毎月21日更新 エッセイ

自著を語る(番外編)――『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ――都市の風土学12講』

誕生のいきさつ

 

猛志君:先月の対話で、「自著を語る」シリーズ全5回の終了後に、番外編として編著を一冊取り上げる運びになりました。それが、この本(『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ――都市の風土学12講』萌書房、2019年)です。先生、この本が生まれたきっかけは、何でしょうか。

直言先生:関西大学の大学院(M)で、2000年から「都市の風土学」(正式科目名「人間環境学研究」)を担当してきました。退職(2019年度末)の前年まで、その講義に参加した同僚やゲストの先生方とつづけてきた共同研究の成果を、形にしておくということです。

中道さん:その講義、私や猛志君も参加させていただいたことがあるように、社会に向けて開かれたユニークな授業でした。

猛:僕も学部生の時に、モグリで聴講したことがあります。先生方の所属も、文系・理系にまたがって多彩な顔ぶれでしたし、参加する人も、正規受講の大学院生以外の社会人が目立っていました。

直:あなた方には、それ以来、対話の相手として付き合っていただいています。ありがたいご縁というほかありません。

中:いまおっしゃった「ご縁」という言葉、本のタイトルに〈縁〉と〈出会い〉が謳われていることに関係するのでしょうか。

直:まさにそのとおり。人と人の〈出会い〉が生まれ、〈縁〉が結ばれるというのが、人間の生きる世界。それを実現したのが、たまたま大学の教室という〈空間〉でした。都市が存在するのは、それが〈縁〉と〈出会い〉を生み出す空間であればこそ。この事実を、講義に参加したメンバーに語ってもらうことで、自分としても長年の教師生活に気分よくピリオドが打てる。そういう思惑から、この本が誕生することになったわけです。

猛:それじゃ、ここから内容的な質問に入ります。2019年にこの本が刊行される10年前に、同じく先生の編著で、『都市の風土学』(ミネルヴァ書房、2009年)が出されています。どちらも「講義録」のような論集です。なぜ、同じ「都市の風土学」のテーマで、二冊の本が出版されたのですか。二冊の書物には、どういう違いがあるのですか。

直:その違いを判ってもらうためには、「共同研究」とは何かということを説明しなければなりません。少しリクツっぽくなりますが、かまいませんか。

猛:僕はかまいませんが、中道さんが賛成されるかどうか。

中:これはご挨拶ですね。私としても、かまわないと言いたいところですが、このさい先生が共同研究に打ち込んでこられた理由を、講義でお伺いしたいと思います。ただし、解りやすいお話をお願いします。

直:承知しました。32年間の大学教師生活の大半を、それに打ち込んだと言える共同研究。それがどういうものなのか、なぜそれが重要なのかを、できるだけ短く簡潔にご説明しましょう。

 

講義:共同研究はなぜ何のために

自分のテーマを独力で追究する個人研究が、学問の基本です。その原則から言うと、多数の研究者が集まって、集団で成果を出そうとする共同研究は、例外の部類に属します。ではなぜ、何のために共同研究が行われるのでしょうか。

同じ一つのテーマであっても、「地球環境問題」のように大きな問題では、さまざまな分野の研究者が、各自の専門分野で研究成果を出すだけではすまず、多数の成果を一つにまとめ上げることによって、解決を図る必要があります。「学際的・総合的」と呼ばれるような学問の分野は、すべて共同研究をベースに進められています。「都市」もまた、そうした総合的な取り組みが不可欠なテーマであることは、おそらく異論なく認められるでしょう。私自身、最初に勤務した大阪府立大学(現大阪公立大学)において、共同研究の必要性に目覚め、地球環境問題から都市研究、女性学といった学際領域で、大人数からなる共同研究のチームを立ち上げました。「総合科学部」の教員らしい務めを果たそうとしたわけです。関西大学文学部に移ったのちも、総合大学として多くの学部を擁するこの大学にふさわしい共同研究のチームを組織して、「都市の風土学」という名の下に、さまざまな問題を取り上げてきました。私の大学教師としてのキャリアは、ほとんど共同研究の推進に費やされたと申し上げても、過言ではありません。

30年前に地球サミットが開催された当時、私が組織した共同研究のテーマは、「地球環境問題」でした。ひとことで「地球環境」と言っても、グローバルなレベルの「温暖化」から、資源・エネルギーの枯渇、国境をまたぐ大気汚染や水汚染、さらに地域単位の「公害」に至るまで、あらゆるスケールにわたる問題の広がりが考えられます。それに、自然環境の破壊は、その根底にある社会環境のひずみ、経済・政治・文化の問題に連動しているということになると、およそ「地球環境問題」に無関係な分野はない、と言える状況が明らかになってきます。という次第で、何か自分の研究に関係のある方面から協力したい、と考える人々が集まってきて、何をやるかの相談を始める。これが、共同研究の第一歩です。

