あいだを考える(2)
――個と全体――
先月(4.21)更新したエッセイには、作成した私が驚くほどの反響がありました。どちらかといえば時事ネタである、番外編「コロナウィルス雑感」と、新シリーズ「あいだを考える(1)――二元論をめぐって」の二篇。エッセイの後に書き込まれたコメントの数は、「雑感」が圧倒的に多いのですが(5.15までに34、「出会いの広場」への投稿を含めると40以上)、それに比べるとカタイ内容の後者も、「出会いの広場」への投稿がいくつかあるなど、それなりに健闘(?)しています。二つのエッセイを比べると、テーマが多くの方に関心の高い前者と、学問的アプローチが目立つ後者の性格・内容は、かなり異なります。しかし、そんな違いのある二つのエッセイがどうつながっているのかに、関心をもたれた読者がいるのかしら――そんな気もする、この頃です。
著者として、この反響の大きさをどう受けとめるか。今月、まずはその点から。
哲学への期待
何よりも挙げたいのは、「ウィルス感染」という問題をきっかけに噴き出してきた、哲学に対する期待の大きさです。ウェブサイトを立ち上げるさい、私が願ったのは、これまで哲学に対して何ほどかの関心を抱くことはあっても、自分はそんな難しい学問には近づけない、哲学には縁がない、と思い込んでいた人たちに、哲学対話に参加するための機会、場を提供する、ということでした。そういう気持ちは前々からありましたが、大学教師という立場上の制約から、十分に対話の場を開くことができませんでした。その願いをかなえるべく、勇んで各種のページを作成したつもりでしたが、先月まで、さしたる反応が見られませんでした――一部の熱心な方から、貴重な投稿をいただいている身でありながら、「こんなはずではない」という不満を抱えていました、厚かましくも。
30年以上の教師生活を終えた現在、何の気兼ねもなくやりたいことができる身となったはずなのに、こちらが仕掛ける哲学対話に、あんまり人が乗ってこない。こちらがそういう不本意な毎日を過ごしていた矢先に、平穏な日常生活に降ってわいたような今回のウィルス感染禍。それを機に、「思いがけず対話の輪が広がった、ラッキー!」という言い方は、この問題で苦しんでいる人たちのことを考えると、あまりに不謹慎かもしれません。しかし、サイトの主宰者として、そんな気持ちがあることを白状します。
それにしても、哲学対話とウィルス感染の問題に、どういうつながりがあるのでしょうか。先月の番外編「コロナウィルス雑感」では、この問題に対する哲学の関わりを「心の問題」に絞り、「差別」についての議論を紹介するところから入りました。とはいえ、ふつうに考えるなら、コロナと哲学は無関係と思われるでしょう――GWの連休に入ったころ、夜の報道番組(BSフジ『プライムニュース』)で、「哲学・倫理学・思想史から考える」という特集が組まれているのをたまたま見かけて、ビックリ。若い哲学者(こちらの存じ上げない方)が、「言葉」の重要性を論じていたようですが、余裕がなかったので、すぐに切ってしまいました。ご覧になった方の感想を伺いたいものです。
哲学は、世間で起きるどんな出来事にでも口を出すような学問かといえば、そうではありません。哲学が何かを言おうとするのは、ある出来事が、社会にとって見過ごすことのできない重大な意味をもつ場合、より限定して言うなら、世界の動向とそれにかかわる人間の生き方を左右する切実な問題である場合です。今回のウィルス感染禍は、間違いなくそういう問題に入ります。ニュース番組が、哲学者をゲストに呼ぶには、それだけの理由があるわけです。そういう場合の哲学者への期待は、こんなに深刻な事態をどうとらえたらよいのか、その中で自分はどう生きたらよいのか、という世間の問いかけに答えること。これも間違いないと言えるでしょう。哲学者の一人として、いま世間からそういう期待が寄せられていることを、感じないわけにはゆきません。
エッセイの方針変更
「エッセイ」とは「試みの論」(試論)であるということを、先月の「雑感」でお断りしました。高卒程度の教養が身についた人なら、誰が読んでもわかるように書くつもりである、とも。それでお判りのように、私にとって「エッセイ」とは、ひとまず「論文」であって、ただそれをできるかぎり読みやすく書くというのが、これまでの論文とは違う姿勢であったわけです。そういう姿勢で、「テクノロジーの問題」シリーズ(全5回)を書き上げ、それに続いて、先月から「あいだを考える」のシリーズに入りました。
ところが、「コロナウィルス雑感」という「論文」らしからぬテーマ・内容のエッセイに、想像を超える反響があった。それが論文であるかないかに、読者の関心はなく、いま考えたい切実な問題への関心から記事に飛びついた、という実情が明らかになったわけです。このことから私は、これまでのエッセイの方針を変えることを考えつきました。それは、何をテーマに取り上げるにしても、それに対する読み手の反応を重視し、実際に顕われた反応を正面から受けとめ、次に書く内容に反映させる、いわゆる「フィードバック」を行う、ということです。
「フィードバック」とは、具体的に何をどうすることなのか。エッセイの後の「コメント」欄に投稿があれば、それに対して返す形で、誰もが対話に参加できることになっています。私自身、一人の方から毎月、意見・質問が寄せられている事実に、最近になって気がつき、遅まきながら応答のコメントを返しています。ほかエッセイに直接関係しないことでも、何でも気楽に意見を出せる場、というつもりで、ホームページ最後に「出会いの広場」を設けています。最近になって、この「出会いの広場」に投稿する方が増えてきました。訪問者同士が言葉を交わし、対話の輪を広げている事実は、多くの方がご覧のとおりです。退職に合わせてウェブサイトを開設したことの最大の目的は、一般市民が参加する対話の場を開くことでしたから、ようやくその意図が実を結んできた、ということができます。主宰者にとって、これ以上の喜びはありません。
