毎月21日更新 エッセイ

あいだを考える(4)――〈自然〉から〈もの〉へ

あいだを考える(4)――〈自然〉から〈もの〉へ

 

 先月の「あいだを考える」(3)では、〈人と人のあいだ〉を考えました。「人間関係」が、人々の分断を前提するのに対して、人と人の〈あいだ〉は、自他を完全に分けることができず、かといって自他が完全に融合することもないような関係性を意味する、という違いがあることを、いろんな例を挙げて説明しました。そのエッセイの最後に、〈人と人のあいだ〉に続く次回のテーマが、〈人と自然のあいだ〉である、と予告したことを覚えておいででしょうか。

 〈人と自然のあいだ〉――そう記したにもかかわらず、どうもしっくりこない、どうしてだろう、という不審の念があります。関西大学で担当した講義「環境の倫理」では、この言い回しをしょっちゅう用いていたはずなのに……。すぐに、その訳が分かりました。その講義で〈人と自然のあいだ〉を論じることには、人間と自然を対立させる二元論を批判する狙いがありました。環境倫理の柱である二元論は、「自然と人間」もしくは「自然と文化」をセットにして扱い、自然と人間(文化)のどちらかを中心(優位)にして考えます。それに対して、私の風土学は、自然かそれとも人間か、というような二者択一を超えようとする狙いから、〈あいだ〉の立場をうちだした。そこに、大きな違いがあります。

 ところが、「人と自然」を並べて挙げたのでは、人間と自然が元から別々に存在している、という印象が生じます。ということは、こちらが批判するつもりの二元論の土俵に、わざわざ自分から上ってしまっているということです。では、どうしたらよいか。人間以外のものを〈自然〉としてひとくくりにするのではなく、自然の中で私たちに身近なあり方をする存在を、問題にすべきではないか。〈自然〉に代わる存在とは何か。「もの」です。

ということで、今月のテーマを「〈自然〉から〈もの〉へ」とします。変更の理由を理解していただくには、まず〈もの〉の意味を明らかにしなければなりません。

 

〈もの〉の意味

 〈もの〉とは何でしょうか。このエッセイを読む人の中に、そんなことを考えたことのある人がいるでしょうか。私自身、ごく最近、ちょっとしたきっかけで、このテーマに目を向けるまで、そんなことを考えたことはありませんでした。というのも、哲学の世界では、難しい専門用語を議論する習慣はあっても、〈もの〉のような日常用語を取り上げて、その意味を深く追究する例は、ごくまれにしかなかったからです(日本人哲学者では、前回、前々回のエッセイで名を挙げた和辻哲郎が、それに該当します)。

 日常的に使用される頻度の高い言葉ほど、その意味を改めて考えることは少なく、したがって説明することが難しい。そう言えるように思います。〈もの〉は、その代表的な例です。「私は、○○という者です」「役に立たない物は捨てなさい」――すぐに思いつく例を、二つ挙げました。二つの文では、〈もの〉を意図的に「者」「物」と書き分けました。おなじ〈もの〉が、一方では人を表す「者」、他方では人間以外の存在を指す「物」で表される。ということは、〈もの〉自体に「人」の意味と「物」の意味の両方が含まれている、ということです。変だと思われませんか。人でも物でも、同じ〈もの〉の意味をもつのが、日本語の世界であるという事実――二つの意味を特に区別する必要がある場合には、それぞれ「者」「物」の字があてがわれるにしても。このような用法は、西洋の言語にはありません。たとえば、英語を引くなら、「者」はperson、「物」はobject(thing)で表され、二つの語が混同されることはありません。ということは、〈もの〉に人の意味と物の意味が混じり合うというのは、日本語に特有の事情であって、西洋語の世界では「人」と「物」は厳格に区別され、一つの語に意味が混じり合うといった事態は生じない、ということです。

 今回、急いで〈自然〉を問題にするよりも前に、〈もの〉を取り上げて考えようとする理由は、日本人の生きる世界には、「人間と自然」という表現で二つの存在が区別される以前に、人にも自然にもつうじる中間的な〈もの〉があることに注目したからです。〈もの〉が「人」にも「物」にも当てはまるという事実、それは〈人と自然のあいだ〉が〈もの〉によって開かれることを表しているのではないか。そのことに思い当たって、エッセイのテーマを変更したという訳です。