異分野で働く大勢の研究者が、ともかく自分のかかわっている研究の内容をみんなの前で披露する。それを聴いた他の研究者が、自分のしていることはあなたと違うけれども、こうすればおたがいに協力できるのではないか、という相談を持ちかける。そういう相談が、あちこちでまとまったところで、次の段階として、「学際的」(インターディシプリナリー)と呼ばれるレベルの取り組みが始まる。世にいう「共同研究」は、この段階の協力関係を意味します。例えば、環境工学と環境経済の専門家が協力して、一つの地域の環境保全に関する提言をまとめ上げる、といった形の成果が生み出される。この段階では、研究者はそれぞれ自分の研究拠点に属しながら、そこから一歩外に出て、異分野の研究者との協力体制に身を投じることになる。こういった共同研究は、今日学問の世界ではごくありふれた営みであって、ことさらその意義を強調するまでもありません。どんなテーマであれ、学際的なチームを組まなければ手がつけられないほど、現代世界の諸問題は、複雑で錯綜した様相を呈しているからです。

さて、学際的で総合的な研究が、現在さまざまな領域で展開されています。共同研究は、それに尽きるでしょうか。いや、そうではない、まだその先があります。それは、私が以前参照したマイケル・ギボンズの「モード論」によれば、「トランスディシプリナリー」(超分野的)と呼ばれ、「インターディシプリナリー」の次に来る最終段階の取り組みです。この段階では、研究者が既存の専門領域から外に出て、新しい学問をめざして協力体制をつくる方向に踏み出します。「環境」の分野に関しては、「環境学」と呼ばれるような、過去になかった学問を創出する、という挑戦が行われるわけです。

環境学はさておき、21世紀に入ってから私の手がけた「都市の風土学」は、そういうトランスディシプリナリーな学問を志向する取り組みであった、ということができます。もっとも、「都市」に関する学際的で総合的な取り組みは、すでに「都市学」という名称で展開されていて、社会に承認されています。しかし、私からの呼びかけに応じて集まった方々と一緒にめざした学問は、都市学ではありません。「都市の風土学」は、「都市」を標的とする「風土学」。風土学的視点で貫かれた総合的な都市研究ですから、そういうこだわりをもたずに組織された都市学とは、目的・内容が違います――その点については、かつての『都市の風土学』で強調しているので、ここでは立ち入りません。

『〈縁〉と〈出会い〉の空間へ』で明確にうちだされたポイントは、次のとおり――「〈近代-前近代〉〈西洋-非西洋〉〈都市-農村〉の二項対立にとどまりつづける都市研究。本書は、ロゴス的な都市学の限界を突破して、レンマ的な〈あいだ〉を開く新たな人間環境学の誕生を告げる」(オビのコピーより)。私の組織する共同研究の目標は、単に学際的・総合的な研究を推進するというだけではなく、その時代をリードできるような学問的理念のもとに同志が集まり、その目標を意識しながら協力し合うことにあります。

過去になかった「都市の風土学」を創造するために、さまざまな分野の研究者が力を合わせた生み出した成果が、この編著であるということです。ここから、その内容をめぐって、お二人と議論することにしましょう。

立場の相違を超えて

猛:では、さっそく質問を。この本には12人の執筆者が参加して、それぞれの専門の立場から自分のテーマを論じています。いろんな研究分野の人たちが集まっているのに、同じ理念を共有しているということが、どうして言えるのでしょうか。

中:私からも言わせてください。風土学は、先生が取り組んでこられた学問だということは、よく承知しています。他の執筆者の方々は、書かれた内容から見て、風土学の研究者であるようには見えません。それでも、全体として、これが「都市の風土学」だということが言えるのでしょうか。

直:お二人の質問は、本書の最大の急所に関係します。とりあえず、一点だけお答えするなら、共同研究に参加した人たちの専門分野は、すべて異なります。だが、専門が異なるがゆえに、ひとつの学問が成立する。それが風土学なのです。

猛:おっしゃることの意味が、よく判りません。どういうことでしょうか。

直:哲学を専攻する君に通じる表現で言うなら、「差異を含む同一性」「同一性における差異」こそが、風土学の本質だということです。

猛:まだスッキリしません。もう少し、解りやすい説明をお願いします。

直:スタッフが顔を合わせる編集会議の場で、責任者の立場から全員に訊ねたことがあります。ご自分の研究を風土学と比べてみて、自身がどのあたりに位置するかを数字で答えてください、と。風土学を1として、それとまったく無関係な学問を2とした場合、ご自分の立ち位置はどのあたりになるか。そういう質問を試みました。これは、全員が私と同じ風土学の研究者ではない、という前提に立って試みた「踏み絵」のような質問です。

中:はじめてそのお話を伺いました。で、その結果は?

