毎月21日更新 エッセイ

あいだを考える(3)――人と人の〈あいだ〉

 先月のエッセイでは、〈個と全体のあいだ〉をテーマとして、個人主義でも全体主義でもない、その中間の行き方があるということを、「志」という言葉を引いて説明しました。結論として、〈中間〉とか〈あいだ〉に身を置くということが、特別変わったことではなく、ふつうに生きていれば、そういう立場をとらざるをえない場面があることを、確認しました。そのことを私たちは、誰でも経験的に知っています。にもかかわらず、対立する二つの立場のいずれかを選ぶように、心理的プレッシャーをかけられている。これもまた事実です。その底にあるのは、近代世界を動かしてきた二元論、異なる二つのものを根本的に区別して、その中間を認めない考え方であるということを申し上げました。〈あいだを開く〉というのは、ひとまずそういう二元論の縛りから自由になって、率直に物事を見ることである――そうしたこちらの意を汲んでくださるコメントが、読者から寄せられたことは、筆者として非常に意を強くするものでした。

 

人と人の〈あいだ〉

 その続きとして、今月ご一緒に考えてみたいと思うのは、〈人と人のあいだ〉、平たく言うなら、人間関係はいかにあるべきか、という問題です。わざわざ〈人と人のあいだ〉と言って、「人間関係」とは言わない、そのことに何か理由があるのか。そう疑われる方もおいででしょう。そうです、それには理由があります。〈あいだ〉と言って「関係」と言わないのは、「関係」が、最初から区別され分けられた二つ(以上)のものを前提する、という事情があるためです。

AとBの「関係」という場合、AとBは最初から別のものとして分けられています。つまり、二つ別々のものがあって、それらが何らかの関係に入る、というふうに考えられる。それに対して、AとBの〈あいだ〉というとき、二つのものは確かに区別される――現に、A、Bと呼び分けられるのですから――けれども、同時に分けられない、一体である、という意味があります。分けられるとともに分けられない、という矛盾したあり方をもつというのが、AとBの「関係」ではなく、〈あいだ〉という言い方を用いるさいの、私の前提です。二つの語の違いが、これだけでお判りいただけるでしょうか。これまで私が用いてきた、哲学っぽい言い回しに通じた方なら、ハハーン、「関係」は二元論、〈あいだ〉は非二元論の用語、その違いだな、というふうに見当をつけられるかもしれません。そのとおり、それに相違ありません。

私がかつて『あいだを開く――レンマの地平』(世界思想社、2014年)を書名に掲げ、その本の中で、山内得立(やまのうち とくりゅう)という日本人哲学者の説く「レンマ的論理」を強調したのは、現代社会の中で誰もが気にかける「人間関係」を、〈人と人のあいだ〉として見なおし、〈あいだを開く〉方向に意識転換すべきである、という強い思いがあるからです。ついでに、哲学的な関心からこのエッセイを読まれる方に申し上げますが、私が「反二元論」であることの最大の理由は、二元論が〈人と人のあいだ〉を閉ざす方向に働いている現実にあります――〈人と自然のあいだ〉についても同様ですが、その話題は後日に回すつもりです。

ちなみに、「出会いの広場」のトピック「二元論への疑問」には、20件もの投稿があり、一部の方々によって驚くべき高水準の知識がやりとりされています。ただ、それらの中には、ここで取り上げるような〈人と人のあいだ〉を問題にされた形跡はありません。土屋さん、浦さんが、色のグラデーションなどをめぐって展開された議論の水準の高さには、目を見張ります。それを拝見すると、自然科学の世界、現代思想の分野において、中間的な意味での〈あいだ〉の理念が活かされる可能性を、十分に見てとることができます。今回のエッセイは、しかしそうした先端的な知の問題に立ち入ることなく、現代を生きる人間のあり方に焦点を絞って、私見を申し上げたいと思います。議論の大筋は、〈個と全体のあいだ〉を開こうとした前回のエッセイの続篇だとお考えください。

 

「つながり」「絆」への違和感

 拙著の中でひんぱんに登場する〈あいだ〉。その含む意味に、世間の人々が無関心であるとは考えられません。というのも、世の中では〈あいだ〉とほとんど同じ意味の言葉に、高い価値が与えられているからです。それが、テレビや新聞などで毎日目にする、「つながり」や「絆」です。コロナウィルス感染禍のただなか、ご承知のように、社会は密接を避けるための距離を保つよう、人々に呼びかける一方、こういうときこそ「人と人のつながり」を大切にしよう、といったスローガンを発しています。しばらく前の東日本大震災の折には、被災者と救援者との「絆」が重んじられたことは、どなたもご記憶のことでしょう。

 「つながり」や「絆」を強調すること、それ自体に異存がある訳ではありません。「つながる」ことの大切さを口にする行為は、人々がつながっていない現状を問題として受けとめ、それを何とかしたい、という思いの表れです。つながっていないからこそ、つながろうとする。各自がてんでバラバラだからこそ、絆を結びたいと思う。つまり、そうした言葉を使わざるをえない問題状況が、現実に存在する。そちらに目を向けることによって、現代社会の抱える病弊と言うべきものが浮かび上がってきます。

