉と〈欲望の論理を超える〉とは、同じ一つのことです。復習の意味で訊きますが、二元論が〈欲望の論理〉の根柢にあるというのは、どういうことでしょうか。そういう論点は覚えていますか。

猛:細かい議論は忘れましたが、人間は自然を支配するように他人を支配し、他人を支配するように自然を支配する、という「二重の支配」が、二元論によるものだと書かれていたことが、頭に残っています。

中:たしか、意識の上での二元論と無意識のリビドーとが結びつくことで、欲望の増殖にハズミがつく、という説明もされていたように記憶しますが、別の本だったでしょうか。

直:その説明は、三年後の『邂逅の論理』で提示したものです。『〈あいだ〉を開く』の時点より後に、欲望のメカニズムを掘り下げて追及したことの結果です。いずれにしても、2014年の時点では、二元論を超えることと、〈あいだを開く〉こととは、同じ一つの課題を意味していたわけです。

中:『邂逅の論理』では、その課題に答えるための第一歩として、〈邂逅〉つまり〈出会い〉の問題が取り上げられました。そう受けとってよろしいでしょうか。

直:ええ、そのとおりです。なぜかと言えば、人と人が出会うことによって、それまで閉じられていた〈あいだ〉が開かれる、という確かな事実があるからです。

中:出会うことは、〈あいだ〉を開くことであると。ですから、〈あいだ〉を開くためには、〈邂逅〉というテーマに向き合わなければならない。読んでいて胸に響いたのは、この点です。

直:そう、そのとおり。しかし、そこでは〈邂逅〉の重要性は強調されても、出会うために何をすればよいか、という実践に関する指針はうちだすことができませんでした。先月あなたが指摘されたように、「対話」というテーマがそこから浮上する、という流れが出てきました。

中:その流れから、対話論が生まれる運びとなるわけですね。しかし、対話論への流れに先んじて、『〈中〉のロゴス』が刊行されました。これは、どうしてでしょうか。

 

 〈あいだ〉から〈中〉へ

直:〈あいだ〉をいかにして開くか、という実践の課題に向かうよりも前に、〈あいだ〉に関する理論的な究明が必要だったからだと。いまなら振り返って、そう言えるかもしれません。

猛:哲学に携わる僕のような学生には、実践よりも理論が優先するという先生の行き方は、身近に感じられる気がします。

直:そうですか。ともすると頭デッカチになりがちなのが、研究者の性分。もうすぐ終わる私ではなく、若い君には、そうならないように釘を刺しておきます。

中:実社会でもまれ続けてきた私のような者からすると、ややこしいトラブルに出会うたび、スカッとした答えが出てほしいな、という期待が生じてきます。つまり、理論にあこがれる部分が大きいわけです。

直:なるほど、そういうことでしたか。で、『〈あいだ〉を開く』は、そういうご期待に応えるところがあったと。そう受けとっても、よろしいのですか?

中:ええ、大いに。でも、先生は、〈あいだ〉をテーマに一定の理論的解明を果たされた。にもかかわらず、今回の著書では、その地点から歩を進めて、〈中〉に焦点を合わせた考察を展開されています。〈あいだ〉から〈中〉へ、というテーマの移行が、どうして起こったのか。そのあたりの事情を、お聞かせいただけないでしょうか。

直:新著の中で説明していることですが、この機会に要点をおさらいします。中道さんは、聞き役になってください。

中:かしこまりました。復習するチャンスだと思って、ご説明を承ることにします。

直:言葉についてのこだわりから、山内得立の唱える「中の論理」に対する疑いが生じてきました。三年前のことです。

中:「中の論理」は、『〈あいだ〉を開く』では二元論を批判する考え方として、肯定されていたと思います。二元論は、〈あいだ〉を閉ざす。それに対抗する武器となるのが、「中の論理」。だから、〈あいだ〉を開くためには、〈中の論理〉が不可欠であるというリクツが説かれていたと思います。いったい、「中の論理」のどこに疑いを抱かれたのですか。

直:二元論を超えるとされる「テトラレンマ」(四つのレンマ)の形式そのものが、二元論を超えられない仕組みになっていることに気がついたのです。こう言って、お解りになるかなあ?