直:1.11.2というような答えが多かったかな……都市の風土学が、自分の学問とまったく異質だと考える人はいませんでした。当たり前です。そうでなければ、何年もつづけてリレー講義に参加することはなかったでしょうし、共同執筆のメンバーに加わる気にもならなかったでしょうから。

中:答えが1に近いということは、たぶん風土学に賛同していることの表れだと思うのですが、それでも0.1とか0.2という微妙な違いがあるということですよね。

猛:インタヴューを始める前に、12篇の論文をひととおりザッと読ませてもらいました。すると、〈あいだ〉や〈出会い〉といったキーワードが、あちこちに見つかりました。このことは、執筆者が風土学に共鳴しているしるしじゃないか、という気がしました。

直:そうですか。実は、私もこのたび読み返してみて、自分が思っていた以上に、風土学の理念が各執筆者に浸透していたのかな、という実感をもちました。

  中道さん、そのあたりはいかがですか。

中:猛志君がおっしゃったことに同感です。私が読んだと言えるのは、「第部 〈あいだ〉を開くために」の前半だけですが、特に第1章(狭間香代子「日本的ソーシャルワークと〈あいだ〉の論理」)に、先生の立場に近いものを感じました。

直:狭間先生が専攻されているソーシャルワークで、問題になる対人的なケアのあり方は、欧米から輸入される社会福祉の理論のままでは説明ができない。日本の現場では、〈あいだ〉を問題にしなければならない、と。そのことは、毎年のリレー講義の中でもよくおっしゃっていました。

猛:僕は、「対人的なケア」という点に関して、東日本大震災後の宗教者の活動を取り上げた第2章(宮本要太郎「宗教的ケアの理念と現実――「臨床宗教師」の制度化へ――」)で、同じことを感じました。キリスト教や仏教のように異質な宗教のあいだでも、被災者を支援する活動では、たがいに協力することができる。〈あいだ〉や〈縁〉という風土学の言葉が、大きな意味をもつ例だと感じました。

直:おっしゃるとおり、社会福祉や宗教の現場では、〈人と人のあいだ〉を考えないわけにはいかない現実がある。それらの学問は、風土学と元々親近性があるのです。しかし、注目してほしいのは、がんらいロゴス的な二元論に立脚する近代科学の研究者の中にも、風土学に共感する人がいるという事実です。

猛:それは、第5章(江川直樹「建築とまちのリノベーション」)のことではありませんか。江川先生は、環境都市工学部のスタッフでありながら、哲学にも通じておられたように記憶しています。

直:よく覚えていましたね。先生は建築家として、人間らしく生きるための〈あいだ〉を都市空間に実現しようと尽力されている。そこには、「場所性」の理念が活かされています。

中:私が少しだけ勉強した経済学は、非常にロゴス的な学問のように思います。ところが、第6章(若森章孝「持続可能な縮小都市の〈かたち〉――グローバル化時代の都市モデル模索――」)を執筆されたのは、経済学者の若森先生です。

直:「都市の風土学」の講義をお願いしてから、先生の講義内容が毎年変化していくことを感じました。最初は、かなり難しい経済学の基礎理論。これでは一般受講者に通じないと悟られた先生は、いろんな工夫を凝らした解りやすい講義にモデルチェンジされていき、最後に「縮小都市」という新しい都市モデルの提示にたどり着かれた。資本主義のフォーディズムに代わる「ポストフォーディズム都市」の発想は、都市に生じる「空き」を〈出会い〉の場所に利用するという斬新なもので、これには私も驚きました。

猛:都市の風土学が〈出会いの場〉となって、研究の内容が変わっていったわけですね。他の学問との〈出会い〉によって、自分の学問が変わる。それが共同研究の意義だということでしょうか。

直:さすが猛志君、「差異における同一性」の意味を、どうやら理解してもらえたようですね。

 

〈かたち〉から〈かた〉へ

猛:この本の中で、12講の後半は、「第部 〈かたち〉の論理」となっています。こちらの6篇は、「第部 〈あいだ〉を開くために」と性格が異なるのでしょうか。

直:前後半を二分するという事情から6篇ずつに振り分けましたが、どちらに入れてもよい内容の論文もあります。ただし第部は、都市の〈かたち〉を問題にするという建前ですから、個別の都市を取り上げた事例研究が大半です。