 さて、日に何回使用されるかわからないほど、おなじみの〈もの〉とは?基本的意味は、「空間に位置を占め、形をもち、実際に見たり触れたりできる対象」(『明鏡国語辞典』大修館書店)。なるほどと思われる説明で、これなら「人」にも「物」にも当てはまるということが納得できます。物体、物品の意味だけなら、英語objectに対応する「対象」「客体」に置き換えることができます。ところが〈もの〉の用法は、これだけではありません。同じ辞書に、「具体的な存在から離れて、物事や事物を広くとらえていう。考え・知識・言葉や、その他の事柄など、はっきりとはとらえ難いが、確かに意識の対象となる存在」という定義が挙げられ、「ものを思う」の用例が出ています。内容・実体はハッキリしないけれど、「確かに意識の対象となる存在」であるなら、〈もの〉だといえる。おやおや、それでは「人」の意味はどうなるのか。「悪霊など、得体が知れず、恐ろしい存在」(例.「ものの怪」)。人が「者」と呼ばれるのは、その相手が具体的な存在であるということを前提しながら、それに実体がハッキリしないオーラ(?)が付きまとっていることを、同時に「もの」がたっているのではないでしょうか。そういう怪しさが〈もの〉に付きまとっているとしたら、〈もの〉には「人」にも「物」にもつうじる中間的なあいまいさがある、ということも頷ける気がします。

 

人と物の〈あいだ〉

 上に申し上げたことは、誰かから教わった知識ではなく、〈もの〉について私なりに解釈した結果です。けれども、〈もの〉に人と物の両方の意味が含まれるということから、日本語の世界では、英語など西洋語の世界に比べて、人と物を分け隔てる仕切りが低い、と言うことができるでしょう。非常に重要なポイントですから、このことをもう少しくわしく、具体的に見ていくことにしましょう。

 私はいま、〈もの〉に向き合っているとします。それが、「者」で表される人であるのか、それとも「物」で表される物体であるのかは、最初から決まっているわけではない。それが人か物かを区別するよりも前に、何かしら〈もの〉があるというのが、それに対する向き合い方です。この最初の向き合い方において、人と物をキッチリ弁別しないところに、〈もの〉の意識がはたらいていると考えられます。むろん、そのこと自体が、よいとか悪いとかいう話ではない。ともかく日本人の精神生活に支配的なある傾向を、〈もの〉の一語が浮かび上がらせているのではないか、という一点をご注意申し上げているわけです。

 それが「者」であるか「物」であるか判然としないのが、〈もの〉に向き合っている状況ではないでしょうか。哲学の理屈――ほとんどは二元論から来ています――を、ひとまずカッコに入れて、〈もの〉にかかわっている状況を考えましょう。それは、自分の周囲にある(いる)のが、人なのか物なのかが不分明な状態、ということです。そういう判断以前の段階がまずあって、そこから――おそらく瞬時に――「対象」やら「他者」やらが、くっきりした姿となって現れてくる段階に移行する、というのが私たちの生きる世界の実状ではないでしょうか。

 明治以降の近代化過程をつうじて、日本人は、哲学の常識である〈主体-客体〉〈自己-他者〉の区別になじんでゆきました。そういう成り行きから、人々は、最初から「人間」「物体」「自然」といった語によって分節化された世界で、ふだんの生活が営まれているかのように思い込んでいます。むろん、そういう世界が成立しているのは、必要あればこそ。人だか物だかがはっきりしない、怪しげな〈もの〉の気配が充満する世界では、満足な近代生活を送ることはできません。しかし、そんな現代世界にも、〈もの〉の記憶が失われることなく保たれているのは、しばらく前に映画『もののけ姫』が大ヒットした事実からも、明らかです。それは、日本人の表層意識から追放されたかに見える〈もの〉の存在感が、いまも心の底に健在であるということです。

