〈あいだ〉に立つ(1)――「妥協」をめぐって
対話をふりかえる
直言先生:前回は、必然と偶然の関係に、「自由」や「責任」といった問題が絡んで、前例のない難しい対話になりました。特に、「自由」というのは、「偶然」を土台にして初めて言えることだ、という私の主張は、「自由」が「必然」にもとづかなければならない、という猛志君の考えと真っ向から対立しました。猛志君、覚えていますか。
猛志君:忘れるものですか。そのことは、以来ずっと頭の中にあって、考えています。
直:で、いまの君の考えはどうですか。私の言う「偶然」の意味が、納得できましたか。
猛:先生の説明に、まだ納得はしていません。けれど、間違っているとも思いません。自分の中で、どちらが正しいのか、気持ちが揺れ動いている、というのが正直なところです。
直:そうでしょう、そうだと思います。傍で聞いておられた中道さん、あなたのお考えは、いかがですか。
中道さん:いやあ、難しかった。私のように、哲学の本など読んだことがない者に、自由は偶然か必然か、と問いかけられても、何とも答えようがない、と申し上げる以外にありません。不勉強の言い訳になって、申し訳ありませんが。
直:率直な感想を、ありがとう。私自身、対話でここまで難しいテーマに取り組んでいいのだろうか、という思いが半分。その反対に、対話だからこそ、個人的な論文やエッセイよりも、難しい問題を手がけることができるんじゃないか、という気持ちが半分。なかなか微妙な心境です。
中:いまおっしゃったことの前半は納得しましたが、後半の「対話だからこそ、難しい問題を手がけることができる」とおっしゃったのは、またどうしてでしょうか。
直:それは、対話することによって、対立する考えの〈あいだに立つ〉ことが可能になる、と考えられることによります。ちょうどいい、今回から、シリーズのテーマを「あいだに立つ」として、いま私の考えていることをお二人に説明しましょう。
猛:昨年のエッセイに、「あいだを考える」というシリーズがありました。それと同じような内容になるのですか。
直:内容的に重なるところはありますが、同じではありません。というのは、最初のシリーズ「テクノロジーの問題」では、少しトガッた話題を取り上げ、正面から理屈をこねました。その後なので、親しみやすい話題を提供しようとして、そのテーマを選んだいきさつがあります。といっても、内容がそんなに解りやすかったかどうか……
中:白状しますと、私の場合、よく解ったと言えるエッセイはありません。どれも、私の頭では、文章についていくのがやっと、というところでした。
直:その中で、特に難しかったのは、どれですか。その反対に、これぐらいなら理解できる、というようなエッセイはありましたか。
中:最初の「二元論をめぐって」という文章で、つまずきました。「テクノロジー」のシリーズで、「二元論」が問題にされていることは、承知していました。けれども、哲学と二元論とが一体であるとか、二元論は〈あいだ〉を認めない、といったあたりから、内容が専門的過ぎて、ついていけなくなりました。
直:そういう中で、いくらかでもついていける内容のものはありましたか。
中:シリーズの中では、「〈自然〉から〈もの〉へ」というエッセイは、専門用語ではなく、「もの」という身近な言葉を手がかりに考える、という趣旨のお話でしたので、興味をもって読むことができました。
直:そうですか。ご意見を参考にさせていただきます。今月からのシリーズでは、〈あいだ〉というごくふつうの言葉をめぐって、これまで論じてきたことに加えて、最近になって判ってきたことを講義して、お二人から意見を伺いたいと思います。〈あいだ〉は、「中間」を意味します。「中間に立つ」ということから、何が連想されるでしょうか、中道さん。
中:私のイメージは、「妥協」です。
直:それじゃ、まずは「妥協」ついて考えてみましょう。
講義:「妥協」の意味
何ごとにも、「中間」「中途」がある。42キロメートル余りを走るマラソンでは、21キロ過ぎが「中間」点。その地点で、記録や順位を確認して、レース結果を予想するというのが、実況中継の常である。「中途」も、意味は「中間」と変わらないが、レースを「中途でやめる」というように、目標に届かない地点、というネガティブな含みでよく用いられる。「中途半端」は、そういう用例の代表、「中間」がよい意味をもつとは限らないケースを表している。成績について、最上位と最下位の「中間」は、平均点のあたり(厳密に言えば、「中間値」と「平均値」は、同じではない)。それを可とするか不可とするかは、立場によって変わってくる。人並みであればよいという者なら、平均点でOKだろうし、トップをめざす者にとって、平均の成績は屈辱でしかない。このように、「中」であることを無条件に「よい」とする価値観は、世間の常識ではない。