 現代社会の「病弊」と言いました。では、「病弊」とは何でしょうか。人間ひとりひとりが、他から切り離され、孤立して生きなければならない状態です。人間はひとりである。この世にオギャアと生まれてくるときも、死ぬときも、ひとりぼっち。この事実に、どなたも異存があろうはずはありません。では、誕生から死までの一生については、どうでしょうか。「人生はやはり孤独である」と言う方、いや「仲間がいるから、ひとりじゃない」とおっしゃる方、どちらも大勢いるように思われます。どちらの意見ももっともだし、正しいと私には思われます。なぜなら、人は孤独であるということ、人は仲間とともに生きている(孤独でない)ということ、この二つはどちらも間違いではなく、当たっていると考えられるからです。「人は孤独である」と「人は孤独でない」という二つの主張は、一見すると両立せず、矛盾する関係にあります。「人は孤独である」が、もし正しければ、「人は孤独でない」は、間違い。逆に、「人は孤独でない」が正しいとするなら、「人は孤独である」は間違っている。そういうふうに考えるのが、私たちの常識ではないでしょうか。たがいに矛盾する二つの主張は、両立しないというのが、私たちの生きる世界を支配している論理上の決まり(矛盾律)です。そういう現実があるから、上に区別したような「孤独派」と「連帯派」が合流することは、難しくなります。

 では、どう考えるべきでしょうか。対立する両派のどちらかに身を置く、というのがふつうの態度ですが、反対する立場にも、もっともな節がある。となれば、どちらかにつくというより、両派の中間に身を置くことがふさわしい、とは考えられないでしょうか。そうです、〈あいだに立つ〉必要があるのは、まさにこういう場合です。人は、ただ孤独であるだけではないし、他人とつねに連帯して生きているだけでもない。孤独であると同時に、他と連帯している。これが、世の真実です。しかし、そういう真実、人が孤独と連帯の〈あいだ〉を生きている、という事実は見えにくい。私の眼からは、最近の「つながり」「絆」の強調が、いささか不自然に映ります。そこに見てとれるのは、人々が孤立しているあり方を常態であるとして認める反面、その裏返しとして、何か異変が起こったときは、過剰に「つながり」「絆」を強調しようとする傾向です。それは、言わせていただくなら、〈あいだ〉が忘却されているという現実です。つづいて、そのことをご説明します。

 

閉ざされた〈あいだ〉

 私たちは、ただ一人ぼっちで生きているのでもなければ、みんなと仲良く生きている、というのでもない。そのどちらかだけではなく、両方だということが、ここまでの流れで、お判りいただけたと思います。ですが、「いまこそつながりを大切に」というスローガンが、発せられるような現実がある。それは、人々が孤立状態に追い込まれている――少なくとも、孤立を意識せざるをえない――ことの証です。9年前の東日本大震災では、多数のボランティアが被災地に駆けつけ、救援活動に励み、それによって人々の「絆」が生み出された。いまは、直接の接触に代わる遠隔的なコミュニケーションの技術を駆使することで、「つながり」を回復ないし創出しようとする試みが行われている。これらは、じっさいに〈あいだ〉が開かれているとは言いがたい現状を、逆に物語っています。けれども、かといって〈あいだ〉が完全に閉ざされてしまっている、という訳でもない。というのは、国民的災厄が起こることによって、人々の意識の底から〈あいだ〉の記憶が呼び覚まされ、私たちはけっしてバラバラじゃないんだ、という思いを再確認する声が、方々から聞こえてくるからです。

意地の悪い言い方を許していただくなら、ふだん他人のことなど気にかけないで生きている人たちでも、急に大事な忘れ物に気がついて、何とかしようと立ち上がる、そんな印象を私は受けています。裏を返せば、現代社会では、そんな皮肉めいた言い方ができるほど、人と人が分断され、〈あいだ〉が閉ざされてしまっている。私などは、ボランティアの努力を称えることよりも、そういう非日常の行為を生む背景である人間孤立化の現実の方に、悲観的な目を向けてしまいがちになります。

 大衆社会を生きる「孤独な群集」(リースマン)。ここで社会学の見方も参照しながら、集団心理ではなく、個別の主体に焦点を合わせて見ると、どういうことが言えるでしょうか。今の世の中で最も孤独を感じやすい人として、たぶん誰でも挙げると思われるのは、独居老人。それに介助を要する何らかの障害が付け加わったなら、孤独感は「満点」――私自身、いちおうその部類に入りますが……いや、そういう個人的な話はやめておきます。凍りつくような孤独を生きている人たちが、世には大勢います。いるけれども、そういう人たちに手を差し伸べる善意の人々もまた、けっして少なくない。先ほどから皮肉な言い方ばかりしていますが、「絆」「つながり」を生み出そうと努力しているボランティアがその典型です、言うまでもなく。

 では、「孤独」というのはどういうことでしょうか。単身生きるというのは、孤独であることの一つの条件であるけれども、「孤独」の意味はそれとイコールではありません。

 

 社会諸関係のなかにいながら、どんな関係によっても自己の社会的期待を充たされず、結果として自己の疎隔を感じている人間の状態(『社会学小事典』有斐閣、2005年、192頁)。

 

 簡潔明瞭な説明で、よくわかります。単身者であれば当然ですが、例えば家族や知人に囲まれている場合でも、その中で自分がこうありたいと思う「社会的期待」が充たされないために、社会からはじき出されている状態、と言えるでしょうか。それは、「関係」がないということではありません――独居生活をして、他人と口を利かないということも、それはそれで「関係」の一種です。近代社会は、あらゆる人を一定の関係の中に位置づけ、その関係の質によって、孤独を生じさせたり、させなかったりする、と考えられます。

 