中:どういうことをおっしゃっているのか、よく解りません。

直:〈中〉の定義としてよく引用する『新しい道徳の問題点』(理想社、1958年)の一節では、「中とはただ二つのものの間にあることをではなく。それが二つのものの孰れでもなく、そしてそれ故にそれらの孰れでもあり得ることを意味する」とされています。お判りのように、「二つのもの」がまずあって、そのうえで、その「いずれでもなく」「いずれでもありうる」というのが、〈中〉のあり方だと言っています。

中:その定義は、先生のご本でおなじみのものです。二つのもののいずれでもないというのは、第三レンマの「両否」に相当し、いずれでもあるというのは、第四レンマの「両是」に相当します。

直:「両否」も「両是」も、文字どおり「二つのもの」があることによって成り立つ判断ですから、その前提は、二つのものを分ける二元論になる。二元論がなければ、テトラレンマとしての「中の論理」は成立しない。このことに気がついて、ハッとしたわけです。

中:二元論を超えるはずの「中の論理」が、実は二元論によって支配されている、だから、二元論を超えられないと。そういうことに、気がつかれたということですね。で、それからどうされましたか?

直:二元論によって制約されない「中の論理」というものは、ないかと考えました。探してみても、そういうものは見つからない。とりわけ西洋哲学で言うところの「論理」は、〈中〉を認めない「排中律」に副っていますから、その流れの中に「中の論理」が見つかるはずはないのです。

中:ところが、もう一つの「中の論理」が、中国思想の中に見つかったと。そういうことが、『〈中〉のロゴス』第一章に書かれていますね。

直:そうです。山内は、儒教の古典である『中庸』の中に「中の論理」が表現されているということを、『新しい道徳の問題点』で語っています。

中:けれども、それは〈中〉の思想すなわち道徳であって、「論理」ではないと。そういう見方が、『ロゴスとレンマ』でとられるようになったということですね。

直:そこまで理解されているのなら、余計な説明の必要はない。要するに、〈中〉と〈あいだ〉とをゴッチャにして考えるのはやめ、〈中〉そのものを主題化しなければならない、という反省が生じてきた。これが、〈あいだ〉から〈中〉へと視点を移動させたことの理由です。

 

 〈中〉から〈あいだ〉へ

中:〈あいだ〉から〈中〉へと焦点が移されたことの意味は、だいたい分かりました。それによって明らかになったことは、何でしょうか。

直:〈中〉そのものに、〈あいだ〉にはない意味が含まれているという事実です。あなた方がご存じのように、〈中〉が意味する初発性と的中性。これらの意味は、〈あいだ〉にはありません。

中:ほかにもう一つ、「中間性」がありましたね。

直:「中間性」は、〈あいだ〉につうじるポイントなので、後回しにします。「初発性」が何だったかを、猛志君、覚えていますか?

猛:「喜怒哀楽の未発……」つまり、感情が内に動き出したものの、まだ外に現れない状態であると。『中庸』第一章から、山内が取り出した意味だとされています。

直:君の優秀な記憶力に乾杯!それでは、「的中性」は?こちらについても、説明してもらえるでしょうね。

猛:続きの箇所で、「発して皆な節に中(あた)る」つまり節度にかなった「中和」の状態であること。山内は、これが〈中〉の三つの意味のうち、最も本質的な意味であると説いています。

直:完璧!何も言うことなしです。初発性・的中性の二つは、〈中〉にあって〈あいだ〉にはない。このことが、『〈中〉のロゴス』ではじめて判った事柄です。

中:〈中〉が意味する初発性・的中性については、猛志君のご説明でハッキリしました。で、もう一つの中間性ですが、これは〈あいだ〉につうじるとのこと。どういう受けとめ方をすれば、よいのでしょうか。

直:『中庸』に関して言えば、中間性を二とおりに区別することができます。一つは、内なる感情が外に表れるとされるように、〈内〉と〈外〉の両方にまたがるというあり方です。もう一つは、つづく第二章で説かれているように、多すぎも少なすぎもしない「過不及の中」というあり方です。われわれが「中庸」からイメージするのは、こちらの意味の方です。

中:中間性を二とおりに区別するということは、『〈中〉のロゴス』では書かれなかったように思います。どうして区別されなかったのですか。

直:しいて区別しなくても、二つのものに関係するという点では、同じだからです。〈内〉と〈外〉の関係、過剰と不足の関係、異なる二つのものに関係するという点は、どちら同じです。