では、「中」であることにそれなりの価値を認めるのは、どういう場合だろうか。賃上げをめぐる労使の交渉を例にとる。労働者側が、それなりの根拠を掲げて、何パーセントかのベースアップを要求する。対して使用者側は、コロナ不況を引き合いに出して、とてもそんな要求は呑めない、として押し返そうとする。組合側の要求通りにはいかないにしても、ゼロ回答ということはなく、ある程度の数字を提示し、協議した末に妥結するというのが、春闘のおきまり。ということは、対立する労使の双方とも、最初から自分の主張をそのまま通そうというつもりはなく、いちおう相手の顔を立てる形で収まるような妥協点を想定している、ということである。サラリーマンなら先刻承知の、こうした例を「出来レース」「八百長」に見立てることは簡単だが、「中間」の意味を考えるうえで、参考になる点があると思われる。それは、「妥協」がもつ意義に関係する。
「妥協」とは何だろうか。それは、自分の主張を曲げて、相手に譲歩する態度である。だが、それは、おのれの主張を全面的に放棄するということではない。もしそうなら、それは相手の要求に「屈服」することであって、ふつうそれを「妥協」とは言わない。「妥協」というのは、自分の主張・要求を掲げながら、相手の言い分にも耳を貸し、双方がいちおう納得できる形で、事態を収める手順を指す。これを細かく見ていくと、立場の異なる甲と乙とが、(1)それぞれ自分の主張を相手に突きつける。(2)相手の主張が自分とは異なる事実を認知する。そのうえで、(3)相手の言い分に一定程度したがい、自己の主張を訂正する。かくして、(4)双方が納得できる最終結果(妥協点)に達し、それを受け容れる。というように、四段階が区別される。
妥協点に至るまで、いろんな駆け引きがあったとしても、この四段階には、自他の「肯定」と「否定」の要素が、両方とも含まれる。図式的に示せば、(1)自己肯定、(2)他者否定、(3)自己否定・他者肯定、(4)自己肯定・他者肯定、として区別されるが、これに納得されるだろうか。(1)はまあよいとして、(2)を「他者否定」としてよいかどうか、微妙である。というのは、自分と考えの違う他者が登場したとき、それを「他者」として認めること、それ自体が「他者肯定」だと言ってもよいように思われるからである。そしてそれが、そのまま(3)につながる。なぜなら、他者の存在を認めることによって、自分の主張がそのままでは通らない現実を受け容れざるをえない、という「自己否定」が生まれるからだ。以上の(1)~(3)が、甲と乙の双方に生じることによって、(4)自己肯定・他者肯定、という最終地点に到達する。この地点は、それぞれが自己主張を曲げざるをえない結果に注目するかぎり、逆に「自己否定・他者否定」として理解することもできる。その反対に、双方がこの結果に納得して受け容れる、という意味で前向きにとるなら、「自己肯定・他者肯定」と言って間違いではない、そういう解釈である。
〈あいだに立つ〉ことを、〈自他の中間点に立つ〉こと、すなわち「妥協」という意味に解して、その意味を考えた。ここから検討を深めていきたい。
「妥協」とは?
直:以上、私としては初めて、「妥協」の意味を考えました。中道さん、理解していただけましたか。
中:私にとってなじみ深い「妥協」ということが、こんなふうに解説されるなんて、チョット驚きました。日常ありふれた物事が、哲学的に考えるとこんなふうになるのか、へエー、という感じです。
直:猛志君、君はどうですか。君のことだから、きっと文句をつけてくるだろう、と思うのですが。
猛:ご想像のとおり、「肯定」「否定」という言葉について、質問させていただきます。先生のことば遣いは、僕とは違うからです。
直:どこが、どう違うのですか。
猛:「妥協」に関する四段階のプロセスの(2)について、「他者否定」が「他者肯定」でもある、というような説明がありました。ふつうに考えるなら、「否定」と「肯定」とは正反対。ですから、この二つが同じだ、というような説明は、納得できません。
直:そうでしょうね。君が教わった論理学の教科書なら、肯定と否定がイコールだというような、ケッタイな説明はないでしょうから。
猛:そんな言い方をされるのなら、それこそ「自己否定」じゃありませんか。自分で自分の言うことを、「ケッタイ」だなんて……
直:君が学んだ形式論理というものには、もちろん正当性があります。それを尊重すればこそ、あえて「自己否定」的なもの言いをしたわけです。
猛:自己を否定することが、他者の肯定になる。他者を否定することで、自己を肯定する。これが、ふつうに考えた場合の〈肯定-否定〉の関係です。
直:まったくそのとおり。西洋哲学の論理では、肯定と否定とがたがいに正反対のこととして、セットで考えられる。