 こう書くと、お前は何のためにそういう近代以前からの〈もの〉の記憶などを持ち出すのか、いったい二元論の何が気に入らないのだ、そういうクレームが、耳元から響いてきそうです。どういたしまして。二元論大いに結構、二元論を土台に発展した科学技術も大いに結構です。そういうものを私たちが望むのであれば、近代化した日本社会になお沈澱している遺風や因習を摘出して、それと向き直り、徹底的に駆除したうえで、近代の勝利を高らかに謳ってください。でも、そんなことは不可能だ、というもう一つの声が、私自身の心の奥底から湧き上ってきます。これも無視することはできません。

 少し話が変わりますが、ここで自分が悪い習慣に取りつかれていて、それを何とか克服しようともがいている姿を想像してください――拙著『〈出会い〉の風土学』(幻冬舎、2018年、48-49頁)の中では、「アルコール依存症」(アル中)の例を挙げました。アル中患者の場合がそうであるように、欲望を克服しようとするなら、欲望の起こる現実と向き合って、その実体をヒタと見つめる以外に道はない、という「直言先生」の言い分に、「猛志君」が反対して、薬による対症療法を対案として提出しています。私の考えは、そのときから今も変わりません。つまり、悪習の克服に有効な薬などはない、克服できるかできないかはともかく、病態とその原因を直視する以外に打つ手はない、というものです。薬物その他の手段を用いることで、一時的にアル中が治まったように見える時期はあるかもしれないが、ふと酒の瓶に目を向けたとたんに、それまでの自制が吹っ飛んでしまい、ふたたび泥沼に……といった類の話は、よく耳にするところです。問題の根っこをじっと見つめて、それを根本から変えようとする自覚が生じたときに、はじめて悪習の根が断たれるのです。残念ながら、私自身も含めて、日本人は一般に、そうした持続的な姿勢をとりつづけることが、苦手のように見うけられる。ちょっと手を着けるものの、すぐイヤになって、元の木阿弥……そういう例が多いように思われます。

 しかしながら、別の考え方も可能です。日本人にとって容易に克服できないような古い習慣というものは、それこそ日本人の本質的な要素であるから、それを何とか活かしながら、新たな時代の要請に対応できる体制を工夫する、ということです。卑俗な喩えで言うなら、脱ぎ捨てたつもりの古着を、このさいリフォームしてはどうか、という提案です。

 

〈自然〉とは?

 「古着のリフォーム」という話をすると、近代化と反近代化、欧米追随と日本回帰、のような形で定式化される二項対立のおなじみの図式が、目の前に立ち現われてきます。またか、と思われる方もおいででしょう。私自身、またこのテーマか、と半ばうんざりしながら、取り上げざるをえない気になるのは、それなりの訳があるからです。それは、私のような偏屈が少々力説したところで、びくともしない頭の固いお歴々が、対立する両極の中間に目を向けようとしない現実を、たえず突きつけられているということです。

 多少の脱線を大目に見てくださるよう、お願いします。頭の固い連中の代表は、日本には「論理」も「哲学」もないと信じて疑わない、西洋崇拝の近代主義者。この手合いは、明治以後の近代化をつうじて、日本には二元論が根づかないなどと言って、日本人の後進性を侮蔑します。その中で、ご自分だけは西洋の論理をマスターした偉い哲学者であると自慢して、その他大勢の愚昧な日本人との違いを強調する。こんな連中が日本の哲学界を牛耳ってきたことは、本当の哲学を希求する人たち――大勢います――にとって、不幸と言うほかありません。同様に低級な日本第一のナショナリストには、自己中心のナルシシズム以外、およそ「論理」がないのですから、最初から問題外。私が相手にしなければならない「敵」は、西洋の哲学以外に論理はない、と言って憚らない前者、近代主義者の方です。

 脱線する前の話題に戻ります。〈もの〉が取り巻く日本的世界は、人と物が別々に棲み分ける二元論的世界とは、様子が異なります。そういう世界を一掃するというのではなく、いちおう認めたうえで、近代的な世界との比較において、とるべき点があれば、それを活かす道を考えてはどうか、というのがここからのテーマです。私の提案は、〈自然との共生〉というおなじみのスローガンに代えて、〈もの〉との縁を結ぶ、ということです。それが、どういうことを意味するのか、〈自然〉と〈もの〉について、しばらく考えてみましょう。