交わされる対話を読んでいると、驚くほど深い意味をもった哲学的な問題が、しばしば取り上げられていることが判ります。例えば、「コロナウィルス雑感」の後のコメント欄では、自己責任論、個人主義対全体主義、功利主義とは何か、といった哲学・倫理学のメイン・テーマが、最近のウィルス感染禍に絡めて話題に挙げられ、忌憚のない意見交換が続けられています。対話の中心である方々(kibaさん、浦さん、土屋さんなど)以外にも、そのやりとりに触発された方が途中から参加する、というプラトンの対話篇さながらの情景が繰り広げられていることを、みなさんご承知かと思います。私自身、たまに「出番」を意識して発言することもありますが、他の方々の演じる対話劇に拍手する一観客、という立場を楽しんでいる、というのが正直なところです。以前、kibaさんに個人的に申し上げたように、哲学対話は原則「言いたい放題」、何らかの正解に着地させるような学校的権威主義を否定することで成立する、というのが私の考えです。そういう立場での「フィードバック」とは、対話の内容を意識したうえで、それについての考えを、エッセイ――書き手は私のみ――に織り込むということです。ご理解いただけるでしょうか。
個と全体
そうは言っても、「フィードバック」はどんなときでも簡単にできるわけではなく、それなりの工夫が求められます。「あいだを考える」という今シリーズの狙いは、私の風土学の根本理念である〈あいだを開く〉ということの意味を、誰もがわかる言葉にして伝えることにあります。しかし、「ウィルス感染問題」といった異次元のテーマに沿って、そういう狙いを実現することができるでしょうか。工夫が必要なのは、まさにこの点です。私は、先月書いた「雑感」の延長線上で、このテーマにつながる仕方で、〈あいだを開く〉ことの重要性を説くことができるのではないか、と考えます。以上、前置きが長くなりましたが、これからそういうフィードバックの実例をお目にかけるつもりです。仏教でいう「機を見て法を説く」類の試み、と受けとっていただければ幸です。
ウィルスの感染拡大を防ぐための外出自粛。これは、5月末までの「緊急事態宣言」延長が決定した5月4日以降、私たちが受け容れないわけにはいかない公的な要請として、重大な意味があります。外出「自粛」は、外出「禁止」ではなく、個人の自由を認めるという点で、中国や欧米各国で強行された都市封鎖とは違う。このことは、この間ずっと強調されてきました(先月のエッセイで、私もその点に言及しました)。これに対して、ウィルスの被害は個々人にとどまらず、社会全体に波及する問題なのだから、個人の自由よりも公共の利益を優先させるべきだという意見が、読者のお一人から提出されました。その方向で考えるなら、たぶん外出の自由は認められない、外出「禁止」とすべきだ、という結論になるでしょう。ここからはじまって、私を含めた複数名による議論、対話が展開したことは、記憶に新しいところです。
そこで提起されたのは、個人と社会、個と全体の関係はどうあるべきか、という古典的な倫理学の問題です。この問題は、何も外出自粛の件に限らず、現代社会のあらゆる場面にかかわる重要なテーマだと考えられます。そういう問題について、〈あいだを開く〉風土学の立場が有効に対応できるかどうか。このことを今回のエッセイで、試してみたいと思います。
社会の中で暮らす以上、自分のことが大切であると同時に、自分以外の人々のことも大事であるということは、誰でも判っています。もちろん、「そんなことはない、大事なのは自分だけだ、他人のことなどどうでもよい」という「利己主義」こそ、人間の本性だと言い張る人も、相当数いるでしょう(小理屈を覚えたばかりの学生に多い)。結構です。自分の利益が最優先する、という考えを認めましょう。自分か他人か、しいて言えばどちらの方がより大切か。そういう問い方をされた場合なら、いくらか迷った後、「やっぱり自分だ」と答える人は、ゴリゴリの利己主義者よりもきっと多い、もしかすると、大多数の答えかもしれないと思います。
議論の都合上、「利己主義者」を二つに分け、自分だけが大事だと主張するタイプを①「強い利己主義」、自己利益以外に他人の利益を考慮するタイプを②「弱い利己主義」と呼ぶことにします。すると、①は自己矛盾を生じて自滅する、ということがすぐわかります。なぜかと言えば、自分が他人の思惑を無視して、純粋に自己利益だけを追求しようとした場合、他の誰もそれを許さないために、利己的な行為自体が成立しないからです。利益の独占ということは、企業活動においても、個人の日常においても、決して許されない。このことを、身をもって体験したことのない人がいるでしょうか。いるはずはない。独占は、それを試みた途端に、周りから手厳しく処断され、懲罰を受け、その社会ではもはややっていけないことになる。すなわち、①「強い利己主義」は、頭で考えることはできても、現実には実行不可能です。世に通用するのは、すべて②「弱い利己主義」ということになります。
利己主義は人間に普遍的な性向で、だれにでも具わっているものです。しかし、それを成り立たせるには、我欲を一定程度セーヴして、他人の利益にも配慮しなければなりません。この道理をよく知っていたアダム・スミスは、利己と利他のバランスをとる「共感」を柱とする「反独占」の経済学をうちたて、資本主義経済の土台を築きました。私たちは誰も、言ってみれば、微温湯的な利己主義者です。それは、自分の利益をいちおう最優先に考えるものの、それと大差のない程度に他人の利益をおもんぱかる習性を身につけて、世渡りをしています。利己と利他のバランスがとれないアホでは、この世の中を生き抜くことはできません。別の言い方をするなら、「義理人情」の「義理」を重んじる生き方、と言ってもよい。それは、ギブアンドテイクで世間が動いている事実を弁える、ということです。「個人主義か全体主義か」も、一見すると「利己か利他か」と同じ二者択一のように見えますが、そうではなく、どちらの要素もたがいに必要とし合うような相互依存的な関係を表します。