中:言われてみれば、たしかにそうですね。ということは、中間性というものは、二つのものの「中間」のあり方であると。そういう点が確認されたということになりますか。

直:そうなりますね。〈中間〉から〈間〉を切り離して、〈中〉そのものを考えようとした。にもかかわらず、〈中〉それ自体に〈あいだ〉と結びつかざるをえない意味が含まれている。めぐりめぐって、このことに思いあたったと。そういう結果になったわけです。

中:こちらの言い方をさせてもらうと、いったん〈あいだ〉から〈中〉へと焦点が移された。しかし、その〈中〉が、ふたたび〈あいだ〉に結びつくことになったと。そう申し上げても、差し支えないでしょうか。

直:そのとおりです、間違いなく。ただ、こうした反省の過程をつうじて、〈中〉と〈あいだ〉を分けて考えることのなかった以前には、考えることがなかった点について、新たな気づきが生じました。すなわち、中間性は媒介性であるという発見です。「第六章 中道のゆくえ」で、この発見を語っています。

中:第六章は、最後の章。そこまで来て、いま言われたような〈発見〉が生じた、ということですか。

直:そうです。書き始めたころ、「第一章 〈中〉への問い」を書いている最中は、「媒介」という問題には関心がありませんでした。それが書き進んで最後にかかる時期になって、中間性を媒介性に読み換えるアイディアがふと浮かんできたのです。

 

中間者と媒介者

中:中間性とは媒介性である。これが先生の発見された事実だということですが、中間性はともかく、媒介性ということが何を意味するのか、私のような素人にはよく分かりません。

直:「媒介」は、日常会話ではめったに使われない哲学の用語ですから、分からないとおっしゃることは無理もない。その言葉を一般の人につうじるように説明することは、哲学者の務めです。ということで、猛志君、君の出番です。

猛:エッ、僕ですか。いったい何をすればいいのですか。

直:君にとって、「媒介」は目新しい言葉ではないでしょう。中間性が媒介性であるという私の考えについても、理解はされているはずです。歳は若くても、哲学に関しては、君の方が中道さんより先輩格。という次第で、同じ道の先達として、媒介性の意味を中道さんに説明してください、君自身の勉強だと思って。

猛:分かりました。やってみます。こちらの説明がオカシイと思わる場合は、直していただけますね、先生?

直:こちらも責任逃れはできません。教師として必要を感じたなら、横から口を出すことにします。

猛:「媒介」は、英語ではmediation。〈中〉を表すmediumに関係する語として、「二つのものの中間に立つ」という意味を表します。辞書的意味では、「調停、仲裁、取り次ぎ」ということになります。

中:何だ、そんなことですか。それでは、「媒介」は「仲介」と同じことになるじゃありませんか。先生がスローガンにされている〈あいだを開く〉ということが、そのまま「媒介する」ということなのですか。

直:言葉の意味としては、「媒介」と「仲介」に違いはありません。でも、哲学の世界では、「媒介」をよく用いるけれども、「仲介」という言い方は耳にしません。それはどうしてか。猛志君、何か思い当たることはありますか?

猛:さあ、どうでしょうか。「仲介」は、調停や仲裁と同じことで、人間同士の関係について用いられる言葉です。それに比べて「媒介」は、人間同士の関係については使われない。先生の本でよく問題にされている〈人と人のあいだ〉についても、「媒介」という表現は当てはまらないという気がします。

直:ということは、人と人ではない、何かと何かの関係が問題だということになりませんか。

猛:たしかに。でも、何と何の関係について「媒介」が成立するのか、と訊かれてもチョット……

直:「対話の周辺」シリーズの第2回「ソクラテスとプラトン」の最後に近いところで、「〈道〉としての哲学」を論じました。それを思い出してください。そのあたりで、ソクラテスが「媒介者」だという議論をしたのですが、覚えていませんか。

猛:それを言われて、急に思い出しました。ソクラテスが、哲学という〈道〉を歩む先導者だとして、その位置づけが「媒介者」だと言われた。そのことを言われているのですね。