 〈自然〉という言葉は、江戸時代に西洋から入ってきた«nature» の訳語であると知られています。しかしそれは、ずっと昔に中国から渡来した「自然」(ジラン、日本語読みは「ジネン」)を転用したものですから、二つの外国語に由来する別々の意味が、〈自然〉には混じり合っています。語源的な詮索は、参考書(柳父 章『翻訳語成立事情』岩波新書、1983年)に任せて、ここでは必要な注意点だけ挙げておきます。ふつうに用いられる〈自然〉の意味は、人為である〈文化〉に対して、人の手が加わることなく成立している外的な存在、「自然環境」といわれる際の「自然」に相当します。これに対して、早くに日本語化した〈自然〉の意味は、人為の加わらない本来のまま、おのずからのあり方、というものです(老子の言う「無為自然」などが、その例)。

 「人間と自然」「自然と文化」というように、〈自然〉は、人間や人為的なものの対立項として挙げられるのが一般的です。こうした用法は、まったく二元論的ですが、人間と自然の融和・一体化が唱えられる裏には、二つのものが分けられない関連をもつ、という実感がはたらいています。人間は自然なしでは生きられない、人は自然と共に生きるべきだ、等々、散々聞かされてきた述懐ですが、二元論が分ける以前の〈人-自然〉の一体性への郷愁であることに、間違いありません。それがあるからこそ、今日の環境倫理学で「自然中心」の立場というようなものが、大真面目に主張されているわけです。

 ディープ・エコロジーに代表される環境保護のラディカリズム。私はそれに対して、根本的な疑問を抱いています。それはなぜか。二元論の考え方の枠組そのものを変えることなしに、〈人間-自然〉関係の主客を入れ替える、という小手先の手口に過ぎないからです。これまでは、人間が主体として、客体である自然を支配し、利用してきた。だがこのままでは、自然環境は回復不可能。だから、今まで客体でしかなかった自然を主体に祀り上げ、何ならそれに人間並みの権利(「自然の権利」)を認めることで、人間の地位を相対的に低くしよう、というのが「自然中心」を説く環境倫理の主張です。「人間中心」であったものを「自然中心」に切り替えるという、その発想自体が、二元論そのもの。エコロジストが希求する自然との融和や一体化が、実現する見込みはありません。というのも、〈人間-自然〉の融合が成立するために不可欠な〈あいだ〉が考慮されない二元論の図式では、対立する二項の一方が「主」、他方が「客」となる以外になく、主客をたがいに入れ替えたところで、関係の構図はそのまま維持されるほかないからです。

 

〈もの〉への視線変更

 以上は、毎度おなじみの二元論批判。それでは、二元論にもとづく〈自然〉との関係をどうすることが、〈もの〉との縁を結ぶことになるのか。さあ、お手並み拝見。

 まず、〈自然〉という語を封印します。〈自然〉という常套語を使用することで、最初から解ったような気になる。私に言わせるなら、それはすでに二元論の術中に陥ることです。〈自然〉は抽象名詞です。いったいどこに、それがありますか。いやある、庭木のクチナシが白い花をつけている。それは自然じゃないか。それとも、「庭木」は人為的だというのか?それなら、尾瀬ヶ原のニッコウキスゲはどうだ。人が植えていないのに、勝手に咲き乱れている。これこそ自然じゃないか……。

 仮想問答はいくらでも続きますが、もういいでしょう。〈自然〉がある、ない、などという議論をここでやりたいわけではありません。地球上の動植物、山・川・海のような地学的存在―― «nature» は、これらすべてを一語で表します。「自然環境」に含まれないものはない。そのことを認めたうえで、〈自然〉という言葉で、それらの全体を包括的に言い表すのは止めよう、と申し上げているのです。〈自然〉という概念で包括するのではなく、そこに含まれる一つ一つが、〈もの〉として立ち現われてくる、その線で考えてみようということです。〈自然〉から〈もの〉へ、という視線変更。それが必要だという私の考えを説明します。