猛:それなら、「他者否定」が「他者肯定」でもあるというようなリクツは、通らないのではありませんか。
直:そう、そのとおり。しかし、それは、「否定」を「抹殺」や「消去」という意味にとるなら、の話です。たとえば、君の眼の前に巨大な敵が出現したとする。君は、その存在を消し去ってしまいたい、と思うでしょう。つまり、相手を「否定」する。だがそれは、意識の上のことであって、現実の敵は消え失せることなく、目の前に存在する。ということは、意識がどうであれ、君はその存在を認めないわけにはいかない。これが、他者を「肯定する」ということの意味です。
中:いまのご説明を伺って、先生のおっしゃりたいことが、だいたいつかめました。世間には、自分にとって味方もいれば、敵もいる。私は、味方の存在を肯定するし、敵の存在を否定する。けれども、それは気持ちの問題だけであって、じっさいに相手にどう向き合うかとは別問題だ、ということではないでしょうか。
直:ドンピシャの理解です。〈肯定-否定〉という言葉は、正反対の意味を表しているようですが、現実の場面では大して違いがない。いま中道さんが言われた「気持ちの問題」にすぎない、ということです。
中:こちらのそういう理解で、よろしいとおっしゃるなら、ビジネスの世界は、相手を肯定するのと否定するのとは、ほとんど紙一重だと思います。
直:私は、一度もそこに身を置いたことはないけれど、たがいの利害がぶつかり合うビジネスの現場は、そういうところではないかと思います。相手に面と向かって、「イエス」ということも、「ノー」ということも、ないんじゃないかな。
中:企業のトップに立つようなリーダーは、違うでしょうが、私のようなウダツの上がらない中間職の社員は、上司に向ってはもちろんですが、顧客に対して、「ノー」という言い方はできませんでしたねえ。
論理と現実
猛:しかし、論理の問題として見れば、「肯定」と「否定」とは大違いです。ある命題が「偽である」として否定された場合、その存在は認められない。その反対に、「真である」と肯定された場合には、存在が許されます。このことをどう考えられますか。
直:論理と現実つまり生との違いに関係する、重要な論点です。論理の世界では、白か黒かがハッキリ分かれ、そうでない中間の灰色はありません。とはいうものの、現実の社会では、いま中道さんが言われたように、肯定とも否定ともつかない、あいまいな態度が許される、というか幅を利かせている。これも事実です。猛志君にまず言いたいのは、論理と生のあいだには乖離(かいり)がある。これをどうすればよいか、考えてみてほしいということです。
猛:先生のおっしゃりたいことは解ります。論理と現実とを区別せよ、混同するな、ということでしょう。
直:まさにそのとおり。
猛:ということですが、哲学を追究している僕には、先生が論理よりも現実を重視しているようにしか聞こえません。白状するなら、これまでの対話の中でも、いつもそんなふうに感じてきました。
直:君がそんな印象を抱いてきたとすれば、じっさいそのとおりだと認めます。論理か生か、仮にそういう単純な問いを立てたなら、私の答えは「生」ということになる。この点は、50年前にベルクソンの「生の哲学」に出会って以来、まったく変わることのない信念です。
中:すみません、「生」と「現実」は、同じ意味なのでしょうか。
直:同じです。人は、それぞれ自分の世界を生きている。それを主体の方から言えば「生」になるし、世界の方から見れば「現実」になる。それだけのことです。さっきは、あなたにとっての「現実」もしくは「生」を、論理で説明しようと試みたわけです。
中:そうでした。私がビックリしたのは、日常的な「妥協」ということを、「肯定」と「否定」という「論理」の言葉で説明されたことです。
直:確認のために、もういちど、先ほどの説明を繰り返します。相手を前にしての「妥協」は、(1)自己肯定、(2)他者否定、(3)自己否定・他者肯定、(4)自己肯定・他者肯定、という順に成立すると言いました。こういう説明で、さしつかえありませんか。
中:そのお訊ねは、素人の私よりも、論理にくわしい猛志君に答えてもらいたいと思います。
直:それじゃ猛志君、君はどう考えますか。
猛:僕自身が、「妥協」とはこうこうだ、ということは言えません。けど、僕が先生の立場だったら、(1)(2)を別々に立てるというのは、チョット違うんじゃないか。というのは、何かを肯定するというのは、別の何かを否定する、ということを意味するからです。「自己肯定」は、「他者否定」と一体でなければ、成立しないのではありませんか。
直:そのとおりです。君の言うとおり、「自己肯定」と「他者否定」は、セットでなければなりません。ですから、「(1)自己肯定、(2)他者否定」として区別したところは、「(1)自己肯定・他者否定」に改める必要があります。