「空気を読む」生き方

 「関係」という言葉は、自他を明確に区別したうえで、結びつく(つながる)可能性を想定する近代的合理的な思考を表しています。その思考法自体を「間違いだ」と言うのでないことは、その底にある二元論を排撃するのではない、とこれまで言い続けてきたことと、まったく同じ理由からです。「人間関係」を強調することの問題は、孤立と連帯、そのいずれかしかない、という発想によって、極端な孤立もしくは全体化のどちらかに、人々が追い込まれてしまう結果にあります。孤独であることと連帯することとが、同時に成立しないこと、つまり〈あいだ〉が開かれないことを、私としては先ほど挙げた現代社会の「病弊」の最たるものに見立てたい。それを典型的に物語るのが、KY(空気が読めない)を避け、「空気を読む」ことを促す世相であると考えます。本エッセイの肝は、ここからのKY批判です。

 中野信子『空気を読む脳』という本が、何十万部ものベストセラーになっているとか。書物の内容・価値について、読んだことのない私には分かりません。ただ、そういう題の本が世間に強くアピールしている事実だけは、確かだと思われます。当方の受けとめ方は、こうです。「空気を読む」生き方が、社会で求められ、それを意識している人たちに、脳――けっして「自己」ではない――にKYに対応できる仕組みがある、ということを伝えることが、著者の狙い。そういう脳科学の教えに沿って、これからはくよくよ悩むことなく、上手に生きられることを願うのが、読者。かくして双方の思惑が一致、ベストセラーの誕生とあいなる。どうです、私の読みは間違っているでしょうか。実際に読まれた方がおいでなら、お考えを聞かせてくださるようお願いします。

 書物はさておき、私の知るかぎり、世の人々は「空気を読む」ことが必要と考え、実際に空気を読んで生きているように思われます。その傾向が最も顕著であるのは、若者。私にとっては、つい最近まで身近に接してきた学生たちです。彼らは、周囲の顔色(つまり空気)を読むことに長けており、その素早さ、的確さ(?)には、こちらが舌を巻くほどです。それに比べて大人たちは、年長になるほど、身に着いた自己流のクセ――よく言えば個性――が邪魔をするので、とても若者のように柔軟機敏に状況に対応することができません。KYとは、そのように「空気を読む」資質に欠けるオッサン、オバハンに奉られる名誉の称号なのです。

 なぜ年長者がKYになり、若者がそうならないのか。理由は明確です。幼い頃から、小中高、さらに大学へと進む成長過程の中で、自己主張を控え、周囲に合わせる生き方を教え込まれ、それから外れる生き方をしようものなら、ただちに淘汰される、という現実が存在するからです。それは、子どもの側の自発性というより、社会とその中で生きてきた大人からの圧力による結果です。それに従わない「個性的」行動を試そうものなら、ただちに制裁される現実――それを知る子どもたちの中で繰り広げられるバッシングとして、「いじめ」を理解することも可能です。そういう厳しい環境を生きる子どもに、周りの「空気を読む」以外のどんな選択肢があるでしょうか。

 通算して32年間、大学の専任教員であった私ですが、いま申し上げたような現実に注意を向けるようになったのは、比較的最近のこと、脳卒中で倒れた後、職務復帰した2013年以後のことです。それまで気にかけなかった学内での自分の立場、とりわけ学生との関係(あいだ)が気になりだした頃からです。倒れる以前に10名以上いたゼミ所属の学生が、復帰後は急に減ったことに対して、その原因がわからず、首をかしげる日々となりました。下世話な話に落ちてしまい、申し訳ありませんが、もう少しつづけます。「全盛期」の人気が無くなった理由を、自分の側の変化――半年間休んだものの、復帰後は意識的に精勤し、体調を理由に休講したことは、退職まで一度もありません――に求めないとすれば、学生の側に何らかの事情があると考えられます。

 事情がハッキリ判ったのは、3年前、私の担当講義にかなり真面目に出席していた相当数の3年次生の中から、4年の卒論指導に私のゼミを希望する者が一人も出ない、という事態に直面したそのときです。今となっては、恥も外聞もなく申しますが、この連中は「空気を読む」ことによって、私のゼミに入ることを避けたのだな――それを直観した瞬間、私はこの大学にこれ以上身を置き続ける理由がない、辞めようと決心しました(これだけの説明では、何のことか判らないでしょう。申し訳ありませんが、込み入った事情説明は省かせていただきます)。

 

哲学とは?

 残務があったため、翌年ではなく翌々年の2019年度末をもって、私は関西大学を退職しました。キレやすい私の性格から、当時の学生たちに対して直接の怒りを覚えた事実は、否定できません。しかし冷静に考えるなら、事は学生個々の資質や人間性の問題ではなく、「空気を読む」生き方を彼らに強いている世の中の問題である、ということがすぐに判明します。私にとって、「空気を読む」とは、そのまま〈あいだを閉ざす〉生き方を意味します。事ここに至って、闘うべき巨大な敵――むろん学生などではない――の姿が、浮かび上がってきました。それは、これまでエッセイの中で再三言及してきた、近代二元論以後の世界を席巻してきた〈欲望の論理〉です。

 テクノロジー批判の中で、幾度も語ってきたこの問題を、同じ文脈で説明しなおすことはしませんし、する必要もないでしょう。念のために要点だけ繰り返します。資本主義の原動力は、無限に増殖する〈欲望〉であり、その〈欲望〉が当初の主体(北)から、標的であった客体(南)に転移することで、グローバル化する、それが今日の地球環境危機をもたらした「南北問題」である、という大まかな説明図式を立てました。その〈欲望〉が、意識の表層における二元論と深層における無意識的エネルギーの結合として、「半意識的」であることに、ここで注意していただく必要があります。「半意識的」というのは、つまり半ば無意識的であるということです。「われ欲す、ゆえにわれあり」といったデカルト張りの自覚は、そこにはない。欲しいのだか欲しくないのだか判らない、というような感じで、気づいてみれば、一つの方向にみんなが足並みをそろえて進んでいる、というのが〈欲望〉増殖の実状と言えるように思います。