日本人の倫理
演歌のような義理人情の世界に通じた人なら、上に言ったことの意味がお解りになるでしょう。それは、日本人の奥深くに生きて動いている論理を表し、「本物」の哲学者――「哲学者」を名乗る人の中で、そんなに多くはない――なら、かならず反省のテーマにしている問題です。〈あいだ〉の意義を私に教えてくれた和辻哲郎を例に挙げて、説明しましょう。
和辻倫理学と呼ばれるその体系は、『倫理学』上・中・下の三巻(岩波文庫版で4分冊)からなる大著。これだけ大きなまとまった倫理学理論をつくり上げた学者は、西洋にもいません。そのはじめの方の「序論」で、和辻は個と全体の関係を、「弁証法」という専門用語を使って説明しています。メンドウな理屈は抜きにして、この人が言いたかったことの大筋をかいつまんで言うと、個人と全体(具体的には国家)のどちらが大切か、という問いに対して、どちらがより大切ということはなく、どちらも大切だ、ということに尽きます。何だ、そんなことか、と思われるでしょうか。それがなかなか、そう簡単な話ではないのです。
ふつうに考える人なら、例えば、コロナウィルスの感染拡大に対して、自分の命を守りたい、まずは自分の身が大事だと思う。そういう点だけ見れば、その人は「個人主義者」ということになる。ところが、同じ人に向かって、じゃあ、あなたは自分以外の他人がどうなってもいい、場合によっては死んでもいいと思いますか、と訊ねたなら、たぶん誰もが、そんなことはない、他人を含めた社会全体を守らなければならない、と答えるはずです。つまり、個人も大切だが全体も大切。どちらかだけを選ぶ、というような単純な選択はありえない。このことに、どなたも異論はないだろうと考えます。
個人と全体のいずれかを選ぶというのでなく、個人も全体も両方選びたい、というのが人情。ところが、哲学・思想の世界では、個人主義かさもなければ全体主義か、という二者択一の議論になる。Aか非Aかのどちらかしかなく、どちらでもないとか、どちらでもある、という言い方による〈中間〉を認めないというのが、矛盾律を土台にした哲学的論理の基本です。私が「二元論」に異を唱えるのは、Aか非Aかの二値論理――それ自体、何も間違ってはいません――以外に、論理を認めない態度、Aでも非Aでもないがゆえに、Aでも非Aでもある、というあり方を否認する、そのかたくなさが気に入らないからです。二元論者は、矛盾律・排中律こそが「論理」であって、中間を認める「容中律」などは論理ではない、と言います。結構、そういう「論理」を神棚に祀っておくがよろしい。しかし、対立する二つのものの〈あいだ〉を右往左往しながら、何とか答えを見つけ出そうともがいている人々の現実を、何とも思わないのか、このバカヤロー!と言いたい気がします(ゴメンなさい、ついカッとなるのが、私の悪い癖です)。
和辻倫理学
「間柄」をテコに、独自の倫理学体系を築いた和辻哲郎。和辻は、全体と個のはざまで翻弄される人間の問題を、正面から考えました。戦争中の国家と国民の関係に具体化すれば、問題の重さがお判りになるでしょう。自分はお国のために死ぬのは嫌だ、自由に生きたい、というのがふつうの人間感情です。しかしその反面、徴兵されて戦地に赴き、敵と戦うことは国民の義務だから、国家に背くことができない、という感情がある。二つの感情は対立し合い、矛盾そのものです。個人と国家、両者の葛藤をどう生き抜くか、という戦時中のテーマは、まったく異次元のような今日のコロナウィルス感染問題とも、根でつながっています。対立する二者のどちらかを選べば、それで事が済むというような単純な問題ではない、という点はどちらも共通しています。
和辻は、「個と全体の弁証法」をつうじて、個と全体の〈中間〉を開こうとしました。そういう発想に立てたのは、彼が若くして大乗仏教の「空」の考え方になじんでいた経歴からです。その考え方で、〈中間を開く〉とは、具体的にどういうことなのか。説明がやや理屈っぽくなりますが、こういうことです。まず、個が個であるのは、全体に対立し、全体を否定することによってである(国家に背きたい、という意識がめざめることで、個の自覚が成立する)。逆に、全体が全体であるのは、個に対立し、個を否定することによってである(個を全体に従わせることによって、国家が成立する)。この二つの事柄は、個人と国家がたがいに対立し、矛盾する関係を表します。
ここからが、「空の論理」の出番。個が全体を否定することができるためには、全体の存在を前提しなければならないし、全体が個を否定するためには、個の存在を前提しなければならない。すなわち、全体があってこそ個があり、個があってこそ全体があるというように、個と全体は、たがいに他がなければ存立できない相互依存――「相依相待」(そうえそうだい)――の関係にある。関係する二者が、たがいに否定し合うことによって、たがいを肯定し合う、という「否定即肯定」の関係が、「個と全体の弁証法」に適用された「空」の論理です。
「何やそれは?」という声が返ってきそうです。肯定と否定がこんがらがって、どうなっているのかわからない、というのが大方の感想ではないでしょうか。白黒をハッキリさせる「論理」からすると、そんなものは論理ではない、と言いたくなる気持ちもわかります。わかりますが、そういう方に向かって、逆に、個人主義か全体主義かの二分法で、個と全体の二者択一でない考え方、生き方が可能になりますか、とお訊ねしたい。二分法、二元論――どちらでも同じこと――は、〈あいだ〉(中間)を認めない。個と全体の葛藤をのりこえる「論理」は、そこには用意されていないのです。
「志」あるいは個と全体の〈あいだ〉