直:思い出してくれましたか。ソクラテスが先達の役割を務める〈道〉。そこで「媒介者」は何を媒介するのか。君の考えを聞かせてくれませんか。

猛:二つのものを関係づけるはたらきが「媒介」だとすると、二つのものの一方は「人」、つまり修業者だと思います。もう一つは、人ではない何か、じゃないか。ウーン、それをどう言ったらよいか……

中:チョット私に言わせてください。そのとき先生は、〈道〉には終わりがない、ということをおっしゃった。しかし、見えない先が、道の〈目標〉であるという意味のことも言われたと記憶します。ということは、ソクラテスは、同じ道を歩む先達として、後進の人々をその〈目標〉に結びつけようと努めたと。

直:あなたはスゴイ。ソクラテスの行った「媒介」が、人間を〈道〉の先にある、見えない目標に結びつける行為であったということを、見事に言い当てられました。

猛:いまの考えを聞いて、「媒介」は人と人の〈あいだ〉をとりもつことじゃなく、人を究極の目標に導くはたらきであるということが、ナットクできました。

中:中間性は媒介性であるという点について、自分なりの考えを申し上げましたが、先生と猛志君にお認めいただいたのは、たいへんうれしいことです。

直:〈中〉の三つの意味のうち、「中間性」が何であるかについて、これまでの議論から、それが「媒介性」であるということが明らかになりました。〈中〉についての理論的な追究について、結論が出たと言ってもよいわけです。このことは、理論的な成果であるとともに、〈あいだ〉を開く実践の方向を指し示しているということを、たぶん理解されたと思います。いかがですか、お二人?

 

 二種の実践

中:中間性とは媒介性である。このことの意味が、ただいまのご説明でよく解りました。くどいようですが、確認させてください。ふつう「中間性」として考えつくのは、「AとBのあいだ」がそうであるように、二つのものの中間ということですが、先生が言われる「媒介性」は、それとは違った意味ですね。

直:ええ、ふつうに言われる〈中間〉は、「過不及の中」が過剰と不足のちょうど真ん中を意味するように、量的平均値を表します。「中庸」が、「程々」とか「適当」といったニュアンスで受けとられているのは、そういう理解によってです。

中:しかし、「媒介性」には、そういう量的なニュアンスは含まれない。というのも、異なる二者を結びつける「仲介」が、媒介の本質だからです。そう私は受けとったのですが、それでよろしいでしょうか。

直:そのとおりです。拙著では、〈中〉そのものを追究する手続きをとったことで、〈中〉と〈あいだ〉とが結びつく〈中間〉が、〈媒介〉を意味するという事実を発見することができました。この発見は、『中庸』のような中国の古典を読むだけでは、生まれなかったと思います。

猛:そのことに関して、僕からも言いたいことがあります。「媒介」は、中国にはないとされる弁証法の用語です。ということは、西洋哲学の概念を取り入れることで、中間性を媒介性に読み換えることが可能になった、ということではないでしょうか。

直:いかにも君らしい、鋭いツッコミです。中国の哲学では、「天」と呼ばれるような宇宙全体と「人」とが、直接つまり無媒介に結びつく。異なる二つの次元が、ストレートに関係する図式ですから、そこには〈あいだ〉が存在しない。異質な二つのものを関係づける論理としての弁証法が、存在しないのです。

中:しかし先生、素人がクレームをつけるようで恐縮ですが、中国では「天地人」として、三つの次元を区別するようです。天と人の中間に「地」が存在する。それが〈あいだ〉に相当するのではないでしょうか。

直:おっしゃるとおり、中国には二つのものを分ける二元論ではなく、三つのものを立てて考える三項図式が一般的です。天地人はその典型。中国で発達した仏教のうち、天台宗では、空・仮(け)・中の三諦(さんたい)を区別して、そのうちの〈中〉を重視しています。ですが、そういうムズカシイ話に立ち入るだけの用意は、いまの私にはありません。そう断ったうえで、私の考えを申し上げるなら、中国――何ならインドも含めて――には、〈中〉を重んじる思想がある。しかし、その〈中〉には、矛盾を前提する弁証法のような「媒介」の意味は含まれないのではないかと――そう言い切るだけの自信は、まだないのですが……

