近代を生きる(2)――『人新世の「資本論」』を読む
シリーズ「近代を生きる」の第1回は、「近代とは何か」という、いちばん基本的なテーマを考えました。「近代」は、「モダン」つまり「新しい」を意味し、それまでになかった「新しさ」をもつ時代を表します。日本が「近代化」に乗り出したのは、150年以上前の幕末のころ。西洋近代から遅れていることを自覚した日本人――具体的には江戸幕府――が、率先して西洋の先進文明を取り入れる「近代化」の動きが生じた。それは、たしかに「新しい」時代の幕開けであったものの、明治以後の日本が、本当に「近代」と言えるかどうかは疑わしい。諸説が考えられるものの、本エッセイでは、明治以後の日本社会が、ともかく「近代」である、という立場をとることにしたわけです。ご記憶でしょうか。
日本は「近代」にある。仮にそう見立てたうえで、今回は、ヨーロッパやアメリカ、その他の国々とは異なる日本の「近代」が、どういうものかを考えよう、という運びになるはずでした。その「はず」が、変わりました。テーマを変えた理由は、最近読んだ上の書物が、非常におもしろく刺激的で、この本について何か言いたい、という気持ちが湧いてきたことです。そのうえ、この書物を論じることは、「近代を生きる」というシリーズの意図とも、明確につながってくるという気がします。まず、そのあたりのことから、入っていくことにしましょう。
「人新世」の経済学
書物の表題のうち、「資本論」はマルクスの著作名、どなたもご存じでしょう。その前に置かれた「人新世」(ひとしんせい、Anthropoceneの訳語)という言葉は、最近しばしば目にするようになった、新しい時代の呼び名です。地球の現在の地質学的年代は、6600万年前に始まる「新生代」、その第四紀のうち、1万1780年前に始まる「完新世」(Holocene)にわれわれは生きている。ところが、ノーベル化学賞受賞者パウル・クルッツェンは、人類による経済的活動が、これまでとは違う新しい年代に突入したと見て、それを「人新世」と命名しました。私たちは、この「人新世」を、もう後戻りのできない地球環境危機の時代、と受けとればよいと思われます。
2020年9月に、『人新世の「資本論」』(集英社新書)を出した著者斎藤幸平は、1987年生まれの経済学者。東大入学後、すぐドイツに留学して、ベルリン・フンボルト大学で博士号(哲学)を取得し、現在、大阪市立大学経済学研究科の准教授、ということです。その経歴からも、ズバ抜けた秀才であることは間違いありません。もちろん、そんなことは、私が本書をみなさんにご紹介したい理由ではありません。2月中の新聞広告で目にした、「20万部突破」という驚異的な売り上げを記録し、たぶんその後も増刷が続いているような本に、提灯持ちは無用。いまだかつて、ベストセラーというものに取りついたことのない私が、たまたま知人に薦められて本書を手に取り、読んでみて納得した理由を語ってみたいというのが、今回、予定を変えてこのテーマにした理由です。
いま「納得」と書きましたが、むしろ「驚き」と言った方が、印象としては正確かもしれません。内容に驚くとともに、やや遅れて、「そうか、なるほど」といった了解の気分が生じてきた、ということです。印象の要素を二点挙げた関係から、それぞれを説明しましょう。まず、「驚き」から。「人類存亡の危機の時代」を意味する「人新世」に、人類生き残りのための戦略をうちだすどころか、人類滅亡に向けて拍車をかける役割しか果たしてこなかった――とまでいえば、言い過ぎでしょうが、それが私の受ける印象です――経済学者の中から、希望の灯をかざそうとする力強い動きが生じてきた。これが、私にとって最大の驚きです。無数にある近代諸科学の中で、私がことさら経済学を目の敵にするのは、この学問が、人類の幸福――と言って大仰なら、「存続」でもかまいません――に奉仕する、という使命を負いながら、それとは真逆の方向に進んできた現実があるからです。本書の内容に入る前に、行きがかり上、私が経済学にこれまで抱いてきたイメージ、この学問に対する期待と失望の両方について、明らかにしておく必要があると考えます。
「成長」という神話
経済学は、近代になって発達した学問。というか、近代という時代の成立・発展と経済学の発達とは、一体不可分の関係にあります。近代と経済学は一体。ということは、近代(モダン)の「新しさ」は、そのまま経済学の「新しさ」、ということになるわけです。では、近代以前、つまり古代や中世に、経済学は存在しなかったのか。そんなことはありません。人間が生活すれば、物資の生産に伴う取引、貨幣の交換、流通の過程が必要になる。昔の「市」は、現在の「市場」の原型。商業が営まれる社会領域は、いついかなる時代にも存在しますから、そこで行われる経済行為について考えるための「経済学」が、いつの時代も存在しないはずはありません。