和辻の「弁証法」を活かそうとする、私の考えをご説明します。個か全体か、どちらかを選べ、という二者択一に対して、どちらかではなくどちらも、というのが和辻の考えでした。そのとき、二つの道が考えられます。二つの道とは、個人を全体に一致させようとするか、それとも全体を個人に一致させようとするか、このいずれかであって、それ以外にはありません。第一の道は、おそらくほとんどの日本人がとったように、個人の自由を「お国のために生きる(死ぬ)」行為に一致させて、戦地に赴く行為。第二の道は、そうではなく、個人の信条を国家が認めて受け容れるよう、個が強く意思表示するという行き方。えっ、そんな道があるのか、と疑われるでしょうが、戦争中の日本には、その道をとったと解することのできる人物――ごく少数ですが――がいます。一人挙げると、信仰を楯に兵役を拒否して投獄された宗教家明石順三(1889-1965)。アメリカのヴェトナム戦争遂行中に、「良心的兵役拒否」を実行した例があることは、よく知られています。明石の例は、日本におけるその先駆けと目されますが、国家に対する姿勢が違います。「良心的兵役拒否」のケースでは、主として信仰上の理由から、殺人に加担する兵役を拒む――その点までは、同じです――けれども、その代わりとして何らかの公的労役に就く、という点で国家に対する忠誠心を否定しません。この後の点で、戦争反対を公言して投獄された明石とは異なります。と言えば、それこそ反全体主義、つまり個人主義ではないか、と言葉を返されるかもしれません。二元論的思考しか頭にない人なら、そう主張するでしょうが、そうではない、と私が考える理由を説明します。
明石順三とは何ものか。昭和から平成への代替わりに際して公刊された『天皇百話』(上の巻、ちくま学芸文庫、1989年)に、この人物のプロフィールが紹介されています。出典は、稲垣真美『兵役を拒否した日本人――灯台社の戦時下抵抗』(岩波新書、1972年)。滋賀県に生まれ、渡米した後、キリスト再臨思想を中心として、戦争を否定する無教会主義の宗派ワッチタワーの信者となる。ワッチタワー総本部は、日本支部をつくるため明石を日本に送り、明石は支部を「灯台社」と名づけて活動した(その名からお判りのとおり、現在活動する「ものみの塔」につうじるものの、それとは違います)。
満州事変以後、徴兵された灯台社メンバーは、兵役を拒否。法廷に立った明石は、戦争否定の立場を法廷でも貫き、「一億対五人の戦い」(本人証言)を貫いたものの、懲役10年の判決を受ける。敗戦後、アメリカの戦争遂行に加担したワッチタワー総本部の行為を知り、批判。ために除名処分を受ける。こういう特異な生き方をした人物です。
信仰にもとづく兵役拒否は、個人の信念だから、明石のふるまいは個人主義の表れ。そう理解する人が多いと思います。たしかに、どういう神を信じ、どう行動するかは、個人の自由である。しかし、神の教えに沿って戦争に反対することは、自分一個のためではなく、社会ひいては人類のための行為である、という確信が明石順三にあったとすれば、それは、個が全体に一致するのとは正反対に、全体が個に一致する道を切り拓いていると考えなければなりません。個人の発意が、国のため、人類のため、というような広大な展望をもつ場合に、そのありようは、昔から「志」と呼ばれてきました。
「志」は、日本人の精神に脈々と生きています。汝の意志の格率が、同時に万人のそれでもあるような仕方で行動せよ、というカントの有名なテーゼ。それを誰でもわかる言い方に換えるなら、各自「志」をもって行動せよ、ということです。そのことが、個か全体か、という形式的な議論しかできない倫理学とは異なる、風土学の〈あいだを開く〉立場であることを申し上げたつもりです。私の真意がお判りいただけるでしょうか。
残念ながら、「空の論理」ないし「中の論理」がもつ本質的射程を、和辻倫理学が具体化したとは言えません。戦前から戦後にわたって書き継がれた『倫理学』は、個が全体に従う第一の道を「国民道徳」という形で示唆することはあっても、個人の志を活かす第二の道を切り拓く方向には進みませんでした。和辻と問題意識を共有した田辺 元の「種の論理」も、結果的に同工異曲と言わざるをえません。進歩的な倫理学者の方々が、口を極めてこき下ろす京都学派の、本当に活かせる思想的部分、私たちが引き継がなければならない遺産は、手が着けられずに眠ったままなのです。
さて、和辻倫理学をダシにした「個と全体」についての考察。現在のウィルス感染による「外出自粛」等の問題に、応用できるでしょうか。このエッセイを本気で読んでくださった方なら、個人の自由と社会全体の利益、どちらが上か、などという議論には与されないと思います。私が何かの意図をもって外出する。それが「不要不急」か、そうでないかの判断は、すべて私個人にかかっています。「自分が感染する/他人を感染させる」リスクを冒してまで、外出する必要があるのかどうか。それに対して、それをすることが自分に必要であるとともに、社会にとっても有益である、という判断に自信がもてたなら、私の外出は個と全体の〈あいだを開く〉行為である。そう言えるような場面を、ぜひ生み出したいものです。
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一月ほど前に急に参加し始めてから、やたらとコメントするようになり、物理的に読む量を増やしてしまって大変申し訳ございませんと感じている浦です。
エッセイも今回からより読者からのフィードバックを意識した内容となるようなので、今後のコメントも頑張ります。
テレビはあまり見ず、BSはそもそも見れないので、紹介された番組は未見ですが、出演者は日本思想史が専門の先崎彰容(せんざきあきなか)氏とヴィトゲンシュタインの解説本等で知られる古田徹也氏だったようです。(以下、1ブロック本紹介)