猛:それならナットクです。もう一つ、引っかかる点があるのですが――
直:それは何ですか。遠慮なく言ってください。
猛:「肯定」と「否定」が紙一重、ほとんど区別がない、というふうにおっしゃった点です。エーッ、ホンマかいな、と思いました。
直:そう思われるのも、無理はない。肯定と否定は、正反対の事柄だというのが「論理」、というより世間の常識。二元論の「論理」が、「現実」を侵略している証拠です。
中:「論理が現実を侵略」というふうにおっしゃったのは、穏やかではありません。肯定と否定が紙一重であるという点を、私のように頭の固い人間にもつうじるように、解説をお願いできませんか。
直:承知しました。解りやすい例として、「火と薪の関係」を取り上げましょう。大乗仏教の祖師龍樹(ナーガールジュナ)が、『中論』第十章で論じている有名な章です。
猛:『中論』は、それをもとに山内得立が「レンマ的論理」を考えついた書物である、と先生は著書の中で紹介されています。過去のエッセイの中でも、「レンマ」は「ロゴス」とは異なる種類の論理である、と強調されています。それを引き合いに出されるというのは、「現実」よりも「論理」を重視することになるのではありませんか。
直:ご心配には及びません。龍樹が取り上げる例は、まさしく現実そのものであって、誰もが認めないわけにはいかないような事柄です。その例を考えることによって、君が尊重する「ロゴス」の立場では、現実をうまく説明できないということが、はっきり見えてくるはずです。
猛:了解しました。ご説明をお願いします。
火と薪の考察
直:いま君が焚火をしていて、薪が燃えているのを眼にしているとしましょう。そのとき、火と薪は一体ですか、別々ですか?
猛:?……何を訊かれているのか、判りません。火は火、薪は薪、二つは区別されているじゃありませんか。
直:火が薪から切り離され、薪から独立したなら、火は存在できますか。
猛:いや、できません。薪が燃やされるその時点で、火が生じるわけですから。
直:そうでしょう。君が「区別される」といった火と薪とは、一体でしか存在できないのですから。
猛:なるほど。先生がおっしゃるのは、存在するものとして、火と薪は不可分の一体であるということですね。それは解ります。ですが、「何かが燃える」という事実を説明するには、「火」と「薪」とを区別する必要があります。
直:そのとおり。君は並の相手とは違って、物事を哲学的に分析する能力を具えています。この例について、中道さんはいかがですか。
中:火と薪が「区別される」にもかかわらず、「一体である」ということを、先生は指摘されました。そのとき、私には「矛盾」という言葉が浮かびましたが、それだけです。それに対して、猛志君がうまく言葉を返され、感心したのですが、それをどう受けとめればいいのか……
直:火と薪は、「燃焼」において、一体であるけれども、事実の説明においては、区別される。そう要約してもかまいませんか、猛志君。
猛:ええ、そういうつもりで言いました。燃焼というのは、物体(薪)に生じる急激な酸化現象ですが、その現象を記述するときには、「火」と「薪」が区別されます。
直:君は、龍樹が「不一不異」(同一でもなく、異なるものでもない)と称した二重否定の意味を、しっかり分析された。たいへん見事な説明で、脱帽するしかありません。
中:感心した点では、私も同じです。うろ覚えですが、『中論』には、「不一不異」のような二重否定がいくつも出て来るというお話を、以前、先生から伺った記憶があります。いまの猛志君の説明で、そういう二重否定の意味が解き明かされたことになるのでしょうか。
直:そう考えて、よいと思います。ただ、龍樹が「不一不異」や「不生不滅」といった「八不」(四つの二重否定)を持ち出してくることの裏には、猛志君が指摘したような「科学」の立場では、現象の本当の意味が隠されてしまう、ということに対する批判がある。
猛:「現象の本当の意味」って、どういうことですか。
直:この世に、単独で存在するものはない。あらゆるものがつながり合い、たがいに依存し合っている、という「縁起」のあり方です。「火」とか「薪」といった言葉で、言い表されるような個々のものの本質――哲学の用語では、「実体」――は存在しない、という考え。それを仏教では、「無自性空」というわけです。
猛:とすると、仏教的な縁起の説をとるなら、科学は無意味だということになるのですか。
直:いや、そんなことはない。現代の物理学では、従来のような実体論的なアプローチよりも、あらゆる現象が相関的であるという、関数論的な見方が主流になっています。それは、縁起説に近い考え方だと言えます。
猛:そうですか。仏教の思想と科学は、根本的に対立すると思っていましたが、そんなことはないのですね。