 このことが、先程から論じている「空気を読む」生き方と、どう結びつくのか。察しのいい方なら、見当がつかれるでしょう。一つの方向に世間の人々が導かれている場合に、その動きに自分も乗り遅れまい、とする本能のようなものが、誰の心のうちにも働く。ほとんど自覚されない、そういう心の動きが、つまるところ「空気を読む」ということではないかと、私は考えるのですが、いかがでしょうか。ということなら、現代に生きる人間、だれしも空気を読まずにはいられない、ということになるでしょう。これを読んでおられるあなたも、書いている私も、です。例外はありません。俺はそんなことはない、例外だ、とおっしゃる方がいるなら、それは現実をかたくなに拒否しようとするヘソ曲がり、変人、ということになるでしょう。そういう人なら、もちろんいます。こう申し上げるのは口幅ったいが、現に私は、自分をそんな「変人」の一人に見立てています――他人が私をどう見ているかは、別にして。

 自称「変人」、そういう連中のために開かれた唯一の学問、それが哲学である、と自分では思っています。「哲学って何ですか?」という質問を受けたとき、私が用意している最も簡単な答えは、「他の99人が右を向くときに、自分一人だけ左を向くこと」というものです。それは、言い方を変えれば、「空気を読まないこと」、もっと正確には、「空気を読むまいとすること」です――二つの言い回しの違いが、伝わったでしょうか。

 もう一つ、私が初心者に対して掲げる「哲学」の定義があります。それは、「自分のテーマを自分(の頭)で考え、自分の言葉で表現すること」です。初年次向けの私の授業を関大で受けた学生なら、誰でもこのことを覚えているはずです。口を酸っぱくして、言い続けることですから。しかし、これほど彼らの意表を突いた定義も、ないのではないかと思われます。というのも、「哲学」に漠然とした憧れや畏れを抱きながら受講する学生にとって、そのイメージは、昔の偉い哲学者の高尚な思想や書物に接し、そこに刻まれた真理を教わることだ、というものだからです。学生にかぎらず、世間一般の抱く「哲学」のイメージも、そういうものではないでしょうか。そういう先入見を打ち砕くことから、私の授業は始まります。そうして何か月かすると、いちおう私の考え方は、学生にそれなりに滲透して理解される、というのが毎年の習いでした。この考え方を、今回のエッセイに当てはめるなら、「哲学」とは「空気を読む」ことなく、自分で物事を考えようとする姿勢のことである、と言いなおすことができます。ポイントは、先ほどの定義とまったく同じです。

 自分で考える、その程度のことが何で哲学や?と反論したい方に――あなたは本当に自分で物事を考えていますか、ただ周囲の流れに従っているだけなのに、考えているようにふるまっているだけではありませんか、と問い返したい。よく考えて、「そうではない」とおっしゃる方がいるなら、その人は本物の哲学者。脱帽に価します。

 

若干の補足

 ここまで議論してきたことに、多少の補足を加え、関係と〈あいだ〉の違いを再確認して終わることにします。

 「関係」の根底に二元論的な見方があるということを、はじめの方で申し上げました。先月のエッセイで批判した「個か全体か」という二者択一の問題は、個人と個人を切り離して〈あいだ〉を見ない思考から生じた擬似問題であるということを、ここで再確認したいと思います。二元論の支配が、いかに強力で根深いか。それより遡る「テクノロジーの問題」シリーズで、「ロボットの心」というSF的発想を批判しました。それも、人間の身体と精神という元々一体であるものを、デカルトが別々に分けた―—繰り返しますが、区別したことを「間違っている」と言っているのではありません――後に、物体である身体に心を宿らせることができるという、マンガ的錯覚が生じた経緯を皮肉ったまで。とは申せ、この批判が読者各位からあまり支持されなかった現実は、かなり深刻な状況を物語っている、と私には受けとれます。エッセイの連載を始めてから、これまでの経緯をつうじて、〈あいだ〉という発想が世に通用するまでには、これからも相当の努力を積み重ねる必要があることを痛感した次第です。

ついでながら現在、哲学の世界では、「他者(他我)問題」がブームになっています。「他者とは何か」「他者をどうすれば理解できるか」といった哲学的「難問」が論じられる底に、自他を分断するだけで、〈あいだ〉を無視してきた二元論の伝統がある、と私は考えます。「他者といかに出会うか」は、私の〈邂逅の論理〉に課せられた重大なテーマですが、それ以外の「他我問題」などは、「ロボットの心」と同類の、取るに足らぬニセ問題である、というのが当方の認識です。しかし、ここで哲学界を中心に、世間全体を向こうに回してケンカを売るだけの用意が、いまの私にはありません。このテーマについては、いずれ別の機会―—さて、いつになるか――を待ちたい、とだけ申し上げます。

 次回、この続きとして考えているテーマは、人と人以外の物、自然との〈あいだ〉です。乞うご期待。

コメント

    • kiba1951
    • 2020年 6月 22日
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    「二元論の立場をとるかぎり、二項対立の中間に立つ――あいだを開く――ことができない。」と書かれています。
    「人は孤独であるということ、人は仲間とともに生きている(孤独でない)」とも書かれています。
    「あいだ」とか「中間」という言葉には「それが存在する空間」の存在を前提にしての話と感じられます。
    しかし私が理解した限りにおいては、空間的な「あいだ」ではなく「玉虫色」の様に「人・時間・場面によって見え方が異なる」との使い方をされている様に思えます。
    「孤独である様に見えるが、(見方を換えれば)孤独でない様にも見える。」との表現ではないのでしょうか