前者は私は『未完の西郷隆盛』(新潮選書)を、途中まで読んで絶賛積読中です。近代と反近代で揺れる西郷隆盛を同時代、そして後の時代の思想家や文芸批評家がどう論じてきたかを論じた本です。積読しといてなんですが、普通に勉強になります。別の単著『個人主義から〈自分らしさ〉へ 福澤諭吉・高山樗牛・和辻哲郎の「近代」体験』は今回のエッセイと関わる内容かもしれません。(読んでないので、適当に言ってますが)
後者は私は『言葉の魂の哲学』(講談社メチエ)『不道徳的倫理学講義−人生にとって運とは何か』(ちくま新書)をやはり途中まで読んでちょっと止まってます。(おいっ)
『言葉』は言葉と意味との関係について中島敦やホーフマンスタールの小説(二人は言葉と意味の結びつきを喪失した者の話を書いています。後者は最近、光文社古典新訳で『チャンドス卿の手紙』が出版されましたが、まさにそれです。興味のある方は是非。)を題材にして、ヴィトゲンシュタインやクラウスの言語論につなげています。『不道徳』の方は「正しいことをなせ」「やったことの責任をとれ」という倫理学と「うまくいった、いかなかったは運」「お前が悪行をなしたのもある程度は運」という現実との兼ね合いについて、古代ギリシアの哲学から現代のトマス・ネーゲルまで、時代を追って参照して論じています。モラルラック問題(道徳的運問題)は私個人も結構好きな(?)問題なので、そういうのに興味のある方も是非。
以上、本紹介でした。
さて、これまで木岡先生の議論にコメントし、お答えいただいたことを通して、部分部分については見解の相違(単に私の理解不足によるところが多いですが)があっても大筋としては、そんなに違いはないような気もしますので、今回は木岡先生の議論の補足を行いたいと思います(ただし補足が木岡先生の意図するところと異なる可能性、間違いを含んでいる可能性はあります)
このコメントでは木岡先生によるこれまでの西洋の形式論理批判について補足します。
まず私自身の反省として、木岡先生は形式論理そのものを批判している、つまり矛盾律や排中律それ自体が誤りであるといった論を展開していると読んでいました。
木岡先生は何度か「西洋の論理自体が間違っているとかいう単純な話ではない」と注意を促していました(今回も「Aか非Aかの二値論理――それ自体、何も間違ってはいません」と言及されていますね)が、ちょっと西洋哲学への毒が強すぎるためか(笑)、どうしても西洋の論理そのものを論駁しようとされているのだと感じてしまい、その割には「白か黒かのどちらかではなく、灰色という中間がある」みたいな反論で、論駁として雑すぎるのではないかと感じ、コメントしてきました。(そもそもテトラレンマの龍樹だってバリバリ矛盾律とか駆使して相手を論駁してるじゃないかと思ってましたし。)そこで「白か黒かでは論理を扱うには曖昧で、本当は厳密に白と非白で考えるべきであり、具体的な内容ではなく、形式そのものを批判しなければ、排中律批判にならない」と反論したわけです。しかし、実際には木岡先生の意図は排中律そのものの批判ではないのですから-少なくとも私はそう判断しました−この反論は木岡先生に対しては無意味ですね。
では、木岡先生が何を言わんとしているのか。それは形式論理が成り立つ前提に対する批判です。
排中律を例に取りましょう。
「Aは白か黒か、どちらかが真である」という一見排中律に見える命題もこれだけでは排中律たりえません。
この命題を排中律にするには前提を必要とします。
その前提とは例えば
「物には色があり、異なる色が同時に塗られることはない。そして色は白と黒の二色しかない」
というようなものです。
この前提が成り立つ時、「Aは白である」が真なら、「Aは黒である」は偽であり、どちらも両方、真であることは論理的にあり得ません。
これが排中律です。
世の中には「私は排中律を論駁する命題を見つけた。私は西洋の論理を超えた」みたいな物言いをする人がいるようですが、彼らは大体排中律を論駁できていません。単に前提を変えて論じているだけです。本当に排中律を批判したければ、その形式そのものの誤謬を突く必要があるわけです。
さて、「単に前提を変えて論じているだけ」と冷めた言い方をしましたが、排中律を成り立たせている前提を批判することは意味のある行為です。
例えば今回のエッセイのテーマ「個人か全体か」
これを二者択一の排中律にするためには
「重要なのは個人か、全体かのどちらか一つに定まる。」とか「個人的であることと、全体的であることは排他的な関係である」みたいな前提を必要とします。
しかし現実の社会がそんな前提で成り立っているわけがありません。
ところが、人は「個人と全体の関係がどうあるべきか」という問題を「個人か全体か」という排中律の問題にすり替えて考えてしまう癖があります。(デカルト的二元論がその悪癖を強化してしまった可能性はあるでしょう)(西洋の哲学者も流石にそこまで雑な議論はしない(あえてするとしたら、別の何かを浮かび上がらせる目的があるのでしょう)と思いますが。)
そこで、「ちょっと待て。そもそも個人と全体は、排中律が成り立つ前提となるような「こちらが立てば、あちらが立たずの関係」ではなかったよね。」と前提を批判する必要が出てきます。木岡先生がこのエッセイで行っている批判はそうした性質のものだと思います。これは重要な批判です。
テトラレンマも
1 A(肯定)
2 非A(否定)
3 Aでもなく、非Aでもない(両非)
4 Aでもあり、非Aでもある(両是)
と並べられると
「これらが全部成り立つなんてあり得ない」と思われるかもしれませんが、
当然ですが、1と2の命題が成り立つ領域では3や4の命題は成り立ちません。3が成り立つ領域では4は成り立ちません。
基本的にこれらの論理はそれぞれ領域を異にすると考えられています。3や4は1や2より高次の領域を扱っていると考えられているので、メタ論理という表現をしたり、より高次へ止揚(アウフヘーベン)していると見て「弁証法的」と表現されたりします。今回取り上げられている和辻哲郎がそうですね。