 と見栄を切ったものの、ここからが難しい。周囲の事物を〈自然〉として見るのと、〈もの〉として見るのとでは、何がどう違うのか。その違いが納得できるような言葉にするだけの訓練を、これまで私がしてこなかったからです。〈もの〉というからには、それが人であれ物であれ、一定の手ごたえ、感触があるはずです。とはいえ、それが何ものであるかは判然としない。そういう存在感と不確かさが共在しているのが、〈もの〉のありようではないでしょうか。つまり、いまだ人でも物でもないけれども、そのどちらでもありうる、というような微妙な存在の仕方……、「それはしかじかだ」という判断を下す以前の立ち現われが、〈もの〉を特徴づけます。

 こんなふうに書くと、哲学の知識がある方から、それは「主客未分」ないし「主客合一」のことではないか、という指摘が行われるかもしれません。しかし、私が〈もの〉を前にしている状態は、主客が一致している状態ではなく、私と〈もの〉は区別されています。つまり、私は〈もの〉ではなく、〈もの〉は私ではない、それが前提です。区別があるという点からすると、二元論的だと言えなくはないが、二者を分ける境界線がハッキリしない、という意味では非二元論的、そう受けとってください。

 難しい言葉をできるだけ避けたいのですが、このさいやむをえません。〈もの〉が意味するのは、主客未分(ないし合一)と主客対立のどちらでもない、中間のあり方ということです。わかりにくい言い方なので、事例を挙げて説明します。ご自分の身の周りにあるものを見回してください。私の机の上にあるのは、パソコンや筆記具、メガネ、マウス……。私は、こうしたいろんなものに取り巻かれています。でも、私はそれらの存在を強く意識することはありません。なぜなら、それらの品物は、必要に応じて使い分けられる道具として、一々の存在を意識しなくてもよいように配置されているからです。パソコン、マウス、メガネ……これらは、私にとって別々にあるというのではなく、「文章作成」という一つの目的に沿って、それぞれの道具としての役割を果たしています。このように日常用いられる道具は、一つ一つが単独で機能しているのではなく、すべてが「~のため」という仕方で道具連関に組み込まれているのですから、そのうちの個々の道具が目立つということは、ふつうありません。とはいうものの、たとえば私には、「メガネ」を意識するということが、たまに生じます。それは、パソコン操作になくてはならないその用具が、たまたま見当たらないといった異常事態によって、逆にそのものの存在がクローズアップされる、という出来事です。つまり、それの欠如によって、その存在があらわになるという例です――病気になって、はじめて健康のありがたみがわかる、ということとよく似ています。

 いま申し上げた例が、20世紀の哲学者ハイデガーの『存在と時間』という本に書かれていることを、哲学の勉強をした人ならご存じでしょう。ハイデガーは、人間の環境を構成する事物が、「目立たなさ」のうちにあるということを、見事に解明しました。この哲学者を好かない私――変人です――でも、〈日常世界の道具連関〉の分析だけは、文句なしに脱帽します。まさにそのとおりである、と。そう持ち上げた尻から何ですが、道具的なあり方というだけでは、〈もの〉の説明としては不十分だ、と申し上げたい。なぜかというなら、語義的説明の際に認めたように、〈もの〉には、いくらか近づきがたいよそよそしさ、得体の知れなさ、といった面があり、それは道具のもつ近しさの対極に位置するからです(「人」の場合なら、それを「者」の他者性、といってもよいでしょう)。要するに、〈もの〉には近さと遠さの両面がある。人間に対立させられた〈自然〉には、そういう二面性が感じられません。ですから、「自然破壊」と「自然保護」のいずれか、という図式になってしまうのです。「人間と自然」セットにしてしまうと、人間かそれとも自然か、という二者択一が避けられない。それをのりこえる道が、〈自然〉から〈もの〉への視線変更である、と申し上げるゆえんです。

 