猛:パリ、琉球、アテネ、大阪という順に、各都市の歴史と現在が論じられています。各都市の個性を明らかにすることが、第部の目的ということになりますか。

直:むろん、都市の個性(かたち)を描き分けるということも、一つの狙いではあります。しかし、それだけでは、都市の風土学として十分ではない。都市の〈かたち〉を〈かた〉に結びつけて論じることで、はじめて〈かたちの論理〉ということができます。

猛:〈かたちの論理〉が、先生のライフワークであることは、僕も承知しています。第部の中で、それを取り上げている論文はあるでしょうか。

直:第9章(中澤 務「古代ギリシャの民主制と理性――都市の思想の源流――」)が、それに当たります。この章では、アテネというポリス(都市国家)がモデルに挙げられ、その〈かたち〉が描かれます。そこからヨーロッパにおける都市の〈かた〉(型)が成立していく事情が、明らかにされるのです。

猛:古代のアテネという都市の〈かたち〉から、それ以後のヨーロッパ都市の〈かた〉が生まれるということですね。その経緯は、どういうことでしょうか。

直:今回再読して、この論文が極めてユニークな着眼点をいくつも含んでいて、それらを論証する手続きをつうじて、いま言ったような〈かたち〉から〈かた〉への移行が、あとづけられているということが解りました。

猛:「ユニークな着眼点」というのは、どういう点でしょうか。

直:例えば、「ソフィスト」のとらえ方。君は西洋哲学史の講義で、ソフィストについて教わったことがあるでしょうね。

猛:ええ、ソクラテスの時代に、弁論術を教えることを生業にしていて、哲学を追究するソクラテスの敵であった連中、というふうに教わりました。

直:こういうと驚くだろうが、ソフィストとして有名なプロタゴラスは、アテナイ民主制の最盛期に、共同体を支える理性の立場を代表する思想家として、この章で高く評価されています。

猛:エーッ、そんなバカな!民主制の立役者は、市民との対話をつうじて真理を追求したソクラテスの方じゃありませんか。プロタゴラスなんてのは、「人間尺度説」が示すように、人間中心的な相対主義者ということになっているのに。

直:冷静に客観的に歴史を眺めると、そうではないことが見えてきます。ここでは、君よりも中道さんに、一人の市民としてお相手していただきましょう。よろしいですか。

中:私の出番ですか。結構ですが、猛志君の代わりが私に務まるかな。でも、何でもおっしゃってください。

直:例えば、百人の市民がいるとして、百人全員が一人のリーダーの言うことに従う社会と、百人全員がそれぞれ違ったことを言い合う社会。この二つの社会があったとして、あなたはどちらの方が民主主義的だと考えますか。

中:後の方が、民主主義的だと思います。

中:たぶん、そうでしょう。理由として、世の中が平和に治まっている場合、みんなが好きなことを言い合える「民主的」な社会の方が、住み心地がいい。そういうことではありませんか。

中:まさにおっしゃるとおり、そのとおりです。

直:それでは、非常時の場合は?つまり国家が戦争をしていて、市民が一致して事に当たる必要が生じてきた場合はどうか、ということです。

中:その場合なら、強力なリーダーの下に全員が団結しなければなりません。

直:ということは、先ほどの答えとは正反対になりますね。つまり平和時には民主主義、戦争時には「全体主義」――と、仮に言っておきます――が、国家の方針でなければならないと。

中:どうもそのようです。

直:こんな誘導尋問をしたのは、アテネがスパルタとのあいだでペロポネソス戦争を経験した、そのことによって民主制のあり方が変わった、という歴史的事実があるからです。

猛:ペロポネソス戦争でアテネが敗北したことは、知っています。それが、哲学に関係するということですか。

直:そう。戦争以前、紀元前6世紀のアテネは、民主制の全盛期。戦争に敗北して後の紀元前5世紀、民主制はそれ以前の衆議制では立ち行かなくなって、強力なリーダーの出現が待望される状況になった。そういう政治の転換期にソクラテスが登場して、対話をつうじて絶対的な知の探究を主導しました。だが、それ以前に活躍したソフィストの方が、開かれた民主制にふさわしい対話的理性の立場を代表していた。中澤論文の主眼は、その点の論証にあります。