仏教ではその実践上、こうした論理の運動が必要になってきます。なぜこんな面倒なプロセスが必要とされたのか、そのきっかけについての簡単な説明は「出会いの広場」河村晃太郎さんの投稿「雑駁な質問ですが」で行いましたので、興味のある方はご参照ください。
木岡先生がおっしゃっているのは、1や2が成り立つ西洋の論理もそれ自体は正しいけど、それだけではない3や4の論理が成り立つ領域もあるということですね。
3や4はなかなか神秘主義的なイメージがある(実際そういう面もあります)ので、西洋の、特に近代の哲学に馴染んだ人にはなかなか受け入れがたいのは事実です。とはいえここ何十年かの近代批判で、だいぶかつて存在していた別の論理を受け入れる素地ができてきたようには思いますし、そうした論理をなぜ必要とされたのかを調べていくと、確かにそうした論理も必要だなと思わされるところがあります。最近の人類学とかはそうした仕事をしているものが多く、注目されていますね(「新しい人類学」とか呼ばれてます)。ホイ・ユクもそうした流れで登場した哲学者だと思いますし、ベルクや木岡先生は以前から(東洋や日本の哲学を引き継ぐ形で)そうした観点で考えてきた哲学者だと思っています。
和辻の哲学や兵役拒否の問題など、他にも興味深く、コメントしてみたいこともありますが、とりあえずここで筆を置くこととします。
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何か書きたいのですが、残念ながら歯が立ちません。
私にとってはかなり専門的な論議ですので大人しくしておきます。
どなたか参戦して下さい。
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私も3や4が成り立つ論理の領域がどのような領域かを整然と述べられるほどにはよくわかってないですけどね。
全然話は変わって
個人か全体かのどの辺りに比重を置くかはケースバイケースですよね。
全体も家族なのか、町内会なのか、企業やNPOなのか、市町村か県か国かアジアか世界かといろんなレベルがありますし。
私はヨーロッパの補完性の原則や、中間集団主義や儒教の修身斉家治国平天下が良いと思ってるので、様々なレベルの集団のバランスをその都度考えていきましょう派です。
一個人がいきなり国家に結びつくのは不健全だと感じます。全体主義の危険もそうですけど、何かというと行政は何やっているんだと国を訴えるのも不健全です。理想はそれ以前の中間団体(家族、町内会、企業、NPO、地方自治体などなど)が個人の問題をカバーしていくことだと思っています。国家は個人を救うよりも(それも必要ですが)中間団体が成り立つような支援をすべきだろうと思いますね。個人が国家と一直線に結びつくのは、もう個人を救う存在が国家しかないという悲しい現実があるからでしょうね。その裏返しで、自由に生きているように見える個人は恨まれるのでしょう。俺たちは我慢しているのにって。
今回のコロナで国家の役割の重要性がより明らかになりましたが、一方で、数々の中間団体が自粛のために苦境に追い込まれているのを見ると、なかなかまずいことになったなって感じです。私が関わっている当事者の会もストップです。木岡先生も最後に述べてらっしゃるように、彼らを支えるために、感染のリスクは多少あれど、あえて外出するってのも公共的な場合がありますね。
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メインテーマに歯が立たないので浦さんの話に乗っかります。
「大学」に「修身斉家治国平天下」の記述があり、儒者にとって基本綱領とされて来ました。
しかし「修身斉家治国平天下」は「孝」・「礼」と結合し自閉的・精神論的・形式的・教条主義的な物に変質してしまった様です。
その前段である「格物致知誠意正心」についてあまり語られないのは何故でしょう?
もし此処がもっと重要視されたらより客観的・科学的な学問体系に為ったのではないでしょうか?
まあ、体制にとって都合がよく官僚主義と親和性が高かったからかも知れませんが。
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「「格物致知誠意正心」についてあまり語られないのは何故でしょう?」
→一般的なレベルにおいては単に難しいからじゃないでしょうか?(笑)
「修身斉家治国平天下」は、まだ馴染みのある言葉だし、言いたいこともわかりやすいので、格言として使いやすいですね。
「もし此処がもっと重要視されたらより客観的・科学的な学問体系に為ったのではないでしょうか?」
→19世紀の中国にヨーロッパのサイエンスが入ってきたときの訳語が「格知(格物致知の略)」でしたね。
正しい認識がなすべき社会実践につながるという考えは、自然科学と社会科学が一体となっているような思想ですね。
朱子学ではそもそも「現にそれがそのように存在するのは、そうあるべきだからだ」という考えが前提にありますから、それを正しく認識する(窮理)ことが必要なわけです。逆にいうと、現に存在しているものは、そうあるべくしてなっているとも考えられるので、現実肯定的に捉えることも可能です。そうなると体制にとっては都合が良くなりますね。ヘーゲルの「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」みたいな話です。前者だと理想を実現しなければならないということで体制変革に結びつきやすい(ヘーゲル左派。マルクスなど)一方で、後者だと現在の体制を理想として維持する考えに結びつく(ヘーゲル右派)。朱子学も御用学問として使われることもあれば、陽明学のように体制転覆にも結びつきやすい。
あんまり回答になってないですね。なんであまり語られないのでしょうか?やはり難しいから?