人間生活と不可分な広義の経済学は、いつの世も、どの社会にも、存在していたと考えられます。では、それと近代の「新しい」経済学とは、何が違うのでしょうか。近代の、それ以前とは違う「新しさ」を、ひとことで言い表すなら、「成長」だと思います。成長するから近代であって、成長しない社会は近代ではない。そういう結びつきが、「近代」と「成長」の関係だと考えますが、いかがでしょうか。そんなことはない、成長しない近代だってあるという考えをお持ちの方がいれば、ぜひご意見を伺いたいものです。何を隠そう、「成長しない近代」がありうるのかどうか、を考えるという目的から、私は「近代を生きる」というテーマを考えついたのです。
「成長」――「開発」と言っても同じ――するものの代表が、「経済」です。先ほどの言い方を少しだけ変えて、「経済成長が近代をつくった」と言い換えても、たぶん異論は出ないと思います。それを裏返すなら、経済成長しない社会は近代ではない、ということになります。じっさい、古代にふつうの意味での経済成長はなく、経済は停滞しています。昔読んだJ.K.ガルブレイスの『経済学の歴史』だったかに、古代に経済学はなかった、といった風の記述があったかと記憶します――間違っていたらゴメンなさい、手元にその本が見つかりませんので。それも道理、現代では借金に利息が付くのは当然と考えられますが、古代ギリシアでは、貸したお金に利息の上乗せを要求する行為は、倫理にもとるとされていました(時代が下っても、高利貸しが悪者の代表扱いされる例を、シェイクスピア『ヴェニスの商人』に見ることができます)。そんな社会では、経済成長はありません。投資することによって、元本が利潤、つまりオマケの価値を上乗せして回収され、それが次の投資に活かされることによって、価値が増殖し続ける、というのが資本主義の原則です。そういう資本の回転を軸に、経済成長し続けるのが、近代社会であり、そのメカニズムを理論化したものが、近代経済学である。こんな〈常識〉を、くどくど説明するまでもなく、近代とそれ以前を分ける物差しは、「成長」するかしないかの一点である、と申し上げて差し支えないでしょう。
この〈常識〉に対して、真正面から「待った」をかけるのが、『人新世の「資本論」』です。「経済成長」を前提として、それに奉仕する学問が経済学であり、経済学者は資本主義のいわば寄生虫である、といった当方の思い込みに、そうではない、と真っ向から反論する経済学者が、登場したのです。この本の「はじめに――SDGsは「大衆のアヘン」である」に出てくる、次のような一節が、私の眼を打ちました。
近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄基盤を切り崩しつつあるという事実である(5頁)。
「成長」という神話との訣別が、この本のモチーフになっているのです。「成長第一」を唱えつづける経済学の研究者が、私のような門外漢の日頃抱いている不満を代弁してくれている。これが、本書の与える第一の「驚き」です。
「脱成長」とマルクス
つづいて、第二の「驚き」は、そういう近代世界の成長路線に「ノー」を突きつけるのが、マルクス、マルクスの思い描いた「コミュニズム」(共産主義)である、という著者の主張です。こちらの「驚き」には、最初の驚きとは違って、いささか注釈が必要かと思われます。というのは、それに私が驚いた理由というのが、マルクスに脱経済成長の思想などない、とする〈常識〉――私だけでなく、世の相当多数が抱いていると思われる――をひっくり返す主張であるからです。そういう当方の先入見と、それをくつがえす斎藤氏のマルクス解釈のポイントを、順に説明しましょう。
資本主義の基本原理は、資本を事業に投じることによって、投資額以外に剰余価値を生み出すこと、その価値を消費せず元本に組み込み、それを再投資することによって、さらに多くの価値を生み出す……といったやり方で、価値の増殖を図るということです。「拡大再生産」による価値の無限増殖、これが経済成長であることは、申すまでもありません。こうした成長のプロセスが、資本家と労働者――マルクスの用語では、ブルジョワジーとプロレタリアート――の不平等を生み出し、対立を激化させる、という事実にマルクスは目を向けました。生産力と生産手段を一手に握る資本家階級が、生産手段をもたない労働者――無産階級――を支配し、搾取する資本主義の世界。そうした不平等の現実に目覚めた労働者が、立ち上がって団結し、支配者階級の資本家に闘いを挑む「階級闘争」。その最後に、「革命」が起こって労働者が勝利し、資本家に代わって主体となる共産社会が生まれる……昔からおなじみの「階級史観」と呼ばれるストーリーです。