〈自然〉から〈もの〉へ

 ハイデガーの分析を参照しましたが、〈もの〉は道具とイコールではありません。では、二元論でいう「主体」に対立する「客体」か、といえばそうでもありません。「道具」と「客体」のいずれでもないような何か、毎回のエッセイでおなじみの言い方をさせていただくなら、道具と客体の中間(あいだ)に位置する何かである。このことを、〈自然〉との比較で考えてみます。〈自然〉は抽象名詞であり、同時に集合名詞であると考えられます。たとえば、森の中の木立。木々はそれ自体、自然の一部であるものの、〈自然〉そのものではありません。自然に属する個々の事物を超えた、その総称が〈自然〉と呼ばれる。その意味において、〈自然〉は集合名詞です。そういう〈自然〉に比べるなら、〈もの〉は一つ一つが個別的で、独立に存在します。この点は、「者」を考えると、より確かです。私の前にいるのは、何者であれ一個の「人」である。ですから、それがどういう相手かはさておき、私とその者とは人格的に相対します。その相手を、客体的な事物のように適当に処理することはできません。「人」である「者」に対して、それなりの対応をする必要があるわけです。つまり、〈人と人のあいだ〉が、そこに開かれることになります。

 「物」の場合は、どうでしょうか。「人」について見たことが、「物」にも当てはまります。それは、「物」の一つ一つが、それぞれにしかない〈意味〉――「表情」と言いたいような雰囲気――をもって立ち現われてくる、ということです。私が着用している腕時計は、市販の工業製品ですが、それを贈ってくれた人の記憶とともに、かけがえのない価値をもつ貴重な〈もの〉として、私に現れてきます。それを大切に思うことは、「人」を思うことと区別しがたいまでに、一体化しています。それが二元論的な客体ではないという点から、〈人ともののあいだ〉が開かれている、と私は考えます。

 前回の〈人と人のあいだ〉に続く、今回のテーマ「〈自然〉から〈もの〉へ」。このテーマを考えるうちに、見えてきたのは〈人と人のあいだ〉〈人ともののあいだ〉、この二つの〈あいだ〉が、たがいに切り離せない仕方で結びついているという事実です。〈人と人のあいだ〉を開こうとするなら、〈人ともののあいだ〉を開かなければならない。逆もまたしかり。というのも、〈もの〉には、それが人であれ物であれ、それにかかわる人(私)とそれとの〈あいだ〉が開かれる事態が、想定されているからです。このような関係性は、二元論の主客関係には含まれていません。ということは、〈もの〉という日本語を手がかりにすれば、ひたすら客体的対象と化した自然(および人間)の支配、という状況を変えていく可能性が開かれるかもしれない、ということです。そこから具体的にどうするかは、この先の課題です。今回は、〈自然〉から〈もの〉への視線変更について、いささか考えてみました。しかし、環境危機がそれだけで片づく問題でないということは、重々承知しています。これにつづいて、〈もの〉から〈自然〉へ、という逆の方向も考えなければなりません。その準備の第一歩、と受けとめていただければ、幸いです。

 

 

コメント

    • 菅野
    • 2020年 7月 22日
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    初めてコメントいたします。
    本日こちらの「出会いの広場」を知り、非常に興味深く「<あいだ>を考える」のシリーズを一気に読んでしまいました。
    二元論からある程度離れたうえで、ではどの立場から物事を考えるのが良いのだろう?と思って過ごしておりましたが、そのきっかけが少なからず見えたように思い、とても有難く感じております。

    さて、<人ともののあいだ>という点についてふと疑問に思ったことがあり、コメントを残したく存じます。
    その疑問というのは、最後から2つ目の段落に書かれている「<もの>が与える<意味>」についてです。

    突然の例ではありますが、私の祖母は浄土宗でして、毎日早くに亡くなった祖父の位牌に手を合わせておりました。
    子どもながらにその姿は強く記憶に残っているのですが、このときの祖母にとって、「物」である位牌はそのまま「祖父」であったと思います。
    ここに人とものの関係が現れていると思うのですが、もし仮に、幼い私が位牌を壊してしまい、そっくり似た位牌Bを作り、それに気づかず祖母が毎日位牌Bに手を合わせていたとしたら、祖母が向き合っている<もの>は、いったい何になるのでしょう。

    ここで気になったのは「もの自体には意味(価値)がないのではないか」ということではなく、「ものと向き合う人の姿勢や態度が意味(価値)を生み出すとしたら、<あいだ>は人からものに働きかける際に生まれるものなのか」ということです。