kibaさんのその方が体制に都合がいいからに乗っかると
朱熹の格物致知論が広く万民の啓蒙を促すものだから体制にとって不都合なものだったからだと言えるかもしれませんね。
儒教では正しい認識や行為ができるのは君子に限られ、小人はしょうもない悪しか為せないと見做されてきました。
しかしそれでは衆生救済を謳う仏教の勢力に押されてしまうこともあり、小人でも救済される道として朱熹は小人も頑張れば君主に近づけると説きました。
『大学』の「親民」(民に親しむ)を「新民」(民を新たにする)と読み替えて、民(小人)が啓蒙される存在であることを明らかにしようとしました。
民が啓蒙されるには、まず君子自身が自己啓蒙し、それを民に示す。それによって民も君子に習って自己啓蒙を行うという流れです。
しかしそもそも小人である民が、君子の自己啓蒙を理解できるのか。
そこで必要とされた理論が朱熹が解くところの格物致知です。それによって君子の自己啓蒙を知るのです。
今度は、じゃあ小人に格物致知ができるのか。小人に大学とかのテクストが読めるのかという問題が発生してしまうわけですが・・・。
(この小人と君子の壁を越えようと考えられたのが陽明学ですね)
なので、体制にとっては、支配されるべき小人が啓蒙されていく理屈を説く朱子学が重要視した「格物致知誠意正心」は不都合だったのかもしれませんね。
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サイエンスが入ってきたときの訳語が「格知」だったんですか、さもありなん。
聖人の舜といえども、舜の行動が日常に見れる狭い範囲の歷山の農民ですら畝を争わなくなるには1年の月日が必要でした。
そこで広域に速やかに人民の行動を統制する方法として法家の思想が広まったと理解していたのですが、陽明学からも何らかのアプローチがあったのでしょうか?
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法家が広まったのは、周知の通り、紀元前の春秋戦国時代ですね。儒家が周時代の古き良き政治に戻そうと主張していたのに対し、そんな悠長なこと言ってられないと勢力を伸ばしたのが法家でした。秦の飛躍に一役買った商鞅や、韓の韓非が有名ですね。法家においては君子と小人の差は決定的です。法家は、特に韓非子は儒家の荀子の強い影響を受けています。荀子は君子が示す(それ自体は個別のものに過ぎない)規範を普遍的な規範として小人にまで共有させるには、政治的権力が必要だと考えた人でした。法家をそれを成文法を用いて行うとしたというところでしょうか。
陽明学は明代に朱子学批判として出てきた学問で、先の君子と小人の壁は「良知」によって乗り越えられます。善であれ、悪であれ何らかの意が心で発動すると、心において「良知」も発動し、自ら(それが善か悪かを)知るところとなります。これは君子も小人も有する能力であり、この力のお陰で、君民は相通じ合い、一体化しうると考えられました。君民どころか、動植物も瓦礫も死霊もみんな良知によって一体化可能だと考えられたので、道徳的責任は広く万物にまで及ぶことになります。ただ、全てを自己と同一化させているとも考えられるので、他者を消去してしまった世界とも考えられますね。そこから、無善無悪の思想が生まれ、自己の欲望こそ善とするかなり現実肯定的な思想にまで展開しました。
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韓非子が幾多の例証を挙げて非常に分り易かったのに対し、荀子は全く面白くなくて読んだという記憶だけしかありません。
「陽明学は全てを自己と同一化させて、他者を消去してしまった世界」と言うのは面白いですね。
「己が認識したものだけが存在する」というのは昔読んだフレドリック・ブラウンのSFにありました。
もし中国からの留学生のKさんがこのエッセイを読んでおられたら、ご意見を伺いたいものです。
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「己が認識したものだけが存在する」
→西洋の独我論や水槽の中の脳をモチーフにしたSFは多いですね。『マトリックス』とか。
陽明学者の李贄は「今日の是非は、わたし李卓吾一人の是非であると言ってもかまわない」と言ってるので、なかなか独我論的です。
荀子が出てきて、思ったのですが、木岡先生の〈かたち〉の論理は、荀子が重視した儒教の礼の議論と近いように思います。
そして私がエッセイ「テクノロジーの問題(5)」のコメントで披瀝した、テクノ・オプティミズムの考えは、荀子が批判対象として荘子に近いです。
荘子なら、キメラやサイボーグの出現を肯定するでしょう。荘子は胡蝶の夢で有名ですが、人が人でなくなること、人が別の何かに形態変化することを荘子は物化とよび、肯定します。人がどのように物化するかは、全て天に任せれば良い。そして物化を突き詰めると、人は天からも解放されると考えます。
そんなはちゃめちゃ、普通は怖いので、自制されるわけですが、荘子に言わせれば、それは死んだことがないくせに、死後の世界を怖がるのと同じであり、無益です。その途中で、悪や暴力があっても、過ぎ去ってしまえば(忘却すれば)知ったこっちゃないというのが荘子ですね。老子や荘子といった道家の批判対象は孔子や孟子の儒教でした。(老子「道を失って後に徳があり、徳を失って後に仁があり、仁を失って後に義があり、義を失って後に礼がある。礼は道の華であり、乱のはじまりである」)
儒教における礼は、具体的な場面で行われる適切な行為(かたち)を形式化したもの(かた)です。そして形式を再び個々の場面に適応させること(かたち)を通して、より礼の形式はその都度の時代や地域に適した良いものへと変化していきます。時代や地域によって礼は異なる。荀子は礼の複数性を重視した人でもありますね。
「祭ることいますがごとくし、神祭ること神いますがごとくす」という論語の中の言葉があります。
「祖先の霊が本当に実在しているかは分からないが、祖先の霊がいるかのように祭るし、神様がいるかどうか本当のところは分からないが、神様がいるかのように振舞う」ということです。
本当かどうかは問題ではない。そうであるかのように振舞うことで、家族のあり方や人間関係を見直したり、内面が変化することが大事だということですね。