で、その筋書きは、現実にはどうなったか。「社会主義」革命が、ロシアと中国で成功したものの、それにつづいた社会主義の諸国家は、20世紀末の「東欧革命」によって、ことごとく自由主義陣営に帰属する結末となった。中国でも、旧ソ連崩壊後のロシアでも、共産主義に至る途中の「社会主義」段階の国家が、そのまま固定され、「自由主義」の国々とは様子の異なる官僚制、あるいは全体主義、と見るほかない体制を生み出している、というのが現状です。このさい、細かい議論は飛ばします。もし、こうした流れの源が、マルクス、あるいは「マルクス主義」の思想にあるということなら、現代世界の危機的状況をそれによって打開する、などというプランが、はたして考えられるのか。そういう批判が、あって当然でしょう。
私の見方は、世間一般のイメージと大して変わりませんが、もっとドギツク、「資本主義と共産主義は、同じ穴のムジナ」という言い方をすることがあります。それは、こういうことです。資本主義体制下では、「資本家」という特定階層に富と権力が集中する。この現実に怒った労働者が、資本家を打倒して生まれるのが、「プロレタリア独裁」の社会主義国家。その段階を経て、人民が階級のくびきから完全に脱して、平等に暮らせる世の中になったとき、「共産社会」が実現する。これが、資本主義の大きく発達した19世紀に、マルクスの描いた青写真だとすると、共産主義の資本主義との違いは、権力・富を握る主体が、対立する階級の一方から他方に移行するだけであって、求める価値が経済的豊かさであるという点に、変わりはないことになる。私は、近代社会を批判的にとらえるキーワードとして、〈欲望の論理〉を用います。ご承知の方も多いと存じます。〈欲望の論理〉に支配され続ける構図は、資本主義も共産主義も同様だとする考えが、「同じ穴のムジナ」という言い回しにつながるわけです。ところが、斎藤幸平氏は、マルクスの言うコミュニズム(共産主義)は、資本主義のイデオロギーと同類ではない、と言い切ります。これが、「脱成長」にマルクスを結びつける解釈の柱になっています。
コミュニズムとエコロジー
という次第で、この本の最大の肝であるコミュニズムとエコロジーのつながりに話を移しますが、その前置きを兼ねて、三つ目の「驚き」にふれます。それは、最初に挙げたように、けっして一般大衆向きとは言えない学問的内容を具えたこの書物に、2月の時点で、すでに20万人を超える読者がついている、という事実です。この事実を、どう受けとめるべきか。二つの要因が考えられます。何よりも、こういう内容の本を大衆が待望していたということ。バカの一つ覚えのごとく、「成長」を叫び続ける社会。本気で環境問題の解決に取り組む気などないくせに、「環境と経済は両立する」などというお題目を信じるフリをする指導者層――連中のホンネは、「環境」を成長のエサに利用することでしかありません。こうしたものにウンザリしている人々が、未来に向けて確かな手ごたえを感じさせるこの本に飛びついた、というのが実情ではないでしょうか。そして、もう一つは、そうした人々の期待に応えて、難しいテーマを、誰でも理解できる明快な文章でさばくことのできる、著者の並外れた能力です。読み出してすぐに、私が感じたのは、何でこんなにわかりやすいのか?という驚きです。専門外の私が、知識不足のために言えないことを、豊富な客観的資料――質と量は、専門論文ないし研究書に匹敵します――を引きながら、説得的に論証する、その手際は見事というほかありません。
本題に入りましょう。ここから先は、すでに申し上げたように、「驚き」につづく「そうか、なるほど」の説明です。ポイントは、コミュニズムがエコロジーとどう結びつくのか、です。マルクスは、資本主義による環境危機を予言していた、と(第一章)。ほう、なるほど。ところが、それだけではなく、マルクスは、資本主義の矛盾を乗り越える、新しい「第三の道」を示していた、という。第一の道は、「アメリカ型新自由主義」。個々人の手の届かない市場の動き(つまりは〈欲望〉のメカニズム)にすべてを委ねる「市場原理主義」で、ご承知のとおり、これがいま全世界を覆っています。第二の道は、「ソ連型社会主義」。あらゆるものを国有化しながら、その自由な利用を権力者以外の民衆から取り上げる国家管理の体制。これらのいずれでもない第三の道は、コミュニズムの語源である「コモン」(共)、「社会的に人々に共有され、管理されるべき富」。そうした「コモン」の例として、水や電力、住宅、医療、教育といった例が挙げられます――このさい、村の「入会地」(いりあいち)をイメージしてもよいでしょう。住民誰もが、そこに入って薪を拾ったり、木の実をとったりすることが許される、共有地のことです。「コモン」に関して、宇沢弘文『社会的共通資本』(岩波新書、2000年)に示された考えを、マルクスは先取りしている、と著者は言います。しかもマルクスは、「市民が民主的・水平的に共同管理に参加することを重視する」(142頁)。さらに、「コモン」の拡張によって資本主義の超克をめざす、とまで言っているというのです。かくして、マルクスの「コミュニズム」は、地球を〈コモン〉として、共同で管理・運営する思想である、ということになります。この発想をもとに、地球全体を適切に管理していくエコロジーの立場が展開する、ということは見やすい道理です。