    • 木岡伸夫
    • 2020年 6月 23日
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    ご意見には、ごもっともな点と誤解されている点の両方があります。前者――「孤独である」「仲間がいる」は、そのときどきで「玉虫色」だということ、そのとおりです。心理状態が常に揺れ動く人々の常態。それをどちらか一方に決めつけようとするのが、二元論の慣わしだと批判しました。後者――〈あいだ〉を「空間」だとされている点。〈あいだに立つ〉とは、「玉虫色の心理」を認め受け容れる態度、それ以外ではありません。

    • kiba1951
    • 2020年 6月 23日
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    〈あいだに立つ〉とは(「空間」を意味するのではなく)「玉虫色の心理」を認め受け容れる態度、それ以外ではありません。と書かれています。
    「玉虫色」は主体者の心理状態も、客体の物理的状態をも含むのですね。
    今までそれがずっと心に引っかかって来ましたが、これで納得できました。

    • 小室
    • 2020年 6月 24日
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    こんにちは。
    木岡先生の言われるように、私も大震災やコロナ禍で、今こそ「絆」「つながり」を!と呼びかけられるのに気持ち悪さを感じていました。「つながる」と言葉化してしまうと、つながるかつながらないかの二元になってしまいますよね。
    絆、つながりではかると、何もしていない、迷っているだけだと、申し訳ない気持ちになります。
    でも、私は何もしてないわけではなく〈あいだ〉にいるんですよね。
    災難にあった人達に思いを馳せる…ひとり思うだけだから誰に伝える事でもなく、評価の対象にも上らないけれど、こうして学ぶことにより〈あいだ〉の状態を意識することが、私の中で意味のあるものになりました。
    大多数の世間は、二元にわけることでスッキリさせ、一見気持ちがいいようなイメージを持ちますが、スッキリしない状態を〈あいだ〉でいいんだ!と伝えてもらうことは、とても助けになります。ありがたいです。

    コロナ禍関連のNHKの番組で、経済学者のジャック・アタリ氏が「利他主義は最も合理的な利己主義」他人の利益を考えながら行動すれば結果的に自分に返ってくる、と語りました。理解は出来ます、が、私はその言葉に何かしら抵抗を感じ、仲間との対話に持ち出しました。そこから「自利利他」「自利利他円満」「最大多数の最大幸福」(長くなるので詳細は省きます)と、話がすすみ、考えるほどに、私は「自」「他」がわからなくなりました。
    以前は、自分と他者だとわかった気になっていましたが、「自」と「他」を分けるのも二元論でしょうか。エッセイの「人と人の〈あいだ〉」で言われたことに重なりますか。人同士とは限らない、自分と全体?
    先生がAとBのところで言われているように、「自」と「他」も二元にわけず、「一体」と考えると落ち着きます。
    私の中にもあなたがいて、あなたの中にも私がいる、と言うような考えをする、そうでしょうか。

    今回のエッセイでもいろいろ考えさせられました。
    次回の私たちの読書会でも、先生のエッセイを取り上げることになりそうです。(本とエッセイ、2つで考えるとわかりやすいです)
    講師の先生に、〈ことばのあいだをひらく〉、話し手と聞き手の〈あいだをひらく〉と導かれ、結論は出さず、思考を重ねる面白さを与えてもらっています。

    • 浦靖宜
    • 2020年 6月 25日
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    小室さん
    進化生物学などでも、「人が利他的に振舞うのは、その方が種全体の生き残りに都合がよかったからだ」というような主張がありますね。
    人という生物の歴史全体を見れば、それはそうなのでしょう。私もその理解は正しいと思います。ただ進化生物学=科学のレイヤーだけで見なければならないわけでもないのも事実ですね。
    私も人に対して「情けは人のためならず」と言うことはあります。
    利他的に生きれない人にはひとまず、利他主義の利己主義的理解を促した方が良い場合があります。対機説法ですね。
    本当は何かあったら自分が犠牲になっても助けたいという思いが利他であり、たまたまお互いにそう思えたのなら絆と言えるでしょうが、なかなかそういう間柄にはなれないものですね。以前の絆ブームは逆で、何かあったら自分が助けてもらうために、利他的に振る舞っていたのでした。それでもないよりかはマシかなとは思います。
    また利他的な振る舞いは往々にして相手に負債として感じられます。借りは返さないといけないのです。近代社会においては直接貸し借りし合うのが筋ですが、直接は返さず、別の誰かに利他的に振舞うことで返したことにする考えもありますね。むしろそれが一般的な社会もあるようです。世代継承はこういう問題が起こりそうですね。親にしてもらった恩は、親に直接返すより次の子供たちにしてやることで返すような。

    「空気を読む」
    彼女の本は読んだことありませんが、個人の実感としては空気は自動的に読めてしまうように感じているので、脳科学的にも説明可能なのでしょう。空気を読むとは少しずれますが、我々が毛深くなく、肌が露出しているのは、他人の感情を即座に読み取るためだとされています。心理的変化は血流の変化を促し、文字通り顔色が変わる。血の気がひいて顔が青ざめたり、カンカンになって真っ赤な顔で怒ったりする。我々が他人の感情を察知できる大きな要因の一つがそうした視覚的情報なのですね。(マーク・チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』ハヤカワ文庫 彼のこの本は面白いですよ)
    私のように瞬時に空気を読んでしまう人は、空気を読んだ上で、それに従うかどうかを判断することになりますね。大体は自分にとってどうでもいいことなので、空気に従います。「付和雷同するのなら、それは自分の意見ではない。自分が正しいと思うのなら、親が反対しようが神が反対しようが貫き通せ」とイスラエルの人は教育されるそうです。(『ヘブライ語のかたち』の著者でイスラエルに三十年以上在住している山森みかが言ってました)
    厳しいけど、そうなんだろうなぁと思います。もちろん、なので日本の方が楽でいいというイスラエル人もいるようですが。