猛;ということは、三項関係における〈中〉と、矛盾する二者のあいだの「媒介」とは違うのだと。そう考えるべきなのでしょうか。

直:そういう考えは、『〈中〉のロゴス』の中では取り上げていません。現時点では、あくまでも仮説としておいてください。

猛:了解しました。考えてみます。

中:〈中〉についての理論的反省と〈対話〉の実践、この二つがどう結びつくのかが、今回のテーマでした。結論としては、どういうことになるのでしょうか。

直:そうでした。媒介性として中間性を把えることによって、理論的な意味の〈中〉を、実践の次元における「媒介」へと読み換える試みを企てました。実践の代表例は、〈道〉。それと「対話」とを一つの線上に置く、というアイディアが閃きました。拙著第六章から、引用します。

 

「中間性」とは、つまるところ「媒介性」にほかならない。ここまでの反省をつうじて、媒介が問題になる局面が二つ挙げられたことになる。一つは、〈道〉を極めようとする修業の行程。武道の修業に典型的な心身のトレーニングでは、〈かたち〉と〈かた〉とがたがいに媒介し合う関係によって、〈かたち-かた〉複合が生成発展する。……もう一つは、対話に代表される社会的実践の局面である。……求道と対話、一見無関係と映る二種の行為は、いずれも〈あいだ〉を開くための必須条件である」(『〈中〉のロゴス――東アジアの目から』萌書房、2026年、217-218頁)。

 

 いかがですか。〈道〉の修業と対話とは、「媒介」を共通項とする点で、本質の等しい実践であるということを主張しています。

中:確認の意味で、お訊ねします。武術や芸能は、〈道の文化〉を代表します。その世界で媒介者となるのは何でしょうか。

直:生身の存在としては、師範・師匠と呼ばれるその道のベテラン、モデル。人格的存在は、入門者をその道の目標へと媒介します。それに代わるものとして、先達が残したその道のマニュアル(手引書)を挙げることができます。人格モデルが発する口伝えの教え、書き物に移された修道に関する教訓、これらはいずれも、〈道のロゴス〉と言えるものです。

中:それじゃ、「対話」の媒介者はどういう存在でしょうか。

直:本シリーズの二回目で、三種の対話モデルを示しました。それを思い出してください。

中:①自己内対話、②対面型対話、③非対面型対話、この三つが挙げられたと記憶します。そのいずれについても、媒介が成立するということでしょうか。

直:対話の基本は、前から言っているとおり、「三人対話」です。二者の〈あいだ〉に割って入る第三者が、媒介者となります。

猛:「自己内対話」は、自分と〈もう一人の自己〉との対話です。そこには二人しかいません。どう考えても、三人対話にはならないと思います。

直:そういうツッコミをされると答えに窮しますが、①はひとまず横に置くことにして、②③に媒介者イコール第三者が介在することは、お分かりでしょう。

猛:②であれば、その場に居合わせる別の誰かが媒介者。③の書物との対話なら、自分と本の著者とを結ぶ研究者や解説書などが、媒介者の役割をすると。そのことを前に教えられました。

直:間違いありません、そのとおりです。元に戻って、「自己内対話」が「二人対話」であって「三人対話」ではない、と言われた件。〈もう一人の自己〉との対話は、必ず外に向かうというのが、私の考えです。

猛:自己内対話が外に向かうって、何のことですか。他人と言葉を交わさないから、「自己内対話」というのではないですか。言われていることの意味が、僕には理解できません。

直:「対面型対話」であれ、「非対面型対話」であれ、あらゆる対話を成り立たせるための条件が、内なる〈もう一人の私〉との対話であると考えてください。自己内対話は、必然的に外に向かうのです。目の前にいる他人との対話は、内なる自己を人数に数えるなら、すべて「三人対話」です。君がイメージしているであろう哲学者の思索の場合でも、内なる自己との対話をつうじて、原稿用紙の向こうにいる他者との「三人対話」であると考えなければなりません。

中:「対面型対話」と「非対面型対話」、そのどちらも「自己内対話」を含むから、「三人対話」であるとおっしゃるわけですね。となると、うらがえして言えば、自己内対話そのものが、実体としては「三人対話」にほかならない。こういうことになるわけですね。

直:そのとおり。自己内対話を、文字どおり孤独な営みとせず、外へと開くきっかけが〈もう一人の自己〉だとするなら、その存在こそ媒介者であると考えられることになります。

中:中間者が媒介者であると言われたことの意味が、大体つかめたような気がします。ありがとうございました。

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