エコロジスト・マルクスの出現――へぇー、なるほど。けど、ホンマかいな、というのが世の人々――私を含めて――の反応ではないでしょうか。『資本論』は、近代資本主義の原則――経済成長――を認めたうえで、その発展過程で生じる「恐慌」などの矛盾によって、必然的に危機に陥る。それに乗じて、労働者が団結決起するなら、社会主義革命が成立する。これが、ヘーゲルの弁証法を読み替えることで生まれた、「唯物史観」の常識です。その見方に立つなら、資本主義経済の展開は、行き着くところまでいかなければならない、ということになる。マルクスは、〈敵〉である資本家階級の思想、「生産力至上主義」を肯定しないわけにはゆきません。
マルクスの「矛盾」
「生産力至上主義」とエコロジーとが、たがいに相容れない対立関係にあることは、説明するまでもないことと考えます。前者は、経済成長を生む思想として、有限な地球上の資源を枯渇に追い込み、生態系を破壊する元凶にほかならない。環境保全を最優先に掲げる、エコロジストの攻撃対象です。問題は、この相容れない二つの立場が、どちらも同じ思想家のテクストに見うけられる、という矛盾にあります。斎藤氏は、ほかならぬ『資本論』について、この矛盾を認めます。いろいろ含みのある議論が展開しますが、簡単に言うと、マルクスは、若き日の立場である「生産力至上主義」から、晩年の「脱成長のコミュニズム」へと変化していった、ということです。その要約によれば、マルクスがめざしたものは、時代によって、①生産力至上主義、②エコ社会主義、③脱成長コミュニズム、へと転化していったとされるのです(197頁の図17参照)。
表によれば、「経済成長」については、①②の段階では〇だが、③では×に転じます。いっぽう、「持続可能性」の点では、①が×であるものの、②③はいずれも○というように、時代・テクストによって、マルクスの立場が大きく変化している、という事実がくわしく説明されています。そういう次第だとするなら、私をはじめ、マルクスの全体像につうじていない素人たちは、これから公開されてゆく予定だという、新『マルクス・エンゲルス全集』(MEGA)――著者栗原氏も、刊行プロジェクトに参画とか――の進展に注目して、見守っていかなければならない、ということになるでしょう。これまでの常識になかった、新しいマルクス像によって、「目からウロコが落ちる」将来を期待することができそうです。そうか、なるほど!
そう言っておきながら、疑り深い私は、現時点でマルクス研究の今後に、全面的な信頼を寄せることができない、という疑問を呈しないわけにはゆきません。それは、マルクスの到達点とされる③の「脱成長」の中身が具体的でない、という不満によるものです。その不満は、「脱成長」を掲げながら、①の「生産力至上主義」が本当に乗り越えられるのか、というさらに本質的な疑問につながります。二つ、大きな問題を提出しました。「脱成長」とは何を意味するのか、が一点。どうすれば、それが実現するのか、が第二点です。順に考えてみます。
第一点――「脱成長」だけなら、ほかの研究者もそれを口にしています。「資本主義の終わり」が公然とささやかれる今日、成長の否定それ自体は、特に珍しい主張ではありません。私が目にした中で、印象が深いのは、社会保障論が専門である広井良典(千葉大教授)の著作。その中でも、『ポスト資本主義――科学・人間・社会の未来』(岩波新書、2015年)は、成長型ではない「定常経済」という考えに立って、福祉やケアが中心となる「福祉型社会」のヴィジョンをうちだしていていることに、かつて共感した覚えがあります。『人新世の「資本論」』でも、註(370頁)でこの書にふれていますが、本文中では、「「脱成長資本主義」は存在しえない」(131頁)という見出しの下に、こうした考えをバッサリ切り捨てています。というのも、広井氏は経済学が専門ではないため、成長至上の資本主義に代わる選択肢を、「定常型社会」という言い方でしか、表現できていないからです。「資本主義=成長至上主義」だとすれば、資本主義を丸ごと棄却することができない広井のような考えは、中途半端だとして、否定されるしかない。