    「ロボットの心」と多元的な世界についてのメモ
    「他者問題」は二次的問題ではありますが、ニセなのかと言われると、ニセにしては実感に則しすぎると思います。
    機械の意識については、科学の世界観では私たちが既に物質でできているので、なぜ物質から意識現象が生じるのかを科学的に解明できたらなら、人工的に再現可能だろうとは思います。そしてそれは原理的には可能だろうと私は踏んでいます。ただ解明したところで、自我問題は全く解明されないと踏んでいます。
    さて、それは科学者に任せるとして、問題は心というものをどう考えるかですね。
    ここでの心の問題はどこまで行っても西洋哲学や科学における心の問題でした。
    我々西洋人が理解する心=意識現象を機械に発生させることができるのか。
    しかし一方で、「ロボットに心があるなんてことは自明じゃないか」という世界観も容易に考えられます。一般にアニミズムと呼ばれているのがそうでしょう。彼らの心理解と我々の心理解にだいぶ乖離があるので、理解するのは難しいですし、そもそもベンヤミン的な翻訳の問題も絡みますが、その世界観で生きる人も、彼らなりの哲学、形而上学を構築しているはずです。私としては、科学的世界観を認めつつ、一方でそうした別の世界観の存在の権利も主張できたらと思っています。科学は真理の確からしさの濃度が濃い(最近こういう表現を思いつきました)ので、私は大変尊敬していますが、そうじゃない世界観が現にあるのをどう考えればいいのか。個人的には様々な世界観(ある程度類型化できそうですが)が多元的に存在し、複数の真理が存在するみたいな方向で考えられたらと思っていますが、しかしそれも結局はそうした複数の世界観を生み出す根本的な一つの哲学が存在すると言った一即多みたいな話に回収されそうな。
    私はあまり一即多は好きじゃないんですね。(とは言え考えられるなら誰か考えて欲しいですが)
    それは多即一に逆転し、中央集権化してしまう恐れを秘めている。アナロギアの中世も絶対王政の近世に統合されるみたいな。類似がいつの間にか同一になってしまう。アナロジーはいい感じがするんですけどね。
    スピノザよりもライプニッツということなのでしょうか。神即自然よりもモナドロジー?一切一心よりも一心一心?
    「即」が邪魔。でも言い得て妙でもある「即」

    • 木岡伸夫
    • 2020年 6月 28日
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     久しぶりにページを開きました。小室さんの問いかけにお答えします。
     「自と他を分けるのも二元論か?」とのお訊ね。まさに二元論、それも私が批判する二元論の核心そのものです。デカルトは心と身体を分けた。「私の身体」は、いまここにある。では、「私の心」はいったいどこにあるのか。こういう疑問が出てくることは、必至です。ですが、そういう問い自体が、「心」を心から切り離された延長物体である「身体」と同じあり方をする存在のように見立てる発想によるものです。「心」がどこにあるのかわからないけれども、身体のどこかとつながっていて、その中継点みたいなところから、身体に指令を出していると考えてはどうか、というのがデカルトの考えでした。ここから、単なる神経中枢にすぎない大脳が、精神の座、ひいては精神そのものだとする唯物論への道が敷かれました。デカルト以後、二元論の流れの上に、人間機械論や現代における心脳同一説が登場する勢いは、止められません。
     自他の区別に戻ります。身体(脳)以外に心の宿る場がないとなれば、自他の身体的区別は、そのまま自他の心を隔てる壁を意味する。「自分の心」は自分だけのもの、「他人の心」はその人だけのもの、ということになるから、他人の心はわからないという「他者問題」が、哲学の表舞台に登場する次第となります。自他の心――「意識」と言った方が、適切ですが――に、融合していて分けられない面があるという事実――ベルクソン(私が、ただ一人まともに学んだフランスの哲学者)が「意識の相互浸透」と呼ぶ現象――は、二元論万能の近代世界では無視されるほかありません。そういう思考を突き崩すきっかけとして、当方、微力ながらも、〈あいだ〉の論理を提示した次第です。
     『鉄腕アトム』以後の世代――私もそうですが――に、非二元論的な〈あいだ〉がすんなり受け入れられる素地はないということが、テクノロジー批判をめぐるこれまでのやりとりで、私にはよくわかりました。浦さんのような頭のよい方でも、SF的固定観念から離れられないという現実が、新規巻き直しを図るよう、私に命じたのです。失礼ながら、浦さん、いつまでも他人の褌で相撲をとるのではなく、ご自分の責任で「ロボットの心」を証明してください。「木岡哲学塾」は、そのための機会を用意しています。

    • kiba1951
    • 2020年 6月 30日
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    自分の責任で「ロボットの心」を証明するのに急ぐ必要はありません。
    浦さんは膨大な先人の思想をインプットされており、量の増大は必然的に質の変革をもたらします。
    インプットした先人の思想が自分の中で熟成するにはそれなりの時間が不可欠です。
    焦って小さく纏まってしまうよりも、じっくり寝かせて素晴らしい物を目指すべきです。
    カントですら「純粋理性批判」を書くのに10年掛ったのですから。
    木岡先生も「木岡哲学塾はそのための機会を用意しています。」と言っておられます。