礼というのは、演技のようなものです。最初は優しさの演技をしていただけ。でも演技を続けているうちに、本当に優しい心持ちになれた気がする。儒教で礼を実践せよとしつこく説かれるのは、この効果を期待してです。
こうした議論は20世紀初頭のハンス・ファイヒンガーの「かのように(als ob)の哲学」(森鴎外の短編「かのように」で有名ですね)や精神障害や発達障害の方を中心に行われているSST(ソーシャル・スキル・トレーニング)にも通じる発想ですね。私もこうした考え方がプラグマティックで好ましく感じます。
孔子や孟子は礼を通して内面が良きものに陶冶されることを期待します。
荀子は孟子の議論を引き継ぎつつ、それだけでは荘子のような、なんでもありという間違った規範を共有されてしまうのを防げないと考え、人々に礼儀や規範を身につけさせるためには君子の政治的力が必要と考えました。それは君子が小人に礼儀を押し付けるというよりは、小人が君子に習って自発的に礼儀を身につけるイメージです。そうさせるのが君子の政治的力だと考えます。政治を持ち出す点で、理屈でなんとかしようとした朱子学や、神秘主義っぽい陽明学よりも現実的な感じがしますね。
しかしそれではある一つの礼の規範が特権化されて、圧政が生じる可能性があります。荘子が儒教を批判する点の一つですね。儒教は押し付けがましいわけです。
荀子は、礼に歴史性を導入し、礼の複数性を導入することで、その問題を回避します。歴史が違えば礼は異なるのであり、どこか一つの礼が普遍的なものとして特権化されるわけではないと考えたわけですね。
ここまでの議論は中島隆博『悪の哲学 中国哲学の想像力』(筑摩選書)を参考にしているので、未見で興味があれば是非。
あとマイケル・ピュエット、クリスティーン・グロス=ロー『ハーバードの人生が変わる東洋哲学 悩めるエリートを熱狂させた超人気講義』(早川書房)もタイトル通り、タイトルが悩ましいですが(笑)、初心者でもわかりやすく、中身はとてもいい本です。(この前文庫化された気がします)
小島毅『朱子学と陽明学』(ちくま学芸文庫)やフランソワ・ジュリアン『道徳を基礎づける 孟子vs.カント、ルソー、ニーチェ』(講談社学術文庫)も面白いので、未見であれば、是非。
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私は今まで儒家は出来もしない事を声高に叫ぶ「ねばならぬ論」、法家は「HOW TO論」、道家は既存の規範・価値・尺度を越える「ぶっ跳び論」と思ってきました。しかし、そう簡単なものでもないのですね。
「演技を続けているうちに、本当に優しい心持ちになれた気がする。」とあります。
百万長者になる方法を聞かれた大金持ちが「10年辛抱して義理や見栄を欠いて乞食の様な生活をしろ」と言ったら、「10年経ったら金持ちに為れるんだな?」と問い返された。
彼は「10年乞食をやったら、乞食である事に馴れると答えた」というユダヤの笑い話を思い出しました。
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はじめまして。
2ヶ月位前にこのサイトを知り、読ませていただいてます。
コメント欄の方々のような難しいことは書けない(わからない)ので躊躇していましたが、木岡先生の「高卒程度の教養が身についた人なら、誰が読んでもわかるように」のメッセージに勇気をもらい、報告させていただきます。
私は読書会に入っているのですが、その講師の先生のすすめで『〈あいだ〉を開く』をテキストに学習会を開いています。(この本は読書会のように一回では終わらないので数回・数か月で学んでいきます)
今日の学習会は、本から離れ、『出会いの広場』から「コロナウィルス雑感」と「あいだを考える(2)」をプリントして、9名で読みながら語りあいました。
本の帯びに「生命と環境の危機から蘇生する道を切り拓く」とありますが、このコロナ禍の状況は、レンマ学を読み解くのにピッタリでした。皆身近に差別や不安、恐れなど具体的に考える材料をもっていました。
コロナ禍は木岡先生の言われるように心の問題です。K君の排他的「差別」と「神聖化」には皆でうなずきました。講師の先生は、受難者を遠い存在(距離)としてみているのか?自分の立ち位置を自問しなければならないと、ここで立ち止まらせてくれました。
1か月前、私の住む地方都市に、感染者が初めて出ました。私は、周りの友人知人の言葉に揺さぶられました。露骨な表現に嫌な気がするとともに、どこに住んでいる人なのだろうかと情報を知りたかったのも事実です。遠く離れたところに住む人だと知った途端の安堵!自分は決して差別などしないと思っていますが、その時の心の動きは複雑なものでした。
先生のエッセイを読み、自律と他律について考えて整理しました。判断基準を定めるのは(どうしても心は揺れ動きますが)自分です。次の感染騒ぎには、ずいぶんましな私になっていることと思います。
「個人主義か全体主義か」「利己か利他か」ふたつのうちどちらかではない。どちらも選びたい。それでいいのだと言えることが素晴らしいと思います。
出来るだけ早く答えを見つけ出すこと、合理的に理論的にどちらかの答えを導きだすように学んできた私たちにとって、迷っていい、どちらでもいい、あいだでいいと教えてくれる先生はいませんでした。いまこそ、この導きが必要になっているのだと思います。
学習会は、まだ本の前半なので、まだまだいろいろな気づきや学びがあることでしょう。講師の先生が嚙み砕いて進めてくださるし、脱線も大歓迎なので、楽しく学ばせてもらっています。
エッセイも楽しみにしています。こういう活動をしている者もいるという事をお知らせしたくてコメントしました。
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昨年11月にサイトを立ち上げたとき、漠然と期待していた反応――どこかにいる未知の読者から、共感の声が届く――が現実になり、驚くとともに感激しました。これまでコメントをくださった方は、付き合いの長さ、濃淡はいろいろですが、いちおう面識のある方ばかり。小室さんのように、お仲間と組んで読書会・学習会を開かれ、私の書いたものについて議論されている方が、他所においでになるとは!
ウィルス感染禍によって生じた「差別」の問題を、ご自身の問題として引き受けられ、真摯な反省に活かされていることがよくわかり、筆者としてはもって瞑すべし。引き続き、次のエッセイ――内容は未定――に心して取り組む所存です。どうかご意見・ご質問などを、何なりとお寄せください。