それはよくわかる。ですが、斎藤さん、資本主義ではない、それ以外の経済学で、どうすれば「脱成長」が実現できるのか。それを教えてください。かつて知人のマルクス経済学者に、「(広井の言う)定常経済は成り立つか」という質問を投じたことがあります。答えは、「ノー」でした。この方は、資本主義経済の批判者として有名な方ですが、経済成長のない経済は考えられない、というお考えでした。この方の真意は、新自由主義のように成長をグローバル化せず、最貧国などに限定して経済成長を認める、という点にあったかと推定します。もしそうであれば、それは資本主義の全否定ではなく、部分否定にとどまることになる。斎藤氏の唱える「脱成長」というのは、そういう限定戦略のことなのか、それとも資本主義経済の完全否定なのか。後者かと思われますが、そのあたりが、この書物ではハッキリしない。あなたには、その疑問に対して答える義務があるはずです。違いますか。
ここから、第二点に移ります――すでに、立ち入っていますが。あなたは、今後の新マルエン全集の刊行をつうじて、「脱成長コミュニズム」の具体像が浮かび上がってくる、とでもお考えでしょうか。それは、大きな間違いだと思う。なぜなら、マルクスには、彼の生きている時代の経済学を土台として、それを批判する経済学理論、「マルクス経済学」はあったとしても、スミス以来の近代経済学に替わるべき、将来世界の経済学というものは、存在しないからです。むろん「脱成長の経済学」も――。そんなものが、遺稿やノートからゾロゾロ出てくる、などと本気でお考えですか。出てくるとすれば、「コモン」その他、エコロジーにつながる環境思想の芽、というくらいのものではありませんか。
現在、地球環境危機を乗り越えるためのトータル・セオリーが、求められている時代である、と私は信じています。いろいろイチャモンをつけましたが、私は斎藤幸平という経済学者を、そういう志をもった稀有の人物である、と確信しました。そういう優秀な研究者に望みたいのは、どんなにマルクスが偉大であったにせよ、過去の偉人に頼るのではなく、自力で経済学そのものを根本からつくり直す、という挑戦です。頭の固いお歴々に、それを期待することは不可能、並外れた知性と変革の志を具えた、あなたのような人物にそれを期待するしかない、というのが、もはや同じ道を歩むことができない――自分が生まれ変われたなら、経済学に取り組みたい、かつて学生にそう洩らしたことがあります――老人の勝手な思いです。
近代を超える道
見出しは、実のところ、「近代を生きる」シリーズの目標とするテーマです。ここでは、今回取り上げた書物、その中心を占めるマルクスの思想に関して、私自身の哲学の立場から言えることを、メモ的に並べておくにとどめます。
今回取り上げた書物『人新世の「資本論」』は、掛け値なしに近来の快著、著者である斎藤幸平氏は、経済学界唯一の希望の星、と言いたい存在です。いくら内容にケチをつけたところで、そういう全体としての評価は揺らぎません。評価の最大の理由は、すでにご説明したように、終わったと見られているマルクスの思想に、地球環境の「持続可能性」――経済成長の持続を前提するSDGs「持続可能な開発目標」とは、まったく別――のカギを見出す、というチャレンジングな姿勢にあります。このことを、誰が読んでも理解できる、市民的で開かれた文体で書き切ることのできるこの人の天分は、いずれそういう目的を達成するのではないか、という当方の見込みを信じさせるに足ります。
ここから先は、私からの「注文」です。マルクス『資本論』も含めた近代以後の経済学、それと共通の基盤に立つ近代科学および哲学は、すべて個々人の欲望に歯止めのかからない根本原理、二元論に立脚しています。そうした全体の潮流において、マルクス(主義)だけは例外で、未来を照らす希望の灯である、などと考えるなら、それはオメデタイかぎり、と言わなければなりません。資本主義もマルクス主義も、〈欲望の論理〉の外に立つことができない、という点では大同小異、目クソ鼻クソの関係である。もちろん、そういったからと言って、「近代以前に還れ」という、安手の反近代主義を提案する訳ではないことは、これまで私のエッセイを読んでくださった方なら、お判りでしょう。くわしい説明は、次回以降に回すとして、近代でも反近代でもない〈あいだ〉を開く、ということが、唯一の選択肢にならざるをえない。そういう意味の〈あいだの経済学〉を、一からつくり上げる努力をしてください、というお願いを申し上げる次第です。
以上が、私から斎藤幸平氏にお送りするエールです。
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