猛:それは、アテネの民主制が変化した、つまり都市の〈かたち〉が変わった、ということでしょうか。

直:そうです。君は、プラトンが理想としたのは民主制ではなく、哲人王の支配する国家であるということを知っていますね。

猛:ええ、それが『国家』の主題であるということは、承知しています。

直:それなら、ちょうどいい。プラトンが理想としたのは、善のイデアを認識する支配者が、正しい判断を下すことのできる政治です。民主制が衰退しつつあったアテネの現実を前にしたことから、そういう考えが生まれたわけです。「哲人王とは、要するに、現実の世界の複雑な姿を的確に捉え、あらゆる可能性の中から、最善の選択肢を理性の力で判断することのできる存在なのである」(147頁)と書かれています。第9章では、理性にもとづくそういう都市が、その後の西洋の「理想都市」の典型、〈かた〉になっていく、と結論づけられています。

中:古代ギリシャの政治を民主主義のお手本のように思っていた私にとって、いまのお話は意外かつ新鮮でした。この機会に、中澤先生の論文を読ませていただきます。

 

共同研究のゆくえ

猛:この編著を出された翌年、先生は関大を退職されました。それからもうすぐ4年、今後このような形式の編著を出される予定はないのですか。

直:ありません。大学に拠点を置く共同研究は終了しましたし、これからそういう仕事に取りかかる予定もありません。

中:それは残念です。学問には縁がなかった私ですが、先生の公開された「都市の風土学」の講義に参加させていただき、いろんな方の研究にふれることができました。

猛:僕も、哲学以外のいろんな分野との協力が可能であることを、都市の風土学から学びました。共同研究を終わられたことは、惜しいと思います。

直:ありがたいお言葉ですが、これまでの共同研究に匹敵する、いや、それよりもっと有意義なプロジェクトを、現在の私は手がけているつもりです。

中:それは何でしょう。ぜひお聞かせください。

直:「木岡哲学対話の会」に参加される人たち、ふつうの市民の方々との対話の集いが、私にとっては専門研究者との共同研究にまさる意義をもつ。私はそう考えています。

中:この私も、そういう市民の一人とお考えになって、付き合ってくださっていると感じます。でも、そういう対話が、学問的な共同研究以上のプロジェクトである、とおっしゃることの真意がよく判りません。どうして、そうなるのでしょうか。

直:学問とりわけ「哲学」に対する考えが、根本から変わったことに関係します。猛志君、私が哲学をどう定義しているかは、ご存じですね。

猛:たしか、「自分のテーマを自分で考え、自分の言葉で表現する」という、アレのことですね。

直:そう、そのアレです。たぶん君は承服しないだろうけれども、それが私の考える哲学の意味です。「哲学」というのがお気に召さないなら、「風土学」というように限定してもよい。

猛:そう言われると、チョット困ります。僕の専攻する哲学は、やはり専門的で特殊な研究領域ですから、おっしゃるような定義は受け容れられません。

直:それで結構です。君のイメージするとおりの哲学が、そのまま世間で公認されていることを、とやかく言うつもりはない。ここで私の考える哲学を実践するための手続きが、対話であり、対話にさまざまなテーマをもって参加する人たちを、私は共同研究のメンバーと把えているのです。

猛:ポイントは、対話にあるのですか。そうだとすると、一人で本を読んで文章を書いたりするのは、哲学ではないことになってしまいます。

直:これは、君らしくもない浅はかなご意見だね。本を読むこと、論文を書くこと、つまり「自分で考える」行為のすべてが、本質的に対話であるということが、君にはまだ解りませんか。他人と言葉を交わすことだけが、対話だと君は思っているのか。

中:まあそう興奮なさらずに。先生が「対話」とおっしゃるのは、考えを深めていくための道筋というか、考えるための方法である、と私は受けとめましたが、いかがでしょうか。

直:そう、そういうことです。要は、自分の考えを外に開いて検証する態度。他人と一緒であれ、自分一人であれ、そういう反省が行われなければ、哲学ではないということを申し上げているつもりです。

猛:「対話の会」は、そういう意味の対話を展開する場だということですね。でも、そういう集まりが「共同研究」であるとおっしゃるのは、どうしてでしょうか。最後に、その点を説明していただけませんか。

直:長らく社会人と付き合ってきて判ったことですが、専門研究者ではない人たちの誰もが、自分のテーマをもって参加し、その答えを求めている。その思いは、ときにアカデミックな研究者よりも切実で、真剣であるように見えます。というのも、そこに文字どおり自分の命がかかっているからです。各人が、自分なりの答えを出すためのお手伝いをすること、自分にできることはその程度ですが、それが難しい。正解を与える――そんなことは、絶対にできない――ことではなく、各自が自分なりの気づきに至るよう、サポートすること。学問的な共同研究をつうじて体得したこの真実を、ふつうの人たちとの対話で確かめたい、というのが現在の私の課題です。

猛:よく解りました。ありがとうございます。

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