    このように考えてしまうと<人ともののあいだ>の関係性は「人」の側に主導権があるように感じられるのですが、おそらくそうではなく、両者が互いにその<あいだ>を作るものではないかと、おぼろげながらに理解しております。
    だとすると、上記のような状況において位牌B(物)が果たしていることは一体何なのだろうか……といったことを考えておりました。

    この問いはいわゆるイミテーションやデジタルコピーの問題にもつながる気がしておりまして、「本物を見分けられない人間の愚かさ」なのか「(物質的には)偽物であっても本物の価値を得られる尊さ」なのか、あるいはその両方を兼ね備えたものが人間であるのか、といったことも個人的には興味深い問いだと感じております。

    脱線してしまいましたが、今後のエッセイなどでこうした点にも少しでも触れていただけましたら大変嬉しく思います。
    思いがけない長文で、大変恐れ入ります。次回のエッセイや今後の活動も、とても楽しみにしております。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 7月 24日
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     菅野さんの貴重なご意見を、ありがたく拝読しました。従来、「自然」として漠然と捉えていた領域を、今回初めて〈もののネットワーク〉という視点から、見直す機会を得ました。なにぶん不慣れなテーマなので、これまでのようにはスラスラ書き進めることができず、手こずりました。それをきっちり読みこなして、問題提起をしてくださったことに感謝します。
     二つ、重要な問題を提起されました。一つは、〈人ともののあいだ〉を主導するのは、〈人〉と〈もの〉のいずれか、という問題。どちらか一方のみではない、というのがさしあたりの答えですが、二元論の単純な枠組みから離れて、どういう説明ができるかは、非常に難しい。〈もの〉が〈人〉に「手がかり」を与え、人がそれを利用して〈もの〉に近づく、という考えをしているのは、ギブソンの「アフォーダンス」(『生態学的視覚論』)。これだと、人にも〈もの〉にも、それぞれの出し前があることになります。私が指導を受けたオギュスタン・ベルク先生は、この考えを支持して、アフォーダンスを「手がかり」(prise)と仏訳しています。
     もう一点、人に働きかける〈もの〉の本物性という問題も、複製文化全盛の現代、まともに向き合わなければならないテーマであると思います。〈人ともののあいだ〉は、こういった問題の拡がりを考えると、容易に片づくテーマでないことは確かです。引き続き考えていくつもりですので、どうかよろしく。

      • 菅野
      • 2020年 7月 28日
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      木岡さん、お忙しい中ご丁寧にご返信いただきまして、本当に有難うございます。
      「アフォーダンス」という言葉は聞いておりましたが、「手がかり」と訳されるとまたイメージが膨らむ気がいたしました。
      今後のエッセイも拝読しながら私自身も考えを深めて参りたいと思います。今後とも、何卒よろしくお願いいたします。

    • 小室
    • 2020年 7月 29日
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    今回のエッセイ、大変面白く読ませていただきました。
    「人と自然」を「〈自然〉から〈もの〉」へと展開されたのは、とてもわかりやすく、納得できました。
    「自然」「もの」という言葉だけでも、いろいろな意味がありました。普段私たちは言葉化したことで安心し、会話においては特に、掘り下げようとせずに進めていきます。言葉で、それらの全体を包括的に言い表す事に慣れていて、適当に話をしていると思います。今回のエッセイは、そこに含まれる一つ一つが丁寧に語られていて、意識していない言葉に気づきました。
    先生は、〈あいだ〉のように〈 〉で囲んで示されていますが、単に あいだ ではない言葉の意味付けが伝わります。