    • 浦靖宜
    • 2020年 7月 01日
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    「木岡哲学塾」では、折角の機会なので木岡先生の風土学講義や皆さんの発表に耳を傾けたいと思います。最後の「縁起」などの宗教的タームに関する議論については、少し議論が起こるかもしれません。
     以下、二つの議論をしたいと思います。あまり得意でないですが、なるべく厳密に語るとしましょう。(以下の議論は木岡先生に対しては釈迦に説法で恥ずかしいでのですが)便宜的に番号をふり、どこに議論の誤りがあるか指摘しやすくしておきます。最初の議論は西洋哲学では心の哲学などと呼ばれる部類ですね。その中で私がとりあえず正しいだろうと思うことを述べます。(私にとっては、あまりに当たり前のようなことしか述べてないので、深みも何もありません。)第二の議論は昔から折に触れて読んだり考えてきた、人類学、民俗学的な知見や仏教思想を踏まえて、異なる風土的世界観に生きる人々にとっての「ロボットの心」を論じたものです。風土学的にも「ロボットに心などない」と斬って捨てるのは惜しいはずです。(もちろんトンデモな議論との差別化は図らねばなりませんが)

    ①私は今、腰の左側に痒みを感じている。この感じている何かを「意識」と名付けることにする。
    ②この「意識」は痒みに限定されず、痛みや味、今パソコンの画面が見えているこの視覚、雨の音、どうすればうまく伝えることができるであろうかというもどかしさのこの感情、タンスに小指をぶつけた人の痛がる様子を見て感じるあのむず痒い痛みの感じも含まれる。
    ③私は他人が同様に「意識」を持っていることを認識しており、他人がタンスに小指にぶつけて痛い思いをしているのを見て、その痛みを想像して共感し、私自身も心底痛そうに「痛かったろうね」と思う。
    ④とはいえそこで感じている他者の痛みも、私が想像した痛みであり、私が感じているものであり、私の意識の産物である。私は他人の意識を感じているわけではない。
    ⑤私は私の身体を通してしか、何かを直接感覚することができず、他人が直接感じていることを、想像はできても、私がそれを直接感じることは不可能である。これが他者問題である。
    ⑥そしてそもそも私が直接的に感じている「この意識」「この私」が現にある。これが自我問題である。
    ⑦私、浦靖宜はこの問題を正当な問題であると認識している。なぜなら、私、浦靖宜がまさに私にしか感じられない、この直接的感覚を感じているからであり、私、浦靖宜は他人がタンスに小指をぶつけた時に、その痛みを直接感じることができていない事実があるからである。
    ⑧この自我問題、他者問題に拘泥してしまうと確かに、ベルクソンが言うような、「意識の相互浸透」は議論されなくなる傾向になる。
    ⑨というより、そうした相互浸透の感覚もまたそれぞれの「私」が感じている感覚ということになり、自我、他者問題に回収されてしまう。
    ⑩私はこの回収もまた、その議論においては正しいと考える。
    11しかしそれとは別にベルクソンが論じるような議論は並行して可能だと考える。
    12私の身体を通してしか感じられないこの私の感覚には他者への共感等も含まれており、それがなぜ生じるのか、他者に共感する時に何が起こっているのかを考察することは、自我問題等とは別のレベルの哲学的問題であり、十分に議論に値する。
    13ただし自我問題や他者問題がベルクソンの問題や共同意識、共同幻想などの問題を覆い隠すことはあったとしても、自我問題等そのものを「ニセ問題」としてなかったことにするのは誤りである。(木岡先生自身は「意識」をここまで限定的に定義して論じていたわけではないとしても)
    14非二元論的な思考が重要であることは、二元論的な思考における議論を否定しない。それらは同時に議論可能な問題であり、どちらだけが正しいというものではない。ただし、どちらが優位なのかという問題は現実にあり(現に今は科学的世界観が圧倒的に優位の世界である)、それは真理の正しさというよりも政治(狭い意味でのそれではなく、広い意味での)の問題だと思われる。(今後、風土学的な地政学が生み出される可能性はある)
    15閑話休題。もしそれらを「ニセ問題」と論じる為には、「私は、今頭を打った他人の頭の痛みを直接的に感じている=他人と同じ痛みを感じている」ことを論証する必要がある。少なくとも私はそのレベルでの議論をしようと思っている。
    16科学的世界観に立てば、こうした「意識」は全て、脳や神経組織など様々な身体組織が自然法則に基づいて作動することで「生じている」。(脳や神経組織だけで十分なのかは私にはわからない。ただし、脳の電気信号を読み取って今見ている夢を映像化する技術は既に開発されており、逆に脳に一定の電気信号を送ることで、ある程度特定の夢を見させる技術は現実化していることを考えると、脳や神経組織の役割はかなり大きいと考えざるをない)
    17ここで「意識」が「生じている」とはどういうことなのか。まさに今、目の前のパソコンを、目に少し疲れを感じながら、同時に肩に鈍い痛みを感じながら見ているこのありありとした感覚=クオリアを身体が自然法則にしたがって生み出していることなのか、それともそれは実は自然法則で生じている身体的な神経の電気信号と全く関係ないのかは議論があるところだが、本当のところを言うと、私は心身同一説が正しいとか心身並行説が正しいとかいう議論にあまり興味はなく(私の興味は自我問題であって、心身問題ではない)、いずれにせよ、身体における自然法則の何がしかの作用で意識は生じていると考える。
    18脊椎損傷によって身体の一部の痛覚を感じられなくなるなどといった現象を考えると身体が私の意識に密接に関係していることは私には疑い得ない事実と思われる。
    19近年の科学的成果を参照すれば、意識と神経組織の電気信号にかなりの相関関係があることは疑いえない(先の「夢の技術」を思い起こそう)。受精卵に意識はないとしても(本当はあるのかもしれないが入力装置も出力装置も揃っていないはずなので、よくわからないだろう)、ある程度神経組織の整った胎児であれば、意識は芽生えていると思われ、実際に、胎児の頃の記憶をもつ者もいる。
    20科学的世界観においては全ての物質は原子あるいはもっと細かくして素粒子から構成されていると考えられており、意識と密接な関わりを持つ身体、神経組織もまたそうである。
    21「意識」が自然法則に従って生じているものであれば、そしてその自然法則を人間が十全に理解し再現することが可能であれば、原子や素粒子の構成物(それが金属などの無機質でもいいのか(ならロボットっぽい)、やはり身体と同様の有機物でないと原理的に不可能なのか(であれば、普通に子作りをすれば良い)は不明だが)から人工的に意識を生じさせる何かを生み出すことは原理的には可能である。
    22素材は何であれ、この意識を持った人工物を「(我々西洋近代人が理解する意味での)心を持つロボット」と名付ける。
    23今、そのようなロボットが存在するとは思われないし、今後の人類が意識を生み出すのに必要な自然法則を十全に理解できるかは不明であり、また理解できたとしても、人工的に再現可能かは不明であるが、そこから、そのような自然法則そのものが存在しない=心を持つロボットを作ることは原理的に不可能であるという議論は飛躍である。
    24「ロボットの心」を証明することは現時点で不可能である。なぜならそのメカニズム=自然法則を私は十全に理解していないから。
    25しかしここでいう科学的世界観における「ロボットの心」の全否定はできないはずである。これを完全に否定するためには、科学的世界観にあえて浸って、その世界観内の理屈で考えても、その世界観における「心」=この議論での「意識」を生み出すことは原理的に不可能であることを論証しなければならない。
    26ちなみに、もし仮に人間がそのような自然法則を十全に理解したとしても、自我問題が解決されることはない。
    27直接的に感じられるこの感覚、この意識の発生メカニズムを自然法則で十全に理解できたとしても、たくさんある意識(人間だけでも、そして現在だけでも70億はあるし、かつてあったたくさんの意識とこれから生じるたくさんの意識が想定される)の中で、なぜこの時代、この地域に生きる浦靖宜と名付けられたこの身体を持つ男の意識しか感じられないのか、なぜ浦靖宜が「私」なのか、なぜ他の人間ではなかったのか、何がそれを決めたのかは解決されていないからである。
    28この自我問題においては、他者問題は二次的な問題に過ぎない。他者問題では、「他人に心がないかもしれない」という形で提起されるが、他人に心があったところで、というより他人にも同じメカニズムで生じている意識があるはずなのに、「なぜ私はこの意識なのか」が問題だからである。
    29以上の議論は西洋哲学における議論であり、科学的世界観に浸った議論である。私は西洋近代人として、この議論を正当と考えているが、異なる風土的世界観においては異なる議論が可能であり、以下の第二の議論に向かう。