直:そうです。科学と宗教の関係は、一筋縄ではいきません。この点については、これ以上立ち入ることはせず、またの機会に考えましょう。その代りに、先ほどから問題になっている、「肯定と否定は紙一重」というテーマについて、火と薪の例を用いて考えてみましょう。
中:それを忘れるところでした。肯定と否定とが正反対ではない、と言えるのは、どうしてでしょうか。
直:「薪が燃えている」という事実、「火」と「薪」を区別したとして、おたがいの関係は、どういうものでしょうか。薪に火がついた時点で、薪は火を、火は薪を必要としますから、火と薪の両方が「肯定」されると言えるでしょう。問題はその後です。薪が燃えることは、火が薪を「肯定」することでしょうか、それとも「否定」することでしょうか。お二人の考えを聞かせてください。
中:火が存在するには、燃やすための薪が必要ですから、火は薪を「肯定」すると思います。
猛:僕は、その反対だと思います。火が燃え広がることによって、薪は焼き尽くされていくでしょう。火の存在を肯定することは、薪の存在を否定する結果となります。
中:そうかもしれませんが、火が盛んにおこって薪を燃やし尽くしたなら、燃えるものが無くなって、火が消えてしまいます。ということは、火が肯定されるためには、やはり薪が肯定されなければならない、ということになるのではないでしょうか。
猛:いまおっしゃったことは、薪を否定することによって火そのものが消滅する、つまり火が火そのものを否定する、ということですね。つまり、薪を否定することが、火自体を否定することになるのだ、と。
中:先生、二人で議論しているうちに、何が何だか、訳がわからなくなりました。焚火の最初は、薪も火もそれぞれ肯定されるのに、燃え続けた結果、最後にどちらも否定されてしまう、ということになりそうです。
直:そうでしょう。焚火の例では、薪と火の一方が、自己を肯定して他方を否定しようとすると、結果はひっくり返る。自己を肯定するためには、他を肯定しなければならないことになる。ところが、他方を肯定すると、つまるところ自己が否定される結果になる。一方と他方のどちらについても、「肯定」と「否定」とが逆転する成り行きは避けられません。ふつうの論理では、自己肯定=他者否定、自己否定=他者肯定となるのに、火と薪の例では、自己肯定=他者肯定、自己否定=他者否定といった、まったく反対の事実が示されています。
猛:そういう議論が、『中論』に出ているのですか。
直:お二人のやりとりそのままの内容が、『中論』の「火と薪の考察」に出ています。テクストとしては、中村元『龍樹』講談社学術文庫(全訳付)、三枝充悳訳注『中論』(中)、第三文明社、レグルス文庫、を見てください。特に後者は、漢文・読み下し文・和訳が順に挙げられ、しかも詳細な註が付けられています。
「妥協」再考
直:「肯定」「否定」という単純な二分法では片づかない例として、『中論』の議論を引き合いに出しました。お二人がそれに納得されたかどうか――
中:ふつうに「肯定」「否定」とされるものが、たがいに逆転する。不思議なようですが、私の経験した実業の世界は、案外そういうものかもしれないな、と思いました。
直:それは、どういうことですか。交渉の成功とか失敗に、関係する話ですか。
中:ビジネスでは、一方的な勝ち負けはありません。取引が成立したとき、必ずどちらも何かを得る、という意味では「成功」と言えるし、自分の思惑通りにいかないという点では、どちらも「失敗」と言える。〈肯定-否定〉の意味を〈成功-失敗〉に重ねてもよいのなら、そんなふうに考えられると思いました。
直:まさにそれが、「妥協」だと思います。妥協というのは、対立する立場がぶつかったとき、どちらの主張もそのまま通らないということを、双方が認めることによって成立します。肯定か否定か、真か偽か、二つに一つという「論理」の世界では、妥協はありません。その反対に、現実の世界は「妥協」なしには成り立たない。そうじゃありませんか、猛志君。
猛:論理と現実を区別せよ、とおっしゃる意味が判ってきました。現実は、論理のとおりにはいかない、と言われれば、そうだと認めます。でも、先生は、〈あいだに立つ〉ということが、「中の論理」であると主張されています。現実と論理を区別するのなら、〈中〉とか〈あいだ〉が「論理」である必要は、ないのではありませんか。
直:「中の論理」は「論理」ではない、というご意見ですね。たしかにそれは、ふつうの人が「論理」と呼んでいるものとは、違っています。ですが、それに「論理」という言葉を当てはめることには、それなりの理由がある、というのが私の考えです。このあたりのことは、引き続き問題にしていきましょう。
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