    人でも物でも、同じ〈もの〉の意味をもつのが、日本語にはあって西洋の言語にはないこと。日本人の生きる世界には、中間的な〈もの〉があるということを、多くの日本人は自覚していないと思います。けれども、〈自然〉〈もの〉の先生の細やかな説明は、すんなりと理解でき、無意識に日本人のもつ中間的な捉え方が私には身についているのだと気づきました。私は一般的な(たぶん)50代です。どうしてかいつからか身についたのかは具体的にわかりませんが、今の若い世代、子ども達にも身についているのでしょうか。先生の言われる「日本人の表層意識から追放されたかに見える〈もの〉の存在感が、いまも心の底に健在である」が、壊れてきてはいないのでしょうか。
    「アルコール依存症」が取り上げられましたが、まさに今、このような向かい方が必要とされていると思いました。
    悪いもの害を及ぼすものは、抹殺してしまおうという考え方が、いま主流ですよね。二元論は対立させる構図で、継続的に混沌の中に問題を置いておくという解決策はあり得ない。コロナ禍、有名人の自死や不倫など、哀しいほどに早く決着(二つに一つの答えを選べと)をつけろと主張する人たちが多い。今の日本は、二元論で簡潔に解決することが良い事だとされがちです。それが主流となり、誰もが二元論で語るような世の中になることを危惧されている木岡先生の声がもっと多くの人に(若い人たちに)届いて欲しいと思います。

    • 木岡伸夫
    • 2020年 8月 01日
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    話が通じるだろうかと危ぶんでいた今回のエッセイに、深い理解を示してくださった方が複数いらっしゃることを、ありがたく受けとめました。菅野さん、小室さんのお二方とも、私(69歳)と年齢的に大きく離れていない(?)とすれば、二元論的思考の全面的支配に対する違和感が共有されていることも頷けます。その感じ方が、もっと若い世代にも通じるものかどうかは、他の反応を見なければ、何とも言えませんが。

    • 浦靖宜
    • 2021年 3月 09日
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    お久しぶりです。
    最近、なかなかエッセイを拝読する時間が取れなかったのですが、そろそろ新年度も始まることもあり、改めて拝読していきたいと思います。

    面白いエッセイでした。

    「もの」は本当に言い得て妙な言葉ですよね。

    英語だとObject「対象」であり、操作される側という感がどうしても出てしまう。

    ここ数年、盛り上がっている思弁的実在論の中に、ハーマンの対象指向存在論「Object-Oiented Ontology 略してOOO(トリプルオー)」がありますが、木岡先生の今回の議論と通底するものがあると思います。

    日本人こそ、この手の議論が得意なように思われるのに、最初に論客として現れるのは大体外国の人(ハーマンは米国人)で、後から日本の哲学徒が「ハーマンによれば云々」となるのは、惜しいですよね。
    本当は、日本人こそ、この手の問題を考えてきたのにも関わらず、その系譜が継承されていないということが問題なのでしょうね。

    • 木岡伸夫
    • 2021年 3月 10日
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     菅野さん、小室さん、お二方からのコメント以後、絶えて投稿がなかったこのコーナーに、かつての常連、浦さんから書き込みがあったのは、サプライズ。最近考えついたこととはいえ、このテーマにはこだわりがあり、その後も課題意識を引きずっています。
     2.21更新の「新着情報」で、エコロジカル・ミームを主宰されている小林泰紘さんの活動をご紹介しました。小林さんの姿勢は、自分が向き合う人・ものとの〈あいだ〉を開いていこうというもので、拙著『〈あいだ〉を開く――レンマの地平』について、懇切入念な感想文を書かれています(「新着情報」中のURL参照)。当方からおススメした本エッセイについても、共感のメッセージをいただきました。
     読書会のテクスト『随眠の哲学』の中で、山内得立は、日本語の「もの」に、「者」「物」の両方の意味があることに注目して、「もの」の根拠を「故の論理」で説明しようとします。存在と存在の根拠との関係が、この書物の主題。『ロゴスとレンマ』で取り上げた、仏教的な縁起思想だけでは得難い「根拠」への視線を、京大で教えた西洋古代・中世哲学から受け継ぐ形で、現代に活かそうとしているのです。ちなみに、彼が東西両世界の出会いのカギと見た「アナロギアの論理」を、より具体的なものに仕上げることが、私の最終目標です。
     ハーマンの名を初めて目にしました。マルクス・ガブリエルなどと同じく、現代の西洋に新しい風が吹いてきたということでしょうか。ですが、90年前の西田幾多郎に、ポストモダンよりずっと進んだ環境思想があることに、西田教の信者がだれ一人気づいておらず、ましてやその弟子山内の偉大さが目に入らない、というのがこの国の現実。ご指摘のとおり、舶来のブランドに頼るしかないのでしょう。
     日の本に新しきものなし!

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