    と、思いましたが、長いので一旦ここで切ります。
    またすぐコメントするかもしれませんし、先ほど、9月以降の発表に挑戦するようにと先生からもお言葉を頂いたので、そこで議論するかもしれません。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 7月 04日
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     浦さんの正面からの堂々たる意見開陳、期待していたものはこれです。番号15あたりまでは、ご自身の独在論への共感を「自我問題」として、「他者問題」から区別しておられる。そこまでの趣旨はわかります。ですが、それより後、「意識が自然法則に従って生じている」(21)というあなたの議論の前提は、デカルト以後の機械論・唯物論の発想そのものであって、それに従わない私との間に、越えがたいギャップがあることを物語っています。後半の議論は、この前提から出てくるもので、それに一々付き合うよりは、根本前提をめぐって討論する方が、話が早い。
    私の手の内を少しお見せするなら、意識と同義である生命が、その進化の途上で、物質的なものを下降的に産出した。それゆえ、意識(=生命)がまずあって、物質は後から生まれた、というベルクソンの「唯心論」が発想源。これをお伽噺としかとれない現代人はともかく、延長物体に還元できない精神(意識)を、ある意味で特権化したのが、デカルト。その真意を知ってか知らずか、後の連中は、物心二元論の「心」を「物」化するしか能がなかった、というのが歴史の皮肉です。ついでながら、永井流独在論の〈私〉は、貴方が一つ前のコメントで言及されたライプニッツの「モナド」で、説明が付くというのが、私の冷淡な見方です。ですが、17世紀の形而上学に納得できない現代人が、永井に入れあげる心境は、理解できなくもありません(私も昔、自分のテーマにこだわるこの人を、哲学者の鑑として敬していた時期があります)。
     浦さん、貴方は私が洟も引っかけない現代の「心の哲学」に傾倒する立場から、見事な反論を突きつけられた。言ってみれば、代理戦争を買って出られた。そのご尽力に敬意を表します。ですから、いずれ正面から対決させていただくことをお約束します(哲学塾1回分2時間を、それに充てましょう)。もう一つ、「縁起」の問題に対するご意見とかは、いずれじっくり承りましょう――HPへの投稿でも結構です。ただし、二つの問題について、これ以上、このコーナーであなたとやりとりすることはしません(他の誰かが、関連質問などを呈されれば、話は別)。

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